立山信仰と立山曼荼羅の解説

福 江  充

富山県[立山博物館]副主幹・学芸員(文学博士)



芦峅寺(富山県立山町)の布橋から望む立山連峰



布橋灌頂会イベント(平成21年9月27日、於:富山県[立山博物館]〔富山県立山町芦峅寺〕)



布橋灌頂会イベント(平成21年9月27日、於:富山県[立山博物館]〔富山県立山町芦峅寺〕)



はじめに

 越中立山は、江戸時代前期(延宝期〔1673〜1680〕)にはすでに富士山・白山とともに日本三霊山のひとつとして知られ、本州の真ん中には、この三山を巡拝する壮大な巡礼コースが存在していました。「三禅定」と称するこの大旅行は、主に中部・東海地方の人々によって明治時代まで盛んに行われてきました。
 さて、現代人のわたしたちが一般的に「立山」の言葉で想像する事象や事物は、立山の雄大な山岳景観や高山植物、雷鳥、アルペンルート、雪の壁など、そのほとんどが自然にかかわるものでしょう。しかし、立山が日本の歴史のなかで絶えずその存在感を保ち続け得たのは、自然もさることながら、それよりもむしろ山中にあるという恐ろしい「地獄」のおかげだったのです。そこで、このサイトでは、立山の地獄・極楽信仰を中心にその知られざる歴史を紹介したいと思います。


目  次

1.神の坐す立山
2.立山地獄信仰の発生
3.立山地獄信仰の展開
4.平安時代の立山地獄説話
5.立山開山縁起
6.立山開山縁起が意味すること
7.現実的な立山開山
8.立山における阿弥陀信仰の受容過程
9.浄土山と阿弥陀如来の極楽浄土
10.立山と十王信仰
11.立山山麓芦峅寺の十王信仰と姥尊信仰
12.室堂小屋
13.雄山山頂の峰本社
14.血の池と血盆経信仰
15.ミクリガ池の寒地獄
16.賽の河原
17.立山山麓の芦峅寺と岩峅寺
18.立山衆徒の勧進布教活動と立山曼荼羅
19.立山曼荼羅の概説
20.芦峅寺布橋大灌頂法会の概説
21.江戸時代後期(天保期頃)に行われていた布橋大灌頂法会の様子
22.参考書籍
23.福江充(プロフィール)

24.リンク
立山信仰の概説
立山曼荼羅の解説

立山の地獄信仰
布橋灌頂会(布橋潅頂会・布橋大灌頂・布橋大灌頂法会)
立山信仰の伝説




(旧)立山頂上社殿(万延元年〔1860〕に建てられた社殿)


1.神の坐す立山

 立山信仰に関する最古の文献は『万葉集』です。そのなかに、奈良時代の天平19年(747)、万葉歌人の大伴家持が平野部から立山連峰を眺め、「立山賦」と題し、「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」と詠んだ歌があります。この歌から古来、立山は、家持や山麓の人々に、山そのものが神として、あるいは神の住む山として崇められていたことが推測されます。ただし、そこには神に対する観念はあっても、仏教的な世界観はまだ感じられません。



2.立山地獄信仰の発生

 インドの『倶舎論』や『大毘婆沙論』などの仏教経典には、地獄の位置について、それは人間が住む世界の地下に重層的に奥深く続く形で存在すると説かれています。
 一方、もともと外来宗教であった仏教が日本で広まる以前から、日本人は天上や地下、山中、海中といった、いわば自分たちの住む世界の垂直・水平方向の延長線上の場所を他界とする観念をもっていました。そのなかでも山中を他界とする観念は、日本の国土の大部分が山地や山岳で占められるといった独特な風土・環境のためか、とりわけ強くもたれていたようです。
 すなわち古代の日本人は、人が死ぬとその霊魂が肉体から分離して、村里近くの山やあるいは立山のような立派な山へ登ると考えていました。肉体から離れたばかりの霊魂は暴れる死霊なのですが、山の不思議な力で次第に死霊から祖霊に浄められ、さらに子孫の祀りを受けて山の神になるというのです。このように古代の日本人は、山地・山岳を死霊・祖霊の漂い鎮まる他界としていました。
 仏教の広まり、浸透に伴い、日本ではその土着の他界観と仏教の地獄観が交わり、霊魂の漂い鎮まる山中こそが外来宗教の仏教が示す地獄のある場所だと信じられるようになりました。つまり、地獄の亡者に対する裁判や責め苦などの具体的な内容は、圧倒的で壮大な体系をもつ仏教に依拠しましたが、その場所については、自分たちの根源的な考え方に基づいて、山中に見出したのです。
 その際、越中立山は山中に火山活動の影響で荒れ果てた景観を有し、地獄を見出すには格好の場所でした。立山山中の地獄谷、ミクリガ池、血の池などは、4万年前からたびたび起こった水蒸気爆発による爆裂火口であり、なかでも地獄谷では、火山ガスを噴出するイオウの塔、熱湯の沸き返る池、至る所からの噴気が見られ、また特有の臭いも相まって、そこは不気味な谷間となっています。こうした特異で非日常的な景観が地獄の様子に見立てられ、立山地獄の信仰が生まれたものと考えられます。


立山地獄谷の鍛冶屋地獄


立山地獄谷と剱岳

3.立山地獄信仰の展開

 立山は9世紀半ばから10世紀初頭までに開山され、天台教団系の宗教者たちの一拠点となっていました。しかし、それ以前にも山岳修行者が入山していたことが大日岳や剱岳で発見された奈良時代末期から平安時代初期の制作と思われる銅錫杖頭などによってわかります。彼らには、立山山中地獄谷の荒れ果てた景観が、まさに仏教の説く地獄の世界のように見え、それを後に諸国の霊山を巡って修行していくなかで喧伝したものと思われます。
 それゆえ立山地獄は貴族社会を中心に、人々のあいだで次第に知られ信仰されるようになりました。折しも平安時代中期以降の末法思想の流行や、比叡山横川の学僧源信(942〜1017)が著した『往生要集』(仏典に基づいて地獄と極楽の様子を描き出し、自己の体験をまじえ往生の方法と浄土教の理論を述べています)の流行、地獄絵画の発展などは、そのような立山地獄の流布にも影響を与えたと考えられます。
 平安時代末期には、芸能往来物『新猿楽記』や歌謡集『梁塵秘抄』に見られるように、立山は日本各地の霊山・霊場とともに修験の行場、あるいは観音霊場として知られていましたが、その頃の立山に対する最も強烈なイメージは、やはり山中に実在する地獄の世界でした。平安時代中期から末期に書かれた『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』などの仏教説話集には、越中立山の地獄は死者の霊魂が集まるところとしてたびたび登場します。その一節に見える「日本国の人、罪を造りて多く此の立山の地獄に堕つと云へり」の文言からも、その頃すでに立山が山中に地獄をもつ山として、山岳修行者や都の貴族・僧侶のあいだで認識されていたことがわかります。


剱岳出土銅錫杖頭(富山県[立山博物館]所蔵)



4.平安時代から室町時代の立山地獄説話

 まず、平安時代の仏教説話集『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』に収められている立山地獄説話を見ておきましょう。『大日本国法華経験記』第124「越中国立山の女人」は、立山参詣中の修行者が立山地獄に堕ちた女性の亡霊の依頼を受け、その近江国蒲生郡の生家を訪ねて、遺族に法華経の書写供養を営ませ、それによって女性の亡霊は立山の地獄を脱出してトウ利天に転生したという話です。物語の冒頭では山中の地獄谷の景観や称名滝(勝妙の滝)にも触れています。また地獄の原に帝釈岳があり、そこは天帝釈や冥官が集まって衆生の善悪を考え定める場所だとしています。さらに、女性が生前に観音菩薩を祈念し1度だけ持斎した功徳で、観音菩薩が毎月18日に自分の身代わりとなって苦しみを受けてくれることも併記し、観音代受苦説話のかたちをとっています。なお、『今昔物語集』巻第14には、「修行の僧、越中の立山に至りて小女に会う語・第7」と題された類話が見られますが、その内容は、立山参詣の修行者を三井寺の僧としているものの、その他の点ではこれとほぼ同様です。『今昔物語集』巻第17「越中立山の地獄に堕つる女、地蔵の助を蒙る語・第27」は、修行僧延好が立山地獄に堕ちた女性の亡霊の依頼を受け、その京の七条の生家を訪ねて、遺族に地蔵菩薩像1体の造立や法華経三部の書写など、亡霊救済の追善供養を営ませた話です。そのなかで、女性が生前祇陀林寺の地蔵講に1・2度参詣した功徳で、地蔵菩薩が毎日地獄にやって来て、早朝、日中、日没の3回、自分の身代わりとなって苦しみを受けてくれることも併記しています。なお、この地蔵代受苦説話は中世の時代には「地蔵菩薩霊験記絵巻」として絵画化されました。現在、アメリカのフリア美術館本(13世紀中頃成立)が現存しており、同本には「地蔵講結縁の人にかはりて苦を受給事」と題し、立山地獄に堕ちた女性の亡者の身代わりとなって責め苦を受ける地蔵菩薩の姿が描かれています。『今昔物語集』にはこのほか、越中国の書生の妻が地獄に堕ち、その子供3人が立山に参詣し、その地獄に堕ちている母の声を聞き、その望みどおりに国司の協力を得て千部法華経書写供養を営み、母を地獄から救う話も見られます(『今昔物語集』巻14「越中国の書生の妻、死にて立山の地獄に堕つる語・第8」)。以上の説話は『宝物集』や『三国伝記』にも類話が見られます。そしていずれの内容も、立山地獄に堕ちた亡霊の救済は、修行僧による錫杖供養や遺族による法華経の書写供養、地蔵菩薩への供養などによて行われています。
 次に、鎌倉時代に入ると、同時代増補『伊呂波字類抄』10巻の「立山大菩薩顕給本縁起」には、立山山中に八大地獄の顕現したことが記されています。八大地獄とは等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻を指し、亡者の罪状に応じて責め苦に等級がありました。また各地獄は16の別所をもち、合わせて136の地獄があるとされました。このほか、室町時代の能『善知鳥』は、生前、善知鳥(鳥の名前)を捕まえた罪の報いで立山の地獄に堕ちた陸奥の猟師の話です。この能は、平安時代末期の頃には貴族社会で知れ渡っていた先述の「立山地獄説話」に、12世紀の『地獄草紙』などに見られる「鶏地獄」のモチーフや津軽地方の「珍鳥説話」、「片袖幽霊譚」などが組み合わせられ、室町時代に成立したものです。
 


立山曼荼羅 吉祥坊本(個人所蔵)


能「善知鳥」(亡者が立山禅定の修行僧に片袖をわたす場面)


立山曼荼羅 吉祥坊本(「善知鳥」片袖幽霊譚の場面)〔個人所蔵〕


5.立山開山縁起

 立山を仏の阿弥陀如来のお告げによって開山(仏教修行ができるように、登山道を整備したり堂舎を建てたりする)した人物は、一般的には「佐伯有頼」(なかには佐伯有若や地元の狩人とする場合もあります)とされていますが、それにまつわる物語を記したものが「立山開山縁起」です。同縁起には、『類聚既験抄』(鎌倉時代編纂)や『伊呂波字類抄』10巻本の「立山大菩薩顕給本縁起」(鎌倉時代増補)、『神道集』巻4の「越中立山権現事」(南北朝時代編纂)、『和漢三才図絵』(江戸時代正徳期の編纂)など、いくつもの種類が見られます。また、このほかにも、立山信仰の拠点集落であった立山山麓の芦峅寺と岩峅寺に、宿坊衆徒や社人により江戸時代中期から末期にかけて制作された「立山大縁起」や「立山小縁起」、「立山略縁起」などが見られます。以下は芦峅寺相真坊本「立山略縁起」に記された立山開山縁起の粗筋です。
 近江国志賀の都で暮らしていた佐伯有若は、大宝元年(701)、文武天皇の命を受け、越中守として越中国に赴任し、新川郡字布施の院に居城(布施城)を構えました。
 翌年(702)、有若の息子有頼は、父の大切にしている白鷹をもって鷹狩りに出かけますが、その最中、白鷹が遙か山の方へ逃げてしまいました。家来からそれを聞いた有若は激怒します。有頼は父の怒りを解くため家来を帰し一人で白鷹を探します。苦労しながらも白鷹を探し出すことに成功し、鈴を鳴らして呼び寄せると、そこに突然獰猛な熊が現れ吠えたので、白鷹は驚いて再び飛び去りました。さらに有頼に襲いかかってきたので有頼はとっさに熊に向かって矢を射ると、矢は熊の月の輪に命中しました。しかし熊は絶命せず、矢が刺さったまま血を流しながら逃げていきます。白鷹も熊についていきます。有頼は怒りながら熊と白鷹を追跡しました。途中、夢のなかに老人が現れ、熊が立山山中に入ったことを教えてくれました。有頼は熊の血の跡を追って立山山中に入り熊と白鷹を発見しますが、すると両者は玉殿窟に逃げ込みました。有頼が洞窟に向かうと、そこに金色で生身の阿弥陀如来と不動明王が現れ、極楽浄土の世界が現出されます。阿弥陀の胸には有頼が熊に射た矢が刺さり、血が流れていました。実は熊の正体は阿弥陀如来であり、有頼に立山を開山させようと導いてきたのです。有頼は仏を危めた罪を懺悔し自害しようとしますが、その時、薬勢仙人が現れそれを止めます。薬勢仙人は有頼に僧侶慈朝の弟子になることを勧めました。有頼は慈朝の弟子となり、出家して慈興と改名し、厳しい修行をして立山を開きました。


佐伯有頼少年像(富山市・呉羽山)


立山曼荼羅 吉祥坊本(布施城)〔個人所蔵〕


立山曼荼羅 吉祥坊本(佐伯有頼が熊に矢を射た場面)〔個人所蔵〕


立山曼荼羅 吉祥坊本(玉殿窟の場面)〔個人所蔵〕


6.立山開山縁起が意味すること

 日本各地の霊山の開山縁起には、狩人が登場するものが多くみられます。それらはいずれも、霊山で狩人が山の神や仏と遭遇し、その山を仏教の山として開く、あるいは、あとから入ってきた高僧に開山を譲り、その高僧が最終的な開山者になるといった内容をもち、高野山や伯耆大山、彦山、日光山などの縁起がそれにあたります。
 さて、鎌倉時代の『類聚既験抄』所収の「立山開山縁起」には「立山に狩人がいて熊を射殺したが、その熊は金色の阿弥陀如来であった。よってこの山を立山権現という」と、いたって簡潔に記されています。このように、『類聚既験抄』の縁起では立山の開山者を狩人としますが、おそらく、他の霊山の事例と比較して考えても、この縁起は一連の「立山開山縁起」のなかで原型的なものといえるでしょう。
 したがってこの縁起には、江戸時代に成立した一連の開山縁起よりも、かえって「立山開山縁起」が本来的にもつ意味が明確に表れています。すなわち、熊は日本のみならず世界各地で霊威をもった神聖な動物とみなされていますが、この縁起においても、熊は立山の山の神か、あるいはその使いを象徴しています。一方、阿弥陀如来は外来宗教である仏教の仏です。この縁起では、もともと立山を支配していた山の神に対する信仰と、立山にあとから入ってきた仏教の阿弥陀如来に対する信仰とが習合し、阿弥陀如来を本地、立山権現を垂迹とする、いわゆる本地垂迹思想に基づいて、立山が仏教的な世界に展開したことが示唆されているのです。
 それでは、佐伯有若や有頼が登場する、いわゆる脚色された内容の開山伝説はどのようにして出来たのでしょうか。鎌倉時代に増補された『伊呂波字類抄』10巻本の立山開山縁起に初めて、「越中守佐伯有若宿祢」が開山者として登場します。この「佐伯有若」については、昭和初年、富山の歴史学者木倉豊信氏が京都・随心院文書のなかの「佐伯院付属状」(延喜5年〔905年〕)に、「越中守従五位下佐伯宿祢有若」の署名を発見し、その10世紀初頭の実在を証明しました。
 ただし、この有若その人が実際に立山を開山したかどうかは、この史料から断定できません。むしろ、前述の『類聚既験抄』のような簡潔な縁起が立山開山縁起の原型で、それが次第に脚色されていく過程で、実在の佐伯有若が縁起に取り込まれたと考えたほうが素直でしょう。その後、江戸時代に成立した多くの立山開山縁起では、物語に佐伯有若と有頼の親子関係が組み込まれ、立山の開山者も有頼に移行します。



玉殿窟

7.現実的な立山開山

 明治時代、立山連峰の大日岳と剱岳から奈良時代末期から平安時代初期の制作と推定される銅錫杖頭が相次いで発見されました。それらにより、平安初期には、立山もすでに諸国の山岳霊場を巡る山間修行者たちの修行場になっていたことがわかります。このほか、平安時代の仏教説話集『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』所収の立山地獄説話に、諸国回峰の修行者が立山地獄に堕ちた亡霊と遭遇する話が見られますが、それなども立山が開山される以前に、諸国の山岳霊場の一箇所として立山を訪れる修行者たちが存在したことを示すものでしょう。こうした山間修行者は不動信仰の伝播者でもありました。
 不動明王は五大明王のうちの中心的な明王であり、平安貴族社会では真言寺院や天台寺院に同尊を祀り、疫病退散や国家・社会の平安を祈願して加持祈祷が行われてきました。そして当時の不動信仰は、たとえば『平家物語』に真言僧文覚が紀伊国熊野の那智大滝で21日の荒行を行い、不動明王の加護によって助けられたといった記載があることや、『天台南山無動寺建立和尚伝』に比叡山の千日回峰行の開創者と伝える無動寺の相応和尚(831〜918)が葛川の霊瀑で不動明王を感得したといった記載に表れているように、回峰行や修験道と深く結びついていました。
 このような不動信仰をもった山間修行者の痕跡は、立山山麓上市町(現、富山県上市町)に所在する大岩山日石寺の不動明王磨崖仏にも見られます。同尊は脇侍の矜羯羅童子・制咤迦童子とともに平安時代初期の成立と推測されています。なお同岩に刻まれている阿弥陀如来坐像と僧形像は、越中に阿弥陀信仰が伝播した平安時代後期の追刻と推測されています。
 一方、こうした山間修行者のなかには、立山山麓に定住して宗教活動を実践する者が出はじめ、次第に組織や堂舎を整えていきました。立山山麓の芦峅寺閻魔堂には、平安時代の成立と推測される木造不動明王頭部が1体残っています。同尊頭部は一木造で全長は60センチもあります。差し頸形式なので、もとはそれに見合う巨大な胴体部も存在したはずです。この尊像の存在により、遅くとも平安時代末期頃までには芦峅寺か、あるいはその界隈に不動信仰が伝播していたことや、こうした尊像の安置および維持管理を可能とする宗教施設・組織が存在していたことが推測されます。
 鎌倉時代に増補された『伊呂波字類抄』10巻本所収「立山大菩薩」の条には、立山開山者の慈興が、立山山麓で先行的に宗教活動を行っていた薬勢の弟子となり、その後、師弟協力して山麓に「芦峅寺根本中宮」を含む立山信仰の拠点寺院を建立したという記載が見られます。すなわち、常願寺川の南の本宮・光明山・報恩寺(現、富山県大山町)は薬勢が、常願寺川の北の芦峅寺根本中宮・安楽寺・高禅寺・禅光寺(現、富山県立山町)などは慈興が開いたというものですが、この頃には、立山はもうとっくの昔に開山されていると考えてよいでしょう。とくに芦峅寺について言えば、芦峅寺雄山神社の開山堂には鎌倉時代初期の作品と推測される木造慈興上人坐像が安置されていますが、それが成立した時期までには、前述のとおり芦峅寺の本尊を祀る中核的な堂舎は当然のこと、他の堂塔伽藍もある程度整えられ、芦峅寺は宗教村落として組織的にも施設的にも確立していたことがうかがわれます。
 では、現実に立山はいつ頃開山されたのでしょうか。『師資相承』という史料には、天台座主(天台宗比叡山延暦寺の管主)であった学僧康済の功績として、「越中立山建立」と記されています。座主まで務めた人物の生涯最大の功績としてそれだけを記すのですから、それはよほど意味のあることだったに違いありません。しかし残念ながらこの史料からは、立山建立の具体的な内容が全くつかめません。康済は昌泰2年(899年)に72歳で亡くなっていますから、彼の活躍時期からすると9世紀後半には、立山のどこかに天台宗寺門派の教団勢力の拠点地ができていたと思われます。そしてそのことは、前述の芦峅寺の木造不動明王頭部の1件から少し時間をおいてのこととしてとらえるとうまく符合し、こうした中央の教団勢力の立山への進出及び現地における拠点地の成立を“立山開山”のひとつの意味としてみることも可能でしょう。


木造不動明王頭部(芦峅寺閻魔堂所蔵)


8.立山における阿弥陀信仰の受容過程

 文献上はじめて立山に仏教の世界観が認められるのは、平安時代中期の仏教説話集『大日本国法華経験記』(比叡山横川の僧侶鎮源の編纂)所収の立山地獄説話です。
 立山参詣中の修行者が、立山地獄に堕ちた女性亡者から依頼され、彼女の近江国蒲生郡の生家を訪ねました。修行者は遺族に彼女のことを伝え、法華経の書写と講説供養を営ませました。その功徳と女性亡者が生前に信仰していた観音菩薩の助けで、彼女は立山地獄を脱出してトウ利天に転生しました。この説話で注目すべきは、女性亡者の救済先が観音菩薩の補陀落浄土や阿弥陀如来の極楽浄土ではなく、帝釈天の浄土のトウ利天、すなわち六道世界の内の天界とされている点です。たぶん当時の立山には、まだ阿弥陀信仰が流布していなかったのか、あるいは浸透していなかったのでしょう。
 これが、平安時代末期の仏教説話集『今昔物語集』所収の立山地獄説話では、ある程度の進展が見られます。立山参詣中の修行僧延好が立山地獄に堕ちた女性亡者に出会います。女性は生前、祇陀林寺の地蔵講に1・2度参詣しましたが、その功徳で地蔵菩薩が毎日3回、女性の地獄での責め苦を代わってくれているといいます。延好は女性の依頼を受け、その京の七条の生家を訪ねて、遺族に地蔵菩薩像1体の造立や法華経三部の書写、亭子院での法会など、亡霊救済の追善供養を営ませました。なお法会に招いた僧侶は大原の浄源でした。
 この説話では女性亡者の救済者は地蔵菩薩ですが、救済先は記されていません。ただし、富山の歴史学者久保尚文氏は、同話のなかに地蔵信仰や阿弥陀信仰を中心とした浄土教との関連性を見出されています。すなわち、同話に登場する浄源は、京都大原三千院の阿弥陀堂、阿弥陀三尊像で有名な、比叡山下の大原の僧侶でした。さらに彼は『往生要集』を著した源信の門弟で、浄土教の布教者だったので、同話の流布は浄土教の発展に貢献したと指摘されているのです。このように立山では、平安時代末期には、阿弥陀如来を中心とした浄土教の影響が見られるようになりました。
 その後、鎌倉時代末期の『類聚既験抄』や鎌倉時代初期の国語辞典『伊呂波字類抄』10巻本所収の「立山開山縁起」では、開山者を導く熊が阿弥陀如来の化身として記されるようになります。さらに南北朝時代中期の『神道集』では、立山権現の本地が阿弥陀如来とされるとともに、立山十二所権現、すなわち十二光仏の住む山として位置づけられ、この頃までには、阿弥陀如来を本地とする立山山中浄土の思想が完全に確立していました。
 ところで富山県[立山博物館]には、鎌倉時代の寛喜2年(1230)に制作された立山の神の像(銅造男神立像)が展示されています。この神像については、『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』所収の立山地獄説話に、帝釈天が衆生の罪を裁く場所として「大イナル峰」、すなわち帝釈岳のことを記していることとの関係が気になります。ここでいう帝釈岳が立山連峰のいずれの峰を指すかは不明ですが、平安時代の説話に登場する地獄谷周辺の山はこの帝釈岳だけです。おそらく、こうした説話を背景として、帝釈天風の容貌のこの神像が制作されたのでしょう。


銅造男神立像(富山県[立山博物館]所蔵)


9.浄土山と阿弥陀如来の極楽浄土

 立山曼荼羅の画面には、立山山中の地獄谷のあたりに、立山地獄に堕ちた亡者に対する責め苦の様子が強調して描かれています。一方、それに相対するかのように、地獄谷から対角線上に位置する立山連峰の雄山とその右手の浄土山、あるいは雄山とその左手の大汝山の山間に、阿弥陀如来と聖衆(聖者の群衆、菩薩たちのこと)の来迎が描かれています。そして、そこには阿弥陀如来が教主として住む西方極楽浄土の様子自体こそ見られないものの、この、いわゆる阿弥陀聖衆来迎の図柄をもって立山浄
土の場面としています。来迎とは念仏行者の臨終の際、阿弥陀如来が脇侍の観音菩薩や勢至菩薩とともに(これを阿弥陀三尊といいます)、または、その他の25人の菩薩とともに飛雲に乗り、楽器を演奏しながら死者を迎えにやってきて、極楽浄土へ連れていくことです。
 ところで、いずれの立山曼荼羅を見ても、阿弥陀如来と聖衆の来迎場面は、おおむね雄山と浄土山の山間に描かれています。それはなぜかというと、どうやら立山の自然現象と関係があるようです。立山の雄山山頂では、朝日が昇るとき、東が晴れていて、西に霧がかかっていると、霧中に自分の影とそれを取り巻く美しい輪が見えることがあります。いわゆるブロッケン現象ですが、夏場は雄山と浄土山の山間あたりにこの不思議な自然現象がときどき見られます。おそらく、これがいつの頃からか極楽浄土からの阿弥陀如来の来迎に見立てられ、特別に信仰されようになったのでしょう。阿弥陀如来の極楽浄土に由来する浄土山という山名も、こうした現象をもとにつけられたのだと思われます。だから立山曼荼羅の「立山浄土」の場面では、ブロッケン現象が起こる雄山と浄土山の山間に、阿弥陀如来と聖衆の来迎が描かれることが多いのです。


立山曼荼羅 吉祥坊本(阿弥陀聖衆来迎の場面)〔個人所蔵〕


10.立山と十王信仰

 立山曼荼羅の地獄の場面で、その世界の王様として君臨しているのが閻魔王です。立山曼荼羅の絵を見ると、閻魔王の庁舎では今まさに裁判が行われています。これからその様子を見ていきましょう。まず閻魔王が司録・司命(冥界の役人、筆や巻物を持つ)らと、亡者が生前犯した罪を裁いています。王様の帳簿には事前に調べられた亡者の罪状が記されており、王様はそれを事細かに検討しています。その前では、首枷をされた男女の亡者が王様の裁きを待っています。
 亡者のなかには嘘をついて自分の罪をごまかそうとする者もいるので、それに対しては浄頗梨鏡という特殊な鏡を使います。王様の前に立てられた大きな鏡がそれです。亡者の一人が獄卒に引き立てられ、鏡の映像を見せられています。この鏡には亡者が生前犯した罪が全て映し出されます。ですから亡者があれこれ言い逃れようとしても、王様には一目瞭然であり、観念せざるおえません。
 次に浄頗梨鏡の横では、亡者が業秤で生前の罪の重さを計られています。分銅の岩石より亡者の方が重いので、相当罪が深いのでしょう。浄頗梨鏡と業秤の間に男性(太山府君幢)と女性(暗黒天女幢)の頭部をもつ檀荼幢(人頭ともいう)が立てられています。この男女は一瞬の間に多くの人の善悪を見て、閻魔王に報告する役目です。以上のように、亡者は閻魔王に裁かれ、その裁定に従って、天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の6つの世界(六道世界)のどこかに生まれるか、あるいは成仏することになります。
 あの世で亡者が生前に犯した罪を裁く王様としては閻魔王が最も有名ですが、実はそうした裁判官の王様は閻魔王を含め10人います。閻魔王は有名人ですが、最終審の裁判官ではなく第5審の裁判官です。こうした10人の王様が亡者を順次裁くといった信仰を十王信仰といいます。古代中国に起こった信仰で、日本には平安時代に中国から伝えられ、鎌倉時代以降大いに広まりました。
 現在でも、ある人が亡くなると、その遺族は初七日や四十九日の法事などを営みますが、その背景にはまさしく十王信仰が存在しています。裁判官の王様たちは、遺族が亡者のためにきちんと法事を行っているかどうかを、監斎使者を派遣して調査します。なぜ法事を行う必要があるかというと、それは裁判官の王様たちに亡者の情状酌量を求めるためです。その人の死によって仏教行事が行われたのならば、その死も無駄ではなく、多少は良いことに貢献したことになるのです。
 さて、最初の第1審は初七日に行われ、それを皮切りに7日ごとに第7審(四十九日)まで行われます。その後、第8審が死後100日目、第9審が1年目、第10審が3年目に行われます。
 10人の裁判官の王様たちと、彼らの正体(本地仏)は次のとおりです。初七日に秦広王(不動明王)、二七日に初江王(釈迦如来)、三七日に宋帝王(文殊菩薩)、四七日に五官王(普賢菩薩)、五七日(三十五日)に閻魔王(地蔵菩薩)、六七日に変成王(弥勒菩薩)、七七日(四十九日)に太山王(薬師如来)、百か日に平等王(観音菩薩)、一周忌に都市王(勢至菩薩)、三回忌に五道転輪王(阿弥陀如来)の順番で裁かれます。
 ところで、立山山中室堂平の端に「えんま台」というところがあります。おそらくそこは、立山に十王信仰が流布して以降、閻魔王の庁舎がある場所といった意味で「えんま台」と名づけられたのでしょう。そして、その直下には“立山地獄”に見立てられた地獄谷が広がっています。おもしろいのは、「えんま台」から地獄谷を見下ろした先に、地蔵菩薩が住む「伽羅陀山」が聳えていることです。昔の人々はうまく考えたものです。亡者は「えんま台(閻魔王庁)」で閻魔王に裁かれ、地獄谷の立山地獄に堕とされて厳しい責め苦を受けますが、一方ではちゃんと救済の手も差し伸べられていて、「伽羅陀山」の地蔵菩薩に助けてもらえるようになっているのです。先述のとおり、怖そうな閻魔王も実はその正体は地蔵菩薩なので、慈悲の心で亡者たちを裁いているというわけです。


立山曼荼羅 吉祥坊本(閻魔王庁)〔個人所蔵〕


「えんま台」・「地獄谷」・「伽羅陀山」・「剱岳」

11.立山山麓芦峅寺の十王信仰と姥尊信仰

 十王信仰は、立山山麓の芦峅寺にも伝播し、深く根付きます。同村の閻魔堂には現在、南北朝時代の成立とみられる木造閻魔王坐像・木造初江王坐像・木造泰山王坐像・木造司命王半跏像などが残されています。
 一方、江戸時代、姥谷川の左岸、閻魔堂の先の布橋を渡った所に、入母屋造り、唐様の姥堂が立っていました。堂内には本尊3体の姥尊像が須弥壇上の厨子に祀られ、さらにその両脇壇上には、江戸時代の日本の国数にちなみ、66体の姥尊像が祀られていました。その姿は乳房を垂らした老婆で、片膝を立てて坐しています。容貌は醜悪で、髪が長く、目を見開き、なかには口をカッと開けたものや般若相のものもあり、いかにも恐ろしげです。現存の像は、いずれも南北朝時代(現存最古の姥尊は永和元年〔1375〕に成立したものです)から江戸時代にかけて作られています。芦峅寺の人々はもとより、越中国主佐々成政や加賀初代藩主前田利家らの武将たちも、この異形の姥尊を芦峅寺で最も重要な尊体と位置づけ、信仰してきました。
 芦峅寺が立山信仰の宗教村落になる以前から、同村には猟師や杣・木挽などの山民や焼畑農民が存在しており、彼らはいずれも、女性神で沢山の子供を産み、恐ろしい性格の持ち主とされる「山の神」を信仰していました。芦峅寺の姥尊は、まずこうした「山の神」に端を発すると考えられます。姥尊は、その後、同村が宗教村落として宗教者主導の村にかわっていくと、鎌倉時代頃から日本で盛んになった外来の十王信仰の影響を受け、南北朝時代頃までには、三途の川の奪衣婆と習合しました。江戸時代になると奪衣婆の信仰が庶民に広まり、ますます盛んになるにつれ、芦峅寺の姥尊も奪衣婆そのものになっていきました。しかし、妖怪的な奪衣婆では、芦峅寺の中心尊として格好がつきません。そこで衆徒たちは姥尊の縁起を作り、それに仏教の尊格を当てました。まず姥尊を立山大権現の親神とし、次に阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・不動明王などの本地を説き、それが垂迹して、醜いけれども奪衣婆的な姥尊の姿で衆生を救済するのだとしたのです。


木造閻魔王坐像(芦峅寺閻魔堂所蔵)


木造姥尊坐像(芦峅寺閻魔堂所蔵)

12.室堂小屋

 室堂平には室堂小屋が建っています。現在は南室と北室の2棟が建ち並び、両棟とも木造で4間に5間の大きさです。ただし、江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』には「室堂四間に五間、三棟」と見え、その頃は3棟だったようです。室堂平の東側断崖には虚空蔵窟と玉殿窟があり、古くはこの洞穴で禅定登山者が宿泊・参籠したと伝えられることや、中世の御正体などの遺物が発見されていることから、その「籠もり堂」の意味や機能が室堂小屋に推移したと考えられます。近年の発掘調査では、鎌倉時代からこのあたりに何らかの宗教施設があったことが指摘されています。
 文献史料の上では、天正11年(1583)、越中国主佐々成政が岩峅寺衆徒に対して宛てた寄進状に「室堂本願」と見えるのが初出であり、戦国時代にはすでに存在していました。また『加賀藩史料』には、元和3年(1617)、加賀藩2代藩主前田利長の夫人玉泉院が立山室堂を再興したことが記されています。いずれにしても、日本で最古の山小屋です。江戸時代、この室堂小屋の管理は岩峅寺衆徒が行い、山銭とともに寝舎料を徴収しました。


立山曼荼羅 吉祥坊本(室堂小屋)〔個人所蔵〕

13.雄山山頂の峯本社

 雄山山頂には雄山神社の峰本社が鎮座しています。江戸時代、この社殿は加賀藩が保護し、何度も建て替えを行ってきました。加賀藩の手による最後の社殿は万延元年(1860)のもので、総欅造り・三間社流れ造りでした。
 しかし、それが老朽化したので、平成8年に建て替えられました。立山では、山麓岩峅寺の前立社壇、芦峅寺の中宮に対し、頂上の社殿を峰本社と称して本社としています。
 立山禅定登山の第一目的は、雄山山頂に到達し、峰本社に祀られた祭神の伊邪那岐命(主神)と手力雄命(副神)、すなわち本地の阿弥陀如来と不動明王を参拝することでした。この峰本社の創建年代は不明ですが、大永4年(1524)の金銅製奉納札残欠が頂上付近で発見されています。また、現存する最古の棟札は寛永18年(1641)のものです。



立山曼荼羅 吉祥坊本(個人所蔵)

14.血の池と血盆経信仰

 江戸時代、日本中の霊山が女人禁制をとるなか、立山も同様に女人禁制をとっていました。男性は、あの世の世界と位置づけられた立山山中で厳しい修行登山を行うことで、一旦擬似的に死んだことにして、再び生まれ清まって来世の極楽往生が約束されましたが、山中に入れない女性には、それがかないませんでした。しかし、それにもかかわらず、江戸時代の立山は女性の救済を実現する霊山として民衆の間で―とくに女性の間で―多くの信仰を集めていました。
 では女性が登れない立山なのに、なぜ女性に人気があったのでしょうか。その理由は、立山山中には「血の池」という池水が血の色をした不気味な池が存在しており、その池にまつわる血の池地獄の思想および血盆経信仰を、山麓の芦峅寺や岩峅寺の衆徒たちが全国各地で布教したことで、女性たちの救済願望を満たしていたからです。
 こうした信仰は立山のみならず他の霊山でもみられますが、立山のそれがとりわけ人気を集めたのは、山中に実在した大きくてもっともらしい血の池のおかげでした。それが立山の血盆経信仰に一層現実味を帯びさせたのです。
 「血の池」の名称は、月経や出産の出血が不浄を他に及ぼす罪から、女性だけが堕ちるとされた血の池地獄に由来します。この地獄は血盆池地獄とも別称されるように、「血盆経」という僅か420字余りの短文の経典に基づいて創造されました。この経典は10世紀(明の時代)に中国で成立した偽経(正式な翻訳経ではなく偽作された経典)で、日本には室町時代頃に伝来しました。その諸本にはいくつかの系統が見られますが、共通する内容はおおむね次のとおりです。
 あるとき、釈迦の弟子目連は、女性だけが堕ちて苦しむ血の池(血盆池)地獄の様子を見ます。そこでは女性が獄主に責められ、1日に3度、池の血を飲まされ苦しんでいました。これを見た目連は、獄主に女性たちの堕地獄の理由を尋ねました。すると獄主は、女性は出産(および月経)の血で地神を汚したり、その衣類を洗った川の水で茶を入れて神に供養するため、そうした罪で死後、血の池地獄に堕ちるのだと答えました。
 目連は母を救うため、獄主(または仏)に、この地獄からの脱出方法を尋ねました。すると獄主(または仏)は、三宝(仏・法・僧)を敬い、血盆斎を営んで僧侶を招き血盆経を転読すれば、血の池に蓮華が生じて成仏するだろう。また、女性が血盆経を信心して書写し所持すると、三世(過去・現在・未来)の母親は天に転生するだろう、と目連に教えてくれました。これが血盆経のおおよその内容です。
 こうした血の池地獄の思想は、江戸時代、民衆の間ですでに浸透しており、芦峅寺や岩峅寺の衆徒は布教の際、立山が女性救済を実現する類いまれな霊場であることを強調して説きました。そして、血の池地獄から救われるための血盆経や月水不浄除の護符を積極的に頒布し、また地元立山で両峅衆徒が催す血盆経投入儀礼に対して納経したり、芦峅寺布橋大灌頂法会に参加すれば救われると説きました。
 そして、こうした勧進活動を一層効果的に行うため、彼らの教具の立山曼荼羅にも、血の池地獄の図柄が真紅の強烈な色彩で描かれました。そこには血の池地獄に堕ちた女性たちが、血でできた池に首までどっぷりと浸かり、苦悶の表情を浮かべている様子や、そこへ女性たちを救うために、池の中から蓮の葉と蓮台に坐した如意輪観音菩薩が現れた様子などが描かれています。


立山山中の血の池


立山曼荼羅 吉祥坊本(血の池地獄)〔個人所蔵〕


血盆経(富山県[立山博物館]所蔵)

15.ミクリガ池の寒地獄

 立山山中のミクリガ池は、江戸時代、寒の地獄(極寒の苦しみの世界)に見立てられていました。立山曼荼羅には、亡者が池の中に首まで浸かって、もがき苦しむ様子が描かれています。この地獄にまつわる説話を、立山曼荼羅の絵解き台本『立山手引草』(嘉永7年〔1854〕)に基づいて見ていきましょう。
 昔、越前国越智の僧侶良慶(小山法師とする説話もある)は、大先逹(修験道修行の指導者)の海弁に導かれ、立山禅定登山を行いました。途中、良慶は地獄谷で寒の地獄を見て、それを百姓家の種井(種をまく前に種籾を浸しておく池や川)のようだと嘲り、口に剣をくわえて池に飛び込むと、向こう岸まで泳いでみせました。
 海弁は良慶の傲慢な行動に驚き、自分の不徳でこの不祥事が起きたことを嘆きました。そして、もしこのまま良慶の傲慢な行動を抑えられなければ、立山の名を汚すことになると憂いました。そこで、海弁は降魔(悪魔を退治し降伏させる)の加持祈祷を行い、地元の刀尾神の力も授かり、不動明王が乗り移ったような形で、良慶に言いました。すなわち、おまえ(良慶)が口にくわえていた剣は、実は玉殿窟(立山開山の場所)の大聖阿遮羅尊(不動明王)の秘宝剣であり、地獄池で泳いだとき、その剣の徳で堕地獄を免れたのである。そして、おまえが剣を盗んだことは、あとで詮議することにして、剣を自分に返し、もう一度地獄池に入ってみよと告げました。
 これを聞いた良慶は腹を立て、剣の徳を嘲り、それを投げ置いて再び地獄池に飛び込みました。しかし、3巡り目についに地獄へ堕ちてしまいました。ミクリガ池の名は、良慶が池を3度巡ったことに由来します。


ミクリガ池


16.賽の河原

 立山山中の雷鳥沢と浄土沢の出合いに、賽の河原と呼ばれる河原がありますが、その呼称は、親より先に死んだ子どもが堕ちるという賽の河原に由来しています。
 この河原は、一般的には地獄の一所と考えられがちですが、実は、三途の川を渡る手前で、なおかつ地獄の外側といった、いわばこの世とあの世の境界的な場所に位置しているのだそうです。ややこしいのですが、賽の河原は地獄のようで、実は地獄そのものではないのです。ですから、その中途半端な位置づけということもあってか、かわいそうですが賽の河原の子どもには極楽往生が約束されていません。
 さて、みなさんも賽の河原のイメージはある程度お持ちでしょうが、とくに立山の賽の河原の情景について歌ったものに『立山西院川原地蔵和讃』があります。それは「帰命頂礼立山の西院の川原の物語り。きくにつけても哀れなり。二や三つや四つ五つ、十にも足らぬ嬰児が、さいの川原に集まりて、父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は此の世の声と事変わり、悲しさ骨身に通すなり」と、その出だしから人々の哀れを誘うような物悲しい歌詞ではじまります。そのあらすじは次のとおりです。
 10歳にも満たない子どもたちが西院(賽)の河原に集まり、父母を恋しがって泣いています。そして両親らへの回向として河原の石を集め、それを積み上げて塔を造っています。しかし、せっかく造った石塔も、夕暮れになると地獄の鬼が現れて黒金棒で突き崩してしまいます。その苦しみは、亡くなった子どもたちの追善供養を忘れてしまうほどに嘆き悲しむ、親たちの有り様に起因するといいます。その時、地蔵菩薩が現れ、自分を冥途の父母と思いなさいと、幼児たちを衣の裳の内にかき入れ、まだ歩けない嬰児には錫杖の柄につかまらせて抱きかかえ、憐れんでくれるのです。
 ところで、子どもが賽の河原に堕ちる理由ですが、子どもは母に対し、その胎内にいるときから、おのずと心配をかけたり苦痛を与えたりすることになります。それなのに、母より先に死んでしまうことで、母の恩に報いることができないばかりか、母のみならず父をも嘆き悲しませることになり、それが罪なのだというのです。もっとも子どもの両親にすれば、可愛く大切な子どもたちだったのですから、そんなことは決して意識しているはずもないのですが。こうした賽の河原の信仰は、中国の経典や平安時代中頃に天台宗の源信によって著された『往生要集』にも見られず、おそらく中世末期以降、日本の民間信仰のなかで独自に成立していったものと考えられます。


17.立山山麓の芦峅寺と岩峅寺

 江戸時代、立山信仰の拠点村落である立山山麓の芦峅寺と岩峅寺は加賀藩の支配下に置かれ、それぞれ38軒と24軒の宿坊を構え、同藩の祈願所や立山禅定登山の基地としての役割を果たしていました。宿坊の主人は加賀藩の身分支配上は宗教者として扱われ、衆徒と称されました。ただし芦峅寺衆徒は実生活上は焼畑も行い半僧半俗のかたちをとっていました。
 芦峅寺は標高約400メートルの高所に位置し、その自然環境から稲作には適さない村でした。したがって、この村では焼畑・炭焼・木挽などを主な生業としてきました。このような場所的・生業的な面からとらえると、芦峅寺の場所は「ヤマ」あるいは「サトヤマ」として位置づけられ、さらに、その中核である芦峅中宮寺(集落には姥堂・閻魔堂・帝釈堂・布橋・立山開山堂・講堂・拝殿・大宮・若宮・立山開山廟所などを構えていました)は「山宮」として位置づけられます。
 一方、岩峅寺は山麓で常願寺川右岸扇状地の扇頂部に位置し、中世より荘園村落として発達、稲作を主な生業としてきました。このような場所的・生業的な面からとらえると、岩峅寺の場所は「サト」として位置づけられ、さらに、その中核である立山寺(集落には大講堂・拝殿・観音堂・地蔵堂・地主刀尾天神本社などを構えていました)は「里宮」として位置づけられます。


芦峅寺の布橋から望む立山連峰

岩峅寺雄山神社前立社壇と立山連峰

18.立山衆徒の勧進布教活動と立山曼荼羅

 立山衆徒のうち芦峅寺の各宿坊家は、たとえば江戸や大坂・尾張国・信濃国など、日本各地に縄張りを決めて檀那場(立山信仰の信者がある程度集中して存在する得意先)を形成し、その衆徒は毎年農閑期になると自分の檀那場に赴き、立山信仰を布教しながら護符(お守り札)や経帷子を頒布して廻りました。こうした宗教活動を「諸国檀那配札廻り」や「廻檀配札活動」などといいます。
 衆徒はさまざまな護符を刷っていましたが、廻檀配札活動の際には牛玉札を中心に火の用心や祈祷札、山絵図、経帷子などを頒布しました。また、とくに女性の信者には血盆経や月水不浄除、安産などの祈祷札を頒布しました。このほか、護符に限らず、反魂丹などの薬や現地で調達した箸・針・楊枝・扇・元結なども頒布して利益を得ていました。
 檀那場では、主に庄屋(名主)宅を定宿としましたが、その庄屋は現地で立山講の信徒たちをとりまとめる周旋人である場合が多かったようです。護符などの具体的な頒布方法については、まず、衆徒が定宿の庄屋に対し、その村で必要な護符の枚数について注文をとります。それに対し庄屋は人足を雇い、村内の檀家を中心に、時にはそうでない家々までも巡回させ、村人が必要とする護符の枚数を把握します。衆徒はその枚数分の護符を庄屋に渡し、実質的な頒布はすべて、庄屋および庄屋が雇った人足に任せてしまいます。
 ある村での勧進活動が終わると衆徒は次の村に向かうことになりますが、その際、檀家に頒布するために持ち込んだ護符や経帷子・小間物・薬・土産などのたくさんの荷物のなかから、その村で必要な品物を必要な数量だけ取り出し、残りの荷物については、次に配札を予定している村までの搬送を庄屋に依頼します。それを受けて庄屋が伝馬人足を雇い、衆徒の荷物を次の村の庄屋宅まで送ってやります。この方法により、衆徒は配札に必要なたくさんの荷物を自分自身ではほとんど持つことなく、身軽に村から村へと移動できました。頒布した護符や諸品などの代金は初穂料として1年送り、すなわち、翌年再び当地に廻檀配札に訪れた際に徴収しました。それで得た現
金は旅費などの必要な分だけを所持し、あとは為替を使って国許に送金しました。
 こうした活動で大きな宣伝効果をもたらしたのが立山曼荼羅です。それは、立山にかかわる山岳宗教、いわゆる“立山信仰”の内容が、大きなものでは掛け合わせて縦160センチ×横240センチの大画面に網羅的に描かれた掛軸式絵画のことで、現在、全国各地に43点の作品が確認されています。
 立山曼荼羅の画面には、立山の山岳景観を背景として、この曼荼羅の主題である立山開山縁起のいくつかの場面をはじめ、立山地獄の様子、阿弥陀如来と諸菩薩の来迎場面、立山山麓・山中の名所や旧跡、芦峅寺布橋大灌頂法会の様子などが、マンダラのシンボルの日輪(太陽)・月輪(月)や参詣者などとともに巧みな画面構成で描かれています。
 芦峅寺衆徒は毎年、講元の庄屋宅に宿泊した際、近隣の村人を集め立山曼荼羅を掛けて絵解きしました。曼荼羅の画面から、立山開山縁起や立山地獄と立山浄土、女人禁制にまつわる伝説、布橋大灌頂法会などの内容を順々に引き出し、また時には、特定の内容だけを、話芸を駆使し、身ぶり手ぶりもまじえて物語ったといいます。そして、男性には夏の立山での禅定登山を勧誘し、女性には秋の彼岸に芦峅寺で行われる布橋大灌頂法会への参加や血盆経供養を勧誘しました。その際、自分の宿坊での宿泊を勧め、道案内などの便宜をはかることを約束しました。立山の山容や立山信仰の内容をよく知らない人々に、それを立山曼荼羅の具体的な図柄で視覚的に紹介したので、人々の間では難解な教理に基づく説教よりも、こうした絵解きによる娯楽性豊かな布教のほうが好まれ、かなりの人気を得ていたようです。
 一方、このような芦峅寺衆徒の活動に対し、岩峅寺の宿坊家の衆徒は、江戸時代後期、出開帳(宝物を公開して利益を得る宗教活動)による布教活動を頻繁に行うようになりました。岩峅寺の出開帳は、立山山中諸堂舎の修復費用などの捻出を名目に、加賀藩寺社奉行の許可を得て藩内各地の寺院を宿寺とし、あらかじめ取り決められた開催期間と収益分配に基づいて行われました。このほか、一部の岩峅寺衆徒が、加賀藩の許可を得て、あるいは無許可で、他藩に檀那場を形成し、出開帳を機縁に廻檀配札活動を行いました。これらの布教活動にも立山曼荼羅が宝物として公開されたり、芦峅寺と同様、檀那場での廻檀配札活動で信者に対して絵解き布教が行われました。


廻檀配札活動に赴く芦峅寺宿坊家の衆徒


芦峅寺宿坊家の護符(牛玉宝印「立山之宝」)〔富山県[立山博物館]所蔵〕
所蔵



立山曼荼羅 富山県[立山博物館]A本(富山県[立山博物館]所蔵)


19.立山曼荼羅の概説

 「立山曼荼羅」の呼称は、富山の郷土史家草野寛正氏が、昭和11年(1936)に氏の論文「立山姥堂の行事考」のなかで用いて以降、研究者のあいだで次第に普及し、今では一般の人々にもよく知られるようになりました。しかし江戸時代の芦峅寺文書や立山曼荼羅の軸裏の銘文などに、立山曼荼羅が「曼荼羅」の用語で表現されている場合も幾例か見られますが、大抵は「御絵伝」や「有頼由来立山御絵」、「開山之行状之御絵伝」などの用語で表現されています。いわゆる密教系の曼荼羅よりも浄土真宗の高僧絵伝などの性格に近いものとして認識されていたようです。
 形態については、1〜3幅本や5幅本も若干見られますが、現存のほとんどのものは4幅本です。おそらく、衆徒が廻檀配札活動や出開帳など移動をともなう活動で、携帯性を考慮して掛幅形式にしたものでしょう。4幅を掛け合わせると立山信仰の各種物語を網羅した大画面ができあがります。
 画面には、立山の山岳景観を背景として、この曼荼羅の主題である立山開山縁起の幾つかの場面をはじめ、立山地獄の様子、阿弥陀如来と諸菩薩の来迎場面、立山山麓・山中の名所や旧跡、芦峅寺布橋大灌頂法会の様子などが、マンダラのシンボルの日輪(太陽)・月輪(月)や参詣者などとともに巧みな画面構成で描かれています。
 一方、別の視点で立山曼荼羅を見ますと、その画面には立山連峰上空の天道や立山地獄谷の地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道、立山山麓の人道など、いわゆる六道の表現(六道絵)と、阿弥陀聖衆来迎の表現といった二つのモチーフが描かれており、したがってこれは、「六道・阿弥陀聖衆来迎図」としても位置づけることができます。こうした立山曼荼羅は、立山信仰を布教した立山衆徒(芦峅寺衆徒と岩峅寺衆徒)に絵解きされ、全国的に大変人気を集めました。
 立山曼荼羅に描かれた図像は『相真坊B本』を一例としてみていくと、次のとおりです。
1.布施城。鷹狩りに出かけた佐伯有頼と家臣。2.逃げた白鷹。3.佐伯有頼が熊に矢を射る。矢は熊に命中するが、熊は傷を負ったまま逃げる。それを追いかける佐伯有頼。4.玉殿窟。玉殿窟に顕現した矢疵阿弥陀如来と不動明王。その霊験に平伏す佐伯有頼。5.閻魔王庁。閻魔王と冥官。浄玻璃鏡。首枷の亡者。檀荼幢。業秤。6.獄卒が鋭利な刃物で亡者の肉を捌く(等活地獄)。7.獄卒が亡者を頑丈な鉄釜で煮る(等活地獄、瓮熟処)8.剣(針)の山の劔岳(等活地獄、刀葉林)。9.獄卒が亡者を臼に入れ、杵で搗き潰す(衆合地獄)。10.亡者が鉄の部屋に閉じこめられて炎で焼かれる(叫喚地獄)。11.亡者が二百肘の厚さの猛火で焼き尽くされる(叫喚地獄、雲火霧処)。12.獄卒が熱く熱せられた金挟みで亡者の舌を挟んで抜き出す(大叫喚地獄、受無辺苦処)。13.亡者が二千年かけて阿鼻地獄に堕ちていく(阿鼻地獄)。14.火車(阿鼻地獄)。15.目連救母説話(阿鼻地獄)。施餓鬼法要。16.獄卒が亡者に釘を打ち込む(等活地獄)17.餓鬼道。18.畜生道。19.森尻の智明坊(畜生道)。20.天女(天道)。21.阿修羅道。22.賽の河原と地蔵菩薩。23.血の池地獄と如意輪観音菩薩。24.石女地獄。25.両婦地獄。26.寒地獄。27.能「善知鳥」(片袖幽霊譚)。28.阿弥陀聖衆来迎(阿弥陀如来と観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊来迎、阿弥陀如来と二十五菩薩の来迎)。29.藤橋。30.称名滝。31.伏拝。32.一ノ谷の鎖場・獅子ヶ鼻。33.材木坂。34.美女杉。35.禿杉。36.姥石。37.鏡石。38.精霊田(餓鬼の田圃)。39.天狗山・天狗平の天狗。40.室堂小屋。41.一ノ越〜五ノ越、雄山山頂に立つ立山峰本社。42.別山山頂の硯ケ池。43.影向石。44.姥堂と姥尊像。45.閻魔堂と閻魔王像。46.布橋。47.引導師の式衆。48.来迎師の式衆。49.姥谷川の大蛇。50.奪衣婆と衣領樹。51.立山大権現祭礼。52.布橋大灌頂法会の参列者。



20.芦峅寺布橋大灌頂法会の概説

 江戸時代、立山は山中に地獄や浄土がある“あの世”の世界と考えられていました。
 男性はあの世の立山に入山することで擬似的に死者となり、地獄の責め苦に見立てられた厳しい禅定登山を行うことで、自分の罪や穢れを滅ぼして下山します。こうして新たな人格・生命に再生し、現世の安穏や死後の浄土往生が約束されました。
 しかし、当時の立山は女人禁制の場所でした。そこで、江戸時代、毎年秋彼岸の中日に山麓の芦峅寺村では、男性の禅定登山と同義の儀礼として、村の閻魔堂・布橋・姥堂の宗教施設を舞台に、女性の浄土往生を願って「布橋大灌頂」の法会が開催されました。
 地元宿坊衆徒の主催により、全国から参集した女性参詣者は閻魔堂で懺悔の儀式を受け、次にこの世とあの世の境界の布橋を渡り、死後の世界に赴きます。そこには立山山中に見立てられた姥堂(芦峅寺の人々の山神に端を発する姥尊が祀られていました)があり、堂内で天台系の儀式を受けました。こうして全ての儀式に参加した女性は、授戒し血脈を授かり、男性のように死後の浄土往生が約束されたのです。
 このように江戸時代、女性の参詣者で賑わった布橋大灌頂法会も明治初年の神仏分離令及び廃仏毀釈の影響で廃止されましたが、近年立山町を母体に布橋灌頂会実行委員会の主催で復活し、芦峅寺村の布橋と閻魔堂、富山県[立山博物館]遥望館を舞台に復元イベントが開催されました。


布橋から望む立山連峰


布橋大灌頂法会の復元イベント


血脈(富山県[立山博物館]所蔵)


21.江戸時代後期(天保期頃)に行われていた布橋大灌頂法会の様子

 布橋大灌頂法会の開催日(秋の彼岸の中日)が近づくと、芦峅寺には加賀藩領国内外から多くの参加者や見物人が訪れ、各宿坊などで準備を整え、法会の開始を待ちわびていたと考えられます。
 法会は正午から始まりますが、事前に衆徒や日雇いの門前百姓が諸準備を行いました。まず、会場となる閻魔堂や姥堂、布橋、及びその界隈を大掃除し、閻魔堂から布橋を経て姥堂まで、白布を敷き流して3列の白道を造ります。それには衆徒が勧進活動で各地の信者から得た360反の白布が使用されます。この白道は法会の舞台なので、一般見物人が入れないように両側を竹垣(行馬竹)で囲みます。次に布橋の上では、両側の欄干に6本の幡や68本の桜の造花、1000挺の蝋燭を立てて飾り付けをします。この他、閻魔堂や姥堂の軒先に、前田家の家紋入り大提灯をさげ、閻魔堂手前の玉橋から姥堂までは380の万灯(灯籠型提灯)と小灯を灯します。このように、日中でも薄暗い杉林の真っ直中の会場は、火の光で幻想的に演出されていたのです。姥堂内では、本尊に対する仏布施や丸餅などのお供えの他、須弥壇上に小袖や帯(北側の須弥壇上)、白布1反(南側の須弥壇上)を掛け供えます。
 こうして、全ての準備を整え、出勤の衆徒や社人が沐浴した後、いよいよ正午から布橋大灌頂が開始されました。
 さて、法会を勤める衆徒たちを式衆といいますが、なかでも中心的に法要全体を導く役を導師といいます。この法会では、衆徒のうち、高位の院主と阿闍梨が、それぞれ導師として、参加者をあの世で迎える来迎師と、参加者をこの世から送り出す引導師を勤めます。
 まず、参加者は閻魔堂に入れられます。堂内で引導師が懺悔戒文という文句を唱えるあいだ参加者は各自の罪を懺悔します。次に、引導師が三昧耶戒文という文句を唱えますが、これは参加者が灌頂を受ける前に授かるべきもので、そこには、参加者に対し、各自がもつ仏性(一切の衆生が備えている仏になれる本性)に目覚めさせるといった意味があります。さらに、仏の金剛界大日如来を讃える詩文を唱え、法華経を読み、諸真言を唱えます。
 閻魔堂での法要が一通り終わると、参加者は引導師や式衆に導かれ、声明曲や楽器(鉢・錫杖・法螺・鐃・引金)の音に包まれながら、蝋燭や万灯の光で荘厳されたなかを、白布の上を歩いて布橋へ向かいます。幕末には雅楽も持ち込まれ、かなり賑やかになったようです。そして、ついにこの法会のメーン・イベントである布橋の上での灌頂行道、すなわち「行渡講」が行われます。参加料は最低10匁でした。
 布橋の閻魔堂側の端から橋の中央に向かって、引導師が率いる式衆の一群が高位の順に立ち並び、逆に姥堂側の端から橋の中央に向かっては、来迎師が率いる式衆の一群が高位の順に立ち並びます。橋の両端の真ん中には引導師と来迎師が立ち、修法を行います。それが終わると、参加者は式衆たち総勢百十数名に白道の両側を囲まれ、楽器の音が響くなか、2人の手引きの小僧に導かれて、布橋上の白道を渡ります。
 布橋での行渡講が終わると、参加者は姥堂に入れられます。堂内では式衆が天台系の四箇法要(4つの声明曲の唄・散華・梵音・錫杖を軸に組み立てられた法要)を勤めます。さらに、来迎師が参加者に血脈(正しい密教の秘法が伝授された証明となる護符)を授与し、最後に説法を行いました。女性の参加者たちは、この法会に参加することで、死後の極楽浄土への往生が約束されたか、あるいはその場で即身成仏したのだといわれています。


立山曼荼羅 吉祥坊本(布橋大灌頂法会の場面)〔個人所蔵〕


立山曼荼羅 吉祥坊本(布橋大灌頂法会の場面)〔個人所蔵〕

22.参考書籍

●福江充著『江戸城大奥と立山信仰』(法蔵館、2011年8月)。
●福江充著『立山曼荼羅―絵解きと信仰の世界』(法蔵館、2005年7月)。
●福江充著『立山信仰と布橋大灌頂法会』(桂書房、2006年9月)。
●福江充著『立山信仰と立山曼荼羅』(岩田書院、1998年4月)。
●福江充著『近世立山信仰の展開』(岩田書院、2002年5月)。






23.福 江 充(プロフィール)

福江 充(ふくえ みつる)

生   年 1963年

出 身 地  富山県小矢部市

現   職 富山県[立山博物館]副主幹・学芸員

専門分野 歴史学(日本近世史学)と民俗学(日本宗教民俗学)。特に立山の歴史・民俗・信仰。

略   歴 1989年 大谷大学大学院文学研究科修士課程修了
       1990年 富山県[立山博物館]建設準備室学芸員
       1991年 富山県[立山博物館]学芸員
       1998年 富山県[立山博物館]主任・学芸員
       2005年 金沢大学より博士号(文学)取得
       その他
       1999年〜2000年 国立歴史民俗博物館博物館資料調査員
       1999年〜2002年 小矢部市史執筆者
       2002年〜現在   富山市日本海文化研究所研究員
       2002年〜2004年 上市町黒川地区中世宗教遺跡群保護調査委員会委員
       2005年〜現在   立山町・布橋灌頂会実行委員会委員
       2006年        富山大学人文学部非常勤講師(前期・富山県派遣)
       2007年        富山大学人文学部非常勤講師(前期・富山県派遣)
       2008年        放送大学非常勤講師(8月〜9月)
       2010年〜2012   富山県[立山博物館]係長・学芸員
       2012年〜現在   富山県[立山博物館]副主幹・学芸員

受   賞 第9回(平成11年度)日本山岳修験学会賞
       第3回(平成18年度)日本学術振興会賞
       第24回(平成19年度)とやま賞

受   彰 平成19年度富山県優良職員表彰

研   修 1993年 東京国立文化財研究所主催博物館・美術館等保存担当学芸員研修修了
       1997年 文化庁主催第11回指定文化財展示取扱講習会課程修了

所属学会 日本山岳修験学会(理事)、北陸宗教文化学会(理事)、日本民俗学会(評議員)、日本宗教民俗学会(委員)、越中史壇会(委員)。
       富山民俗の会(幹事)、日本歴史学会、「近世の宗教と社会」研究会。

著 作 物

【単行著】
●『立山信仰と立山曼荼羅−芦峅寺衆徒の勧進活動−(日本宗教民俗叢書4)』(岩田書院、1998年4月)。
●『近世立山信仰の展開−加賀藩芦峅寺衆徒の檀那場形成と配札−(近世史研究叢書7)』(岩田書院、2002年5月)。
●『立山曼荼羅−絵解きと信仰の世界−』(法蔵館、2005年7月)。
●『立山信仰と布橋大灌頂法会―加賀藩芦峅寺衆徒の宗教儀礼と立山曼荼羅―』(桂書房、2006年9月)。
●『立山信仰の歴史』(立山貫光ターミナル株式会社、2006年9月)。
●『江戸城大奥と立山信仰』(法蔵館、2011年8月)。

【共著】
●『富山ものしり雑学大全』(シーエーピー、富山テレビ放送、1994年7月)。
●『とやま民俗文化誌』(シー・エー・ピー、富山民俗文化研究グループ、1998年8月)。
●『情報と物流の日本史−地域間交流の視点から−』(雄山閣出版株式会社、地方史研究協議会、1998年10月)。
●『ふるさと富山歴史館(富山新聞復刊55年記念出版)』(富山新聞社、2001年3月)。
●『立山信仰曼荼羅の里 史跡を訪ねる』(立山町教育委員会、2001年7月)。
●『小矢部市史―おやべ風土記編―』(小矢部市、2002年12月)。
●『朝日ビジュアルシリーズ 週間日本遺産 立山 黒部峡谷NO.36』(朝日新聞社、  2003年7月)。
●『大いなる遺産 立山黒部100万年の輝き』(北日本新聞社、2004年8年)。
●『真鍋俊照博士還暦記念論集 仏教美術と歴史文化』(真鍋俊照編著、法蔵館、 2005年10月)。
●『近世の宗教と社会 @地域のひろがりと宗教』(高埜利彦・青柳周一・西田かほる編、吉川弘文館、2008年5月)。
●『もうひとつの劔岳 点の記』(山と渓谷社編、山と渓谷社、2009年7月)。
●『真鍋俊照博士古希記念論集 密教美術と歴史文化』(真鍋俊照編著、法蔵館、2011年5月)。

【論文】
●「布橋灌頂会の変遷について−文政期から天保期を中心として−」(『富山史壇  第113号』所収、越中史壇会、1994年3月)。
●「立山曼荼羅[坪井龍童氏本]について」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第1号』所収、1994年3月)。
●「もと高野山学侶龍渕の在地宗教活動」(『宗教民俗研究 第4号 五来重先生追 悼号』所収、日本宗教民俗学研究会、1994年9月)。
●「近世後期における芦峅寺系立山曼荼羅の制作過程についての一試論」(『富山 県[立山博物館]研究紀要 第2号』所収、1995年3月)。
●「布橋灌頂会に関する一考察」(『北陸の民俗 第11集』所収、北陸三県民俗の会、1995年8月)。
●「立山講社の活動−近代化のなかでの模索」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第3号』所収、1996年3月)。
●「近代の立山信仰−立山山麓芦峅寺村旧宿坊衆徒による立山講社の活動−」(『日本近代仏教史研究 第4号』所収、日本近代仏教史研究会、1997年3月)。
●「近世幕末期の江戸における立山信仰−越中立山山麓芦峅寺衆徒の江戸の檀那場での廻檀配札活動−」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第4号』所収、1997年3月)。
●「立山衆徒の勧進活動と立山曼荼羅」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会、1997年11月)。
●「江戸時代幕末期 芦峅寺宿坊家間の檀那場をめぐる争いについて」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第5号』所収、1998年3月)。
●「立山信仰にみる石仏寄進の一例」(『宗教民俗研究 第8号』所収、1998年6月)。
●「芦峅寺宿坊家の廻檀配札活動とその収益の行方」(『富山市日本海文化研究所報 第21号』所収、富山市日本海文化研究所、1998年9月)。
●「立山略縁起と立山曼荼羅−芦峅寺宝泉坊旧蔵本『立山縁起』の紹介と考察−」(『国文学 解釈と鑑賞 第63巻12号 特集 物語る寺社縁起』所収、至文堂、1998年12月)。
●「幕末期江戸の立山信仰−芦峅寺宝泉坊の江戸の檀那場と廻檀配札活動の実態−」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第6号』所収、1999年3月)。
●「芦峅寺姥堂の立地・構造からみた布橋灌頂会」(『郷土の文化 第25輯』所収、富山県郷土史会、2000年3月)。
●「立山曼荼羅の図像描写に対する基礎的研究−特に諸本の分類について−」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第7号』所収、2000年3月)。
●「江戸時代中期における江戸の立山信仰」(『富山史壇 第133号』所収、2000年12月)。
●「江戸時代後期における房総半島の立山信仰」(『富山市日本海文化研究所報 第26号』所収、2001年3月)。
●「信濃国の立山信仰」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第8号』所収、2001年3月)。
●「芦峅寺一山衆徒の加賀藩主に対する年頭御礼について」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第9号』所収、2002年3月)。
●「『義賢行者当峯山籠中復覆』―木食聖義賢と芦峅寺一山―」(『富山史壇 第138号』所収、2002年10月)。
●「芦峅寺衆徒が常陸国・上総国・下総国で形成した檀那場―文献史料上最北の檀那場―」(『富山史壇 第140号』所収、2003年3月)。
●「富士山・立山・白山の三山禅定と芦峅寺宿坊家の檀那場形成過程」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第10号』所収、2003年3月)。
●「芦峅寺教算坊が大坂で形成した檀那場と立山曼荼羅」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第11号』所収、2004年3月)。
●「史料紹介 高野山学侶龍淵筆『高野山天徳院由来等縷記 文化七年』」(『富山史壇 第142・143合併号号』所収、2004年3月)。
●「芦峅寺姥尊(オンバサマ)とお召し替え行事」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第12号』所収、2005年3月)。
●「芦峅寺日光坊の姥堂別当及び布橋大灌頂法会開催に関わる勧進活動―日光坊所蔵の立山御姥尊別当奉加勧進記(弘化3年)を中心に―」(『富山市日本海文化研究所紀要 第19号』所収、2005年10月)。
●「江戸時代中期の芦峅寺系立山曼荼羅と布橋儀式(のちの布橋大灌頂法会)―「坪井家A本」と「金蔵院本」にみる江戸時代中期の構図と画像―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第13号』所収、2006年3月)。
●「立山山麓芦峅寺の数珠繰り行事」(『富山の民俗学は今―富山民俗の会50周年記念論文集』所収、富山民俗の会、桂書房、2006年7月)。
●「立山曼荼羅の成立過程に関する一考察―木版立山登山案内図から立山曼荼羅への展開―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第14号』所収、2007年3月)。
●「越中立山芦峅寺の布橋大灌頂」(『北陸宗教文化 第19号』所収、北陸宗教文化学会、2007年3月)。
●「剱岳をめぐる立山信仰」(『地図中心 2007年6月号 通巻417号』所収、財団法人日本地図センター、2007年6月)。
●「立山信仰と立山曼荼羅―初心者もわかる立山信仰世界―」(『山からみた日本海文化U(日本海文化研究所公開講座平成18年度記録集)』所収、富山市日本海文化研究所、2007年8月)。
●「立山信仰と三禅定(交通史研究会例会報告要旨 2007年9月8日 於富山県民会館)」(『交通史研究 第64号』所収、交通史研究会、2007年12月)。
●「立山地獄を闊歩する」(『アート・トップ 通巻221号 特集 地獄絵巡礼』所収、芸術新聞社、2008年4月)。
●「芦峅寺宝泉坊の江戸での檀那場形成と「立山信仰」の展開(1)」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第15号』所収、2008年5月)。
●「立山講社と東京神道立山講社にみる近代の立山信仰―東京神道立山講社と相撲の立浪部屋との関係にもふれながら―」(『北陸宗教文化 第21号( 島 岩博士追悼記念論文集)』所収、北陸宗教文化学会、2008年7月)。
●「芦峅寺宝泉坊の江戸での檀那場形成と「立山信仰」の展開(2)―江戸時代後期の江戸城大奥及び諸大名家をめぐる立山信仰―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第16号』所収、2009年3月)。
●「江戸城大奥および諸大名家と布橋灌頂会」(『富山史壇 第161号』所収、越中史壇会、2010年3月)。
●「富士山・立山・白山を巡る三禅定の時期的変遷―特に白山山麓の馬場の問題にも関連して―」(『北陸宗教文化 第23号』所収、北陸宗教文化学会2010年3月)。
●「芦峅寺宿坊家の尾張国檀那場と三禅定(富士山・立山・白山)関係史料」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第17号』所収、2010年3月)。
●「幕末期江戸城大奥や諸大名家をめぐる立山信仰」(『山岳修験 第45号』所収、日本山岳修験学会、2010年3月)。
●「最後の飛騨郡代新見内膳正功と立山信仰―特に芦峅寺宝泉坊との関係を中心に―」(『富山市日本海文化研究所紀要 第24号』所収、富山市日本海文化研究所、2011年3月)。
●「立山曼荼羅の絵解き再考―芦峅寺宝泉坊泰音の「知」と御絵伝(立山曼荼羅)招請に着眼して―」(『富山県[立山博物館]研究紀要 第18号』所収、2011年3月)。
●「石造物資料にみる江戸時代の三禅定(富士山・立山・白山)」(『山岳修験 第48号 白山特集』所収、日本山岳修験学会、2011年8月)。
●「最後の飛騨郡代新見内膳が芦峅寺宝泉坊に宛てた書状」(『富山史壇 第167号』所収、越中史壇会、2012年3月)。

【調査報告書】
●『富山県[立山博物館]館蔵資料目録(T)』(1996年3月)。
●『富山県[立山博物館]館蔵資料目録(U)』(1997年3月)。
●『立山山上石造物・関連遺跡調査報告書(1) 室堂・玉殿窟』(富山県[立山博物館]、1997年3月)。
●『立山山上石造物・関連遺跡調査報告書(2) 地獄谷・賽の河原』(富山県[立山博物館]、1998年3月)。
●『社寺境内図資料集成1 東北・関東・中部・中国・四国・九州(国立歴史民俗博物館資料調査報告書)』(国立歴史民俗博物館、2001年3月)。

【講演録等】
●「討議 立山曼荼羅と立山信仰(第17回日本山岳修験学会立山大会シンポジウム 平成8年10月19日、立山国際ホテル、司会:米原寛・木場明志 パネリスト:宮家準・廣瀬誠・岩鼻通明・由谷裕哉・菊池武・福江充)」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、日本山岳修験学会、1997年11月)。
●「フォーラム「山からみた日本海文化」(平成19年9月23日に、とやま市民交流館で開催されたフォーラムの記録、出演は藤田富士夫氏・黒崎直氏・森俊氏・福江)」(『富山市日本海文化研究所報 第41号』所収、富山市日本海文化研究所、2008年9月)。
●「立山信仰の歴史と立山曼荼羅 富山県[立山博物館]主任・学芸員 福江充」(『大学体育 第92号(第35巻2号)』所収、社団法人全国大学体育連合、2008年12月)。
●「立山信仰の世界(映画「劔岳 点の記」に関する話題を交えて)(第27回 2009年電気設備学会全国大会特別講演)」(『電気設備学会誌 第30巻第1号 通巻316号』所収、社団法人電気設備学会、2010年1月)。
●「立山信仰と布橋大灌頂」(『石川の歴史遺産セミナー講演録「白山」第5回〜8回』所収、石川県立歴史博物館、2010年3月)。

【対談集】
●「祈りの源流―立山信仰成立前夜―」(対談者:苅谷俊介・福江充『県民カレッジテレビ放送講座 遙かなる記憶 〜考古学が語る富山〜』富山県民生涯学習カレッジ、2004年1月)。

【辞典・辞書の項目】
●『日本歴史地名大系16 富山県の地名』(平凡社、1994年7月)。
●『日本民俗宗教辞典』(東京堂出版、1998年4月)。
●『北アルプス大百科』(ティービーエス・ブリタニカ、2000年8月)。
●『日本歴史大事典−2』(小学館、2000年10月)。
●『日本歴史大事典−3』(小学館、2001年3月)。

【目録】
●「立山信仰史研究文献目録」(『山岳修験 第20号 立山特集』所収、1997年11月)。
●「『富山史壇』論文等目録」(越中史壇会50周年記念事業実行委員会、2004年10月)。

【コラム】
●「姥尊のお召替え行事について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第1号』所収、富山県[立山博物館]、1992年4月)。
●「江戸時代の「立山権現祭」について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第2号』所収、1992年8月)。
●「雄山神社例大祭について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第3号』所収、1992年10月)。
●「立山信仰と遊行宗教者−真言僧龍渕の芦峅寺定着」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第4号』所収、1993年3月)。
●「富山県[立山博物館]の開館準備に携わって」(『大谷大学博物館学課程年報 第4号』所収、大谷大学博物館学課程委員会、1993年3月)。
●「史料紹介 宝泉坊文書−立山曼荼羅の寄進について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第5号』所収、1993年7月)。
●「史料紹介 閻魔堂前庭に建つ龍淵の墓碑について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第6号』所収、1993年8月)。
●「史料紹介 『立山本地阿弥陀如来略記』にみられる布橋灌頂会」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第7号』所収、1993年12月)。
●「平安時代のビハーラ活動」(『北日本新聞夕刊 平成5年12月14日』)。
●「本つれづれ 五来重著『葬と供養』 「葬」の研究を通して日本文化の本質を探る」(『北日本新聞 平成6年9月19日』)。
●「史料紹介 布橋の長さを18間とする史料について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第10号』所収、1994年10月)。
●「史料紹介 立山山麓芦峅寺旧宝泉坊の檀那帳に見られる「パーシヴァル・ローエル」の名前」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第11号』所収、1994年12月)。
●「立山山麓芦峅寺の経帷衣」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第14号』所収、1995年9月)。
●「日本山岳修験学会・第17回 立山大会の開催」(『季刊霊峰立山 第3号』所収、たてやま山岳出版会、1996年10月)。
●「第16回 日本山岳修験学会 相模大山大会参加記」(『山岳修験 第18号 相模大山特集』所収、1996年12月)。
●「学芸員の窓−大学の授業は最大限に活用しよう」(『大谷大学博物館学課程年報 第8号』所収、1997年3月)。
●「石仏寄進−近世の立山信仰」(『万華鏡 70号 磨崖仏』所収、ふるさと開発研究所、1997年7月)。
●「立山曼荼羅「宝泉坊本」と「吉祥坊本」(上)」(『北日本新聞 平成9年7月18日』)。
●「立山曼荼羅「宝泉坊本」と「吉祥坊本」(下)」(『北日本新聞 平成9年7月21日』)。
●「大学時代の出会いはその後の人生を変えることだってありえる?」(『大谷大学広報 bP31 98春』所収、大谷大学広報編集委員会、1998年4月)。
●「立山信仰資料の翻刻紹介 芦峅寺大仙坊の立山御姥尊別当奉加帳について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第33号』所収、2000年7月)。
●「芦峅寺閻魔堂下の明念坂脇に立つ未完成の石仏」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第34号』所収、2000年10月)。
●「立山曼荼羅に関する外郭情報 特に呼称と形態について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第36号』所収、2001年3月)。
●「博物館へ行こう! 歴史的景観を活かした博物館 富山県立山博物館」(『歴博 第105号』所収、国立歴史民俗博物館、2001年3月)。
●「芦峅寺教蔵坊のかつての檀家(諏訪市山田家)―山田家所蔵文書から―」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第42号』所収、2002年10月)。
●「立山信仰資料の翻刻紹介 宝篋印塔造立勧進記について」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第43号』所収、2003年1月)。
●「立山信仰資料の翻刻紹介 『立山地獄谷伽羅山地蔵大菩薩』(大仙坊所蔵)」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第44号』所収、2003年3月)。
●「もと高野山学侶龍淵の加賀藩での宗教活動(富山史壇平成14年度研究発表会要旨)」(『富山史壇 第139号』所収、2003年2月)。
●「加賀藩に支配された江戸時代の立山信仰」(『ナチュラリスト広場 第92号』所収、富山県ナチュラリスト協会、2003年6月)。
●「江戸時代芦峅寺で行われた布橋大灌頂の祭礼」(『ナチュラリスト広場 第93号』所収、富山県ナチュラリスト協会、2003年9月)。
●「江戸幕府の老中と立山信仰―芦峅寺宝泉坊と三河国西尾藩主松平乗全との関係」(『ナチュラリスト広場 第94号』所収、富山県ナチュラリスト協会、2003年12月)。
●「立山信仰資料の翻刻紹介 芦峅寺宝伝坊の御姥尊縁起(文政3年)」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第47号』所収、2004年1月)。
●「特集 立山衆徒の勧進活動と立山曼荼羅」(『らいちょう会 4号』所収、立山貫光らいちょう会、2006年10月)。
●「ミニ講演 立山曼荼羅の死生観」(『全国高等学校国語教育研究連合会 第39回研究大会 富山大会 こころをつなぐことば―人と出会い、自然と出会う―』所収、全国連第39回研究大会富山大会実行委員会、2006年11月)。
●「立山衆徒の勧進布教活動と立山曼荼羅(第6分科会ミニ講演要旨)」(『全国高等学校国語教育研究連合会 第39回研究大会 富山大会 大会集録』所収、全国連第39回研究大会富山大会実行委員会、2007年3月)。
●「越中讃歌 立山信仰 福江充 現代映す曼荼羅世界」(『北日本新聞 平成19年3月31日』)。
●「いつも身近に資料がある学芸員の幸せ」(『学術月報 第60巻第5号 通巻第750号』所収、日本学術振興会、2007年5月)。
●「平成19年度 とやま賞 今年度の受賞者 学術研究(歴史学) 富山県[立山博物館]主任・学芸員 福江充」(『創造 No.48』所収、富山県ひとづくり財団、2008年3月)。
●「コラム 東京神道立山講社と大相撲立浪部屋」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第63号』所収、2008年1月)。
●「布橋大灌頂にみる水の信仰 越中立山芦峅寺」(『みずのわ 第136号』所収、前澤工業株式会社みずのわ発行委員会、2008年7月)。
●「天璋院篤姫も鑑賞した立山曼荼羅」(『弦 第4号』所収、弦短歌会、2008年8月)。
●「史料紹介 芦峅寺庚申塚に建つ尾張晩翠の句碑と布橋大灌頂法会」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第66号』所収、2008年10月)。
●「特集 立山登拝 衆生を救う霊山、立山」(『ひととき 第8巻第10号』所収、株式会社ジェイアール東海エージェンシー、2008年10月)。
●「特集 立山登拝 信仰を支えた巧妙なイメージ戦略」(『ひととき 第8巻第10号』所収、株式会社ジェイアール東海エージェンシー、2008年10月)。
●「篤姫・和宮と立山信仰 福江充」(『北日本新聞 平成20年12月17日』)。
●「剱岳と立山信仰(『劔岳 点の記』をよりよく理解するための解説)」(『測量 第59巻 第2号 通巻695号』所収、社団法人日本測量協会、2009年2月)。
●「ひとくちコラム 最も愛着のある品物」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第67号』所収、2009年1月)。
●「新発見史料の紹介 「立山御姥尊布橋寄進帳」(岐阜県歴史資料館所蔵)」(『たてはく−人と自然の情報交流誌 第67号』所収、2009年1月)。
●「悠閑春秋 福江充 善悪の逆転」(『北日本新聞 夕刊 平成21年4月27日』)。
●「悠閑春秋 福江充 立山曼荼羅」(『北日本新聞 夕刊 平成21年5月28日』)。
●「悠閑春秋 福江充 地獄の山・剱岳」(『北日本新聞 夕刊 平成21年6月24日』)。
●「悠閑春秋 福江充 三禅定コース」(『北日本新聞 夕刊 平成21年7月22日』)。
●「悠閑春秋 福江充 芦峅寺の姥尊」(『北日本新聞 夕刊 平成21年8月18日』)。
●「五来重先生と立山芦峅寺の布橋大灌頂―立山博物館」(『五来重著作集 月報11』所収、法蔵館、2009年8月)。
●「悠閑春秋 福江充 布橋灌頂会」(『北日本新聞 夕刊 平成21年9月14日』)。
●「悠閑春秋 福江充 立山の紅葉」(『北日本新聞 夕刊 平成21年10月15日』)。
●「悠閑春秋 福江充 立山信仰と立浪部屋」(『北日本新聞 夕刊 平成21年11月12日』)。
●「悠閑春秋 福江充 聖なる動物」(『北日本新聞 夕刊 平成21年12月10日』)。
●「立山曼荼羅に描かれた地獄と極楽」(『男の隠れ家 第15巻第10号 通巻173号』所収、朝日新聞社・株式会社グローバルプラネット、2011年10月)。

【博物館常設展示・企画展示解説図録】
●『富山県[立山博物館]常設展示総合解説』(富山県[立山博物館]、1991年11月)。
●『立山のこころとカタチ−立山曼荼羅の世界−』(富山県[立山博物館]、1991年11月)。
●『立山信仰の源流−マンダラの世界−』(富山県[立山博物館]、1992年7月)。
●『もうひとつの立山信仰−立山信仰と立山温泉−』(富山県[立山博物館]、1992年10月)。
●『富山県[立山博物館]常設展示観覧の手引き』(富山県[立山博物館]、1993年3月)。
●『古絵図は語る−立山・イメージとそのカタチ』(富山県[立山博物館]、1993年6月)。
●『立山信仰−祈りと願い−』(富山県[立山博物館]、1994年7月)。
●『霊山巡詣−立山にみる遊・憂・悠−』(富山県[立山博物館]、1995年6月)。
●『曼荼羅世界の邂逅−立山曼荼羅、その背後にあるもの−』(富山県[立山博物館]、1996年9月)。
●『富山県立山博物館総合案内』(富山県[立山博物館]・千里文化財団、1997年3月)。
●『カミを招くかたち−立山・現代に生きるマンダラ−』(富山県[立山博物館]、1997年9月)。
●『神像・仏像は語る−越中立山の山岳信仰−』(富山県[立山博物館]、1998年9月)。
●『立山登山案内図と立山カルデラ』(立山カルデラ砂防博物館、2000年7月)。
●『とやま 版−越中版画から現代の版表現まで− 資料集』(富山県民会館美術館、2000年10月)。
●『地獄遊覧−地獄草紙から立山曼荼羅まで−』(富山県[立山博物館]、2001年9月)。
●『「山宮」に生きる―立山のくらしと民具―』(富山県[立山博物館]、2003年9月)。
●『立山曼荼羅 物語の空間』(富山県[立山博物館]、2005年7月)。
●『立山と真宗―御絵伝がつなぐ二つの世界―』(富山県[立山博物館]、2006年9月)。
●『立山の地母神 おんばさま』(富山県[立山博物館]、2009年9月)。
●『綜覧 立山曼荼羅』(富山県[立山博物館]、2011年6月)。