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壱與の朝貢と張政の帰国

、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上〜異文雑錦二十匹を貢す」・・・・・魏志倭人伝

さて、上の文の魏志倭人伝の文末に記述のある「張政の帰国と壱与の朝貢」は何時のことなのかを考えます。



魏志倭人伝記載の外交年譜
倭→漢 漢の時朝見する者あり*    
景初2年(238)6月* 倭→魏 卑弥呼の第1回朝貢      
正始元年(240) 魏→倭 梯儁の来倭 詔書・「親魏倭王」の金印等を賜う
正始4年(243) 倭→魏 卑弥呼の第2回朝貢   
正始6年(245) 魏→倭 帯方郡で難升米に黄幢を賜う    
正始8年(247) 倭→魏
魏→倭
卑弥呼が魏に救援要請
張政等の来倭
狗奴国と相攻撃し合う情況を説明
    ? 倭→魏 壱与の朝貢 張政を送り、因って台に詣り朝貢する


注1 具体的には建武中元2年(57)倭奴国の朝貢「漢委奴国王」金印紫綬と永初元年(107)倭国王帥升の朝貢・・・・・『後漢書』を示すこと疑えない。当然、史家として陳寿は知っていたでしょうが、魏志倭人伝には要約して「漢の時朝見する者あり」とした。これは記載対象時代が漢ではなく魏であるための処置である。


注2 景初2年(238)6月の朝貢を景初3年の間違いとするものがありますが、例えば『日本書紀』記述の「明帝景初3年6月は・・・・」明帝は景初3年元旦に死亡しているため、存在しない。日本書紀編纂者は何故「明帝景初3年6月」と記述したかと云えば魏志倭人伝を直接見ているが、その際の史料として『梁書』をも見て比較、検討をしている。

その結果、朝貢は『梁書』の景初3年の公孫淵滅亡後の「戦後朝貢」こととする説の方を採用したようであるが詔書内容を検討すると詔書は明帝のものであって、同時代史料としての魏志倭人伝の記載とおり景初2年6月の公孫淵滅亡前の「戦中朝貢」であろう。以下理由。

、「〜太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ」とあるように、公孫淵を取り巻く包囲網をなしている中、その混乱と危険を避ける意味からも倭国の使者に配下の将兵をつけて郡から洛陽に送って行っているのも「戦中朝貢」ならばこその配慮でしょう。

、景初2年12月詔書して〜金印は装封して帯方郡守に付し、下賜の品々は装封して難升米・牛利に付して〜・・・難升米等が持ち帰るよう詔書に記載されているので、景初3年に難升米らによって倭国に齎されるはずであったものが、実際は正始元年(240)に郡使の梯儁が来倭して金印・詔書・下賜の品々を渡すことになったのは、景初3年元旦に明帝の突然の死によって、一切の諸行事は中止され、難升米等は帰国する。

正始元年(240)になって再開され、倭国に帰国している難升米等に代わって郡使の梯儁が来倭し詔書・金印・下賜の品々を齎した。

すなわち、詔書は魏志倭人伝に記述されているとおりの景初2年12月の明帝による詔書である。【景初3年12月の少帝(代筆)の詔書ではない】・・・・この事からも景初3年銘のある鏡は卑弥呼の貰った鏡ではない、と云える。・・・・・


魏志倭人伝では壱与の朝貢記事が何時のことか記載がないのは、単なる記載漏れではなくて、執筆対象時代が「魏」であるため「晋」の時代である泰始2年(266)とは書かなかった。

これは倭人伝文頭の「の時朝貢する者あり」と文末での時の「壱与の朝貢」が対となっていて、その中に挟まれた時代を記述した陳寿の筆法は見事です。
A:泰始の初め、使を遣わして訳を重ねて入貢する・・・・・『晋書』倭人伝

B:神功66年・・・起居注に武帝の泰初2年10月、倭の女王が重訳して貢献したと記している・・・・・『日本書紀』

C:壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上・・・・『魏志』倭人伝
上のA・B・Cとも同一のことを指し、泰始2年(266年)のことである。



、正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えたのは嘉平元年(249)司馬懿クーデターの成功による曹爽の誅殺にあるのではないかと思う。

すなわち、倭国サイドの嘉平元年のクーデタの評価が司馬懿への不信感が生じたのではないか、と考えています。これが後々までに尾を引くことになり泰始2年(266年)の朝貢までの17年間の外交(朝貢)途絶と、その後の倭国外交に大きな影響を与えた。

他国(魏)の困難や災難を自国(倭国)のチャンスと受け止めた外交展開をするには、当時の倭国の首脳達は魏朝に傾き過ぎていたのだろう(卑弥呼は間違いなく魏朝に、思いもかけない明帝からのプレゼントの数々に心を奪われていた?・・・。


、正始8年(247年)の来倭から泰始2年(266年)の帰国まで伊都国に常にとどまって、倭国を観察していたであろう張政の『倭国報告書』を参考に魏志倭人伝は書かれている。因って、その内容は細部においても正確に実情を把握することが出来ている。