津島佑子文学アルバム
群像創刊50周年記念 「文学の戦後史」展
1996年9月8日〜17日 東京・丸善日本橋店

『群像 創刊五十周年記念号』(1996/10月号)には多数の作家や文芸評論家が小文、対談を寄せました。
その中で数名の作家・詩人が日本橋丸善にて自作文朗読会を行いました。1996/9/12には津島佑子氏が来場し「野辺」(『私』新潮社に収録)を朗読されました。当日は黒のドレスを着てらっしゃって、とっても綺麗です。会場には作家の「李恢成」氏も飛び入り参加!津島さん、大喜び(^^)
津島さんへの、ファンからの「緊急質問コーナー」もありましたよ。因みに上記の写真は当日来場したファンに一人一人丁寧にサインを下さった。私にも(顔を見て)「どうも、ありがとう」とお声を掛けて頂きました。
伏姫桜
『逢魔物語』(1984 講談社)

『逢魔物語』は「伏姫」(南総里見八犬伝)「三ツ目」「菊虫」(番町皿屋敷)「おろち」(八俣の大蛇)「厨子王」(山椒太夫)の5編からなる短編連作集です。左記の写真は「伏姫」(曲亭馬琴の南総里見八犬伝の登場人物。八房と言う犬の精に感じて八徳の玉を持つ八犬士が活躍する物語)から取った「伏姫桜」です。この桜があるお寺の近くには「里見公園」「手児奈霊堂」も在ります。
この他に『黙市』(新潮社)『光の領分』(講談社)『私』(新潮社)『溢れる春』(新潮社)などの、彼女の得意とする短編連作集もあります。(写真は、市川市 弘法寺「伏姫桜」 樹齢400年)
北上川
『火の河のほとりで』(1983 講談社)
「学校は川の上流の東岸にあるので、学校から川岸を伝わって、橋をひとつも渡らずに市営アパートに帰ることはできた・・・大抵、高校のすぐそばにある橋を渡ってしまい、車の多い町の中をわざわざ通り抜け、海岸の新しい橋を渡って、東岸の市営アパートに戻ることにしていた」
(『火の河のほとりで』)
人間たちは自身の生を確かめようと"時"を熱心に見つめ、捉えようとしている。"時"は止まることなく、過去から未来へ突き進みゆき、わたしたちは
、決してその手に触れることができず、自身の物とすることができず、ただ叫び声を上げつづけることしかできない・・・ある日、突然、溢れ
だす水。ある場所で、突然に、流れはじめた水。枯れていた川や道に、まるで全ての記憶を取り戻した
古代の龍のように進みゆく"水"の流れ。この"水"の流れに人たちは「時とは無縁の世界」=逆流し続ける記憶と時間=生命体の可逆の可能性を見いださずにいられない。記憶という"水"の流れがもたらした"時"に安らぎと喜びを見いだす。1983年10月書き下ろし作品として刊行された『火の河のほとりで』に描かれている「水の記憶」に読者たちは、それぞれの「時間と記憶」を取り戻すに違いない。写真に見える赤い橋(開北橋)を渡り、繁華街もある西岸沿いに自転車を走らせながら、登場人物の瑠璃子は毎日通学していた。橋の少し上、その東岸地域に見えるのが石巻商業高校。瑠璃子はこの学校で、美術部に入り、白いキャンバスに、父
や牧たちと歩いた薄紅色のレンゲショウマが咲いている草原を夢み、そして描いている。
夢と記憶
−対談 時間と物語の間で−(1999 6/26 横浜ルミネにて)

「小説を書けば書くほど、小説とはなにかがわからなくなっていく。それを分かりたくて私は小説を書き続けているとも言える。言葉と人間の関係を見届けたいという願い。言葉を追いつつ、言葉から解放されたいという欲求。言葉を人間と言いかえても、時間と言いかえても同じ事なのだろう・・・」(津島佑子)
この日、『火の山−山猿記』(講談社刊)をテキストに小森陽一氏(文芸評論家)との対談が横浜で行われました。津島さんのフランス奮戦記、口承文学の受け継ぎの難しさ、「如何に文学は虚構的に一人称を使うのか?」といったテーマで話は進められました。
上記の写真は、帰り際ロビーにて当日対談を拝聴された方全員にサインを下さりました。
私は『真昼へ』(新潮社)に「これにお願い致します」と差し出したところ、「あら、まぁ・・・こんな本を(持ってきてくれたの、君は?)」ととっても津島さん驚かれた様子でした。私がサインを頂く前の方が津島さんに質問されておりその間津島さんは鞄から煙草を取り出してさり気なく吸ってらっしゃいました。あー、ラッキーなシーンを見ちゃったヨン。
因みに津島佑子さんは大の愛煙家でもあるのだ(『煙草と男と私』「週刊文春」'78.12/14〜'79.1/11参照
)。
文京区駒込(蓬來町)
『レクイエム−犬と大人のために』(1971 河出書房新社)

昭和22年(1947)3月30日に津島佑子は、東京都北多摩郡三鷹町で生まれた。父の死去後、母の弟(石原明氏)の住む文京区駒込曙町(現在の本駒込1丁目)に住居を移した。この後津島佑子は、次々に住居を移転するが、この写真にある、文京区駒込蓬來町(現在の向丘2丁目)は彼女にとって大切な少女時代(無垢な言葉を操る兄との共生時代)であった。昭和24年8月〜昭和33年8月の9年間この町に住んでいる。
『謝肉祭』(河出書房新社)に収録されている『レクイエム−犬と大人のために』で「ゆき」と「たか」が白い犬の死体を埋める墓場は恐らくこのあたり(写真)だったのだろう。今でもこの文京区駒込蓬來町には数多くのお寺が散在し、彼女のあるいた道を我々読者も『黙市』(新潮社)『真昼へ』(新潮社)片手に文学散歩をしてみよう。『火の河のほとりで』(講談社)の主人公の一人「百合」の住む家もこの近辺であったと推測される。
三鷹市下連雀2丁目付近
『ある誕生』<文藝首都>(1968.9)

昭和14年(1939)9月、父(津島修治)は東京府北多摩郡三鷹村下連雀113番地に移転している。
『桜桃』(太宰治)にある「子供より親が大事、と思いたい」の科白と共に「母ではない別の女性」と情死した父親に対して、「子どもとして父親に見放されたのか」「私の三歳上の兄は知恵遅れの子どもだったので、
その兄とワン・セットで父親に見捨てられたのか」(『はじめての「小説」まで』)と<家族>を捨て、子どもたちを捨てた<父>に対しての悲しみを津島佑子は告白している。
昭和43年9月に発表された『ある誕生』は大学3年生のときに<文藝首都>に投稿した、いわば彼女にとっての文壇デビュー作品であった。この作品で、生まれてくる赤ん坊が「バカ」であることを怖れ続ける父親と、その父親の世界=障害を持った子供を肯定できない世界から、<父>を解放すべく、鋏で生まれてきた赤ん坊の足を切り落とす少女を描いている。
この『ある誕生』を足がかりに、『蝉を喰う』『硝子画の世界』など短編を連続して発表し、昭和44年(1969)
1月にはいよいよ『レクイエム−犬と大人のために』という<家族がテーマ>となる津島佑子の文学世界への序章となる。その後「愛と祈り」の文学世界へと回心してゆく現代文学の旗手=津島佑子を立ち上がらせようとする神話的場所の根源が、この三鷹市下連雀に今もひっそりと感じられる。
成城大学公開講座 「女と男」
−「女が小説を書くとき」−(2001.10.13 成城大学7号館007教室)

「日本には紫式部や清少納言がいるじゃないか、とよく言われるけれども、日本では明治維新というものがあって、そこでいったん、文学の流れが断ち切られ、新しい言葉、新しい形式の文学を求めて再出発せざるを得なかったのだ。女の文学もそれまでの伝統などは切り捨てて、新しく、手探りで近代社会に進み出なければならなかった・・・」(「女であるという条件」<婦人之友>'00.12)
2001年10月13日、成城大学にて「女と男」をモチーフに展開された公開講座にて、「女が小説を書くとき」と題する津島佑子氏の講演が行われました。2001年9月に中国で開催された「日中文学女性作家シンポジウム」に団長として参加した経緯から、ホメロスの叙事詩の舞台ともなったウルグアイ地方の事情、そこから連想される「言葉と文字」の性質の差異を、過去から現在に、現在から過去に、共同体から他者世界に視点をずらしつつ、人間たちの織りなす「記録文学」「口承文学」の創造力を解説し、これから立ち向かわなければならない「近代文学」の方向性を暗示させながら、美しい「口承文学」的な記録文字として残されている「ウルの滅亡哀歌」を朗読されました。
進行役の石原教授によれば、東京大学大学院にて日本文学を研究している北欧の学生3人の内、2人が津島佑子研究のために来日されたそうです。講演の後行われた緊急質問コーナーでは、津島佑子が多様なところで引用する「女神像」を「現実に安直に応用するのは果たして正しいのか?」、成城大学大学院にてやはり「津島佑子をテーマとする卒業論文を執筆中」という外国人男性からの「古典文学と近代文学、あるいは海外文学からの呪縛をいかに抜け出そうとしているのか?」など活発な質問が行われ会場は大いに盛り上がりました。
県立芦野公園 太宰治文学碑 New
「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」
「『撰ばれてあることの恍惚と不安、二つ我にあり』(原文ママ)と刻まれた碑の除幕を行ったのが太宰未亡人につきそわれた次女の里子さんだった。その頃高校生であった里子さんは、はにかみ、いかにもはずかしそうに碑の幕を引っ張っていた・・・生家の大広間で行われた祝賀会でも、床柱を背負った里子さんは終始うつむきがちであった・・・やせて内気でむしろ陰気な感じのお嬢さんだなという印象が今も残っている」
(『素顔の作家たち』奥野建男<集英社>)
(※)「その頃高校生であった里子さん」とは奥野氏の記憶ちがいで、当時津島佑子は大学生であった。
昭和40年5月3日、生前の父がもっとも愛したヴェルレーヌの詩の一節を彫り込んだこの文学碑を、 この年の春に白百合女子大学英文科に入学したばかりの津島佑子が除幕している。太宰治が最初に刊行した小説集『晩年』(第一回芥川賞候補作品)に収録されている「葉」の冒頭に挿入されているこの詩文の一節が、若き津島佑子の体の中でどのように駆けめぐったかは、他の誰にさえも想像しえないほどの、熱くそして烈しい深い闇の永遠に巡りつづける輪廻の渦のような言葉へと変化しながら、若い瑞々しい力みなぎる彼女の青春は、夕闇の轟音が響き続ける天空へ、大きな円を描いて昇りゆく龍神のような勢いでその文学の可能性を一気に昇華させていったにちがいない。
当日の除幕模様は、太宰治の生家として有名な「斜陽館」でも写真紹介されている。白いワンピースに身を包み、小さな笑みを浮かべ、厚い生地でできた幕の綱を引いている、その小さく膨らんだ胸元がとても印象的で、わたしも『津軽』の一節に描かれている、斜陽館の赤い絨毯がひかれている石段になんども腰を下ろし、茶碗を持っては逃げまわる子どもだった修治を追いかけるたけの姿を想いうかべ、暗い襖絵がいくつも並ぶ日本間で、黒光りした檜柱に背をもたせかけて、そっと眼を閉じ、若き日の津島佑子を、そしてわたしが今でさえ誰よりもつよく愛している長姉を思い浮かべている。