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九州脊梁山地の中央部に位置する西米良村は、まさに山中の村である。広大な米良山系の山々に集落が点在し、神楽や民話、狩猟民俗などを伝える。南北朝伝承にちなむ落人の物語も語り継がれる。この西米良村には「カリコボーズ」と呼ばれる山の精霊がいると信じられ、今でも、村人に親しまれている。「カリコ」とは「狩り子」を意味し、狩人と一緒に獲物を追いかけたり、山仕事の人が背負う背負い籠(かるいこ=カリコ)の上にちょこんと乗っていたり、山の峰から谷へ、そしてまた峰へと光りながら移動したりする小童の姿がイメージされている。
西米良村小川には、桃源郷伝説も語り継がれている。同村・黒木正近副村長が採録した伝承を紹介しよう。

 むかし、日向の国の山奥に米良という小さな村があり、そこに1人の猟師が住んでいました。
ある日、猟師はこれまで来たことのない険しい山に足を踏み入れてしまい、
けもの道を奥へ奥へと進んでいくと、突然視界が開け明るくなりました。
そこは、猟師がこれまで見たこともない美しい花で覆われた見事な山桜の木が
一面に広がって谷ばた近くの集落まで続き、花びらが風にひらひらと舞っています。
猟師はその美しさに引き込まれ、集落がよく見えるところまで下りて行きました。

 集落には、畑や田んぼ、そしてきれいな谷川も流れています。
お年寄りが庭に座ってわらぞうりか何かを作っているようです。
子どもは谷川で魚釣りをして本当に楽しそうです。
「ここは一体どこだろう」
 猟師は集落まで下りて行き「ここはどこですか。あなたたちはだれですか」と尋ねました。
すると村人は丁寧な言葉で「むかし、肥後の国に隈府というところがあり、
そこに菊池という武将がいました。菊池は各地の戦で大きな手柄を立てていましたが、
ある日、領内で争いがあり、武将は肥後島原に逃れましたが、幼少の子どもは家臣に連れられ、
遠く日向の国の米良に落ち延びたのです。
以来、外の世界とは行き来せずに、貧しくとも花に囲まれ、子どもたちには武術や礼儀、
学問を教え、静かに笑顔で暮らしているのです。」と答えました。

 時は流れ、今・・・。西米良村の菊池一族が暮らした小川の里には、
山城や茅葺の小屋が建ち、春にはたくさんの山菜がとれ、花が咲き、
秋には柿や柚子の実がなり、住んでいる人はみんな明るく笑顔で元気に暮らしています。



 南北朝時代、南朝の皇子・懐良親王とともに米良に入山し、善政を施いて村人に尊崇された菊池氏の精神や山里の伝承、神楽等にちなみ、この小川の里を『平成の桃源郷』と呼び、過疎化、少子・高齢化が進む地域の再生を期して、2009年10月に「おがわ作小屋村」が開設された。昔、山仕事の人たちが暮らした「作小屋」を復元し、食事処と交流の拠点としたのである。作小屋の真ん中に切られた囲炉裏には一年中、火が燃やされ、四方膳に入れて出される16個の豆皿に盛られた16品の郷土料理はたちまち大人気となり、作小屋村は一躍、多くの人が訪れる名所となったのである。2011年4月、この作小屋村の事業を中核とし、小川川流域を含む小川の里全域を見渡した地域づくりを推進するために、「平成の桃源郷/おがわエコミュージアム」の事業が開始された。小川の歴史・史跡探訪、自然を知り・親しむワークショップ、古民家再生プロジェクト、神楽をテーマとした創作と展示など、文化・芸術的要素を取り入れ、小川の里にマッチした交流人口の開拓、地元雇用やUターン、Iターンの受け入れ拠点の整備、集落文化を継承する定住者の促進など、「持続可能な集落経営」を目指す事業である。豊かな自然と、多くの伝承に彩られた『平成の桃源郷』とは、21世紀型の地域再生の物語である。




                      山里の恵みをいただく
       おがわ作小屋村と四季御膳

               

「作小屋」とは、昔、山仕事の人たちが住み込んで働くために建てた、仮説の住居のことである。
重厚な山塊が連なる米良山系の山々は、椎葉の山脈とともに九州脊梁山地の骨格を形成する。まだ車の通わなかった時代、山深い土地は秘境・米良の荘と呼ばれ、孤絶した地域のように形容されたが、じつは、木材や炭、穀物、楮や三椏等の染織・製紙原料、(古代においては)鉱物資源などを包含し、産出する豊かな地域であった。村と村、村と里は尾根の道や河川で結ばれ、「物」と「人」は交流した。技術者だけでなく、宗教者や芸能者、文人、敗残の将兵などが入山し、宗教や種々の文化が移入され、育まれ、伝承されたのもこの土地であった。
戦後、国土の復興に必要な木材の搬出と、水力発電を目的としたダムの建設によって車道が整備され、物流の速度が加速されるにつれ、山仕事に従事する人々が奥山まで入り込み、山林労働や建設労働に従事した。「樵小屋」「炭焼き小屋」などの小規模な小屋に加え、やや規模を大きくした「作小屋」が作られたのはこの頃のことであった。

「おがわ作小屋」は、これらの古代から近代へかけての伝承事例と記憶とを復元し、消滅の危機さえ叫ばれている現代の「ムラ」の復興の拠点とする施設である。
一棟は、杉皮葺きの平屋で事務所と調理工房を兼ねている。二棟が茅葺の家で、食事処と展示館。この三棟が、旧・米良菊池氏の居城跡を整備した小川城址公園の中央に建てられ、「おがわ作小屋村」として開館したのが2008年。以後、前庭の植栽も進み、対面の「花見山」の整備も進行中で、木立に囲まれた静かな家並みが、「平成の桃源郷」と呼ばれるにふさわしい景観を描きだし始めているのである。


                 

「おがわ作小屋村」の茅葺屋根の家でいただく、「四季御膳」は、このような山の村の歴史や伝承を思い、四季の風物を愛でながら味わう山里料理である。30センチ四方の黒塗りの膳に直径4〜5センチほどの白磁の豆皿が16個配置され、その中に、村の女性たちの手による四季の料理が盛られる。ちなみにこの夏のメニューは次のとおり。
1、大豆の掻き揚げ やや堅めに揚げられた衣の中に、ほろほろと大豆の歯ざわり。米良の山畑  の香りが漂う。
2、椎茸南蛮 木立の下で栽培された椎茸を揚げ、甘酢付けにしたもの。キュウリとタマネギの細  切が絶妙に添えられている。
3、ジャガイモと椎茸の煮しめ 山の畑で採れたほこほこのジャガイモと椎茸の取り合わせ。
4、カラーピーマンの小川豆腐詰め 黄色いピーマンの中に自家製の豆腐が。
5、芋がらの酢物 干した芋がら(芋の茎)は保存食。水で戻して煮物や酢の物にする山の知恵。さ  っくりとした歯ざわり清々しい。
6、煮梅の寒天 寒天に埋め込まれた梅の砂糖煮。涼しさと甘みとがミックスされた上品な味。
7、小川豆腐 村で作られた堅造りの豆腐。
8、おからの天ぷら 狐色に揚げられた衣の中に包み込まれたおからの温かさがほんのり。
9、おからのサラダ風酢物 サラダ風味に仕立てられたおからもまた一味。
10、フキの佃煮 米良の山で採れたフキ。昔から、山仕事の人たちや里人の食事に添えられた   保存食。
11、干し筍のキンピラ 真竹のタケノコを茹でて干した保存食。こりこりとした歯ざわりがお洒落。
13、梅の天ぷら黒砂糖入り 梅肉の酸味と黒砂糖の甘みが絶妙のハーモニーを奏でる。
14、クサギの炒め物 クサギは春先に新芽を茹でて冷凍保存しておく。ほのかな苦味が美味しい   珍味。
15、アク巻き 一晩、灰汁(あく)に漬けておいた餅米を竹の皮で包み、さらに灰汁で半日ほど炊   いた物。つまり米粉の餅。きな粉や蜂蜜をつけて食べる。
16、ゆず味噌 ゆずの皮と味噌をじっくりと油でいためながら練り上げたもの。
以上16品に漬物、小川米の白飯、だんご汁が付く。山里の食事に南朝・菊池の落人が住んだ里ならではの雅味が加えられて、まるで山と森の神様からの贈り物のような食事である。青みを帯びた米良の山脈から吹いて来る風が心地よい。さあ、ビールの栓を抜こう。


               

 小川神楽

  
<南北朝伝承と山の神信仰の習合>

 藍色に染まりながら連なる山脈、清らかな谷筋――
米良の美しい自然の中で伝承されてきた西米良神楽。
そこには、南朝再興の夢を託され、九州へと派遣された懐良親王(後醍醐帝の皇子)
とそれを支えた菊池氏にまつわる物語があった。
米良山系の神楽は、南北朝期、北朝・足利幕府軍に敗れ、
米良へと入山した懐良親王・菊池氏に随従した公家・武士・芸能者らが
伝えた神楽が起源とされる。その「都ぶり」の神楽は、山深い米良の風土の中で、
山の神信仰・狩猟民俗・修験道などと習合しながら生き続け、
伝えられてきたのである。小川神楽は、この西米良神楽のひとつであり、
広域に点在する「米良山系の神楽」の特徴をそなえる。

 
                                                            <小川神楽概要>

 西米良のほぼ中心地点で一ツ瀬川に合流する大きな川がある。小川川である。
この小川川に沿って北へさかのぼる道を辿ると、小川地区に至る。
地区の中心地に小川城跡がある。小川城は、江戸中期から明治まで、
約200年間にわたって米良郷(東米良・西米良)を治めた米良氏の居城であった。
南北朝時代、南朝の旗を掲げて戦った肥後菊池氏は、弘和(1381−1384)
ごろになると勢いが衰え、米良山中へと逃れた。以後、米良氏と名を変え、
村所、銀鏡と居城を移し、この小川の地を拠点としたのだと伝えられる。
小川と村所を結ぶ峠越えの道が「殿様街道」と呼ばれたように、
往時は、西は村所を経て肥後へ、東は銀鏡・尾八重・中之又を経て
日向へと連なる尾根の道で結ばれ、米良山一体が結束を保っていたのである。
米良菊池氏は、善政を行い、村人から慕われた。

 小川城址は、現在は小川城址公園として整備され、歴史民俗資料や
民具を展示する資料館、民話の語り聞かせを行う民話館、民話の宿などが立ち並び、
米良の石工が築いたといわれる高い石垣の上に美しいたたずまいをみせている。

 小川地区の鎮守神社として鎮座する米良神社は、宝永元年(1704)
米良家11代領主則信公の創建によると伝えられる。小川神楽はこの米良神社に
伝えられる。文明3年に村所に懐良親王を祀る「大王宮御川神社」が創建され、
神前に奉納された神楽は、その後、長享3年(1489)銀鏡に西ノ宮大明神
が創建されて伝わり、さらに小川へ、米良郷の各地へと伝わったといわれる。

 小川神楽は、毎年12月の第二土曜日に開催される。
当日は、民話の語りなどがあり、賑わう。

 神楽は、「清山」「花の舞」「地割」「ハサミ」「幣差」と続く序盤の舞に続き、
「神様の舞」がある。地区の氏神様「鹿倉大神」「折立宿神」「折立様(若様)」
「八幡大神」「吹(副)将軍」「菊池殿宿神」「天神」「大神」の神々が、
次々と降臨するのである。

「菊池殿宿神」とは、「米良神社」に伝わる神面である。
米良山系の宿神面はかつては三面(小川の菊池殿宿神、銀鏡地区の宿神三宝荒神、
尾八重の打越宿神)があったと伝えられ、その内の一面が、現在西米良歴史民俗資料館に保管されている菊池殿宿神の古面である(小川神楽に登場するのはその複製)。
この宿神面は、懐良親王米良入山とともに菊池氏が捧持し、
米良菊池氏が一時期小川城を居城としたため、同地区に伝わったという。
鎌倉時代のものと伝えられる優品である。

 続いて「御祭神舞」がある。米良神社の御祭神である「磐長姫命」
(通称市之宮様)の舞である。この舞は、神面(女面)を宮司が付けて舞う。
小川に残る伝承では、邇邇芸命に献上されたものの受け入れてもらえなかった
磐長姫は、その面貌を嘆き、一ツ瀬川を遡って小川の地に住んだが、
嘆きは一層深く、地区の御池に入水した。村人がこれを憐れみ、祀ったのが
米良神社の起源である。磐長姫の哀史を秘めた舞は荘重な神の舞である。
小川神楽は、土地の歴史を語り、神楽の古形を残しながら、舞い継がれる。




  <平成の桃源郷/おがわエコミュージアム>の記録
 
        おがわエコミュージアムの活動は、2011年4月から開始されています。この欄に順不同で記録してゆきます。

[古民家再生ワークショップ<3>]
2012年2月21日―23日


(1)
土と石の床


梅の蕾が膨らみ始めていた。
西米良村小川の谷あいは、例年より寒い日が続いたため、開花が遅れていたが
春は、すぐそこまで来ていた。

2012年2月22日。
昨年末の神楽と新年とを挟んで中断していた古民家再生プロジェクトを再開した。
まずは、懸案となっていた西側の部屋の土の床の処理である。
この部屋は、前の住人が牛小屋を改造して住居としていたものだが、
空き家になって長い年月が経過していたため、畳は腐り、板材や垂木は腐って、
光の射さない天井には、蝙蝠が下がり、
時代劇に登場する盗賊や浪人者の棲家と寸分たがわぬ様相を呈していたのである。

この最も厄介な空間からこの「古民家再生・エコミュージアムプロジェクト」の実質的な活動が始まる。
小雨の中を出かけ、山崩れの跡に放置されている石を拾い集めた。
平たい板が何層にも重なって一個の石を形成しているこの地方特有の石材は、
建築や土木工事などには不向きだが、昔から、棚田の石垣、炭窯の壁面、民家の石垣などには利用されてきた。

この岩は、宮崎市の青島から日南海岸へかけて豪快な風景を形成する「鬼の洗濯板」
と呼ばれる波状岩と同類の岩石で、新第三紀(約1500〜3000万年前)に海中で出来た水成岩
(固い砂岩と軟らかい泥岩が繰り返し積み重なった地層)が隆起したもので、
この地層が、海岸部から米良の山中まで連続する構造であることがわかる。

山崩れや土木工事で排出されたこの岩石は、現在では埋土にするか
放置するしか用途のないものとおもわれているが、これを「アートな感覚」で用いれば
瀟洒な建築空間を演出することができる。
それは、追々明らかになってくるが、この日は、軽トラック二台で運ばれたこの石を使って
土の床をデザインすることにした。
部屋の中心部に石組みの囲炉裏を拵え、その周囲に踏み石の大きさの平たい石を配置したのである。
囲炉裏には早速火が焚かれ、周りに人が集まってきた。

「土と石の床」。
この空間の用途とデザインの方向が、ほぼ決定され、皆がそれを認識した。



(2)
屋根の歪み・棟木の補強




夜明け近く、滝の直下でヤマメの大物を狙っている夢を見て目覚めた。
それほど強い春先の大雨だったが、朝食前には雨は上がり、
米良の山脈に朝霧が立ち上っていた。
東の空には晴れ間も見えた。

古民家再生の作業二日目は、棟木の補強から始めることとした。
この建物は、牛小屋だったものを改造して山仕事の人などが暮らしていたものなので、
至るところに手が加えられて、もともとの用途や構造とは大きく違ったものとなっている。
とくに、屋根は、余り頑丈ではない骨組みの上に上質の土瓦が乗せられているため、
瓦の重量を支えきれず、棟木にひびが入り、屋根の中央部分がへこんでいるのである。
このままでは屋根ごと落下するおそれがある。

瓦を一度降ろして棟木や垂木を取り替え、再度瓦を乗せることが上策だが、
今回は応急措置として棟木の補強にとどめることにした。
つまり、棟木に支柱(突っかい棒)を立てて落下を防ぐという簡略な計画である。

エコミュージアムの手法として、この支柱は見せ場の一つとなる。
幹周りの直径20センチ、長さ5メートルを越える3本の真っ直ぐな山桜を
山から伐り出しきたのは、山を熟知した山仕事の達人である。
このような人が地元にいればこそ、このやや危険を孕んだ計略は成立する。

さて、ひびの入った棟木はまず仮柱を立てて補助の横木を通し、
ジャッキで持ち上げておいて、長さを揃えた突っかい棒を立ててゆく。
2本目の支柱が立ち、簡易な鳥居のような造形物が屋根を支えると、
へこんでいた屋根は完璧な横一文字とはいえないまでも、元どおりの瓦屋根となった。
この見事な山桜の支柱は、今後の照明計画などに生かされ、
建物を構成する要素の一つとなってゆくものである。


(3)
「空」と同化する場所


作業中の古民家に暖かな春の陽射しが降り注いだ。
歪んで今にも落下しそうだった屋根の棟木の補強工事が予定よりも早く終わったので、
崖の上にせり出して空の一部が見えている部屋の床を張ることとした。
近くの杉林が切り払われ、そこに樫の木が横倒しになっていたので、
それをいただき、木のオープンデッキを作る計画である。
スタッフはたちまち屈強な山仕事のオヤジと化し、重い樫材を担ぎ出した。



この家は、城跡へと続く石垣の上に建てられており、
その石垣は斜めに建物の下を横切っているので、
床板を剥がした空間からは崖下の木立や夜来の雨で増水した小川川の激流などが望まれ、
まるで空へと続く空間のようにみえるのである。
じっさいに、床板の補強をしたり、運ばれてきた樫の木を並べたりする工程では、
足下に、春風が吹き抜けてゆく山峡の風景を見ながら作業をしなければならず、
細心の注意を要求されたのである。



前日、屋根の棟木を補強した時も、
この日、樫の木の床を張った時もそうだったが、
いやいや、この「おがわ作小屋村エコミュージアム」の仕事全体を通じていえることだが、
私(がんじい=高見)が「今度はこのような材料が欲しい」という提案をすると、
たちまち村の誰かが山や川辺へと向かい、予想をはるかに上回る上質の素材を集めてきてくれる。
仕事も、それぞれの分野の達人揃いである。

そういえば、昔からこの地には、
「米良千軒総侍(めらせんげんそうざむらい)」という言葉があったという。
もともと、この地方の人々は、南朝の落人または菊池一族の末裔であり、
武士であった。それゆえ、
主家(あるいはかつての同盟者)である肥後・菊池氏の一大事とあれば、
ただちに千人の侍が刀・槍、鉄砲等を持ち、県境の市房山を越えて駆けつけたという。
その気風を今も伝えているといわざるを得ないような、
米良・小川の人たちの機敏さであり、凄さである。

がんじい(=がんばるじじい)を自称する私は、山で生まれ育ち、
若い頃に山仕事も石の仕事も狩りも経験したので、ある程度の仕事はこなすと自負しているが、
彼らには絶対にかなわない。
ただ、少しでもこの地とここに暮らす人たちのために役立つことがあるとすれば、
それは、私が生まれ故郷の日田の町から湯布院へと出て、
「由布院空想の森美術館」という美術館を設立・運営し、
さらに九州各地を訪ね歩きながら学んだ「アートの手法」である。

私が考える「アート」とは、
その土地=現場にある素材の持っている力や価値を見いだし、
その利用法や価値観などを逆転させた上で、
新たな「いのち」と「機能」を再生させる「わざ」である。
「マジック」「錬金術」「蘇生法」などと表記してもよいだろう。
「マジシャン=アーティスト」の眼と手により、「もの」や「地域」などが
新たな価値観を獲得し、生き生きと機能し始めた時、
はじめて「芸術作品=アート」が生まれ、「地域の再生」が始まるのある。




樫の床が張り終えられ、男たちが、造りかけの囲炉裏で焚かれる火の周りに集まった時、
ささやかな木のオープンデッキは空と同化するアートスペースとなった。
梅の花が一輪、開いた。



[古民家再生ワークショップ(2)]
2011年9月23日〜24日

  

この夏、古民家の前に参加者とスタッフ、地元の協力者の皆さんなどが集まり、
いよいよ古民家再生ワークショップが始動した。
当日は、まず「現場を見る」ことから始め、
大量のゴミを搬出し、仕分けしました。その中には民俗資料として保存されるべきもの、
古民家再生資材として利用価値の高いもの、アンティーク
&アートな素材として今後の
展示計画に生かされるものなどもあり、「片付け」がお
宝発見のフィールドとなったのである。
片付けが進み、壁紙や古い板材などが剥がされると、中からは、かつて牛小屋として
使われていたころのがっしりとした骨格の構造材が現れた。壊れかけた窓枠も取り外され、
竹林が切り払われて外部空間との連結も果たされ、小川地区ののどかな集落景観を望む
居心地の良い古民家の風情が実現したのである。
第二期は、両脇の片屋根の部屋の取り壊しと平行して、補強と室内空間のコーディネートを
開始することとした。これにより、この建物の性格・用途などが決定されてくるであろう。

     
今回は、倒壊しかかっている東側の片屋根とその下の部屋を解体する作業から始められ、
いきなりハードな仕事となった。瓦は年代物の土瓦なので、再利用するため大切に取り外し、保管する。
置き方を工夫すればアートな「しつらえ」となり「けしき」を形勢する。


     
作小屋村の萱葺きの家で開催中の「秋風のクラフト」出品中の作家と
その息子ケント君が見学に来た。ケント君は、早速、土運びや解体などを手伝った。
片屋根の部分が崩れ落ちると、対岸の景色が見えた。


解体が進むにつれ、しばしば美しいシーンが出現する。これを現代アートの一こま
と捉えることに対しては異論も議論もあるだろうが、「記録すること」で、
この家の歴史と現在の状況、今後の展開などが記憶される。



近所のおばちゃんたちも興味津々で見物にきていたが、そのうち、着替えて手伝いに来てくれた。
手馴れた作業ぶりで大いに仕事がはかどった。この日の参加者は、地元の皆さんが主となったが、
日常、山仕事をこなす人たちの仕事は速度も手並みもあざやかで、作業は大いに進展した。
ここに、この「おがわエコミュージアム」の事業、ひいては「アートや文化と連携した地域再生計画」
を進めてゆくうえでの大きな手がかりがある。計画や理念が机上のものではなく、「現場の仕事」によって
地域の皆さんに理解され、「協働」が始まること。これこそがエコミュージアム計画の第一歩であろう。



腐りかけている部分の多い二階の床板(一階の天井板)を剥がすことにした。
これにより骨格だけの建物となった。この床に地元の人が山から切り出してくれた
見事な孟宗竹を敷くこととした。孟宗竹は焚き火であぶり、油抜きをして使う。
「油抜き」と一言でいうが、実際に残暑の山中で火に炙られながら行なう作業は過酷である。
火の熱で噴き出す竹の油分を布でふき取り、磨きあげる。一本の竹は6メートルにも達し、
重さは5キロほどもある。それを30本以上仕上げるには、大人4人で一日がかりの仕事である。
汗が流れる。けれども、この作業を加えることで、竹は美しさを増し、
数十年の使用に耐える建材となるのである。この油抜きの作業においても、
地元の皆さんの手際は際立った。土地の素材を活用し、山の暮らしと
先人の知恵が生み出した技術を生かし、次の世代を担う人たちに伝えること。
これもエコミュージアムの大切な手法のひとつである。



竹が敷き詰められると、隙間から漏れる光が建物の内部に彩りを作った。
参加者は代わる代わる座ったり寝転んだりしてみた。背に触れる竹の感触は懐かしく、
年配の参加者は納屋の屋根裏部屋で遊んだ記憶がよみがえったし、若者たちは異空間に
踏み込む瞬間のときめきを感じた。建物の下から見れば、竹の床は一階の天井となる。
この日、同時進行で行なわれた西側の部屋の片付けも終わり、一部を竹の床にすること、
壁面を米良の石を使用した石組み漆喰の壁を基本に構成することなど、
この古民家再生のデザインの基本と方向性が見えてきた。



作業が終わり、参加した(飼い主に甘えて邪魔ばかりしていた)白犬のホワィティもほっと安心。


   [古民家再生ワークショップ(1)]
       2011年8月8日-10日
                
      

西米良村小川地区「おがわ作小屋村」や「小川歴史民俗資料館」、「民話館」などがある
小川城址公園の一角に、一軒の古民家がある。使われなくなってかなり長い時間が経過しているが、
骨格はしっかりしており、伝統的な米良の民家の風情をよく残している。
この古民家を片付け、改装して、ギャラリー空間として利用できるように仕上げる
プロジェクトである。まずは、現地に集まり、この家の現状を記録し、片付けを始める。
現代美術の表現領域には、「片付けもアートである」という認識が包含されている。
これにもとづき、「片付け」から「用途・デザインの決定」に到るプロセスを、
参加者の共同体験として行なうのがこのワークショップの第一歩である。
これが第1期の仕事で第2期から具体的な改装作業に入る。片付けの過程で採集された
建具や建築築材、古民具などを活用し、周辺の山野から得られる素材などを組み合わせながら、
機能とデザインと修復の技法が決定されてゆくのである。この「古民家再生」の手法は
小川川流域一帯を「地域ミュージアム」を見立てた「エコミュージアム計画」
の第一歩であり、21世紀型の「地域再生」の提案ともなるであろう。

       

8月8日午後、古民家の前に参加者とスタッフ、地元の協力者の皆さんなどが集まった。
まずは、「現場を見る」こと。皆で建物の内外をチェックし、必要な情報を集めた。整理すると

・南側に竹林。これは展望を遮っているので切り払う必要がある。
・その竹林の中にケヤキの大木。樹齢50 〜100年程度と思われる。
・東に樫の大木。樹齢200年程度と思われる。
・建物本体は横10メートル×奥行き6メートル、東側の片屋根の庇が崩れ落ち、西側の
片屋根の下は台所とトイレの部屋だが柱材が腐っており大幅な改造が必要。
・本体西の部屋と東の部屋が居住空間。奥に崖の上にせり出したような
部屋があるが床材が腐敗し崩壊の危険がある。
・西の部屋は畳が敷いてあるが腐敗。
・天井裏の部屋があり、物置となっている。
・天井の屋根を支える梁と桟が弱っており、瓦の重量を支えきれずにたわみが出ている。
早急な補修が必要。
・一階、二階ともに大量のゴミ。
まずはこのゴミの片づけから作業を開始することとなる。

       

現場のチェックとミーティングにより、次のこともわかった。
・この古民家は、元は隣接する中武家の牛小屋であった。
築80年程度、昭和初期頃の建物だが、
太い梁、柱材などが使われ、土瓦が使われた重厚な建築である。
・その後、山仕事の棟梁のような仕事をする人、長距離トラックの運転を職業とする人などが住み、
間仕切りをして東西二部屋に分けられるなど、改築・改装が加えられて現在のような姿となった。
・その後10年以上、空き家となっていた。
・中武家の人たちは村を離れたが現在は高齢の女性が一人で住んでいる。

       

8月9日、午前9 時。参加者とスタッフ、地元の協力者の皆さんが集まった。総勢12人。父親と一緒に参加した小学六年の男の子と夏休みで家族と一緒に村に帰ってきていた小学六年の女の子も加わり賑やかとなった。
隣家の女性も軒先の広縁を開放し、掃除に参加してくれた。

       
       

運び出される大量のゴミ。たちまち家の前の空き地はゴミで埋まった。
連日36度を越す暑さ。西米良は内陸部に位置するため、昼間は急激に気温が上がる。汗が流れる。

              
             

山里の生活道具。民俗学ではこれらを「民具」と呼び、民芸では「用の美」という美学を提唱した。
これを展示に生かせれば、現代美術の表現領域すなわち「アート」となり得る。

       

焼酎の空き瓶と天井裏から出てきた蛇のミイラ。

        

2日目終了。若者たちは小川川に飛び込んみ、がんじいと小学生たちは上流でヤマメ釣り。
夜は、作小屋村の囲炉裏を囲んで地元の皆さんと交流会。その日に釣れたヤマメが囲炉裏端で焼かれ、
ビールの栓が抜かれ、焼酎の盃も重ねられて、夏の夜が更けていった。

       

3日目。朝から、作小屋村運営委員会の浜砂幸徳会長が参加して下さり、見事な手際で南側の竹林を切り払った。
これにより、一気に展望が開け、小川の集落や小川川が見渡せるようになった。

       

二階の床板を支えている正面入り口の梁を1本切り落とした。これで一階と二階が連続した空間として
見渡せるようになり、広々とした感じが出てきた。頑丈な梁は、大型のチェンソーで切り離す大仕事であった。
梁は他にも何本も通っており、建物の強度に影響はないものと判断された。

       

古い木の梯子を掛けて上る二階は、早速、子供たちの興味の対象となった。小学五年のリョウマ君は
父親と一緒にこのワークショップに参加した。小学六年のユカさんは、家族と一緒に村に里帰りして
来てこの夏を過ごしていたのだが、たちまちワークショップの仲間入りした。ユカさんは、大量に出続ける
ゴミを竹のホウキで掃いたり、ベニヤの壁板を運んだりして手伝った。リョウマ君は、仕事にも慣れて、
床板を剥がしたり大きなハンマーで梁を外す作業などが堂に入ってきた。

       

南東の部屋の床板を剥がすと、なんと、下の半分は石垣で、残る半分は崖であった。
崖の上に差しかけるようにして一部屋が造作されていたのである。崩れ落ちそうになっていた
南側の板壁を取り外すと、外部の風景が室内空間に取り込まれ、まるで「方丈記」に描かれたような
寂びた空間となった。米良の山脈から蝉の声が降ってきた。
いずれ、これを生かすデザインが提案されることだろう。

       

この家に住んだ人は、山仕事の人もトラック野郎も、大工仕事を得意としたもののようで、
ここがかつて牛小屋だったとは思えないほどの造作が加えられていた。太い釘を太い釘を引き抜き、
ベニヤやプラスチック製の新建材の壁板を丁寧に剥がすと、下から、もともとの構造物である
太い柱や梁が現れた。二階の屋根と画への間らは光が差し込み、山住みの武士の隠れ部屋を思わせた。
一階通路と小部屋を仕切る壁の下から現れた直径20cmを越える眉形をした梁は、
斬新なオブジェに見えて最初はその用途に見当がつかなかったが、議論の末、
牛が首を出して餌を食べる場所のデザインであろうと推理された。

       

3日目の昼までに片付けは終わった。ゴミは分別され、リサイクル業者に引き取られたり、
木屑は森の木々が吸収する程度の火で燃やされて灰となり、肥料として森に還元された。
西側の片屋根の部屋の入り口に残された角のような造形物は、山から背負って帰った籠などを
吊り下げる装置であろう。杉まだは桧の枝を利用して作られている。
これも、今後どこかで活用されることだろう。

次回以降の作業工程も協議され、次のように提案された。

・東の片屋根の部分を解体。この部屋の左右の壁面を石積みにしてみたい。
二階に上がる階段、あるいは厨房などの用途が考えられる。
・西側の片屋根の部屋片付けと骨格の見直し。台所やトイレなどは一度解体し、検討。
・南側の遊歩道からのアプローチを検討。崖にせり出した部屋からの出入りが出来ると面白いだろう。
・南東の欅の大木を利用し、南東の部屋から連続したバルコニーを作ることも可能。
・東の樫の木にブランコを下げよう。
・屋根は瓦を一度降ろし、桟を取り替えて葺きな直すべきである。ボランティアで実行するか、
予算が付けばプロに頼むか。これは、予算や人手、資材等の確保、予算の問題など
検討事項が多いが危険度が高いため早めに結論を出すことが必要。
・中央部の梁の補強。これはデザイン性を重視した方法がある。
・屋根裏部屋は隠れ家的イメージ。明り取りの窓、米良の「編み」によるハンモックなどにより、
横になってゆっくり過ごせるスペースとしたい。
・畳の部屋台所とトイレ周辺を解体し、土の床に戻して検討。壁面は板材に味があり、そのまま利用できる。

以上、ただ「片付けた」だけで、これだけの提案が出てきた。古民家の持つ力であり、
周辺の景観や歴史性などが付加されて素材としての魅力を増し、参加者たちの興味と
やる気を誘うのである。これこそ一級の「地域資源」というべきであろう。



*次回は9月23日と24日が予定されています。この時期、民話館で始まっている「秋風のクラフト」展とあわせて楽しむことが出来ます。
*このワークショップへの参加方法は、「西米良村ワーキングホリデー」方式です。主催者から謝礼が支払われ、それによって宿泊、食事の経費が支払われるというシステムです。したがってお金のやり取りは差し引きゼロというかたちになりますが、古民家再生や自分のための美術館作りなどの方法を学び、地元の皆さんと交流し、米良の自然を満喫するというメリットがあります。主催者にとっても応援の人手が確保され、交流人口が増えるという魅力があります。今後の地域再生の手法としても注目されます。
詳しくは 〒881−1302 宮崎県児湯郡西米良村小川254TEL0983−37−1240
へお問い合わせ下さい。

 
神楽を描く
弥勒祐徳展


会場 平成の桃源郷/西米良村おがわ作小屋村
    小川民俗資料館
 会期 2011年11月20日―12月14日



宮崎の山野に、今年も神楽囃子の音がこだましています。
「神楽の画家」で知られる弥勒祐徳(みろくすけのり)先生は、今年、御年92歳。
今も神楽の現場に通い、一晩中、舞い続けられる神楽を描く現役の画家です。
普段は温厚で優しい弥勒先生が、神楽の場で絵筆をとる時は、
まるで神楽に降臨する「鬼神」か「荒神様」のように厳しいお顔に変貌します。
ある年、南国には珍しい大雪が降り、御神屋が雪で真っ白に埋まりました。
御神屋は隣接する公民館の中に移されて神楽は舞い続けられましたが、
明け方まで、弥勒先生は戸外で100号の大作を描き続けておられました。
神々しいまでのお姿でした。弥勒先生の筆から描き出される
「鬼神」や「荒神」「獅子」などは、素朴で、どこか懐かしい「森の精霊」のようです。
米良の山々も神楽の季節です。
小川神楽は12月10日から11日にかけて開催されます。
菊池家ゆかりの小川民俗資料館に弥勒先生の神楽の絵22点を展示し、お待ちしています。特に、今回出品の小品群は、発表される機会の少ない、愛らしい作品たちです。

小川神楽当日は、下記の要領で、「神楽を描く」ワークショップを開催します。




小川神楽 12月10日―11日 小川米良神社にて
ワークショップ「神楽を描く」
 小川神楽当日、神楽を見ながら描きます。講師はおがわ作小屋村アートディレクターの
高見乾司。スケッチブックと筆記具は準備しますが、各自お好きな画材をお持ち下さい。
・定員10名様 参加費/無料 詳細は下記にお問い合わせ下さい。



主催・西米良村「おがわ作小屋村」
 宮崎県児湯郡西米良村小川254 TEL0983−37−1240



 
神と人が融合する瞬間
小川の夜を体感する「月の神楽」

2011年10月8日
午後6時開演
神楽終了後、花火の打ち上げ
西米良村小川「おがわ作小屋村」前の広場にて



古と変わらぬ月光が照らし出す
感謝と祈りに満ちた西米良神楽の舞
神々と人とが融合するこの瞬間
天の名月に誓いを立てる
「変わらぬ山里の暮らしと歴史を守り継ぐ」と



今年で三回目迎えた「月の神楽」。
西米良村の秋の名物として定着してきました。
今年は、主祭神として「磐長姫」が降臨する小川神楽にちなみ
「女面の舞」をテーマとしました。
磐長姫は神社の大祭である小川神楽にしか降臨しませんが
京都在住の舞踏家・渡守希さんによる創作神楽「黒い女面」の舞、
米良山系・尾八重神楽の「神和(かんなぎ)」が披露されます。
その他、宮崎市船引神楽の若き伝承者大河内康平君(中一)岡新之介君(小二)による
「鬼神」と「手力男命」の舞、小川神楽の「蛇切」「幣差」「神の舞」があります。
名月の下、女面の起源に思いを馳せ、
鬼神の舞に森の精霊との語らいのひとときをお過ごし下さい。





「月の神楽」

2011年10月8日開催


今年で三回目を迎えた「月の神楽」は、10月8日、おがわ作小屋村の
前庭に設えられた特設会場で開催された。三年前に提案され、好評を
博した昨年に続き、今回から作小屋村エコミュージアムの事業の一環
として組み込まれ、恒例の行事として定着したのである。かつての
山仕事の小屋を復元した作小屋の前に、多くの人が集まってきた。



竹筒を利用した「竹の灯り」が点灯され、篝火が焚かれて、
茅葺きの作小屋が夕闇に浮かび上がった。



神楽は、宮崎市清武町船引神楽の「注連鬼神」から始まった。注連鬼神の
舞を舞うのは小学二年生の岡新之介君。先輩の中学三年生大河内康平君
(「手力雄命」の舞)とともに招待参加である。康平君と新之介君はこの
後の囃子も受け持ち、大活躍であった。注連鬼神とは、地の霊を鎮め、
神楽の場を清める舞である。新之介君の見事な舞に大きな拍手が起こった。
神楽は、小川神楽の「蛇切り」へと続いた。剣を採り物に舞う、勇壮な
神楽である。智剣を持って悪霊を切り祓う舞と伝えられる。



月が出た。十二夜の月が、雲間から御神屋を照らした。神楽は篝火と月の
光の下で舞い続けられた。まさに幽玄の神楽といえよう。
「岩戸の前で庭燎(にわび)を焚き、神楽を舞った」と古資料に記される
古代の神楽とはこのようなものだったのであろうか。

月の神楽 「女面の舞」


(写真は小川神楽・磐長姫命/2009年米良神社大祭にて)

西米良村小川地区米良神社には「小川神楽」が伝わり、主祭神として
磐長姫命が降臨する。女面の神が主祭神として祀られ、
神楽に降臨する稀有な例であろう。
小川神楽の磐長姫には、哀歓誘う伝承がある。
天孫降臨の折、ニニギノミコトは美人の木花咲耶姫を娶ったが、
同時に
献上された磐長姫は醜女であるとして返された。
これを悲しんだ磐長姫は一ツ瀬川を遡り、米良・小川の地に住んだのである。
だが、悲しみはますます深まり、ついに磐長姫は入水する。
これを村人が哀れみ、祀ったのが米良神社である。
小川の磐長姫は山の神信仰と混交しながら、大切に祀られ、伝承された。



磐長姫命は米良神社の大祭・小川神楽にしか降臨しないが、
小川神楽の磐長姫伝承にちなみ、今年の「月の神楽」
のテーマを「女面の舞」とした。
京都の舞踏家渡守希さんは、「黒い女面」と「白い女面」の一対の舞を演じた。
黒い女面は、えくぼのある能面「深井」である。深井は能楽「桜川」に使用される仮面だが、
現在使用される面は白い面であることから、この深井面は能面完成と同時期または直後に
制作された古面と思われる。月の光と篝火の灯りを受けて黒い女面が揺れ、
闇にまぎれて地の霊と交感し、また虚空へと舞いあがり、天空の神秘に感応しようとした。
現代の舞踏と神楽の融合を模索する渡守さんの舞は、
白い女面の舞で軽やかに舞い収められ、観客を魅了した。



尾八重神楽の「神和(かんなぎ)」(写真左上・2008年尾八重神楽にて)は
「下照姫(しものてるひめ)の舞」と伝えられる白い女面の舞である。
御幣を肩に担ぎ、その御幣を取り付けてある竹を扇で打ちながら
御神屋を巡り、次に御幣を掲げて舞う呪術的な神楽である。
下照姫とは高天原から出雲の国へと使わされた神・天若彦の妻である。
天若彦は大国主命の娘の下照姫と恋仲になり帰らなかったため、誅された。
それを悲しんだ下照姫は、喪屋の横で泣き、もがりを行なった。
記紀神話が伝えるこの場面は、死者を悼む呪術的芸能の原初の姿を現す。
神楽「神和」は米良山系の神楽や西都・高鍋・宮崎平野を経て霧島山系の神楽
にまで分布する。神和の舞は天鈿女命の舞、山の神、高幣(たかび)、氏舞など
呼称はさまざまだが、その芸態ほぼ同一である。神楽の祖・天鈿女命から猿女君
へと伝えられた宮中の御巫(みかんなぎ)の芸態を今に伝える神楽だといえよう。
月光の下で舞われる神和は、女面の源流部へと遡る旅に誘った。



「月の神楽」は小川かぐらの「幣差(へいさし)」と「神様の舞」へと舞い継がれ、
終わった。幣差は地の霊を鎮め、場を清める招神の舞であり、神様の舞とは
小川神楽に次々と降臨する地主神の舞である。
この夜、「おがわ作小屋村」の庭に土地神が降臨し、舞い遊んだのである。

  [おがわフォト俳句/2011年8月24日]

 

緑がまぶしく、水神の座す滝からは清冽な水が流れ下る西米良村・小川の夏。「おがわ作小屋村」にも多くの人が訪れ、谷間には蝉の声や鳥のさえずりが響いている。作小屋村と小川川の流域を散策しながら、写真と俳句で、小川の夏のひとコマを表現するのが「フォト俳句」である。源氏物語の昔から、日本には、絵に書(和歌)を添えるという美学がある。芭蕉、蕪村などが好んだ「俳画」もその伝統をふまえたものである。写真に俳句を添えるという表現法はまさに現代の俳画といえる。




参加者が集まってきた。作小屋村の軒下に置かれた大甕にはススキが活けられ、初秋の風情をかもし出していた。俳句の作り方、写真の撮り方は、小川神楽にもたびたび訪れている東京の石地まゆみ氏(俳人協会会員・未来図同人)を講師に招き、手ほどきをお願いした。石地さんは、九州・宮崎の神楽に魅せられ、10年以上宮崎通いを続けておられ、宮崎の山野にも精通。写真もプロ級の腕前。愛用のデジカメを持って参加した初心者の皆さんに、楽しく、やさしく教えてくださったのである。




レクチャーの後、早速現場へ。小川川中流の中入橋の袂に車を停め、渓流沿いの道を歩いた。晴れていた山に霧がかかり、雨が降ってきた。これもまた絶好の句材。谷沿いの道の脇には葛が葉を繁らせ、崖にはスゲやイワタバコなどの珍しい植物がみられた。スゲは菅笠の「菅」で、高山の岩場に生える。かつて米良の山には「スゲてご」という籠があったが今は作る人もいないという。イワタバコも渓流沿いの岩場に生える植物で、「チシャ」の葉に似た一枚葉が下向きに密集して生える。胃病に効く薬草として珍重される。この日、薄紫の可憐な花を付けていた。



さらに川沿いの道を遡ると、「蛇淵(じゃぶち)」と呼ばれる深い淵に到る。この淵には「うるし兄弟伝説」が伝わる。
「昔、漆取り兄弟の兄安左衛門は蛇渕の底に上漆が溜まっているのを発見。それを売りさばいていると、弟十兵衛が嗅ぎ付け、同じように蛇渕から取り出し売りさばいた。兄はその現場を見て、二度と取らせまいと木彫り職人に頼んで龍を作った。これを渕の底に沈め、弟が逃げ帰るのを見、ほくそ笑んで渕に潜ると、龍の目は爛々と輝き、のたうち、尾を振った。兄も恐れて逃げ出し、二度と蛇渕に潜れなくなった」
以上がその要約である。古い村の記憶を秘める淵は、今も青々と水を湛え、滝の音を森に轟かせている。木製の段々を降りて展望所から遠望するだけで、背筋にぞくりと寒気を覚えるほどである。



古老から蛇淵にまつわる伝説を聞き、草むらの野草に目を留める。ギョウジャニンニクやヘクソカズラの花なども発見。手帳がメモで埋まっていく。

 
 虹の滝                      布水の滝
上流へ向かうほどに谷は深く、険しくなる。この渓谷では、ヤマセミやアカショウビンなどの珍鳥を見かけることもあるが、この日は姿を見ることができなかった。谷に沿った道が大きな崖にぶつかる所で道は大きく左右に分岐している。左は天包山を経由して村所・椎葉へ到る道。右は銀鏡・尾八重・中之又と連なる米良山系の深奥部を貫く道。いずれも、古道の面影を残す山の道である。分岐点のすぐ右手に虹の滝が見える。水量の豊富な二段の滝である。その名が示すとおり、一年に何度かはこの滝に美しい虹がかかるという。
虹の滝から右へと上る道を500メートルほど進むと、左手に幅広く切り立った崖が見えてくる。その崖の最上部から、水は溢れ出し、垂直に落下してくる。途中で木立に遮られ、一部は段状に出張った崖を叩きながら飛沫となって飛び散り、また落ちて来る。穏やかな日であれば、水は白布を引いたように崖を装飾する。「布水の滝」と呼ばれる所以である。滝の水は、そのまま、巨岩が積み重なるガレ場を一気に200メートルも流れ下ってようやく鎮まり、小川川の清流となるのである。米良の山塊を背後に控えたこの滝を遠望すると、まるで天空から落ちて来る滝のようにも見える。この滝には、「布水の荒神」が鎮座し、村人の信仰を集めている。布水の荒神とは、米良の山神であり、水源を司る荒神である。毎年、十二月の第二土曜日に小川米良神社で開催される小川神楽では、この布水の荒神が青い荒神面を付けて降臨し、天地・自然の理(ことわり)や米良山根源の物語、神楽の由縁などを説く。



作小屋に戻り、美味しい「四季御膳」をいただいた後、講評と発表会。以下はその収穫。

 <2011おがわフォト俳句作品集>

おがわ作小屋・フォト俳句ワークショップ 2011.8.21

作品の講評

講師 石地まゆみ

作品1・いろり端話のはずむ里の秋 中武友幸さん

ご自分が小さいころから馴染んだ、囲炉裏端のある風景。
作小屋村にもあるそのなつかしい風景を詠みたかったのですね。
最初、囲炉裏や部屋全体を写した写真を撮られていました。
そこで、薬缶と自在鉤のアップにしてみては?とアドバイス。
アップにしたことで、焦点が決まり、迫力のある写真になりました。
全部を入れようとして、何を撮っているかはっきりしない写真も多いのです。
思い切って、近寄って撮ってみることをお勧めします。人は誰も写っていなくても、
昔から囲炉裏端には人が集まり、にぎやかな談笑が続いた、という思いが表れています。
俳句も率直にその思いを詠んでいて、よいと思います。写真の落ち着いた色調が、
「里の秋」という季語にピッタリです。


作品2・作小屋で楽しく過ごし涼新た 中武政子さん

川や滝を巡って作小屋に戻り、ホッと一息入れた様子を、ご主人がパチリ。
腰に手を当てているのが、またナイスショットです。
何気なく写りこんでいる幸徳さん、右下の傘。人の様子も天候も分かる楽しい写真です。
「涼新た」は、秋に入って感じる涼気のこと。「涼し」だと、夏の季語になりますが、
この日は急に秋の気配を感じた日でしたので、ぴったりの季語になりました。
新鮮な秋の気配に、皆で楽しく過ごしている一日を、素直に表しています。


作品3・岩清水涼気漂いいたるかな 上米良秀俊さん

「清水」は夏の季語。「滝」「清水」「滴り」「泉」など、水にまつわる季語が夏に多いのは、
水から感じられる涼しさによるものです。この句は、その涼しさを、的確に表現しています。
初め「涼気漂い心地良し」だったかと思いますが、「心地良し」と言わなくても、
写真からも気持ち良さが出ているので、それは削除しました。
俳句は「ここちよい」「うれしい」「かなしい」といった気持ちを表す言葉をあまり入れません。
短歌と違って17文字しかありませんから、そういう気持ちを季語や物に託すのです。
「漂いいたる」は、「漂っている」ということ。「かな」で止めて、余韻のある句となりました。
写真も涼しげ。よく見ると、雨の粒が、丸い点となって写り込んでいます。
写真は、眼で見えないものをこうやって写し込んでくれることがあるので、それも楽しみの一つです。


作品4・蝉しぐれかつらの梢天をつく 中武サエコさん

蝉の降るような声を、時雨の音にたとえた「蝉しぐれ」。
この季語を使っただけで、あちこちから聞こえてくる蝉の声が、聞こえてくるようです。
「フォト」だけでは、残念ながら、その声が聞こえないのです。
ここが、フォト俳句の楽しいところですね。その蝉声の中で、目を止めた大きな桂の木。
「かつらの梢天をつく」の表現は、見ていない人でもその桂の大きさが
目に浮かぶ写生のしっかりした表現です。「しぐれ」「かつら」「つく」を、
ひらがな表記にしたのもしんしんと降る蝉時雨、桂のたたずまいを、巧みに表しています。
写真も、余分なものは写さず、桂の木だけを撮ったことで、
かえって山の奥深さ、雄大さが出ています。地面の部分を写さず、桂の天辺、
空が入っていたら、もっと良くなったでしょう。


作品5・激つ瀬を見下ろしいたり葛の雨 関谷ミキ子さん

雨のせいで、川の水量もかなり多かったようです。
「激つ瀬(たぎつせ)」とは、水が激しく流れる瀬のことを言います。
写真には、その真っ白く波を立てて流れる急流が写っています。ざあざあと流れていく水の音も聞こえてくる写真です。「見下ろしいたり」と表現したことで、作者が高い位置から
流れを見ている様子も分かります。手前の木の重なりも、見ている場所を
想像させて良かったですね。奥の方には、「小川石」も写っていて、
記念の写真となりました。山に繁茂する葛には、静かに雨が降っています。
俳句はしっかりとまとまっています。激しい瀬の瀬鳴りと、
静かに降る雨との取り合わせが巧みな作品となりました。



作品6・砂防ダムの水垂直に葛の花 新名美穂子さん

砂防ダムは人工物で、詩になりにくいと思われがちですが、この作品では
うまくまとまりました。通常上の句は5文字で、最初は「砂防ダム水垂直に」でしたが、
三段切れ(上・中・下の句が、ぶつぶつ切れる状態)になってしまうので、
字余りになりますが「砂防ダムの」と「の」を入れました。
砂防ダムの水を「垂直」と、誰でもが見ていることを、こうやって表現すると、
詩になりますね。びっくりしました。人工物と、紅紫の葛の花の取り合わせが、
自然と人間の暮らしの共生も感じさせます。山の様子、川原の石、
曇った空を入れ、ゆったりと撮ったのも良かったです。

作品7・羅の女艶めいて米良の庄 原田勝子さん

なんと、私(講師・石地さん)が岩煙草の花を激写しているところを、
後ろから、撮られていました。「羅」は「うすもの」と詠み、
地の薄い、夏の衣服を言います。「薄物」とも書きますが、俳句では「羅」の字を使うことが多いようです。「羅(うすもの)」の「も」、「艶めく」の「め」、米良の「め」、読んだときに、
「ま行」の心地良さを感じます。作者は「赤い傘が残念」とおっしゃっていました。
急な雨に、お借りした傘でしたが、この写真では緑の中に赤、
というこの色がアクセントになり、引き締まっています。多分、緑と着物の女だけでは、
ぼんやりした写真になったことでしょう。米良の庄には、着物が似合います。
この写真がなくても、この俳句は共感できると思いました。


作品8・滝となりゆく然りげ無き流れかな 山中晃代さん

布水の滝は、ゆうゆうと高い所から落ちてきます。作者は、下から滝を見ながら、
その滝口のさらに上、滝となる前の、水平な流れに思いを馳せています。
俳句はこうして、眼前に見えるものから、見えないものへと、想像の翼を広げられるものなのです。
「然りげ無き」(さりげなき)という言葉を見つけたのが、句の中心ともなり、
滝の句としては類例の無い、いい句になったと思います。「滝となりゆく」と、
上の句を7文字にしたことで、水の流れへとつながります。
一句を読み下したときに、とても心地良く、「かな」による余韻も活きています。
布水の滝の写真も、無駄が無く、句と相まっていて良かったと思います。

作品9・晴れた日に訪(と)うてみたしや虹の瀧 中武恭子さん

虹の滝は、二段になっていて、その滝壺のしぶきに太陽があたり、
虹ができることがあるといいます。私は三度訪ねましたが、
なかなかそういう場面には出合えません。この日は特に、雨のぱらつく天気でしたから、とても虹が見られるような状況ではなかったですね。お陽様がさんさんと照り、しかも、
その陽の角度によって現われるのでしょうから、そう簡単には
見ることはできないのでしょう。作者は、雨もよいの虹の滝を見て、
晴れた日にはどんなにか美しいだろう、そんな日にもう一度訪ねてみたい、
という気持ちを、素直に詠みました。初め中の7文字が「もいちど来たい」
だったように思いましたが、口語より文語にし、「や」の切れ字を入れることで格調高く、
余韻が出るかと思い、手を入れさせていただきました。
全体的に曇ったような写真と、句のバランスのよい作品となりました。

作品10・風吹けば滝は狭霧となりにけり 浜砂幸徳さん

この日の布水の滝は、水量が少なく、それこそ薄物の布のように見えました。
水量が多く、どどと流れる滝も美しいですが、この句のように、薄い衣のような滝が、
さらに風に吹かれて、霧のように見えた、という発見ができるのも、
自然との一期一会でしょう。最初「風が吹く」「滝が霧に」といった、
散文調の言葉で句を作られていました。「狭霧」は「さぎり」。
「さ」は、調子を整える接頭語で、つまりは霧のことなのですが、ふ
わっと霧となってなびく滝の水には合っているかと思い、このように添削しました。
風が吹いたら滝が霧になった、ということを、言葉の調子を整えると
、俳句になります。また、余計なことは言わず、
「そのことだけ」を詠む俳句というのも、余韻があっていいものです。
ここでは「なりにけり」という言葉が、余韻と切れのよさ、両方を感じさせます。
霧となった滝への憧憬も感じられる句となりました。
写真は、手前に草のぼかしが入り、奥の滝との遠近感が面白いかと思います。


作品11・葛の雨木地師の村の跡といふ 高見乾司さん

かつて小川の木浦地区に、熊本の五木村から、木地師たちが入ったという話があるそうです。
ロクロを使ってお盆やお椀を作る木地師たちがいたからこそ、
「うるし兄弟」の伝説が残っているのでしょう。作小屋から滝の方に行くのに、
木浦の集落を通って行きます。もう、数件しか、家はありません。
作者は木地師集団のいた地区への思いを馳せながら、葛に降る雨を見ています。
遠い歴史への思いを表出するのに、「葛の雨」という静かでしっとりとした季語が効いています。
葛の勢いの溢れる写真で、山深さと郷愁を感じさせます。葛だけではなく、
右端に水の流れを入れて、変化が出ました。
もう少し、流れを写真の中に入れ込んでもよかったかもしれませんが、秋らしい景色です。


☆講師作品☆

・流亡や身にいつぽんの滝の音

・八月のくらがり匂ふ南朝史


西米良村小川・木浦のうるし兄弟伝説を読み解く 


緑陰に むかしがたりの 蛇淵かな

8
月に開催された「おがわフォト俳句」講師の石地まゆみ氏の句である。
小川谷の上流部にある「蛇淵(じゃぶち)」は暗い森に抱かれた深い淵で、
夏でも冷気が漂い、
地元の人も恐れて近づくことは稀である。
この淵に伝わる「うるし兄弟伝説」は、かつて民俗学者・柳田国男が採録し、
「日本昔話」の代表的民話としても語り継がれている著名な伝説であるが、
この伝説を丹念に読み解くと、かつて栄えた小川谷の起源やこの地方に残る
稀有な仮面文化、
村の生業の記憶などが浮き彫りにされてくる。
平成6年〜8年へかけて、寺原重次氏(昭和48年〜52年まで西米良村立小川小・中学校に勤務)
調査・記録したその物語を「西米良雑記帳/緑も豊か心も豊か」(寺原重次著/平成8)
を参考に、日本昔話風に再構成してみよう。

「うるし兄弟の話」
むかし、むかし。
米良は小川の木浦というところに、安左衛門と十兵衛という二人の兄弟が住んでおった。
二人は、盆刳りといって木をくりぬいてお盆やお碗を作ったり、
時にはそれにうるしを塗
って仕上げる仕事もしておった。
盆刳りの仕事が暇な時は、山に行って漆をかいて、それを売って暮らしておった。
漆かきというのは、掻き鎌という鎌で漆の木に傷を付け、
その傷口から流れ出る汁を掻き
取って集める仕事である。
木浦の漆は、そのころから米良の上漆(じょううるし)といわれ、
すぐに買い手がつき高い
値段で売れたそうじゃ。
ところが近ごろは仕事仲間が増えたため、傷をつける漆の木が少なくなって、
兄弟は大変
困っておった。
ある日、兄の安左衛門は漆の木を探して、今まで誰も分け入ったことのない
木浦の村の奥
までやって来て、崖に差し出た漆の木に登って、
掻き鎌で幹に傷を付けていた。
真下にはごうごうと音を立てて流れ落ちる白い滝と、
青黒く水をたたえた深い淵が不気味
にのぞいておった。
これが「蛇淵」じゃ。
ひょっと下を見た安左衛門は、思わず息をのみ、
その拍子に手に持った掻き鎌を淵に落と
してしまった。
大事な道具を落とした安左衛門は、崖を伝い下り、
早速裸になって淵に飛び込んで鎌を探
した。
すると川底全体が真っ黒に光っていることに気づいた。
それはまぎれもなく「上漆」の固
まったものであった。
川面から差し込む柔らかな光にゆらゆらと揺れながら、
きらきら光る漆の輝きは、安左衛
門にとっては竜宮城の世界じゃった。
呆然と見つめていた安左衛が、気を取り直し、その漆がどこから流れ出たものかを調べ
ると、白い泡に霞んだ滝つぼの横に、うずたかく積み上げられた竹筒の山が見つかった。
それは、この辺りの人が、水や酒を入れて持ち歩く
「ミズタカンポ」と呼ばれる竹製の水
筒であった。
誰が、ここにこんなに大量のタカンポを置いたのかはわからぬが、
その竹筒が長い間に腐
って、中に詰められていた漆が流れ出て、
水の底に堆積したものであろう。

安左衛門は大喜びで持てるだけの竹筒をかかえて浮かび上がると、
早速竹を割って中身を
確かめたが、漆はすでに固まっており、使い物にはならぬ。
がっかりしたが、気を取り直して谷の上流へと遡ると、ぱっと開けた川の両岸に
見渡すか
ぎり漆の林が広がっておった。
それから安左衛門はここに泊り込み、漆を採った。
採っても採っても尽きぬ漆の森であった。
安左衛門は、その漆を竹筒に入れ、蛇淵の底に沈めた。
それからの安左衛門は、人に怪しまれないように、
少しずつタカンポを引き上げては売り、

暮らしはたちまち豊かになった。
その兄を不思議に思った弟の十兵衛が、ある日、こっそりと兄のあとをつけたのじゃ。
安左衛門はいつものように蛇淵にもぐり、タカンポを抱えて上がってきた。
兄の秘密を知った十兵衛も、その後は蛇淵の漆を得るようになり、暮らしも豊かになって
いった。
今度は兄が弟を疑い、安左衛門は町の彫り物師に頼んでからくり仕掛けの木の竜を作った。
それは、水の流れを受けて水中で動く仕掛けになっており、
いつものようにやって来た十
兵衛が蛇淵に入ると、まるで生きているように動いたのである。
「竜じゃ、竜じゃ・・・」
と叫びながら浮き上がり、一目散に逃げ帰った弟を見て安左衛門は、
これで一安心とばか
りに大笑いしながら自分も蛇淵にもぐった。
すると、木の竜の目がギラリと光ったのである。
「そんなはずはない・・・」
と、安左衛門がタカンポに手をかけると、なんと、
今度は竜がパックリと大きくその口を
開けたではないか。
「ほ、本物の竜じゃ、助けてくれ・・・」
必死で浮かび上がった兄を、心配して岸まで見に来ていた弟が、
持ってきた綱を投げて引
き上げ、助けた。
二人は手を取り合って喜び合い、互いに今までのことを詫び合って、
それからは仲良く仕
事に励んだ。
その後の二人は、山の漆に頼るばかりでなく自分たちの手で山を開き、
漆の木を植えて育
てた。
そしてそれを村人にも教え、村中がひとつとなって精出したので、
この木浦は漆の里とし
て栄えたのじゃ。
それからは誰いうとなくこの兄弟のことを「うるし兄弟」と呼ぶようになったのじゃった。
 と申す、かっちん。



寺原先生の調査では、この伝説の裏づけとして、木浦の集落に木地師の道具類や「メンパ」と
呼ばれる弁当箱の底と上蓋ににこびりついた漆が残っていたこと、木浦の漆生産は、代々の殿様も奨励し、
藩の財政に役立っていたこと、熊本の五木方面との技術者の交流があったことなどが明らかになっている。
さらに、蛇淵の滝の洞窟は山を隔てた銀鏡まで続いているという伝承もあり、漆の保存方法としての竹筒の
使用や滝壺の洞窟を利用した保存法などを示唆しているのである。
木地師といえば、全国の山から山を自在に渡り歩く
職業集団で、盆や椀などの制作とともに「仮面」の制作に携わったといわれている。
小川谷には木浦の集落に伝わる「布水の荒神」
(青い水神面)や折立集落に伝わる「折立宿神」、
菊池氏が捧持し、米良に持ち込んだといわれる「菊池殿宿神」
(鎌倉時代)などの優れた仮面文化がある。
木浦の「うるし兄弟」とのなんらかの関連があると考えることも不自然な連想ではない。


[秋風のクラフト]
2011年9月22日〜10月4日
おがわ作小屋村にて

 
おみなえしの花が秋空に黄色く映え、葛の花の香りが漂い、彼岸花が田の畦や集落の
小道を彩る小川地区に秋風が心地よく吹きすぎています。茅葺きの「作小屋村」で
食事を楽しみ、米良・菊池氏と南北朝の哀史を秘める「小川城址公園」を散策する人
の姿が増えてきました。「小川歴史資料館」に隣接する古民家では「古民家再生ワー
クショップ」が継続中で、「片付け」「解体」「竹を使った天井と床作り」などが
進行しています。



「おがわエコミュージアム」の一環として開催されている「秋風のクラフト」では、茅葺き
の作小屋の一棟にクラフト作家、工房の皆さんが丹念に仕上げた作品を持ち寄って下さいました。
「クラフト運動」は、戦後、「民芸運動」に呼応するかたちで提唱された生活デザインで、
現代生活に適合したものづくりが展開され、一時代を築きましたが、1980年代の後半頃から
流入してきた「アジア雑貨」や「エスニック工芸品」、百円ショップに象徴される安価な
大量生産品などに押されて衰退の傾向をたどっていました。
しかしながら、2000年代に入り、自然志向や環境との共生の理念が普及し、
クラフトとアート、現代美術等の接近による野外や森の中などで開催される「アート&クラフト市」、
「地域振興とアート」の試みなどによって復興の気配を見せ初めています。
「もの」は「ひと」から生まれるのであれば、良い生き方をする「ひと」からこそ「良いもの」が
生まれるという原理を、こだわりのライフスタイルの中から作品を生み出すアーティスト・クラフト作家
の皆さんとともに模索し、確認し合っているのが現代の「アート&クラフト」の状況といえるでしょう。
「おがわエコミュージアム」では、このような「アート&クラフト」とクリエイティブな
作家たちが村の中へゆるやかな速度で点在してゆくことを目標としています。
秋風に吹かれながら、そんなことを考え、作品を観るのも楽しみの一つといえるでしょう。



石井記念友愛社が運営する「茶臼原自然芸術館」では、障害をもつ通所者の皆さんが
「自然布・裂き織り・森の草木染め」等のタペストリーや衣類、クッションなどを制作しています。
温かな手ざわりとぬくもりが伝わる作品です。



森の空想ミュージアムの作家たちからは天蚕紬の着尺やのれんなど
本格的な染色作品が生まれ続けています。
「天蚕(てんさん)」とは樫の葉やくぬぎの葉に繭を作る天然の蚕です。
この緑色をした天蚕は茶臼原の森でも時々採集することができます。
その繭から一本一本糸をつむいで、
紬に織り上げるのです。



雑木工房・しいの木の本棚や、木の椅子は自然木の個性が見事に生かされた愛らしい作品たちです。




大分・由布院からは高見八州洋さんのがっしりと編み上げられた竹籠、
古布・皮を組み合わせた手提げ籠などが届きました。



おうちカカ・酢矢藤沢美さんの草木染め衣類はオーガニックコットンのやわらかな素材感が生かされています。
茶臼原自然芸術館のワークショップ「森の草木染め」参加し、通所者の皆さんと一緒に染めた布が、
酢矢藤さんのデザイン力によって素敵な「衣」となりました。



木屋工房・濱砂さんの重厚な家具が会場を引き締めています。その椅子に座り、
米良の山々を眺めると、時の経つのを忘れてしまいます。



ステンドアート花水木・仁田さんの照明器具は秋風の吹き抜ける空間に彩りを添えてくれました。



古民家再生に参加した白犬「ホワィティ」も満足そうな表情。

夏の草木染め
2011年7月23日〜24日
おがわ作小屋村にて

 
 
梅雨明けの強い日差しがまぶしい7月23日と24日の二日間、西米良村小川の「おがわ作小屋村」
で「夏の草木染めワークショップ」が開催されました。今年の4月から活動を開始している「おがわエコミュージアムプロジェクト」の一環です。まずは小川地区の自然に親しみ、地域のことを知り、
そこに眠る「宝物=地域資源」を掘り起こすことを目的としたものです。
今回は、石井記念友愛社/茶臼原自然芸術館から指導員の横田康子氏と三牧恵氏を講師として招き、
行なわれました。「おがわ作小屋村」は中世から江戸時代へかけて、この地を治めた
米良・菊池氏の居城跡を整備した、小川城址公園の一角に昔の山仕事の小屋を復元し
、食事処と交流の拠点とした施設で、多くのお客さんが訪れています。この日は、復元された茅葺きの
古民家に自然布や裂き織り、草木染めの作品などを展示し、民家の軒先で染色を行いました。


 
集まったのは、県内各地から8人の参加者と三牧さんの子供たち3人。作小屋村のコテージに
泊まり込んで本格的な染色です。まずは、山に入り、染料になる植物を採集します。
上右の写真は小川川沿いの風景ですが、左手にネムノキ、その手前に葛、右手にアカメガシワが
映っています。川にはヤマメがひそむ、遊びと染色素材採集の現場です。
 
子供たちと男どもは早速川で釣り。この日のコーディネーターで遊びの達人がんじいが、たちまち
ヤマメを釣りあげて名人の腕前を披露。ブログネームがんじいこと高見乾司は、「九州民俗仮面
美術館」を運営しながら神楽の現場に通っていますが、茶臼原自然芸術館の企画や方向性を考
える指導員、「おがわエコミュージアム」のアートディレクターなどとしても活動しています
。がんじいの提案するエコミュージアムとは、遊びや豊かな自然、風景、
村の伝承文化、史跡など、地域全体が「美術館」の構成要素なのです。

 
 
参加者の皆さんは採集。1日目は、ネムの葉、藤の葉、葛の葉、
ヤブマオ、アカソの五種類が得られました。
 
2日目の染色は、白のシルクマフラーを準備しました。「草木染め」には、染色と媒染という
二つの工程があります。まず、素材である草木を煮出して染液を作り、布を浸す「染色」と、
発色と色素の定着効果を持つ媒染剤を溶かした液に布を浸す「媒染」です。
媒染剤には、金属、酸、木灰、アルカリ薬品などがあります。
この媒染剤によって発色が変わります。
 
 
染色と媒染の工程には、
・布(今回はシルクマフラー)をぬるま湯に浸け、糊や汚れを落としておく。
・採集してきた草木の葉や茎を適当な大きさに切り、鍋に入れ、煮沸する。
・煮出した染液を布で濾し、液を抽出する。
・この工程をもう一度行い、2番液を取る。
・水に入れた別の容器に媒染剤を入れる。
・染料液を鍋に入れて火にかけ、湯通ししておいた布を絞らずに広げるようにしながら染液に入れ、
時々かき混ぜながら煮染する。
・染めた布を水洗いし、媒染液に入れて媒染する。
・媒染が終わった布を水洗いし、干す。
等の工程があります。干した布が乾いたら完成です。


 
 
今回は、
・ネムの葉のミョウバン媒染
・藤の葉のミョウバン媒染
・葛の葉のミョウバン媒染で
・ヤブマオのミョウバン媒染
・アカソの鉄媒染
の五種の染色を行いました。
最初に染めたのは、川辺で一番先に採集したネムの葉です。あの、梅雨時に淡いピンクの花を咲
かせ、夜になったら葉を閉じて眠ってしまう昔話の中の植物のようなネムの葉からは、あざやかな
黄色が染まりました。林の縁や畑の脇などにはびこり、邪魔者扱いされる葛の葉からは淡い黄色が
発色しました。麻の仲間のヤブマオ(藪麻苧)は道端などによくみられる草で、糸は得られませんが、
渋い灰色がかった茶色に染まり、絞りの文様とよくマッチしました。アカソ(赤麻)も麻の仲間ですが、
この草は平地には少なく、この小川谷のような渓流沿いの崖などに映えています。
濃い赤紫褐色が染まる得がたい染料です。古民家から庭内の桜の幹に張り渡された綱に
染めあがった布が干されると、山からの涼しい風を受けて軽やかに舞い上がり、
青みを帯びた米良の山々を背景に美しい景色が描き出されて、
参加者からも、村を訪れた人たちからも歓声が上がりました。





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(SINCE.1999.5.20)