
夜久野石による百段の石段 江戸時代牛車で一五里
の道のりを運び、積まれました。

山門、高塀ごしに見える屋根は観音堂

錦秋に染まる興雲寺

鐘楼から方丈を望む

鐘楼・寺紋は稲葉家の家紋

方丈裏庭・開山開基堂
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顕龍山興雲寺の縁起
けんりゅうざんこううんじのれきし
宗 派 臨済宗妙心寺派
開 基 稲葉紀通侯
開 山 回天法旧大禅師
本 尊 聖観世音菩薩(顕龍院殿)
遠い遠い昔、福知山城のお殿様に稲葉紀通(いなばのりみち)
というお殿様がおられました。
お殿様は、戦国時代に織田信長公が「今弁慶」というて一目
おいていた美濃の稲葉一鉄様のひ孫で、徳川三代将軍の乳母
として権力を誇った春日の局の甥として、伊勢の田丸城で稲葉
道通侯の長男として慶長8年(1603)誕生されました。
たいそう勇猛(ゆうもう)な性分で、慶長一九年の大坂冬の陣、翌
年の夏の陣と、ふたつの役では少年ながら大活躍し、徳川家康様
からもたいそうかわいがられました。
しかし、凄惨な戦は少年大名の心を深く傷つけたことは、まちがい
ありません。
この大坂城落城により一つの時代が去り、徳川幕府の300年つづ
く太平の時代が到来しましたことは、みなさまご承知のとおりです。
しかし、大名にとっては絶対者による新たな静かな戦の代が始まっ
たともいえます。
徳川幕府は政権を固めるため、さっそく京都伏見城に諸大名を集
め「武家諸法度」を通達しました。
「武家諸法度」により、幕末までいくつの藩がお取りつぶしになった
のでしょうか。
この時、法度の黒雲が、自分に向かって将来流れてくることを
少年大名の紀通様が気づくはずもありませんでした。
成人され紀通様は徳川家康公の孫、松平忠明侯の姫を正室に
むかいいれました。
このことは、将軍家と縁つづきになり、また幕府の時の実力者
「春日の局」を叔母にもつ紀通さまは、きわめて堅固な閨閥を
得たことになります。
福知山藩主として、江戸屋敷との往復で安寧な毎日が送れる
はずでしたが、宮津藩主京極氏との不仲による争い、幕府許可
なく城普請の疑いなどにより幕府の沙汰を待たずに福知山城、
天守閣において慶安元年(1648)8月20日自刀しました。
当時、福知山城天守閣の横に、観世音菩薩をおまつりし稲葉家
の先祖を供養する仏閣がありました。紀通侯没後観世音菩薩は
興雲寺の本尊としておまつりしていくことになりました。
藩主の遺体は、家老や家臣、そして回天和尚につきそわれ領地
の端にある丹波細見村興雲寺に埋葬されました。
興雲寺は、戦国時代に丹波平定でことごとく天台末の寺院が焼き
討ちにあい、心のよりどころを失った領民のため、紀通侯が開基さ
れた寺院です。
開山の回天法旧禅師は、稲葉家の遠縁、河野氏の出身で、妙心
寺の仙渓禅師・一宙禅師の高弟で、印可法嗣を受けたました。
回天禅師は、妙心寺に住したのち美濃瑞龍寺に住持、妙心寺の
十傑のひとりと称され、妙心寺から紫衣を許可されます。
当時、公家諸法度、武家諸法度、寺院諸法度により寺院も幕府の
厳しい弾圧、重箱の隅をつつくような規定や実現不可能な要求を
受けておりました。
そのなかで、嗣法まで徹底管理しようとする幕府に毅然たる態度を
とり、愚堂、雲居、大愚、了堂などと、ともに正法復興運動を興し
若き回天和尚は、臨済禅師から続く法光を守るため活躍しました。
44歳のとき、その高名と同族のよしみにより紀通侯に請われて
丹波に赴き、城下の富春院の住職となり、紀通侯亡き後は、当山
で冥福を祈り、広雲寺(芦渕)に隠居し、寛文(1662)2年4月24日、
81歳にて示寂
のちに紀通侯の御骨は、父道通侯が眠る京都花園、大本山
妙心寺山内の雑華院へ移されました。
奥方様は稲葉家江戸屋敷で髪をおとされました。
幕府の許可がおり稲葉家の家財が福知山城から江戸の稲葉家
江戸屋敷に届けられました。回天和尚も同行され、奥方さまの心
をお慰めされました。
一子大助は天然痘により慶安4年5月6日逝去し、短い生涯を閉
じました。
大助の死により稲葉家は世継ぎを失い断絶しました。
開山以来370年、興雲寺は脈々と法をつないで参りました。
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