一 家出
夕方で人通りの多い商店街の中を美奈は駆け抜けた。
涙が止まらず、周囲の人が皆振りかえったが、それでも美奈は駆け続ける。一刻でも早く自分の家から遠ざかりたい気持ちだった。やがて静かな住宅街までたどりつくと、美奈は後ろを振り返った。
母は追ってこない。
やっぱりそうだ。口では心配しているようなこと言ってるけど、やっぱり本気じゃないんだ。
美奈の胸の底にまた新たな怒りと悲しみが込み上げ、もういちど美奈は涙を流した。その場所からは自分の家は見えなかったが、美奈はその方向に向かって叫んだ。
「バカヤロウー!」
本当は何でもないことだったのかも知れない。小言を言われるのは慣れているつもり。だけど、前々から積もりに積もった母親への不満。もう限界。母親との激しい口論のあと、美奈は家を飛び出した。
人気のない通りをトボトボと歩きながら、美奈はこれからどうするかを思う。といってあてがあるわけではない、再び家に帰るつもりもない、そのために家を出るときに母親の財布を持ち逃げした。
でも、たったひとりでどうして暮らしていく? とりあえずビジネスホテルにでも行ってみる? 美奈は中学2年にしては体も小さく顔立ちも幼いほうだった。美奈はそんな自分が、例えどこへ行ったとしてもひとりで暮らしていけないのは分かっていた。
しょせん母から離れては生きられないの? くやしい。もう少しおとなだったら……。
由貴のところへ行って見るか……だけど由貴の両親は厳格だし、しかも美奈の母親と仲がいい。
やっぱだめかな? うん、でも由貴に相談しない手はないよ。親友なんだし。行ってみるか。
美奈は由貴のことを考えると少しだけ気持ちが晴れたような気がした。
まぶしいな、もう! 美奈の歩く先には既に赤くなった太陽がそれでもぎらぎらと彼女の顔を照らしている。
そうか、もうこんな時間なんだ。まずは腹ごしらえをしていくかっ。
急に空腹をおぼえた美奈は体を向き直ると再び商店街の方に向かって歩き始めた。
二 弟
ハンバーガーショップの前まできて、美奈は店に入ろうかどうしようかと迷った。
……ハンバーガーもいいけど、なんだか甘いものも食べたいのよねえ。
そのときだった。通りのむこうの街路樹のかげに不審者の姿を発見したのは。
不審者は美奈が見ていることに気づくとあわてて木のかげに隠れようとした。だが隠れたのは頭だけで、それ以外の部分は丸見えだ。
「コラッ! なにやってんのよ」美奈は大きな声で叫んだ。
不審者は照れくさそうに顔を出すと美奈に向かって手を振った。
「えへへ、ついてきちゃった」小さな不審者は通りを渡ってくるとあきれ顔の美奈に向かって言った。
「祐一! なにやってんの、こんなところで」言いながらも美奈の顔が思わずほころんでしまう。
「だって、お姉ちゃんがいきなり家出しちゃうからさあ」
「なんで家出だって知ってるのよ、あんたまさか母さんに言われて来たんじゃないの」
「ちがうよ。ぼくも一緒に家出してきたんだ。ねえ、ぼくも連れてってくれるよね」
「…………」
「あの……ぼく、のどが渇いちゃったんですけど」
「あんたねえ、なに考えてんの? 遊びじゃないのよ。バカ」
美奈はうんざりした。だが同時にこの小さな弟を思い切り抱きしめてやりたくもあった。
なんだろう? この気持ち。美奈は自分の感情がよく分からない。なんでこのクソガキがこんなにかわいいの?
「ねっ、なんか飲もうか」美奈は優しくなっている気持ちをすなおに弟に向けた。
「うん。でも……おなかもすいた」
「とにかく入ろっ」
カウンターのところで美奈は言った。「なんでもたのんでいいよ。今日は姉ちゃんお金持ちなんだからさ」
「お母さんのお金だろ」祐一がしらっとした顔で言った。
「もうっ! でもこうなったらあんたも共犯者なんだからね。だまってたのめ!」
「だまってたらたのめないよ。ええっとぼくは、お子さまセットとアップルパイと……それから……」
注文が終わると、山盛りのトレイを持って二人は窓際に席をとった。店内は比較的すいていた。
「ねえ、祐一、あんた家出ってなんだか分かってんの」トレイから弟の分を取り分けてやりながら美奈は言った。
「知ってるよ、お母さんとけんかして家を飛び出すことだろ」
「あんた母さんとけんかしたの」
「べつに」
「じゃあなんであんたまで家出してくるのよ」
「あのね、健太くんが言ってた。男はいつでも家を出る覚悟をしとかないといけないって、だからぼく、覚悟を決めたんだ」
「あのバカ、こんな子供にしょうないことを吹き込みやがって」美奈は口の中で小さくつぶやいた。
「えっ、なんか言った?」祐一は大きなハンバーガーと格闘しながら美奈の瞳をのぞきこんだ。
「祐一? 姉さんはもう家には帰らないけど、あんたはこれ食べたらちゃんと帰んなさいね」
美奈はつらいと思った。もちろん弟を連れて行くつもりはない。だからそのあとの――今はいい。弟と一緒だから。だけど弟と別れたそのあとの孤独がつらいと思う。ひとりぼっちの自分がたまらなくつらいと思う。
「ぼくも一緒に行くんだけど……」祐一が自信なさそうに言う。
「だめ! 姉ちゃんは今から由貴ちゃんのとこに行って、それから……泊まっていって」
美奈は言いながら自分のふがいなさを恥じた。自分ひとりでさえどうして行こうというあてもない。でも母のところにも帰れない。美奈はもう一度母親の顔を思い出し、新たな怒りで自分を奮い立たせようとした。
「あのお……ぼくも準備できてるんですけど」祐一は小さなナップザックを示しながら言った。
「なによ、それ」
「家出セット。健太くんと一緒に作ったんだ」
「あのバカッ! なに考えてんのよ! ったくもう」
「ねえねえいいでしょ?」祐一は訴えるような瞳を美奈に向けた。
「だまって食べるし」
美奈はなんだかバカバカしくなってきた。自分のやろうとしていることは、しょせんこのようなままごと遊びに過ぎないことではなかったのか。
それでも……。美奈の気持ちは大きく揺れ動いた。だが美奈はその気持ちをどのように整理すればよいのか見当がつかなかった。
「おいしい? ハンバーガー、全部食べれるようになったんだ」しばらく無言で食べ続けていた美奈が声をかけた。
「どっかで聞いたみたい」祐一が笑った。美奈も笑った。
三 選択
食べ終わって二人が店を出ようとしたときだった。
祐一ははしゃぎ過ぎていた。美奈の「ついてきてもいいよ」という言葉に。
店を出るところで、思い切り駆け出した祐一の体が妙な具合にかたむき、そのまま彼はつんのめるように倒れてしまったのだ。
「祐一! 大丈夫?」
「アタタタッ! 足が痛てえっ!」
「もうっ、ドジなんだから」
駆け寄った美奈は祐一の足をみてやった。ちゃんと動くところを見ると、そんなにたいした怪我ではないらしい。
「痛いよ! お姉ちゃん」
「我慢するし。傷は浅い」
「なんだよ、こんなところに段差を作りやがって。このやろっ」祐一はかろうじて立ち上がると段差に向かって片足を上げたが、よほど痛かったのか、すぐにまた顔をしかめて座り込んでしまった。
「大丈夫なの? すごく痛いの」美奈の顔も心配にゆがむ。
「うん。じっとしてたらそんなに痛くないんだけど」
「困ったね……歩ける?」
「たぶん」
祐一は再び立ち上がると、数歩ばかり歩いてみた。片足が引きずっている。
「あーっもう、ドジ、マヌケ。いったいどうすんのよ」
「あのおー、結構痛いんですけど……」
「分かってるよ」
美奈はもうどうしてよいのか分からなくなってしまった。何もかもが思うようにいかない。だけど、弟をほおっておくこともできない。
突然、美奈は祐一に背を向けてしゃがみ込んだ。
「おいで。おんぶしてやるから」それは美奈に残されたただひとつの選択だった。
「家に帰るの?」素直に背に乗った祐一がポツリと言う。
「バカ言ってんじゃないよ。これから由貴ちゃんのとこに行くの」
「ふーん」祐一の声が不安に震えていた。
だが、歩き出した美奈は自分の選択の甘さをいやというほど思い知ることになる。
弟は重かった。
小さな美奈の背に子供とはいえ7才の祐一の体はあまりにも重すぎた。
「あんた、何食ってこんなに重くなったのよ」美奈は軽口を言ってみたが、そんなことで背中が軽くなるわけではない。
美奈は歯を食いしばって歩いた。一歩、また一歩。
四 和解
歩くうちに日が暮れた。
徐々に慣れてきたのか、美奈の足取りもしっかりしてきた。
「大丈夫? お姉ちゃん」背中で祐一が何度も声をかける。
四月というのに夕暮れの風は冷たい。
「ぼく、歩いてみるよ」祐一が言う。
「いいよ、こうしてるとあったかいから」
「ぼくもあったかい」
「でも、祐一、あたしのオチチさわるのはやめてくれない」
「お姉ちゃんオチチないんだけど」
「バカッ」
美奈には背中の温もりが、春の陽だまりのように心地よかった。
ふふっ、母さんにもよくおぶってもらったっけ。母さんもオチチ小さかったな。母さんの背中、あったかかった……
突然、のどの奥に熱いものが込み上げるような気がして、美奈はあわてて祐一をゆすり上げた。そのとたん、こらえ切れない涙が美奈の瞳からこぼれ落ちた。
「母さん!」美奈は小さく叫んだ。
……母さんもいつも美奈をおんぶしてくれたよね……美奈も……重かったよね……
思わず立ち止まった美奈の瞳から涙がいくつもいくつもあふれて止まらない。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
「うるさい。目にゴミが入ったんじゃ」
美奈は弟を落とさないように腰をかがめながら、両手でごしごし目をこすると再びしっかりと立ちあがった。
「お姉ちゃん、ぼく歩く」
「いいのっ! ほら、行くよ、しっかりつかまって」美奈は向きを変えると突然走り出した。
「ワー! すごい、どうしたの? どこ行くの」背中で祐一が笑っている。
「お家に帰るのよ。もう家出ごっこはおしまい」
商店街の真ん中を美奈は駆け抜けた。冷たい夕風が美奈のほほにあたり、ほんの少し残っていた涙を気持ち良く乾かしてくれる。
美奈はようやく速度をゆるめ、背中の温もりを確かめるように祐一をゆすり上げた。
「お姉ちゃん、もう少しだね」
「うん。もう少し」
「お姉ちゃん、ごめんね」
「うん」
「お母さん」美奈はもういちど声に出して母を呼んでみた。
母さんはきっと待っていてくれる。美奈がまだ小さかったころいつもそうだったように。薄暗い門灯のそばにじっと立ちながら美奈の姿を見つけるとにっこり微笑んで手を振ってくれたあのころのように。
美奈はふと立ち止まると、すでに薄暗くなった空を見上げて力いっぱい声を上げた。
「いちばんぼーしみーつけた」
* *
とるに足らない出来事だったかも知れない。けれど、人生はそんな出来事の繰り返しなのかも知れない。
寝床の中で眠りがやってくるのを待つあいだ、美奈はよくそんなことを思う。
人は誰も幼いころの小さな思い出を心にしまっているのだと思うことも。思い出があるからこそ優しく生きられるのだと思うことも。そしてそれがある限り必ず和解は得られるのだと思うことも。
そんな夜、いつも美奈は母の背中の温もりを胸に感じながら夢の世界に入っていく。
完
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