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出会いまでをおもいつくままに

初めて会ったのは1983年の3月です。

山岸会の津崎鉄夫さんが私たち二人を引き合わせました。

土本と山岸会との関係ですが、土本典昭は山岸会の「特講」を撮影しようとして、撮影を断念したことがあったんです。
その時に土本と津崎さんは知り合ったのだと思います。
この時のことは、「フィルムを1フィートもまわさなかった私たち」 
6月15日土曜講座 「愛児に楽園を」ヤマギシズム幸福学園発行 1974年7月15日に書いてあります。

私は山岸会で津崎さんと知り合います。
山岸会に行く前の私は、日大三島で、日大全共闘としてすごしていました。

階級闘争の本当の意味はよくわからなかったのですが、
旅館の社長の娘であった私は、労働者を搾取する側なのだと真剣に考え、
富は平等であるべきだと漠然と考えていました。

日大闘争が敗北し、多くの学生が山岸会の研鑽をうけました。
文化大革命を支持していた新島淳良氏がヤマギシズム幸福学園をつくった影響です。
山岸会の中に希望をもとめていました。

しかし、特講を受けても、山岸会への参画に踏み切れなかった私は、
またもや後ろめたいものを感じていました。

そのころ、土本は、水俣の「水俣病センター相思社」が、経済的に自立するための仕事をさがしていて、
山岸会の養鶏法を水俣でやったらどうかと思っていたんです。
それで、津崎さんを水俣に呼んでいたんです。
でも、うまくいきませんでした。

津崎さんは私に「土本のために映画のカメラを買ってあげないか」といいました。

私は土本典昭にあってみることにしたのです。

出会い(思い出すままに)

1983年3月15日のことです。
神奈川県の小田原駅で、初めてあったのです。
土本は、茶色のブレザーをきて、すこしふっくらした感じがしました。

そこから3人でタクシーに乗って、土本は「水俣に行く事になるんだ」と話していました。
一生懸命、しゃべる、元気な人だなという印象をもちました。

真鶴の食堂で、刺身定食を3人で食べました。
この刺し身定食が安くて量が多くて、土本は「これは当たりだった」とうれしそうでした。
土本はカメラのパンフレットを、私に見せてくれました。
フランス製の16ミリのカメラのアトーンというカメラです。
日本にはまだ一台も入っていないキャメラで、ドキュメンタリーを撮るには最適なカメラだということでした。
土本から、このカメラで撮影したいという熱意が伝わってきました。

特長は「フィルムの撮影時間をシネテープに同期に記録できる」
「肩に担いで、三脚なしで手持ち撮影が出来る。」。
「フィルムをマガジンで装填する時にキャメラとの間にゴミが入らない」などだったと思います。

土本は私に筑摩書房刊「わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録」をくれました。
「敬贈 青木基子様 土本典昭 1983、3、15」とあります。

そして「僕はタマはもっているけど、鉄砲がない」と言いました。
「タマ」というのは「フィルム」で「鉄砲」というのは「カメラ」のことです。
それから「お金は食べ尽くしてしまうかもしれないけど、カメラは食べることができない」といいました。

私は土本典昭にはよい印象を持ちました。

基子 35歳、土本 55歳。「海盗りー下北半島浜関根」の撮影が始まる直前の出来ことでした。

始めてあってから、土本典昭から最初に届いた手紙です

1983年3月23日の手紙
拝復、厚いお手紙ありがとうございました。
私の本をおよみいただいているとのこと幸甚です。
いま今夕の水俣ゆきを前にして、ペンをとっています。
津崎兄を介しての知り合いでしかないにも拘らず ズバリ同志感というか共感をいだくことのできるのも゛未来とのであい゛でしょう。

いま私の持つ危機感は深刻です。
水俣病事件が5千人の(今でさえこの人数です)申請者をかかえたまま幕引きの過程にあります。
水俣生活学校のような未来系のあかるい話がないわけではありませんが、
やはり今ひとつ下り坂を転げたうえでなければ復元力はでてこないでしょう。

今まで水俣病の映画を十四本(海外版を含め)つくりました。
それはもとめる雰囲気があってこそです。
しかし映画は金のかかるもの、水俣は体制の゛やましい傷口゛であれば、配給も、放映もその道が開かれず、自力でひろく見せることに没頭してきました。
その甲斐はいくらかありえたと思っています。

しかし水俣現地は日々転落感というか敗北感を深めており、゛世間゛も見放しています。
しかし夜の果てに朝があると信じます。
その暗みに一灯をともさずにはいられませんし、それは十四作までつくった私のなすべきあったりまえの仕事です。

今回映画を時間をかけて(三年)つくります。多分、水俣は微光をめざして再び闘いをはじめる時節にきっと合致するでしょう。そうしたタイミングを人生五十年を生きた私はどこかで真にうけています。

ただ資金的な問題はあります。資本は水俣映画には背をむけつづけるでしょうし、いまふつうの支援者は゛こんな時期に゛と足ぶみするものあたりまえです。
ですが、あなたのような思いをいただけるとそれだけでも勇気がわきます。ありがとうございました。

今回は十日間、調査にいきます。またのその次第をおたよりします。
とりあえず。作品歴にかえ 最新の冊子「原発切抜帖」を別便にてお送りいたします。お元気で
                                                 土本典昭  
青木基子様






キャメラなど機材と値段は?


ここに内訳がありますので書いておきます。(機材の詳細は省きます)

●スズキエンタープライズ 8,091,000円

@アートンLTR ボデイ 4,310,000円

Aアートンその他(タイムマーキング560,000円・マガジン1,390,000円・バッテリー12V64,000円・バッテリー16V93,000円・チャージャー87,000円・ロングカメラケース116,000円・トランスコーダーナグラ1,142,000円・パイロバーストナグラ364,000円・オリジンCマスターウオッチ255,000円・アダプター59,000円・アダプター61,000円・マイクロニッコール76,000円・サクラ三脚930,000円・サクラミデアム三脚140,000円スーパーボード125,000円)

これから1,691,000円が値引きされて、アトーン関係で8,091,000円でした。

●キャノン販売 1,341,950円

Bキャノンスクーピックス685,000円

Cキャノンスクーピックその他(コマドリ装置35,000円・バッテリー11,000円・水中ハウジング750,000円)

BとCの値引きが139,050円です

●不二技術研究所 563,000円

DキャノンC10x口レンズ450,000円

Eその他(マイブームアダプター1500円・スチールレンズサポート15,000円・16mmクセノンレンズ中古95,000円・ズーム棒1500円)

●報映産業株式会社 2,381,000円

Fナグラーテープレコーダー 1,738,500円

Gナグラー用(ケース28,500円・交流電源71,2500円・内装型パイロット信号発振器115,900円・内装型シンクロナイザー63,500円・ヘッドホン30,200円・マイクロホン48,000円)

Hゼンハイザーマイク139,500円

Iゼンハイザーマイク用(パワーサプライ30,600円・ウインドスクリーン4,500円・ショックマウント27,000円・かご型ウインドスクリーン38,700円・卓上スタンド4900円・ショックマウント14,400円・ケース25,400円)

●その他 録音用備品 45,150円

(マイクブーム用ポール8,000円。ナグラケース23,400円・マイクケーブル13,750円)

●その他 撮影機材  140,220円

(水中露出計23,100円・チェンジバック3,500円・ニコンED300ミリレンズ97,000円・プロクサー9,500円・UVフィルター三個7,120円)

合計が12,562,320円ということになりますよね。

映画の撮影などまったく知らない素人なので、機材も分からず、なにを買ったかもわからなかたのですが、いまはよく分かるようになりました。

撮影と録音に関するものすべての機材がそろっています。水中カメラもありますので、当時の映画つくりには完璧なセットといえるでしょう。

まったく素人の私が最新式の映像機材の持ち主になったわけですが、当時はあまりピントきていませんでした。だた、支払いが無事に済んだことと、土本や青林舎の若いスタッフたちと友達になったことがうれしかったことを覚えています。

いま考えると、私にとって「キヨブタ」(清水の舞台から飛び降りる)だったなとわかります。女は嫁に行くとき、「キヨブタ」を経験するわけですが、独身だった私の最初の「キヨブタ」で最大の「キヨブタ」がこれでした。

土本は気がつかなかったかもしれないけど、一人の女性をある意味で「解放」したんだと思うんです。土本のまわりにはそういう輪が出来ていて、土本を支えていたのだと思うんです。

それにしても、映像だけで見れば、デジタルカメラ一つで、映画が出来る、いまの映像状況に比べると、1983年当時、映画を作るということがものすごくハードルが高かったのだとおもいます。

だから、土本はすごくうれしかったし、土本は、資金難に苦しむほかの作家たちの映画がつくりやすくなると思ったと思います。反面、私に対する責任も相当に負ったと思うんです。
2009/02/04記


土本典昭からの1983年4月24日の手紙

8枚にも上る、分厚い手紙が差し出されたのは1983年4月24日です。1983年3月23日の土本典昭との最初の出会いから1ヶ月がたっています。

前略、先日はいろいろ腹蔵なく語らせていただき たのしうございました。
あの折を機に、後藤孝典弁護士をおひきあわせできたのも 良かったのではなかったと思っています。
おそらくあなたがおかれている状況について、クリアに見られる第三者として適任者であろうという意味においてです。
分析と判断と それに加えて思慮深さにおいて、私の友人のなかでも群をぬいた人物です。
それに、顔に似合わず優しさがある、弁護士には稀なひとです。その彼に"診断・助言"を仰いだことは、あなた個人にとって賢明であったと思います。

さて、私がこの間考えましたことを申しのべたいと思います。
まず第一に津崎さんを通してとはいえ、今まで未知だったあなたに思い切ってお願い事をし、過分なことと思っています。
ふつうにないテンポであり提案の内容にて、私も数年に一度の真剣さで考えました。

まず何より、あなたの生き方にかかわる"額"に及ぶお願いです。
それには第一にあなた御自身が、あなたの実情を期待ではなく、現実に把んだうえのご判断でなければなりません。
ことの始めに、後藤氏がどのように見たかー"思ったより受けとる資産は狭められている"というのは あなたにとっても確認されたことと思います。
通常の借金申し込みなら、ここで辞退するのが至当なはなしです。あなたの示されたご好意だけでも思い出にのこすことが出来ます。
ただ、私が、あなたから資金だけをうるつもりでしたらそうなります。

しかし。それは別として、人生に、節目に立たれたあなたのことを考えれば、あなたの若さはこれからのもの、あなたの生みだす人生とか生き方にとって、その若さ、(毛沢東が若い人にいった「きみたちは午前8時の太陽だ」という比ユでいっても)まだ午前九時か九時半の人生でしょう。
"水俣"であれ"反原発"であれ"食と性"の問いなおしであれ、一生にあとつづけることはあなたの選択の手中におありなはずです。そのことで一致できるなら、私はあなたとともに、広い仲間のひとりとしても、ひとつのことを試みるせまい仲間としても おつきあいをつづけていくつもりです。
(そのようにして、私は生き、しごとをし、友をつくってきました)このことは御銘記下さい。

あさってから、カナダの水銀汚染地、オンタリオ州北部から、カナダ水俣病に悩むインディアンの代表と白人弁護士のエスコートとして水俣に参ります。
帰京は来月の六日、七日頃の予定です。その間 津崎さんとも会うでしょうが、ほとんど彼の水俣学習のお手伝いをするつもりです。

突然の話ですが、先日はなした水俣状況はひとつ大きく好転の兆しがみえました。
川本輝夫という患者代表が二度の落選の憂き目に耐え、昨日、市会議員となりました。急坂をころげるかのような闘いにひとつの反撃のための契機がうまれました。そのことを現地で確認するための旅となります。

帰京後、水俣・原発等のテーマを考えるにあたって、私にはやはり、手持ちの"銃"たる機材の自由は憧憬に近いものがあります。
先日、使わせて下さいというのみで、あえて反対給付、たとえば「使用料で返済する」といったみかえりを申しませんでした。
それは自信がないからでなく、そのようなかたちでこそ、あなたとかかわりたかったからです。
そのつながりは信と恩義と仕事の質の他はありません。
私たちがあなたの意に反した生き方、仕事をしたら、またお金が必要となれば、あなたはいつでも返却を要求できます。
そしてそうなさってください。その"信頼関係"と責任の共有、なれあいでないきびしさが、よい銃でよい戦いのできる保証であり、せめ であるからです。
そのことで私たちもあなたにかかわり、つながりと問答をくりかえし、活き活きとした関係、人生上の縁をむすびたいのです。その始まりということです。

先日お話した1300万円を何人かで分割して頂き、機材の共有者となっていただくことも考えました。
しかし私たちの仕事への支持を機材の点で全面的に投企していただく行為は"便宜上の分割によって複数氏することなく、青木基子さん、あなたひとりに集約したいと思っていました。そのは私の人とのつきあい方の美学であり、他、第三者への説得力に欠けるかもしれませんが そうありたい、そうつながりたい気持は動きません。
私にとってもはじめての質のねがい事です。今までにありません。

私はあるいは津崎さんが"針小棒大"は物言いをなさったか否かを案じます。
また私の行動母体である青林舎が 現実にユニークは存在である分だけ、財政的に赤字であり、加担の映画人が極貧であることもたしかです。
だからこそ自由に、娯楽と対極の告発映画、住民サイドの映画をつくりつづけられたのだと思っています。
そして今、さらに一歩すすみたいと思うばかりです。勝手ばかりを申しました。

御すすめしたい本に写真家でエッセイストの藤原新也著「東京漂流」(情報センター出版局)があります。
奇しくも去年の第23回毎日芸術賞をいっしょにもらった人の新著です。
文化状況とその戦い方、その生きがいについて、新鋭で真摯なことばを発していて、たいへん共感をもちました。

五月中旬、東京にいます。下旬、原子力船「むつ」の母港予定地、青森県下北半島の関根浜に次回作のための下調査にいくつもりです。
六月やはり東京で一冊の本をかくため留まる事になるでしょう。どうか一度 きぜわしい話だけでなく、あなたの話をおききしたいものです。
リラックスしてお過しください。  では御元気で 
                              (1983年)4月24日土本典昭
青木基子様



映画撮影用機材賃貸借契約書

以前、「食べる人」と「作る人」というフレーズが物議をかもしましたね( ^ ー ^ )。私と土本のキャメラについての関係がどうだったのでしょうか、それを契約書から見てみることにします。

映画撮影用機材賃貸契約書  昭和58年(1983年)7月18日

〔機材目録〕

1、鈴木エンタープライズ輸入販売、アトン・カメラ及び三脚

2、キャノン製造販売、水中カメラ及び水中ブリンプ

3、報映産業輸入販売、ナグラ・テープレコーダー及びマイクロホン一式

〔賃貸借約束〕

1、上記機材(購入価格1300万円)の所有者である青木基子は、映画監督土本典昭に対し下記条項でこれらを賃貸する。

(1)土本典昭は撮影一企画ごとに事前に青木基子に対し企画書を提出し、双方協議の上一企画ごとに賃料を決定する

(2)土本典昭は撮影終了後 一企画ごとに青木基子に対し収支報告書を提出し、その承認を得るものとし、その時点で収入があった場合は 双方協議の上事後的にその企画について賃料を決定する

(3)賃貸借期間については期間を定めない

(4)土本典昭はその上記機材を使用して監督する全ての作品につき 機材協力者として青木基子の名前を掲記する

2.土本典昭は上記機材を第三者に転貸することが出来る。但し、この場合土本典昭は事前の企画書をもって青木基子の承認を得るものとする

3.土本典昭は上記の機材に自己責任で損害保険を付するものとし、かつ善良なる管理者の注意義務を以って保管することを約束する。

藤沢市……  青木基子 捺印

東京都……  土本典昭 捺印

立会人 弁護士 後藤孝典 捺印

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この契約書は7月18日ですから、土本典昭との3月25日の真鶴での出会いから3ヶ月24日後のことです。

この3ヶ月24日の日々が私の「キヨブタ」を、さらに強化することになったのだと思います。次に書いてみます2009/02/07記


契約書をよむ

  映画撮影用機材賃貸契約書  昭和58年(1983年)7月18日

1、上記機材(購入価格1300万円)の所有者である青木基子は、映画監督土本典昭に対し下記条項でこれらを賃貸する。
(1)土本典昭は撮影一企画ごとに事前に青木基子に対し企画書を提出し、双方協議の上一企画ごとに賃料を決定する

(2)土本典昭は撮影終了後 一企画ごとに青木基子に対し収支報告書を提出し、その承認を得るものとし、その時点で収入があった場合は 双方協議の上事後的にその企画について賃料を決定する

(3)賃貸借期間については期間を定めない

(4)土本典昭はその上記機材を使用して監督する全ての作品につき 機材協力者として青木基子の名前を掲記する

2.土本典昭は上記機材を第三者に転貸することが出来る。但し、この場合土本典昭は事前の企画書をもって青木基子の承認を得るものとする

3.土本典昭は上記の機材に自己責任で損害保険を付するものとし、かつ善良なる管理者の注意義務を以って保管することを約束する。

2.土本典昭は上記機材を第三者に転貸することが出来る。但し、この場合土本典昭は事前の企画書をもって青木基子の承認を得るものとする


アートンから生まれた作品レンタル料

●土本作品 5本  (44万円)

1984年「海盗りー下北半島浜関根」(青林舎製作 無料)
1984年「はじけ鳳仙花−わが筑豊 わが朝鮮」(幻冬舎製作 20万円(?月)
1986年「日本一ぶりの里訪問記」(青林舎製作  無料)
1987年「水俣病ーその30年ー」(青林舎・シグロ製作 無料)
1989年「よみがえれカレーズ」 (記録社・シグロ製作 24万円(5ヶ月)

●その他、シグロ作品 (1986年から1992年まで 使用料 3、575、540円・メンテナンス料405,955円・保険700,000円=4,681,495円)

1986年「人間の街」小池征人監督(シグロ 10万円(7ヶ月)
1986年「ゆんたんざ沖縄」西山正啓監督(シグロ 6万円(4ヶ月)
1988年「商のまち」小池征人監督(シグロ     4日)
1988年「家族」小池征人監督(シグロ 10日)二作品で5万円
1988年「戦場の女たち」関口典子監督(関口典子 10万円) 
1990年「老人と海」ユンカーマン監督(シグロ ?月)
1990年「しがらきから吹く風」西山正啓監督(シグロ 6ヶ月  )
1991年「狭山」小池征人監督(シグロ 10日)
1992年「ひらくまち」小池征人監督(シグロ?月)
1992年「ゴミから暮らしを考える」若月治(シグロ?月)
1993年「ジャクパ」(シグロ?月)
1995年「あらかわ」(シグロ?月) 

●その他の作品 (2,205,000円)

1984年「諮問押捺拒否」 呉徳洙監督 7万5千円
1985年「おもしろ学校の一日」 西山正啓監督(3万円)
1987年「日本鉄道員物語1987」小池征人監督  未収
1990年「アリランのうた」朴壽南監督 撮影大津幸四郎 27万円(三週間)
1992年「心臓抜き」 高橋玄監督(劇映画) 撮影高橋英明 28万円(1ヶ月)
「たそがれアイシュタイン」 10万円
1992年「阿賀に生きる」 佐藤真監督 撮影小林茂 2万円(水中ブリンプのみ長期間)
1997年「ナージャの村」 本橋成一監督 撮影一之瀬正史 80万円
2002年「未知への航海−すばる望遠鏡建設の記録」今泉文子監督 53万円
2003年「白神の夢」 小池征人監督 撮影一之瀬正史 有料
2004年「誰がために」日向寺太郎監督 (劇映画)撮影 川上皓一 10万円
2007年「みやび三島由紀夫」田中千世子監督 川上皓一  7万円  

●その他 作品名不明 (961,000円)

パンドラ 17万円
青山録音 19万円
テレビ映像 14万4千円
シネヤマモト 6万円
映像サービス 3万円
英映画 2回 188,000円
岩波映画    129,000円
アズマックス 5万円

2001年       
1、入金合計  8,287,495円

2、カメラの経費14,300,000円

カメラ購入金 13,000,000円
メンテナンス ?円
追加レンズ代金1,300,000円 

3、収支 −6,012,505円