1 よりよき未来のために
今日、我々を蝕む退行的徴候は、我々が支えるべき社会からの逃避のみならず、理性と善意の人間性からの逃走にも表れている。もしこれを放置するならば、止めどもない貪欲と利己主義の蔓延によって社会のあるべき姿は歪められ、全体主義あるいはアナーキズムの両極端に堕するであろう。
このような現状に対し、一方で懐古調の道徳観の復活をもって対抗しようとする傾向が一部に見られるが、全体主義の下ならいざ知らず、自由で民主的な社会観とグローバルな言論市場の下にあっては非現実的であり、かえってニヒリズムの傾向を強化し、反伝統文化的な反発を招き失敗するであろう。(ただし、パターナリスティックな領域では別の考察が必要)
いわゆる権力の柔和化による統制も、成長神話の崩壊した現在にあっては、もはや期待された機能を果たさないであろう。
政治や行政の行う意識変革のプログラムの失敗は、純粋に私的な心的領域への過度の干渉による巨大なフラストレーションと不信を社会全体に蔓延させる結果をもたらす大罪というべき所業である。
もちろん だから何もなすべきではないなどと言うつもりはない。
ただ、ここでは、行政によって可能なことと不可能なこと、協力と言う名の強制も含め強要できることとできないことの別を明確にし、その上に立って具体的な施策を提示し選択し実行していくことが肝要であるという基本的なことを指摘しておきたい。
そしてこの機会に、よりよき未来のために我々は如何にあるべきかについてあらためて考えてみたい。
2 福祉国家の功罪
現代国家は、個人の尊厳に基づく個人の自由な活動によって予定調和が図られるのだから国家はみだりに国民生活へ介入すべきではないという消極国家(夜警国家)観により、資本の集約に伴う貧富の差や人間性の喪失などの問題が拡大し、実質的に個人の尊厳(自由や生存)が脅かされるに至ったため、国家が国民の社会・経済政策に積極的に介入し弱者を救済すべきという積極国家(福祉国家)観に立脚することとなった。
そして、わが国もまた、この福祉国家を標榜する一国であることに異論はないだろう。
しかし、この福祉国家思想の拡大がもたらしたものは必ずしも個人の尊厳と言う本来の目的とは同調したものではなかった。
積極国家は行政の役割を肥大化するとともに、本来、執行機関に過ぎないはずの行政権に専門的地位に付随して実質的な意思決定機能を付与するという現象を生じさせたのである。
その上、安全と結果の平等を優先した諸施策は、人間の自由と意欲を活用した自発的結合としての共同体の創造を困難になさしめ、安逸を貪る怠惰とエゴイスティックな個人主義の蔓延を生じさせたのである。
本来、何が正しく何が誤りかということと、適法であるか違法であるかということとは、同じではない。にもかかわらず、違法でなければすべてが許されると言うような風潮が広がりを見せたのである。とくにこの傾向は政治、あるいは行政といった徳と正義の手本となるべきところで蔓延し、深刻な影響を与えているのである。
資本主義思想における人間性を奪い、経済的効率性といった唯物論的枠組みでしかシステムを語ることしかできなくなってしまった、ノーリスク、ノーインセンティブの悪平等のぬるま湯の中で創造性を低下させた現下の資本主義体制に、もはや未来を見いだすことは困難である。
ゆえに今、変革が求められているのである。
そしてこのような下で今日言及されている「小さな政府」論は、かつての夜警国家的な自由放任とは異なり、福祉国家的な配分的正義に最低限の配慮をしつつ、資本主義の真髄をなす自由とリスクと責任の付与による創造性と積極性の拡大に基づき、社会全体の豊かさを支える漸進的な経済成長をめざした有効な一つの国家改革理念なのである。
私は、これによってのみ、行政と国民との共依存症的関係を治癒することができるものと考えるのである。
3 社会正義の判断過程
アリストテレスは正義を、不当な加害や利得に対する刑罰や補償に関する「匡正的正義」と複数の主体間での利益・負担の配分に関する「配分的正義」とに区別した。
「匡正的正義」は、適法であるか違法であるかという司法的判断によって実現されるが、適・不適の判断としての「配分的正義」は、必ずしも司法判断によって実現されるものではない。
一方、憲法上最高の価値概念である「個人の尊重」(13条)から派生する平等概念にも、機会の平等を目的とする「形式的平等」概念と結果の平等を目的とする「実質的平等」概念とがある。
現代国家における大規模な利潤の再分配を肯定する福祉国家思想は、配分的正義の観念と結合するとともに、実質的平等概念とも結合している。すなわち、今日の福祉国家こそ、配分的正義としての実質的平等を企図したものに他ならない。
しかし、このことゆえに福祉国家は個人の様々な自由権と、より頻繁に衝突をすることとなった。
あまつさえ、実質的平等の実現のため、全体の利益という抽象的価値を措定し、これにより富者・強者のみならず、国民の多くの自由権を制限する全体主義をも肯定したのである。
このような歴史的反省に立って、現行のわが国の憲法下にあっては「公共の福祉」という全体の利益と個人の権利との比較衡量にあたっての慎重な考察がなされているのである。
そもそも、公共の福祉は人権相互間の矛盾・衝突を調整する原理にすぎず、個人の人権を超越して存在するものではないという考え方に基づき、今日では個々の権利の性質に応じた比較衡量、とりわけ米国において発展した「二重の基準論」による衡量が、わが国においても通説・判例的地位を占めつつある。
(二重の基準論は、簡略に言えば、精神的自由と経済的自由とを区別し、前者の不可侵性を説く一方で後者の制約可能性を説くとともに、経済的自由に対する消極目的規制には厳格な合理性を要求し、積極目的規制には一応の合理性を要求する司法態度である。)
そして、ここで重要なことは、なぜ消極目的規制と積極目的規制とでこのような判断基準の相違が生じるかということである。これは、消極目的規制(警察的規制)においては、害悪防止という目的からその必要性・程度を伝統的な警察比例原則によって是非の判断を行い易いのに対し、積極目的規制(政策的規制)においては、その目的が概して経済的弱者保護のための社会・経済対策にあるため、有権者の意思を反映する機関でない司法においてその是非を判断することは有害にして無益であることから、実質的な是非の判断を回避し、民主的手続による判断を尊重したためなのである。
すなわち、配分的正義に基づく政策的判断に対しては、司法判断で合憲であると判断されたとしても、この判意は正しい(正当だ)からということではなく、過ち(不当)とは言い切れないという意味においてであるのであって、この是非については終局的には主権者による民主的手続の過程で判断するよりほかないのである。
であるならば、選挙によるチェックを経た現行の代表民主的手続によって決定されたものならば、即、これを是として良いのではないかということになりそうであるが、これはそんなに単純なものではない。
権力は容易に腐敗しやすいのであるから、比較的判断の容易な消極目的規制においてさえ選挙以外の司法のチェックがあるにもかかわらず、今日、より多くの私的自由を制限し領域を拡大する積極目的規制に対しては選挙以外に抑制のシステムを持たないというのは、明らかに均衡を失すると言わざるを得ないからである。
ましてや、肥大化した行政権と政治の利害一致の場面にあっては、この手の(選挙による)チェックなど、到底、期待できないのである。
したがって、積極目的規制(政策的規制)を伴う施策にあっては、十分な情報公開の上に、住民投票の制度化などによる厳格な採用過程を構築する必要があると考える。
もちろんすべて同じ厳格さである必要はないが、少なくとも、過大なリスクを伴い、不可欠とは言いがたいものについては、最も厳格なチェックシステムを採用し、余計な立案過程のコストを低減させる事前抑止の効果をも期待すべきであろう。
とりわけ地方自治においては代表民主制の補完機能としての直接民主的契機が要請されており、これが、地方自治の本旨たる住民自治にもかなうものであると考えるのである。
4 良心に基づく判断
それでは、どのような価値判断によって住民一人一人は政策の是非を判断すべきなのであろうか。
全体の利益に依拠して判断すべきか、個々の利益に依拠して判断すべきか。
いや、そもそも全体の利益なるものが存在するのであろうか。考えてみたい。
大体、「全体」なる具体的人物は存在しないのであるから、全体の利益とは抽象的な利益であり、概念的産物であるということになる。さらに、利益という概念は価値判断なのであるから、事実判断のみから論理的に演繹することはできず、純粋に主観的・恣意的な価値概念であることになる。
すなわち、ある人が全体の利益というときには、そこには必ずその人の価値観というべき良心が作用している、純粋に個人的嗜好の産物なのである。
ゆえに、個々の利益に依拠することと、全体の利益に依拠することとは、客観的には等価値でありそれ自体に優越性はないのである。
違いがあるとすれば、どちらが普遍的妥当性を有するか、言い換えればどちらが多くの人々の支持を得られ続けられるかといった現象学的価値としての優位性であろう。結果として多くの人々の間での相互作用(社会的営み)によって、エゴイスティックな利益主張が排斥されるにすぎないのである。
であるからこそ、一部の権力者のみではなく、できるだけ多くの人々がその個々の良心に基づいて意思決定に参加する必要があるのである。
民主主義においては、このような参加を通じての普遍的妥当性の模索とその過程における納得という効果が非常に重要であることを、改めて指摘しておきたい。
また、ここで一つの重大な危険性も、併せて指摘しておきたい。
それは、ナチス政権が国民に支持され誕生したように、多くの国民の良心に依拠したとしても、全体としては過ちを犯すことがあるという事実である。
その過ちの再現は、今日の憲法下にあっては考えにくいものであるが、過ちを支える精神構造というものは、今日の自由主義的民主主義体制の健全性を破壊しかねない危険性を、いまだに持っているのである。
そして、その精神構造を支えるものこそ権威主義的良心といわれるものなのである。
権威主義的良心とは「私たちが気に入りたいと願い、機嫌をそこねることを恐れている権威が内なる声となったもの」(E.フロム)であり、発達段階における超自我、すなわち父親(権威存在)の命令や禁止が内化し、無意識化して自動的に行動を律するようになったものが一般例であるが、成人にあっても宗教的権威や公権力の権威によって形成されうるものである。
(権威者の発する言葉を無批判に受け入れ、これを当然の前提とする者に、典型的な権威主義的態度をみることができるだろう。)
これは、意識の上では自分の良心に従っているつもりなのであるが、実は単に権威に一方的に従属しただけの無個性なものなのである。(実は組織・集団の悪性は、この精神構造に依拠しており、それゆえ、彼のこの一面への攻撃は彼自身を救うことになるのである)
これに対し「外部の制裁や報酬に左右されない」、「人間として、何が人間的で何が非人間的であるか、何が生命をもたらし何が生命を破壊するかを知っている」良心がヒューマニズム的良心とよばれるものである。
これは自律した個人として自分で考え、感じる能力を身に付けてはじめて得られるものであり、有機体の先天的傾向としての自己実現への傾向の中で体感的に獲得される能力の一つなのである。
すなわち、権威主義的良心が、体感的成長・自律の中で再構築されたヒューマニズム的良心、あるいはまた別の態様として再構築されない限り、人は、現実我(あるがままの自分)と理想我(思い込みの自分)の一致した意思主体とはなり得ず、健全な社会人(社会の意思決定に参加する者)としては不適格なものと考られるのである。
したがって、このような自律的主体としての成長を妨げるものを排し、これを助けるものを推すという態度が、社会政策・行政施策上の価値判断の上で重要な要素となるのである。
5 未来への責任
仮に多くの人々が、理性的に良心に基づき行政施策上の価値判断をしたとしても、具体的に自らの利害が絡んできたらそんなことは言ってられないという現実がある。いわゆる総論賛成、各論反対の場面で見られる現象である。
例えば、身近な河川が生活廃水で汚染されているとして、多くの人が手間は掛るが適切な防止措置を執ったなら汚染の進行は防げるものと仮定した場合、どうだろう。
川はきれいになってほしいが、自分一人くらいという気持ちが現実に存在しないと言い切れる人は恐らくいないだろう。
これは、神ならざる人間の性というべきものであり、むしろこの存在を論理的に否定し、あるべきでないなどということ自体が非現実的・非論理的なものである。
罪と徳の同居した人間というこの現実こそ、社会を含むあらゆる人間関係を考える上での出発点であり、生物学的個体として尊重すべき現実なのである。
ゆえに、このことを前提としつつ、個々の利得に基づく選択行動が、同時に社会的にも有意義なものとなるように、社会システム自体を構築していくことが肝要なのである。
そして、まさに、人々の自己利益を巧みに利用して社会全体の利益を図った資本主義社会のシステムこそがこの好例なのである。
また、先の河川の例で考えれば、往々にして正直者(手間暇かけた者)が損をして、不正直者(手間暇かけずにすんだ者)が得をする現実があるから、人の善意に依拠しただけの啓発というものが効果をもたないのであって、不正直者こそがゲーム理論的に観れば合理的なプレーヤーなのである。
(ゲーム理論は、人間関係における選択的行動を、プレイヤー(関係者)の数を次元としたマトリックスで表現し、欲と不信の人間性を前提とした合理的解を導き出そうとするものである。)
よって、もし、一時的にでも一つの選択行動に誘導したいと考えるなら、意図するパラメーターの利得を直接強調するよりも、この一連のルールに変更を加え、選択にあったての個々のマトリックス上の利得の自発的変更を促した方が効果的であることがわかるのである。
また、個人と社会との関与は一回きりのゲーム構造ではなく継続的なゲーム構造であるべきであり、この継続的関与(選択行動)における信頼の構築(相互理解)によって「明日の百より今の十」といった主観的判断を排除できることにも注意をしなければならない。(逆に継続的なゲーム構造の中で不信が増幅すれば冷戦構造下の米ソのようなジレンマ構造に陥る)
それゆえ、政策の決定に当たっては、一方的な選択とその押し付け(過干渉)ではなく、相手を理解した上での選好合意によるべきであることを強調するのである。(選択肢は、できるかぎり常に用意されていなければならない)
我々は良きもの、良き状態をイメージする能力をもっている。それはただ単に現在のというだけでなく我々人類の未来をもその視野に含んだ「将来への配慮」に満ちたものである。
であるならば、この最良の選択を行えるよう、我々は強固な信頼関係の構築を企図した抑制システム及び施策決定システムの構築を、まず進めるべきであろう。
「信が支配する時代は、輝かしく、高揚し、実り豊かであるが、不信の支配する時代は、だれも実りなきものに身を捧げることを望まないがゆえに、消えてしまう」(ゲーテ)
2000.08.15