|
東京新宿支部世話人 椎名和生
●山稽古とは
武術を学ぶ者は、「目利き」になる必要があると言われます。
「目利き」とは、物事を鑑定し、それを如何程のものか正しく判断する鑑定法であります。したがって、「目利き」の上手な人は、人に対しても、物に対しても、それぞれの長所や欠点を逸早(いちはや)く見つけ出します。
人生には、長短が至る所に転がり、物ばかりでなく、人間にも長短が備わっています。
例えば、人間には誰にでも、その人独特の長短があり、短所は捨て置き、長所を探し出して、その取柄を生かし訓練すれば、人と言う生き物は見違えるように活き返ります。したがって、人生を充分に生きるとは、埋(うず)もれた無銘(むめい)の新人を発掘し、これを活かして起用することが、本当の人生の目的ではないのかと思うのです。
一般に、人生の目的は、自分が人の為にどれだけ役に立つかと言う事が、人生の目的だと言われますが、自分が人の為に役に立つばかりでなく、自分の方からも、一見何も役にも立たないように思える人の長所を見つけ出し、これに活を入れて、その人が活き返るようにするのが、本当の人生の目的ではないかと思うのです。
敵を作り、人を卑下し、弱い犬がキャンキャン吠えるばかりのような、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)するばかりが人生の生き甲斐ではありません。むしろ、誰にでも和して、自他の垣根を取り払い、自他同根の想念をもって、生きられれば、人はお互によく活き、また、よく人生を燃焼する事が出来るはずです。その事を教えているのが「大自然」です。
人の取柄を活かす、他人の長所を見つけ出して、その人をよく活かす。これこそが人間に与えられた本当の使命ではないでしょうか。
どんな組織でも団体でも、一見何の役にも立たない人を見つけ出し、その人に新たな活を入れて、活き返らせる事が、その集団の長あるいは役職の任務ではないでしょうか。その為に、何事にも「目利き」と言うものが必要になります。
人の上に立つ人は、人は使いようで如何様にも変化し、活き返るという事を知らなければ、人の上に立つ資格はありません。
例えば、人使いの上手な社長や専務の居る会社は、他社を追い抜いてどんどん飛躍し、発展します。ところが、こうした人生の目的を見失った役員の居る会社は、やがて斜陽を辿ります。これは「目利きの大事」を知らないからです。
さて、武術の修行者は、人間に対する目利きばかりでなく、物に対する目利きや、自然に対しする目利きが必要です。人間を観察して、相手の言動や行動から窺(うかが)って、如何程の人物であるか、これを値踏みし、目利きする事も大事でしょうが、大自然に対して目利きする事も大事です。
特に、大自然では、太陽の位置、夜の星座の位置、月の満ち欠けの時期、自分の居る場所、東西南北の方角、更にはその場所での「足場」や「土地質」などを充分に目利きしなければなりません。
 |
|
▲二次元平面の道場内の盤面とは異なる、三次元空間の山稽古。日本には昔から「野試合」というものがあった。これは二次元平面から三次元立体に移した、一ランク上の稽古法であった。したがって、道場での稽古上手が、野試合では必ず勝とは限らなかった。
また、三次元戦闘ステージでは左右の袈裟(けさ)斬りが多くなり、剣道のように正面打ちと言うものが殆どなくなる。これは袈裟斬りが一調子で切り込めるのに対し、正面打ちは二調子で振りかぶり、打つという動作が課せられる為、遅くなるからである。
更に、こうした足場では、剣道のような、板の間でしか通用しない「右前継ぎ足」という足捌きは無用の長物となり、道場内での稽古とは勝手が違うのである。 |
日本では、昔から「野試合」というものが盛んに行われていました。
野試合は、道場内での板の間や畳の上とは根本的に異なります。幾ら道場での稽古上手といえども、踏みならした板の間や畳の上とは異なります。こうした二次元平面の上の闘技など、大自然の中で行う、最も肉迫した命を遣(や)り取りする、生存を賭(か)けたものとは勝手が違います。
何故ならば、大自然の戦闘ステージは、道場の平たい二次元平面の盤面と異なり、三次元空間の中に存在しているからです。
よく曽川宗家先生は、「マタギ」の話をされます。マタギに日本人の「山岳民族」としての原点があると言います。宗家先生のお言葉を借りるなら、山岳民族こそ、先祖代々の遺伝子情報として、三次元空間の思考回路が脳裡(のうり)に宿っていると言うのです。
その話の一部を、ここで拾ってみましょう。そして宗家先生は、次のように語っておられます。
 |
|
|
▲福智山山頂より各山の尾根伝いの稜線を見渡す。(同年8月11日)
|
「吾々(われわれ)は『伝統』という言葉を、再度考え直してみる必要がある。
室内以外の「野戦」という現実を見詰めた場合、そこには永遠不滅の伝統が、日本人の血の中に流れている事を思い出す。それは山伏(やまぶし)などの、行法に見る事が出来、また『マタギ』という東北地方の山間に居住する、古い伝統を持った狩人の群に見る事が出来る」(合気揚げ外伝より)
つまり私たち日本人の血の中には山岳民族としての、先祖からの血を受け継いでいるという事が言えます。そして次のようにも述べています。
「南米ブラジルのバーリトゥードの格闘技選手でも、マタギと一緒に、冬山の中に入れば、30分もしないうちに道を撒(ま)かれてしまうだろう。これは多くの格闘技のそれぞれが、『スポーツの一種目』であることを物語っている。
逆に、マタギがバーリトゥードの戦い方で組み付けば、30秒以内にノックアウトされてしまうだろう。しかし、室内試合場を離れれば、また違う展開が見えて来ることも事実である。これはスポーツと戦場での戦闘が、全く違う次元にあることを物語っている。
つまり、それぞれに戦う次元と、ステージの次元が違うのである。だが、次元の違いは、肉体スポーツ格闘技の多くが、三次元立体の空間図形の中で、計算される予想通りの結果が示されるという事である。この意味で、実力の差と勝者の予測は可能である。
この背景の裏には、『科学するスポーツ』の実体がある。科学とは、データから出された数値が総てである。この数値の示す通りに筋力養成と、スピードなどの強化法が、肉体コントロールの主な課題となっている。
一方、マタギの体力は、体力と言うより、『体質』のよるところが多いと思われる。これは『科学するスポーツ』と対照的である。そして、大自然を相手にしているから、大きな変化が起り、予測不可能である。
体質が優秀であるから、過酷な険しい山路の登頂や長時間登攀(とうはん)にも耐えられ、狩猟中、病気に対しても、強靱(きょうじん)な体質で跳ね返し、感染しても、自然治癒力で、直ぐに治る特異な体躯を保持している。これがマタギ衆の体質といえるだろう」(合気揚げ外伝より)
また一方、以上の事から「次元が違う」ということは、格闘技のような子の形式を採用するスポーツは、平面上のリングの中で闘う、二次元の盤面での格闘になります。
一方マタギ衆の生業や、山稽古と言う特殊な修行法は、三次元での行動が中心になっており、平面上に動く二次元スポーツと、三次元上を動く山稽古では確かに次元が違うと言う事は誰にでも分かると思います。
ここに宗家先生が言う、次元の異なりと言う異次元世界が山稽古には見る事が出来、私たち日本人の血の中には、三次元で戦闘を考える思考構造があるように思われます。
 |
|
|
▲8月11日の空は実に美しく晴れ渡っていた。
|
私個人も、この度、平成19年7月21日、同年8月11日、同年8月14日と、延べ三回に渡り山稽古に致しました。この時の服装は、道衣下のズボンに西郷派のTシャツ、それに地下足袋という軽装でした。
しかし私の場合、残念ながら7月21日の福智山初登頂では途中で挫折してしまい、山頂まで辿り着く事が出来ませんでした。7月21日は、まだ北九州地方は梅雨明けしておらず、福智山山頂に向かう登山ルートは、まるで川のようになっていました。赤土が剥(む)き出しになり、大きな石がゴロゴロしていて滑り易く、難儀(なんぎ)を強(し)いられる登山でした。
 |
|
|
▲避難小屋付近に記された福智山山頂九州自然歩道の案内図。九州はこうした意味で、山稽古の最適な山地であり、特に北九州は山間にまで家々が立ち並び、その麓は海辺に通じると言う勾配の多い山間地帯である。
|
この日、福智山に登ったのは、宗家先生と千葉八千代支部長の福島維規師範と私の三人で、宗家先生に道案内をお願いして、山頂指して登攀(とうはん)を開始したのですが、40分ぐらい経って、宗家先生と福島師範の足に追いつけず、ついに途中でへばってしまいました。座り心地のいい岩があったので、そこに座り込んで動けなくなってしまったのです。自分でも、こんなはずではなかったのにという感じでした。青天の霹靂(へきれき)とでも申しましょうか……。
ここで私は置いてきぼりを食うことになりました。そして、そこで待っておくように言われたのですが、自分の腑甲斐(ふがい)なさを情けなく思い、少しでも宗家先生たちに追い付こうと、自分のペースで登り始めました。自分では強健と思っていた足も、心臓も、実は都会の生活に慣れただけの、大自然には全く通用しない、実に軟弱なものでした。
私の身体は、文明生活の贅肉(ぜいにく)の覆われ、まさに「ブタ化」していたのでした。
現代人は、大都会の便利で快適で豊かな生活空間の中で、贅沢(ぜいたく)な日常生活を営んでいます。そして、今日の車社会は、人間の足を退化させる元凶となりました。現代人は、かつての古代人に比べて、足腰が弱くなっているのです。私も、そうした軟弱人間の一人でした。
この、登る最中に、今までの稽古態度や鍛練術のあれこれが思い返されました。私は神奈川県小田原より、毎週一回日曜日、東京新宿に稽古を付けに参っています。そして現代人である、便利で快適な生活態度を、あれこれと反芻(はんすう)してみました。
そうすると、私たち現代人は、一部の登山愛好家を除き、殆ど「歩く」という行動を日常生活の中に取り入れておらず、また、現代社会の特長である車社会の悪影響が出て、現代人の足腰を弱くしているように思われました。交通機関の発達により、世界は狭くなったと言いますが、実際に人間の足で歩いたり、走ったり、山を登ると言う行動に於ては、古代人に比べて、はるかに劣る退化した存在ではないかと思うのです。
私一人が置いてきぼりを食って、切実に弱った足腰の日常生活での間違いと、腑甲斐(ふがい)なさを感じて、反省するところが多々ありました。こうした事を考えながら、自分なりのペースで少しずつ追い上げました。段差の激しい、險しくて滑る山路(やまみち)は、私のブタ化した身体を苦しめました。
少しずつ登っていたのですが、頂上まで、あと700メートルというところで、山を降りて来る宗家先生と福島師範にばったり遭(あ)ったのです。そして、いきなり飛び出した宗家先生の罵声(ばせい)が、「何で登ってくるんや、お前の場合、降りるんが正解やろ!」と、もう散々で、割れ鐘のように怒鳴られました。
 |
|
▲宗家先生と福島師範は山頂のこの大岩の上で、どっしりと腰を据え、ビールを飲んでいたが、私はまだ頂上へ向かう山路の途上にあった。何と言う屈辱。
7月21日は、まだ梅雨明け前だったので、辺りは霧に覆われて全く視界が効かなかったと言う。(写真は8月14日正午過ぎのもの) |
その上、私が弁当を持ち、福島師範がビールを抱えていたので、宗家先生一行はとっくに頂上に辿り着き、そこでビールを飲み、さて、酒の肴(さかな)はとなると、私が弁当を持っていたので、ツマミがなかったということで、更に怒鳴られる始末でした。
「頂上では小学生でも元気に登って居たぞ」と罵倒(ばとう)されながら、我ながら、自分自身の腑甲斐(ふがい)なさを猛反省し、「申し訳ありません」を連発して、ただ首を折れるしかありませんでした。
そして降り始めて、登山や山稽古の経験の無い私は、登る事より、降りる事の方が難しい事に気付いたのです。最初は山は、登る方が大変だろうと思っていました。ところが急勾配(きゅうこうばい)の山は、降りる時の方が、実は大変だったのです。自分の素人考えを、猛反省するしかありませんでした。
急勾配の、岩や石がゴロゴロしている斜面では、膝に大変な負担がかかります。そうしたところに、木の根っこが浮き上がっていて、ここに足を引っ掛ければ、捻挫か骨折が免れません。これに注意を注ぐと、更に膝に負担がかかり、この時、降りる方が、登よりも数倍も難しい事が分かりました。
降り始めて直ぐに、宗家先生一行に差をつけられました。そして10分をも経たないうちに、前方の宗家先生一行の姿は見えなくなりました。
私を気遣ってか、一応「おーい椎名、大丈夫か!」の声は掛けてくれていました。私は「はい」と答えて、彼等の後を追いました。しかし、20分経った頃から、もう声は聞こえなくなりました。ただ聞こえるのは、急勾配の登山道と並行する谷川の水の音だけでした。
ただ一人虚しく、マイペースで少しずつ降りて行くしかありませんでした。20分程度で完全に巻かれていたのです。
はじめて登った山なので、この道は正しいのだろうか、どこか違う脇道に反れたのではないかという不安を感じながら、降りていました。降り始めて一時間以上が経過していました。この日は山頂は霧(きり)がかかり、気温は11度といっていましたから、雲の掛かった状態でした。夕方4時を過ぎると、山の中は薄暗くなります。
私が降りて行く途中も、辺りはすっかり薄暗くなり、道の輪郭(りんかく)が定かではありませんでした。どこを、どう降りたのか、自分でもハッキリとした記憶がありませんでした。ただ必死に降りるだけでした。その上、他の登山者と出会ったり追い抜かれると言う事は殆どありませんでしたから、更に不安は募りました。
烏落(からすだに)という別かれ道のところで、別のルールから降りて来た一人の登山者が確認できました。これでようやく、何とか正規のルートを辿(たど)って降りていると言う確信が持てました。
そして、数十分ほど経過した時、福島師範が下から登ってきて、「本来だったら捨てて帰るのだが、奴がどうなったか見て来いと宗家先生から言われたので」と、私を救出に来てくれたのでした。
私はようやく麓(ふもと)に降りて、ただ「申し訳ありませんでした」という以外に、他の言葉は何一つ出て来ませんでした。宗家先生は私をじろりと睨(にら)み、無言でしたがその無言のお顔は、「お前は何てヤワな奴だ」と指摘でもされているような厳しいお顔でした。
この日の挫折した私の腑甲斐なさが思い返され、この雪辱(せつじょく)を晴らす為に、一度小田原に帰って、箱根山で登り方や降り方を稽古してみようと言う、申し訳ない気持ちで一杯でした。そして8月11日再挑戦する事になりました。
 |
|
▲8月11日、標高900.8メートルの山頂での様子。この日は空気が澄んでいたので、外界までハッキリと見渡せた。
左から曽川竜磨参段、中橋雄介参段、福島維規師範。この日の携帯品は六畳一間の茣蓙、それに卓袱台と、一般家庭の調度品を山頂に持ち上げたものだった。
特記すべきは、登山靴ではなく、全員が底の薄い、安物の地下足袋を履いている事である。 |
平成19年7月21日は、私の記念すべき、大失態の日でした。
山稽古を、言葉だけが知っていたのですが、余りにも安易に見過ごし、本当の山稽古の凄さを知らない私は、この日の大失態を認めざるを得ない一日でした。 |