津島佑子への旅−甲州編


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プロローグとして

自分は相当の旅下手(たびべた)だと自認している。
学生時代にも広島・長崎を幾度となく見てきたが「宮島に行かなかったのか、とか、グラバー庭園には入らなかったのか」など嘗てその地を訪れた人たちから呆れられたりした。前に上司から「君は細かいからね(仕事を任すと安心だ)」と嫌味とも誉め言葉とも受け取れるお言葉を頂き以来トラウマに似た感情を捨てきれないのだが、この言葉通り、私は旅にでる前に一通り旅行参考書などを購入したりして(今回はネットも使いました)予習を怠らない。が結局「なんで君は○○○を見てこなかったんだい?」といわれる落ちになるのは−私はつげ義春や、井伏鱒二ではないのだから、なんていう言い訳をここに付け加えて−仕方がないことだと思う。何せ初っぱなからこの「津島佑子への旅−甲州編−」は躓いたのだから。

Pbule01.gif (978 バイト)甲府駅から昇仙峡へ

『幼き日々へ』(講談社 津島佑子)によれば津島佑子は子どもの頃に一度、30歳を過ぎてから2,3回ほど甲府の地を訪れているという。

昨年刊行された『火の山−山猿記』(講談社 津島佑子)にも津島佑子氏が甲府を訪れた描写があります。因みに「甲府」は彼女の母(=石原美知子)の故郷であり、『火の山−山猿記』の物語の舞台ともなっている場所である。或いは「『山梨縣名木誌』と『唐詩選』」(「図書」1998年9月号)にも母の地「甲府」への思いが綴られている。
今回は『幼き日々へ』の中に収録されている「私の中の甲州」と『火の山−山猿記』に出てくる「有森勇太郎(=石原明氏)」の回顧録に従って、昇仙峡〜敷島町〜甲府市内などを探索してみよう、という風に企画してみました。
まず<プロローグ>にも書いた通りこの「津島佑子への旅−甲州編」は出鼻を挫かれた。この記事を書いている現在('99 10月)JR各社は世間から多数の非難を浴びてその信用は揺らいでいる(笑)。新幹線トンネル崩落事故に始まり、中央線・総武線も年がら年中、止まってしまい、つい先日の「大雨・雷」の日などには都内各線がSTOPしてしまって顰蹙を買ったのは記憶に新しい。昨今「こんな事、自分の身に降りかかることはあるまい」などと楽観していたのだが当日、私は見事にJRに「してやられた」。

現在はJR中央線「スーバーあずさ1号」を使えば新宿から甲府など簡単に行くことができる。正味1時間30分ばかりである。朝一番の特急の切符を事前に購入しておく私の素早さ(笑)から「今回は○○から△△を経て××時には東京に戻ろう」などと考えていたのだが、最近のJR各社のゴタゴタに−日本人ならその不幸は平等にまわってくるはずだが−巻き込まれた。御多分に漏れずJR中央線は当日見事に運休しておりJR新宿駅では駅員が旅行者たちに謝ったり、振り替え輸送を指示したり、中には−今流行りの−「逆切れ」する駅員までいた。
午前8:30には「甲府駅」に到着する予定だったのに大幅に遅れてしまい私の相棒も「(手児奈の顔を見ながら)ダメだねぇ・・・」とまるで私の不機嫌さを−恐れるように−伺っていた。私はこう見えても案外気長の部分もあるので(笑)「まぁ、今日中に着けばいいだろう」などと逆に相棒を気遣ったりもした。

今回まず甲府駅からは「昇仙峡」を訪れてみようと思った。
この観光地は津島佑子氏が幼い頃、母と子ども三人(姉園子氏と兄正樹氏と妹である佑子氏)で敷島町にある「石原初太郎」(後述参照して下さい)のお墓参りをかねて訪れたという。このお墓の場所をそのエッセイや小説の描写から「まぁ、現地に行けばわかるのでは」などというおおよそ楽観主義的見地から望んだせいか、失敗に終わった。「石原初太郎」と言えば甲府の地では「超有名人」であり、「誰でも知っているはずだ」という変な先入観を持ってしまっていた私のせいでもあるのだが。

JR甲府駅南口前にある「観光案内所」で「あのー、すいません。この(と言いつつ、津島佑子のエッセイを見せる、手児奈)部分にある敷島町のお寺知っていますか?何でもそこには「天正の松」という山梨ではかなり有名な古木があるそうですが?」と聞くと、その観光案内所の−朝から物凄い、鈴木その子並みの厚化粧をした−おばさんから「はぁ?何それ。わかりませんよ、そんなの!!敷島町に行きたいのだったら4番線に乗ったら?」と馬鹿にされた。(「ムッキー!」手児奈こころの台詞)「憶えていろ、このくそババア。家に帰ったら「津島佑子への旅−甲州編」で書いてやる」と心の中で叫びながら、この屈辱を忘れないようにメモを取る、φ(..)メモメモ(笑)

昇仙峡はJR甲府駅から山梨交通バスでおおよそ30分もあれば行ける人気のスポットだ。と言いつつ案外バスの本数は少ないので例の「観光案内所」で待っているとチンピラ風の男が−まるで我が物顔で−その場所を占拠していた。携帯電話を片手に観光客各人を見回している。バスの本数を少ないのをいいことに老女性や外国人を自分のタクシーに連れ込むいわゆる「客引き」オヤジである。(因みにその絶対に観光客たちには役に立たない「観光案内所」には「客引き禁止」の張り紙が数枚張ってあった)
「オラ、オラ、オラ。あんたらバスなんか待っていても来ないぜ。オレならなぁ、バスでは見れない○○や△△にも連れていってやるんだがなぁ!」と言いつつ60代後半の女性4人グループを連れていってしまった。
数分後にバスに乗り込んだ私は「あぁ、案外甲府って排気ガスも多く、結構都会的だねぇ」と思ったりもした。昇仙峡に行く途中はもちろん街中を通るのだが、その風景が何となく気に入らない。排気ガスは多いし、信号無視する人たちも駅前には多く、違法駐車も多過ぎた。
「あーあ、(昇仙峡なんて)所詮観光地よ」と思いつつそのバスはやがて市内のごみごみした場所を抜け、細い曲がりの多い山道に入って行く。

この「昇仙峡行き」バスには色々な行き先があるが「天神森」で下車するのが正解だ。「グリーンライン昇仙峡」や「昇仙峡滝上」で降りると逆コースになったり中途半端な所で降ろされてしまう。
例の「観光案内所」のババアやバス内の(混んでいるのに)一人で二人分の座席を使うオヤジにクサクサしていたのだが、「天神森」入り口で下車した私たちはそれぞれに溜息をついた。
おおよそ駅前の喧騒と排気ガスの世界から懸け離れた「桃源郷」とも言える、その風景と空気に大いに気持ちが恢復した。

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その深い河底とせせらぎ、大きな岩石群がその入り口には散在して我々観光客を迎え入れてくれる。因みに上記写真にある(No.1)の下流にその「石原初太郎」のお墓があると推測される。しかしこの下流のどこにその−津島佑子氏が訪れたという−敷島町のお墓があるのか、皆目見当も付かず、取り敢えず他の観光客たちに習い荒川ダム上流を目指した。

この昇仙峡は上流に向かって渓谷沿道が設けられており多くの岩や河の風景をゆっくり見ることができる。
「天神森」入り口には、つげ義春の『池袋百点会』(小学館)のラスト・シーンにも登場する「トテ馬車」たちがいて可愛い(^^)(No.2)これに乗ってもいいのだが何だか恥ずかしいので止めにした。
左にトーフ岩・ラクダ岩・松茸岩を見ながら行けば、30〜40分で「寒山拾得岩」に着く。
ここらで上流から車椅子に老女を乗せたNovice(女子バレーサイトのあの人ではない!)(修道女)さんたちが降りてきた。「こんにちは」と声を掛けられたのだが私たちは恥ずかしくって下を向いてしまった。ごめんなさい。

更に左に羅漢寺を見ながら登っていけば「覚円峰」なるそれはそれは素晴らしい岩山を見ることが出来ま(No.3)
更に昇仙橋を渡って遊歩道を登ると「仙ヶ滝」に着く(No.4)
ここにはお土産やさんも多数あり休憩できる。相棒はここで「ぶどうアイスクリーム」(300円)を購入し頬張っていたが私は「キリンビール」を何故か飲んでしまった(笑)。「君は(私のことをこの人は時々、「君」と呼ぶ)何故に山に登りながら酒を飲むのか?」と問いつめられながらも、すっかり気分の好くなった私は「あのー、昇仙峡ロープウェイはここから近いんすか?」などと土産物屋さんの女性になれなれしく声を掛けた。「隣ですよ」と教えられ、この女性に切符を用意して貰った。ありがとう。

このロープウェイを使うと「パノラマ台」に行け、その頂上からは「荒川ダム」も見れる絶景である。私の今回の「津島佑子への旅−甲州編」の目的の一つとして「甲斐駒ヶ岳(2996m)」を見るのが大きな目標であった。
『火の山−山猿記』によれば「石原初太郎家」は、この「甲斐駒ヶ岳」を登るのが義務だったらしい。パノラマ台に到着すると、小さな神社があり−私はおみくじを引くのが大好きなので−おみくじを購入すると(観光地にはよくあることだが)、案の定お神籤は出てこない。近くの土産物屋の女性に「あのぅ、くじ出てきませんが・・・」と訊ねると「あら、すいません、これでもう一回やってみて下さいませんか」と100円を渡された。
結局お神籤は入り口辺りに引っかかっておりその女性に謝りながら「甲斐駒ヶ岳って、ここから見えるのですか?」と聞いてみると「えぇ、今日は晴れていますから見えているようですね」と教えられた。
少し左側に行くとそこには−自然に出来ている−展望台があり南アルプス連峰が望め思わず私たちは絶叫してしまった。

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「あぁ、あれが石原家の全員が登ったという駒ヶ岳・・・」(No.5)左から、富士山・間ノ岳・北岳も望める。この何れの山々も石原家の男性・女性たちは若い頃に登ったというから凄い。どの山も恐ろしく高く見えて、私にはとうてい登れそうもない迫力だ。
このパノラマ台にもお土産屋さんがありここで私は例の「ぶどうアイスクリーム」なる紫色のソフトクリームを購入したが(「タイム・サーヴィス」に付き50円引き、とその店の女主人が宣伝していたので)その店の金色のネックレスをしたチンピラ風の男は無言で私のお金を受け取り、無言でアイスと釣り銭をこちらに寄こした。
私は案外と根に持つ性格だから、ここでも矢張り甲府駅南口の(役に立たない)「観光案内所」のババアと一緒に「津島佑子への旅−甲州編」で書いてやろう、と考えたりして、メモワール(『火の山−山猿記』風のフランス語!)を付けたりする執念深さである(笑)。
しかしこのパノラマ台から見る「南アルプス連峰群」は素晴らしく、甲府に旅行に行かれる方たちには是非お薦めしたい。岩山が多く、スポーツシューズを履いていかなければ墜落するかも知れないので(実話)気を付けてくださいね。

Pbule01.gif (978 バイト)甲府市朝日町探索

どんな読者でもそうだと思うのだが、そのお気に入りの作家の作品に登場する舞台を出来ることなら、一度は自分の目で確かめたいと思うだろう。でもそうなかなか行けるものではないし(たとえそれが日本国内だとしても)、行く人はいない。
第一、津島佑子氏の近作『火の山−山猿記』(1998)には、甲府市内の描写が数多く登場するのだが、もちろん町名は仮名であって、実際読者が訪れようとしても容易に発見することは出来ない。
余談だが、『昭和文学全集 29』(小学館)の中にある「津島佑子年譜」を読むまで、私は彼女の物語の舞台は文京区本郷と勘違いしていた。ところが先日図書館で借りた太宰治の資料に「甲府の石原家」の紹介の表記があり今回はそれをもとに訪れることにした。

津島佑子氏の母、石原美知子は此処山梨県甲府に、学者石原初太郎の3女として生まれた。『火の山−山猿記』によれば、姉二人、兄二人(内一人は生後間もなく死去)、妹二人、弟一人の8人兄弟であった。その他に祖父母と、従姉妹にあたる女性の総勢13人余りで暮らしていたと思われる。実際には石原家長女(富美子さん?)は当時結婚していた時期もあり、次男は死去していたのだから11人であったと思う。

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後に石原美知子氏が東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学するまで住んでいたのがこの甲府市水門町29(現在は朝日町1丁目7−7、或いは8辺り)である(No.6)
この場所で彼女はヴァイオリンの練習・自転車の練習もしたそうである。

津島佑子の小説に数多く登場する「母」は常に冷静で、且つ冷淡である。が、ここに住んでいた頃の「母」は甲府の山々に囲まれて育ち、尊敬する兄(当時兄は東京帝国大学医学生であった)や父・母、或いは妹や弟たちと仕合わせな青春時代を過ごしていたと思われる。「母」の青春時代を津島佑子氏もどうしても知ってみたくなったのだろう。その事の為にも『火の山−山猿記』を書いた理由の一部分があると、私は考えています、この文章を書きながら。

話は逸れるが、津島佑子の読者にしてみれば「母」(=石原美知子)が実際(それは三者の目から見て、つまり津島佑子の目からではなくて)どんな人だったのだろうか、或いはどういう青春だったのだろうか、更にはどんな人生だったのだろうか・・・等々、これは津島佑子という作家を読み解く上で案外欠かせない事実と資料だと思う。

「母」(=石原美知子)は、当時井伏鱒二も滞在していた「御坂峠」に来ていた津島修治(太宰治)と昭和13年(1938)9月18日にこの水門町の自宅でお見合いをしている。一般的にこの見合いは「井伏鱒二の紹介」とだけ知られているが案外よくわからない所も多い。
『火の山−山猿記』では、妹(5女)が「杉冬吾(『火の山−山猿記』に登場する太宰治の名前)」を当時、健康を害して甲府を訪れていた彼の下宿を訪ね(恐らく下宿屋「寿館」(甲府市竪町59 現在の朝日町5−3−7)の事だろう。)姉(笛子=石原美知子)に紹介した、という設定になっている。しかしこれでは史実に反するのだから矢張り違うのだろう。津島佑子氏得意の「創作」に違いない(笑)。

此処で太宰治は「石原家」の厚いもてなしを受け結婚に踏み切ったと思われる。『火の山−山猿記』には笛子(=石原美知子)以外にも、妹たち・弟(=石原明氏)が「杉冬吾」の下宿を訪れ親しくしたとある。『火の山−山猿記』によれば、笛子(石原美知子)は太宰に「若山牧水・斉藤茂吉」について語り、弟(石原明氏)は−当時仙台の旧制高校生であった−「数学のアーベル定理や自殺をした気体論のボルツマン」などを「知ったかぶり」で語り、妹たちも、積極的に「杉冬吾」に「語りかけた」という。これは当時姉弟全員が尊敬し、慕っていた、兄(有森小太郎=登場人物名)が死去し、父「有森源一郎(石原初太郎)」も亡くしていたことから、年上の「杉冬吾(太宰治)」に兄・父の面影を見て近づいたと思われる。

misaki.jpg (4926 バイト)  (No.7)   arakawa.jpg (4216 バイト)  (No.8)

なお(No.7)の写真は「母」(石原美知子)が新婚当時住んでいた(昭和14年1月〜9月)甲府市御崎町56(現在の朝日町5丁目8−10)の近辺、御崎神社である。この近くの銭湯に太宰は夕方通っていたらしい。この近くには「甲府一高」があり学生が多い。この御崎神社からすぐ側に矢張り『火の山−山猿記』に多く登場する「荒川」がある(No.8)。この「荒川」に石原初太郎一家は「ピクニック」に何度も訪れているという。甲府市西側にある「笛吹川」も多く物語に登場する場所だが、駅から余りにも遠いので行かなかった。期待した方、すいません。矢張り「荒川」からは南アルプス連峰群が望めるのだから、「母」(石原美知子)はこの山々に囲まれて、その風景を生涯忘れることは決してなかったのであろう。尚、昭和20年甲府七夕空襲により石原家は全焼し、今は誰も住んでいない。

Pbule01.gif (978 バイト)山梨県立文学館

kenritu.jpg (3280 バイト)  (No.9)

此処は予め資料を読んで場所を把握して行くことに決めいていた。駅から6番線の「県立美術館行き」に乗れば行ける。私はこの「甲府旅行」を行く数ヶ月前に東京神田の「古書センタービル」で「津島佑子講演会」のポスターを見ていた。私がそのポスターを見たときにはすでにその講演会は終了しており地団駄を踏んだが後の祭りであった。その教訓を踏まえ今回は予めこの「県立文学館」(No.9)行きは決めていた。もしみなさんが山梨県甲府市に訪れる機会があったら是非行く事をお薦めします。この文学館には常時展と企画展なる物があり、それぞれ300円と400円だが両方の切符を買って良かった。ケチって「企画展(山梨の文学−21世紀へ−)」('99 10現在)を購入しなかったら大変なことになっていたのだから。「常設展」の方で私は今回、「津島佑子への旅−甲州編」に関しての大きな目的であった「石原初太郎」氏の貴重な資料を得ることが出来た。太宰治コーナーに「岳父石原初太郎」の紹介ノートが置いてあった。

一般的に美術展等は「写真撮影禁止・メモ禁止」とあるのだが、この県立文学館はメモを取っても叱られません。インクなどがこぼれる怖れのある万年筆は禁止です。当日愛用の万年筆しか持っていなかった私に館内案内員の女性が親切にも鉛筆を貸して下さった。帰りにお礼を言いたかったのだが、いらっしゃらなかったので、此処でお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。「学生さんですか?」と聞かれたが、私(手児奈)は決して学生ではない。よく「学生ですか?」とオフ会等で聞かれるのだが・・・さて、『火の山−山猿記』の「有森源一郎」こと「石原初太郎」について調べられたのでここに簡単に紹介します。

「石原初太郎は明治3年、現中臣摩郡敷島町に生まれる(注:この町の「天正の松」があるお寺にお墓があるという)。東京帝大で地質学を専攻。卒業後、東京鉱山監督署・山口県などの旧制中学校に校長として務め、広島高等師範の講師となる。大正10年、県の招きで帰郷。以後県内の地質・動植物から地誌・文化に至る調査に携わり『富士山の自然界』(大正14)『富士の地理と地質』(昭和3)『史蹟名勝天然記念物調査報告』(昭和4)『御岳昇仙峡とその奥』(昭和5)『山梨縣名木誌』(昭和5)等を著す。昭和6年没。」
(山梨県立文学館の資料を引用・一部私が付け加えました)

此処にはその「石原初太郎」氏の写真もあるので驚いた。よっぽど学芸員の方を呼んで(実際、すぐに来て説明して下さるそうだが)「あの、石原初太郎氏のお墓をご存じですか?」と聞きたかったのだが、やっぱり此処でも恥ずかしいので止めにした。「観光案内所」のババアのせいである(笑)。

さて「甲府に来た大きな目的の一つである、石原初太郎について知ることもできたしね(^^)」と上機嫌で「企画展」の方も廻ってみた。此処の一番奥に現代作家コーナーが設けてあり津島佑子の『風よ、空駆ける風よ』(文藝春秋)『火の山−山猿記』等の生原稿が、厚さ数十センチでそれぞれ積んであり、思わず息を呑んだ。「こんな所で、津島佑子さんの生原稿を読めるとは!!」(手児奈こころの台詞)
周りには誰も居なかったので数十分ゆっくりと拝見した。出口には『ことばの彼方へ』と題する平成6年2月11日の津島佑子氏も参加した朗読会の写真も飾られていました。

ほんと、この文学館は要チェックだヨン(*^_^*)♪

更に、この旅で最大の収穫がそこには有りました。この文学館には書籍・はがき・生原稿複製等のファンにはありがたいグッズも用意されている。その内の「見本」を手に取ってみると・・・そこには、何と!!8年来、私も見たことのない津島佑子氏に関する記事・資料が掲載されている本が販売されていた。此処で私は「おぉー、おぉ・・・」と実際声に出して叫んでしまい、後で相棒と慌てて周りを見回して人のいないのをチェックした(笑)
『現代の女性作家』『やまなし・女性の文学−樋口一葉・李良枝・津島佑子・林真理子を軸に−』(共に山梨県立文学館)が、それである(「津島佑子図書館」参照して下さい)。

『現代の女性作家』には、津島佑子氏が中学校3年の時に作った創作作文『飢え』が紹介されており、趣味という「焼き物」の作品も掲載されている。どちらも全く知らない事実で興味深い。とくに『飢え』の出だしが写真掲載されているのだがこれが面白く、どうしてもその続きを読みたい、と思うのは私だけではないはずだ。殺人を犯した罪で絞首刑になる人物が、自身の無罪を主張する冒頭部分だ。彼女の趣味が「焼き物」というのも初耳でした。

『やまなし・女性の文学−樋口一葉・李良枝・津島佑子・林真理子を軸に−』には更に驚く内容がある。石原初太郎一家の写真(そこには初太郎はもちろん、あの弟石原明氏の写真まである!)・津島佑子氏の兄・正樹の写真・津島佑子氏の長女・長男の2枚の写真など、どれもこれも私が一度は見てみたかった資料ばかりであった。その他にも海外に翻訳された書籍一覧・フランスに彼女が滞在中(パリ大学国立東洋文化研究所で教鞭を執っていた時代に取材されたと思われる)に掲載されたフランスの新聞『Le Monde』等の紹介もある、津島佑子研究には絶対欠かせない資料ばかりだ。津島佑子に関してこれ程の資料を私は見たことがないし、東京では絶対に入手出来ない物ばかりだ。何れにせよ、この「山梨県立文学館」には是非一度行くことをお薦めしたい。隣には「県立美術館」もある。帰りにバス停で−興奮しながら−待つ間、側にあったお店で「甲州名物ほうとう」を食べてみたが、余りにも量が多く(ついでに値段も高い!)食べ残してしまった。

Pbule01.gif (978 バイト)都留高等女学校を探しに

「母」(石原美知子)は昭和14年1月に結婚するが(当時26才)それまで彼女は「都留高等女学校(現在県立都留高等学校)」に地歴教師として在職していたらしい。

当時戦争中で軍事教育が行われていた最中の教職だったのだから、苦しいところも(当時も後も)あったと思う。
『火の山−山猿記』にもその描写が詳しく記されている。『源氏物語』にある描写が「不敬罪だから削除しろ」と軍から命じられたりした苦悩が笛子の「日記」として綴られていた。

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ところで私は「都留高校という位だから都留市駅にあるんだろう」ぐらいに軽く考えてJR大月駅から富士急行なる私鉄に乗って行ってみた。何故か駅には特急電車が止まっており駅員に「あのー、都留駅に行きたいのですが・・・」と聞くと「じゃぁ、特急券を買って下さい」と乗車券450円+特急券100円も追加させられた。なぜだか特急券を買うと「簡易おしぼり」を駅員に渡される。電車の中にはテレビもあり−お客は10人足らずなのに−女性の車掌まで居て切符を見て回っている。「こんな無駄な人件費を使うから片道550円などという、とんでもない値段になるのだ」と思ったりもした。都留市駅に到着した私は「あのですね、都留高校はどこでしょうか?」と駅員に尋ねると「あれ、君、都留高校ってさぁ、大月駅にあるんだよ!歩いて5分なんだよ。調べてから来ればよかったのに・・・」と呆れられてしまった。「ガーン!&ムッキー!!」(手児奈こころの台詞)。仕方なく1時間ばかり−電車がないので−この駅で無為に過ごした(No.10)。どうしてもこの駅に「都留高校」が無いとは信じられず、駅員以外の人たちによっぽど聞いてみようともしたが、恥ずかしいので止めにした。

相棒は「ほんとに、あんた、浅はかだねぇ・・・」と寧ろ同情してくれたりもしたが。電車の中で高校生に「都留高校ってどこにあるの?」と聞くと「あぁ、上大(かみおお)で降りると近いですよ」と教えられた。成る程、上大駅上に「県立都留高等学校」が在った(No.11)。最近「ストーカー」とか「変態教師」が女子高生を盗撮するのが流行っているのでデジカメを構えながら「変質者」に間違われないよう、慌ててシャッターを切り、JR大月駅に向かって、走って逃げた。

(1999 10/16制作)


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