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誰でも知っている聖書の言葉

「一粒の麦、地に落ちて死なずば」
  ユダヤの過越の祭りが始まった頃、イエスは、パリサイ派の人々が自分を殺そうと計画していることを知りながら、国中の人々が集まってきて沸きかえるエルサレムの都に入られます。 ローマ帝国の植民地支配の下におかれていた人々は、ローマからの解放のためにメシア(救世主)が現れたと思って、棕櫚の葉を打ち振って熱狂的にイエスを迎えました。

  しかし、都に入ったイエスは、弟子達に言われます。 「人の子(イエス自身のこと)が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書 12章24節)

  パリサイ派の煽動によち数日もたたないうちに心変わりした群衆は、ユダの裏切りによって逮捕されたイエスを裁く総督ピラトに向かって、「イエスを十字架につけよ」と叫びます。 そして、イエスは、ゴルゴタの丘で十字架につけられ、人々の罪を一身に引き受けて、自らの死をもって贖われます。

  「一粒の麦」のたとえは、イエスの受難による人々の救済を凝縮して表現しています。 福音書の伝えるキリストの受難と復活の物語は、劇的な緊迫感に満ちており、是非一読をお勧めします。 また、バッハのマタイ受難曲などを、対訳の歌詞を追いながら聴かれるのもよいでしょう。 きっと、そこにキリスト教信仰の根源を見出されることでしょう。
「汝の敵を愛せよ」
  これもイエスのみ言葉として誰にも知られています。

  マタイ福音書第5章には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあり、ルカ福音書第6章にも、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とあります。 そして「右の頬を打つ者があれば、左の頬をも向けよ」という有名なみ言葉も、これに前後して現れます。

  また「自分によくしてくれる人に、善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。 罪人でも同じことをしている」などと、無償の愛こそ真の愛であることを説いた多くのみ言葉が続いています。

  これらの教えは、その内容の崇高さに胸を打たれます。 しかし、それと同時に、そのあまりの崇高さゆえに、とても人間には実行できそうもないという絶望感を、最初から与えるのではないでしょうか。

  これらの教えは、「汝の神を愛し、隣人を愛せよ」という最も基本的な掟の延長上の極致にあると考えられます。 そして、人間は利害の反する者を安易に敵と考えがちなこと、また、「昨日の敵は、今日の友」というように、敵・味方の関係は簡単に変わりうることを考えると、あながち人間にとって縁遠い教えとばかりは言えないでしょう。

  人々が、このような究極の隣人愛に少しでも近づこうと努力するのと、全く努力しないのでは、結果において大きな違いが出てくると思われます。 後者の道を選べば、際限のない憎しみの拡大が待っていることでしょう。

「空の鳥、野の花を見よ」
  「山上の説教」(マタイ福音書第5〜7章)からの引用です。 そこには珠玉のみ言葉が数多く含まれており、まるで今が盛りの高山のお花畑のようです。

  第6章から断片的ですが引用してみましょう。 「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の身体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物より大切であり、身体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。 あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。・・・・野の花がどのように育つのかよく見なさい。 働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。・・・・野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。 ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。・・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。 ・・・・・その日の苦労は、その日だけで十分である。」

  神さまへの絶対的な信頼を説くこのみ言葉は、欲望を充たすためにあくせく暮らしている私たちに、人生で何が本当に大切なのかを考えるきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。 あなたも聖書のお花畑から美しい花を見つけてください。
「汝らのうち罪なき者、石もて打て」
  イエスがエルサレムの神殿で、民衆に教えておられた時、律法学者たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、「律法はこのような女を石で打ち殺せと命じていますが、どうお考えですか」とイエスに尋ねた。 答えがどうであっても、イエスを訴える口実にするためである。

  イエスは、しつこく繰り返される質問に、「あなたたちの中で、罪をおかしたことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた。 これを聞いた者は、一人また一人と立ち去り、女だけが残った。 イエスは女に、「私もあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。

  以上はヨハネ福音書8章の一部の要約ですが、人間が人間を裁くことの限界がよく示されています。

  もちろん、社会の法秩序を維持するための裁判制度はなくてななりませんが、人の罪は、法律に違反することだけではありません。 およそ人間である限り、何らかの罪を犯さないということはないのです。 そのような自分の罪を棚に上げて、他人の罪だけを言い立てることの何と多いことでしょう。

  人を最終的に裁くことができるのは神さましかありません。 そして御子イエスは、私たちの負うべき罪を十字架上の死によって引き受けてくださったのです。
「求めよ、さらば与えられん」
  これは聖書の言葉として、最もよく知られたものの一つでしょう。 しかし、その意味については、「熱心にお祈りすれば、神さまはどんな願いでも叶えてくださる」というように、簡単に受け取られてはいないでしょうか。

  キリスト教は、いわゆる「ごりやく宗教」ではありません。 教会に熱心に通えば、何でも願い事が叶うということはありません。 もちろんキリスト教徒も、「地上に平和がもたらされますように」とか、「○○さんの病が癒されますように」とか、さまざまなことを真剣に神に祈ります。 そして、神さまがそれにどのように応えてくださるのかは、神の御心にお委せするのです。

  ルカ福音書11章は、イエスの言葉をこう伝えています。 「求めなさい。そうすれば与えられる」・・・・「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」・・・・「魚をほしがる子供に蛇を与える父親がいるだろうか」・・・・「まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

  聖霊を与えられるというのは、私たちが神さまの子供として神さまに受け入れられるということです。 私たちから見れば、神さまを父として持つということです。 神さまに受け入れられることを願うこの祈りは、かならず聞かれます。 この祈りが満たされてこそ、人生は真に満たされたもとになるのです。
「目には目を、歯には歯を・・・・・・・されど」
  「目には目を、歯には歯を」という成句は、日常的には、相手にやられたら同じことをやり返せ、という意味で使われています。

  しかし、これはもともと、古代バビロニア王国のハンムラビ法典(西暦紀元前3600年頃制定)に定められた、同害報復法といわれる規定で、報復するときには、相手から受けた害を越える害を与えてはならないという、報復の限度を定めたもとのされ、旧約聖書(レビ記24章ほか)にも、コーランにも受け継がれています。

  ところが、新約聖書(マタイ福音書5章)によれば、イエスは山上の説教の中で、旧約聖書のこのくだりを引用した上で、「しかし、わたしは言っておく。 悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と、報復そのものを戒められています。

  また、パウロは、ローマ人への手紙12章で、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主が言われる。 ・・・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と説いています。

  個人にとっても、まして、国家や民族にとっても、その通り実行することは難しい教えかも知れません。 しかし、この教えを忘れるときに何が起こるかは、今のパレスチナの現実を見れば、誰の目にも明らかではないでしょうか。
「目から鱗が落ちる」
  「あなたのお話を聞いて、目から鱗が落ちる思いがしました」などという表現は、一般化されて定着していますね。 今までよく分からなかったことが、あるきっかけで、急にはっきりと理解できるようになる場合によく使われる表現です。

  この出典は、新約聖書・使徒言行録(使徒行伝)第9章です。 それまでイエスの教えに従う者を迫害していたサウロが、ダマスコ(現シリアのダマスカス)の門外で、突然天からの光に打ち倒され、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声を聞き、起き上がって目を開けたが何も見えなくなりました。 3日の後、ダマスコに住むアナニアという弟子がイエスに命じられて、サウロを訪ね、「主は、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」と告げると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになりました。 そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻しました。 サウロの回心として知られる劇的な場面です。

   この後、彼はイエスの教えを命懸けで伝道する使徒パウロとなり、彼が各地の教会にあてて書いた数々の手紙は、新約聖書のたいへん重要な部分となっています。

  この世の中は、さまざまな矛盾や不合理に満ち、理解に苦しむことばかりですが、聖書のみ言葉が鍵となって。急に違った世界がはっきり見えてくるかも知れません。 聖書は、そのような鍵がいっぱいつまった宝庫なのです。
「狭き門より入れ」
  「狭き門」といえば、入試の厳しい有名校の代名詞になっていますが、「狭き」と文語体なのは20世紀フランスの作家アンドレ・ジイドの同名の小説が、日本で広く親しまれたからでしょう。 この作品の中で、ジイドは、マタイ福音書第7章(部分的にはルカ福音書12章からの字句を追加)のイエスの次の言葉、山上の説教の一部を引用しています。

  「力を尽くして狭き門より入れ、滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者おおし、 生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出す者すくなし。」

  一見平易な文章で、「安易な道を選ばないで、難しくとも高い目標に向かって全力を尽くしなさい」という主旨の、一種の処世訓として理解されることも多いようです。 しかし、いうまでもなく、イエスの真意はそのような処世訓の域に止まるものではありません。 その鍵は「生命に至る……」というところにあります。 イエスのいわれる生命とは、そして、それに対置される滅びとは、一体何なのでしょうか。

   聖書のみ言葉の奥は深く、独りで読んでも、正しく意味を捉えることは容易ではありません。 ぜひ教会に来られて、み言葉の説き明かしを聞かれることをお勧めします。 教会の扉はどなたにも広く開け放たれています。
「パンのみにて生くるにあらず」
 これは、イエスの言葉としてよく知られ、しばしば引用されます。
 
  マタイ福音書第4章によれば、洗礼者ヨハネがら洗礼を受けられたイエスが、荒れ野に行き、40日の断食の後、悪魔から3つの試みを受けられました。 その第1として、「もしお前が神の子ならば、これらの石をパンに変えてみよ」と迫られたのに対し、空腹のイエスは、旧約聖書の「人はパンだけで生きるのではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記第8章)を引いて答えとされました。

  飽食の時代といわれる今の日本では、飢えに苦しむ人は殆どいmせんから、「パン」といってもそれ程切実感はないかも知れません。 しかし、「パン」を「お金」とか「快適さ」とかの現実的な利益に置き換えれば、誰の心にも重く迫ってくるのではないでしょうか。 そして何より大切なのは、後段の「神の口から出る言葉によって生きる」という一般にあまり引用されないくだりです。

   キリスト教徒も、「われらの日用の糧を今日も与え給え」と祈りますから、生きる上で現実に必要なものがあることを否定はしません。 しかし、それがすべてではないと聖書は告げています。 どんなに現実の生活が苦しかろうと、神のみ言葉を糧に、人は生きることができると言っているのです。
「神に感謝せよ」
  今回の言葉はとりたてて引用されたりするものではありません。 しかし、多くの人々が、引用としてではなく、ほとばしるような気持ちをあらわす自分の言葉として、「神に感謝します」と云うのを見聞きされることは多いでしょう。

  とりわけ印象的なのは、日本でプレーするラテン系のサッカー選手が、ゴールを決めた直後にグラウンドにひざまづいて、胸に手を当ててしばし祈る姿です。 世界的な大会で栄冠を勝ち得たり、前人未踏の大記録を達成したり、あるいは怪我や病気による長いブランクに苦しんだ選手が、カムバックして勝利を手にした時などに、真っ先に口にするのが「神に感謝します」という言葉であることが実に多いことにお気付きではないでしょうか。

  この場合の「神」は、人によってさまざまであり、特定の宗教の神ではなく、漠然とした存在であるかもしれません。 しかし、長い間の苦労をじっと見守り、ついにそれに報いてくださった方に真っ先に感謝したいという気持ちは共通であり、その謙虚な姿勢は、派手なガッツポーズで自らを誇る姿よりもはるかに強く人の心を打ちます。

  聖書は、神に感謝し、神を賛美する言葉に満ちていますが、とくに「コロサイ人への手紙」では、「いつも感謝していなさい」、「イエスによって父なる神に感謝しなさい」、「目を覚まして感謝をこめ、ひたすら祈りなさい」など神への感謝が強調されています。
「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ」
  ユダの裏切りに乗じてイエスを捕らえようと迫ってきた者達に対し、弟子の一人が剣を抜いて立ち向かい、一人の耳を切り落とした時、イエスは「剣をさやに収めなさい。 剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。(マタイ福音書第26章)

  イエスは、十字架につけられて死ぬことにより人間の罪を一身に引き受けてこれを贖うという自らの運命を知っておられ、神の愛によるこのような定め(旧約聖書イザヤ書の預言)の成就を妨げる行為を戒められたのです。

  人類の歴史を振り返ってみても、強力な軍事力にものをいわせて広大な版図を支配した国は、古代ローマ帝国からヒットラーの第三帝国に至るまで数多くありましたが、ことごとく滅亡の運命をたどりました。  また、「宗教は阿片のようなものだ」として厳しく弾圧した旧共産圏諸国においても、民衆に深く根を下ろした信仰は、国家権力によっても絶やされることなく生き続け冷戦の終結とともにたちまちよみがえって、今では宗教を弾圧しようとする国はほとんどなくなりました。

  このように、神の愛に対する揺るぎない信頼を盤石の基礎とする信仰の力の前では、剣に象徴される武力や権力は、まことに脆く、あてにならないものでしかありません。

  強大な軍事力を頼みとする力まかせの世界戦略や、それに反発するテロが横行している今日、イエスの語られたみ言葉をあらゆる人々がよく噛みしめる必要があるのではないでしょうか。 キリストの受難と復活を記念するイースターの季節こそ、最もそれに相応しい時といえるでしょう。



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