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古代史探訪・・・「日本列島交流史」雑感


どこから日本列島に人が来たのか?そしてどこへ行ったか?その交流はどのようなもなだったのか?
・・・日本人の祖先はだれ?・・・
大変興味のあるテーマです。興味のままに、空想を思いっきり広げて取り組んでみたいと思っています。
・・・・・まずは日本人ルーツ探しの旅のスタートです。



A 徐福伝説から




徐福航海ルート想定図
北西からの風にあおられながらも出航し、黒潮の流れに乗ったものと思われます。
その際に対馬海流にも乗った一団があったことが想定されますが、東方の彼方というには黒潮ルートの方がより東を指し示すでしょう。

黒潮が日本列島に最も近づくのは紀伊半島ですから、ここ、新宮に立寄った。
徐福一団は新宮市より先、関東をめざしていたと思う。

徐福伝承地が太平洋側と日本海側の両方に存在している限りにおいて、黒潮と対馬海流の共に流れ来る先からの航路をとったこと。上図の航海ルートだったと思う。
1982年徐福村発見:江蘇省連雲港市

徐福航海ルートは殷時代(BC1200)からの「たから貝」の交易ルートを利用した?
、新宮市(三重県)には徐福公園があり、「秦の始皇帝(BC246-BC210在位?)が方士徐福を遣わせて童男女数千人をひきいて海に入り蓬莱の神仙を求めさせたが得られず。

徐福はその罪(失敗)による死罪をおそれて、帰ろうとはせず遂にこの洲(クニ)にとどまった」その地がここ。とのこと。

きっと東シナ海を横切って、黒潮に乗って着けたのでしょう。当然、不老不死の妙薬を得て帰り、始皇帝の元に届ける使命を持っていますから彼らの乗った船は「風と海流と夜間航行」をコントロール出来る「帆のある船」だと思います。

数千人とは二千、三千、四千、五千人?船の数は?それらの人はどこへ?(環東シナ海を囲む国々のうち九州・四国・紀伊半島に流れ着いたとしても地理上から不思議ではありません)それらの内に一船か二船が成功すれば良いわけだから相当のリスクをもった大冒険だった。
・・・・・およそ2千2百年前の事実に基づいた話しだと思います。

”海の東方の彼方に蓬莱の神仙がありそこには不老不死の薬がある。求めれば手に入るかもしれない”との、秦始皇帝と徐福の二人の共通認識があったのでしょう。
この情報源はどこからもたらされたのか?もちろん倭人から。

『論衡』王充には
A:「周(BC1000ごろ)の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す」
B:「成王の時(BC1115-1079)、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を献す
との記述があります。

倭人と周は交易していた。その時の情報が残り、秦始皇帝と徐福の二人の共通認識となったものと思われます。

2003.5.20新聞社報道より
国立歴史民俗博物館は5月19日加速器質量分析計を使った放射性炭素(C14)年代測定法で北部九州出土の土器を調べた結果、水田稲作が伝来し弥生時代が始まった実年代は、紀元前10世紀ごろとわかったと発表した。殷から周への変化がアジア変動のきっかけだったことになる。---

、夷洲と[シ亶](せん)

①続いて後漢書には、「流れ着いたところで先住の民と同化して世々続いて数万家あり、その子孫達は時に会稽(中国)に至り交易をする」との記述がありますが、これが、黒潮の分流である対馬海流に乗って、この有明海沿岸の最深部佐賀県諸富町一帯に着いたのではなかろうか。
これが夷洲ではないかと考えています。


②「会稽東冶の県人海に入りて行き風に遭いて流移し[シ亶]洲に至る者あり所在遠絶にして往来することが出来ない」この[シ亶]洲が、黒潮の流れる南九州から四国の南岸そして紀伊半島の南岸を結ぶ海岸線帯が彼らの生活圏。ではないだろうか。


A:会稽海外、東[魚是]人有り、分かれて20余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志呉地)
B:楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志燕地)


とあり、東[魚是]人の国は、倭人の国の1/5程の大きさを持った国だった。ここでいう、「海外」・「海中」の海は東シナ海を指し示しています。


「環東シナ海」を挟んだ・・・中国文明との交流の一端を感じます。



、「辰韓在馬韓之東 其耆老伝世 自言古之亡人避秦役来適韓国 馬韓割其東界地與其」(魏志韓伝)・・・ とあるように韓・趙・魏・燕・楚・斉の六国を滅ぼし戦国時代を終わらせ、統一中国をなした秦始皇帝は革命的に諸制度を打ち立てるけれども、過重な使役(万里の長城・始皇帝陵)や思想弾圧(焚書坑儒)のため、怨嗟も多く始皇帝の死後4年にして滅亡しますが、その動乱の中、離反し各地に去っていった人々も多かった。
・・・・徐福も又そんな一員だった。

秦始皇帝の圧政から逃れた人達が倭国に来到るとの記述は倭人伝にはありません。
このことから倭人伝に記述されている30国の内、主要国9国の中には徐福一団の到着地を含んでいないということでしょう。
「その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず」とあるように他の21国は不明でしょうけれども。

そして、日本列島のいずれの地にか、徐福一団は必ず「漢字」「絹」をもたらしているのは疑えない。と考えます。


 日本各地に伝わる徐福伝説を紹介しているHPのひとつ「古代史の扉」が参考になります。





B 海の交流史

、『古事記』神代記から・・・
いざなきの大神が筑紫の日向の橘の小門のあはき原で、みそぎはらへをしたときに左の目を洗われたときになった神の名は天照大神、次に右の目を洗われたときになった神の名は月読の命、次に鼻を洗ったときになった神の名は建速すさの男の命とあります。

そして天照大神には特に首飾り(管玉で連なっている勾玉?)を賜って高天の原の統治を委任し、月読の命には夜の統治を委任し、建速すさの男の命には海原の統治を委任したとあります。(日本書紀もほぼ同じ内容)「ここの”海原”領域の範囲はどこから?
・・どこまでか?」との疑問が生じますが、それは夜の統治を委任した”月読”にあると思います。


失われた月神(月読の命)
月を観察し日数を数え日にちを知ることです。もちろん月を観察しますが、星座をも観察したでしょう。
(例えば毎年七夕の夜、天空には”天の川”が輝いていたでしょうし又、北の方向には変わることのない北極星が輝いている)
・・・何の為に知り得る必要があったか?・・・
それは夜間航行(航海)。風を読み、海流を知っていることも又当然だったでしょう。
こう考えた時、月も太陽と同じように「神」として、信仰の対象になったこと間違いないでしょう。
「月神」は今、どのように祭られているのか・・・その伝承はないけれど、もともとの海洋国家である九州王朝では太陽神と月神はワンセットとして祭られていた、と想定できます。

しかし、内陸化された大和の地を基点に発展した大和王朝(朝廷)では、海洋国家の持つ祭祀の必要もなく、この2神の伝統に変えて天照大神の内宮と豊受・・神の外宮にとって変えられたものと思います。

古事記の語られる神代記の中心舞台は「筑紫~出雲~越」です。そこには対馬海流が流れていますから、この対馬海流を横断する技術を持っていたこと。
古事記が語る神代記は”海洋の民”の物語でもありますから、その海洋の民が月や星座を頼りに幾昼夜をかけて、東シナ海を縦横断したこと『後漢書』記載のとおりでしょう。


、『古代船の構造』から・・・
推進力を風を受ける帆から、櫂で舵を取り外洋を縦横断する古代船
①対馬海流・黒潮を横断する技術
②そのためには海流に流されてしまわないだけの横断できる速度と、大波にあっても安定する構造を備えていることが必要。

国譲りに記載されている「天の鳥船」は帆船であり、風にたなびく帆が鳥の羽ばたく様をみて、そう名付けたのでしょう。
船を停留する時もちろん錨を降ろし波の高い時は安定させ、復元させる必要もありますが当然そういった手当が為されている構造だと思います。でないと外洋は渡れない。

今も昔も海流・風・高波・干潮・満潮の潮の満引き、それは変わらないでしょうから、これらをコントロールできる技術を持っていること必須であり、「天」と付くのは天国の船で他と厳しく峻別していたのでしょう。これらの構造要素は既に弥生時代はもちろんのこと、縄文時代に遡れるものと思っています。


、『後漢書』倭伝から~ (2003.9.11 加筆)

永初元年(AD107)倭国王帥升らが、生口160人を献じ朝見を願った。

この時の遣使の一団をイメージすると随行者は「統制の執れた船団を組んで」の遣使だったと思われます。
食料を積み、手こぎの交代要員も積んで、時には夜間航海もあったでしょう。

・・・こうイメージした時、この船団は人力に頼るだけでなく、風を推進力とした船で、統制された一団と思わざるを得ません。 はるか、時代を遡って帆の使用はあったと。
・・・・ 少なくてもここでは、カヌーやボートや古墳から出土する埴輪の船から予想される手漕ぎの船などの入り込む余地は無いと思われます。

「弓矢」や「釣り針」や「網」を発明した縄文人の知性の一端に「帆」の発明もあったと思うわけです。そして、この帆の使用が、「AD107の倭国王帥升らが、生口160人を献じの・・・・・」 古代史の背後にあると・・・そう思います。




2007.12.15以下消去
永初元年(AD107)の倭国王帥升の朝見。・・・・倭国王帥升が直接、安帝に面会している。以下その理由

理由その1
『後漢書』を書いた范曄(398-445)遣使によるか、そうでないかを書き分けている。

理由その2
何よりも、朝鮮半島にいる倭人に向けた、倭国統一の一大デモンストレーションを行った。それには生口160人の存在が必須だった。生口160人の中には、被征服者側の支配層がいたのでしょう。・・・その勢いで安帝に会うことを願った。この時の倭国側の認識が「自昔祖禰 躬[*環]甲冑 跋渉山川 不遑寧處」として「倭王武の上表文」に表れている。と思われる。

倭国王帥升の時、30国に統合された倭国が出現した。その30国の上に乗っかるかたちで3世紀、卑弥呼の共立があったと思います。



光武帝紀:中元2年(57)春正月辛未初立北郊祀后土東夷倭奴国王遣使奉獻
安帝紀:永初元年(106)冬十月倭国遣使奉獻

A及びBとも使を遣わして(遣使)であるので倭国王帥升が直接、安帝に面会はしていない


、『日本書紀』祟神紀から・・・

『日本書紀』祟神紀に17年秋7月1日「船は天下の大切なもの~
冬10月、初めて船舶を造った。・・・・

上の記述ほど、大和王は倭国王では無いことを雄弁に語っていることは無いでしょう。直接、祟神が語っているのですから。



、ヒョウタン(ひさご)・・・
ヒョウタンに飲料水を詰め、時には果実酒も、燻製の魚・肉、どんぐり等で出来ていたビスケットを保存食として、出航したのでしょう。ヒョウタンは縄文時代の遺跡(鳥浜・曽畑等)からも出土していますから、幅広く使用され、航海時にこそ、必需品として使用されたでしょう。携帯が可能ですし水の有無こそが、アクシデントにあった時に生死を分けたことでしょうから。その時、煮炊き用はどうしたか?・・・・土器と燃料・・・・持って航海したと思います。そういった心に余裕がないと、充分に力を発揮できずに渡れないのではないか。

 ヒョウタンはアフリカ~インド~東南アジアが原産地とされるものですから、日本列島にBC4000頃の出土が発見されるのは、古代の大航海時代があったことが想像されます。

アジアモンスーン地帯の交易という視点からは「竹」が主で「ひょうたん」が従か?


ヒョウタンの出土遺跡
曽畑貝塚:(熊本県宇土市)BC4000ごろ 
・鳥浜貝塚:(福井県三方町)BC3500ごろ
・三内丸山遺跡:(青森県青森市)BC3500~BC2000
・河姆渡遺跡:(中国折江省)BC5000ごろ



C 日本列島の貝文化




、貝製品のペンダント・ブレスレットを「神」のよりしろとした古代の信仰跡
ゴボウラ貝の腕輪

A:ゴボウラ貝等の原産地の奄美・沖縄諸島
B:貝製品の見つかる北九州の各遺跡
C:1988年貝製品の発見があった有珠10遺跡(北海道伊達市)
D:貝文化の変形の車輪石、鍬形石の近畿を主とした出土地

縄文時代にはA~Bへ南海産の貝、B~Aには腰岳産の黒曜石の相互交易があり、縄文後期から弥生早々にかけてはB~Cへの日本海ルートの人と文化(宗教)の移動があったことをうかがわせますし、前期古墳時代のB~Dへ形を変えた貝文化の伝播があったことをうかがわせます。











貝塚の断面
蜆塚遺跡の交易
静岡県浜松市

A:八ヶ岳の黒曜石
B:姫川の翡翠
C:二上山のサヌカイト

太平洋~日本海に至る
交易路の中継点は諏
訪湖?

、貝塚・・・安定的に確保できた貴重なタンパク質の食料とともに、貝を介した貴重な塩分の供給ルートであり、海から山への交易品だった。

一方、山から海へは黒曜石等の石器類ではなかったか?貝が主要な交易品だった。その痕跡を示すものが各地の貝塚遺跡ではないか?そんな感想を持ちます。

この図は蜆塚遺跡(静岡県浜松市):縄文後期ですが、この遺跡の中から屈葬して埋葬された人骨から貝の腕輪が出てきています。ここでも貝が宝物として、扱われています。











B~Dのルートは弥生時代の北九州にあった貝文化(宗教)が形を変えて(車輪石、鍬形石等が)前期古墳時代の遺跡から出土しています(註1)が北九州から近畿に伝播したのでしょう。これは神武東行説話の実在性なしには有り得ないのでは?と思っています。
さらに重要なのはA~Dのルート(沖縄・奄美から近畿の交易路)がなかったということです。
だからこそ近畿においては貝ではなくその代用品の石になっているのです。
この意味は「邪馬台国東遷説」が成立たないことを意味するようです。東遷したならばその伝統と交易圏を引継いで貝製の腕輪があって当然でしょうが、しかしそれは出土していない。

註1 車輪石、鍬形石の出土地
  黄金塚古墳:大阪府和泉市
  島の山古墳:奈良県川西町



塩分摂取のイメージ・・・・
土器に海水を入れて、沸騰させてその中に貝(アサリ・ハマグリ)を入れて水が無くなる程に煮る。それを何回か繰り返した後に取り出して乾燥させる。これで塩分のたっぷり入った日干し貝が出来あがり。
生きていくのに必要な塩分と料理のベースとなる滋味の完成。これを水で戻す。
今も昔も日本人の味覚のベースではないでしょうか?

もし、土器の無い旧石器時代ならば大型の巻貝や二枚貝がその役割を持っていたのでしょう。

焼く・蒸す・干す・燻製にするという料理方法から「煮る」という方法が始めて可能となったでしょうから。
今まで食べることの出来なかった食料源が新たに加わって、あるいは無駄なく食料を活用することができるようになって、生活の豊かさや人口増加をもたらせた。
そして、この貝をモデルとして、土器が発明された。

貝文化は食文化をベースに出来上がったものと思われます。

『魏志倭人伝』に「キョウ・橘・椒・ジョウカあるも滋味を知らず」とありますが、中国とは違う食文化であることを言っているのでしょう。

それを象徴するものが入手困難(稀少価値の高い)なA点の海南産のゴボウラ貝・イモ貝・オオツタノハ貝が東アジア共通の貝文明の原点となったものだと思います。


、「記紀説話」から
特にB~Cのダイレクトなルートは何だったのか?水田稲作の伝播ルートに良く似ています(例えばAの板付・菜畑遺跡やBの津軽海峡を挟んだ南側の砂沢・垂柳遺跡)し、そこに歴史上の何かしらの痕跡がないかを探るのが、今回の主テーマです。最初に日本神話において、貝を介した神話について『古事記』から追ってみました。

「~~サルタビコ大神は、あざかにいらっしゃったとき、漁をなさろうとしてひらぶ貝という貝にその手をくい合わされて海水中に沈み溺れられました。その時、海底に沈んでいた時の名を底着くみ霊と言い、海中がつぶつぶ泡立つ時はつぶ立つみ霊と言い、その泡がはじけ裂ける時の名を、泡裂くみ霊と言います。~~こういうことで、御代御代、志摩の国(福岡県糸島半島の志摩)の海人部が急ぎの便で天つ神の御子(ニニギの命)にお供えの魚介類等を奉る時には、「サルメ(猿女)の君」(田びこの神+うずの命=サルメの君とした合成語でしょう)らにそれをわけて下さるのです」と、語られます。
このように猿田びこの神は国つ神の中で特別な存在です。それを列記すると

①高天原や葦原の中つ国に輝く神
②天孫降臨の際の国つ神側の協力者として取り込んでいる
③貝文化(宗教)の主宰者の性格を持ち
④-A
サルメの君とはヒルコ・ヒルメと同等の名前(太陽神)を持つ女神。ヒルメは天照大神の又の名(日本書紀)。おそらく太陽神の誕生にかかわる名前ではないか?と思います。太陽が地平線から昇る前の海底での誕生・・・・?太陽は毎日、海底の貝から生まれるものと思っていたのでしょう。その太陽誕生説話。
④-B
あるいは、サルメの君とは「月神」かも知れません。海洋の民にとっては潮の満引きは月の周期に関係していることの認識は持っていたでしょうから。そして、干満差から生じる海流を利用して航海していた。

⑤ニニギの命に次ぐ(no2)の扱いを受けている。これは豊葦原の瑞穂の国側を代表して服従した結果なのでしょう。(少人数が多人数を支配する統治方法の結果?)
猿田びこの大神が漁をしたとありますが大神が「漁」をすることはなどありません。これは、天つ神系に立った伝承改訂の一文でしょう。


豊葦原の瑞穂の国側には
①天孫降臨に協力した者
②抵抗し敗れ殺された者あるいは生きて生口とされた者
③逃亡(亡命)する者、が生じたことでしょう。

このうち③の亡命した人々の亡命先はどこだろうか?と考えると「貝のブレスレットを身に付け、稲種を持って」上の地図で示せばC地点(北海道有珠と津軽海峡対岸の青森県砂沢等)と思われます。
これは天孫降臨に先立って行われた大国主神の国譲りの交渉の際、建御雷の神が建御名方の神を信濃の国の諏訪湖まで追い詰めて国譲りを迫っていますから出雲~越~諏訪湖は既知のルートです(更に言えば諏訪湖~太平洋側の蜆塚遺跡まで既知ルート)。
それを避ければ津軽海峡の外(北海道)となるものだと思うのです。ここは、対馬海流の流れ行く先の終焉地です。
こう考えれば、ここに突然にゴボウラ貝等の腕輪が出土するのも不思議ではありません。むしろ、史実の必然とさえ思われます。

上記のうち①天孫降臨に協力した人達はどうなったか?古事記の語る猿田びこの神がその後どういう運命をたどったかは古事記には語られていません(この部分は非常にわかり難い)。
天つ神(天孫族)系は小人数で国つ神(豊葦原の瑞穂の国)系が多人数の「少数が多数を支配する」支配構造になっていると思われますが、その結果勾玉・鏡・剣の三種の神器の下に、貝腕輪の宝器を祭祀とした一群の存在が弥生遺跡から出土しています。







、貝は富を生みだし、蓄えられるものと漢字発明以前の東アジアの古代人は考えたのでしょうか、日本列島にも北九州を中心とした地域に貝文化があったことが覗い知れます。

まだ、土器の発明以前には容器となるものは沖縄や奄美諸島の珊瑚礁の海に産する大型の貝、水を蓄え場合によっては沸かせて飲むことのできる湯、そんなゴボウラの貝に混じって偏光色に輝く「タカラ貝」を宝石と見たのでしょう。

しかも中国では産しなく通常手に入らない貝を貨幣としたこと・・・そこには数々の神話を伴う、土器文明に先立つ貝文明の存在を感じさせます。

その一端に倭人もいた。ここに「殷と琉球と倭人」の東シナ海を結ぶ接点が生じます






「貝交易の語る琉球史」 (木下尚子熊本大学教授) が参考にないます。







D ピンポイントの航海術

神津島の黒曜石    
古代(縄文時代以前)にあっても、黒曜石の分布によって、確かな航海術があったことが偲ばれます。
黒曜石は「原産地推定」と「年代測定」の分析が可能となっています。

A:黒曜石の産地の神津島
B:関東の遺跡に残る神津島産の黒曜石
D:神津島の黒曜石が残る八丈島

さて、人はどのようにして黒曜石を持って海を渡ったのか考えます。

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古代の航海術

①(A~B)往路
南から吹く風を利用して伊豆諸島の島伝いを経由して房総半島か伊豆半島を目標にして舟を進める。
半島が見えたら、沿岸部に平行して進み東京湾の最深部に上陸する。一年のうちでも、可能な時期は限られたでしょう。
6月~7月の間か?夜間航海となっても方向を見失うことはないのは月・星によって進む方向がわかる技術を持っていた。

②(B~A)復路
往路の逆を進むのだが、違うのは進む方向が厳密であることが必要です。ようするにピンポイントの航海にならざるを得ないでしょう。なにしろ太平洋の真っ只中の小さな小さな島をめざすのですから。それを可能にするには紀伊半島まで沿岸航海をして、そこから黒潮に乗って一気に神津島まで航海する。神津島が見えたら黒潮を離れてたどり着いたのでしょう。もし、その時が夜間であっても神津島を見分けることの出来る能力(視力?)を持っていた。

③(A~D・D~A)の黒潮横断航海
A~D間には幅50~100Km、深さ200~1000m、最大時速7ノットの黒潮が流れていますから、これを横断することになりますが、どのようにして横断したのか?黒潮を遡上してC点(紀伊半島)まで行き半島が見えたところで黒潮にのって黒潮の端から端へ漕ぐ(移動する)。近づいたら黒潮から降りる。・・・で、行き来きできる。

舟は4~5人のチームを組んだ安定性のある「イカダ」。推進力は人力では無理。やはり風利用の帆と方向を調整する舵とかロールは必要でしょう。(海上航行に丸木舟を使用したとする説が有力のようですが、丸木舟であれ、筏であれ帆の使用による推進力を得た・・・・でないと黒潮の横断や黒潮を遡上して、相互交易ができないではないか!)
必須条件の水はヒョウタン、大型の巻貝、竹、土器のどれかの容器に詰めて持参。イカダとの組み合わせを考えると量も多い「竹」の可能性が大きいのではなかろうか。



神津島産黒曜石の交易
黒曜石の原産地推定と年代測定
3万2千年前頃に武蔵野台地(東京都)の旧石器遺跡から、神津島産の黒曜石を使用した石器が発見されています。又、神津島から黒潮を横切って、八丈島に渡り海上航海が行われたことが判明されています。

スンダランド→黒潮→神津島→武蔵野台地に到達・・・これが日本列島最古の渡来人ではないか?
土器発明以前の旧石器時代のこと。このスンダランドで「海流の発見」と「帆の発明」があったのではないか。そのことが大航海を可能にしたものと思います。

黒潮圏の考古学 が参考になりました。


古代人はどのような方法で海を渡ったのだろうか? NO-1


事例ー1 ↓の写真は伊豆諸島の八丈島倉輪遺跡(縄文前期末頃)出土の石製装身具


左からペンダント、玦状耳飾り、ペンダント2本

上の遺跡の3メートル積もった火山灰層の中から人骨と共に副葬品と思われる石製装身具が1985年に見つかった。(新・古代史発掘1983-1987)

ーーーーここから引用ーーー

縄文人がどこから島に渡ってきたのか、伊豆半島の南東から島伝いに約190キロ、東京から300キロも離れた海上に浮かぶ八丈島。しかも、北にある御蔵島との間には、黒潮の本流が流れている。

ーーーー引用ここまでーーーー

さて、記されているように、この縄文人はどのようにして八丈島に往来(渡海)していたのか?

丸木舟であれ、いかだであれ、推進力は人力ではまず無理であるとの認識が初めに必要だと思う。やはり、黒潮の流れに沿った風の利用であり、それを巧みに帆で受けて進んだ。と考える他は無い。それもかなりのスピードで。そうでないと黒潮に流されてしまうこと自明。・・・・ではないか!




古代人はどのような方法で海を渡ったのだろうか? NO-2

↑上の写真は石製けつ状耳飾

左:鹿児島上野原遺跡出土の耳飾(縄文時代早期末 6400年前頃)

右:八丈島倉輪遺跡出土の耳飾(縄文時代前期末から中期初頭)

日本列島の遺跡から出土する遺品のうち、耳飾が縄文・弥生・古墳と各時代を超え、地域的にも西日本を中心に各地から出土をし、石製から土製へそして金属製へと技術変化があったにも関われず捨てられることなく、古代における普遍的な日本人の文化(精神)を特徴づける、ひとつになっています。

上の二つの耳飾りは鹿児島県の上野原から黒潮に乗って、黒潮の流れを横断して八丈島に辿り着いた人のつけていたものではなかろうか?と想像するのです。

上野台遺跡の石製耳飾は、アカホヤ火山灰層より下位しており、火山灰降下の被害を避けるため、海へ脱出した人たちが居て、脱出した人たちの子孫が八丈島から出土した人骨や石製耳飾ではなかろうか。そういう異常事態への適応結果が、日本各地へと文化を伝播したものと思いここに記しました。

 

追記

この上野台遺跡には文化の伝播を及ぼしたと思われるものに、燻製施設を思われる連結炉穴があり、西日本の鮎、東(北)日本における鮭の季節を同じくする大量の定期的な貴重な食料保存と確保に道を開いたのだろうと思う。

特に西日本においては『古事記』記述のように「鮎」に関する逸話が数多く語られていますし、鵜飼という職制が(鵜飼部や鵜飼伴)が語られ、保存食としての「鮎」を伺わせます。