「ADHD(注意欠陥/多動性障害)」(町沢静夫著、駿河台出版社)に抗議する
02/09/04
(10/29ちょっと改訂)
「うーん…どうせろくでもない本なんだろうなあ…とは思うけど、やっぱり日本で出版されるものについては目を通しておこうか」ということで、いささかの迷いの末私はこの本をオンライン書店で購入した。
しかし、私の見通しは甘かった。
これは「ろくでもない本」ではなかった。
これは「ひどすぎる本」だったのだ。
町沢静夫氏といえば日本の精神科医では”ビッグネーム”の一人である。センセーショナルな事件が起きれば、必ずといっていいほどワイドショーや雑誌が町沢氏にコメントを求め、メディアでの露出度も高い。最近では、例の佐賀バスジャック事件関連で物議を醸した経緯もあるが、有名な著書も多数あり、私も数冊所有している。
しかしながら、初期の著作はともかくとして最近の町沢氏の言動や著書などを目にするにつれ、疑問を持つことが多くなってきた。特にバスジャック事件関連で世間から批判を受けたことに対して、本をまるまる一冊“反論”(言い訳?)のために出版するなど、少なくとも私には理解できないことである。
町沢氏への批判については「少年たちはなぜ人を殺すのか」(宮台真司・香山リカ、創出版)や「精神科医を精神分析する」(佐藤幹夫、洋泉社)などでも目にすることができるが、私がここであらん限りの怒りをこめて取り上げるのは町沢氏がつい最近出版した「ADHD(注意欠陥/多動性障害)」(駿河台出版社)という本である。
私自身はまだまだ経験不足ながらも心理臨床や発達障害の世界に身をおき、それらについて真剣に学んでいる(現在進行形)人間であり、また同時に氏がとりあげているADHDという障害を持つ当事者でもある。学校関係の仕事をしていることもあり、単に自分がそうだからというだけではなく、専門職として現在ADHDについてはできるだけの資料を集めながら、海外や日本における研究・臨床の現状について情報を収集する努力もしている。
おそらく町沢氏ご本人は、無名のペーペー心理屋がインターネットの片隅で吠えていようと歯牙にもかけないであろうし、そもそもこんなものをご覧になることもなかろう。このような本を堂々と出版できる神経の持ち主に、たとえ何を言っても無駄であろうとも思う。ただ、町沢氏というビッグネームの著書であり、そのものずばり「ADHD」という書名の本であり、手軽に入手できるボリューム・価格であることからして、知らずに「ADHD入門編」としてこの本を手に取ってしまう方がおられることを強く危惧するのだ。
はっきり言おう。この本はADHDのことをまともに知りたいと思うなら、「買ってはいけない」悪書である。
根拠もなく“批判”するのはフェアではなかろう。これは誹謗中傷のための文章ではないのだから。以下、具体的に例を挙げてこの本のどこが(というよりは、著者の姿勢のどこが)問題なのかを明らかにするつもりである。以下本論。
(※なお、もしも著者ご本人やその周辺の方、および出版社からの抗議があれば公開で議論をする用意があります。インターネットという公共の場で、堂々とやりましょう。その際には、私個人宛の通信物等を原則としてすべて公開いたします)
はじめに疑問を感じたのは、この本のなかほどにある『大人のADHDについて』という章を開いた時だった。
届いた本の目次に、成人ADHDについての1章がわざわざ設けられていることに興味を覚え、他ならぬ成人ADHD者である私としてはまずここから見てみることにしたのだった。
パラパラとページをめくってみると奇妙な記述が目に入った。いくつか症例が紹介されているらしいのだが、これらがすべて外国人の名前なのである。しかも、その他にもどこかで見たことのあるような記述が次々に出てくる。デジャヴュか?とは思わなかったが、とりあえずこの章の最初から読んで見ることにした。すると…
そこにはこのような一文があった(p.139)。
『(著者自身は大人のADHD症例を診たことがないので)デイヴィッド・サダース、ジョゼフ・カンデル、二人の著書である「おとなのADHD」から症例を紹介してみたいと思う』(『』内引用、以下特に断りのない場合は同様)
実際に症例を診たことがないにも関わらず1章を設けること自体かなり大胆だとは思うが、本当に驚くのはそれ以下の部分である。
これは『紹介』ではなかった。そして、「どこかで見たような記述だな」と感じたのは当然であった。紹介されている症例も、その他の記述も、何度も何度も自分が真剣に読んだ「おとなのADHD」からの“引用”に他ならなかったのだ。ただ、ざっと見た限りではこの部分が“引用”であることには気づきにくい(この本を読んだことのない人ならば特に)。なぜなら、通常の印刷物において他書からの引用を行う場合のお約束ごとである、"行下げ”や“活字のポイント(もしくは種類)変更”等が一切行われておらず、“本文”からひと続きのように(もちろん、一行分スペースをあけるなどといったことも行われていない)なっているからである。しかも原著(訳書だが)のままとおぼしき『(クライエントは)私たちのクリニックに回されてきた』(p.139)という記述まであったのだ(同様の表現は他にも見られた)。大変まぎらわしい。ほんの数行前の『私』は著者である町沢氏のことであるが本文とひと続きで“引用”されている数行後の『私たち』はサダースとカンデルのことなのだ。
なぜ、引用であることをきちんと(お約束に従って)明らかにしないのだろうか。著者は著名な医師であり、従って論文等において引用文をどのように取り扱うかは誰よりもよくご存知のはずではないか。
しかし、これには明確な理由があったのである。
もう少し丁寧に、最初からこの本を読み進めていくうちに、あえてこのような形をとったわけがおぼろげながらわかってきた。このことについては後で述べることにしよう。
さて、この本のどこが問題なのか。全体に目を通し、参考文献等にも(可能な限り)当たった結果、私が感じ取った“問題”を以下のようにまとめてみた。
(1)この本は誰を対象に書かれたのか
(2)コンテンツ自体の問題
(3)紹介されている症例とその処遇について
(4)著者の現状認識およびADHD(研究と臨床)理解はどうなっているのか
(5)それ以前の大問題
おわりに
(1)この本は誰を対象に書かれたのか
この本の目次を見ると、次のようなコンテンツが並んでいる。長いが、一体何を問題にしているのかを明らかにするためにそのまま書き写していこう。
第一章 ADHDとは何か
1 はじめに
2 ADHDの実際
3 ADHDとその歴史
4 ADHDの診断基準
5 成人のADHD
6 ADHDの原因
7 脳の異常はあるのか
第二章 ADHDの歴史を細かく知る
1 1900年〜1950年の時代、つまり脳損傷の子どもとされていた時代
2 北アメリカでのADHDの研究
3 薬物の開発
4 注意力の障害の出現
5 ダグラスの注意欠陥モデル
6 多動児の薬物療法の登場
7 1979年までに広がっていた見方
第三章 ADHDの現在
1 治療の進歩
2 1990年から1998年の発展
3 大人のADHD
4 ADHDの大脳生理学
5 頭部外傷
6 リタリンの治療
7 脳内ホルモンについて
8 ADHDの下位分類
第四章 ADHDの日常性とその対応
1 幼児期におけるADHDの発症
2 幼児期にみられるADHDの症状
3 私がADHDと診断した青年たち
4 ADHDの治療
第五章 大人のADHDについて
1 大人にまで続くADHD
2 大人のADHDの治療法
3 大人のADHDについて
4 ADHDの人へのアドヴァイス
5 配偶者がADHDだったら
6 ADHDの自己診断用チェックリスト
第六章 ADHDと合併症状(comorbidity)
1 ADHDと合併症
2 ADHDと反抗挑戦性障害および行為障害との合併
3 感情障害との関わり
4 ADHDと双極性障害の薬物療法
5 不安障害とADHD
6 チックと強迫性障害
7 中枢興奮剤とチック
8 ADHDと強迫性障害
9 ADHDと強迫性障害のオーバーラップした薬物療法
第七章 ADHDと親の問題
もうおわかりだろう。この本は誰をターゲットとして書かれたものなのか、まったく不明なのである。子どもや自分がADHDではないかと不安になって手に取る人や、教育上の対応の手がかりを知りたいと願う教師が、『ADHDの歴史を細かく』知りたいと思うだろうか?(少なくとも、ADHDについてとにかく何かを知りたい、情報がほしい、と思ったとしても私自身は「最初に症例を報告したのは誰で」とか「はじめは微細脳損傷と呼ばれていて」とか、そんなことは有用な情報とは思えない)。ADHDについて学ぼうと思う学生(に限らないが)にとって、『ADHDの人へのアドヴァイス』や『配偶者がADHDだったら』などという具体的で細かすぎる一節が必要だろうか?この本を“入門書”として手に取る人にとって、(これは「21世紀カウンセリング叢書」というシリーズの一冊である)、あるところは初心者向けのくだけた内容であり他のところはやたらと専門用語の頻発する内容のモザイク状態を呈しているこの本がどれだけ有用だろうか?これは果たして”入門書”なのか?”解説書”なのか?”専門書(専門家がさらに学ぶためのテキスト)”なのか?それとも”教科書”なのか?−並んでいるコンテンツを見る限り、この本はそのどれにも当たらない。“引用”という名目で他書の内容を杜撰にモザイクした、中途半端な寄せ集め本である。
(自分がADHDかもしれないと思っていて、ADHDのことを学びたいと思っている学生(対象限定)には「それなりに」役に立つコンテンツなのかもしれないが、それにしてもこの本ではダメである。その根拠は本文に述べる通りだ)
(2)コンテンツ自体の問題
もう一度、コンテンツにゆっくり目を通してみよう。
奇妙なちぐはぐさに気づかないだろうか?
たとえば、“成人ADHD”について、この少ないコンテンツで3カ所扱われていることがわかる。はじめの2つは、それぞれの章における一節として、そしてさらに独立した1章を設けて扱ってある。もちろん、本文の中で必要に応じて触れられるのは理解できるが、内容を読んでみるとはじめの2つはわざわざ小見出しをつけて一項目として扱うまでもない程度のものなのだ。各節の(内容的な)広さ、深さ、問題の質的な大きさなどもまちまちである。
具体的に指摘してみる。
第1章『ADHDとは何か』では、第2〜4節でそれぞれ『ADHDの実際』(これもよくわからない表現だが)『ADHDとその歴史』『ADHDの診断基準』とある。概説書、入門書のコンテンツとしてはまあオーソドックスな並びである。ところが、突然第5節で『成人のADHD』というのが出現するのだ。見てみると、第4節からの流れで、いわゆる“ユタの診断基準”が紹介されているだけ(おまけに、訳文は他書からの丸写し−ユタの基準は国際基準ではないので定訳はない−であるうえに、唯一異なった表現がなされているところはどうやら写し間違いらしく、明らかに間違った文章になっている。さらにこれが“ユタの診断基準”というものである旨の注記すらなく、これでは読者がDSMやICDのような国際基準に成人ADHDの診断基準が含まれているのだと誤解しても文句は言えない。誤解するような書き方をしているのだから)。内容そのもののお粗末さは置いても、単純にコンテンツの問題としてもなぜこれが『ADHDの診断基準』と並列扱いで独立した1節になっているのかが全く理解できない。これは、続く第6、7節においても同様で、6節で『ADHDの原因』について言及されたあとの7節が『脳の異常はあるのか』で、これはどう考えても常識的には6節の下位項目として扱われるべき内容である。これらの小見出し(つまり、各節につけらればラベル)のちぐはぐさは程度の違いこそあれ他の章でも見られ、つまりこの本はコンテンツ全体の構造がまったくめちゃくちゃなのである。学部生の卒論でもこんなめちゃくちゃな章立ては滅多にない。適当に抜き出してタイトルをつけていったとしか思えない杜撰さなのである。あえてこういう構造にした必然性があるというのならぜひ教えてもらいたいものだ。
(特に目に余るのは第3章『ADHDの現在』である。並んでいる各節の見出しを読んでみてほしい。もうめちゃくちゃである)
見出しと無関係な記述が多いのも目立つ。たとえば第2章の6節『多動児の薬物療法の登場』では、この節(約4ページ半)のうち実に3ページ分ほどは、薬とはまったく関係のない記述である。第4章3節『私がADHDと診断した青年たち』の中には、『青年』のケースは一つも出てこない。そもそも症例自体が2つしか紹介されていない(出てくるのは中学生と小学生だ)し、それも全くまとまった記述ではない。
ちなみに、内容を読んでみると本文自体の構成もまったくちぐはぐであることに気づく。ひとつの内容について書かれていたことから唐突に話が飛ぶ場所が多いのだ。意味的なつながりもなく、前に書かれていた内容がまともに完結しないまま、前触れもなく流れもないままにとつぜん変わるのである。
これも大変奇妙なことであるが、丁寧に読み進めるにつれてその”からくり”と理由がわかってきた。その詳細は5−<3>にて。
(3)紹介されている症例とその扱いについて
この本ではいくつかの症例が紹介されている。いわゆる臨床事例であり、読者が臨床像をイメージするためにはこういった類の書物では症例紹介はほぼ不可欠であり、そのこと自体に問題はない。
先にのべた通り、第5章ではアメリカの研究者の著作からそっくりそのまま症例をひっぱってきているのでそれは論外として、その他の章では著者が直接“治療”にあたった(と思われる、もしくは思えるような書き方をしてある)事例が複数紹介されている。
この本の一番最初に出てくる事例は、第1章『ADHDとは何か』の第2節『ADHDの実際』の冒頭で紹介されている16歳の女の子である(p.13〜14)。町沢氏の外来を受診した彼女は『来るなり診察室のフロアに寝転がり』『何やらうめきながら母親に要求し』、『起きあがったかと思うと「先生、これもらっていいだろ」と勝手にボールペンを持っていこうと』し、『カルテに絵を描こうと』した、と書かれている。そして、その直後の段落で『この子は16歳であるにもかかわらず(←これもわけのわからぬ表現である。なにがどう”にもかかわらず”なのか?:ばじる注)、このようにADHDの症状を外来でも示した』と記されているのである。
ADHDに関する”入門書”で、はじめに16歳の事例を紹介すること自体かなり珍しい(なぜなら、この世代は親や本人にとって「比較的診断治療へのニーズが少ない」世代だからだ。不適応行動や不作法さは思春期の荒れとして家庭でも学校でも片づけられてしまうことが多いし、ADHDではないかという認識が16歳になってはじめてうまれる、というのは日本ではまだまだ希少なケースであると思われる)が、たとえこれが7歳の男の子であったとしても、「ADHD」という本の、しかも冒頭で紹介する事例としては極めて不適切であると言わざるをえない。なぜなら、ここで引用した”症状”は、いわゆるADHDの典型症状ではないからだ。
確かに、こういった行動パターンをもつADHD児もいるだろう。周囲の状況を見られず、他人の気持ちや感情をうまく理解することができず、次々に移り変わる興味のままに衝動的な行動をとる、というのはADHDの主症状が目に見える行動として出現する場合、ままあることではある。しかし(繰り返すが)これは決して典型症状ではない。さらに、これが初対面の相手と一対一の場面でいきなり出てくるというのはあまりないことなのだ。ADHDをもつ人は新奇刺激には興味を持ちやすく、しかもそれが一対一の場面であればより相手とのコミュニケーションに集中しやすい環境なので、むしろ医師の診察といった場面では「教室などで出現している症状が見えにくい」ことの方が多いのである(事実、町沢氏自身がそのすぐ後で『多くのADHDの患者は、医者の前では多少とも自分の行動を抑制することができるもの』だと書いているのだ。だとすればこのケースをはじめにもってきた意味はなおさらわからなくなる。だいいち、彼らは「医者の前」だから行動を抑制できるのではない。診察場面というのが「相対的に刺激が少ない、一対一の場面」という、より集中しやすい環境であるに過ぎない。このあたりにも町沢氏の認識不足が見て取れる。「医者だから」ってすごい買いかぶりだ)。
そもそもこの症例の場合、記されているような極端な不適応行動パターンが16歳まで放置されていたとすれば逆にそちらの方が問題なわけで、16歳になってはじめて(問題を指摘され?)、町沢氏のところに診察に行ったということ自体が不自然なのだ。
同じ節の中で紹介されている中2男子(p.14)は、多動に加えて『外で何回も血の出るような喧嘩をし、時に人を暴力的に脅し、また女の子の背中を鉛筆で突き刺す』といった行動をしており、ADHD+ODD(反抗挑戦性障害)/CD(行為障害)の重複が考えられる事例であるが、『私(町沢氏)が入院させ』た結果、“彼”は一ヶ月ほど後には『特にあれることもなく、実に静かな男の子』になっていたと書かれている。入院後の“彼”は『いつもノートに流行歌のようなものを書いており』『彼の書いた詩はいささか幼稚であり、また単調であった』らしい。 確かにこういうケースもあり得るだろう。“彼”は知的にやや低かったことが記されており、そういった意味で「子どもっぽい詩をノートに書く」といった行動があっても不思議ではない。
問題は、”彼”が入院中「流行歌をいつも書いていて」「その詩が稚拙なものであった」ことが書かれているその直後に(行がえだけはされているものの)『このような子がADHDの典型的な症状をもった人たちである』と書かれていることなのだ。もちろん、『このような子』の中には最初に出てきた例の”16歳の女の子”も含まれている。
しかし実際には上述した通り思春期にまでなってはじめてADHDを疑い医療機関を受診するケースは多くはないし、そもそも“彼女”の症状はADHDの典型症状ではない。重いODDやCDの重複していないADHD児で入院の必要なケースはおそらくほとんどないし、“彼”の“問題行動”のうち深刻な“症状”はADHDではなくODD/CDのそれである。従ってこれらが『ADHDの典型的な症状をもった人たち』として紹介されるのは極めて不適切なことなのである。
この間違いは非常に罪深いことであると私は思う。なぜなら、我が子がADHDだと診断された親に「将来この子はこういう行動を取るようになるのではないか」という不安をいたずらに喚起させるものだからだ。さらに、実際にADHD児と直接接した経験のない教師などには不安や予断を与えかねない。教育現場における不安や予断は行き過ぎた指導、偏見、無理解を助長するだろう。
のっけからこのような症例を出しているようでは、町沢氏がどれだけADHDの症例をきちんと診ているのかまったく疑問である。単に氏自身がちゃんとわかっていないのであればそれは単なる無知でありご本人が笑われて終わりであるが、氏は(繰り返して言うが)社会的にも大きな発言力を持つ著名な精神科医であり、そのネームバリューを信じてこの本を手に取る親や教師が存在する可能性を考えると、無知と笑って済ませるわけにはいかない。
さらにこの本を読んでいると、著者によって入院治療となっている症例がやたらと多いことに気づく。通常、かなり多くの事例を紹介している文献においても、治療のために入院措置までが必要になっているケースはそれほど見られない。むしろ、学校や家庭の中で行動のコントロールを学びながら、できる限り普通の生活をするために本人や家族、そして治療チームが奮闘している場合が多いのだ。
にもかかわらず、この本では中2男子(第1章2節;pp.14-15)中2男子(第1章3節;pp.26-28)、中学生男子(同;pp.28-30)、中1
男子(第4章4節、pp.122-123)と4例も出てくる。ちなみに紹介されている事例は、具体的な経過が述べられているものに限って言えば9例のみである(「私の知っている事例では〜であった」というように、ごく簡単な記述のみで触れられているものも含めれば12、3例になるだろう)。これは通常あり得る率ではなく、ケースの選択もしくは処遇そのものに恣意的なものを感じざるをえない。まるで筆者は、ADHDなら入院治療が必要になる、と信じている(か、もしくは読者にそういう印象を与えたがっている)ようである。実際、第7章においては『筆者の経験では、今のところ病院に入院させるということは、きわめて有益なことだと思っている』と堂々と述べているのだ(p.201)。『入院ができない患者さんの有様というのは、時には母親にも悲惨』だという記述まである(p.202)。
もちろん、必要に応じて入院治療を行うという選択肢がありうることは確かだろう。しかし、ADHDを持つ子どもたちのうち、入院が必要だと言えるケースは現実には決して多くない。確かに日常生活において多くの困難はあるだろうが、治療へのモチベーションがある子どもたちの多くは、家庭や学校で生活をしながら自分の行動を改善していくための努力をしているのだと思う。それなのに、町沢氏によれば『(ADHDを持つ本人たちが)疲れ果てた顔で、私たちの外来に』やってきて、『「先生、ADHDを専門に診ていて、寝泊まりができるような、そんな施設はないのですか?」とよく言う』、のだそうである。それに対する答えとして氏は言う。『残念ながら、ADHDだけを集めて寝泊まりできるような公共施設はまずない。強いて言えば病院というしかない』と。
氏は入院を勧める根拠として、『静かな場所を確保できるだけでも彼らは安心するし、どんなに暴れても病院から出ることができない、あるいはいろいろある規則を守らないと看護婦さんに叱られるという状況は、親に叱られる状況よりも混乱ははるかに少ない』『(入院するということは)自分自身の劣等感を持たなくてもよい環境であり、ほっとしているのが多くのADHDの患者さんである』などと述べている。
あまりにもひどい認識ではないか。「ADHDだけを集めて寝泊まりできるような施設」だの、「入院すると劣等感を持たずに済むので多くのADHD児はほっとする」だの、一体何だと思っているのか。そもそも、そんな施設をほしがったり、入院してほっとしている子たちが本当にどれだけ存在するのかということ自体眉唾ものである。「どんなに暴れても病院から出られない」などと言うに至っては単なる隔離の思想ではないか?町沢氏は、なぜそんなにむやみやたらと入院させたがっているのか?
氏の、必要以上に読者を不安にかりたてる論法は、第4章に出てくる「暴力行動を持つ小4男子のケース」でも見られる(pp.107-108)。氏は、この子を『(今治療しないと)中学・高校に行った時にはもっと激しい衝動性が発揮される』と『憂慮』し、実際にこの子の担任になった教師が次々にうつ病や不安障害を発症し、『養護の先生ですら見ることができず、療養休暇をもらっている』と並べ立てた上で『ちゃんとした医療体制の(治療)チーム』を作らねばならない、と述べているのだ。ADHDなんていう大変な病気を放置すると学校の先生たちも大変なことになりますよ、と脅されているかのようではないか。
第1章3節に出てくる「ひどい家庭内暴力を示した中学生のケース」(pp.28-30)はもうひとつの極端な例である。“彼”は、激しい暴力行動によって学校での深刻なトラブルも絶えず、その行動が他の生徒に及ぼす影響も大きかったようだが、遂に『精神科の病院に入院』することになる。そこでも病室の壁を破ったり他の患者とトラブルを起こしたりし続けるのだが、『一ヶ月も経つと、薬の効果が出てきたのか静かに』なったのであるらしい。けれども、退院後に『どこへ行ったらよいのか、全く見当のつかない』事態となっていたという。なぜなら、『彼の評判が町全体に行き渡って』おり、家に帰ると『また家庭内暴力が起こってはしょうがない』ので家族が彼の帰宅を望んでいないため、『彼はずっと病院にいるしかない状況になってしまっていた』。その後“彼”は、“精神障害者の自立支援組織”に入り、山の中で農作業や牧畜をして生活するようになってから『ADHDの症状は軽くなり、今では非常に元気で明るい子になっている』のだそうである。
ひどすぎる話ではないか。こんな極端なケースを持ち出して町沢氏は何を言いたいのか。ADHDというのはこんなに恐ろしいものなんですよ、と不安を煽っているようにしか見えないではないか。読む限りでは、このケースはCD(行為障害)が重複していたようであるが、それにしてもここまでに至るケースは決して多くないだろうし、入院治療によって行動が改善したにもかかわらず家族が家庭内暴力の再発を恐れて帰宅させない、といった話もあんまりである。そのようなケースが仮にあったとして、この本でわざわざそんな極端な例を持ち出すのは一体なぜなのか。
明確にしておかなければならないのは、激しい暴力や対人トラブルは『ADHDの症状』ではないということだ。衝動性の強さが引き金になって、その結果として短絡的で極端な行動に走る場合はあるけれども、それはあくまで行動(結果)であって症状ではない。むしろ「症状」というならばやはり、それほど激しい暴力であればCDのそれであって、ADHDとは別物である。
なぜこのようなことにこだわるのか。(4)でも述べる通り、ADHDにODD(反抗挑戦性障害)/CDが重複するケースとしないケースとでは全く異なった経過を辿るからである。ODDやCDは確かにADHDに重複することが多いが、(重複することの多い他の疾患である)LD(学習障害)やうつ病とADHDを一緒にしてはならないように、ODDやCDともきちんと区別されなければならない。「重複することが多いからADHDの症状ってことでいいでしょ」といった態度では困るのだ。しかも、日本において唯一「診断」できる立場にある医者である筆者がこのようないい加減な記述をして平気でいるというのは大問題ではないか(ついでに言うと、筆者は『LDという学習障害』などという表現も平気で使っている。LDの何たるかを全く知らない証拠である)。
町沢氏は、ADHDについての知識がまともにないばかりか、もしくはそれゆえに、ADHDという発達障害をことさらに「暴力的で放置しておくと大変なことになる精神障害」であると位置づけ、ODDやCDとの鑑別もまともにせぬまま(できぬまま)、入院によって社会から「隔離」することを良しとする。氏がどれくらいADHDの臨床に携わっているのか、その現状は本当にはわからない。この本に出てくる事例や氏の記述を読む限りでは、まともに臨床事例を経験しているかどうかははなはだ疑問であるが、仮に町沢氏のネームバリューを信じて受診する場合、脅された上に入院させられることを覚悟しておかなければなるまい。
(4)著者の現状認識およびADHD(研究と臨床)理解はどうなっているのか
著者は実際にはADHDのことをどの程度わかっているのだろうか?
読み進めるにつれ明確になってきたのは、結局、町沢氏はろくにADHDのことも知らずに(おそらく、症例もそれほど診ずに)この本を書いたのであろうということであった。もし知っているのであれば氏のADHD観は大変に偏ったものであると言わざるをえない。
これも、問題をはっきりさせるために具体例を挙げよう。
まず、p.11で紹介されているADHDの出現率についての記述であるが、氏によると『アメリカでは、小学生の3〜5%にこのADHDはみられるものである』ということだ。確かに、それはそうなのかもしれない。しかしこの本は日本人医師の手によって日本語で書かれた日本人向けの本である。日本のデータが全く提示されていないのはなぜなのか?正確なデータがたとえないとしても、日本における出現率に触れるのが普通ではないのか?読み手にとってはアメリカのことはアメリカのことなのであって、知りたいことは「じゃ日本ではどうなの」ということに他ならないのではないか。
著者が、典型的なADHD症状をもった子どもたちについてはっきりしたイメージももたず、おそらくあまり症例も診ていないであろうことは(3)で指摘した「不適切な事例の紹介」からも見て取ることができるのだが、氏の偏ったADHD知識はそれだけではない。氏は「ADHDの子どもたち」(セリコウィッツ著、中根晃・山田佐登留訳、金剛出版)という本からADHD児の行動パターンをひいて「紹介」している。その中でADHDに重複しやすい精神疾患に触れているのだが、どの本を見てもまずあつかわれているはずのLDや鬱といった疾患ではなく、どういうわけかODD/CDについてのみ詳しく「説明」しているのだ。しかも、その節の締めくくりとしてこのようなことが書かれているのだ。引用してみよう。
『このようにADHDの子どもたちがやがて反抗挑戦性障害、そしてまた、さらに年齢が高くなって行為障害を合併していくことはきわめて憂慮すべきことである。そこに至らないためにも、ADHDを早期に治療することが重要なことだと考えられる』
本来、この項目についてはADHD児全体の中でODD/CDが重複するケースがどの程度あるのか、というデータが示されていなければならないし、ODD/CDを重複しないADHD児と重複するケースとは全く異なったタイプであることにもきちんと触れるべきである。それらの事実がまったく読者に知らされないまま『ADHDの子どもたちがODD、(中略)CDを合併していく』ことを『憂慮』している町沢氏の記述からは、まるですべてのADHD児が「治療を受けずに放置しておくとODDやCDという大変な問題児になってしまうぞ」と脅されているような印象すら受けてしまう。
このことは何を意味するのだろうか?おそらく、氏は実際には「ADHDについてのまとまった知識はない」のだ。氏が参考文献として挙げている数点の資料のうち1、2冊でも丁寧に読んであれば、このような記述はありえないのだから。事実、氏は第6章において『CDを伴うADHDとCDを伴わないADHDは異なる遺伝タイプである』と述べており(p.174)、『この両者は明白に違ったものである』という研究結果まで“紹介”している(p.169)。第3章でも『遺伝的な研究では、ADHDと行為障害は病院論的には別なものであることがわかっている』と書いている(p.83)。にもかかわらず、第4章においては『このようにADHDの治療を受けないと、中学生ぐらいになると「行為障害」といって、他人を傷つけたり、万引きをしたり、嘘をついたり、世間的な常識の規約を破ったり、といういわゆる非行少年に移っていくことがかなり見られる』などという記述をしている(p.103)。このあとで氏はADHDとCDが異なる疾患であることに申し訳程度に触れているが、そのあとでCDは『環境や母親のしつけ、養育態度に大きく影響を受けてできあがるもの』だと言っているのである!このようなところで「母原病」的説明が出現するとは驚いた。確かにCDをもつ子どもの親には反社会的な人格が多いというデータはあるが、これは環境ではなく遺伝的な要因が強く関係していることを意味するものだ。
氏は続くp.113においても『ADHDの子どもたちは、最初はADHDだけであることが多いが、後に反抗挑戦性障害が表れ(原文ママ)、最終的には行為障害に進むケースもみられる』と書いているがこれも事実に反する。ODD/CDを重複するADHD児たちは、幼少期から大変に乱暴で扱いにくく、多くの問題行動を頻発するという研究結果は専門家の間では広く共有されているのだ。
もう少し具体例を挙げよう。
著者は、第4章4節『ADHDの治療』において、リタリンの効果について書いている。『リタリンに反応するのはアメリカでは70〜80%ということになっているが、日本では25、6%程度と、私の治療上の数字では出ている』『したがって私のデータで見る限り、アメリカのデータをそのまま日本人に適用することは困難』(p.117)である、と。
氏はどうやら、ご自身がADHDと診断した人たちのうちにかなりの割合で非ADHD児・者が存在した可能性については全く考えておられないらしい。だいいち、『25、6%』などという話は他の専門機関のデータでも見たことがないし、日本においてもやはり投薬治療が必要な場合のfirst
choiceはリタリンである。投薬した効果が3割にも満たない薬がfirst
choiceになどなり得るだろうか?否。
おまけに、氏はアメリカのデータを鵜呑みにするな、というような内容のことを書いているがこの本で紹介されているデータも、研究結果も、一つ残らずアメリカのものではないか。アメリカのデータばかりで構成された本を出しておいて、『アメリカのデータをそのまま日本人に適用することは困難』だ、とは!
さらに氏は続けて、『全ての薬は日本人とアメリカ人では違う』『そもそも使う薬の量自体が、アメリカ人のほうが十倍も多いことが多い』『それほど日本人はデリケート』『効果についてもアメリカとはいささか異なる』と述べている(p.118)。医療現場における薬の使い方についての詳しいことは私にはわからないけれども、人種が違うから薬の効き方が違う、というのはかなり乱暴な議論ではないだろうか。しかし問題なのはこの記述自体ではなく、そう「指摘」する町沢氏自身の薬の使い方である。氏は、同じ4節において自身が診察したという高校2年の男子の症例を紹介しているのだが、なんといきなり『彼にリタリン2錠を与え』ているのだ(p.121)!
日本で用いることのできるリタリンの錠剤は10mgのもの1種類である(あとは散剤になる)。“適量”は人によって異なるので、様子を見ながらその本人にとって(効果と副作用を天秤にかけつつ、さらに他の薬との併用等も必要に応じて検討しつつ)最も適当な服用量を決めていくのがセオリーであり、その場合にも「少量からはじめて、あまり効果が現れなければ徐々に増量しながら様子を見る」べきであるとどの参考文献を見ても書いてある(日本における数少ない成人ADHD専門医である私の主治医も同様のことを説明してくれた)。基本的には5mgからはじめてさらに5mg単位の幅で適量を探っていく(もっと少量でも効く人には効く。ADHDの症状の重さとその人にとっての“適量”は必ずしも比例しない)のだが、リタリンの場合は多すぎると効果がないばかりか非常に不快な副作用に襲われるばかりか大変危険なことになる(だって劇薬指定の薬だよ)ため、投薬に当たっては細心の注意が必要なはずなのだ。にもかかわらず、町沢氏はまだ高校生のこの少年に、いきなり20mgを処方している。「日本人はデリケート」「アメリカのほうが薬の使用量が多い」などと書いているご本人が、である、これは一体どういうことなのか。その「薬の使用量が十倍多い」はずのアメリカの医師が、実際にその著書の中で投薬に触れたくだりでは「できるだけ少量(5mg)からはじめて様子を見ていく」と現に記述しているのだが(そしてその本は、町沢氏が参考文献として挙げているものである)。
ちなみに他のページでは、少ない量からはじめて徐々に増やす、ということもしっかり書かれており、日本では一日の量が『20mg〜30mg』であるらしい(p.76)が、町沢氏は件の高校生に対して一日の適量を一回分として処方したのだろうか?また、ここでも『ヨーロッパやアメリカでは、一日60mgに達する』として、その処方量の多さを批判しているけれども、リタリンの安易な使用が問題になっているのは基本的に北米文化圏のみである。ヨーロッパにおいては「ADHDを治療すべきかどうか」ということ自体が疑問視されている(どちらかというと、脳の障害とか言うよりは個性としてと捉えようという傾向が大きい)という事実と全く反した記述なのだ。
リタリンに関していえば、氏は「休みの日にも服用するかどうか」ということに関して『飲まなくてもいいのではないか、という考えがあるが、休みの日であってもコンスタントに薬を飲んだ方が子どもは安定する、という意見が有力』だと述べているがどこにその根拠があるのだろうか。多くの医師は、不必要な時にまで薬を飲む必要はないと考えているというのに。繰り返すがリタリンは劇薬指定の薬なのだ。そして、基本的には「服んでから数時間の間だけ効いている薬」である。安易に『コンスタントに飲んだ方が安定する』などと言えるものではない。確かに私自身のことを考えてみれば、休みの日でも教会へ行くなど何人もの人と会わなければいけない状況の時などには服薬している方がずっと楽ではある。けれども、特に外出するわけでもなく家でゆっくり過ごす時など、特に薬の助けが必要ではない場合もあるのだ。薬の作用もさることながら、休みの日の過ごし方などは人それぞれである。私の知る限り、「休薬日を設けて、必要以上に薬を飲むことを避け、さらに体が薬に慣れてしまうことを防ぐ」ことが大切だと考えている専門医の方が圧倒的に多い。ウイークデーであっても、それほど忙しくない時であれば必ずしも一日数回服用する必要はないだろう。降圧剤ではあるまいし、『コンスタントに飲んだ方が安定する』というのはどういう論理なのだろう?
まだまだ細かく指摘していきたいところであるが、きりがない。ここからは「問題」箇所を指摘するにとどめるが、いずれにせよ町沢氏がADHD児・者およびその研究・臨床についてまったくわかってはいないことは明白であると言えるだろう(今までに行った指摘で充分であるはずだが、あまりにもムカつく記述があるのであえて指摘する)。
p.26-27において紹介されている中2男子の事例。『それほど多動や、あるいは衝動性の強い雰囲気を感じ』なかったと町沢氏は書いているが、わずかその3行あとに『ただ、私が会った時に気づいたのは、彼がじっとしていないということであった』と書かれているではないか。これには爆笑してしまった。「じっとしていない」のはまさに「多動」ではないか(笑)。その直後では『落ち着きのなさは顕著であった』とまで書いてある。
氏は要するに「多動」というのを、もっと激しく動き回る(歩いたり走ったり飛んだり跳ねたり?)ことだと思っているのだろう。その後のページ(pp.30-35)でご丁寧にDSMとICDの診断基準まで持ち出しているというのに、「多動性」の基準に「手足をそわそわと動かし…」「座っていることを要求される状況で席を離れる」などの項目が含まれているのをご存知ないのだろうか?
第4章3節「私がADHDと診断した青年たち」で紹介されている2事例中の一つである小4男子のケース(pp.107-108)では、学校内でナイフを持って暴れた子について、『このような子どもでさえ、ADHDという診断がなされていなかったのである』などという驚くべき記述をしている。まるで、学校内でナイフを振り回して走り回るほどの暴力的な問題行動を持っている子をADHDだと診断しないのは医者の手落ちだ、と言っているかのようではないか。裏を返せば、それほど激しい問題行動を持っているのがADHD児である、と言っているのと同じである。
氏は続けて『日本の医者の診断能力の遅れ、治療能力の遅れは、このような子どもがナイフを持って学校を走り回る、という状態を見るはめになっている』と述べ、親は『「これは何らかの精神障害だ、そうでしかあり得ない」と思っているにもかかわらず、医者のほうがそれを診断できないとは、いかにも情けない日本』であると嘆いているが、このくだりから氏が言おうとしていることをまとめるとこうなるだろう。
「ADHDなどという大変な精神障害を抱えている子を診断し、治療しなければ学校などで暴力的な問題行動を起こす。それを未然に防ぐために医者は診断能力、治療能力を上げるべきだ」と。確かに日本の医療機関におけるADHDの診断、治療はまだまだ全体的にあまり進んではいないし意識の低い医師も多いと聞くから、「医師のレベルを上げるべし」という主張に異論はない。しかし、ADHDという中枢神経系に原因がある(と考えられている)軽度発達障害を持つ子どもたちがすべて、「暴力的な問題行動をもつようになる精神障害者である」と言わんばかりの主張は到底受け入れることができない。
(3)でもとりあげた、家庭内暴力のある中学生のケースにおいては、著者はADHDの要因として『(彼が)低体重で生まれた』ことを挙げているのだが、『この場合には、全く遺伝はないものであった』と断言している。なぜか。その根拠は『(彼の)父親は普通の会社員であり、母親は学校の教師であった』ということであった。
まったくもってお粗末な話である。「普通の会社員」や「学校の教師」であってもADHDを持って(診断はされていなくても)生活している人たちはたくさんいるのだし、遺伝について言及するためには両親がどうこうと言うだけでは不十分である。このケースに遺伝が絡んでいるのか否かはまったくわからないけれども、少なくとも「遺伝はない」と断言する理由が「親が二人とも真っ当な社会生活を送っているから」では、筆者のADHD認識のお粗末さが知れるというものである。氏にとっては、よほど社会的に破綻した生活を送っていたり、周囲とトラブルを頻発して問題視されていなければADHDだとは感じられないのだろう。この本において、暴力的な問題行動をもつケースばかりを取り上げているのも、どうやらそのあたりの偏った認識と関係がありそうである。
町沢氏はp.27において、ADHDの診断を行う時には『子どものボーダーラインという診断も考えなければならない』と唐突に書いている。ADHDと間違えやすい疾患は確かに多いが、それにしても鑑別診断について触れるならば、もっと先にあつかわなければいけない疾患はいくらでもある。にもかかわらず、この本ではほぼボーダーライン(これは知的なボーダーラインという意味ではなく、いわゆる「境界型人格障害」と言われるものであろう)にしか言及されていない。おまけに、『考えなければならない』と書いたその直後に『しかしボーダーラインの人たちは、概して人の前では落ち着いている』『集中は可能』『多動は見られない』などと言っているではないか。舌の根も乾かぬうちに、である。そんなもの鑑別もへったくれもないではないか。人前で落ち着いていて集中できて多動がないのであればどこからどう見てもADHDではない(笑)。続いての記述はこうである。『集中力の低下、多動性、衝動性が全てみられ、彼はADHDと診断された。ボーダーラインには集中力があり、また注意が逸らされて、集中力を失うということもない。したがってボーダーラインの可能性は低い。しかし一般にはボーダーラインと診断されている中に、かなりADHDが含まれていることは事実である』−めちゃくちゃである。
“国内におけるボーダーラインの権威”である(らしい)町沢氏としては、やはり守備範囲に触れないではいられなかったのかもしれないがこれははっきり言って蛇足というものである。唐突にこんな記述が出てくる必然性は文脈上どこにもないのだ。たとえば鑑別ということで言えば、アスペルガー症候群との関係などについてこの本で一切触れられていないのは不自然ではないか。LDについてもろくすっぽ触れていないのもおかしな話である。
町沢氏は、ADHD児を連れて受診する母親(なぜか町沢氏って“母親”限定(笑)。父親は育児参加しろとしか書いてない。母親だけにあれこれ背負わせたいらしい。母原病好きそうだし)に対して『ADHDの子どもと遊んでくれそうな子どもたちを集めて、お食事会を開いたらどうでしょうか』と勧めることがあるらしい。友だちの中でルール違反があった時に、『母親がすぐに飛んでいって』ルールについて話し合い、その行動を止めるという実践をするべきなのだそうで、こういった『母親の努力はぜひとも必要なもの』であるという(p.101)。
集団のルールを教えるために友だちを「お食事会」とやらで釣っておいて我が子の訓練に利用する、という発想自体もものすごいものがあるが(もちろん、遊びに行ったり来たりという自然な交友関係の中で、必要に応じて親が介入することは大事なことであると思うけれど、介入するために人を呼ぶ、というのは本末転倒ではないか?)、『ADHDの子どもと遊んでくれそうな子どもたち』とは言うに事欠いてなんという表現だろう。そんな言い方をされた親の気持ちはいかばかりだろうか。
この手の失礼な表現はあちこちに見られるのだが、氏の(ADHD児に限らず)対患者観がにじみ出ているようで興味深いと同時に、当事者としてはやはり大変腹立たしく感じる。
さて、ADHDをもつ幼児の行動について町沢氏はp.89で『子どもは親子で十分に遊んでいるならば大抵は落ち着いている』と述べ、あたかも落ち着きのない子どもが十分に親から遊んでもらっていないかのような書き方をしている。それだけでなく『やや多動気味かもしれないが、しかしそれは耐えられないレベルではない』『数時間もずっと多動であるわけはないからであり、ほんの僅か数分であることが多い』などと、現実を全く無視した記述を行っているのだ。
実際には、単に幼児だからよく動くといったレベルをはるかに超越して、「エンジンで動かされるように」(DSMの「多動性」診断基準項目)絶えず激しく動き回り、周囲が疲れ果てているケースが多いのだ。「耐えられない程度ではない動きが数分でおさまり、十分に遊んでやれば落ち着いている」のなら、そのほとんどはたぶん非ADHDの幼児である。
要するに、著者のADHDに対する現状認識はこの程度なのだ。
同様に現状認識が全くできていない証拠は、成人ADHDについての記述でもみられる。「大人のADHD」について、その現状や治療についてずいぶんな高説を述べ、「成人ADHD者と仕事をするのは(時間を守らなかったり繊細さが欠けているので)とても大変だ」などと書いた直後になんと著者は『大人のADHDという目でみても、日本ではなかなか出会うことがない』などととんでもないことを言っているのだ(p.138)。
きっかけが「片づけられない女たち」という(ややイレギュラーな)文脈であったにせよ、現在ADHDを疑って医療機関を受診する成人がどれだけ溢れ、まともに診断してもらえず途方に暮れているのか、成人ADHDを診察している数少ない医療機関の初診を2年も待たなければいけない人たちがどれだけたくさんいるのか、町沢氏は全く知らないのである!それを「成人ADHDとはなかなか出会うことがない」とは…。
仮に、精神科医にとって「片づけられない女」=ADHDというのがやや眉唾であるとしても(私も、片づけられない人がみなADHDである、などとは思っていない)、それでも受診希望者が殺到したりメディアなどで取り上げられることも増えてきている現状を少しでも知っていればそんな書き方はできないはずである。なかなか笑えるのは、著者が成人ADHDを診たことがないのは『日本ではまだ、ADHDと診断された子が大人になっていない可能性が高い』からであると述べ、『既に大人の中には大人のADHDがいるとしても、そのために検出できない』のだ、などと言っていることだ。「ADHDの診断を受けた子がまだ大人になってないから大人のADHDは“検出”(って何だ)できない」とは、何ともわけのわからぬ理屈ではないか。DSMやICDのところで、「大人のADHD」の診断基準として「ユタの診断基準」まで持ち出している町沢氏であるというのに、大人のADHDを“検出”できない、だから症例を診たことがない、というのは一体どういうことなのか?
いずれにせよ、これは一種潔い態度なのかもしれないが(笑)、成人ADHDについての章では町沢氏はご自身の診た症例は一切出さず、サダース&カンデルの本に出てくる症例だけを紹介している。本当に診たことがないのだろう。そして、診たことがないばかりか成人ADHDをとりまく現状(たとえば、NPOが活動しはじめて当事者の自助努力からいろいろな試みがはじまっていることも、多くの受診希望者が病院で門前払いをくらって辛い思いをしていることも)を何も知らないのだろう。
さて、この本では、ADHD児の行動を改善させるための手だてとして、「その日の行動を振り返ってカレンダーに印をつけ、その印の数によってごほうびをあげる」方法が紹介されている。しかも何回も(p.98、p.104、p.203)。「筆者はこうするのがよいと思っている」と、まるで“町沢オリジナル”のような書き方をしているが、これは単なるトークン・エコノミーであり、町沢氏に今更教えていただかなくても現場ではとっくの昔に定着している方法であって、こんなことを今頃言っていることからして氏がADHD臨床の現場を全く知らないのは明白である。
そもそも、p.202においてトークン・エコノミーについて触れる中で『トークン・エコノミーによる行動の調整というのは、やはり人工的なトークンを使うだけに、やや不自然なようにみえる』ので、カレンダーの印を用いるのだと町沢氏は書いている。レスポンスコストとのきちんとした区別もないままに書かれているこの文章であるが、知ったふうに書いている割にはポーカーチップなどの“手に取れる”トークンを使うのだけがトークン・エコノミーだと思いこんでいるあたりが半可通の恥ずかしさである。カレンダーのマークであろうと何だろうと、「ごほうび」現物を得るためにポイントをためなければいけないというシステム自体がトークン・エコノミーなのだ。
著者の勧める「今日はよくできた」とか「今日はいまいち」といった”行動評価”を一日の終わりにする、というやり方も杜撰である。ADHD児は自分の行動を振り返るのが苦手だし、「何をどうする」という行動目標も具体的に示されなければわからない場合が多い。それなのに漠然と「今日はよかった」「今日は普通」では、適切な振り返りができようはずもない。
ABAを学問的バックボーンとするばじるとしては、p.204にある「タイムアウト」の説明にも一言文句を付けなければならない。町沢氏は、タイムアウトについて『「さあ、何もしないでそこに立っていてちょうだい」と言うことによって、何もしない時間に耐えるようにトレーニングすると同時に、荒れた行動を止めるという働きを期待するもの』であり、『ある意味で罰であると同時に、じっとしていることを学ぶというもの』だと説明しているがとんでもない大間違いである。
タイムアウトは確かに罰としての機能を持つが、それ以上に「不適切行動によって本人が強化を得られないようにする」ためのものである。つまり、暴れることで注目されたり周囲の人々がその子の行動に反応することで“問題行動”をエスカレートさせてしまう状況を回避し、さらに親や教師がその子の行動に感情的になることをも防ぐ、ことをも目的とするものなのだ。タイムアウトとは決して、氏が言うような、まるで昔の小学校の「廊下に立ってなさい」的な対処ではないし、だいいち、そもそもADHD児が『何もしないでそこに立って』いられるならば本人にとって苦労はないのだ。じっとしていなければならない状況だと「わかっているのにできない」ことが私たちの困難なのだから。
氏がこのように明らかな間違いを平気で犯せるのはなぜか。
いかなるクライエント=患者も、他の臨床家も、他の理論的立場に基づく技法も、一切尊重する気持ちがないからに他ならないのではないか。氏の無知を笑うだけなら簡単だが、それだけで済ませるわけにはいかない。「誤解でした」「理解が足りませんでした」では済まされないことを、町沢氏はすでにやってしまっているのだ(そもそもそんなこと言わないだろうが)。
もうひとつ、これはごく素朴な疑問として「なぜこの本には不注意優性型のADD児の事例がひとつも(ものの見事にひとつも!)紹介されていないのか?」と思う。確かに多動や衝動性が低く、妨害的な問題行動を持つことのないADD児が筆者のいる医療機関を受診する機会は多くはないかもしれない。しかし、かりにも「ADHD」というタイトルの本を出すのであれば、「“H(hyperactivity--多動)”のないADD」についてもきちんと触れなければまったく不十分ではないか。仮に紹介できる事例を全く持っていないのだとしても、筆者が多少なりともADHDのことを知り、学んでいるならばADD児の直面する困難や学校・家庭場面で出てくる問題などについてきちんと言及されていなければ嘘である。「“H”のないADD」を持つ子たちは確かに学校などで周囲が迷惑するような問題行動を示すことは少ないが、本人の中での混乱や秩序のなさ、生活上での困難などは「“H”のある子」たちと同様に存在するのだ。言い換えれば、多動のある子もない子も、本人は「同じように困っている」のだ。
町沢氏の視点は困難を抱える本人を援助するというところではなく、表面化する暴力などの問題行動や反社会的行動で「困らされる」側にある。だから「放っておくと大変なことになる」と「憂慮」し、「入院が必要だ」「治療しなければならぬ」と勧めるのである。そういった意味で「“H”のない子」たちは町沢氏の眼中にはないのだろう。本人がどれだけ苦痛を感じ、困っているとしても、である。
まあ、反社会的な問題がないのであれば医者の出番はない(学校や家庭の範囲でやればよい)と思っているのかもしれないが、だとしたらそれも随分お粗末な認識であるといわざるをえない。医療的なケアを必要としているという点では、多動があろうがなかろうが違うものではないというのに。
(5)それ以前の大問題
<1>意味不明の日本語文
これについては、出版社の良識をも強く疑うものだ。校正等のチェックは入っていないのだろうか?それとも、町沢氏ほどの“大御所”にもなると、下手に編集チェックを入れてご機嫌を損ねたらまずい、とかいう判断が働くのだろうか?
私も、指導教官が編者になっている専門書の翻訳に関わったことが一度だけあるのだが(どこの何という本かは聞かないでください(^^; 大学院生時代の、こなれてないへたくそな訳が今読み返すと恥ずかしい…)、普通は送った原稿が本になる前に、出版社から著者あてにゲラ刷りというやつが来て、ここに著者自身がチェックを入れることになっているはずである(それ以前に、出版社に送る前にせめて日本語として齟齬がない程度の推敲はするのが常識だと思うが)。
だれかまともな日本語感覚を持っている人がきちんとチェックしていればこんな悪文の嵐はありえないと思うのだが、あまりのことに呆れてしまった。ここに、本文からいくつかの文章を実際に引用してみる。
(前略)この家には父親がおらず、つまり父親は外国へブラッと行ったまま帰らなかった(p.26)。
DSM−Wはいうまでもなくアメリカ精神医学会の作成したものであり、DSM−Wと名づけられている(p.36)。
ADHDへの前駆状態への興味というものは、北アメリカではしばしば脳炎の疫学調査、つまり1917年から1918年の発症に辿っているものである(p.49)。
※この文章については<3>で触れる「英文直訳風の奇妙な記述」にあたると考えられる(ばじる注)。
かくて多動というのは、実際多次元的なものであり、子どもにとって多動はその状況によって現れるものである。このように今まで中心的概念であった多動から、注意力の欠陥へと移っていったのである(p.58)。
※これも前後の記述から見てへたくそな「英文直訳」ではないかと推察される(同上)。
診断というと、脳波やMRI、PETといったスキャンを思い浮かべる人がいるかもしれないが、確かに研究レベルではMRI、PETでは右脳の前頭前野と尾状核や線状体の異常が、PETなどでは知られているものである(p.108)。
やはり慣れているということは、自然に中学生と小学生のADHDの子どもに手が伸びて、二人の喧嘩をわけ、一人の大騒ぎを体を抱いて鎮め、といったふうにうまく対応していた(p.114)。
挙げるときりがないのでこのへんにしておく。
書かれている内容が不適切だったり不正確だったりするのも言語道断だが、そもそも日本語として意味をなしていない文章があまりに多いのだ。
これらの、意味不明の日本語文に関しては二つに大別できるのではないかというのが読んでみての私の印象だ。すなわち、引用部分の注釈にも書いてある「英文直訳」風の奇妙な記述(英語特有の言い回しや表現、また明らかな誤訳とみられるものも少なくない。いちいち挙げないが−これもきりがないので)、そして考えなしに書き飛ばしたとおぼしき、文章そのものが日本語文法的に破綻している記述、である(なぜ「英文直訳」が頻出するのかは<3>を参照)。
いずれにしても、著者の態度は読者に対して極めて不誠実であると言わざるを得ない。なにしろ、これらのひどすぎる文章にあふれた本を、読者はお金を出して買うのだ。お金を払ってもらうものが、読む(見る、聞く)に耐える作品、可能な限り完成度の高さを追求した作品を世に出すための努力をするのがプロとしての態度であり、礼儀ではないのだろうか?少なくともこのような杜撰な書物を平気で出版する神経は、私には理解できない。
<2>用語の不統一性
分担執筆、すなわち複数の著者によって書かれたものをまとめた本の場合、ひとつの用語が異なる表記の仕方で書かれていることがある。全体をまとめる編者がいなかったり、または編者が用語の統一にこだわらない場合もあるのか、この手の不統一は意外に多い。あまり美しくはないし適当でもないと個人的には思うが、複数の著者によるものであればまあ許容範囲なのかもしれない。
しかしこの本の場合、町沢氏が一人で執筆した(ことになっている)にもかかわらず、専門用語の不統一性が目立つのだ。
たとえば、ADHDの症状を改善するためのfirst
choiceとして用いられることの多いリタリンという薬についてだけでも、「リタリン」「メチルフェニデート(p.167など)」(6章では「メチルフェニデートつまりリタリン」と解説してあるが、これらのバラバラな表記はこの“解説”よりもあとに出現するのである。当然表記は統一すべきはずのところである)、さらにその分類についても「中枢興奮剤」「精神興奮薬(第6章の図表内限定の表現)」「中枢刺激剤(p.120一カ所のみ)」という三種類の表記がある。ちなみに他の専門書では「中枢(神経)刺激剤」と表記されていることが多く、主として使われている前者二つの表記はそういった意味でもこの種の書物においてはあまり一般的なものとはいえないだろう(別に間違いではないのだが)。
他にも、「感情障害」「大うつ病性障害」「うつ病」「大うつ病」(全て第6章3節内における表記)「双極性障害」「躁病」(同、第4節における表記)など、何の注釈も前触れもなくさまざまな分類や表記が登場しているところもあり、何がどれとどう違うのか、一般の読者にはまったくわからないであろうし、「感情障害」「双極性障害」といった診断名が何を表すのかということ自体、一般社会においてその定義はほとんど知られていないはずだ(メンタルヘルスにかかわる仕事をしている人以外にはほぼ無用の知識である)。
用語ではないが、「ADHDの子どもたち」の著者であるSelikowitzの日本語表記「セルコウィッツ」「セルコウィッチ(p.16)」「セリコウィッツ(p.20)」もまちまちである(ちなみに、参考文献に挙げられた中根・山田訳による翻訳書では「セリコウィッツ」となっている)。外国人名は発音通りの日本語表記が困難な場合も多く、複数の表記が存在すること自体は不自然ではないが、一人の著者が書いた一冊の本の、しかもたった4〜5ページの中に何種類も出てくるとなれば問題である。校正でチェックされている様子のないことも含め、かなりいい加減な仕事だと言わざるを得ない。
この「用語の不統一性」をひとつの項目にするにあたっては、その他の問題点があまりに大きすぎてこのことがまるで重箱の隅のように感じられ、このコラムにおいて扱うかどうか悩むところであった。
しかし、町沢氏のネームバリューとわかりやすい書名、手頃な価格とボリュームからして一般読者が手に取る機会が少なくないであろうことから考え、似たような複数の表記が解説・注釈なく乱発され、同じ章の中で同じものが異なる表記で記されていることは読者に不必要な混乱をもたらすものだということを指摘するべきだという結論に達したのだ。
少なくとも専門家が”原著”(翻訳ではなく、という意味)で本を著す場合、少なくとも専門用語の使い方くらいには厳密になるべきではないのか。
他にも、「ADHD児」とか「ADHDをもつ人」などと書くべきところで単に「ADHD」と表記されているところも目立つ。用語の不統一とは言えないかもしれないが、失礼な話だ。私たちは障害を持っているけれども、障害そのものではない。私はADHDを持っているが、私イコール「ADHDという障害」ではない。ADHDは私の属性であり一部である。氏は事例紹介の中で、治療の結果その子は『実に静かなADHDの中学生になった』などという書き方(p.123)までしている。こんな表現があるだろうか。治療によって行動改善が見られたことを伝えるのに、いちいち『「ADHDの」中学生』などという書き方をする必要はどこにもない。診断名という”ラベル”を殊更に強調する氏の姿勢は、現代の障害観がまったくわかっていないという以上に不愉快である。
<3>“引用”の取り扱いと英文直訳風の奇妙な記述の出現について
実は、このコラムの“メインディッシュ”は「これ」である。
私は町沢氏を誹謗中傷するつもりはないけれども、でもやっぱり平気でこんなことをしてしまう氏の常識を、モラルを、この本を見れば疑わざるを得ないのだ。
町沢氏はこの本で一体何をしているのか?
一言で言えば、それはあまりといえば多すぎる“引用”(と言ってよければ)である。
他の専門書から、すぐれた知見や研究結果、新説などなどを引用すること自体は当然あって不思議はないし、逆に他の研究者の業績をどれだけ把握しているかによって、著者のその問題への真摯さが伺えようというものではある。しかし、それは集められた文献を著者がきちんと読みこなし、著者自身の中で消化し、さらに他者の仕事は他者の仕事としてきちんと紹介できるなら、の話だ。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれない。百聞は一見にしかず、とにかく具体例を引こう。ここで取り上げるのは第1章、第4章、第5章である。その理由は後で述べる。
第1章「ADHDとは何か」(pp.10-43)において、私が確認できた「引用」は以下の通りである。
町沢氏による「『ADHDの典型的な症状を持った』事例紹介」の後、p.15で突然『セリコウィッツの考えでADHDの行動パターンを説明してみよう』という一文が出てきた後の部分である。
◆p.15 11〜14行目:文献(1)p.17の記述を端折り、「セリコウィッツによると」「〜というように挙げている」という文頭、文尾を付け加えたのみ(ちなみに日本語表現等は原著を中根・佐藤が訳したものとほぼ、全く同一)。
◆p.15 15行目〜p.16 9行目:同p.18の記述を端折ったもの。
★p.16 10行目〜p.20 1行目:同pp.18-23の本文をほぼ丸写ししている。申し訳程度に「セリコウィッチ(原文ママ・ばじる注)によれば」「〜と述べている」などと付け加えてはいるが、日本語表現はまるっきりそのままである。しかも、資料において「ADHDに必ず存在する特徴」「存在することのある特徴」と、項目をきちんと区別するための小見出しがついている部分は省略され、ただ項目を列挙したのみの記述となっている。
(※なお、この文に続いては、セリコウィッツの記述が『きわめて具体的でかつ正確に述べているので、彼の言った内容をそのまま引用したものである』という、開き直りともとれる一文(p.20)が続いている。)
◆★p.20 5行目〜p.22 9行目:同pp.72-83の丸写し。ちなみにこれは、ADHDの特徴のうち「自尊心の低さ」について詳しく説明している部分なのだが、セリコウィッツが挙げた(つまり、それを丸写しした町沢氏の文章においても“引用”されている)ADHDの行動特徴は他にもたくさんの項目がある。それだけではなく、「自尊心の低さ」は「ADHDに存在することのある特徴」に分類されており、これだけを取り上げて詳しく説明する必然性はまったくない(それなら、「必ず存在する特徴」に含まれる項目を取り上げるのが筋ではないか?)。実際には、原著においては挙げられている全ての項目についてこのような詳しく具体的な説明を加えているのであり、どう考えてもその中から適当に抜き出してこの項目についての部分だけど丸写ししたとしか考えられないのだ。
★p.22 10行目〜p.24 10行目:同pp.50-52のほぼ丸写しである。ここにも、申し訳程度に「セルコウィッツ(原文ママ:ばじる注)は〜を指摘している」といった一文が付け加えられているだけ。
◆p.24 11行目〜p.25 2行目:同pp.52-54の記述を端折ったもの。
この後、事例紹介が数ページにわたって続く(これらの”事例”についても問題があることは上で既に指摘した通り)。また、次にはDSMとICDの診断基準が紹介されている(pp.30-35)。その後なぜか二つの診断基準に触れているのだが、
◆p.36 1行目〜p.37 7行目:文献(2)pp.24-25における記述内容を端折っている(これも日本語訳の表現をそのまま用いている)のだが、たいへん杜撰なやり方である。原著の言わんとすることは、要するに「二つの診断基準は微妙に違っており、一方の基準には当てはまらないが”ADHD”と診断されるケースが存在しうることになる。しかし、あくまでその子を中心に考えるべきであり、一方の基準に該当しないからといって診断基準にのみこだわるべきではない。」ということであるわけだが、町沢氏の”要約”?によると、『どのような診断基準を用いてADHDとするのかは十分に注意しなければならず、その基の研究がDSM−WならばDSM−Wに従った患者として論ずるべきである』という、まったく意味不明な文章となっているのである。
◆p.41 13行目〜p.42 7行目:同pp.75-76からの杜撰な端折りが行われている。これは、原著者のマンデン&アーセラスが、ビーダーマンという他の研究者の発表した論文のデータを紹介している部分であり、当然町沢氏は元データであるビーダーマンの論文に当たっているわけではない。いわゆる“孫引き”が行われているのだ。また、『ADHDの遺伝性は明白であることになる。特に男性からの遺伝が多い』と書かれている件(p.42)では、原著にある「第二度親族(両親以外の比較的近い親族−3、4親等くらいまでか?−を指す:ばじる注)からの遺伝の可能性では」男性からの遺伝が多いという文意となっているのであり、この端折り方は原文の意図を損なっているという点でも明らかな問題がある。
◆p.42 8行目〜p.43 1行目:同pp.77-78より。もとの訳文から適当に端折ったことは見比べれば明らかであるが、いろいろな研究の結果をたった8行に押し込めた結果、何を言いたいのかさっぱりわからない文章になってしまっている。さらに、これに続く3行(第1章のラスト3行でもある)では『ADHDの原因:今までの研究を総合すると、ADHDとはモノアミンの調節と前頭葉−線状体の神経回路に問題のある、家族遺伝的障害であると現段階では考えられている』という「まとめ」のような文章が書かれているのだが、興味深いことに第1章6〜7節における、ADHDの原因について(資料から引用しまくって)列挙してある本文には“モノアミン”のモの字も、“線状体”の線の字も一切出てきていない。では著者は何をもって『今までの研究を総合すると』などと言うのか。その答えは一つである。つまり、文献(2)とは異なる別の文献から脈絡もなくここの部分だけをひっぱってきているのだ(文献(2)を何度も読み返してみたが、この3行にあたる記述はみられなかった)。
第1章(全33ページ)のうち、DSMとICDの診断基準について書かれている5ページほどを除いた28ページ分のうち、”引用”およびそれに準ずる記述(資料の一部を杜撰に端折ったもの)を合計すると、私が今回調べただけでおよそ14.5ページ分となる。
第4章(pp.88-130)は、既に上でとりあげた「事例」を中心に構成されている。ここは町沢氏のオリジナルといっても差し支えあるまい。また、どういうわけか唐突にODD/CDの診断基準が”引用”されている(第6章で”合併する症状”を独立して扱っているにもかかわらず。しかも、ADHDに重複することの多い疾患のうち、診断基準までご丁寧に引用されているのはODD/CDのみである。町沢氏はよほどこれらの重複を強調したいらしい)ので、ここも除くと、4章のタイトルになっている『ADHDの日常性とその対応』」について包括的に述べた部分は正味25ページほどとなろうか。
事例も含め、氏のオリジナルと思われる部分がいかにひどい文章でありひどい中身であるかについては既に述べた。ここでは、“引用”についての指摘にとどめよう。
★p.126 1行目〜13行目:文献(3)p.308で紹介されている「ADHDの子に学校で見られる問題」リストの丸写し。
◆p.127 4行目〜13行目:同pp.309-310の記述を端折ったもの。しかも、「ADHDといってもサブタイプごとに特徴も異なり、対応もそれぞれに応じたものになる」という非常に重要な主旨の内容を述べた部分であるにも関わらず、『このようにメアリー・ファウラーは付け加えている』などと書いているのだ。原著者ファウラーは「付け加えて」などいない。サブタイプごとの違いを重要視しているから、そのことについて丁寧に記述しているのである。
なお、このあとに続く『バークリー博士の説明によると〜』以下の部分も、訳本は出ていないが参考文献に挙げられているBarkley.R.A(1998)からの“引用”であることが推察される。参考文献リストに含まれていないのに何故か“引用”されているとおぼしきハロウェル(「へんてこな贈り物」の著者の一人)による研究結果は“孫引き”であろうか?それとも、原著からの“引用”であるにもかかわらず参考文献のリストから漏れているのであろうか?
さて、圧巻なのは第5章(pp.132-163)である。思えば私が最初に疑問を抱いたのも第5章のあたりをめくっていたのがはじまりだった。1節の”元ネタ”については不明だが、筆者が重視していると思われる『ADHDのバイブル(p.46)』Barkley(1998)あたりだろうか。ちなみにこの節においては参考文献にまったく挙げられていない研究者の名前とその研究成果を紹介してあるのだが、興味深い記述がここに見られる。p.133の3行目に『先ほど、ADHDの大人の中には非常に創造的な仕事をする人がいる、と述べたが』これは単なる仮説であると言われている、という一文があるのだが、何と興味深いことに、ここより前のどこにも『ADHDの大人の中には非常に創造的な仕事をする』などという主旨の記述は一切、ないのだ。従って、元ネタになった原著に書かれていた文章(を訳したもの)を何も考えずにそのままもってきたのだろうと推察できる。
確かに、これは単なる”推察”に過ぎないかもしれない。では、以下の事実はどうか。
★◆p.139 6行目〜p.140 11行目:文献(4)pp.72-73の訳文を前半はそっくりそのまま、語尾だけを本文に合わせる形で”だ・である調”に書き換えたもの(以下の”引用部分”も同様の処理が行われている)。後半は多少端折ってある。
★◆p.140 14行目〜p.141 3行目:同p.73で紹介されている事例そのまま(丸写し)。ちなみに、ここ第3節は『大人のADHDについて』という見出しがついているが、原著においてはこの事例に「子育てのまずさはADHDの原因とはならないがADHDは子育てのまずさの原因になる」という小見出しが付けられており、町沢氏はこれを無視している。
★p.141 5行目〜9行目:同p.76で紹介されている事例そのまま(丸写し)。
★◆p.141 10行目〜p.144 1行目:同p.172-174で紹介されている事例およびリストの丸写し。そこに、例によって申し訳程度に『このような例から(中略)重要なポイントを彼らは引き出している』などという一文を挟んでいるだけ。
◆p.144 2行目〜4行目:同p.176の記述を端折ったものだが、引用する時に間違ったらしくまったく元の文とは異なった意味合いの内容となっており、たいへん杜撰なやり方である。
◆p.144 5行目〜p.145 1行目:同p.177に書かれている内容を、多少表現を変えてあるもののここも要するに不自然かつ杜撰な端折り方をしているといえよう。
★p.145 4行目〜11行目:同p.220の丸写し。しかも原著ではまるで異なるテーマの章(結婚しているADHDの配偶者について)からの”引用”であり、何の脈絡もなくいきなり飛んでいる。
★p.145 12行目〜14行目:同p.221のほぼ丸写し。
★p.147 1行目〜p.157 3行目:同pp.223-231の9ページ分にわたってそのまま丸写し。これは圧巻である。
★p.157 5行目〜p.160 最終行:同pp.232-235の丸写し。
★p.161 2行目〜p.163 3行目:同pp.264-265の丸写し。しかも孫引き。これは「ADHDの自己診断用チェックリスト」であるが、原著者のマンデン&アーセラスの手によるものではない。原著には「(オリジナル)制作者の許可のもとにこのチェックリストを転載した」と明記してあるのにもかかわらず、町沢氏の本にはそういった注記は一切ない。
計算してみよう。公平を期するため、元ネタのわからない1節については言及しないが、私が把握できた範囲でいえばこの第5章における”引用”部分は、全31ページ強のうち実に約25ページ分にもおよぶ。おまけに杜撰な端折り方をしてあり、原文とはまったく異なった主旨となっている”間違い”まである。こんなものを読む価値はない。訳本も出ているのだから原著である「おとなのADHD」を読むべきである。
著者はここで開き直ったかのように「自分は大人のADHDを見たことがない」ので「おとなのADHD」から紹介するのだと書いているが、そのほとんどが原著からの(しかも、他人が訳した日本語をそのまま持ってきた)引用、というよりもはっきり言ってパクリなのは明らかである。こんなやり方が果たしてまともと言えるだろうか?
さて、なぜここで1、4、5章のみをとりあげたのか。
その答えは、残る2、3、6章の本文を読めばわかる。これら3つの章だけが、例の“英文直訳風の謎の日本語”の嵐なのだ。そして、2、3章の”元ネタ”は(著者も認めている通り)Barkley(1998)であり、6章のそれは参考文献リストから考えるとPliszka(1999)による「合併症状を伴うADHD(ADHD
with Comorbid Disorders)」という本だと考えられる。もう一冊、訳本の出ていない“参考文献”がリストにあるので、ここからの”引用”もあるのかもしれない。
上述した1、4、5章のやり方から考えて、2、3、6章でも著者は原文の英語を訳したものを「そのまま引用」しているのだと考えることができるだろう。それにしても目を覆いたくなるようなわけのわからぬ訳文が頻出するのはなぜなのか?私の考えでは、その理由は二つに一つである。すなわち、「町沢氏自身の英語能力(および日本語能力)がその程度である」、もしくは「ゼミの学生なり学部生なりに授業と称して分担訳をさせ、それをそのままほぼノーチェックで流用した」のどちらかに違いあるまい。そうでなければ、洋書を元ネタとする章に限って奇妙で意味不明な日本語が頻発する理由が説明できないではないか。
だいたい、日本で書かれたものでアメリカ(合衆国)を称して『北アメリカ』などと記述してあるものがどれだけ存在するだろうか。確かに資料ではNorth
Americaと表記してあったのだろうが、一般的な日本人にとって「North
America」=「アメリカ」であり、実際に他の章では町沢氏自身「北アメリカ」などという記述は一切行っていない。また、『ADHDの現在』(第3章)において、1998年までの研究成果しか紹介されていないのはなぜか(この本は今年(2002年)に出版されたものであるにもかかわらず)。答えは、これがBarkley(1998)からのパクリだからだ。コンテンツを見ただけで、ああ、洋書に書かれている内容を直訳してそのまま使っているんだな、ということがわかってしまう底の浅いやり方である。
上で私はこの町沢氏の”著書”を称して「中途半端なモザイク」であると書いた。
しかし、私にできる限りの分析を加えた今、改めて言おう。
この本は、(主にアメリカの研究者による)すぐれたADHD研究書からの中途半端なパクリでできた粗悪なモザイクである。
著者は臨床家のモラルもルールもまるで無視している。いや、そもそも臨床家云々以前に、常識ある人間としての良心を欠いているといわざるをえない。全編にわたってあちこちの本から“引用”、いや、“盗用”してきた記述でつくりあげたモザイクに、全くADHDについてわかっていないことを暴露するかのごとき記述や事例(そして、ここのみが町沢氏のオリジナルである)を付け加えて作った−というより「でっちあげた」−本を平気で出版し、いかにも自分が「ADHDについてよくわかっている医者」であるかのような顔ができる町沢氏の神経を私は疑う。
ちなみに”引用”について挙げた各項目につけた「◆」は、”資料”(という名の”元ネタ”)から、適当に抜粋したか、もしくは杜撰なやり方で端折ってある(決して”要約”と言えるようなものではないのだ)ことを指し、「★」はその部分が”資料”からの丸写しであることを指す。当然、適当に抜粋した上に丸写し、という部分もあるのでこれらの記号が二つともついているケースが存在する。
そもそも、はじめに書いた通り、他書からの“引用”をするのであれば、「ここからここまでが引用である」ということが読者に明確にわかるような形をとり、しかも引用部分には一切手を加えないのが原則である。しかし、これだけ他書からの引用−というよりはっきり言えばパクリ−ばかりでできている本にこれらの原則を適用すればさすがに「著者自身による知見はどこに示されているのか」ということを問われずにはいられないだろう。従って、引用部分を示す明確な記述方法をとらず、しかも「○○によると」とか「〜と○○は述べている」とかいう文章を付け加えたり、”ですます調”で書かれた原著(訳書だが)の語尾を本文にあわせて”だ・である調”に書き直しただけであとは丸写しにしたり、といった小細工(いかなる著作においても完全なるルール違反である)までして、まるで著者が原著の研究をじゅうぶんに理解した上で読者に“紹介”しているかのような錯覚を起こさせるやり方を貫いているのは、間違いなく著者の確信犯である。これを悪質と言わずして何と言おうか。
この本には「おわりに」と題した一連の文章(pp.206-208)が加えられている。
これがまた頭を抱えてしまうような代物なので、最後にとりあげようと思う。ここには町沢氏のADHDに対する姿勢、ひいては知識や臨床経験の貧弱さが凝縮されていると考えるからである。
まず『(ADHDの臨床において)日本では行動療法はほとんどみられない』とあるが、それは医療現場しか(もしくは、それすら)知らない者の発言である。治療教育の現場レベルでは「これは行動療法だ!」とわざわざ銘打たなくても、明らかに行動理論に基づいた指導方法がごく普通に用いられている。また、最近日本各地で親の会を中心に学ばれている「ペアレント・トレーニング」の方法は、ABA(applied
behavior analysis;応用行動分析学※)であると明言されている。
さらに笑えることに『今でもADHDを知らない精神科医、ADHDを知らない小児科医も多い』などと、こんな本を書いたご当人が堂々と言っているとなるともう怒りを通り越して呆れ、呆れを通り越して哀れさえ感じてしまう。
そして医療現場にADHDを知っている人が少ないことを嘆いた文章のあとには、唐突に『少なくとも今学校現場では、教師もADHDを知らないではいられないはずである』という一文が続くのだ。例の、「前触れもなく話が切り替わる」のはあとがきに至っても変わらないようで、ここまで行くとこれが町沢氏の文体なのだろうかと思えてくるほどだ。つまり、「医者がADHDを知らない」と書いてあるあとで→「だからどうだ」「こうあるべきだ」が全然ないのだ。「言っただけ」しかも「言いっぱなし」である。そしていきなり「教師もADHDを知らないではいられない」に飛んでしまう。言いはじめたことを責任をもって完結させようという態度は見られない。
問題はまだまだある。学校現場にあれこれ注文を付ける中で、こんな一文があるのだ。『ADHDの子どもを普通のクラスに入れるのが妥当かどうか』−ADHDについての本を書いて、こんな子もいる、あんな子もいると書いてきたその同じ人間が『ADHDの子ども』を『普通のクラスに入れるのは妥当か』とは、十把一絡げ以外の何物でもないではないか。
次の段落では『今現在のADHDを救うためにも、各学校の工夫がきわめて重要』だと書かれているが、『ADHDを救う』とは一体なんなのか。5−<2>において指摘した、「ADHD児」「ADHDをもつ子ども」と表記すべきところを、まるで「ADHD児」イコール「ADHDという疾患そのもの」としてあつかっているかのような表現である(繰り返すが、この類の表記はこの本の中に何カ所も出てくる。はっきり言って不愉快だ)。『救う』というのもずいぶんおこがましい言い方だと感じる。
この文章に続いては(段落を変えることもなく)『そしてまた、両親のADHDの子どもに対する対応も十分に学ばなければならない』とある。この、主語のないわかりにくい文章で再び「いきなり話変わって」が行われているのだが、ここではADHDが親のせいではないことを理解してもらうべきだ、と述べられたその次に『ただ、ADHDには遺伝性があるので、その辺の配慮はしなければならないかもしれない』という意味不明な文章が続いている。何を言いたいのかさっぱりわからない。『その辺の配慮』とはどのような配慮なのか?
次の段落では、ADHDが単一疾患としてみられることはできない(つまり、複数要因が症状群を形成し、その結果としてADHDと呼ばれる神経学的異常がもたらされるのかもしれない、という考え方。これ自体はまともなADHD研究・臨床に携わる人にとっては常識的な見方である)ことが指摘されているが、そこに続く『そういう覚悟もADHDの治療には必要なことである』という文章が謎である。何をどう『覚悟』すればいいのだろうか?町沢氏自身はどういう『覚悟』をもって“ADHDの治療”に臨んでいるのか?
そしてさらに『ADHDを決まった疾患のように進めていくのにも、やや不安が伴うと言わざるをえない』という一文に至っては、思わず「誰が決まった疾患だなんて言ったんだよッ」という突っ込みを入れたくなるほどのお粗末さである。氏はまるで自分が「ADHD複数要因説」を考えたかのような書き方をしているが、繰り返すとこの見方はとっくのとうに研究・臨床の現場では共有化されたものなのであって、今更町沢氏から『不安が伴うと言わざるをえない』などと言われる筋合いのものではないのだ。ADHDの臨床について書かれたまともな本で、ADHDを『決まった疾患』(これも意味不明なのだが、要するに単一要因によって発症するということか)だなどとしてあつかっているものは皆無である。ここでも氏は『ADHDの現在』(この本の第3章のタイトルだ)について無知であることをさらけ出しているのだ。
町沢氏は次に『日本では、ADHDの本を書いて紹介しても、親は自分の子どもを公にされたといって怒る人がいるものである』などというとんでもない一文を記している。これには猛烈に腹が立った。ADHDと診断されたわが子が学校や地域でどのような困難を抱え、ADHDという概念が知られていなかったために本人や家族がどれだけの苦しみを覚えていたか、という大変な経験を持つ親たちがどれだけ積極的に語り、情報交換を行い、この障害をきちんと理解してもらいたいと願っているかという事実をまったく反する記述である。一体どこの誰が『ADHDの本を書いて紹介』したことで、親から『自分の子どもを公にされた』という抗議を受けたというのか?少なくとも私はそのような話を一切聞いたことがない。
最後の段落において氏は恐ろしいことを言っている。『一番困るのは、隠しておこうとしてADHDの子どもの治療がなされないまま家にいるだけ、という有様である』などと書いており、挙げ句の果てに『日本の人権というのは隠す人権』だと批判されているので、『隠すのではなく、科学的に明らかにし、そして早く改善を得るのが本当の人権だと思われる』などと、いきなり“人権”などという大がかりな表現まで持ち出して意味不明な結び方をしているのである。精神障害者を家の座敷牢に閉じこめていた頃とは時代が違うというのに。氏の主張によれば、『ADHDの病気』をみんなが知ることで周囲からよい対応を受けることができるので、ADHDを明らかにするのが『最終的には一番人道的なやり方』なのだそうである。
いきなり人権の話に飛んでいくのもとんでもない話だが、まるで「ADHDを隠す」ことが一般的であるかのような表現は間違いである。ましてや、このような、不誠実な著者によって書かれた誤謬に満ちた本を読むことでADHDに対する正しい認識がえられるとは私は思わない。逆に偏見と無理解を助長させる危惧すら覚える。
私が問題にしたいもうひとつのことは、この本では日本における具体的な医療・教育・心理といった臨床現場の現状がまったく触れられていないことだ。これでは実際に”使える”情報を求める読者の役には立たない。ADHD児を取り巻く状況を改善するために医療も行政も努力すべきだ、と言葉で書いてあっても、たとえば文部科学省が国立精神・神経センター精神保健研究所に委託して行っていたADHD研究と臨床の事業やその成果について、「えじそんくらぶ」などの民間組織や各地の親の会の地道な努力について、まったく触れられていないのはなぜか。答えは一つしかない。氏は日本におけるADHD研究・臨床の現状を本当はろくに(全く?)知らないのだ。“参考文献”(実はパクリのネタであるに過ぎない本)と称して挙げられている本のうち、翻訳されているうちの一部には日本での現状がきちんと参考資料として付加されているし、それを見るだけでも昨今の国内事情は多少なりともわかるはずなのに、そのことにすら触れられていないのは、とりもなおさず氏がこれらの“参考文献”を通して読むことさえしていない証拠である。
アメリカでの研究成果については、アメリカの臨床家が十分に書いている。私たちはそれを翻訳書によって読むことができるが、日本で出されるオリジナルの著作であれば日本の現状や今までの流れ、これからの具体的な施策や治療教育の方向性などについて述べられていてこそ出版される意味があるというものではないだろうか。
※応用行動分析学(ABA):基礎的な行動理論(いわゆるABC理論)を臨床に応用する学問。長く「行動療法」と呼ばれてきたものは、要するにABAを治療目的で用いるものである。「行動療法」というと未だに「アメとムチ」だの「食べ物でつる(不純な)やり方」だのと思っていて、知りもしないで闇雲に批判する向きもあり、ABAを理論的バックボーンにしている私としては大変心外である。
ただ、「愛があれば…」とか、複雑さや献身を必要以上に美化する傾向のある日本では、どうしてもABAに対して「アメリカ的な合理主義」という印象がついてまわるというのもわからないではない。
今まで日本で出版されていた「ADHD本」のうち、医療や心理の専門家によって書かれていたものはどれも、実際の臨床に役立つたくさんの知見を与えてくれるものであった。著者はみな豊富な事例に接しており、経験豊かな臨床家による説得力に満ちた内容は、それを読む親や教師やADHD者本人や医療・心理職の人々に有用な情報と示唆を与え、予断や偏見を取り去ってくれた。
私が知る限り、ADHD関係の書物で明らかな“悪書”はこれまで一冊だけだった。しかしこの本は、素性のわからない(しかし、明らかに教育者でも臨床家でもない人物)が、あやしげな出版社から出したものであり、ADHD(この本では“ADD”と表記されていた)は「現代の子どもをむしばむ、心の黒死病!」などと、ことさらに不安をあおり立てるような帯がつけられていたトンデモ本であり、まったくお話にはならなかった。
しかし町沢氏の著した「ADHD」本になると事の重大さは違ってくる。氏は精神医療の専門家であり、日本における社会的な影響力も少なくない立場にある人物なのだ。「田中康雄」や「中根晃」(どちらもADHDをはじめとした発達障害児臨床では豊富な経験をもち、良質な英語のテキストを翻訳したりといった功績もたくさんあるドクター。公の場でADHDに関する発言も多く行っており、日本でのADHD理解に大きく貢献している先生方である)の名前は知らなくても「町沢静夫」なら知っているという人は多いだろう。従って当然、氏の書いたものを「ADHDのことをよく知っているであろう有名な先生が書いた本」だと信じて手に取る人の数は上述した”あやしい本”の比ではないはずだ。
この本は、専門家の名を借りた無知なひとりの人物が、さもADHD臨床に広く深く携わってきたかのような顔をして、しかし実際にはまともに事例を見ていないことを隠すために、定評のある文献(未翻訳本含む−いくら何でも全部が翻訳本ではハクがつかないと思ったのかどうか知らないが)から失敬してきた内容を用いて−というか失敬してきた部分のほうが圧倒的に多いわけだが−書いた「やっつけ仕事」の産物である。現時点では国内で唯一、「まどもにADHDを知りもしない“臨床家”によって書かれたADHD本」だと言えるだろう(他にももしかしたらあるのかもしれないが私は寡聞にして知らない)。
町沢氏がどういうつもりでこの本を出版したのかはわからない。「21世紀カウンセリング叢書」というシリーズの中で、「はじめに企画ありき」だったのかもしれない。どういうつもりで編者が、ADHD臨床に詳しい他の人ではなく町沢氏にこういう本を書かせたのかもわからないが。「今ADHDというのがブームらしいから、ADHDに関する本を出せば売れる」という卑しい目論見があったのだとすればそれは許せないことだし、町沢氏個人について言えば「ここらでADHDとかいう“病気”について著作を出しておくか」的な気持ちでこの本を著した(とも表現したくない、私としては)のなら、その不誠実さ不純さに強い憤りを覚える。
私がこの長い長いコラムを書いたのは、この本を読み進むにつれて腹の底からわきあがってくる怒りに背中を押されたからだ。一気に燃え上がってしまえば並々ならぬ集中力を発揮するのはADHD者の強みである(ただし、そのかわりに日常生活がかなりおろそかになるという難点もある。このたびは育児があり、あかんぼは手加減してくれないので世話をせざるをえず、その分家事がすっかりお留守になった)。町沢氏の著作ではADHDという障害のもつ問題点、症状が日常生活であらわれてきた時の困難など、ネガティブな情報ばかりが強調されており、そういった点でも非常に不当なものを感じる。ことさらに不安をあおっているのではないかとさえ思えるほどであり(しかも偏ったり間違った記述も多い)、だからこそ何の意味もないかもしれないがせめてインターネットの片隅で吠えるくらいはさせてもらいたい、と強烈に思ったのであった。
このコラムが何かの役に立つかどうかはわからない。しかし、もしこの冗長な文章を読んでくれる人がいるとしたらそれだけでも感謝である。もしあなたが、これからADHDのことについて学ぼうと考えているなら、町沢氏の本に“参考文献”として挙げられている本に直接当たってほしい、と私は心から願う。“参考文献”は以下の通りだ(翻訳本が出版されているもののみ)。
(1)「ADHDの子どもたち」(セリコヴィッツ著、中根晃・山田佐登留訳、金剛出版)
(2)「注意欠陥・多動性障害−親と専門家のためのガイドブック−」(マンデン&アーセラス著、市川宏伸・佐藤泰三監訳、東京書籍)
(3)「手のつけられない子 それはADHDのせいだった」(ファウラー著、沢木昇訳、扶桑社)
(4)「おとなのADHD−社会でじょうずに生きていくために−」(サダース&カンデル著、田中康雄監修、海輪由香子訳、VOICE)