第十話 海上シーレーン
今も昔も、日本という国はその地理的条件から「海上輸送ルート」の「安全が」
国家防衛上最優先とすべき課題です。 かのマッカーサー元帥が回顧録で
「日本は、貿易先か移民先を無くされたら、飢え死ぬかそれとも死にものぐるいで戦うしかない。」
と、発言してます。 当にその通りですね、日本は移民を禁止されて、更に最大の貿易相手国「米国」から
通商関係を無くして戦争に突入しました。
と、何故シーレーンか?と言うと、先頃日本の貨物船がシージャックされて大変だった。ってニュースを見てまして
平時で海賊船に襲われて乗っ取られる事態なら、戦時は「撃沈」されるんじゃないかな?と思い筆を取った次第です。
さて、戦争するには「資源」が足りないと痛切に感じていた日本帝国は、その解決策として
開戦初期に南方の資源地帯を押さえることを計画しました。
なにぶん、最大の資源輸入相手の米国から、石油の90%、屑鉄の100%を依存していて、
よく考えたら、米国と戦うために米国から資源を輸入していたと言っても良いぐらいです。
一例として、昭和16年時の日米の国力比較を上げますと、
日本 米国
石油 1 : 721
鉄鋼 1 : 18
国生 1 : 13
(注・国生=国民総生産/GNP)
となっています、もはや目眩がするほどの国力差ですが、日本の1でさえ、米国に
依存してるからそうなるのであって、米国からの輸入を止めて計り直せば、米国の
数字はもっと跳ね上がります。
日本政府は昭和16年10月、自国の国力判断を検討しましたが、その判断は
総理大臣東条英機、企画院総裁の鈴木 貞一を中心に希望的観測に傾いていきました。
しかし、現状はお寒い限りで、長引く日中戦争の戦費拠出増大で国民総生産は昭和14年を
ピークに下降線を辿ってましたし、軍需生産に必要な物資の配給計画にも行き詰まり国民を
総動員した「金属回収」を行っていました。
これはイカンと、国力の再調査を指示したのですが、この調査機関の部員の言を借りれば
日本の国力は「どどっ〜と下がっていく。」米国の国力は「↑」と直線的に上がる・・・と
少ない米国資料と比較しながら途中報告していましたが「上」はそんなバカな!と取り合わなかった
そうですが、実際はその通りであり、当時の日本は「米国の底力」を甘く見ていたのです。
余談ですが、某書で現在の米国の国力は「こけおどし」と言う表記を目にしますが、少なくとも
諸文献の数字をこれまた「希望的観測」で計算したのでは?と思えるのがホントのところです。
さて、その国力差を如何にして埋めるか問題にはなりましたが、日本の戦略は楽観的なものでありました。
前記した通り、まず南方資源地帯を迅速に占領、その資源を持ち帰って内地で戦力化し、米国との
長期持久戦の国力を維持する、そのうちドイツがヨーロッパで勝利すれば有利な講和条件できると。
しかし、この戦略が可能かは否かの鍵は、ただ一つ海上輸送が出来るか出来ないかでした。
その見通しを政府と軍令部はどう判断したかと言うと、当時日本の船舶は600万総トンであり
その半分の300万トンを物資用、残りは軍が使う作戦用とベターハーフ的思考で決定しました。
開戦の1ヶ月前の企画院の報告書によると「国力維持の為の300万トンは確保できる
これが崩れない内に今開戦した方が有利である。」と書き込まれています。
ところが、これには重大な落とし穴があって、米国との戦闘で損耗する輸送船をどう見積もるのか?
との議論がなおざりにされてしまいました、しかし、この海上輸送の損耗率ってデータが海軍には存在しなかったそうで
これは困った、しかし上は資料出せ資料出せと来るものだから、一夜漬けで慌てて文書を出して
内容は、第一次大戦中の英国の海上輸送損耗率を元に作成されてしまいました。
ウソみたいですが、元にする資料が無いのでしょうがない、とにかく「つじつまを合わせよう」が
優先されたようです。
その船舶喪失予想は、年間10%程度、おおむね60万トンの損害であろうと判断したのですが、実際は
開戦1年目 80万トン/96万トン 二年目 60万トン/169万トン 三年目 70万トン/392万トン と
前者の予想を遙かに超えた数字が並ぶ結果になりました。(注 予想/自損害)
しかし、未来を知る由もない首脳の判断は次のやり取りではっきりします。
昭和16年11月5日 御前会議
原 枢密院議長 >南洋の敵艦の妨害を受けても物資輸送に影響は無いと判断して宜しいか?
永野 軍令部総長
>海上輸送は日本の生命線でありますので、その保護には力を尽くすが損害もある程度あるでしょう。
原 枢密院議長 >米英蘭の海軍に妨害された場合は?
鈴木 企画院総裁
>船舶の損耗数は陸海軍共同の研究の結果であります。
原 枢密院議長 >・・・・。
海上輸送を巡る判断は、なんら科学的合理的検討がなされること無く虫のいい楽観論が大勢を占めてしまったそうです。
そして昭和16年12月8日 日本軍は一斉に南方資源地帯に侵攻を開始しました、開戦にあたって日本は
2つの目標を掲げました、「自存自衛」「大東亜の新秩序建設」と、壮大なものでした。
インドネシアでは現地民から解放軍として迎えられたのは事実であるし、当時の日本軍内でこの戦争が
侵略戦争と思ってる人間は居ませんでした。「大東亜共栄圏」の範囲をよく調べるとその範囲に
石油 鉄鉱石 石炭 ゴム ポーキサイト ニッケル 木材 米 綿 砂糖 等を生産できる拠点が点在しています。
この豊かな資源を確保するのが、植民地支配からの解放を掲げた日本のもう一つの顔でした。
そして、東南アジアより日本本国に向けて、2500海里にも及ぶ長大な海上輸送が開始されます。
その輸送の中の1隻、最先端タンカー「さんるいす丸」に乗艦していた航海士は当時
「陸海軍」だけで、戦争は出来ない、商船あっての戦争だ。」と、誇りに思っていたそうです。
ところが、その長大なシーレーンを如何にして護衛するかとなると、海軍に頼まねばならないのですが、
肝心の連合艦隊はその戦略や装備が欠けていました。なんせ日露戦争後、海軍は米国を仮想敵国とし
相変わらずの「大艦巨砲主義」が幅を利かせ、デカイ戦艦が重んぜられ、且つ、戦略構想が「迎撃作戦」で
商船護衛の艦艇は0(つまり、有力な対空備砲や爆雷装置を装備した艦艇が無かった)に近かったそうです。
とにかく、米艦隊を正々堂々迎え撃ち雌雄を決する、艦隊決戦でなんとかしたかったようです。
だが米国は全く別の戦争を考えていました、開戦直前の11月26日(ハルノート提示)に
アジアの米潜水艦部隊に、戦争が始まった場合「無制限潜水艦作戦」を指示していました。
この作戦は、相手が、たとい非武装商船でも「警告無しで」撃沈せよと言うのが主軸です。
この作戦を実施した場合多数の民間人が犠牲になると言う理由で、「国際法」で禁止されてましたが、
あえて、米国は日本のアキレス腱である、海上輸送を断ち切り、兵糧責めにすることにしたのです。
当時の米国の作戦担当者の証言によりますと、「日本軍は実に勇敢に戦いましたが、ただ一つアキレス腱的な
弱点があった。それは、日本の生命線たる海上輸送ルートの防備が疎かであり且つ無力であったことである。」
真珠湾奇襲の3時間後、米潜水艦は太平洋に散って行きましたが、その当時の米潜水艦には欠陥があったそうです。
その典型的な例が、米潜水艦ティノーサ号の攻撃記録です。 この潜水艦はトラック島近海をパトロール中
タンカーである第三図南丸(19、000トン)に遭遇、15本の魚雷を発射、12本命中 しかし、2本しか爆発せず
第三図南丸は辛くも沈没を免れました。つまり、潜水艦の魚雷が不完全であったのです。
ティノーサの艦長は、この戦闘を克明に記録し、海軍省に叩きつけたそうです。
しかし、米国がやるならドイツもやる感じで、米東部岸でU−ボートが群狼作戦を展開、日本同様単独で航海してる
タンカーや輸送船を次々に撃沈し気勢を上げていました。その損害は1942年前半だけで580隻 300万トンに
上る程で、米国内では民需用のガソリンが不足し、国民は海軍の無策を非難していました。
1942年夏 キング作戦部長は、自ら作戦を変更、輸送船の単独航海禁止、護送船団方式を採用し
且つ、護衛駆逐艦の急造を指示、さらにU−ボートの暗号を解読する部署を立ち上げ、その作戦海域を探り
確認すれば、輸送船団のルート変更をして、その地点に対潜爆撃機を派遣してしらみつぶしにU−ボートを
撃沈する作戦をとりました。この方法でなんと半年で被害が1/10に減少させることに成功しました。
その頃、日本は、具体的な国力増強を図らず、もっぱら国民の戦意高揚をやってました。
緒戦の勝利に酔って、戦争の展望が明るくなったと言うので、更に勢力域の拡大を図る
第二段作戦を開始、しかし、それが日本の戦争経済の破綻の引き金になってしまいました。
まず、ミッドウェイでつまずき、餓島で泥沼にはまります。
特にガダルカナル島攻防では、日本の最前線基地ラバウルから1000kmの距離を、低速で動きの鈍い
輸送船が満足な護衛もなく強行突破を図りますが、島に近づくと決まって米軍機がやってきて全滅の憂き目に
遭う惨状に陥りました。このため、軍が徴用した船舶30隻を失い深刻な船舶不足が問題になりました。
この事態を重く見た大本営は、新たに民需用船舶から62万トン軍用に廻せと政府に迫りました。が、
政府は民生優先か作戦優先かのギリギリの判断で、半分の31万トンを認めましたが
大本営は「これでは戦争が出来ない」と詰めよります、東条首相は「要求を認めれば国が破産する」と断固拒否。
ついに、陸軍部の作戦第一部長 田中 新一 が「バカ野郎」と発言、政府と軍部の確執が表面化する事態に陥りました。
と、解決のために異例の御前会議を行い、政府は結局軍部の要求を認めてしまいました。
政府は、国民の生活より、軍の作戦を優先する道を選んだのです。
この結果、最低限の300万トンの資源輸送用の体制は崩れ242万トンに落ち込んでしまいました。
日本の戦争経済(シーレーン)の崩壊の序曲となったのです。
と、長くなりましたので、続きは次回で。