傾国の美女 楊貴妃の生涯
 今から約1300年前(719年)中国は唐の時代のことです。蜀の国(現在の四川省)の司戸(しこ)の職にあったヨウゲンエンの家に、可愛らしい女の子が生まれ「玉環(ぎょっかん)」と名づけられました。成長するにつれそのたぐい希なる美しさは周囲に知れ渡り、やがて17才で時の皇帝玄宗の第18王子寿王瑁(じゅおうぼう)の妃となりました。
 ところで玄宗は常日頃より美しい女性をこよなく愛し、国を傾けても悔いなしと思えるほどの美人を得たいと請い願い、長い間国中を探しておりました。そしてある時寿王妃を見染めた玄宗は、驪山(りざん)の温泉宮に妃を召し出させたのです。玉環22歳の時のことでした。そののち玉環は「楊貴妃」となり、数奇の運命に身を置くことになったのです。
 貴妃が流し目で微笑(ほほえ)むと例えようのない艶(なまめ)かしさが漂い、その美貌はきらびやかに装った後宮(こうきゅう)の美女たちをして顔色なさしめたと申します。そしてそれ以後玄宗は政務を怠るようになり、 驪山(りざん)離宮は歌と舞、音曲が奏でられ、日がな一日楽しみに飽きることを知りませんでした。後宮には三千人の美女がいましたが、貴妃は玄宗の寵愛を一身に独り占めにし、楊一門の繁栄は兄弟姉妹ことごとく領土を授けられ、兄楊国忠(ようこくちゅう)は宰相(さいしょう)の位にまで登用され、目を見張るばかりの権勢を誇りました。
 時は755年、辺境の武将安禄山(あんろくざん)は15万の兵士を擁し、笵陽(はんよう)の地で挙兵しました。反乱軍は陣太鼓(じんだいこ)を打ち鳴らし、大地を揺り動かさんばかりの勢いで長安の都を目がけて攻め込んで来ました。悦楽の生活はたちまちにして吹き飛び、玄宗は貴妃を伴い近衛騎兵(このえきへい)に守られ、蜀(しょく)の国を目指して落ちて行きました。西の門から百余里(約50km)、馬嵬(ばかい)の地に着くや、「この反乱の原因は楊一族にこそあり。」と近衛軍は楊貴妃を含む全ての一族を始末するように要求し、動こうとしません。どうすることも出来ないまま玄宗は宦官公力士(かんがんこうりきし)に楊貴妃の縊死(いし)を命じました。
 ここに楊貴妃は国に殉ずる形で756年、38才の生涯を終えました。翌757年、安禄山は後継者争いがもとで息子の手により殺されました。玄宗は蜀より長安の都に帰る途中、楊貴妃終焉(しゅうえん)の地にさしかかると心ちぢに乱れ、衣の袖をぬらすばかりの悲しみであったと申します。