ゆふいんの歴史と自然を知ろう
 (百聞は一見にしかず)           講師 志手駒男
                                                    

由布耕地整理記念碑白滝川の流路変更と城橋両筑往還(りょうちくおうかん)◎佛 山 寺
天祖神社と金鱗湖耶馬溪青の洞門を掘った禅海得度の寺龍雲山興禅院天・地・人一体化の由布岳
宇奈岐日女神社挾間鎮秀の墓並柳のキリシタン墓地
若宮八幡宮利生山佛光寺旧日野病院蹴裂(けさき)権現社大杵社(おおごしゃ)と大杉
九州の役と由布院大友本隊由布城入城、島津本隊の撤退山頭火と湯平温泉
塚 原 年 表 ◎塚原の甘酒祭(町指定・無形民族資料)由布「新四国八十八ヶ所」
 

 
由布耕地整理記念碑

 玖珠地方では昔、ズボラ(怠け者)の農家の2、3男に対し、おやじさんは「お前は、裸でイガ (柚・梅)の木に登るか、由布院の農家に養子に行くのが良いか。」と云う話があったくらい、由布院の水田は湿田で牛馬の耕起もできない所もあり、蛭(ヒル)に吸われ、能率も悪く、収量も低く、品質も悪く大変な所でした。

 明治45年(1912年)時の大分県農務課長、衛藤一六は、実兄の北由布村村長、溝口由三郎と相談し、耕地整理の必要性を村人に説明し、今の自衛隊から 並柳にかけて、当時、大分県下で最大規模の耕地整理、排水工事が約53町8反(約54ha)が実施された。この工事の第一記念碑は乙丸集落の字上田中の大 岩の上に建立されています。


 また、大正2年(1913年)には乙丸集落の約20町歩の水田の耕地整理、排水工事が衛藤一六、溝口由三郎兄弟、荒木虎彦、梅尾安太郎などの雄姿によっ て完成しました。この工事の第ニ記念碑は町民福祉センターの南側にあります。この第一、第二の耕地整理により、能率も収量も上がり、品質も良くなりまし た。
モドル

白滝川の流路変更と城橋  

 昭和30年(1955年)由布院町と湯平村が合併し、湯布院町となり、初代町長に岩男頴一氏が就 任しました。このこ頃乙丸中心部を流れていた白滝川は、度々の洪水で川床が高くなり、水害の危険にさらされていました。そのため白滝川の流路変更が県費で 3ヶ年計画で実施され、昭和34年5月に完成しました。それまで城橋の長さは4m位の木橋であったが、いまでは37mで約9倍以上のコンクリート橋になり ました。また、町は日出生台演習補償工事で全国にも例をみない膨大な予算で河川、道路、水路、若杉ダム建設を行い、今の町の基盤が出来上がりました。白滝 川の跡は乙丸一の下郡氏の横から上千年橋、商工会前を通り、平成通り、ことぶき花の庄前、ホテル山水館、御幸橋まで続いている道路となっています。その当 時の水の流れる方向を知るには、花輪水路にその面影を見ることができます。

倒映湖の地図

御幸橋から由布岳を望む
 
両筑往還(りょうちくおうかん)

 大分県で最も古い記録「豊後風土記」は天平5年(733年)に完成されましたその中に豊後の駅(うまや)は9ヶ所あり、由布駅もあります。駅がある以上、道があり、由布院は国府(南大分)から大宰府に通じる両筑往還が通っていた訳です。

 両筑往還は、明治21年(1888年)廃道になるまでの1155年間あった訳です。現在、往還の道幅を広くして使用されているところは、佛山寺の前、岳 本付近、佐土原、並柳、若杉の各集落にあります。現在はこの道は1266年も使用されている事になります。広瀬淡窓(日田市出身)もうり毛利空桑(儒学 者)も通ったと思うと感慨深いものがあります。


 由布駅はどこに有ったか、諸説はありますが、岳本集落の字西川(岳本、カシオ保養所奥近く)にあったと思います。道しるべは、町中央公民館入口左側に移転し、設置されています。
モドル

佛 山 寺

 佛山寺は今より約一千年前の正暦年間(西暦990年頃)一条天皇の御代、性空上人、九州巡錫途次 霧島神社に参籠するに御神宣あって、その御つげにより由布岳の山腹にて庵を結びその地の石にて観音像を刻して祀ったのが始めと伝えられる。以来由布の霊場 の本拠地としてきたが慶長年間にこの地方を襲った大地震により打撃を被ったため麓の地(現在の地)に伽藍を移し、新たに臨済宗(禅宗)の寺院として再出発 した。臨済宗妙心寺派の寺院である。町内では一番古い寺です。性空上人が自ら刻した由布霊山観世音菩薩は里人をはじめ多くの人々に信仰され、秘仏として三 十三年に一度ご開帳されましたので、次は平成33年になります。

 鐘楼は元禄4年(1691年)に建てられたと言われ、今から308年前で、町内の建物では一番古い建物と見られます。町内には、寺は18寺あり、浄土真 宗本願寺派が8寺、真宗大谷派が5寺、臨済宗が3寺、曹洞宗集が2寺で、真宗は13寺、禅宗は5寺がある事になります。明暦の頃(1655〜1657)に 臨済宗として万寿寺(大分市)に改宗して新しく出発しています。


 一字一石塔は寛保元年(1741年)に建てられ、小さな石にお経の字を一字づつ書いて埋めています。

 六地蔵にはいろいろな型がり、県指定の佛光寺(町内荒木)は六面幢六地蔵ですが、佛山寺は、船型浮彫別石六地蔵です。六地蔵は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上を救う六道を救済するものです。

 庚申(こうしん)塔は、人の体内にいる虫が60日目の庚申の夜、天に上ってその人の罪を天帝に告げるため、命を縮めるという中国の道教の教えであり、庚 申の夜は村民は眠らず信仰行事しました。これは青面金剛(しょうめんこんごう)で「見ざる、聞かざる、言わざる」が彫られています。

 宝きょ印塔、宝きょ印陀羅尼経を納めた供養塔は、天明5年(1785年)に建てられています。

 由布八十ケ所の弘法大師堂は、文政6年(1823年)に建てられています。


 鐘楼の右側には、天保7年(1836年)金毘羅宮が祭られ、神仏習合の寺でした。また、本堂の裏に大分合同新聞社の短歌の選者、淺利良道先生の歌が刻ま れた墓が、「この郷を かこみてよろふ 高山も低山も なべて雪降りつもる」昭和55年4月に建てられました。昭和63年NHKドラマ、山頭火のロケが佛 山寺で行われ、足利宗彦和尚が山頭火に扮して出演しました。

 
 平成6年12月15日本堂(茅葺)は火災で全焼しました。しかし、信者の人々により立派な本堂が再建されました。
 なお、毎月十七日観音講のおまつりが修されている。モドル

 
天祖神社と金鱗湖

 天祖神社の祭神は、神楽で大蛇退治をする素戔鳴男命(すさのうのみこと)他三神の皇祖が祭られています。
 鳥居は、天保7年(1836年)建てられ、境内に別府観光の恩人油屋熊八が燈篭を寄進していますが、年代は大正の終わり頃、湯布院に亀の井別荘を建てた頃だと思います。
 もう一つの鳥居は、金毘羅宮の鳥居で佛山寺にありました。明治になって神と佛を分離する「令」が出されたため、金毘羅宮は天祖神社に合祀され、鳥居は湖の中に建てられたのです。鳥居の柱に天保7年第九世、荊道玄茂和尚と刻まれています。

 神社の境内の石垣の間からこんこんと清水が湧き金鱗湖に流れ込んでいます。金鱗湖は、秀峰由布岳の真下にあり、裏山のコナラ原生林が湖面に写り、豊富な 水の流れと魚、小鳥のさえずり、山と水と生物の「自然生態公園」です。空飛ぶ宝石とも言われる翡翠(かわせみ)も見られます。明治の始め頃までは、岳本の 村人は「岳本の池」と呼んでいたのを、幕末、勤皇家で儒学者毛利空桑が、人工で作った池ではない自然の湖であり、鮒が飛び跳ね、夕日に映えたのを見て「金 鱗湖」と名ずけました。


 油屋熊八は、多くの文人、賓客、有名人を多く由布院に連れて来ました。その人物のエピソードをあげますと、昭和6、7年に与謝野 寛と妻晶子(あきこ) が亀の井別荘に泊り「山影の 池青くして 片岸に 白き裏葉 かへす銀柳 与謝野 寛」この柳は、天祖神社の南側の柳は大木となって樹齢80年位になって います。寛の妻晶子は髢(カツラ)を脱いで風呂に入っていたという話も残っています。また、大正の終わり頃、熊八は自分の手が大きいもで、全国巨掌大会と いう奇技な発想によるイベントを由布院で催し、小説「瞼の母」 の長谷川 伸も大会に出席しました。どこか現在の「牛喰い絶叫大会」などのイベントに似て いるようです。


 最近、大分大学名誉教授川西 博先生が4年間かけて、降った雨がどのようにして金鱗湖に流れ込むか「水文学」の調査をされました。


 金鱗湖からの水は年平均1日当たり、23,300トンの流出量があり、内容を調べると、流れ込みと湖底(釜)からの湧水である事が解りました。ハエ川な どの流れ込みの水量は、降った雨によって影響されるが、湖底から涌水量はほとんど差はなく、一定しており水量は、ハエ川よりやや多いことが解りました。


 水温は、ハエ川上流で38度、湖底の釜の湧水は15度と低く、湖面、水温が高く、深くなるに従って水温は低く、丁度、風呂の上湯が走ったような状況です。湖の水は1日に
2.2回入れ替わるため清らかであるという貴重な発表をされました。


 金鱗湖の水は、毛利空桑が由布岳の恩賜の湖と言っている通りで、水を見て山の大切さを忘れてはなりません。


 山の公益効果は、@水源涵養A土砂崩壊防止B保健休養C野生鳥獣保護D酸素供給で、金に換算すると膨大なものです。まさに、道元禅師の言われるごとく「人と山と水は三者即一なり」の通りです。

*コナラ原生林は、森林の主木コナラの下には常緑のユズリハ,シキミ、ヤブニッキ、ツバキが 8m程の高さで面積の60%を覆い、林床にはアオキが2mに達して30%を覆っています。太陽光線が地表まで届かないため、野草はほとんど生えていませ ん。植物学者の意見によると、この森林一体はおよそ300年位前に何等かの理由で一度立木が全滅し、その後再び自然発生したものが斧を入れないままに今日 に至っているもので、真の原生林になる一歩手前の状態を示しているとの事です。昭和36年に県指定の天然記念物に指定されています。モドル
   

耶馬溪青の洞門を掘った禅海得度の寺龍雲山興禅院

 寺の開山は、室町時代の健徳元年(1370)鶴見岳の麓、会(えし)下(別府市南立石)に無著禅師が開いた寺で、文明元年(1469)この地に移され、その後29の末寺がありました。

 慶長元年(1596)大地震で寺は倒壊しましたが、同5年領主、細川忠興により再建されました。また、寺は3回火災に会いました。文政元年(1818) 火災で焼けましたが、同7年本堂上棟、明治3年(1870)火災、同13年再建、昭和48年(1973)火災、同49年再建されました。

 菊池 寛の「恩恵の彼方に」で青の洞門を掘った禅海の得度の寺として有名になりました。禅海が得度した寺には,諸説がありましたが、禅海の直筆と兄弟子本寺の24世、大安海翁大和尚の書物で、この寺での得度が明確になりました。

 この寺で古いものは

@板碑、不動明王の梵字(ぼんじ)です。カーンと言います。梵字は古代インドの文字で仏教上の権威のある象徴として梵字が刻まれています。不動明王は四国八十八ヶ所の内3ヶ寺にあります。右手に釖、左手に数珠を持ち、恐ろしい形相をしています。

A「宝篋(きょ)印塔」は、宝篋印陀羅尼経を納めた供養塔で、塔の四面に梵字が掘られています。年代は不明ですが、本寺では一番古いものです。


B法華千部供養塔は、寛政12年庚申(1800)に 建てられています。


C宝篋印塔は、文政8年乙酉(1825)に建てられています。


D弘法大師像、由布八十八ヶ所第一番は明治36年(1903)に建立されています。これは文政6年(1823)佛山寺五代和尚が由布院郷内に弘法太師像、八十八ヶ所を最初に建立したものを再建させるために作られたものです。


E舟形浮彫り別石六地蔵があります。六地蔵は種類が多く、六面撓幢(とう)六地蔵、一石六地蔵、一石二段六地蔵等があります。


F不許葷酒入山門G仁王像、十三仏石像は昭和34年建立されました。

 
 

モドル

天・地・人一体化の由布岳

秀峰由布岳は、今から10万年〜2万年ぐらいに何回かの噴火によってできた山で、周囲を囲む山々より新しいものです。

大分県で最も古い記録は今から約1300年前の「豊後風土記」(天平五年)「栲の樹多くその皮で木綿を造り、これに因りて柚富の峰、柚富郷と言う」とあ り、「万葉集」天平宝宇3年(759)以前の歌集では、.大分県下は24首あり、内4首は由布岳を詠んでいます。

未通女らが 放りの髪を木綿の山 雲なたなびき 家のあたり見む

等、万葉集碑の四首とも町内に建立されています。万葉人も由布岳に詩情を湧かせたのでしょう。

 弘化元年(1844)と翌年、豊後の三賢の一人、広瀬淡窓は府内藩(大分)に招かれ、藩士に漢学 を教えています。その途中、桑屋の日野家と並柳の溝口家に泊り、由布岳など6首の漢詩を詠んでいます。日記に今度の府内行きで一番嬉しかったのは、天下の 名山、由布岳を見たことであると書いています。

 昭和5年、酒と旅と句作に生きた山頭火が由布院を訪れ、「由布岳はいい山だ 巌かと久しさをもっている 登りたいなと思う」と書いています。

 地域には、地名や山々に関していろいろな伝説がありますが、由布岳も同じようにあります。「由布 岳と久住山との妻争い」「腰をぬかせた日向岳」「源為朝の大蛇退治」「八丁礫(つぶて)の紀平治と源為朝の出会い」「へべ山・蛇が人間に化けた話」「猟師 の腕比べ」「種苗を食った鹿 頸の峯」「飯盛ケ城」などです。

 山の樹木、湿原の公益機能は莫大で、水源涵養、土砂流失崩壊防止、保健休養、野生鳥獣保護、酸素供給があります。毛利空桑の日記に「春 山桜、夏 新 緑、秋 紅葉、冬 積雪、四賞極妙 是皆嶽之恩賜」に書いています。また、道元禅師は、「人と山と水は三者即一なり」と言っていますが、まさにそのとおり です。


 また、由布山中には「コナラ原生林」があります。原生林は森林の主木コナラの下には常緑樹のユズリハ、シキミ、ヤブニッケ、ツバキが8m程の高さで面積 の60%を覆い、林床にはアオキが2mに達して30%を覆っています。太陽光線が地表まで届かないため、野草はほとんど生えていません。植物学者の意見に よると、この森林はおよそ300年位前に何等かの理由で一度立木が全滅し、その後再び自然発生したものが、斧を入れないままに今日に至っているもので、真 の原生林になる一歩手前の状態を示しているとの事です。昭和36年に県指定の天然記念物に指定されています。


 由布岳が輝くことがありますが、毎年5月19日午前6時45分頃(曇り、雨天の場合は前後2〜3日)に並柳天満宮の南より見ますと由布岳の頂上にちょうどダイヤモンドが輝いて見えると志手駒男氏が教えてくれました。
モドル

 シンボル豊後富士(由布岳)の見える風景等

宇奈岐日女神社

嘉祥2年(849)宇奈岐比口羊神社は、従五位に授けれれた豊後国内では古い五社?の一社で式内社です。宇奈岐日女神社の社名は、比口羊、比目、日女、六所権現ですがそのほか ? 首にかけた勾玉 ?鰻の媛 ?朝鮮語でウナギは池の主 ?山岳信仰での性空上人(佛山寺)との神仏習合から六所宮 ?宇奈岐、宇宙の風波をあさめる比目(眼目および所の分明)の神徳。など社名の由来に学者の間に多く説があります。

六所権現ともよばれるようになったのは、康保元年(964)頃、性空上人が由布岳中腹で修行し、山岳仏教と宇奈岐日女神社が神仏習合となり、寛延3年 (1705)仏教的色彩は一掃され、景行天皇の御西征伝説と結びついて来ます。六所宮と佛山寺の関係は、境内にある一字一石塔元禄6年(1693)建立に よりわかります。


神社は慶長元年(1596)の大地震により倒壊しましたが、同5年(1600)領主細川忠興により興禅院は復興されたが、式内社の宇奈岐日女神社はそのままで、それより105年後の宝永2年(1705)になり社殿が造営されました。


神社の周辺には、神木が林立していますが、天正11年(1583)柞原八幡宮の造営に献上していますが、宮の造営や修理のも使われています。まt、公共の寄付として、昭和22年(1947)中学校の新築に寄付、同33年参宮道路工事に寄付をしています。

六所宮の社叢は貴重な文化遺産です。しかし、 台風による倒木、落雷などにより社務運営上やむない理由で伐採されています。被害が大きかったのは、平成3年9月27日に襲来した台風19号による被害は 激甚な被害でした。志手駒男氏は台風後約2ヶ月間にわたり倒木調査をおこないっています。境内の神木は総本数251本あり、倒木による伐採144本で半分 以上、倒れた方向はほとんど東側、一番の大木は目通し幹囲6.5m、樹高52m、樹齢420年 年代は,天正時代前で慶長元年の大地震の時は、樹齢25年 位であったことがわかります。モドル

挾間鎮秀の墓

 天正14年(1586)鹿児島の島津軍は10月 日向方面、肥後方面から豊後に侵入しました。
肥後方面からは,島津義弘の軍勢が岡城(竹田市)を攻めたが、落城させることができず、大分郡に入り、船ヶ尾城・松ヶ尾城(庄内町)を落し、挾間鎮秀の権現獄城(庄内町)を攻め、挾間軍は、良く戦ったが、衆寡適せず人質を取り交わして和を結んでいます。モドル
 
 

並柳のキリシタン墓地

湯布院町のキリシタン墓地は県下で最も多く、江戸時代は隠れキリシタンの里でした。
1. 由布院キリシタンの起こり。
由布院キリシタン史については、故阿武 豊氏の貴重な研究発表があります。
天正年間(1573年以降)由布院一番の豪族は、奴留湯氏で湯山城(大字川南石松)
の城主であり大友氏の一族でした。
 天正6年(1578年)大友宗麟は大軍を率い、日向の高城で島津軍と戦い、大敗しました。その時、由布院の奴留湯左馬助も一族と大友軍に加わって参戦し、九死に一生を得て帰国し、宗麟の勧めにより天正7年頃にキリシタンに入信しました。

2. 湯布院キリシタン全盛時代
左馬助はキリシタンに入信した翌天正8年、田北紹鉄討伐の帰路に、直野内山(庄内)
の浄水寺を焼いたり、宇奈岐日女神神社の宝物を紛失するなどの乱暴も奴留湯氏であろうとされています。
天正9年には、宣教師カブラル、修道士ビセンテも由布院に到着し、由布院の他の3人の豪族も入信し、宗麟が由布院を訪問するや村人も続々と入信し、天正13年には宇奈岐日女神神社の神体である由布山頂に十字架が建てられ、同14年初め由布院に聖ミゲル教会が完成しました。
 キリシタンの全盛時代は、奴留湯左馬助が入信し、教会が建てられた頃、までの約7年間でした。
 では、全盛時代のキリシタン信者数はどのくらいだったかといいますと、阿武氏は、慶長19年(1614年)転び證文(キリシタンを捨て、仏教を信じますということ)
などの諸資料から、由布院の人口は約2,800人、転宗者は約850人、信者数は約30%程度と推定しています。

3. 島津軍の教会破戒と大友宗麟の死亡
由布院に立派な教会が完成した天正14年12月、薩摩の島津軍が豊後に進入し、由布院も島津軍に蹂躙され、建てたばかりの教会堂も破壊され、宣教師は宇佐郡妙見(安心院町)に避難しました。
 翌15年(1587年)3月11日、島津軍討伐の ため、豊臣秀長(秀吉の弟)の先鋒隊、黒田官兵衛軍と大友義統の大軍が、湯布城(湯山寨と小原寨「六所の南側」一帯とみられる)に着陣したため、野上城に あった島津義弘軍は撤退し、豊臣秀長の本体,約10万の大軍も由布城に着き、島津軍を追撃し、島津軍はついに秀長に降伏、島津征伐が終了した頃、大友宗麟 が死亡し、筑前箱崎に滞在していた豊臣秀吉は突如としてキリシタン追放令を出しました。

4. 大友義統の豊後国降国と豪族の離散
大友と島津との戦いが終わって5年目、文禄 (1592年)から慶長3年(1598年)豊臣秀吉が起こした明、朝鮮との戦争は、秀吉の死亡により日本軍は、撤退しました。この戦いで大友義統は、敵前 逃避ということで、文禄2年(1593年)5月に改易となり、山口に幽閉され、由布院の豪族で最初にキリシタン信者となった奴留湯氏一族は離散し、一部は 肥後小国に落ち、他の豪族も離散し、残った豪族も帰農しました。

5. 細川忠興の支配下転び證文提出
慶長4年(1599年)由布院は細川忠興が領主とな りました。翌9月13日帰国した大友義統の旗揚げにより石垣原(別府市)で杵築城主の松井康之、中津城主黒田考高軍と大友軍は戦い、由布院の武士は大友軍 に加わりましたが、敗戦(関ケ原合戦は9月15日)して並柳村の溝口康重、乙丸村の衞藤又蔵、石丸村の田中清蔵の3人は、捕らえられ、杵築城内で首を打た れました。
 細川忠興は、石垣原合戦以降、キリシタン信仰に対 し保護政策を続けていたようだが、徳川幕府のキリシタン禁教令が発布されると、慶長19年(1614年)にはキリシタン信仰を捨て、仏教へ転宗する「ころ び證文」を提出させました。この時の手永(大庄屋)は、並柳村ほか5ヶ村は、並柳村の溝口勘左衛門。乙丸村ほか6ヶ村は、乙丸村の衞藤市左衛門。石丸村ほ か9ヶ村は、石丸村の田中次郎衛門で、この3家は、石垣原合戦後に杵築城内で首を打たれた3人の家でした。

6. 十字墓はいつ頃までのものか。
キリシタンの墓には十字墓と伏墓があります。
十字墓は、いつ頃までに造られたかと言いますと、キ リシタン布教時代からキリシタン禁教取締が厳しくなるまでの時代と推定されます。町内で発見されている十字墓は、86基(内49基は県史跡に指定されてい ます)あり県下の市町村別では群れを抜いて多いです。十字墓を町内別にみると、並柳集落(山石原、若杉を含む)69基、光永集落13基、計82基で、町内 の90%を占めています。並柳、光永集落は、慶長19年「ころび證文」提出時、手永(大庄屋)は溝口勘左衛門であったことは注目すべきです。
「ころび證文」の転宗と十字墓の関係をみますと、石 松村の転宗者245人み対して、十字墓は1基も発見されてなく、並柳村は転宗者19人に対し、十字墓は69基、光永村は転宗者15人に対し、十字墓は13 基あり、十字墓数と転宗者数との相関性はまったく見られなく、その原因はどこkにあるのでしょうか。
 石松村は天正年間、奴留湯左馬介支配の地元であり キリシタン信者が多く、興禅院という古い寺院もあり「ころび證文」提出後にきびしいキリシタン禁制が守られ、十字墓はことごとく破壊されたと見られ、一方 並柳村は、後で説明しますように隠れキリシタンの墓とみられる伏墓も多いことから、十字墓は司直の目をのがれるため、地下に埋められたが、後世になって掘 り出されたものとみられます。
十字墓の年代はいつ頃までのものか。それは「ころび證文」を提出した慶長19年頃までのキリシタン信者の墓で、天正年間より約30年間のものと推定されます。モドル

このページのご感想やご意見などはこちらにおよせください。