青山学院大学MBAレポート(94-96年)

 

 1 入学の理由 

 2 入試と学費 

 3 組織と科目配置

 4 修了方法 

 5 生存率50% 

 6 会社と学校の両立 

 7 得られることと、失われること


1 入学の理由

 大学時代、私はあまり勉強しなかった。1985年当時全盛だった300を越えるテニスサークルの一つ(エキスパーツ)と、趣味は絵なんですよと言えたらカッコいいなあと思って入った美術研究会、その活動費や一人暮らしの生活費を稼ぐためのアルバイトで全体の70%くらいの時間とエネルギーを費やしていた。すなわち勉強に充てていたのはせいぜい三割くらいなものだった。授業に出てをいい成績を取るよりも、今しかできないことをやった方がいい、という当時の文科系学部に蔓延していたお気楽な雰囲気も味方だった。ガリ勉は軽蔑の対象だった。マジメだなあというのは悪口であり、硬派だなあというのは若干の尊敬を込めた悪口だった。いかにしてサークルを盛り上げるのか、どうやったら女の子とうまくつきあえるのか、というのが当時の少なくとも過半数を越える男子文系学部生の関心事であった。日本中の大学が慶応化したと批評家から揶揄されたのもこの頃の話である。当時はそんな言葉はなかったが、バブル前夜だったのだろう。

 しかし、大学での勉強も今しかできないことなのであった。仕事に必要なスキルや広い意味での教養にいかに欠けているか思い知らされたのは、社会人になってしばらくしてからだった。後の祭りとはこのことである。よく聞く話だがもう少し勉強していればなあ、という口惜しさ。これが大学院で学び直したいと思った第1の理由である。

 ありていに言えば、マーケティングとセールスの違いを理解していなければ、単なる売り子で終わってしまう。企業戦略のイロハがわからなければ相手の会社はおろか、自社の戦略すら理解できない。財務論を知らなければ、P/LとB/Sの意味もつかめない。人事・労務の基礎知識がなければ、人事制度の持つ重みが分からない。91年にアメリカの子会社で勤務したときのことだが、MBAを持っている人を相手に商談をすると、まるで竹槍でステルス戦闘機に向かっているような感じを受けた。相手は最新の武器を100も持っているのに、自分には度胸くらいしかない。相手のいいように商談が進むのは当然のことであった。これは何とかしなくてはいけないと思ったのが第2の理由である。

 アメリカ風に言う平均成績(Grade Point Average: GPA)は3.5(優を4、良を3、可を2と数えた平均値)であり、優等生ではなかったが劣等生でもなかった。商学部卒だったから経済学、ファイナンス、マーケティングなどのひと通りの知識はあった。あまり評価は高くなかったが規制緩和に関する卒業論文も書いていた。しかし、自由過ぎた科目選択の故に体系化された知識・スキルにはなっていなかった。AとCとDは知っているが、BとEを知らないために全体が掴めないというもどかしさがあった。断片的な知識と社会人としての実務経験を一つの有機的な円のようにつなげてみたかったというのが、大学院で勉強したいと思った第3の理由である。

 米国子会社(カリフォルニア)から帰国した92年に海外大学院留学研修制度の社内選考があったが、あっさりと一次試験の英語で落ちた。もし合格すれば会社のお金で欧米の大学院に1-2年留学させていただけるのである。その間、仕事は全くしなくてよい。私はこのときすでにTOEIC 905点・TOEFL 600点を取っていたから、英語力に問題はなかった。しかし人事部の考え方として英語だけできる人よりも、英語ができなくても仕事ができる人を選んでいたと聞いたのはずっと後のことであった。つまり私は仕事ができないヤツと思われていたのだ。

 合格した同期入社社員を見てみると、いわゆるピカピカしたスター選手ばかりだった。仕事もできる、英語もできる、精神的に安定している。自分はそんな器ではない。そんな気がした。とは言え、欠けているものを補うために大学院で勉強したいという気持ちには変わりがなかったので、自分で夜間大学院を受験したのが93年秋のことであった。これが第4の理由である。

 しかし幸か不幸か94年に行われた二度目の海外大学院留学研修制度の社内選考に合格し、96年7月から2年間、社命でフランスにMBA留学することになった。青山学院大学大学院に在学したのは94年4月から96年3月までだったから、日仏二つの大学院に4年続けて通うことになったわけである。何とも複雑な気持ちになった。



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2 入試と学費

 私は会社員として会社の経営に関わることを全般的に学びたいと思ったので、まず青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際ビジネス専攻(Graduate School of International Business: GSIB)の国際経営学コース(東京都渋谷区)を受験することにした。他に国際政治学コース、国際経済学コース、国際コミュニケーションコースが置かれており、それぞれ修論研究コース(4月入学・2年在学)と専門研究コース(9月入学・2年半在学)があり、試験科目や出願条件が異なっていた。入試はどちらも2月であった。

◆受験するときは大学院事務室*等から最新の正確な情報を入手してください。上記は94年度入試の情報です。

 青山学院大学に国際政治経済学部が開設されたのが82年、大学院国際政治経済学研究科博士課程(5年一貫制)が開設されたのが86年、夜間大学院国際ビジネス専攻(GSIB)が発足したのが90年4月、世界的な研究者を招いて11の寄附講座が始まったのが91年、国際ビジネスが昼夜開講制になったのが92年、カーネギーメロン大学ビジネススクールとの国際合同授業が始まったのが92年9月のことであった。私が受験したときはまだ3年しか経っていなかった研究科ではあったが、矢継ぎ早の充実ぶりに大学側の並々ならぬ熱意と姿勢が感じられた。また私が修了した翌年度(97)からファイナンスコースが新設されている。2001年4月には国際マネージメント研究科(Graduate School of International Management: GSIM)が誕生した。

*青山学院大学大学院事務室
150-0002東京都渋谷区渋谷4-4-25
Tel. 03-3409-7831
http://www.gsim.aoyama.ac.jp/

 私が受験した国際経営学コース(修論研究コース)では、94年1月27日に願書が締め切られ、2月5日(土)に一次審査(筆記試験)が行われた。科目は専門科目(経営学原論)と英語である。二次審査は2月23日(水)であり、研究計画書に基づいた面接であった。検定料は35,000円だった。

 一次・二次審査の結果を総合的に判断するということになっていたが、最も重視するのは研究計画書である。社会人らしい独創的な研究内容と研究計画を熱意を持って論理的に説明できなければ、合格はおぼつかない。これは今でも同じはずである。倍率は約3倍だった。3月10日に合格したときはうれしさよりも一人暮らしをしながら2年で150万円の授業料を払えるかなあという心配の方が先に立った。入学時の納付金は602,700円で、初年度合計では953,400円必要であった。私の給料は月6万の家賃を払いながらさらに150万円をポンと出せるほど高くはなかった。なお、2002年度に国際マネジメント研究科(修士)に入学する方の初年度納付金は1,322,400円であるという。

青山学院大学・渋谷キャンパス

 なお、日本の学位では修士(国際経営学)になるが、英文の証明書では学位はMBAとなる。ただし、米GMAC*には正式なMBAとしては登録されていなかった(93年当時)。たぶん試験科目でGMAT*受験を必須としていなかったからであろう。

*GMAC: Graduate Management Admission Council
*GMAT: Graduate Management Admission Test

 他に受験したのはA大学大学院(国立)だけだった。しかし、面接で研究計画書を読んだ教授に「ここにはそういう研究をサポートできる教授はいないよ」と言われて受験では落とされてしまった。サポートしてくれなくても自分でやりますよ、とも言ってみたがどうもそれを認めない方針ようだった。試験科目が小論文だけで、英語がなかったのも敗因だったろう。米国勤務(91-92年)で鍛えた英語力は全く評価されなかった。

 また、B大学(私立)は国内では最も歴史があり、世界的にもMBAとして認められ、海外有力校との提携が充実している点では大変魅力的だったが、全日制のため会社を辞めなくてはならなかったのがネックだった。当時、私の仕事はやりがいがあったし、そのまま会社に残りたいと考えていたので受験しなかった。

 今でこそ社会人向け大学院は山のようにあるが、93年当時、社会人向けの経営系プログラムを持っていたのは上に挙げたようにほんの数校しかなかった。もちろん偏差値表のようなものもなかったし、予備校もなかった。友人では社会人で大学院に行っている人が一人いたくらいで、その人から学校の様子を聞くぐらいが関の山だった。何が起こるかわからない手探りの受験であった。

*参考文献 「MBA-アメリカのビジネスエリート」和田充夫 講談社現代新書 1991



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3 組織と科目配置

 青山学院大学大学院国際政治経済学研究科の組織は、97年4月から2001年3月まで次のようになっていた。

◆受験するときは大学院事務室等から最新の正確な情報を入手してください。下の表は97〜2000年度の情報です。

国際政治経済学研究科の組織(97〜2000年)

修士

国際ビジネス

専攻

(110名)

コース名

修了方法

学位(日)

学位(英)
国際政治学コース
(定員25名)

修論研究(定員10名)

修士(国際政治学)

MA
専門研究(15)

修士(国際政治学)

MA
国際経済学コース
(25名)

修論研究(10)

修士(国際経済学)

MA
専門研究(15)

修士(国際経済学)

MA

ファイナンスコース

(15名)

修論研究(5)

修士(ファイナンス)

MS

専門研究(FAST*:15)

修士(ファイナンス)

MS

国際経営学コース

(45名)

修論研究(15)

修士(国際経営学)

MBA

専門研究I(15)

修士(国際経営学)

MBA

専門研究II(15)

修士(国際経営学)

MBA

国際コミュニケーション専攻

(30名)

修論研究(15)

修士(国際コミュニケーション)

MA
専門研究(15)

修士(国際コミュニケーション)

MA
博士
(5年一貫制)

国際政治学専攻(3名)

博士(国際政治学)

PhD

国際経済学専攻(3名)

博士(国際経済学)

PhD

国際経営学専攻(3名)

博士(国際経営学)

PhD

*FAST: Financial Analysis and Security Trading

 2001年4月に国際マネジメント研究科が誕生して組織は次のように大幅に変わった。詳しくは青山学院大学大学院国際マネージメント学科の公式ホームページ(http://www.gsim.aoyama.ac.jp/)等を参照されたい。

◆受験するときは大学院事務室等から最新の正確な情報を入手してください。下の表は2001年度の情報です。

国際マネジメント学科と国際政治経済学研究科の組織(2001年)
研究科
課程

専攻

入試の種類

合格者/出願者

(2001年度)

学位(日)

学位(英)
国際マネジメト(GSIM)
修士

(定員70名)

国際マネジメント

エグゼクティブ

10名/25名

修士(国際マネジメント)

MBA

一般

8/56

外国人留学生

5/12

職業人

39/170

博士後期
(定員10名)

一般

7/13

博士(国際マネジメント)

PhD
国際政治 経済学(SIPEB)

修士

(定員30名)
国際コミュニケーション

一般

6/11

修士(国際コミュニケーション)

MA

外国人留学生

2/2

職業人(外国人)

1/1

職業人(日本人)

15/25

国際経済学

一般

0/5

修士(国際経済学)

外国人留学生

1/1

職業人(外国人)

1/1

職業人(日本人)

10/11

国際政治学

一般

8/18

修士(国際政治学)

外国人留学生

2/3

職業人(外国人)

0/0

職業人(日本人)

8/16

博士後期

(定員各3名)

国際コミュニケーション

一般

2/6

博士(国際コミュニケーション)

PhD

国際経済学

1/2

博士(国際経済学)

国際政治学

2/6

博士(国際政治学)

 国際ビジネス専攻の科目は基本科目(4科目)、地域圏科目(7科目)、国際政治学科目(14科目・演習含む)、国際経済学科目(15科目・演習含む)、国際経営学科目(25科目・演習等含む)、ファイナンス科目(15科目・演習等含む)、寄附講座(11科目)から構成されていた(97年度現在)。履修科目は自由にとって良いわけではなく、コースによっていくつかの制限があった。

 ここでは実際に私が取った15科目をご紹介したい。なお、私が修了したのは96年3月のことであるから、現在の科目・講師と当時の科目・講師が異なる場合があるのでご注意いただきたい。

 

私が履修した科目(94-96年)
学期
科 目
講 師
言語
時間

単位

私の成績

94年
春学期

経営学原理 I

岡本康夫

日本語

18

2

A

資金調達論 I

中里宗敬

日本語

18

2

AA

比較マーケティングコミュニケーション I

西川 徹

日本語

18

2

B

異文化コミュニケーション特論 I

三谷史生

日本語

18

2

B

マーケティング

Mooradian, T.A.

英語

18

2

C

経営情報とシステム科学

Bensaou, B.M.

英語

18

2

B

94年
秋学期

経営分析 I

山口不二夫

日本語

18

2

A

アメリカ研究 II

瀧井光夫

日本語

18

2

A

企業論 I

港 徹雄

日本語

18

2

A

国際人事管理論 II

津田眞澂

日本語

18

2

A

国際会計 II

佐藤宗弥

日本語

18

2

A

比較マーケティングコミュニケーション II

西川 徹

日本語

18

2

B

マーケティング

西川 徹

日本語

18

2

B

95年
春学期

財務会計 I

山口不二夫

日本語

18

2

AA

財務会計演習

山口不二夫

日本語

18

2

AA

95年
秋学期

修了に必要な単位数(30)を充足したため、何も取らなかった。

(注)科目の後ろにつくIIというのは原則的にIの続きであることを意味し、学校側からはIを取ってからIIを取るよう推奨されている。しかし、履修科目は最低の15科目に抑えるつもりでいたので2科目ずつ取っていくと幅が狭くなってしまう。したがってあえて私はIとIIにこだわらず履修した。



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4 修了方法

 

 私が在学した国際経営学コース(修論研究)の94年当時の修了要件は、次の四つであった。修了要件は毎年のように少しずつ変わっており、どちらかという年を追うごとに厳しくなっているようである。

 例えば94年入学の場合、1年目の秋から冬にかけて希望する教授・助教授に直談判して自分の研究指導員になっていただくよう内諾をいただき、2年目の95年5月6日(土)までに「研究指導担当教員および研究主題届」を提出することになっていた。すなわち修士論文の準備期間は1年強であった。しかし95年入学者は、入学と同時に修士論文の研究テーマを決めて研究指導員を決めなくてはならなくなった。ということは、修士論文の準備期間が公式に延長されたことになる。2年間みっちり指導を受けるわけだからいきおい審査が厳しくなり、より高度な研究内容が求められるようになったのではないだろうか。

 また、93年以前の入学者は80点以上取るとAという最高の成績がもらえたが、94年以降の入学者には新たに90点以上がAA、80点以上がAとなった。背景としては点数のつけかたが甘くてAばかりだったから、AAというそう簡単には取れないグレードを新設したのではないかと邪推している。個人的には社命でフランスの大学院に進学する際に申告するGPAが下がってしまうことになり、少し困った。

1. 2年間4学期在学すること(特別優秀な場合は制度上1年半に短縮可能)

2. 外国語認定試験(一カ国語)に合格すること

3. 30単位(15科目)以上修得すること(科目制限あり)

4. 修士論文の中間審査(10月)・本審査(口述試験・3月)に合格すること

 1の在学期間は黙っていれば自然に2年になるが、2と3と4を満たさなければ留年になる。青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際ビジネス専攻は二学期制だから、3月に修了できなければ次は9月まで待たなくてはならない。また、単に待つだけではなくて学費も払わなくてはいけないので、経済的なダメージも大きい(94年入学者の一学期あたりの授業料は21万5千円)。

 この中で一番簡単なのが2の外国語認定試験であった。筆記試験のみであり、第一問は95年3月24日のInternational Herald Tribuneに掲載された"For Spielberg, a Handful of Oscars at Last"という記事の部分和訳(5行)、第二問は同28日の"Throw-Offs and Whitewater Lingo"という記事を80-120字の日本語への要約するというものであった。もう一題は「いつまでも学生気分・こんな新人困ります」という日本の新聞記事を出発点にして「ふだんあなたが感じていることを英語で論じなさい」というものであった。ここで落ちた人はほとんどになかったし、各学期ごとに一回ずつあるので、再受験も可能である。簡単な試験なので早めに合格しておくことである

 3の単位数であるが、これを達成するには第一に計画性、第二に的確な情報収集が求められる。計画性とは、修了までの流れを早く理解してうまく履修計画を立てないと憂き目にあうということである。昼間に働いている社会人が取れる授業時間帯は限られている。月〜金曜日が18:30-20:00の1コマのみ、土曜日は11:00-12:30、13:10-14:40、14:45-16:15の3コマしかない。日曜は休みである。4学期で15科目取ればよいので単純に言うと1学期当たり4科目取ればいいように思うかも知れない。例えば水曜に1科目、土曜に3科目取れば週2回の通学を2年続ければ良いのではないかと。しかし、2年目は修士論文の審査があるので、この準備に多くの時間を割かなくてはならず、授業に出る時間はあまりないのである。だから、1年目になるべく多くの単位を取るのが修論コースの勝ちパターンである。

 科目は自由にとって良いわけではなく、いくつかの制限がある。国際経営の場合、必修科目は経営学原論でありこれは必ず単位を取らなくてはならない。また国際経営は国際政治・国際経済・コミュニケーションの各学科の科目を履修することができるが、その履修数には制限がある。つまり国際経営が専攻なのだから、他の専攻の科目ばかりで単位を取ってはいけないということである。このへんは入学後に配られる大学院便覧に詳しい。

 的確な情報収集とは、講義内容は役に立つものであったか、どの先生が楽でどの先生が厳しいのか、などを同期と情報交換することである。もし春学期と秋学期に同じ先生が同じ授業を行うのであれば、春に受けた人に授業の様子を聞いてから、秋学期の履修届を出すべきであろう。楽に行きたいと思えばそうすればよいし、厳しくても学びたい科目があればチャレンジすればよい。大学時代と違って、単に楽な科目に流れないというのが社会人学生の良いところであろう。自らの意志で学びたいと思っている人たちの志の高さには驚かされたし、大いに刺激を受けた。

 さて最大の難関は、4の修士論文の審査に合格することである。最終審査は3月2日だったが10月の中間審査に落ちれば最終審査は受けることができない。運転免許に例えると、中間審査は仮免であり、最終審査は路上である。つまり中間審査の方が難しい。中間審査の段階ですでに70-90%程度の完成度が求められるからである。中間という言葉からは半分くらいできていればいいのではないか、という印象を受けるがそうではない。

 中間審査方法では中間論文を3部提出する。それを主査(自分の研究指導員・Y助教授<'現明治大学大学院教授>)と2名の副査(論文のテーマに関係が深い教授・大学院側が決める)が別個に講評と点数評価を行うのだが、2名の副査はかなり厳しく、点数としてはギリギリだった。しかし10月になって大きく方向転換をするわけにはいかなかったので、Y先生のアドバイスを受けながら2名の副査が指摘した問題点をことごとく潰すように猛チャージをかけた。また2名の副査のもとにご相談に伺い、直接親身なアドバイスをいただけたのは幸いであった。

 それでも3月の口述試験では副査に厳しいことを言われ、冷や汗どころか大汗をかいた。しかし突っ込まれて危なくなるとY先生が助け船を出してくれたので、降り注ぐ矢を何とか凌いだという感じだった。何一つポジティブな言葉が出なかったので結果が出るまでかなり落ち込んだが、もう会うことがない人には厳しいことを言うんですよ、というY先生の暖かいお言葉が身にしみた。点数は教えてもらえなかったが、結果は合格であった。スレスレだったようである。



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5 生存率50%

 94年4月に青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際ビジネス専攻(国際経営・修論コース)に入学した19人の中で、96年3月に(つまり2年4学期の標準修学期間で)修士号を授与された人は9名、すなわち生存率50%であった。極めて厳しい数字である。

 この低い数字の理由の第一は会社員・公務員等の転勤・異動がある。会社には届け出を出すことにはなっているが、大学院に通っているから今回の転勤・異動は見送ってあと半年くらい待ってあげようかという会社は希である。雇用主には社員を自由に転勤・異動させる権利が認められており、社員側が勝った判例は未だないそうである(国際人事管理論・T教授)。そこまでいかなくても、会社員は学生と違って自分ではコントロールできない、いわば外部要因で学業を諦めざるを得ない場合があるということであろう。

 第二の理由は、修士論文の準備がうまくいかない場合である。繰り返しになるが、青山学院大学大学院の考え方として、社会人であろうが学生であろうが、一定の学問的水準を超えていないものは修士論文の審査で落とす、という姿勢が貫かれている。したがって十分な準備が早い段階から周到にできていないと、失敗してしまうのである。厳しい言い方になるが、タイムマネージメントの失敗や何とかなるさという認識の甘さなどによるものではないだろうか。これは学生本人の責任だと思う。




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6 会社と学校の両立

 94年4月に青山学院大学大学院に入学したとき、私は情報通信会社に入社して5年目が経っていた。1ヶ月後の5月には担当課長代理に昇格、法人営業の仕事はますます忙しくなっていったので、授業に出ることができるのか、ちゃんと修了できるのか、心配というよりは賭けに近い感じを持っていた。しかし、私にはラッキーなことが3つあった。
 

第1には、理解ある上司の存在である。平成9年に退職なさったK課長という、当時の直属の上司が「大学院で勉強することはいいことだ。どんどんやりなさい。仕事の方は何とかやりくりしよう。」という実に寛容かつ柔軟な考えの持ち主だった。黒岩課長ご自身も米サンディエゴで3年間勉強した経験があり、その腹の据わった態度とサンディエゴでの体験談は私に勇気と安心感を与えてくれた。また時間的な側面からもバックアップしてくれた。例えば授業のある日はほとんど残業をさせなかったし、ノー残業デーの日には本当にノー残業であった。どうしても、というときは大学院の授業に出てから仕事をすることを認めていただいた。この上司なくして最短での修了はあり得なかった。今でも私が最も尊敬する上司の一人である。

 第2には、法人営業の仕事が2年目を迎え、以前よりも効率的にアウトプットを出せるようになったことである。仕事の慣れというのは偉大であり、1年もやれば6割くらいが以前にもやったことがあるな、あるいはこうすればいいのではないか、というのがわかってしまう。だからより短い時間で結果が出せるようになるのである。また人脈も広がり、この件はあの人にというのもだんだんと頭に浮かぶようになるし、1年も経てばある程度の信頼関係がお客様との間で形成される。この点も仕事がやりやすくなった要因の一つである。したがって大学院に行く時間も捻出しやすくなった。
 

 第3には、転勤がなかったことである。弊社の場合、法人営業という仕事のうち第一線でお客様に接する社員(アカウント・マネージャー:AM)はお客様との信頼関係の醸成とスキル向上を考えて3年が標準的な在籍期間となっている。入学当時はAM2年目だったから、あと1年から2年は異動はないだろうなと思っていたが、その通りになった。96年3月に人事部に異動するまで、AMの仕事を続けることができたのである。人事部は多忙な部署として知られていたから、もう少し異動が早ければ時間的な面で最短での修了は難しくなっていたかも知れない。

 全般的にはうまくいったが、個々に見るといろいろと問題点はあった。例えば、当時の勤務地である品川から山手線で渋谷に出て銀座線で表参道に出ようとすると、ドアtoドアで40分かかる。しかし勤務時間が終わるのは18:00であり、平日の授業が始まるのが18:30だから必ず遅刻することになる。

 社会人なんだからある程度は仕方ないじゃないかと腹を立ててみても、入学願書を出すときに職場からは間に合う距離ありますと書いて出しているので、文句も言えない。もちろん遅刻するなというのが正論であるから、最後まで何も申し上げなかった。ただし、寛容な先生の方が多い、ということだけはここではっきりと申し上げておきたい。私は寛容な先生に救われて単位をいただけたのであり、修士論文の指導を受けることができたのである。

 個人の事情はそれぞれ違う。私なんかよりもっと忙しい人はいくらでもいるだろう。あとは時間を作り出すという意識がどれだけ持てるのかという、本人の意志の強さに依存しているのではないか。端的に言うと、昼間働かずに学生だけをやっていて十分な時間があったにもかかわらず最短の2年で修了できなかった人がいる一方で、昼間はフルタイムに働いているのに2年できちんと修了できるが人がいるのである。つまり、自由になる時間がどれだけあるかということもさることながら、どれだけ有効に限られた時間を活用できるかというタイムマネージメント力が強く求められるのである。会社と学校の両立はまさにここにかかっている。


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7 得られることと、失われること

 2年間の二足の草鞋で得られることと、失われることをまとめてみよう。

 得られるものの第1は、企業経営の幅の広さと奥深さの両方を学んだことにより、マネージメントに対する理解が深まるということである。どのようにして日本の労働慣行は生まれ、形を変えながらも合理性を保ち続けているのか。理論的株価はどのようにして決まるのか。日本型企業の特質とは何か。マーケティングから見た需給曲線とは何か。企業の価値はどう計るのか。ITによって何が変わり、何がもたらされるのかなど、実に多くのことを学んだ。しかもそれぞれがどこかで絡み合っており、実務経験と相まってより総合的にマネージメントスキルが向上する。入学前は上のどの質問にもまともに答えられなかったのであるから、まだまだかも知れないが自分にしてみれば大きな進歩だと思う。

 得られるものの第2は、多士済々のクラスメイトとの交流である。社会人学生の勤務先は、証券、大使館、ホテル、塾、ベンチャー、メーカー、新聞、商社、総合研究所、通信会社、自衛隊、広告、大学などであった。加えて飛び級であがってきた最高に優秀な学生たちがいる。年齢は下は21歳から上は50代にまでわたっている。男女比率は約6:4。このようなクラスメイトに囲まれて、刺激を受けないはずがない。人脈もどんどん広がる。誰と話をしても、必ず何かが得られ、自分も相手に何かを与えられるというギブ・アンド・テイクが自然にできるからである。もちろん現在も交流が続いており、ときおり情報交換会の名目で同窓会が開かれている。この場で得られる非公式情報の価値は第一級であり、自社内ではまず得られない。

 
一方で確実に失われるものは、第1に仕事の時間である。例えば水曜の夜と金曜の夜と土曜日に大学院の授業に出るのなら、その時間は仕事ができない。もし大学院に行かなければ、残業または休日出勤し、成果を上げ、結果として職場での業績評価が上がり、より早く昇進・昇格できるかも知れない。しかし、全く授業に出ないで修士号をもらうことはできない。大学院を優先し過ぎて社内の成績・評価が下がるというリスクと、仕事を優先し過ぎて大学院の修了が遅れたりできなくなったりするリスクは同時に存在する。これはトレードオフであり、個人の事情にあわせて自分でうまく折り合いをつけなくてはならない。入学前に大学院と会社等の両立が可能か、冷静に判断を下す必要がある。

 失われるかも知れないものの第2は、職場での評判である。理解ある職場と上司に恵まれないと、あいつは仕事をサボっているとか、転職するために大学院に行ってるらしいとか、よからぬことを言われてしまうかも知れない。結果として会社に居づらくなり、ひどい場合は不本意ながら転職するというケースもありうる。これではリストラされたのか、自発的に転職したのかわからない。一般的に言って日本の会社は社外での活動を積極的には推奨しない。理由は会社で一生懸命働いてほしいからである。

 もちろん中には会社等から派遣されてくる人もおり、時間的な面でも、費用的な面でも、職場の理解の点でも自費の学生に比べて断然有利である。しかし完全に業務よりも大学院を優先していたのかと言われればそうでもないらしく、ある企業派遣生は試験の時期に米国出張が重なり、苦労していた。もちろん、いろいろなケースがあると思うが、これはその一例である。

 日本の場合、社会人向け大学院で修士を取ったからと言って、ずくさまヘッドハンティングのお声がかかるとか、社内で昇進するとかというケースは希であろう。欧米のMBAを会社派遣で取った人たちですら、転職せずに日本の会社に帰れば同じことである。しかし、学んだことは力となり、自信となり、いずれ他人とは違った何かを必ず生む。日本の社会人向け大学院に行くことは、長期的なまたは間接的な投資と考え、5年後10年後を見据えてじっくりとリカレント教育の醍醐味を味わってみてはいかがだろうか。直接的・短期的なベネフィットを求める人は、やめておいた方がよい。


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2000年2月27日

2011年11月23日修正