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| 河内長野市は,大阪府の南東端に位置し、東は金剛山地で奈良県、 南は和泉山脈で和歌山県に接し、大阪府では3番目に広い面積です が、その70%までが山林地帯です。昭和29年に長野町、三日市 村など6ヵ町村が合併し、大阪府内17番目の市として誕生しまし た。現在緑豊かな環境を生かした住宅都市としても発展してきてい ます。 電車は、大阪市内から南海高野線及び近鉄長野線が通じてお り、道路は、国道310号線から国道26号線を経由して大阪市内 に通じています。また、国道170号線(大阪外環状線)が市を貫 通しており、八尾市・東大阪市へ、国道309号線を経由して大阪 市へ通じ、関西新空港へは1時間以内で行くことができます。 |
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| 観 心 寺 | 延 命 寺 | 加賀田神社 | 金 剛 寺 | 長 野 神 社 |
| 烏帽子形八幡 | 高 向 神 社 | 岩 湧 寺 | 流谷八幡神社 | 蟹 井 神 社 |
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| 近畿日本鉄道長野線の『河内長野駅』と南海電鉄高野線の『河内長野駅』を起点とする 名所旧跡をご紹介します。(両駅は駅舎は共通です。)河内長野市はかなり市域が広く、見 所が点々と散らばっています。何回かに分ければ徒歩で全てを見て回ることも可能ですが、 かなりの距離になる場合が多いので、バスと徒歩を組み合わせることをお勧めします。今回 は、一日で廻ることは困難なので、三日に分けて廻りました。 |
【一 日 目】一日目は、近畿日本鉄道長野線と南海電鉄高野線の『河内長野駅』(同じ駅です)を起点に、 |
| 観心寺は、『河内長野駅』の東南に位置しています。駅から3.5kmと離れている ので、『河内長野駅』から南海バスを利用すると楽に行けます。この路線のバスの便は 、7時台〜10時台は1時間1本、11時以降は1時間2本しかありません。 徒歩では、『河内長野駅』の南側の踏切を渡り、左折して少し行くと『国道310号 線』へ出ます。ここを右折して、緩い上り勾配を道なりに進むと、自然に観心寺へ到着 します。 観心寺は、奈良時代前期、文武天皇の大宝元年(701年)に、修験道の開祖役行者 (役小角)によって創建された『雲心寺』がその始まりだと伝えられています。しかし、 『雲心寺』は、承和4年(837年)に著された『観心寺縁起實録帳』に、「改雲心寺 号観心寺」とあるそうですが、『雲心寺』当時の規模や内容などは、全く分かっていな いということです。寺伝によると、弘法大師空海が大同3年(808年)ここを訪れた とき、北斗七星を勧請したそうですが、弘仁6年(815年)に再度訪れた際、本尊の 『七星如意輪観世音菩薩』を刻み、寺号を観心寺と改めたとされています。境内には、 北斗七星を勧請した七つの塚(星塚)がありますが、北斗七星を祀るのは、日本中でこ こ観心寺だけだそうです。 観心寺の本格的な伽藍建設は、淳和天皇の命を受けた道興大師実恵(どうこうたいし じちえ=空海の高弟)が、弟子真紹(しんしょう)とともに、天長4年(827年)に 造営に着手、十数年かけて完成させたものとされており、観心寺の実質的開祖は道興大 師だといわれているということです。当時の建物は、現在ほとんど残っていないという ことですが、元慶7年(883年)の『観心寺勘録縁起資財帳』に、寺領、伽藍・堂舎 について記載があることから、その内容は詳細に分かっているのだそうです。 現在の金堂は、大阪府下最古の国宝建造物であり、単層入母屋造、和様・禅宗様・大 仏様の折衷様式の代表的な遺構といわれています。建武中興の後に後醍醐天皇が楠木正 成を奉行として造営したと伝えられており、国宝に指定されています。また、境内の鎮 守堂(訶梨帝母天堂)は、一間社春日造檜皮葺で、後村上天皇が楠木正行を奉行として 再興したものといわれ、国の重要文化財に指定されています。 観心寺には本尊如意輪観世音菩薩(国宝)をはじめ、国宝3件と約40件250点も の多数の重要文化財が所蔵されているといわれています。重要文化財の一部は、境内に ある『霊宝館』に展示されており、自由に見せて貰えます。特別の入館料は必要ありま せん。 また、境内にある茅葺の『建掛塔(たてかけのとう)』は、楠木正成が本来三重塔と して建立する計画を立てたのだそうですが、正成が湊川で討死したため、未完成のまま 残されたものだといわれており、国の重要文化財に指定されています。文字通り建かけ のため建物と屋根の有り様が珍しく、変わっています。 なお、観心寺境内にあったと伝わる旧惣持院は、後村上天皇の行在所になっていたそ うで、その跡に史跡碑が建っています。後村上天皇は後醍醐天皇の皇子で、住吉大社で 没した後、寺域の小高いところに『桧尾(ひのお)陵』が造られたのだそうです。その 他境内には、『新待賢門院(しんたいけんもんいん)墓』がありますが、後村上天皇の 母である『阿野廉子(あのれんし)』の墓と伝えられています。 ※楠木正成と観心寺 南河内地方は河内源氏発祥の地といわれており、『壺井の里』(現羽曳野市)には、 頼信・頼義・義家の源氏三代の墓があります。河内源氏の子孫が南河内地方の守護を 代々つとめ、その下で地頭職に就いていたのが、金剛山麓の土豪であった楠木氏だと 伝えられています。もともと楠木氏は単なる南河内の土豪の一つで、無名の存在だっ たようですが、正成が当主になる頃には、河内国一帯に勢力を持つようになり、近隣 の和田氏や坂上氏等との姻戚関係を利用して、和泉・紀州地方まで力を及ぼしていた といわれているそうです。 観心寺は源氏と繁りがあったと伝えられており、源氏の配下である楠木氏も関係を 持っていたと思われますが、正成の時代にはその結びつきがますます強くなったとい われています。観心寺塔頭『中院』は楠木家代々の菩提寺で、正成の曾祖父成氏が再 建したのだそうですが、正成は幼少時から度々この寺に参詣していたと思われます。 寺伝によれば正成は、8歳から15歳まで少年時代の7年間を観心寺で修行に励ん だことが伝えられており、正成はこの寺で、二人の人物とめぐり逢い、大きな影響を 受けたといわれています。 その一人は比叡山から修行のために来ていた滝覚坊(りゅうかくぼう)で、四書五 経、宋学、国史などを中心に教えを受けましたが、なかでも大きな影響を受けたのは、 弘法大師の書いた『心地観経』の中にある国王、父母、衆生、三宝に対する恩を意味 する『四恩の教え』だったそうです。後醍醐天皇のために一命を賭して忠誠を尽した 生き方、あるいは、敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったことなどは、この教 えの影響であるといわれています。(千早赤阪村に寄手塚、身方塚があります。) なお、境内には滝覚坊の葬られたといわれる墓が残されています。 また、もう一人は、大江時親です。源義家に兵法を伝授したといわれる、大江匡房 の子孫である大江時親からは、兵法を中心に教えを受けたのだそうです。元弘の乱に おいて、多数の敵軍を翻弄した正成の兵法家としての基礎は、この時培われたものな のでしょう。 境内には、『楠木正成首塚』があります。楠木正成は、延元元年(1336年)湊 川(兵庫県神戸市)で、足利尊氏の軍と戦い敗北し自刃しましたが、尊氏は、戦死し た正成の後醍醐天皇への深い忠誠と、敵将ながら天晴れな戦いぶりに深く心を打たれ、 正成の首級を大切に観心寺へ送り届け、境内に葬らせましたが、それが『首塚』なの だそうです。 |
| 観心寺の山門です。 | 楠公学問所といわれる中院です。 | 後村上天皇旧跡(旧惣持院跡)です。 | 観心寺の拝殿です。 | 鎮守堂(訶梨帝母天堂)です。国重文に指定。 | 弘法大師が礼拝したという、礼拝石です。 |
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延命寺は、『河内長野駅』の南南東で、『観心寺』の南南西に位置しています。『観 ※鬼伝説 |
| 加賀田神社は、『河内長野駅』のほぼ南で、『延命寺』のはるか西に位置しています。 『延命寺』からは、『府道214号線』へ戻り、左へ少し行くと、左へ入る道がありま す。この道を入っていくと、『美加の台団地』へ入ります。そのまま直進すると住宅地 が途切れるところへ出ます。そこを左へ行くと、上の方の団地へ行く道路がありますの で、そこを上がり、そのまま団地内を直進します。団地の端まできたら、バス通りがあ りますので、右折して進みます。左側に『美加の台郵便局』がありますので、そこを左 折してしばらく行くと、大きな道路へ出ますので、そこを右方向へ行きます。直ぐに『 国道371号線』へ出ます。電車で近くまで行くのでしたら、最寄り駅は、『美加の台 駅』です。『美加の台駅』からは、駅の南側の道を右へ行くと、直ぐに『国道371号 線』(旧高野街道)へ出ます。そこから右方向へ『美加の台病院』を行くと、三叉路に なっていますので、左の道を進みます。しばらく行くと、ガソリンスタンドのすぐ手前 で、『国道371号線』に合流している道路があります。その道路へ入って直ぐ右折し、 更に右折します。次の辻を左折し直進すると、神社へ出ます。 加賀田神社は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらすなかつひこのみ こと)、息長足比賣尊(おきながたらしひめのみこと)を祭神としています。その創建に ついては詳らかではないようですが、『宇佐八幡宮』を勧請して創建されたものと考え られているとのことです。記録によると、「文明11年(1480年)社殿を再建せり。 」とあるそうで、少なくとも520年以上の歴史をもっているようです。 本殿は三間社流造、檜皮葺で、元禄16年(1703年)の建立と伝えられています が、承応3年(1654年)の棟札が残されていることや、慶長4年(1599年)の 絵図に描かれていることから、神社そのものはもっと前からあったものと思われます。 現在の社域はあまり広くはありませんが、慶長4年(1599年)の絵図によると、現 在住宅が建っているあたりも社域であったようで、当時の神社境内には薬師堂や北坊、 鐘楼などの寺院建築物が描かれています。おそらく当時は神社と寺が合体していたので はないかと思われるということです。 なお、この地では、昔は加賀田に元々定住する家々の中に『座』という組合があって、 この『座』の組合員だけが、庄屋などの役職につくことができたのだそうです。また、 正月にはこの『座』の人達が年長者から順に着席して、ぞうに・お神酒をいただくとい う風習があったといわれています。 |
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二日目は、近畿日本鉄道長野線と南海電鉄高野線の『河内長野駅』(同じ駅です)を起点に、 |
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天野山金剛寺は、『河内長野駅』の南西に位置しています。徒歩の場合は、駅の西側を ※金剛寺は『女人高野』と南北両朝同居の行在所 |
| 金剛寺の南大門です。 | 金剛寺の楼門(国重文)です。 | 金剛寺の金堂と食堂(いずれも国重文)です。 | 金剛寺の食堂(天野殿 国重文)です。 | 金剛寺の金堂(国重文)です。 |
| ※金剛寺と宮本武蔵と地酒 吉川英治の『宮本武蔵』には、棒術者の権之助と武蔵の決闘のくだりが記述され ています。 武蔵に決闘を申し込んだ権之助は、勝つ自信が持てず悩みますが、母親からの助 言(いわゆる『導母の一手』)によって相打ちに持ち込みました。ところが、武蔵 は互いの傷の程度を見て、自らの負けを認めます。この闘いは武蔵の生涯唯一の負 け試合ですが、母親の死後、権之助は母親の供養のため、その位牌を金剛寺に納め たということです。 ところで、話は変わりますが、河内長野市には、『天野酒』という名の地酒があ ります。室町末期のころ、良酒の代名詞となっていたのは、各地の寺院で造られて いた『僧坊酒』だったそうです。 なかでも、天野山金剛寺で造られていた酒は特に有名で、当時の名だたる英雄が、 こぞって愛飲したとのことです。とりわけ、『豊臣秀吉』はこの『天野酒』をこと のほか気に入り、使者を派遣しては『天野酒』を買い求めたあげくに、良酒醸造に 専念することを命じた朱印状まで交付したと伝えられています。その朱印状は、現 在金剛寺宝物館に展示保存されているそうです。 現在では、この酒は地酒『天野酒』として蔵元が河内長野駅近くで醸造していま す。手に入りにくいのですが、なかなか美味しいお酒です。 |
| 高向神社は、『河内長野駅』の南西に位置しています。徒歩の場合は、駅の西側を 走る『国道170号線』を左側に進みます。一つめの信号を越して少し行き、『府道 218号線』を左方向へ進みます。そのまま道なりに進み、『国道371号線』を越 えて、更に進んでいくと、右側に『高向公民館』があります。その先のバス停のとこ ろの左側へ入る細い道を行くと、神社が見えます。金剛寺からですと、『国道170 号線』を駅方向へ歩き、『西中学校』の先を右折して少し行くと、もう一本の『国道 170号線』がありますので、それを渡って左側の道を進むと、『高向小学校』があ り、その先が神社です。 高向神社は、素蓋鳴尊(すさのおのみこと)、菅原道真他八神を祭神とし、河内長 野市高向・日野両地区の氏神社ですが、その創建については詳らかではないようです。 高向漢人玄理(たかむくのあやひとげんり)や高向王(たかむこおう)と関係がある のではないかともいわれているそうですが、明らかではないそうです。 本殿は、三間社で、屋根は檜皮葺、切妻平入(きりつまひらいり)、向拝は向唐破 風という珍しい形式で、三間社でありながら、内陣の仕切りが五間となっているのが 特徴だそうです。棟札から江戸時代初期の慶長13年(1608年)の建設であるこ とが分かっているのだそうです。市の文化財に指定されています。 また、所蔵の絵馬のうち、高向神社祭礼風景を描いた文久3年(1863年)の『 高向神社祭礼絵馬』は、郷土の民族資料、美術資料として価値の高いものだそうで、 市指定の文化財になっています。 社殿の北側に古墳があるそうで、高向王の墓ではないかといわれているそうですが、 詳らかではないようです。 |
| 長野神社は、『河内長野駅』の直ぐ西南に位置し、駅西側のロータリーに隣接してい るので、直ぐ分かります。 長野神社は、素蓋鳴尊(すさのおのみこと)を祭神としています。長野神社の創建に ついては、詳らかではないようですが、本殿は、一間社流造、屋根は檜皮葺で、正面に 千鳥破風と軒唐破風を付けています。室町時代末期に建立されたと伝えられ、国の重要 文化財に指定されています。 江戸時代の中期(1711年)ごろまでは『木屋堂の宮』『牛頭天王宮』ともいわれ ていたそうですが、明治元年に現在の長野神社と改称されたのだそうです。地域では『 えべっさん』と呼ばれ親しまれているようです。 境内には幹周約4m、高さ約17mのカヤの古木があって,大阪府の天然記念物に指 定されています。 ※伝 承 秋の祭りの日には,境内に直径1.5m・高さ5mもの大松明を立てて、それを焼 く『松明神事』があります。 この神事の由来としては、二つの伝承があるようです。一つは、後村上天皇が観心 寺を行在所にしていたころ、天皇に仕えている人達が御神体を運ぶ旅で、河合寺あ たりまできたのですが日が暮れてしまい、困っていたところ、寺の墓守達が松明で 道を照らして案内し、無事に長野の鎮座地へ着くことができました。それ以来、神 社の祭日には松明を照らして祭典を行うようになったというもので、二つ目は、長 野神社の祭神を勧請する際に、暗闇で鎮座の位置をまちがえないよう、地元の人達 が松明をともして知らせたことから、以来祭礼では松明神事が行われるようになっ たというものです。 |
| 神社へは道路からこの階段を上がります。 | 長野神社の鳥居と本殿です。拝殿はないようです。 | 長野神社の本殿(国重文)です。 | 長野神社の摂社五社の神殿です。 | 境内の天然記念物『カヤの木』です。 |
| 烏帽子形八幡神社は、『河内長野駅』の南西に位置しています。駅西側の『国道170 号線』を駅を背にして左へ行き、『国道371号線(旧高野街道)』を左折し南下します。 しばらく進むと、左側に『河内長野郵便局』がありますので、そこを右折し、まっすぐ行 くと直ぐに神社に行き当たります。 烏帽子形八幡神社は、素蓋鳴尊(すさのおのみこと)、足仲彦尊(たらすなかつひこの みこと)、息長足比賣尊(おきながたらしひめのみこと)、誉田別尊(ほむたわけのみこと) を祭神としているそうですが、その創建については詳らかではないようです。 この神社の裏山は、その形が烏帽子に似ていることから、烏帽子形山といわれており、 そのことから今は、烏帽子形八幡神社と呼ばれているようですが、昔は上田村に近かった ことから『上田八幡』と呼ばれていたそうです。 本殿は、檜皮葺で三間社、橿原神宮(奈良県)と同じ入母屋造で、正面中央に5段の階 段を付け、擬宝珠高欄を巡らせた華麗なものです。 現在ある本殿は、棟札の墨書により室町時代の文明12年(1480年)に建立されたこ とがわかっているそうですが、国の重要文化財に指定されています。 |
| 神社への石の階段です。 | 階段を上がったところに拝殿があります。 | 烏帽子形八幡神社の本殿(国重文)です。 | 烏帽子形八幡神社の本殿(国重文)です。 | 境内にある摂社烏帽子形恵比寿社です。 | 楠木正成戦勝祈願の伝承のある『楠公武威松』碑です。松の切り株は後ろの小屋の中にあります。 |
| ※烏帽子形城跡 裏山にある烏帽子形古城は南北朝期・元弘2年(1332年)楠木正成が赤坂城の出城 として南河内に築いた城砦群七つの内の一つとされており、主郭と腰郭を中心に、コ の字形に土塁と堀が巡らされ、北東には曲輪が造られていたのだそうです。 この城は、元和元年(1615年)ごろまで使用されていたといわれています。こ の城の争奪をめぐって戦が繰り返され、城主も次々と入れ変わったようです。烏帽子 形城本丸跡にある市の案内板によると、応仁の乱以後は、河内守護の畠山氏の持城で あり、安土桃山時代にキリシタン大名で、このあたりの有力な武士であった甲斐庄正 治が城主となり、最後の城主は正治の子正房であるとしています。この甲斐庄正治と いうのは、元亀年間(1570−73)城主となった、河内の土豪橘長治(烏帽子形 氏)の別名ではないかという説があるそうです。 城主がキリシタンであったことから、周辺一帯には多くのキリスト教信者が集まり、 南河内におけるキリシタン文化の中心地のようになったそうです。安土桃山時代に来 日した、イエズス会の宣教師フロイス(ポルトガル人)の書いた『日本史』という書 物には、1580年ごろ烏帽子形城周辺地域には、約300人のキリシタンたちがい て、キリスト教を広めるのに努力していたということが、紹介されているそうです。 なお、この山には円形(経17m、高さ3m)に土盛された、古墳が有ります。市 の説明板によると、この古墳の調査は、外形測量しか行っていないそうですが、昔、 地元の人が一度掘って、石の部屋があることを確認いていることから、この古墳は古 墳時代後期(6世紀後半から7世紀)の横穴式石室形式のものと考えられるというこ とです。 |
| 烏帽子形公園内の山道です。 | 烏帽子形公園内の山道です。このような道が迷路のように山中を巡っています。 | 烏帽子形城本丸跡です。これは多分顕彰の碑と石塔でしょう。 | 烏帽子形城本丸跡です。 | 市の立てた烏帽子形城の復元図です。このような山城だったのでしょう。 | 横穴式石室形式の円形墳です。 |
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三日目は、近畿日本鉄道長野線と南海電鉄高野線の『河内長野駅』(同じ駅です)を起点に、 |
| 岩湧寺は、『河内長野駅』の南南西に位置しています。『神納』で南海バスを降り、 『府道221号線』をバスの進行方向へ進みます。『府道221号線』を外れないよ うに進むと、道は一本道で間違える心配はありません。(加賀田の集落を過ぎるあた りから道路案内板も充実しています。)九十九折りの道が終わると、そこが岩湧寺で す。 岩湧寺は、岩湧山の中腹にあるお寺で、文武天皇の勅願により大宝年間(701年 〜704年)に役小角(えんのおづぬ)が開基したと伝えられています。 境内には、本堂・多宝塔・本坊(庫裡)が並んでいます。本坊は現在も居住されて いますので、中を見ることは出来ません。本堂は方形造で江戸時代初期のものと考え られており、市の文化財に指定されています。本堂内の厨子は室町時代後期のものだ そうです。また、多宝塔は天文年間(1532−1555年)の建築といわれ、国の 重要文化財に指定されています。 多宝塔の本尊である大日如来坐像は桧寄木造高さ88cm余りの金剛界像で、平安 時代末期に造られたものだそうで、国の重要文化財に指定されています。同じく塔内 にある愛染明王坐像は、鎌倉時代の作といわれ市指定文化財となっています。 境内の杉林は、樹齢400年以上といわれ、深山幽谷の雰囲気を醸し出しています。 また、境内の至る所に1000本といわれる大株の石楠花があり、4月末頃から5月 にかけて、見事な花を付けます。 なお、このお寺の周辺は『岩湧の森』として整備されています。寺の隣地には『岩 湧の森』園内案内所兼休憩所の『四季彩館』という建物があり、『岩湧の森』の管理 人兼自然解説員が常駐して、資料の配付やいろいろな相談に応じてくれるようです。 |
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流谷八幡神社は、『河内長野駅』の南南東、最寄り駅の『天見駅』の南西に位置し ※極楽湯(天見温泉) |
| 途中の山中にあるカタツムリトンネルです。 | 流谷八幡神社の鳥居と拝殿です。参道は鳥居をくぐるようにはなっていません。 | 流谷八幡神社の本殿です。 | 流谷八幡神社の扁額です。 | 流谷八幡神社の拝殿に展示してある鉄製湯釜(大阪府指定文化財) | 流谷八幡神社の隣にある薬師寺です。 |
| 蟹井神社は、『河内長野駅』の南東、最寄り駅の『天見駅』のほぼ南に位置してい ます。『流谷八幡神社』を出て、元の道を左方向へ行くと、『国道371号線』に行 き当たります。そこを右折し交番所の前を進んで行くと、左方向へはいる道路があり ます。その道を道なりに行くと、蟹井神社の鳥居が見えます。蟹井神社から南海電鉄 『天見駅』へは、きれいに整備された遊歩道がありますので、この道を歩いて駅へ出 るのがよいでしょう。 蟹井神社は、神倭磐余彦命を祭神とし、品陀和氣命、息長足比賣命、玉依比賣命を 配祀しています。蟹井神社は、創建以来たびたび火災にあったといわれており、その 火災により資料等が焼失し、その創建については、詳らかではないようです。 蟹井神社の名称については、社域の南、天見川に『蟹井の渕』という深い渕があっ て、ここから神社の御神体が出現したためという伝承があるそうですが、天見は中世 には『甲斐の庄』と呼ばれており、蟹井神社は『甲斐神社』の転訛であろうといわれ ています。どうやらその説が当たっているように思うのですがどうでしょうか。 社伝によれば、神武天皇東征の折、今の神社の北に天見川の石を集め、磐境として 神籬を建て、天津神を祀って戦勝祈願をしたのが創始であり、その後、天喜2年(1 054年)に社殿を造立して神倭磐余彦命、品陀和氣命、息長足比賣命、玉依比賣命 を祀ったのが創建であるとしていますが、それを裏付ける資料は何もないようです。 南北朝時代には、南朝方の武将の戦勝祈願の神社として栄えたそうですが、延宝4 年(1676年)の大火で焼失し、荒廃したといわれていますが、その後一部再建さ れ現在に至っているとのことです。本殿は、三間社流造です。 この神社では、毎年10月に祭りがあり、宵宮には地元の人達が高提灯を立てて集 まり、祇園囃子を歌いながら参拝する、『提灯祭』と呼ばれる祭事が行われ、本宮で は、神輿を境内の老松にぶつける祭事があるそうです。 |