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魏志倭人伝を読む
壹與の朝貢と張政の帰国 2007.1.5
1、「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上~異文雑錦二十匹を貢す」・・・・・魏志倭人伝
さて、上の文の魏志倭人伝の文末に記述のある「張政の帰国と壱与の朝貢」は何時のことなのかを考えます。
魏志倭人伝記載の外交年譜
漢 倭→漢 漢の時朝見する者あり*1 景初2年(238)6月*2 倭→魏 卑弥呼の第1回朝貢 正始元年(240) 魏→倭 梯儁の来倭 詔書・「親魏倭王」の金印等を賜う 正始4年(243) 倭→魏 卑弥呼の第2回朝貢 正始6年(245) 魏→倭 帯方郡で難升米に黄幢を賜う 正始8年(247) 倭→魏
魏→倭卑弥呼が魏に救援要請
張政等の来倭狗奴国と相攻撃し合う情況を説明
? 倭→魏 壱与の朝貢 張政を送り、因って台に詣り朝貢する
注1 具体的には建武中元2年(57)倭奴国の朝貢「漢委奴国王」金印紫綬と永初元年(107)倭国王帥升の朝貢・・・・・『後漢書』を示すこと疑えない。当然、史家として陳寿は知っていたでしょうが、魏志倭人伝には要約して「漢の時朝見する者あり」とした。これは記載対象時代が漢ではなく魏であるための処置である。
注2 景初2年(238)6月の朝貢を景初3年の間違いとするものがありますが、例えば『日本書紀』記述の「明帝景初3年6月は・・・・」明帝は景初3年元旦に死亡しているため、存在しない。日本書紀編纂者は何故「明帝景初3年6月」と記述したかと云えば魏志倭人伝を直接見ているが、その際の史料として『梁書』をも見て比較、検討をしている。その結果、朝貢は『梁書』の景初3年の公孫淵滅亡後の「戦後朝貢」こととする説の方を採用したようであるが詔書内容を検討すると詔書は明帝のものであって、同時代史料としての魏志倭人伝の記載とおり景初2年6月の公孫淵滅亡前の「戦中朝貢」であろう。以下理由。
イ、「~太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ」とあるように、公孫淵を取り巻く包囲網をなしている中、その混乱と危険を避ける意味からも倭国の使者に配下の将兵をつけて郡から洛陽に送って行っているのも「戦中朝貢」ならばこその配慮でしょう。
ロ、景初2年12月詔書して~金印は装封して帯方郡守に付し、下賜の品々は装封して難升米・牛利に付して~・・・難升米等が持ち帰るよう詔書に記載されているので、景初3年に難升米らによって倭国に齎されるはずであったものが、実際は正始元年(240)に郡使の梯儁が来倭して金印・詔書・下賜の品々を渡すことになったのは、景初3年元旦に明帝の突然の死によって、一切の諸行事は中止され、難升米等は帰国する。正始元年(240)になって再開され、倭国に帰国している難升米等に代わって郡使の梯儁が来倭し詔書・金印・下賜の品々を齎した。
すなわち、詔書は魏志倭人伝に記述されているとおりの景初2年12月の明帝による詔書である。【景初3年12月の少帝(代筆)の詔書ではない】・・・・この事からも景初3年銘のある鏡は卑弥呼の貰った鏡ではない、と云える。・・・・・
魏志倭人伝では壱与の朝貢記事が何時のことか記載がないのは、単なる記載漏れではなくて、執筆対象時代が「魏」であるため「晋」の時代である泰始2年(266)は書かなかった。
これは倭人伝文頭の「漢の時朝貢する者あり」と文末で晋の時の「壱与の朝貢」が対となっていて、その中に挟まれた魏時代を記述した陳寿の筆法は見事です。
A:泰始の初め、使を遣わして訳を重ねて入貢する・・・・・『晋書』倭人伝
B:神功66年・・・起居注に武帝の泰初2年10月、倭の女王が重訳して貢献したと記している・・・・・『日本書紀』
C:壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上・・・・『魏志』倭人伝
上のA・B・Cとも同一のことを指し、泰始2年(266年)のことである。
2、正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの19年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えたのは嘉平元年(249)司馬懿クーデターの成功による曹爽の誅殺にあるのではないかと思う。
すなわち、倭国サイドの嘉平元年のクーデタの評価が司馬懿への不信感が生じたのではないか、と考えています。これが後々までに尾を引くことになり泰始2年(266年)の朝貢までの17年間の外交(朝貢)途絶と、その後の倭国外交に大きな影響を与えた。
他国(魏)の困難や災難を自国(倭国)のチャンスと受け止めた外交展開をするには、当時の倭国の首脳達は魏朝に傾き過ぎていたのだろう(卑弥呼は間違いなく魏朝に、取分け思いもかけない明帝からのプレゼントの数々に心を奪われていた?・・・。
3、正始8年(247年)の来倭から泰始2年(266年)の帰国まで伊都国に常にとどまって、倭国を観察していたであろう張政の『倭国報告書』を参考に魏志倭人伝は書かれている。因って、その内容は細部においても正確に実情を把握することが出来ている。
卑弥呼と狗奴国 2006.12.10 2007.2.14加筆
「女王に属さずに、素より和せず」と記述されている狗奴国の男王卑弥弓呼やその官の狗古智卑狗とは如何なる存在だったのか、又如何なる理由で相攻撃し合っているのかを推定します。
その骨格は
①狗奴国の反乱か
②狗奴国からの倭国に対する侵略・征服戦か
②だと思う。
すなわち、狗奴国は倭国を構成する(卑弥呼の共立)三十国の一国ではなくて、魏に通じていない。倭国30国に対する狗奴国の戦いであって、それゆえに魏に軍事支援を求める必要が生じたのだろう。女王国の邪馬壱国と狗奴国の戦いである単なる内乱・反乱とは違う。それが「女王に属さずに、素より和せず」である。
1、・・・・・張政は狗奴国王及びその官の狗古智卑狗とも対談(外交交渉)している。その外交交渉はいかなるものであったかは大変興味のあるところです。①正始八年(247)~塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。
②政等、檄を以って壱與を告喩す。
さてさて、張政の来倭に至る発端となった卑弥呼の魏朝への救援要請に対して、何故、要の卑弥呼へ檄がないかを問うと張政が来倭に至る直前に卑弥呼が死んでしまっていたからではないのか。そして、張政は卑弥呼に会うことなく「卑弥呼の葬儀」を目撃することになった。
さて、上の①②の檄の内容は如何なるものであったかを推定すると、卑弥呼側の要求は狗奴国に勝利することであったが檄の内容はそれを満たすものではなく、第一に魏朝の利益を引き出すものだった。と思う。端的に云えば何よりも、魏と倭国の共通の敵国としての「呉朝」の存在確認や朝鮮半島(韓)の安定化のために倭国を活用したいのだろう。
当然のように狗奴国から勝利したい倭国側は不満であったろうと思われる。その違いによって生じたであろうギャップを埋めようとするものが、告喩(さとす)の意味なわけです。魏朝側から見れば倭国と狗奴国との相攻撃しあう状態は「いざこざ」に過ぎなかったのだろう。
差出された「黄幢」を観て狗奴国サイドはさすがに攻撃をして来なかったと理解して良いと思う。倭国と狗奴国の間に入った、この魏朝の黄幢はすなわち、「停戦」のシンボルとなったと思う。・・・・・そしてそれは実行された。
倭国における張政の役割は九州の地(伊都国)にあって「呉朝動向の収集と監視」と「倭国・狗奴国の停戦監視」ではなかろうか。
2、卑弥呼側の倭国と狗奴国との戦いはどのように決着したかは魏朝滅亡を受けて、魏のシンボルである「黄幢」も既に役割を終えて、「停戦」も終焉に至ったと思われる。そして晋の泰初(始)2年(266年)張政の帰国となった。
その後は『隋書』に記載されているように「・・・魏より斉・梁に至り代々中国と相通ず・・・」の倭国に吸収合併されて消滅していった。
3、狗奴国の位置A:~次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす(魏志倭人伝)
B:女王国より東、海を度ること千余里、拘奴国に至る(後漢書倭伝)
上のAとBを比べてみると『後漢書』編纂者の范曄は『魏志倭人伝』を観ていて、その中で「~次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり」についての境界の尽くる所が理解することが出来なかったと思う。
そこで、それに代えて「女王国の東、海を渡る千余里、又国あり皆倭種なり」の記載から特に「皆」に注目して、狗奴国は倭人伝の中にある事実からも、倭種との理解の基に、女王国より東、海を度ること千余里に拘奴国ありと簡略に記述した。
狗奴国の位置を探すポイントは女王の境界の尽くる所を先ず、調べあげることだろうと思う。
卑弥呼を共立する国々 2006.11.23
倭人の国々の中でも、卑弥呼を共立して中国(魏)に朝貢してくる国は三十国である。その倭人の代表者として卑弥呼は倭王(倭国王)であると認められ「親魏倭王」の金印が授与された。使訳所通三十国は親魏倭王を構成する国々が三十国であるという意味である。
倭人の国と倭国の領域
国名 戸数 王・官等 倭人の国 倭
国
三
十
国
狗邪韓国 記述なし 記述なし 旧百余国 対海国 千余戸 大官:卑狗
副:卑奴母離一大国 三千許家 官:卑狗
副:卑奴母離末盧国 四千余戸 記述なし 伊都国 千余戸 王:(王名の記述なし)
官:爾支
副:泄謨觚、柄渠觚奴国 二万余戸 官:凹馬觚
副:卑奴母離不弥国 千余家 官:多模
副:卑奴母離投馬国 五万余戸 官:彌彌
副:彌彌那利邪馬壱国 七万余戸 女王の都する所:卑弥呼・壱与
官:伊支馬
次:彌馬升、彌馬獲支、奴佳[革是]その余の
旁国21国戸数と道里は遠絶にして得て詳かにすべからずと記述 狗奴国 記述なし 女王に属さず、素より和せず
男王:卑弥弓呼
官:狗古智卑狗倭種の国 女王国の東、渡海千余里又国あり皆倭種
侏儒国 倭種の国の南、女王を去る四千余里
裸国
黒歯国侏儒国の東南、船行一年して至る
さて、魏志倭人伝によれば
■伊都国について
1、王のいる国として「邪馬壱国(女王卑弥呼)・伊都国(王名不明)・狗奴国(男王卑弥弓呼)」の3国ですが、伊都国の官・副は伊都国王から任命された官(爾支)・副(泄謨觚、柄渠觚)ではなくて、邪馬壱国の女王(卑弥呼・壱与)から任命され、派遣されたのでしょうが、官と副の名前が記載されているのに何故か!伊都国王の名前が記載されていない。
これは、「~伊都国~世有王皆統属女王国~」の世が今ではなくて旧のこと、すなわち後漢時代には既に伊都国王の不在時代になっていたからではなかろうか?これが「~世有」であって、「~世々有」となっていない理由であると同時に、王名の記述が無いことからも言えるのではないか!かっては伊都国と邪馬壱国の両国との共同統治の王が其々にいたのが、今は(卑弥呼の時代)には男弟がいて政治を助けている兄弟統治時代へと移り変わった状態なのだろう。これが上の「皆」の意味であると思う。
2、この伊都国は「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記述されていますが、その理由はここで、常に郡使が旅の疲れを解き、皇帝の名代として、倭王との会見の準備を整えた。一方、倭国側もその間に使節との会見準備等を行った。その迎賓館といったところ。倭国の首都である邪馬壱国と郡使の常に留まる伊都国は遠からず、近からずと云った相互依存の位置関係にあるということです。
伊都国が九州で邪馬壱国がはるか彼方の「大和の地」にあったとするなど、およそ成立するはずもありません。
特に「常に留まった人物」としては正始8年(247年)に倭国の要請によって来倭し、魏から晋へと禅譲されて泰初2年(266年)帰国した張政等であろう。
3、伊都国に治していた一大率とは元々は一大国の軍事集団であり、天孫降臨時に一大国に天(海人)族集団が結集して、筑紫の日向に侵入した。その、伝承と伝統の中にある軍事集団であって、この一大率が諸国を検察すると同時に諸国はこの一大率を恐れるのは、この軍事集団が倭国内部に向けて治安維持部隊に特化されているからではなかろうか?
卑弥呼が住する宮城には精鋭の親衛隊が常に警護していたが、この身辺護衛の他に一大率は内乱などの反乱のリスクを避ける意味からも邪馬壱国から一定の距離(反乱と救援)を保つ位置の伊都国に治していたのだろう。
ニニギの天孫降臨は歴史事実を反映いていると考えています。紀元前2世紀頃九州筑紫の地にあって「鉄」という今までにない新たな武器と、「帆船」という機動力を得て先住の民である倭人を圧倒し征服支配した。このニニギが卑弥呼・壱與の始祖。と、このHP製作者は考えています。
■倭国三十国について
国名や戸数(戸・家)官、副の名前が記載されていますが、これらの情報は正始元年(240)と正始八年(247)に来倭した郡使の梯儁や張政等による倭国内での活動内容を記した『帰国報告書』を基に陳寿によって取捨選択された内容なのでしょう。
戸数は倭国の国力の総体を示すものであり、納税・徴兵・兵糧の基礎となるものですから、なにをおいても第一に調査した。
そもそも納税・徴兵・兵糧によって得られる収益というか、利益は誰のものになるのか?といえば、「王」のものになるということではないか?すなわち「伊都国王」と「邪馬壱国王」と「狗奴国王」の三者であり、それを再配分することによって、支配権を確立していた。・・・と中国(魏・晋)からは見えていたものと思われます。それが倭人の「王」と記述された。
三十国の国名は張政が倭人の案内を得て、倭国内を探査した結果、倭国は「山島」であると新たな認識を得た。
A:楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志燕地)
B:倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて、国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり今、使訳通ずる所三十国(魏志倭人伝)
前漢時代では、「海中にある百余国」という認識だったものが、魏晋時代になって「親魏倭王」を共立した倭国は「海中の山島よって三十国の国邑となしている」と新たな認識になっている。
そして
①「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり皆倭種なり、また侏儒国あり、その南にあり、~~女王を去る四千余里」
②「南、投馬国に至る水行二十日」
③「会稽東治の東にあるべし」と理解できた。
その理由は、特に魏と敵対している呉朝との関連について呉からの攻撃に備えたり(そのため、九州の西海岸の探査を含む)、東[魚是]人との交易路を含めて綿密に調査したでしょう。C: 会稽海外、東[魚是]人有り、分かれて20余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う(漢書地理志呉地)この東[魚是]人について、張政は「呉」との関連を軍事上からも知る必要があって、かなり詳しく実態を調べた。『後漢書』にはこの東[魚是]人が記述されているが、『魏志倭人伝』には記述がないのは、卑弥呼の時代には既に滅亡していたのではなかろうか?だから記述がない。
①②③から云えることは張政達が九州を海上から一周し、その実施探査の結果、倭国は「山島」であると、理解するに及んだ。
「倭の地を参問するに海中洲島の上に絶在し、あるいは絶え、あるいは連なり周施五千余里ばかりなり」や「次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす」はその具体的な様子を記したもの。
官・副の名前はその探査時に対談した相手だった。
■狗邪韓国について
正始元年(240)に来倭した梯儁は韓国内全行程を陸行して洛東江の河口にある狗邪韓国に立ち寄ったものと思われる。
狗邪韓国に戸数と官の名前が記載されていない。これは、張政は狗邪韓国経由で倭国に来ていない。ということ。急を要するということもあって、韓国西海岸~対馬~壱岐~筑紫を水行して、最短コースを来たものと思う。すなわち、「戸数と官の名前」のデータソースは張政の報告書だと思う。
■その余の旁国21国
その余の旁国21国は遠絶と記述されていますが、これは実施探査した張政の「帰国報告書」に記載されていなかった結果、その理由を遠絶と陳寿が理解した?・・・・・
国名記載が可能だった理由は「卑弥呼の上表文」に卑弥呼を共立した三十国の国名が記載たれていた?・・・・・可能性の中のひとつでもあるでしょう。
・・・・「倭王、使に因って上表し、詔恩に答謝す」
■末盧国について
末盧国に官や副が居たか、居なかったのか・・・記述されていない理由は、記述漏れなのか、それとも、元々ここには官も副も居なかった。すなわち、邪馬壱国の直轄領だったのではないか。
「郡の倭国に使するや皆、津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に訪らしめ差錯するを得ず」、この「津」の場所は末盧国の港であって、目録を基に魏の船から降ろされた「文書・賜遺の物」をチェックして確認した。この役割を果たしているのが邪馬壱国から派遣された「漢字読解能力」のある役人ではないか。倭国内において外交交渉権や交易利権の厳しい監視機構を当時の国際港として末盧国に集約していた。と、すると末盧国は邪馬壱国の直轄領であるが故に官・副が不在であった、と思われる。
卑弥呼以死大作冢
1、「死」の用語の用い方
崩:天子の死に用いる
殂:君主の死を忌みはばかっていう言葉
薨:諸侯の死に用いる
卒:大夫やしもべの死に用いる
死:身分の無い者の死に用いる
晋の史官だった陳寿は「親魏倭王」である卑弥呼といえども、卑弥呼の死は単なる「死」という文字しか用いていない。
・・・・改めて文字使いというか、中華思想の厳しさを知る・・
2、「以死」について
①もって死す・死するをもって・死んだので
②すでに死す
ここでは①の意味で
「卑弥呼が死んだので、*1大いに(盛大に)冢を作った」と、訳す。
註*1:大きな冢ではない。(作大冢でない)
註*2:「冢」と「墳」の使い分けや違いを明確にした上で論議することが今後の課題なんだろう。
3、冢について
①「冢」の大きさは・・・径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
②~その死には棺あるも槨なく、土を封じて冢を作る。
これは冢の形状は円形でその直径は百余歩。これをメートル換算すると25メートル程度の円形の冢(墳ではなくて)で棺とは甕棺のことで、北部九州にある弥生時代の土で封じられた「甕棺墓」、徇死者百余人に囲まれて、その中に「朱丹」に彩られた身体の卑弥呼が眠っている。
倭人は元々海洋の民であって、「鯨面文身」は水禽の難を避けるためのもの、と同じように「朱丹」はいかなるものなのかを考えると、倭人の原郷は黒潮の流れ来る先の「常世の国」すなわち、スンダランドにあって、その地への「あこがれや回帰としての赤い肌合い」にあるのではないかと思う。
4、長さの度量衡
1里=300歩
1里=76~77メートル(『周髀算径』の一寸千里の法によれば1里は76~77メートルとなる。)の周以来の度量衡が存在する。
一寸千里の法
周の地で夏至の日の南中時に、地面に垂直に立てた八尺の周髀の影の長さは一尺六寸である。南に千里の地にあっては影は一尺五寸、北に千里の地において影は一尺七寸である。因って八尺の周髀に対する影の差一寸は地上の距離にして千里にあたる。
上によれば
卑弥呼の墓径百余歩は
100歩≒25メートルとなる。
魏晋朝の時代には上に記した短里が使われていた。自郡至女王国万二千余里を「短里」でひも解いていくと魏志倭人伝記述の里程誇張説は成り立たない。
女王の都する所
■自郡至女王国万二千余里
1、「郡より女王国に至る万二千余里」は総距離数で7千余里+5千余里
2、「郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」(魏志倭人伝)
上の文の「その」は倭を示す。すなわち、倭の「北岸狗邪韓国」に到る~であって、それ以外の読みはない。そしてこの狗邪韓国に着くと郡から女王国までの全行程のおおよそ6割方を済ませたことになる。
3、「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかりなり」
周旋とは曲がりくねった部分をも辺周として加えて(省略せずに)計測する計り方、ここでは魏使の歩みのままの軌跡どおりという意味で、その具体的な行動は
イ、対海国では~居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く道路は禽鹿の径の如し~
ロ、一大国では~方三百里ばかり。竹林・叢林多く~
ハ、末盧国では~山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え水深浅となく皆沈没してこれを取る~
上のイ、ロ、ハの現地に即したリアリティのある記述内容は正始元年(240)来倭した郡使・梯儁の『報告書』を基に記述されたものであろう。その行路を陳寿は周旋と表現した。
倭地五千余里のうち、狗邪韓国から末盧国までの海を渡る距離数は3千余里(直線距離)であるから、女王国までの倭地の陸地は周旋して残り2千余里ということになります。
これによって、マクロ的に女王国を俯瞰すれば、北部九州に存在する。
□ 「女王国=邪馬壱国=北九州」説をさらに補強するものとして、「女王国の東、海を渡る千余里また国あり、皆倭種なり。」この海は千余里からも関門海峡でしょう。 □ 「また、侏儒国ありその南にあり。人の長け三、四尺。女王を去る四千余里(倭種の国からは三千余里)」と、あって侏儒国=四国内と思われます。 □ さらに、この侏儒国の東南船行一年で黒歯国・裸黒があるとの記述からも、東南方向に大海が広がっているわけです。このような状況は北九州説を一層補強します。
そして北部九州の中でも、上の要件を満たす場所を絞り込んでゆけば女王国はここにあった、ということができます。
「倭人は~山島に依りて国邑をなす」この記事は倭人からの伝聞ではなくて、魏使の現地踏査の結果の認識ですから、山島とは九州を示す以外はない。・・・・・・本州が島であるとの認識は未だにこの時点では至っていなかったわけですし「山島に依りて国邑をなす」の山島と言えば九州以外には無いではないか!と、思っています。
上で、述べてきたように「大和説」は最初に大和ありき!なんだと思う。これを基に魏志倭人伝を読む。
これが、邪馬壱国にあらず「邪馬台」国=「やまと」説なのでしょう。この具体的な解読方法が帯方郡から女王の都する所までの行程に「水行十日陸行一月」の日程を入れて計算するわけです。
しかも南を東に原文を改定までしています。(そうしないと大和にはたどり着けない?
・・・・魏使が実際に自分達が行動した(進行)40日間づっと東を南に進行していたのだと間違えることなど、あり得ないことです。
この誤りの本質は「郡より女王国に至る万二千余里」を含む三国史全体の里程の解析を行っていないことにある。そのことによって、「最初に大和(ヤマト)ありき」の論たてが可能になっている。
■「郡より倭に至るには①海岸に循って水行し、②韓国を歴(ヘ)て③乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る」の解読
「水行十日陸行一月」は韓国内は全行程陸行説を支持する。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月」帯方郡から女王の都する所まで一万二千余里の総距離とし、他方、帯方郡から女王の都する所までの総日程が水行十日陸行一月である。とする古田武彦説がもっとも合理的だと思う。
このように読解すると、必然的に魏使達は韓国内の全行程を陸行したことになります。そうで、ないと「歴韓国」の韓国を経て、という道程が存在しないことになる。
夜間や暴風時の避難先として、港に立ち寄ったとしても、それを指して歴(へる)とは言わないだろう。
そればかりではなく、倭国内においても最大限陸行しております。
(1)陸行区間
①韓国内の全行程と狗邪韓国まで。具体的なこの陸路行程は漢江から洛東江沿った当時のメインロードをジグザクに南に東にを繰り返しながら東南方向へ進み、洛東江の河口付近である狗邪韓国に到着した。これが「韓国を歴(ヘ)て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る」の意味である。
その結果、「その瀆廬國、倭と界を接す」・・・韓伝(弁辰)と、認識することができた。この情報源は正始元年(240)に来倭した郡使の梯儁の帰国報告書類だろうと思う。
(この界を接すとは「韓の土地」と「倭の土地」が隣接して境界をなして存在している状況を説明している文面だと思う)
②対海国島内歩行
③一大国島内歩行
④末盧国から女王の都する所までの陸路
①~④を合わせて所要日数が陸行一月である。
(2)そして、水行区間は
①帯方郡から韓国に入るまで「海岸に循って水行」
②狗邪韓国から対海国までの海路
③対海国から一大国までの海路
④一大国から末盧国までの海路
①~④を合わせて所要日数が水行十日である。
従来、この韓国内は全水行して、狗邪韓国に至ったとする説で占められていましたが、この説の不合理性は狗邪韓国に立ち寄る必然性がないことですが、
韓国内全行程陸行説にたてば洛東江沿いにある狗邪韓国に立ち寄ること必然です。
(3)帯方郡から狗邪韓国まで全行程水行したとすると、韓国は方四千里とあるから帯方郡から韓国(水行)+四千里(西辺)+四千里(南辺)で八千里以上となって七千余里にならない。すなわち「韓国内全水行」説は元々、成立不可能です。
更に云えば、帯方郡から韓国を歴て(水行)+韓国内陸行としてルート2*4千里=七千余里
帯方郡から韓国(水行)+五千六百里=七千余里
帯方郡から韓国(水行)=千四百余里
これが韓国内全行程(北西から南東へ進む)陸行説の論理性です。この論理性を最初に誤読して、水行と理解したのは『後漢書』編纂者の范曄(398-445)ではないかと思う。
これは
楽浪郡徼~拘邪韓国=五千余里(魏志倭人伝では帯方郡から狗邪韓国まで七千余里)とし、拘邪韓国の位置を朝鮮半島の南西部に置いたのは楽浪郡徼~拘邪韓国の行程を水行と理解したための記述であって、間違いである。
朝鮮半島南部に倭地あり
「3世紀以前から6世紀にかけて朝鮮半島南部に倭地があった」とする説です。と共に、そう考える理由を記しました。
■中国史資料から
A: 「楽浪郡徼を去るその国まで万二千里、その西北界の拘邪韓国から七千余里」 (後漢書倭伝)
で、あるから楽浪郡徼から拘邪韓国(朝鮮半島の南西部とする。倭国から観ると西北部であり、拘邪韓国は倭地であるとしている)まで五千里。この五千里は水行しているとする文面です。
B:「郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」(魏志倭人伝)
上のAとBの文面(その北岸は倭の北岸を示す)は朝鮮半島南部に魏・晋から宋に至るまで倭地があるとする陳寿(233-297)と范曄(398-445)の共通の認識の上に書かれた文面となっている。
これを前提にして、『宋書』倭国伝(沈約:441-513)の倭王武の上表文を読むと「朝鮮半島南部には東アジアに承認されていた倭地があった」と無理なく読めます。
C:「自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す」とあり、これに対して、詔して「武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に徐す」とあって、百済が除かれていますが、『宋書』夷蛮伝は高句麗・百済・倭国となっていますから当然でしょうが、宋に承認された、「朝鮮半島南部に新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の倭地」があった。(新羅は倭国領と記述されていることは注目点でしょう)
このHPでは倭の五王は近畿天皇家の内の誰なのか?と云う理解はしていません。もちろん、倭王武は雄略天皇である、とも思ってはいません。詳しくは「倭王武の上表文から見えてくる倭国発展史」をご覧ください。
D:韓は帯方の南にあり東西は海を以って限りとして、南は倭と接し方四千里ばかりである。・・・・・(魏志韓伝)
上の文の南は倭と接し、の「接する」とは土地と土地が接し境界をなしている状態を云うのであるから朝鮮半島に倭地ありの「直接証言」文でしょう。そうでないとすれば、東西は海を限りと同じように、南も海を限りにしていたと表現されるでしょう。
E:「~その瀆廬國、倭と界を接す」・・・・・韓伝(弁辰)
正始元年(240)魏使の梯儁が来倭するに当たって韓を歴て朝鮮半島の北西から南東へ向けて洛東江沿いに陸行し、狗邪韓国に着いた際にその経路上にあった国が瀆廬國である。この国が倭と接しているわけです。朝鮮半島南部に倭地があり、狗邪韓国は倭国を構成する一国である。
邪馬壱国か邪馬台国か?
A:「南、邪馬壱国に至る、女王の都する所」・・・・・魏志倭人伝
B:「国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬台国に居る」・・・・・後漢書倭伝
さて、邪馬壱国か邪馬台国か。『後漢書』の編纂者の范曄は何故に邪馬壱国を邪馬台国に変えたのか?を考えます。
A:『三国史魏志倭人伝』のすべての版本は邪馬壱国であって、邪馬台国との記載例はまったく無い。
「台」は当時、天子の宮殿を指し示す至高文字であって、中華思想に基づいた、卑字の大海の中で、東夷の倭人の国名に使用されることなど、有り得ない。
(参考:「因詣臺、獻上男女生口三十人・・・・・・」(魏志倭人伝)
よって、3世紀当時の国名は三国志魏志倭人伝記述のとおり、「邪馬壱国」が正しい。
三国志全版本の全用例調査結果、壱と台の文字の類似性による、写し間違えもなかった。
B:現存する版本では、『三国志魏志倭人伝』の国名は確かに邪馬壱国であるけれども、『後漢書』を始め、それ以降の中国正史は邪馬台国であって、邪馬壱国との記述のものは一切無い。
『隋書』では「邪靡堆に都す、則ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」と、あるように、魏志には邪馬台の記述があった。故に今は現存しないけれども、三国志魏志倭人伝にも邪馬台国と記載された版本・写本があって、それを基に『後漢書』以後の正史は記述された。と、考えられる。原本が存在しない以上、「邪馬台国」として支障がない。
さて、A)かB)か・・・?それとも?・・・やはり「台」という天子の宮殿を指す至高文字で蛮夷の国名を表すことは無いと思う。
もし、邪馬台国が正しいと論じるならば、現存する『魏志倭人伝』の版本はなぜ、邪馬壱国だけの表示なのかを併せて論じるべきでしょうね。それを欠いた後追いの理由付けの「邪馬台国」論が多すぎる。
「~政等の環るを送らしむ。因って台に訪り、男女生口三十人を献上し~」・・・・・魏志倭人伝
上の「台」を『魏志倭人伝』岩波文庫版54ページでは魏都洛陽の中央官庁と解説しているが、これは明らかに違う。中央官庁ではなくて天子の宮殿である。朝貢は天子(ナンバー1)にして初めて意味が生じるのであってこの、「中央官庁説」解説はいただけない。
(男女生口三十人以下の貢ぎものは天子への貢ぎであり、魏朝(晋朝への朝貢)という国家への貢ぎではありません)
歴史の謎をひも解いて真相を突き止めるためには、「邪馬台国=ヤマト国」と読むからの決別が必要でしょう。
後漢書には注意書きとして邪馬台国の直後に「今、名を案ずるに邪摩惟(やまい)音の訛なり」とあり、本々「ヤマト」とは読んでいない。
倭人の二倍年暦
■魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」
上の文は春から秋までを1年・秋から春まで又1年春から春までを2年と数える倭国の二倍年暦ですが
A:其の人の寿考或いは百年或いは八、九十年。(魏志倭人伝)
これと対のなる記事のその痕跡が『日本書紀』・『古事記』でも記すように歴代の天皇の””長寿”記載だと思う。(例えば、応神130才・仁徳64才・允恭78才・雄略124才・・・・古事記)
仲哀天皇崩御52歳、在位9年
神功皇后崩御100歳、在位69年
以上「日本書紀」記述
この、年齢からして当時(仲哀時代)は倭国固有の二倍年暦が採用されていたと思われ、実年齢は仲哀は26歳、神功は50歳で崩御した。
応神天皇の出生に関しても、この二倍年暦で解けば仲哀天皇の死から5ヶ月経って誕生したことになり、何ら不思議とするものではありません。
この様に日本の古代では二倍年暦が実際に使用されていた。
この2倍暦の発見者は正始8年(247)に来倭した張政が13歳の女王壱与の後ろ盾(後見人)として、壱与と関わりの中から、その13歳の少女が成長していく過程で、倭人の暦は二倍年暦となっていると発見した。その張政の『倭国報告書』が情報源の可能性は極めて高い。(以下1、2が理由)
1、張政の来倭が正始8年(247)、帰国が泰始2年(266)で、19年間倭国に滞在し、壱与と関わりを持った。・・・・・『すべての日本国民に捧ぐ古代史ー日本国の真実』古田武彦著
2、『日本古代国家の成立』直木孝次郎著72ページでは張政の帰国と壱余の朝貢は250年ごろとしているが、その根拠は示されていない。壱与の朝貢が魏朝ならば魏志倭人伝に年号記載がないのはいかなる理由なのか?の説明は必須でしょうね。
3、壱与と張政は親子程の年齢差?で、張政は教師役も担っていた。その結果、壱与は直接張政と会話が出来、文字も読め、当時の倭国きっての国際派・知性派に成長していった。と考えています。特に張政が帰国の際には、使者二十人つけて送っていることからも壱与の張政への思慕の深さが偲ばれる。壱与13歳に出会って32歳での別れである。
今でも、この二倍年暦は各神社の主要な行事として行われている6月30日、12月31日の晦日に行われている大祓えにその残像が今日まで引継がれている。
■「不知正歳四節」について
アジアモンスーン地域にあって、春夏秋冬に恵まれ日本固有の自然美を持った日本文化の基底に豊かな四季がありますが、3世紀、魏使の見た倭人の世界は四季の伝統や生活様式では無くて、むしろ、一年を耕・収の二期に分ける生活形態を持っていたようです。
これは元々倭人は、この日本列島の住民ではなくて南方系海洋の民の「春耕秋収為年紀」の地帯から、その北限地帯である日本列島への移住者なのだろうと思われる。倭人の原郷は黒潮の流れ来る先にある「常世の国」そんなイメージが浮かんできます。
この様に、倭人の世界では「二倍年暦」が使用されていて、実際に『古事記』や『日本書紀』にも「二倍年暦」を前提とした説話として語られているということを考慮して紐解くことが必要です。
それでは、何時ごろまで二倍年暦が使用され、太陰暦に切り替わったのは何時ごろか?を検討してみます。
■暦について
各新聞社のニュース(2003.2.27)で石神遺跡(奈良県明日香村)から持統3年(689)3月と4月の暦を表裏に1週間分書き写した木簡が見つかったと報道されました。
現物の暦としては国内最古の宋で作成された元嘉暦。これまでの日本最古の暦は城山遺跡(静岡県浜松市)で出土した神亀6年(729)の儀鳳暦木簡。
日本書紀等から暦について検討すると
・欽明14年(553)暦博士の任期が切れたので交代の博士を派遣するように百済に使者を送る。
・欽明15年(554)百済から暦博士固徳王保孫らに交代する。(前年の要請に対して来日)
・推古10年(602)百済から観勒という学僧が暦本・天文地理書・遁甲方術の書をもって来日。暦法については玉陳という人物が習う。
・持統4年(690)元嘉暦(宋の元嘉年間に出来た暦)と儀鳳暦(唐の暦で儀鳳年間に伝わったもの)の併用して使用する。
・文武元年(697)儀鳳暦を採用する。(続日本紀)
とあり、いくつかの疑問が生じます。
①欽明14年以前には既に暦が伝わり使用されていたものと思われます。しかしその記述がない。
でないと暦博士の交代など生じないでしょうから。日本書紀編纂者は当然疑問にも思い調べたのでしょうがそれは記載されなかった。
では暦が初めて伝わったことが日本書紀に記載がない理由は何故でしょうか?
②持統4年の勅で元嘉暦・儀鳳暦の併用使用。・・・・同一時間帯に同一場所での併用は大混乱を生じるだけであり、これはありえないでしょう。
・・・本来は儀鳳暦の使用を大和の地で初めて使用したものと思われます。それまでは元嘉暦が使用されていた。それが今回の石神遺跡から出土した木簡が語っているようです。
5世紀宋との交流は「倭王武の上表文」によっても覗えますが、その交流の結果、暦についての認識とその必要性が生じ宋で作られた元嘉暦の使用が始まったものでしょう。
倭王武は「ひそかに自ら開府義同三司を仮し」と、云っているわけですから、その実行には暦を宋に合わせなくては三司の義を同じくすることはできません。
倭王武~多利思北孤に連なる倭國・[イ委]國王朝が元嘉暦の使用を始めていた。その事実のうえに記載された、元嘉暦・儀鳳暦の併用使用記事ではないか!
そして文武元年倭國(九州王朝)を併合し統一した大和王朝が全國に向かって配付したものが「文武元年(697)の儀鳳暦を採用」と考えます。