基本的理念

以下は1998年に書いた文章を若干手直ししたもので、私の基本的スタンスとなっています。

〜 市民性回復へのシナリオ 〜

目次

 一 中央と地方の関係

 二 自治体と市民の関係

 三 情報公開にみる住民自治

 四 失われた市民性

 五 市民性の回復に向けて 

 

一 中央と地方の関係

 今日のわが国における中央と地方の関係は新中央集権化現象に伴う地方自治の形骸化が広範に認められる。

 戦後、福祉国家理念の発展が、全国どの地域においても一定レベルの均質均等な公共サービスを提供・維持するという責務を地方自治体に課し、さらに産業の発展・高度化が、都市部の過密化による広域行政の必要と農村部の過疎化による行財政格差の是正の必要を生じさせたことは、戦前とは異なる中央支配の形態、自治体行政に対する中央政府の指導や調整の強化という形で現れ、いわゆる新中央集権化現象を招くこととなったことは既知の事実である。

 しかし、今日、機関委任事務の増大や財政上の問題などから、地域で発生した問題をその地域で解決することも満足にできないほど自治体が当事者能力を失うに至ったことから、地方へ権限と財源を委譲すべしとする「地方分権」が声高に叫ばれることとなってきている。

 

二 自治体と市民の関係

 一方、自治体と市民の関係に目を向けると、自分たちの生活を実質的に規定するのが地方ではなく中央政府であること、および中央政府には地域住民の意向がなかなか反映されないことなどが認識されるようになると、その疎外感から地方の政治や行政に対する一般市民の参加意欲といったものは、急速に失われていくこことなっていった。

 政治や行政に能動的に関与する必要も経験もなく育った若年層を中心にした投票率の低下は、とりわけ象徴的な傾向である。

 もっとも市民不在、企業活動優先の行政の歪みとして環境問題にみられるように特定地域において直接利害関係を有する者が多数集合し住民運動を形成するなどの一時においては、その関心の高まりから地方行政に対する働きかけが強まるが、これもあくまで一過性の現象であることは否めず、今日においても、市民の自治体政治・行政への参加意欲の減退という傾向は何ら変わってはいないものといえる。

 なぜならば、市民の参加の動機は住民自治の実現というよりも、現在の自身の問題の解決であり、その問題が解決したならば、「日常」という無関心状態へと容易に帰還する性質のものであることが本質的に認められるものだからである。

 

三 団体自治と住民自治

 現行憲法は、九二条において地方公共団体の組織及び運営に関する事項は「地方自治の本旨」に基づいて法律で定めるものとし、九三条・九四条において住民自治と団体自治を合わせた完全な地方自治をわが国で初めて保障した。

 もっとも、明治憲法下においても法律により団体自治が認められていたが、現行憲法が立憲主義憲法であることから、団体自治は権力分立による人権保障が目的とならねばならないものであることを考えれば、その当時、実質的な団体自治が確保されていたかは疑問である。

 また、自由主義と民主主義に由来し個人の尊厳の原理から派生する住民自治と団体自治はそのどちらが欠けても地方自治が実現されたとは言えないのであって、住民自治の精神が稀薄な明治憲法下にあっては地方自治は実質的には存在しなかったといえる。

 では、今日、現行憲法の下、住民自治と団体自治は実現されたと言いうるであろうか。 確かに、住民による首長・議員の直接選挙や直接民主制的な各種請求権の存在、概括授権方式による自治体の事務権限の保障など、形式的に観察すれば地方自治が実現されたといえなくもない。

 しかし、先に述べたとおり新中央集権化現象の下、住民自治・団体自治ともに実質的には形骸化し、未だ地方自治は実現されていないとみるのが妥当であろう。

 だからこそ昨今、「地方の時代」といわれ地方自治の充実が求められているのである。 ただ残念なことに、その議論の内実は団体自治の拡充すなわち「地方分権」論議が中心となっていて、その当事者も国と自治体といった様相であり、市民から見れば他人事の単なる権限争いにしか見えず、冷めた関心の出来事となっているのである。

 しかも、住民にとっては分権になって自分たちにどのような具体的利益があるのかが専らの関心ごとであり、国から地方にどの様に権限が委譲されたのかということは、それによって手続きの役所が自宅から近くなったのか遠くなったのかという問題に比べ、はるかに劣後する関心事なのである。

 要するに、今日の地方自治に関する議論においては、住民からの視点が明らかに欠如していると認められるのである。

 

三 情報公開にみる住民自治

 住民自治の遅れを象徴的に現しているのが、自治体の情報公開の分野である。

 議院内閣制の下、統一的国家意思の形成には自由委任的代表民主制度が技術的に不可欠な国政レベルにあっては、会議公開の原則から政策形成過程の公開が当然に要請されているとみることができるのであるが、一方で膨大な量の情報と特殊専門的・技術的知識が必要とされる政策形成において実質的に行政機関が立法を初めとして政策形成の主導権を握る傾向(行政国家現象)が顕著となったことにより、その過程が極めて不透明なものとなっている。そこで、情報の公開を求める声は、現在、情報公開法の制定へ向けた動きとなって現実化している。

 一方、直接民主的な権力的契機も重視される地方のレベルにおいては、開かれた行政をめざし、国に先駆け条例を制定し、情報公開を行っている。

 公開を可とする文書と非公開文書を区分けして、可とする文書を集積整理し、目録を作り、目録所載の文書だけが開示され、開示の拒否や制限に対する苦情に学識経験者で構成する審査機関で対応するという定型的な開示の仕組みは各自治体横並びでさほどの違いは認められないものの、最も本質的な部分である非公開文書の範囲規定やその解釈指針となる立法目的には自治体間で大きな違いが認められ、ここに各自治体の住民自治に対するスタンスの違いを見て取ることができるのである。

 そこで、「地方分権」を始めとする団体自治の強化が必ずしも地方自治(住民自治)を帰結・強化するものでないことを、情報公開にみるスタンスの違いを通して見てみることにしよう。

 全国の自治体のトップを切って情報公開の検討を始めた神奈川県は、神奈川県情報公開推進懇話会のまとめた「神奈川県の情報公開制度に関する提言」に基づき情報公開条例を制定した。国内に前例がない中でまさに暗中模索の中にあったこともあり、提言に現れた考え方は、わが国においてはかなり理想的かつラディカルなものとなった。

 すなわち、提言において「知る権利を制度的に保障することは、日本国憲法の定める地方自治の本旨に即し、住民主体の地方政治を実現するために不可欠である」と説いたことは、地方レベルと国家レベルの情報公開のもつ意味の相違、つまり、知る権利が表現の自由からだけでなく、より直接民主主義的傾向のある住民自治ということからも根拠付けられるものであるということを、よく理解していたことが見て取れる。

 また、「県の機関の持っている情報は、県政の担い手としての県民に属するものであり、県民は、必要なときに情報を得ることによって、その生活を一層充実することができるとともに、県政により積極的に参加し、行政の公正かつ能率的な運営を県民監視の下に推進させることができる。」と述べたことは、積極的な住民参加にとって情報公開が不可欠であること、そして、地方行政もまた濫用される危険をもった権力にほかならず監視が必要なことを、よく認識していたと評価できるのである。

 しかしその後、続々と制定された各自治体の条例及びその運用は、制定に向けての議論の不十分さを露呈するかのように、市民の必要とはかけ離れたものとなっていったのである。

 とりわけ、非公開部分の恣意的解釈による拡張は、何のための制度かを疑わせるに十分であり、事実、最近の訴訟での自治体側の敗訴を受け一部見直されるなど、原則公開の意義だけでなくその背景としての自治の理念を全く理解していないことが見て取れるのである。

 アメリカのジェファーソンは「われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる」と権力の危険性に対する権力分立による相互監視の必要を強調したが、公務として行った者の氏名を非開示としたり、高額の閲覧手数料を取るなど、職員のプライバシーや行政効率を盾に情報公開のもつ監視機能を軽視することなどは、まさに危険な考え違いというほかない。

 そのほか最近の大気汚染等環境問題などからも明らかなように、地方自治体が権限を持ってもそれが直ちに住民の幸福に資するものとなるとは到底いえないのであって、単に中央による集権的支配から地方版中央集権的支配あるいは地方版専制的支配に変わるだけという懸念はむしろ当然かつ十分なものというべきである。

 真の地方自治の実現に向け、わたしたちはまずもって参加と監視を基調とした住民自治の回復に最優先で取り組み、地方自治体を真に身近な存在としなければならないのである。

 

四 失われた市民性

 代表民主制度の下、住民の主権者としての唯一の関与は、選挙によって行政を一定期間委ねる代表者を選任する投票行為である。

 しかし、いったん代表者が選出されると、代表者は住民の意に反して行動し専制的に住民を圧迫することがあるという制度的欠陥が指摘されている。

 特に地方自治体における政治形態は首長制を採用しており、この危険性はとりわけて高いのである。

 これに対して、戦前の地方制度の下では、中央政府の後見的監督により、地方における恣意専断の不当な行政運営の是正を図るしくみがとられていたのであるが、戦後は、住民自治の観点から、これに代えて住民の直接参加による地方自治の監視・是正のしくみが採られた。住民による条例の制定改廃請求、事務監査請求、議会の解散請求、議員や長などの解職請求は、この具体的な住民の参加形式といえる。

 しかし、現実的にはこれらの権利行使はほとんどなされず、その代わりというべく、今だに中央の後見的監督が巧妙な形で実質的に機能しているのである。

 このような状況下、もし中央の関与がなくなったら実質的に監督者がいないことになってしまうのではないかと危惧するのは単なる杞憂といえるだろうか。

 その答えは、行政が真に住民の意思と合致していない実態をみれば明らかであろう。

 住民1人1人が「異議」をもっていても憲法が想定したような集団的行動には結び付かない現実、住民参加促進の大義の下で協力的住民を組織化し下請的に利用する行政の姿勢、両者が相乗的に進行している現状、これらを直視すれば決して杞憂ではないのである。

 社会学者のリースマンは「人間は社会的自由を失うにつれて、個人的な自律性を求めるようになってゆくのである」と述べた。

 社会的自由の喪失とは社会的無力感と軌を一にするもので、個人的な自律性とはまさに個人的領域における自分勝手の欲求である。 いいかえれば、社会的無力感が深まるにつれて、個人主義的主張が強化されていくということができる。

 「政治的無関心層の増大」、「若者の政治離れ」、「コミュニティーの崩壊」、「社会的モラルの崩壊」など、住民自治を取り巻く環境の変化は厳しいのであるが、いづれも行政が住民の社会的自由を軽視してきたことの結果であるということができるだろう。

 もっとも、この傾向を改善すべく行政は行政主導の積極的関与を続けてきた。具体的には、行政が講演会を開催しても自発的参加が得られないとして行政の協力団体から組織的動員をし、参加旅費は団体の補助を通じて実質補填したり、すでに自発的に活動している慈善の組織があるにもかかわらず行政が任命した住民を何々委員として組織化・権威化し、競合させるなど、住民参加の形式を積極的に進めてきたのである。

 しかし、このような指導監督的後見を伴った補助金による支援や、行政自身による住民の組織化によるサービスの拡充は、かえって既存の自由な慈善的活動を駆逐し、住民の自律性を喪失させていったのである。

 人間の本質について「大抵の人間は、自分が真であると信ずる意見を罪とみなされたり、自分たちを神と人間に対する敬虔へと駆り立てるものを罪と認められたりすることを、なによりも堪え難く思うようにできている」とスピノザは述べた。まさに、かかる行政の姿勢こそ、一方で一部の団体活動を公の認める活動として正統化し、一方でそれと異なる自主独立の性格を備えた様々な意見・活動を否定する態度であって、自律した市民にとっては堪え難いも姿勢である。

 住民の意見を聞いての政策形成といっても、行政翼賛的な団体しかなければ、多様な意見をもつ自立した市民の行政参加を欠いた危険かつ非効率な住民自治となるのは必然なのであろう。

 たとえ積極行政の下にあっても、行政の本来の役割は様々な利益の「調整」なのであって、決して「誘導」ではないのである。それゆえに市民の様々な意見を聞くことが必要不可欠な基本的姿勢なのである。それが信頼に基づく公正な行政の姿というべきものであろう。

 

五 市民性の回復に向けて

 1 囲い込みから解放へ

 住民が、多様な意見をもった自律的存在として行政に関与していく市民性を回復するには、行政に対する3つの態度、@迎合的態度、A攻撃的態度B不信からくる無視の態度、それぞれについて意見表明の場に連れてくることを企図しなければならない。

 しかもそれは決して行政が主導して形成できるものではなく、住民それ自体が内抱している社会的参加欲求を解放するという形で住民自身によって実現されるべきものである。

 そのために、行政がまず心すべきは、過度の干渉の廃止、ヒエラルキー的組織化による市民管理からの決別による自立の関係の構築であろう。

 行政は専門的であるが故に政策の立案は行政が行うべきとの見解は、一面では真実である。しかし、専門家が考え、創作したものが住民にとって良いものとは必ずしもいえないことは明らかであって、それゆえ政策形成過程での徹底討論の場の確保、および市民の疑問や批判に対しての行政の説明責任、さらにそれを可能とする情報の共有と対等・自立した関係が不可欠と考えるのである。

 とはいえ、行政が組織として何の措置もしないで、自然に、自律した市民が誕生すると考えるのは、あまりに楽観的であろう。

 そこで、必然的に選別と管理を生じ依存的体質と行政の意向と異なる市民の離反を招く補助金等による誘導によらず、基本的に活動に不干渉な方法、例えば税制を通じての誘導によるべきであると考える。具体的には、地方におけるNPOを初めとする非営利・非政府的な活動に対する個人の支出に対しては、地方税制上の控除を行うなどが考えられる。 そしてその際、行政に対して批判的な活動であっても平等に扱うべきは当然である。なぜなら、批判的な意見があって初めて議論が成立し、参加の契機が整えられるからである。また、一市民として行政の職員がそれに関わることは当然認められるべきである。

 

 2 議会の再生

 つぎに、住民に代わって常体的に行政を監視し意見を述べる議会活動の活性化を図るとともに議会のシンクタンク化を図るべきと考える。

 政策の形成に関しては、高度に専門化した分業体制をとる官僚機構に対して、議会は相対的に脆弱である。とりわけ、ある目的をどの様に実現していくかという戦術的側面においては官僚機構に対抗できるものではないといえる。

 しかし、どの様な目的を目指すかという戦略的側面においては必ずしも官僚が優れているわけではない。サラリーマン的で小粒で発想が横並び的でリスクを張って他と違うことをやろうとはしない官僚機構に対し、住民のニーズを的確に把握し責任をもって大局的観点から判断できる者こそが唯一正当性をもつというべきであるからである。

 そして、自らの判断と責任において政策執行を判断し実行する首長と、その指揮監督のもと日常の行政を執行する官僚に対して唯一正当的に政策提案できるもの、それこそが議会であるべきである。

 民意がよりよく反映される議会が政策戦略を提起し、首長が責任をもって判断(選択)し、官僚がプロとして専門的に実現していくことこそ、新しい地方自治の形態というべきであろう。

 もちろん、議会も徒手空拳では官僚機構に対抗できないので、自治体の規模にもよるが政策研究の可能な議会付属の常設機関の設置、あるいはその機能の外部機関への委託を可能とする仕組みを整備しなければならない。また、これら政策提案機能のためにも自治体の情報は公にしなければならない。

 さらに、いわゆるオンブズマン的な機関を議会付属のものとして設置するなど行政執行過程における過誤の監視機能も、議会の重要な機能の強化策としては必要なものと考えるのである。

 議会と住民が信頼関係を取り戻し、行政がこの監視のもと誠実に実行され、市民が自律的に行政活動に参加したとき、初めてこの国に地方自治が実現するのである。

 そしてそれは、地方自治という民主主義の学校で、公事に関し自主自律の訓練を重ねた市民にる国の変革へと進んでいくのである。

以 上