
| 「能登殿は一度も不覚し給はぬ人の、今度山の手やぶられて面目なくやおもはれけむ、うす墨といふ馬に乗り、唯一騎、渚を西へ落られけるが、播磨の高砂より御舟にみして、讃岐の八島へ渡らせおはしまし給ひぬ」 |
ここでは、逆落しにより教経が陣を布いた山の手が破られた、と伝え、義経の作戦通り、逆落しによって山の手が落とされたことを記している。
ここに哀れをとどめたのは平家の武者たちであった。源氏に追われて西へ逃げながら海に逃れようとするが、乗る舟もないままに逃げては追いつかれ、次々に首を挙げらていった。
後刻、義経が知ったのは、山の手の軍勢の目を逆落しの崖から逸らせたのが、土肥の軍勢でも岡崎の軍勢でもなく、鷲尾の築いた仮城を後ろ盾として鹿松峠を攻撃した多田行綱の軍勢であることを知り、戦勝の第一報に彼の陽動作戦を称える記事を載せたのであった。義経が戦に勝った理由を『吾妻鏡』は、メールはこちらへ