<市川散歩−手児奈姫伝説>
<祈りという"形">
私の敬愛する小説家津島佑子が
「黒人霊歌が文盲(原文ママ)の黒人奴隷たちの唯一の祈りの形であったのなら、マッカラーズの『哀しい酒場の唄』は、マッカラーズ自身の気取りのない、心の向くまま自由に歌い上げた祈りの形と言ってよいかも知れない。・・・(中略)"祈り"とは、人間にとって、どんな営みだったのか、この作品を読むうちに、思い当たるのではないだろうか。なにも、神さま、ととなえることだけが、祈りではない」
(1977.10)<キリスト教文学の世界21>津島佑子
と述べている。私は(=神への信仰を持たないものとして)この「マッカラーズ−『哀しい酒場の唄』より」(『私の時間』収録)にある、「祈りの形」という観念に強い揺さぶりを受けたことは確かである。人は、人なしでは決して生きてはゆけない。あまりにも自明すぎて、今更なんだと思われそうだが、最近、自身のつらい経験から強く、この「人との触れ合い」、そして「出会い」というところにこだわっている。
これまで「祈り」という観念にひどく抵抗感を憶えていた私なのだが、最近ある人との出会いから、そして
津島佑子の「祈りとは"形"」というsuggestion(示唆)によって、(神への信仰はないのだけれども)「祈る」という"形"に抵抗を憶えなくなった。道ばたにある道祖神や、由来の知らない小さな神社にまでお祈りをしたりする。
祈りとは「神さま・・・」と唱えることだけではなく、人間が人間の仕合わせを思う、その素直な"形"を総称して、「祈り」というのかも知れない。
最近、なんの信仰も持っていない私が、ある「願掛け」と称して、毎週日曜日に、この「手児奈霊堂」に足を運んでいる。
<手児奈霊堂まで>
東京から江戸川を渡るとそこはもう「手児奈姫伝説」として知られている市川市である。現在、この市川市は人口50万人余の人たちが生活している、首都圏への通勤・通学のベッド・タウンとしてすっかり開発され尽くした感がある。私の家族が昭和40年代に越してきた頃にはまだ、田んぼを潰したあとなどがそこらに散在していて、トンボ・カエル・ヘビたちの住みかでもあった。私の次姉は、このムシたちを沢山捕らえてきては、家族たちに悲鳴を上げさせたりした。
(No.1)
(No.2)
このJR市川駅から手児奈霊堂まで続く「真間本通り商店街」と呼ばれる道沿いを15分ほど歩くと「真間川」(No.1)に出る。この「真間川」の歴史は判然としないが(真間の名称については後述)今現在は、生活排水がダイレクトに流れ込み、夏頃になると"スカム"と呼ばれるヘドロ状の黒い塊が浮いていて、高橋虫麻呂・山部赤人などの、万葉歌人たちが「ほんとうに、その昔、この地を訪れたのであろうか」と首を傾げたくなる風景に成り下がってしまった。
因みに、現在この商店街はさびれており、おおよそ半数の店舗のシャッターは昼間から降ろされていて寂しい。そんななかでも「和菓子の店 ちもと」(No.2)には曰ゆる「手児奈姫伝説」にちなんだ和菓子「手児奈太鼓(饅頭)」や「手児奈ちまき(餡を求肥で柔らかく包んだお菓子)」が製造・販売されています。お店の前で、はたして写真撮影してもいいものかどうか思案していると、50代の店主とおぼしき男性が店から出てきた。「あの、撮影してもいいですか」と聞くと、「えぇ、いいですよ」と笑顔でこたえて下さった。「あの、市川の・・・歴史かなにかを(調べていらっしゃるのですか)?」と聞かれたが、「ちょっと、手児奈霊堂にお参りに来たのです」とだけ答えた。
この「真間川」には最近建設された「手児奈橋」なる名称の橋も渡されているのだが、市川ケーブルテレビで紹介されたときに、タコ市長(私が勝手にそう呼んでいるだけで・・・^^;;;)がテープ・カットしていた事を思いだし「俗っぽくてイカンね!」とぶつぶつ念じながら、「真間の継橋」に繋がる「入り江橋」と呼ばれる方の橋を渡ることにした(笑)
<真間の継橋付近で>
この「真間の継橋」(No.3)は
勝鹿や昔のままの継橋をわすれずわたる春がすみかな
(『新勅撰和歌集』 慈円)
五月雨に越し行く波は勝鹿やかすみかくるる真間の継橋
(『風雅和歌集』 雅経)
今も猶忍びぞ渡るをとめ子が通いなれけむ真間の継橋
(No.3)
(『紅塵集』 加藤千蔭)
と、古代から詠まれている名のある「継橋(つぎはし)」である。
後に述べるが、この「市川市真間」は、昔、海の入り江(海・湖が陸地に入り込んだ部分)であったとされ、その「真間の入り江」に手児奈姫が入水自殺したとされている。
「手児奈霊堂」を現在管理している「真間山弘法寺」はその崖上にあり、崖下が「真間の入り江」だったとすると、なぜこの近辺に「継橋」があったのかしらん。「真間の入り江」と「真間川」は、当時(万葉の時代=奈良朝時代)「入り江」と「川」が混在していたのだろうか。
今現在は、この「真間の継橋」の下には小さな溝がちょろちょろと流れているだけで、ほんとうに名残しか感じられない。「継橋」の脇には
みな人を渡しはてむとせしほどに我身はもとの真間の継橋
(日蓮聖人:鎌倉時代の僧 1228〜1282)
足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
(『万葉集』 巻十四の三三八七 歌詠み知らず)
の石碑があるが、今は誰もそれに目を留めることはない。
(No.4)
「継ぎ橋」の左脇に「手児奈俳句ポスト」と称する小さな木製のポストが置いてあった。(No.4)
そこには「万葉、手児奈の里であなたも俳句を作ってみませんか」と書かれており(全く私は教養もないくせに!)ポストの下にある「投票用紙箱」から、その投票用紙を貰おうと引き出しをあけてみたが、一枚も入っていなかった。
この継ぎ橋を10m程歩くと、その右脇に「手児奈霊堂」入り口が、20m程直進すると「真間山弘法寺」がある。ここで、お坊さんが着る袈裟の様なものを身につけた男性が、ゆっくりとオートバイで「真間山弘法寺」に向かっていく。そのオートバイの後ろを、野良犬がのろのろと追いかけて行った。取り敢えず、私も、このオートバイの進む「真間山弘法寺」の方へお参りすることにした。
<真間山弘法寺散策>
この「真間山弘法寺(ぐほうじ)」は、奈良朝時代の天平9年(737)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ、と読む)
<奈良時代の高僧>が、この葛飾真間を訪れた際に、今も伝わっている「手児奈姫伝説」の哀話を知り、
この少女を哀れみ思い、「求法寺(ぐほうじ)」と称して開山されたという。
その後、空海(弘法大師)が弘仁13年(822)この地を訪れた際に、七堂伽藍(※1)を造営して「求法寺」改め「弘法寺」と改称されたらしい。元慶5年(881)には、天台宗に改宗して、名称も求法寺・弘法寺・根本寺・妙法寺などと変遷したという。
(※1)寺院の主要な七つの建物。
鎌倉時代の建治元年(1275)、当時の弘法寺住職「了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)」と、「富木常忍(ときじょうにん)」(中山法華経寺開基)の法論問答があり、日蓮聖人(1228〜1282)が遣わした「伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)」が、時の住職「了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)」を法論でうち負かし、この法印は寺を捨てて身を隠したという。
私は何だか、この、「了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)」に同情してしまうしかない。
あまりにも自分に似ているではないか・・・
一体彼はこの後、何を思い、どういう人生を送ったのであろうか。
この「真間山弘法寺」は、その名の通り「山の上」にあるといってもよい。そもそも「真間(まま、と読む)」とは、「崖、或いは急傾斜地」の意であるそうだが、万葉集が編まれた時代(奈良朝時代)前、この地は蝦夷地であったといわれ、その蝦夷語「メメ」=崩れ地から、この「真間」が付けられたらしい。
(No.5)
(No.6)
(No.7)
「真間山」を登るには、涙石(No.5)と呼ばれるかなり急斜な石階段を登ることになる。63段あるこの石段の27段目には「涙石」と呼ばれている、いつでも乾かない、濡れた石があるという。
江戸時代、日蓮宗を深く信仰していた、幕府作事奉行(さくじぶぎょう)鈴木長頼(すずきながより)が、日光東照宮造営のために運んでいた石を「弘法寺に仏縁あり」として、この真間山の石段に使用してしまったという。そのため、この鈴木長頼は幕府より責任をとらされて、この石段で、涙ながらに切腹して果てた。
この時の涙がいつまでも乾かずに第27段目にある石が濡れており、「涙石」と呼ばれるそうだ。
私が見たときにはすっかり乾いており、伝説通りとはいかなかったが、先の「了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)」同様、今の私には、この鈴木長頼氏に深い同情を(そこに格別の論理はないのだが・・・)寄せてしまう。
人間にとって「涙を流す」とは一体なんであろう。愛する人を見失ったときに、私は、つらくて・悲しくて涙を流したりするのだが。人は常に「愛する人」を探し、それと同等以上に「愛してくれる人」を探して止まない。
この自分を「愛してくれる人」を失いそうになったときに・・・私は、泣いて、そしてすがってきた。
石段を登ると、「仁王門」(No.6)がある。この仁王門はさびれていて「羅生門」(芥川龍之介)に出てくる物の怪が住み着いていそうで何だか気味が悪い。この中には運慶の作とされる「金剛力士像」が2体納められていた。どちらもその朱塗りが剥がれ落ちており、この寺がうち捨てられてしまった感さえ憶える。
その仁王門の右脇に、「市川第8団野営場」の木碑が打ち立てられていた。
鬱蒼とした森がその先には見えてる。
かつて津島佑子が『伊勢物語/土佐日記』(講談社)の旅の途中「宇津の山」でみた"すずろなるめ"
(マムシに出くわしたという!!)を、この私も見そうで気が引けたが、勇気を出して入って行ってみた。
15m程も歩くと左にお墓が見えてきて、右には開けた平地があった。そこには、ホームレスらしい雰囲気の男性が地面にしゃがみ込んで弁当を広げている。「こんな寂しいところで、ご飯を食べているなんて・・・」と思っていると、左の墓場から、先ほど「真間の継ぎ橋」で出会った、あの野良犬がひょっこりと顔を出した。草の匂いを嗅いでいる。弁当を広げて食べていたその男性は、先ほどの(私が坊主と勘違いしていた)
オートバイに乗っていたその人であった。この男性と、犬に知らん顔して「真間の崖」の果てに行ってみると見事な市川市の全景がそこに見えた。(No.7)
「手児奈姫伝説」では「真間の入り江」に身を投げた(入水自殺した)といわれているが、今では一面住宅地が広がっており、ちょっと理解しがたい。実は6世紀頃からこの「真間の入り江」は後退し始め、今ではかなり遠くまで歩かないと「東京湾」に行くことは出来ない。
そのホームレスらしい男性が、私の顔をまじまじと見て「あの、あなた、市川市歴史委員会の・・・△△さんですか?」と聞いてくる。どうもこの男性は、ここ「真間山弘法寺」近辺の歴史調査員らしく、さっきの犬を連れて、その「歴史委員会」のメムバーと待ち合わせていたらしい。失礼いたしました(笑)
(No.8)
仁王門をくぐると、右脇に小さな「濃縁観世音菩薩」なる小さな仏さまが祀ってあった。(No.8) そこには
「良縁結びにご利益あり」と但し書きが書かれてある。私も、早速お財布から10円玉を取り出して「あの人と、ずっと、友だちでいられますように・・・」などと両手を合わせてお祈りしてみた。
墓場を抜けて、本堂の裏手に廻ってみると「寂光土観音菩薩(じゃっこうどかんのんぼさつ)」という観音さまがいる。この観音さまは、私の一番好きな長姉に似た顔つきの優しい笑みを持っている。「なんだか、お姉ちゃんに似ているなぁ...」などと思いながら、やはり10円玉を置き「お姉ちゃんと、その子どもたちが仕合わせでありますように」と両手を合わせお祈りをする。
中雀門をくぐり、「里見龍神」「大黒堂」でもやはり、お賽銭を入れて「ムニャ・ムニャ(秘密です、はい)」と
お祈りしてみる。「大黒堂」では鐘を鳴らしてみたところ、「カーン!」と周囲に響く音がしてしまい、
「ありゃりゃ、マズイ^^;;;」と焦ってみたものの、この周辺には誰も参拝客はいず、杞憂に終わった。
遍覧亭(水戸光圀が命名した)うらあたりから、烏たちが旋回しながら「アー、アー」と啼いている。その入り口まで行くと「弘法寺古墳」と石碑が建てられており、確かにその後ろには、小さな山があった。6世紀後半〜7世紀前半に掛けて建造された43mからなる前方後円墳なのだそうだが、台地の崩壊により、今は半壊状態となってしまっている。
裏手まで廻ってみたものの、今は「古跡」とも呼べなくなってしまっている程さびれていて、誰にも注目はされない。その、古墳の上に生い茂る森のなかで、烏たちが、「アー、アー、アー」と繰り返し啼いている。
今日、お参りに来た私に向かって「貴様、さっきから勝手なお祈りばかり繰り返しやがってーーー!!」と
馬鹿にしながら啼かれているような気さえしてきて、さらに寂しい気分を感じさせる。
<手児奈姫に祈りを>
古く万葉の時代からこの「葛飾の真間の手児奈」は都人たちに親しまれ・知られていたらしい。
『万葉集』(巻九の一八○七)には
「東の国に、昔から今に至るまで伝えられている真間の手児奈は、麻の服を着て、髪もとかさず、履き物もなく素足で歩いている少女だったのですが、その美しさは都の娘たちにもとうてい及ばないほどでした。その顔は、花のようで、ひとつ笑みを浮かべると、夏虫が火に入るように、船が港に集まるように、世の男たちが集まってきたことでしょう。"人のいふ時 いくばくも 生けらじものを"(人はいつまでも生きてはいられない、そういうのものなのに・・・)と自身を見極め、この奥津城どころに身を投じたそうです」
と高橋虫麻呂は詠っている。
(No.9)
(No.10)
この「手児奈姫」は、今日、市川市民たちから「女性たちの守り神」として広く親しまれている。
現在の「手児奈霊堂」(No.9)は、文亀元年(1501)建立されたと『江戸名所図会』に記されているらしい。
明治21年の「真間山火災」により焼失したのだろうか。大正2年頃に再建立されたらしいが、判然としない。
「手児奈霊堂」の右脇には、手児奈姫が身を投じたといわれる「真間の入り江」の名残がわずかばかり
残されている。今は蓮が生い茂り、水底も見えて、これ又寂しい。
やはり霊堂で、お賽銭を入れ
「どうか、あの人と、ずっと、友だちでいられますように」
「あの子どもたちが仕合わせでありますように」
「お姉ちゃんが健康でありますように」
などと、たったの10円で三つものお祈りをしてしまった。
先日参拝に来たときにはお堂のなかに入れていただき、大切なお守りを頂いた。
霊堂の下にはたくさんの絵馬がつるされていて、それぞれの人たちが手児奈姫に「願掛け」をしている。
私もこの絵馬に願い事を書きたいと思っていたところ、お堂のなかから尼僧の方がお賽銭の集金に出ていらっしゃった。この尼僧の方は「秦 妙善師さま」とおっしゃり、とても柔和なお顔付きであった。
「あの、絵馬を頂きたいのですが・・・」と頼むと、集金を後にしてお堂の中から手児奈姫のイラストが入った可愛い絵馬をひとつ持ってきて下さった。「この場でお書きになりますか」と聞かれたので、「いえ、家に戻ってゆっくりと書いて参ります」と答えた。「いっぱい願い事をお書きになったら、よろしいでしょう」と微笑んで下さった。
此処には、何度も訪れているのに、この菩薩さまの姿は気がつかなかった。(No.10)
老年の女性が、この菩薩さまを、タワシで磨いている。
「秦 妙善」さまに聞いてみると「あれはね、浄清菩薩さまといいます。あなたの大事な人の、具合の悪い
ところを、あすこに置いてある、タワシで磨いてご覧なさい」とおっしゃる。
老年の女性の後に、子どもたちがきて、−誰を思うのだろうか、懸命に水を繰り返し掛け、タワシで磨いていた。子どもたちが去った後、私も真似をして、菩薩さまに水を掛けて、タワシでお腹の辺りを3回ほど磨いてみた。両手を合わせて、菩薩さまに最後のお祈りをする。
うしろを振り返ると、さっきとは別の女性が、「手児奈霊堂」にむかい両手を合わせ、
そしてお祈りをしている。
すでに日は暮れてきて、霊堂も、すっかり夕日のなかにつつまれている。
そこでは、子どもたちが、元気に遊んでいた。
('00.3月1日制作)