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                            企画展
                    
南の島の古陶と精霊神

                        アートスペース繭
                会期 2011年10月31日~11月9日(日曜休廊)
                     東京都中央区京橋3-7-10
                     TEL 03-3561-8225

 幾つかの偶然と、幸運が重なって、種子島焼の優品、沖縄の壷屋や八重山の古陶などを二年ほど手元に置き、眺めるという至福の時間を得た。
文禄・慶長の役と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮半島出兵の折、従軍した佐賀藩・鍋島氏、薩摩藩・島津氏などが連れ帰った朝鮮陶工は、異国の土地に居住させられその技術を求められた。悲運の陶工たちによって創生された陶磁器は、唐津・伊万里、白薩摩・黒薩摩などの名品を生み出し、日本陶芸の源流を形成したのである。
 「種子島焼」とは、島津氏が連れ帰り、苗代川に居住させられた陶工の一部がさらに南へと移住させられたという説と、島津氏とともに従軍した種子島氏が連れ帰ったものという説がある。鉄砲伝来の島としても知られるこの島の土で焼かれた日常雑器や祭器、花立などは鉄分を多く含み、赤味を帯びて硬く、渋い。戦後、発見されたこの滋味深い陶器は好事家の間でたちまち評判となり、島から搬出され尽くして「幻の古陶」となった。私のもとへ来た一群の珍品は、この時期に入手したコレクターが長年秘蔵していたものであった。
 ある一日――。私は種子島焼の「森の神」とも「窯の守り神」ともいわれる小さなオブジェを窓辺に置き、はるかな南の島を思い、望郷の念を抱いて仕事を続けた陶工たちの心情を思った。10cm足らずのこの小さな焼物は、二本の角を持ち、小さな丸い目が虚空を見つめている。すぼめた口と思われる突起には、渦巻きを思わせる呪的な文様が刻まれ、その足元にも押し寄せる海波のような造形が認められる。脇に立つ、柱状の突起物には穴が開いており、花入れ、または線香立てのような用途を連想させる。
 まことに愛らしいこの小像は、やはり、島の精霊神あるいは陶工たちの守り神であろう。日向灘の浜から拾ってきた破船の断片に乗せると、風化した船体の一部は光を受けて波のように揺れ、付着した貝殻は、磨耗した果てに、王宮の供物を飾る螺鈿細工のように輝いた。その望郷の舟は、ゆらりと南へ向けて漂い流れはじめた。

 上記企画展の会期中、日本橋・人形町のウィークリーマンションを借りて、会場の京橋・アートスペース繭まで毎日通った。人形町は古い町で、私は存分に江戸情緒の名残を楽しみ、毎日、小文を書いてブログに載せた。文を書き始めると、人形町界隈はかつて影響を受けた洲之内徹氏の馴染みの町であったことが思い出され、さらに骨董とアートと文化活動の交錯などへと、連想が広がっていった。アートスペース繭での企画展はすでに10年を経過しており、その間に出会ったり別れたりした骨董や人との縁も数を重ねていたのである。これを機縁に、ここに「がんじいの骨董手控え帖」という一ページを設け、追想や新しい出会いなどを書き留めてみることとした。私は骨董とアートと文化財とを同一線上にあるものと考えている。世間の認識とは多少のずれがあるかもしれないが、ここは我流を通させていただくこととする。「がんじい」とはがんこじじいでもインドの平和主義者ガンジーをもじったものでもなく、がんばるじじいの略称である。では、どのようなときにがんじいはかんばるのかというと、冬、毎週土曜日ごとに神楽の場に通い、徹夜で絵を描き続け、仮面の起源や源流について思いを巡らし、村人と交流すること。夏、山深い渓谷に分け入り、ヤマメを追うこと(ちなみに今シーズンは210匹の釣果があった)、そして骨董と遊ぶこと等々である。
 では本文へとご案内いたします。

[がんじいの骨董手控え帖<14>]
仮面・アート・骨董

昔を懐かしんでいるのでも、もうすぐ死ぬかもしれないからこのことだけは言っておこう、というのでもないとお断りした上で、洲之内徹氏のことに関して、もう一度だけ書いておく。没後20年以上を経た今も洲之内さんの随筆「きまぐれ美術館」は読み継がれており、新たな読者を獲得しているということが、嬉しいのだ。このしみじみとした嬉しさは閉館して11年が過ぎた「由布院空想の森美術館」がいまだに多くの人の気持ちの中に生き続けているという現象に対する感慨と似ている。
以下の記事は、ファッション雑誌「hi fashion(ハイ・ファッション)」2009年4月号に掲載された美術批評家椹木野衣(さわらぎのい)氏の文である。全文を転載する。我が家(九州民俗仮面美術館)は戦後に立てられた古い家で、中庭に樹齢数百年といわれる楠の巨樹が聳えており、その枝が家全体を覆っているので、強風が吹くたびにその枝が落ちて瓦を割り、雨が降るたびに雨漏りがする。先日の大雨の時も、寝ている二階の部屋に大量の雨水が落ちてきて、大事にしていた
資料や書物類がずぶ濡れとなった。その中にこの「ハイファッション」もあったのだ。
判読不能となる前に、何らかの形で記録しておきたいと思ったのである。


写真は「ハイファッション」掲載分

『[九州の古仮面]
  椹木野衣
洲之内徹(1913-1987)を評論家と呼んでよいものか気がひける。が、小林秀雄が絶賛したことでもわかるように、「気まぐれ美術館」で知られる連作エッセイは、過去に書かれた美術評論のうち、いまなお読むに値する数少ない文章だと思う。故人となってもうだいぶ経つけれども、読み直すたび、意外な発見に出くわすのだ。最近でもそういうことがあったので、今回はそれについて書いておく。
九州・大分の由布院美術館(今年-2012年3月に閉館)にまとまった絵のコレクションが遺された佐藤渓について書かれた文章でのことだ。そのなかで洲之内は、湯布院町在住の高見乾司さんという魅力的な人物との交遊について書いていて、しかもその方が近々「空想の森美術館」というアートスペースを立ち上げようとしていることを記していた。気になって調べてみると、その美術館は゛86年に実際に開館、順調に活動していたが、いろいろあって2001年に閉じられ、高見氏も宮崎に居を移し、新たに教会の建物(正確には旧・教会および石井記念友愛社の子供たちが暮らした古い寮)を改装して「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」を開いたことを知ったのである
(その経緯や活動は「インターネット空想の森美術館」で公開されている)。また、
その著作を通じて氏が古代九州の民俗学の研究者であることや、その活動の一環として作者不詳の古仮面を個人的な眼力を頼りに300点以上にもわたり蒐集・公開していること。
さらにはここにも大変な苦労があったこともわかった。
うかつだった。そんなミュージアムが最近まで存在していたとは知らなかった。もっとも、そのホームページには朗報も載せられていて、昨年(2008年)その仮面コレクションのうち90点を九州国立博物館(福岡県太宰府市)が購入し、遠からず常設展示でお目見えする日も近いのだという。
眼力ということでは洲之内にもズバ抜けたものがあり、結果的にそれは日本の近代美術の内容のうち、決して退かせぬ一角を占めるに至ったわけだが、自分の眼だけを頼りに集めたものが、いつしかアカデミズムをも揺さぶってしまうというのは、最高の批評行為ではないだろうか。
私は日頃、美術というよりもアートと呼ばれるような世界で活動している。そうすると、何かこじゃれたようなアートの情報には事欠かなくても、こうした地方でのできごとからは期せずして距離ができてしまいがちだ。けれども、今本当に必要なのは、両者を攪拌するような価値の創出だろう。そんなとき、洲之内のエッセイは、何か突然起きた事故のように私の活動に介入してきて、
その方位をぐいっと変えてくれるのだ。
そういうわけで高見氏の古仮面は未見だが、公開されたあかつきにはぜひ足を運んで、文化財などという構えた見方ではなく、高見氏の眼になったつもりでじっくり眺めてみるつもりだ。それまでは、高見氏の実弟である、高見剛氏が撮影したこれら仮面群の写真で代わりにしようと
写真集(「九州の民俗仮面」鉱脈社)も購入した。
が、本を開いて驚いた。代わりどころではない。一枚一枚がおそろしく迫ってきて、
とにかく写真として超弩級の代物なのだ。みなさんも今見ているページの写真に
きっとギョッとしていると思うけれども、こういう有無をいわせぬ力というか存在することの
奇異というか、そういうものこそ、21世紀のアートに真正面から突き合わせてみたい気がする。
*文中( )内の一部は高見・注』

[がんじいの骨董手控え帖<13>]
アートな狛犬たち/洲之内徹氏が見た狛犬(3)



この狛犬は、両手両足が失われている。
それゆえ、自力で立つことができない。本来の目的である山深い神社の本殿を守護するという役目は、とうの昔に果たせなくなっている。もはや親しい仲間でさえ彼の力で「守る」ということは不可能だろう。だが、一点のオブジェとしてこの狛犬を見るとき、尽きせぬ魅力が彼の身辺に漂う。「風化」は、時間と記憶とを彼の内奥に刻印し、彼の故郷であるはるかなシルクロードの果ての、
古代オリエントの空へまで、観る者をいざなうのである。
黒潮打ち寄せる日向灘の海辺から拾ってきた石に「空」の一文字を書き、
それを彼の顎の下に置いてあげると、この変遷を重ねてきた狛犬は
たちまち穏やかな表情となって、私に安堵の吐息を吐かせた。



日本民藝館(東京・駒場)の元学芸員・尾久彰三氏に「これは骨董ではない」
(晶文社/1999)という一書がある。民藝館の創設者・柳宗悦なきあと、
その思想や美学などを忠実に受け継ぎ、「貧好き(貧乏な数奇者)」を自他ともに
認めながら収集を続けておられる尾久氏は、まさにコレクター魂の結晶とも民芸の
申し子ともいうべき人である。その尾久さんが、「民芸」と「骨董」との混同を嘆き、
怒りをぶつけたのがこの書物である。民衆の使用した道具類、生活用具などに
「美」を見い出した柳宗悦の理論は、当時としてはまったく新しい美の観念であり、
価値観の提示でもあったが、それがおよそ百年の時を経て、「骨董」として取り引きされるまで、
経済的価値を高めてきたのだ。骨董業界の慢性的な在庫不足という事情もあるが、
やはり、「そこに美神が宿る」とさえ尾久さんがいう「民芸という健全なもの」が、
札束が飛び交い丁々発止の駆け引きが繰り広げられる「骨董」という妖しげで
おどろおどろしい世界の中に引きずり込まれてしまうことに対しては、
ひと言、物言いを付けたい気持ちなのだろう。
ちなみに、尾久さんの手元にも、上記二点の仲間である狛犬が一体あり、座辺でのどかな風情を漂わせている。以前、京橋の「アートスペース繭」に出品したものをお買い上げ下さったものだ。交渉が成立し、この猫かツチノコのように変容したチビの狛犬を大切に抱き抱え、
連れ帰る時の尾久さんの嬉しそうな笑顔が、今も忘れられない。
(本物の「もの好き」がここにいる)
と私は、その時思ったものである。



春の一日、一群の狛犬を「九州民俗仮面美術館」の窓辺に出し、並べてみた。穏やかな陽光の下で、彼らは、肩を寄せ合い、山男たちが歌う山の歌でも歌い出しそうな雰囲気である。

今からおよそ30年前、これらの狛犬を、私の部屋で見た時、洲之内さんは、
「いいねえ、これが、こんなふうに残されてきたということもまた、日本人の美意識の産物なんだね」
と言いながら、丹念に測光し、旧式のニコンで撮影した。それが「モダンジャズと犬」というタイトルで「気まぐれ美術館」に掲載されることになるとは、その時は夢にも思わなかったが、私にとってその時間はとても幸福なひとときであり、古民芸・骨董というジャンルに身を置きながら、空想の森森美術館の設立準備を進めるための「眼の規準」を確信した時でもあった。洲之内さんの眼には、骨董とか民芸という区別さえなく、ただ「一点のアート」としてこれらの狛犬を見たのである。

その後、空想の森美術館が開館し、狛犬も展示品の仲間入りをして、コレクションの総数は30点ほどに達したが、同館の閉館と共にその多くは散り散りとなった。いつの間にか狛犬は骨董業界の人気商品の一つとなり、売りに出せば、一定の価格で確実に売れるため、別れを惜しみながらも手放したのである。戦いに敗れた戦国の武将が落ち延びてゆく時、行を共にした侍たちが次々に討ち死にし、次第に手勢が減ってゆく時のような寂しさを私は感じながら、一点、一点と別れた。最後に残ったこの六点が、今も私を守ってくれている「同志」ということになるのであろうか。


[がんじいの骨董手控え帖<12>]
狛犬の来た道/洲之内徹氏が見た狛犬(2)



こま犬。「狛犬」「高麗犬」と表す。
神社や寺院の参道や本殿・本堂などを守護する位置に置かれた阿吽一対の犬
または獅子の形態をした彫刻のことである。
飛鳥時代に仏教と共に渡来した。その源流は古代オリエントの王家を守護する獅子(ライオン)の像であり、西進してギリシア神話の獅子座の思想と合流、東進したものはシルクロードを経由して仏教思想と習合しながら、中国・朝鮮半島を経て日本へと渡ったものと考えられている。日本では、もとは獅子の像として置かれたらしいが、平安時代頃になると獅子と犬の一対、さらに「犬」だけの形へと変化した。ライオンを見たことのない日本人のデザイン感覚が身近な動物である犬をモデルに変容させたものだが、犬が、人間と親しい動物であり、仲間や家族などを守る習生を持つこと、隼人族が犬の吠え声(吠声)を上げて宮廷を守護した習俗なども影響した。
「高麗(こま)犬」とは、高麗の国からやってきた犬とでもいうような意味らしいが、
いつごろ、どのように定着したのかはよくわからない。



写真上が、洲之内徹氏が見た一対の狛犬である。鎌倉~室町頃のものと思われる。
前述のように、仏教の渡来すなわち仏像彫刻とともに流入した獅子・狛犬の文化は、平安時代頃には定着し、やがて鎌倉・戦国時代頃になると八幡神社を主とした神社建築が盛んに行なわれるようになり、その神社を守護する狛犬、武神、守護面などが、建築と同時に制作されたのである。八幡神社や御霊神社は、制圧した先住民の霊を鎮める役割を持ち、先住民の祭祀儀礼はその祭祀の中に取り込まれた。この頃の狛犬は、まだ石彫ではなく、木彫であった。
中世仮面の発生と木製の狛犬の分布は重複している。山地の狩人が、
熊や猪と格闘して死んだ猟犬を「山の神」として祀る習俗なども反映されたかもしれない。

洲之内さんが、二度目に湯布院へ来たのは、放浪の詩人画家・佐藤渓の作品を搬出するためであった。その時、洲之内さんは、古びたものを好む私が見ても驚くほどの、オンボロの、日産ブルーバードを自分で運転し、東京から宇部を経て、はるばる九州まで飛ばしてきたのである。
車体のあちこちがへこんで、マフラーからは黒い煙とスポーツカーのような爆音が轟く車に、斜めに身体を凭せ掛け、タバコの煙を空へ吐き、にやりと笑って、
「どうだね、僕の車も骨董の部類に入るとは思わんかね」
と洲之内さんは出迎えに出た面々に言った。古い、白黒のイタリア映画の一場面を見るようであった。すでに、車内には絵の入った額縁が相当数詰め込まれていた。そのころ提携関係にあった宇部の菊川画廊での企画展で展示替えをし、展示を終えた作品を積み込んで関門海峡を越えたのである。それもまた松田正平の作品など「洲之内コレクション」の逸品だったはずである。

佐藤渓の作品を積み終えた後、洲之内さんは湯布院の町の旧街道沿いの私の店へ立ち寄って下さった。これも思いがけない成り行きであった。洲之内さんが、「絵画」以外のものに目を向けるとは私は思っていなかったのだが、考えてみれば、「気まぐれ美術館」では、円空の仏像や海辺の「墓」のことまで書かれているのだから、そのころ、「骨董」とは一線を画した「古民芸」というジャンルの品を扱っていた私の店は、洲之内さんにとっても興味の範囲外のものではなかったのである。


[がんじいの骨董手控え帖<11>]
絵の見方/洲之内徹氏が見た狛犬(1)

 

突然、一群の男たちが、わが九州民俗仮面美術館に上がりこんできた。
土足であった。
そして、来意も告げずに、これは幾らで売れる、とか、これこれの相場は幾らであるとか、
展示品の値踏みを始めた。さらに、札束で膨らんでいる鞄を示して、貴方の絵を見せて欲しい、
売り物になるものがあれば・・・という意味のことを宣った時、私の怒りが爆発した。
「帰りなさい。君たちに見せるものは何もない」
そこで目覚めた。後味の悪い夢であった。

これに似たことは、湯布院時代に幾度が経験した。
湯布院の湯の坪街道という旧街道沿いの小さな空家を借りて骨董屋をしていた頃、
風邪をひいて寝込んでいる私の枕元までやってきて、身辺にある陶磁器や文房具などを
売ってくれ、という客、資料としてダンボールに入れて保管してある古布や民俗資料、
仮面などを無理やり取り出して、ぜひ譲ってくれと粘る客などが結構いたのである。
これらの客の扱いは難しい。下手に怒鳴り上げて追い返すようなことをすれば、観光地・湯布院の評判を落とすことにつながりかねず、苦情や抗議の電話は観光協会や役場にまで届くのだ。鄭重にお断りし、客の機嫌を損ねないように送り返す技巧は、これらの日々の中で身についていたはずだったのだが、夢の中では、そのような抑制はきかなかったものとみえる。

明け方に見た嫌な感じの夢を思い返しているうちに、
―洲之内さんは良かったなあ・・・
としみじみ思った。
湯布院の佐藤渓という画家の作品を訪ねて洲之内徹氏が湯布院に来たことは前回書いたが、その折、私も絵を見ていただく機会に恵まれたのだ。

銀座の現代画廊の主・洲之内徹氏は、その美術随想「気まぐれ美術館」(月刊誌「藝術新潮」に1974年から1987年までの13年間にわたり連載)で多くの読者を獲得し、コレクター・美術評論家としても際立った発言と行動で当時の美術界に影響を与えた。洲之内氏の一枚の絵に対する向かい方、無名の作家の作品に出会い、その内面や人生までを掘り下げてゆく、真摯な追求の姿勢などが、共感を得たのである。銀座の裏通りにあった現代画廊は、作家やコレクター、美術愛好家であふれ、美術論議が交わされ、タバコの煙とアルコールの匂いとが混交し、熱気に満ちた。

1960年代後半から1970年代前半へかけて、私は郷里の町のアマチュアの絵画グループに所属し、地方美術展や中央の公募展への出品を続けていた。が、「気まぐれ・・・」を10年近く読み込んでいると、そこに書かれている「洲之内徹の絵の見方」「洲之内徹の美術論」と実際に体験している地方美術界のあり方や団体展の仕組みなどはかけ離れていることがわかった。しかも、現場で一気呵成に仕上げる私の情緒的な風景画のごときは、時代遅れの田舎画風として否定され、私は方向を見失った。現場で描いた絵をアトリエに持ち帰り、一度白い絵の具で塗りつぶして再び同じ色調の色を重ねて掘り起こし、画面の抽象化をはかるという、今思えばばかげた労力と手間をかけて絵を「殺して」いたのである。世は抽象画全盛の時代であった。

洲之内さんは、一枚の絵に向かい合った時、黙って、長い時間、その作品を見つめた。鋭い眼光は作品の背後に潜む画家の本質をとらえ、画家の内面や人生にまで達するかのようであった。対峙する、あるいは対話している、という雰囲気が、絵と洲之内さんの周辺に漂った。そして、作品から目を離すと、ほっと小さな息を吐いた。それから、何か大切なものがつむぎ出されるように、「言葉」が出た。それは、後で「気まぐれ・・・」に書かれたり、これまでに読んで親しんでいたりする「洲之内徹の語調」であり、無名作家や埋もれた美術史的作品などを掘り出す瞬間でもあった。

放浪の詩人画家・佐藤渓の作品を押入れの中から取り出し、展覧会の日取りや方針などを確認して、湯布院の町を散策している時、なんとなく、
「君の絵も見よう」
ということになって、洲之内さんは、私のアトリエに立ち寄った。私はその頃、湯布院の町の裏通りで古い床屋だった家を借りて改装し、「由布画廊」と名づけたアトリエにして絵画教室を開き、仲間と絵を描いていたのだが、そこにはちょうど、迷いのさなかで描き続けた展覧会出品のための絵と、故郷の町の「石切場」で働きながらキャンバスを立てて描いた絵、旅先や湯布院の町の風景を描いた絵などがまとめて置かれていた。それらの作品をグループ別に分け、
長い時間をかけて洲之内さんは見つめた。
私は頭の中が真っ白になったような不思議な感覚で、洲之内さんの後ろに立ち、その場に漂う緊張感に耐えていた。
そして、その長い沈黙の時間が過ぎると、洲之内さんは、私の一枚の風景画を指差し、
「これが、高見乾司の本質だよ」
とひと言、言った。それは、雪の降る中にキャンバスを立てて描いた湯布院の町の10号の風景画で、長い入院生活の後、この町で暮らし始めて間がない頃に描いた作品であった。
私には、そのひと言で十分であった。
その後、私は公募展への出品を止め、「人に見せるため」「評価を得るため」
あるいは「あわよくば絵を売って生活すること」などの目的をすべて放棄して、
ただ、旅先での一枚を得るためにだけ絵を描くことを決意したのである。

私の部屋に置かれていた木彫の「狛犬」に目を留め、それが「モダンジャズと犬」という
タイトルで、佐藤渓のことやその頃私が飼っていた猟犬サブのこと、友人の竹工芸家、
故・野之下一幸氏のことなどとともに「気まぐれ美術館」に書かれたのは、洲之内さんが
二度目に湯布院に来た時のことであった。私の絵のことについては、「気まぐれ・・・」
では一度も触れなかった。だから、私は自分の絵とは所詮その程度のものだろう、と理解した。
が、前回書いたように、その一年後、最後に洲之内さんに会った時、
「君も現代画廊で君の絵の展覧会をしてください」
と言っていただいたことが、思いがけず、そしてうれしく、ありがたく、終生の宝物となったのである。


[がんじいの骨董手控え帖<10>]

 洲之内徹氏からの最後の年賀状



桜の花が咲き出したいまごろになって年賀状のことなどを書くのはどうかと思われるが、来年の正月まで待っていると他に書きたい主題がたち現れてきたり、興味が他に移ったりしてついには書かずに終わってしまうおそれがあるから、思い立った今、書いておくこととする。

この年賀状(上記写真)は、昭和62年(1987)の正月のものだから、1986年に開館した「由布院空想の森美術館」の一年目にあたる。そしてこの年の10月に洲之内氏は亡くなっているから、すなわちこれが、洲之内さんからの最後の年賀状なのである。
なにゆえ、いまごろになって遠い昔の一枚の年賀状のことなどについて語りだすかというと、じつは、私は、湯布院の湯の坪街道という当時は鄙びた通りで小さな骨董屋をしていた時代から空想の森美術館の15年を経ておよそ30年分ぐらいの年賀状を大事に保管していたのだが、その中には今となっては骨董的価値が付く高名な作家からのものや大切な人からのものなどが数多く含まれていた。その二千点ほどもあった葉書類が、数年前の長雨で、入れていた葛篭(つづら)ごと黴だらけとなったため、断腸の思いでそれを焚き火に投じたのである。
骨董屋を始めてすぐの頃に田舎の民家で買った愛着のある籠と、年賀状の束が火にくべられた瞬間、わずかな風が巻き起こり、一枚だけ、ひらりと空中を漂いながら舞い落ちてきた葉書がある。拾い上げてみると、それが洲之内氏からの最後の年賀状であった。そしてそれは、黴も付いておらず、汚れも比較的少ないものだったので、私は万感の思いをこめて部屋に持ち帰り、汚れをふき取って机の脇の棚に飾った。



洲之内徹氏が湯布院の町を訪れたのは、1981年のことである。
その時のことを、私は、「回想の現代画廊」刊行会編「州之内徹の風景」(春秋社/1996年)
に書いたので、ちょっと作業が面倒だがここに採録する。

『湯布院の洲之内徹                                            

はじめて洲之内徹氏が湯布院を訪れたのは、1981年の秋のことだった。
その日、山に囲まれた湯布院の里は紅葉の盛りであった。洲之内氏は、
由布岳の中腹の原生林の中ほどにあるひときわあざやかな一本の木を指差しながら、
「あれは何の木だろう、なぜあの木だけがあんなに真っ赤なんだろう」
と不思議がっていたので、私はその日のことを鮮明に覚えているのである。
その時は、洲之内氏は、放浪の詩人画家、佐藤渓の足跡をたずねて湯布院へ来たのであった。
佐藤渓は、中国大陸での戦争体験などを経たあと帰国し、初期の「自由美術」の活動に参加したり宗教団体に出入りしたり、みずから芸術教の教祖と名乗ったり、「箱車」という移動式住居に寝起きして絵を描き続けたりするという、きわめて個性的な行動を示したのち、飄然と放浪の旅に出たのである。そして、旅先で倒れ、当時湯布院にいた家族のもとに引き取られ、その短い生を終える。
 それからおよそ三十年ぐらいの年月が経過するのだが、洲之内氏は、
ある時、麻生三郎氏と会っていて、麻生氏から
「俺は佐藤渓という絵かきの遺作展をしてやるという約束をしておきながら
まだ果たしていないのだ。どうやらその佐藤の遺族が九州の湯布院という町に住んでいて、
かなり纏まった遺作を保管しているということなのだが・・・」
という話を聞いた。それで、
「では、私が行って見てきましょう」
ということになって洲之内氏は湯布院にやって来たのである。
佐藤渓は1994年の「東京駅ステーションギャラリー」での大規模な回顧展の実現、
NHK「日曜美術館」での全国放映などによって、美術史に記録される作家となった。
その経緯や洲之内氏の果たした役割などは、すでに各方面で論じられているので
ここでは述べない。じつは、洲之内氏の湯布院訪問の目的は、佐藤渓の遺作を
見ることのほかにもう一つあったのだ。それは、私(筆者)自身に関する事柄なので、
これまで数人の友人との茶飲み話程度にしか語る機会はなく、そっと胸に秘してきた
ことなのだが、今回、湯布院と洲之内徹との関係における知られざる一面を
語るという名目で(資料的価値はほんとんどないと思われるのだが)公開することにしよう。
その日、洲之内氏は、朝日新聞のOBで現代画廊の常連の早稲田さんという年配の紳士と一緒に湯布院町内のホテルで私を待っていた。二人の部屋は、どういうわけかホテルの新婚さん専用のツインルームになっていて、艶っぽい照明が妖しく室内を染めていた。
それは、当日の宿を手配した佐藤渓の実弟、和雄氏の配慮がどこかで行き違いになって
そういう場面が現出していたのであろうが、なんとも不似合いな情景ではあった。
私と洲之内さんとは、その赤紫色の光に照らされて、少しの間じっと見つめ合っていた。
私はその間、
―似ている。世の中には自分とそっくりな人間が必ず一人はいるものだというが、これがそうなのか。そうだとしたら幸運なことだが、自分もあと三十年もしたらこのような風貌になるのだろうか・・・
というふうなことを考えていた。
洲之内氏は、少時の沈黙の後、
「いや、こういうのを似ているというのだろう。成川君の言ったとおりだ。自分とよく似た人間がもう一人いるということはあまりいい気持ちではないが、この人ならいいよ。了解した」
と言って、同意を求めるように早稲田さんのほうを向き、そして私の顔を見て、にっこり笑った。早稲田さんは二人の顔を見比べ、うんうん、と言いながら、しきりにうなずいていた。
成川雄一氏は、春陽会所属の画家で、洲之内氏の古い友人である。そのことは「気まぐれ美術館」の連載にも書かれた。その成川氏に、洲之内さんが、
「近いうちに九州の湯布院という町に行こうと思っているのだが・・・」
と言うと、成川さんは、
「湯布院へ行ったら高見という人に会うといい。洲之内さん、その人はあなたにそっくりですよ。
体格も顔立ちも、その言動も」
という答えが返ってきたので洲之内さんは驚いたのである。
その時、氏の手元には私(高見)からの手紙があったからである。
その手紙の内容を要約すると、
「自分は『きまぐれ美術館』の連載を愛読し人生のテキストとしている田舎のアマチュア画家だが、『気まぐれ美術館』の連載のなかで、洲之内氏が成川氏の初期の仕事について触れ、あのころが良かった、生川君、あそこまで帰れよ、という意味のことを言っている。しかしこれについては異議を申し立てたい。画家が元の位置へ引き返すことが出来るはずがないと思うのだ、云々」というのものであった。その手紙を面白いと思い、湯布院へ行ったら手紙の主(つまり私のこと)に会うつもりだったのだが、成川氏と私とが知り合いだったとは思いもかけなかったというのである。
成川氏と私とは、その数年前、湯布院で会っていた。写生旅行のため湯布院に来た氏を、私が案内する役目を仰せつかったからであった。私は病気の治療のため湯布院へ来たのが縁で、この町に住み着いたばかりであった。そのころ勤めていた旅館「亀の井別荘」の客として来た成川氏のための接待役という役回りであった(成川氏と湯布院の人々の縁については省略)。そのころは私も現場へ出て風景写生を重ねていたから、成川氏と私はさしずめ旅の画家と画学生とでもいうような絶妙のコンビネーションとなった。だが、氏はそのころは深刻なスランプに悩んでいて、私も下手なりの悩みを抱えていた。成川氏は、懸命に筆を走らせながら、
「描き続けること、描き続けること。それしか脱出する方法はない・・・」
と、私にも、自分自身にも言い聞かせるようにつぶやき続けるのであった。
私はその真摯な制作態度に深く感銘を受けていたから、前記のような手紙を洲之内さんに出したのだったが、まさか、それが氏の目に止まるなどとは夢にも考えていなかった。だから、初対面の夜、洲之内氏がポケットからその手紙を取り出し、
「貴方とはこの手紙に書かれていることについて話をしたいと思っている・・・」
と切り出された時の驚きは形容しようがない。「気まぐれ美術館」は遠い世界のできごとで、洲之内氏は雲の上の人だと思っていた私にとって当の本人と会っているということだけで、すでに夢の中にいるようなふわふわした状態だったのであるから。
けれどもその夜は佐藤渓のことへ話題が移行し、翌日は佐藤の作品を見、洲之内氏は次第に佐藤渓の世界へ没頭していったから、手紙の件については話す機会がなかった。
次の日、佐藤の絵を見た。前日の好天は一変して、雨の降る暗い日であった。古い民家の押入れの中から取り出された作品を私が受け取り、洲之内氏へと手渡した。氏は言葉もなくそれらを見入っていたが、作品が持つ暗さと雨の音とが混交し、部屋は一種異様な雰囲気に支配された。それが、洲之内氏と佐藤渓、そして湯布院との出会いの最初のシーンであった。
その日の夕刻、洲之内氏は四国へと渡り、高知県中村市在住の画家・田村裕典氏(「骨」などの作品で気まぐれ美術館に登場)のアトリエに立ち寄り、東京へと帰ったはずだ。
洲之内さん愛用の皮のショルダーバッグに、佐藤渓の作品が十点ほど入れられていた。
連載「気まぐれ美術館」に佐藤渓が登場したのはその直後のことで、
現代画廊での「佐藤渓遺作展」の実現はその一年後のことであった。』



長い引用となったが、私は昔話がしたいわけではない。この一年後に開催された現代画廊での佐藤渓遺作展で、私は佐藤渓の作品12点を買い込んだ。由布院空想の森美術館の設立準備資金がそれに当てられ、佐藤の絵は散逸しないで遺作展も開催され、湯布院へ持ち帰れるという遺族・現代画廊・私の三者の思惑が一致したのである。
その佐藤渓遺作展の折、洲之内さんの大森のアパートへ泊めてもらうという幸運に恵まれたことなどは、このブログで連載し、「森の空想ミュージアム」のホームページにファィルした。
洲之内徹氏と現代画廊のことについてはインターネット検索等で
すぐに探せるのでそちらを参照してください。

その佐藤渓遺作展の最終日、現代画廊を出て旧式の手動式エレベーターに乗ったのは、
なぜか洲之内さんと私の二人だけだった。
「みんな、どこへ消えたのだろう・・・」
と洲之内さんは不思議そうな顔をした。が、気を取り直したふうに、
「スエヒロで焼肉でも食って別れよう」
と私を誘って、銀座の焼肉屋に入った。その有名な店の肉は、由布岳の草原を歩き回った黒牛を食べ慣れた者としては少々物言いを付けたい程度のものだったが、別れ際に洲之内さんが言った二つのことは、私を驚かせる内容のものだった。
その一つ。
「僕もねえ、あとどれだけ生きられるかわからないから、コレクションの行き場を探しているんだよ。君の空想の森美術館が出来上がったら預けてもいいよ」
もうひとつ。
「それとね、君も現代画廊で君の絵の展覧会をしてください」

この二つは、かなえられない夢として終わったが、今も私の心の中に大切な宝物として蔵われているのである。私の絵と洲之内さんの言葉、「モダンジャズと犬」というタイトルで「きまぐれ・・・」に書かれた狛犬のことなどは、いつかまた書きたいと思う。
その後、佐藤渓の遺作を収集し、展示した「由布院美術館」が誕生し、空想の森美術館と両輪で「由布院アート」と呼ばれた時代を牽引したが、この三月、その由布院美術館も閉館するという。また一つ、時代が変転した。



*カットはいずれも現代画廊の佐藤渓遺作展で購入し、由布院空想の森美術館の壁面を飾った佐藤渓作品。現在は由布院美術館=別府潮聴閣所蔵。東京駅ステーションギャラリーでの佐藤渓回顧展図録から。

付記
落ちた天井のこと

洲之内徹氏からの最後の年賀状のことを数年ぶりで思い出したのは、今年の春の長雨による雨漏りにより、もともと老朽化していた天井板が腐り、一部が落ち始めたからである。剥落し、落下した天井板の断片と天井とを見比べていた時、机の脇の棚に飾ったままになっていた洲之内徹氏からの年賀状が、目に止まったのである。それで、前回のような文を書いた。続けて書きたいことがあるが、今日は、遼太郎君が来てくれて、朝から天井板剥がしをした。小学校に上がる前から我が家に出入りし、五年生の夏からヤマメ釣りに同行して鍛えてきた彼は、この春、高校二年生になり、すでにたくましい若者に成長しており、十分に頼りになる。
一気にベニヤの天井板を剥がしてしまうと、太い梁と天井裏が見え、またしても、私の頭は古民家再生モードとなったのである。このことはいずれまた報告することとして、今日は今から遼太郎君と一ツ瀬川上流へ向かう。山桜咲くヤマメの谷に入るのである。さて、釣果は・・・?

もうひとつ付記
初ヤマメ



昨日の釣果がんじい4匹、遼太郎2匹。
今日の釣果遼太郎2匹、がんじいゼロ。
今、山から帰ったばかりなので、
釣れた話や釣れなかった話(本当はこちらのほうが面白い)、



初ヤマメを食べた夜

3月28日が、今年の私のヤマメ釣りの初日であった。なぜ、解禁日の3月1日に釣らず、3月20日以後の山桜の咲き始める頃を自分の解禁日と設定しているかについては、次の機会に述べるとして、今回は、遼太郎君との釣行の夜の食事のことを記録しておく。
この日、西米良村小川川の両岸には、山桜の花が咲き、時折、花びらが水流を飾っていた。釣りの詳細は省く。
釣果は、遼太郎2匹、がんじい4匹。この季節にしては少ない。
釣れない原因(すなわち言い訳)も省く。
その夜は、私が通い続けている西米良村・おがわ作小屋村のコテージに泊まる予定にしていたのだが、自炊の食料は、おにぎりとカップラーメンと塩と砂糖だけしか用意していなかった(非常食としてのバナナとソーセージに手を付けてはいけない)。ゆえに、釣果がなければ、とても侘しい夕食となるのだ。二人合わせて6匹ならば、まずまずというべきであろう。
さて、ここからが遼太郎の出番である。小学五年生の時から渓に入り、一緒に釣り歩いてきた彼は、もう釣技は一人前だし、とりわけ、料理に非凡な才を持つ。



釣れたヤマメは、釣り上げた直後、後頭部をナイフでぐさりと刺し、とどめをさしておく。そして川から上がる前に腹を裂き、内臓を水流に戻して、塩を少量、振っておく。川辺の道を歩き下りながら、野生化した菜の花を摘む。次に、姥百合の新芽が目に付いたので、球根をいただく。
さらに、崖から沁み出ている水が育てたクレソンを少々。
調理場に入ると遼太郎は俄然、精彩を放つ。まずは、ヤマメをぶつ切りにして、鍋へ。10分ほど沸騰させると、ヤマメの塩気と旨みが溶け出し、小葱を刻み込んで塩で味を調えれば、
それだけで極上のスープとなる。が、今夜は味噌味を選択。
菜の花と百合根を刻み、クレソンは、軽く茹でておひたしにしておき、その一部を味噌汁の具に使う。ヤマメの味噌汁の完成である。まずは、この味噌汁を一椀キープし、さらにここから遼太郎の一工夫