一 焦げたバッチ
「いってきまーす」
少女の明るい声が路地いっぱいにひびく。
だが、少女に追いつかれた少し年長と思われる少年はさっと振り返り、その顔をぐいっとにらみつけた。
「こりゃ! 良子、お母さんばっかりじゃいけまあが」
その剣幕に良子と呼ばれた少女はペロッと舌を出して首をすくめる。
「ごめん、お兄ちゃん。忘れとった」
少女は、家の方を振り返って、とってつけたように言う。
「おじちゃん、おばちゃん、いってきます」
「困ったもんじゃのお」と少年。
「お前のお、ワシらの立場が分かっとるんか。ええかげんにせえよ」
「ほいでも……」
少女のすねた様子にその少年のほほが思わずゆるんだようだ。
やがてふたりはクスクス笑いをかわしながら仲良く肩を並べて歩き始めた。
幸一と良子、ふたりは市内の国民学校に通う仲良しの兄弟である。
父親は、もうずいぶん前に兵隊に取られており、住んでいた家も建物疎開により報国隊の手で取り壊されていた。わずかな保証金は出たものの一家は途方にくれた。が、ほどなくして伯父のところから、戦死していた長男の部屋が空いているからそこに住んではどうかという申し入れがあり、一家はその好意に甘え、六畳一間のその部屋にわずかな荷物だけを持って移り住んだのである。
そうはいっても戦時中のこととて、誰も自分が生きるのに精一杯。たとえ親戚といえども余分な家族が増えるのはかなわないと思っている。幸一が気を遣うのも無理はなかった。
良子は色の白い、周囲の大人たちから「ヨッちゃんは将来きっと美人になるよ」と言われる愛らしい女の子で幸一の自慢の妹だったが、少しばかり気の強いところがあり、しかも誰にも遠慮というものがない。今日も家を出るとき、母親にしか挨拶をしなかった良子を見て、幸一はふんがいしたのであった。伯母は心根のやさしい人だったが、幸一はそれに甘えることを自分に許さなかった。
みんな大変なんじゃけえ。なんぼ子どもじゃゆうても遊んどったんじゃあいけん。ワシがしっかり働いて母さんや良子にも肩身の狭い思いをさせんようにせんにゃあ。
幸一はそんな少年であった。
大きな屋敷の焼け跡を横目に見ながらふたりは歩いていた。
「ねえ、お兄ちゃん? お父さんの手紙、今ごろこんようになったね」
「うん」
「お父さん元気にしようるんかね」
「うん」
「うんじゃないよ、お兄ちゃん」
言いながら良子は道端にしゃがむと、落ちていた小さなバッチを拾いあげた。
この辺りの子どもが付けていたものなのだろう、勇ましい絵が描かれた表面は黒く焦げ、少しゆがんでいた。
「お父さん、死んだんかね」再び歩き始めながら良子がぽつりとつぶやく。
それで幸一の顔色が変わった。
「バカタレッ! もういっぺんゆうてみい、張り倒されるで」
それでも良子は手のひらにのせたバッチを見つめたまま黙っている。
「お父さんはの、お国のために大変な思いをして戦こうておられるんじゃ。お前がそがいな弱気をゆうてどうするんや」
「ねえ、お兄ちゃん」良子はまだうつむいたまま、幸一の顔も見ようとしない。
「みんなお国のためとかゆうとるけど、お国ゆうのは何んなんね。うちらのために何んかええことしてくれるん?」
ふと、幸一の足が止まる。
「ほおじゃのお……」幸一の怒りはすでに収まっていた。
「ほんまはお父さんも無理やり兵隊に取られたんじゃし。ほいじゃがやっぱし敵を倒さんにゃあ、ワシらがやられてしまうしのお……」
「アメリカ人はすごい恐いんでしょ?」良子が不安げに問う。
幸一はそれには答えず、日に焼けた真っ黒な顔をほころばせながら言った。
「お父さんはワシらのために戦こうてくれとるんじゃけえ」
「うちらのために?」
「それよの。国ちゅうのは確かに何んも形がありゃあせん。ほいじゃが兵隊さんは自分の親や子どもを守るために命をかけて戦かいよってんじゃ」
幸一は 我ながら上手い答えをひねりだしたと得意になり、胸をはった。
「じゃけど、おかしいよねえ」良子は近ごろずいぶん細くなったような感じのする首をかしげる。
「なんで国と国が戦争をせんにゃあいけんのんかねえ。なんでみんな仲良う暮らせんのんじゃろうか。親や子どもを守るゆうたって、そんなら最初から戦争なんかせにゃあええのに」
その問いに幸一は頭をひねったが、今度は上手い答えが浮かびそうにない。幸一は仕方なくおどけたように言った「うん、そりゃあワシにゃあちょっと高尚な話じゃ」
幸一は、キョロりと周囲を見渡すと、急に声を潜めて言葉を続けた。
「ほいじゃが良子。こげなことは誰にも話をしちゃあいけんで。警察にでも聞こえたらこれじゃけえのお」幸一は両方の手首を合わせて前につきだす仕草をした。
「よっしゃ、遅れたらいけんけえ、もう行くで」歩き始めた幸一だったが、ふいにやさしい笑顔を良子に向けた。
「絶対お父さんは元気で帰ってきてじゃけん、心配すなや」
ようやく良子の顔にも笑顔が戻った。
焦げたバッチはまだ良子の手の中にあった。
二 星の降る夜に
それから幾日か経った夜のこと、伯父夫婦の外出で、幸一たち家族は久しぶりに親子水入らずの食卓をかこむこととなった。伯父は郊外の親戚の家に泊まりに行き、伯母は婦人会の会合で帰りが遅くなるらしい。
幸一と良子は思いがけず訪れた親子の団欒にはしゃいだ。やはり普段はどうしても伯父や伯母に気がねをせずにはいられないのだ。
楽しい食事も終わり、お茶を飲みながら幸一は、先日の良子との話を母に聞かせた。
「あののお、母さん。良子は、わやばっかりゆうんじゃけえ。お国のことを何にもしてくれんバカタレじゃゆうて。ワシゃあ肝がつぶれたよ」
「そこまでゆうとらんわいね」良子の顔が赤くなる。
「でもね、お母さん? お父さんはちゃんと帰ってきてよね」
良子の問いに母が答えようとした時、家の外で重苦しいサイレンが鳴り始めた。警戒警報だ。母は機敏に立ち上がると、電灯を覆った黒布を引き下げ、子どもたちに向かっていつでも外に出られる準備をするように促した。
幸一が口を尖らせながら言う「そがあに慌てんでもええよ。どうせ敵さんは素通りするだけじゃけえ」
確かに近ごろでは敵の編隊が上空を飛ぶことがあっても、爆弾も落とさず通り過ぎるのが常となっている。
幸一は内心不満だった。せっかくの家族水入らずの時間なのに、なんであげなやつらに邪魔されんにゃあ いけんのんや。
だが結局、母はそそくさと食事の後片づけを始め、幸一はとりつくしまもなく憮然とした表情でゲートルを巻き始めた。
その騒動も終わり、兄弟が眠りについて間もないころ、二度めの警戒警報が鳴った。
先に眼をさましたのは良子だった。
母は起きて階下にいるらしかったが、幸一だけはピクリとも動こうとしない。
少しむっとした様子の良子は、やおら幸一の尻を思いきりつねりあげた。
「あいたーっ! おどりゃあ、なにするんならあ」幸一が布団の中から目をむく。
「ほらっ、警報。ぼやっとしとったら置いてくで」良子が早口でまくしたてる。
それでようやく幸一の目がさめた。
「おお、そうじゃった。いけん、いけん」さすがに幸一は兄貴らしく、サッと起きあがった。
「よっしゃ良子。突撃じゃ、ワシについてこい」
幸一がおどけた調子で言うと、良子も呼応する。
「お待ちください、隊長殿」
「えいっ、はなせ、軍刀にさびがつく」
二人はケラケラと笑いながら階段を降りていった。
「あんたら、なにをさわいどるんね」叱る母の顔も笑っている。
「私は、見廻りに行ってきますからね。あんたらは中で待っとりんさいや」伯母もつられた笑いをかみ殺しながら、そう言い残して外に出ていった。
やがて母は縁側から庭に下り、暗い空を不安そうに見上げ始めた。兄弟もそれに従って庭に出た。
ふたりはまだ起きたままの姿だったが、幸一は気にしなかった。どうせ今度もスカなんじゃけん。
見上げる空をB29の地鳴りのような爆音が通り過ぎる。ずいぶん遠い音だ。
「ほれみいや。やっぱりスカじゃろうが」と幸一。
それでも三人はしばらくのあいだ、不安そうに空を見上げていた。
「きれいな星じゃねえ」ふいに良子がすっとんきょうな声をあげる。
「おお、ほんまじゃのお。母さん、すごいで。天の川があげにきれいに出ちょる」
空襲に気を取られ、星が出ていたことにも気づかなかった三人だった。
真っ暗な空一面からキラキラと星が降ってきそうな、そんな美しい夜があった。
「戦争はいやじゃね。いつになったら終わるんじゃろうか」良子がぽつりとつぶやく。
幸一ははっとして周囲を見渡しながら「こりゃ良子、またそげなことを言いよる。近所に聞こえたらどうするんなら」と怒ったような声で言う。
「聞こえてもかまやあせんよ」突然、母がきっぱりと言い放った。その声には思いがけない厳しい響きがあり、幸一も良子も驚いて母の顔色を伺った。
「誰に聞かれてもかまやあせんよ。どうせもうすぐ戦争は終わるんじゃけえ」
「えっ? 母さん……、なにそれ」幸一が聞く。
「見てみんさい、きれいなお星さま。世の中がこんなひどいことになったのに、ひとつも変わりゃあせんと、光っとってじゃ……」
「母さん、どういうこと? よう分からんよ」幸一の声は不満げだ。
「あのね、本当はお母さんにもよう分からんけど、お星さまを見とったら思うんよ。こんな戦争がどれだけばかげたことかゆうのが」母はふたりの方に向きなおり言った「みんなそう思うとるんじゃないんかねえ。今戦争をやっとる人だって、心の中じゃそう思うとるに違いないんよ」
「お母さん、わたし分かるような気がする」じっと考えるように母の言葉を聞いていた良子が言った。
「うん、ワシゃあ、ちょっとだけ分かった感じじゃ」幸一が言う。
「お星さんを見よったらなんやこう、人間のやっとることがえらいこまいことみとうに思えるんじゃ。お釈迦さんの手の中の孫悟空みたいなもんじゃの」幸一は自分の例えに思わずニヤリとした。
「ほんまになんで同じ人間じゃのに、殺し合わにゃあいけんのんじゃろうかねえ」良子がため息まじりに言う。
そのとき、じっと空を見上げていた母が思いつめたような調子で口を開いた。
「ねえ、幸一、良子。お母さんに約束して。命を大切にするゆうて。誰とも仲良うするゆうて。絶対に戦争はせんゆうて」
「ほいじゃが相手の国が攻めてきたらどうするんね。そこで戦わんかったら国がほろんでしまうが」あくまでも国にこだわる幸一だった。
「お兄ちゃん? 国なんかほろんでもええんよ。人が生きとったらそれでええんじゃないんね」
「そりゃあ、生きとったらええで、ほいじゃが殺されたらどうするんや」
「…………」
「殺される方が殺すよりもずうっとええ」母だった。その声には犯し難い厳しさがあり、兄弟はそれきり黙りこんでしまった。空の星も息をひそめたように光っている。
沈黙を破ったのは幸一だった。
「母さん、ワシ、約束する。ワシは自分の命を大事にする。ほいから人の命ももっと大事にするけん。戦争なんか絶対にやらんし、やらせもせん」そう言う幸一の声はあたりをはばかって小声ではあったが、力強い勇気にあふれていた。
「わたしも約束する」良子の声も力強い。
「わたしね、大人になったら赤ちゃんを産むの。そしたらその子にも今のお母さんと同じことをゆうてあげるんよ」
「よっしゃ、戦争が終わったらワシャあ、めちゃめちゃ勉強しあげるでえ。ほいでのお良子、ワシが大臣になって戦争禁止の法律を作るんじゃ」
「すごいね。でもお兄ちゃんならできるよ。かしこいもん」
「おおい、かしこいのはお前の方じゃ。良子は勉強ができるけえのお」
「でも、ほんまに早よう勉強ができるようにならんかねえ」そう言って良子は両手を胸の前で組み、夜空の向こうを見るような眼を幸一に向けた。
幸一は突然思った。やっぱこいつ、大きゅうなったら美人になるで。
その会話にじっと耳をかたむける母の目にうっすらと涙が浮かび、やがて大きく広げた手でふたりの我が子を胸に抱きよせた。そのぬくもりのいとおしさに母はすすり泣きを始めていた。あたたかな胸に抱かれた幸一も涙が出そうになり、さらに強く母の腕にしがみついた。
約束は絶対に忘れん。お母さんと約束したこのことは大きゅうなっても、どんなことがあってもずうっと死ぬまで忘れん。
見上げる夜空には、たくさんの星たちが親子を包み込むようなやさしい光を降り注ぎながらまたたき続けていた。
すでに日付は八月六日に変わっていた。
三 そしてすべては終わり……
暑く長い夏の一日が始まった。
眠い眼をこすりながらも先に起きたのはやはり良子の方だった。明るい朝の光りがいっぱいさしこむ布団の中で、まだ幸一は最後の眠りをむさぼっている。
良子はまた兄の尻をつねりかけたが、それはやめて幸一の耳元に顔を近づけ「こりゃ、幸一! いつまで寝とるんね。早よう起きんにゃ」と大声をあげた。母の声色だった。
幸一はもぞもぞと目を開ける「……母さん。まだ眠たいよ」
「バカッ、早よう起きんさいや。八時までに集合するんでしょ」
ようやく幸一が起きあがった。
「あんたら、大丈夫? たいぎかったら休んでもええんよ」母がふたりを気遣う。
この日、幸一と良子は報国隊の手伝いに出かけることになっていた。
「なんの、これくらいわけゃあないで。のお良子」
「うん。わたしは全然平気。ほいじゃけど、お兄ちゃん、作業しながら居眠りしそうなんが心配なんよね」
「なにおっ、お前こそ朝礼の最中に倒れるなよ」
幸一と良子は顔を見合わせ、ほがらかに笑いあった。
やがてふたりは母のこしらえた貧しいながらも心づくしの朝食を取り、身支度を整えるとそろって玄関に立った。
「おばさん、お母さん、いってきます」ふたりが声を合わせて言う。
その声に母が台所からやさしい笑顔をのぞかせた。
「気をつけるんよ。それじゃあいって帰りんさい」
ふたりは母に手をふって玄関を出た。振り返りはしなかった。それきり彼らが母の顔を見ることは二度となかった。
午前八時、良子と別れ、広場で点呼を受けた幸一は、すでに取り壊されていた建物の後片づけ作業を始めた。
はるか上空を一機のB29が通り過ぎていく。
「なんや、ありゃあ、なにをしょおるんならあ!」
子どもたちは空を見上げ、口々にはやしたてる。
「おいっ、ありゃあ何かいの」
空に落下傘が開き、キラキラとかがやく箱のようなものがゆっくりと落ちてくるのが見えた。
時計の針が八時十五分を指し、真夏の青い空にピカッと白い閃光が炸裂した。
次の瞬間、天地を裂くような轟音と猛烈な爆風があらゆるすべてのものをなぎ倒した。川面が狂ったように騒ぎ、激しいしぶきを上げる。そうして間髪を入れずあらゆるすべてのものが燃え始めた。建物も電車も橋も木立も草花も、そうして人間も。
幸一も吹き飛ばされた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。ようやく目を開けた幸一は幽鬼のような足取りで歩き始めていた。
ほとんどつぶれた幸一の目が良子の姿を捉えるまでにはかなりの時間を要した。
それはすでに黒く焼けた肉隗に過ぎなかったが、幸一にはそれが良子だということが分かった。幼いときからずっと一緒だった。眠るときも遊ぶときも。どんな小さな思い出も分かち合った仲良しの兄弟だったのだから。
幸一は最後の力で良子のところまで這っていき、その体をかばうように抱いた。周囲から火の手が迫り、幸一はなんとか立ち上がろうとしたが、ひどく焼け爛れたその体には、もはやそうするだけの力はなにも残ってはいなかった。やがてしっかりと抱き合ったふたりの体もぶすぶすと煙を上げながら燃え始めた。お母さんと呼ぶ声が聞こえたようにも思えた。それでお終いだった。
母はしばらく生きて、我が子を探しに歩き出したが、やがて業火の中で息絶えた。
伯母も激しい苦痛の中で死んでいった。
―被爆の記録―
爆心から1Km以内にいた人のほとんどは、摂氏1800度以上の強烈な熱線を受けて黒焦げとなり、あるいは建物に押し潰され即死した。即日死亡率は90%以上である。その周辺にいた人々も熱線の照射を受けた部分が激しく焼け爛れ、また爆発直後、極めて多量に発生・残留した放射能は、人体の機能をことごとく破壊した。
この日、広島にいて被爆した人は、約35万人。そのうち数万から10万の人々がその月のうちに死亡したと推定される。その死因の多くは爆風による身体損壊および熱傷と放射能障害によるものであった。火災による被害も甚大で、倒壊した建物の下で生きながら炎に焼かれた人も多かった。生き延びた人々にも深刻な障害が残った。
昭和20年の年末までに死亡した人は、14万人であったと推定される。
ヒロシマの街は完全に消滅した。
その夜、廃墟の空には星の明かりすらなく、広大な死の街を覆い尽くす黒雲の下に聞こえるのは幾万の人のうめき声と祈りの声だけであった。
ずいぶん長い時が経ったようにも思える。上空の黒雲がほんの少し開き、小さな星の光がたったひとつ地上を照らし始めていた。
それでもまだ止むことがない悲痛な死の声の中に、それとは違う何か別の声が聞こえたようである。それはこの地獄の中で、最初はひどくかぼそく、しかしやがて周囲をゆるがす大いなる声となって響き渡った。たった今生まれた赤ん坊の声であった。
幸一だったのか、あるいは良子だったのかも知れない。業火の中に打ち破られた彼らの夢も希望も、二度と再び取り戻すことはできない。しかし、その生きる願いはずっといつまでも受け継がれていくのであろう。またどこかで新たな産声が上がった。
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