「シューマッハー経済学と国際経済論」 尾関修 横浜商科大学
2004年7月11日
<目次>
はじめに
第1章
国際経済の諸問題とシューマッハー経済学
第1節
農業問題とエネルギー問題
第2節
大量生産と失業問題
第2章
シューマッハー経済学の成立過程
第1節
シュンペーター、ケインズ、マルクスからの出発
第2節
シュヴァイツァー、ガンジー、仏陀による転換
第3章
グローバリゼーションとシューマッハー経済学
第1節 農産物自由化と食糧主権
第2節 エネルギー・サービス自由化とエネルギー主権
第4章
結論: シューマッハー経済学と国際経済論
第1節 地域主義と人間的規模
第2節 自然資本と永続性
おわりに
はじめに
マリーア・モンテッソーリが、「経済学は生態学の一部である」[1]としたことから考えるならば、「国際経済論は地球環境論の一部である」と考えることができる。E.F.シューマッハーが、「スモールイズビューティフル」(1973年)において近代経済学とマルクス経済学を批判し、経済学と国際経済論の見直しを行ったことは、1972年の国連人間環境宣言などの時代を反映していた。シューマッハー亡き後も、サティシュ・クマール、エイモリー・ロビンズ、スーザン・ジョージ、ヴァンダナ・シヴァといった人々によって経済学の転換が進められ、シューマッハー経済学と呼べるものが成立している。
シューマッハー経済学は、ケインズの貨幣論やシュンペーターのイノベーション論から出発しているが、ガンジーの文明論を転換点としている。金本位制崩壊、インフレーション、大恐慌などの時代に成長したシューマッハーは、ケインズとともに国際通貨論や国際貿易論によって戦後復興のビジョンを描いた。ケインズとは一世代違うシューマッハーは、50年代60年代の経済成長が資源枯渇と環境悪化を招いた現実とビルマやインドを訪問した経験から、自然資本、永続性、地域主義、人間的規模、土壌保全、中間技術などを重視する経済発展を説き、ガンジーのビジョンによる国際経済論を展開していった。
70年代の石油ショックによってインフレが高進しケインズ政策は行き詰まり、80年代に入るとサッチャーやレーガンによって減税、民営化、規制緩和、ベンチャービジネス育成などの経済政策が採用された。一方、債務危機に陥った第三世界に対してIMFや世界銀行によって輸出指向の構造調整が押し付けられた。これらの政策は新自由主義と呼ばれるが、財政規律やイノベーションを求める点ではシュンペーター理論でもあった。90年代には、自由貿易協定や、GATTのWTOへの改組など新自由主義の帰結ともいえる構造改革が断行され、グローバリゼーションが一段と進行したが、通貨危機の蔓延や慢性的過剰設備[2]などに悩まされ、WTOのグローバリゼーションも行き詰っている。
このような中で、ドイツでは1991年に電力買取り法が施行され、発電が経済的に成り立つ買電価格が定められ売電価格で負担した。この措置は財政負担なしに風力発電の有効需要を創出し、イノベーションを促し、ドイツの風力発電設備は世界の39%に達する1200万kW(2002年末)にまで増大した。その輸出も世界一となり雇用をもたらしたのである。風力発電建設には市民が積極的で共同出資も珍しくない。ケインズやシュンペーターの理論が生かされているだけでなく、シューマッハーのビジョンを実現しており、自動車に次ぐ鉄鋼需要を生み出したとはいえ、エネルギー自給率を高め、世界に進出して地球温暖化防止に貢献しているのである。そこで、新自由主義に対抗するシューマッハーの経済学と国際経済論の今日的意義を明らかにすることを本稿の課題としたい。
第1章
国際経済の諸問題とシューマッハー経済学
第1節 農業問題とエネルギー問題
21世紀の今日でも、国際経済の主要問題は農業問題とエネルギー問題であろう。シューマッハーは第二次大戦中イギリスで農業労働をし、1950年にはイギリス土壌協会に入り、農業に取り組んでいる。土壌協会の創立者イーヴ・バルフォアは、1939年には自分の農場で実験、研究に着手して有機農法の理想を提唱した。1947年には、新しく土壌協会が誕生してこの事業を引き継いだ[3]。土壌協会の掲げる理念は、「土を大切にせよ。そうすれば植物は自然に育つ」ということだった。この背景には、ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925年)の有機農業の流れがあり、アメリカのバリー・コモナー、レイチェル・カーソンなども関係するグループがイギリスに存在した。
イギリス石炭公社の園芸クラブが土壌協会の専門家による有機農業の講演会を開いたときシューマッハーは、「経済には二つの重要な要素がある。それは食糧と燃料で、その外のものは二次的であり、したがって燃料生産の本部で食糧生産の話を伺うことは、私の考えうるかぎりいちばん大事なことに眼を注ぐ、意義あることだと考えている」(1951年)[4] と述べた。また、「非暴力の経済学」(1960年)の中で、「生命の大地の力をどんどん奪いとり、解決のつかぬ問題をますます多くつぎの世代に残すような生活様式は、『暴力的』としか呼びようがない。これはこの生活様式をまだとっていない国々に輸出されてほしくない」[5]と書いた。この生活様式とは、ヨーロッパでも普及し始めていた機械化、化学肥料、農薬による大規模農業のことを指していると考えられるが、シュンペーターのいうイノベーションの一つの方向を意味していた。60年代には、「緑の革命」という品種改良、灌漑、化学肥料、農薬による大規模農業がインドをはじめ第三世界にアメリカから輸出されていったが、これをシューマッハーは暴力的なイノベーションと考えたのである。
70年代のシューマッハーは、「大規模な機械化と化学肥料や農薬の大量使用から生まれた――同時にこの二つに支えられているともみられる――農業の社会的構造のもとでは、人間は生きている自然界と本当に触れあうことはできない。それどころか、この社会的構造は、暴力、疎外、環境破壊といった現代のもっとも危険な傾向の後押しをしている」(1973年)[6] と書かなければならなかった。インドの科学者で環境活動家であるヴァンダナ・シヴァ(1952年〜)は、インドのデーラ・ドゥーンに、「持続可能な暮らしのための国際大学」と呼ばれる、調査、実験、研究、生活のためのセンターを設立した(1982年)。そこでは「種子、季節、土」についての知識を通した教育が行われている。ヴァンダナにとって種子は、ガンジーにおける手紡ぎ車(チャルカ)や手織り布(カディー)と同様に、自由貿易や知的所有権と対抗する自立と持続可能性の出発点なのである[7]。また、原種を生かし地場の農法を生かす農業は、緑の革命やバイオテクノロジーに対抗する非暴力(女性原理)のイノベーションであった[8]。
エネルギー問題についてシューマッハーは、「電離放射線で空気や水や土壌が汚染されるのと比べたら、煤煙で空気が汚れるのにどれほどのことがあろうか。石炭や石油で空気や水を汚す害悪を軽視しようというのではけっしてないが、『次元の相異』を認識すべきである。放射能汚染は、そのひどさの次元においてこれまでのどんな汚染とも比較にならない」(1967年)[9] と書いて、原子力発電を問題とした。そして、「科学をますます暴力的な方向に押し進め、最後には原子核分裂から核融合に走らせるのは、人類を滅亡させかねない恐怖につながる。しかしながら、この方向しかないと決まっているわけではない。人間を生き生きとさせ、高める可能性も存在する。つまり神の賜物である自然界――人間はその部分であって、自分の手で創ったものではない――、この大きく、すばらしく、不可思議な自然界と調和した、非暴力的で調和を重んじる有機的な方法を、意識的に探究し開発する方向も十分にあるのである」(1967年)[10]として、化石燃料や核燃料に代わる再生可能エネルギーの急速な拡大を提起したのである。
シューマッハーが再生可能エネルギーとして期待した風力の利用はヨーロッパやアメリカでは伝統的な技術であり、70年代の石油危機を契機として風力発電が普及してきた。北海油田が出たためイギリスにおける風力発電はあまり進んでいないのに対し、初めに述べたようにドイツの風力発電は、脱原発の合意の下に急速な拡大が図られている。風力発電は今日では原子力発電という巨大技術に対抗できる技術として成長しているのである。化石燃料や核燃料を使って発電したとき発生する環境コストや社会コスト、すなわち環境汚染、気候変動、廃棄物処理など後で発生する外部コストが、電力の価格に転嫁されていないことが問題となっており、外部コストの極めて小さい風力発電は、原発大国フランスも含めて今後も拡大すると予想されている[11]。風力発電の普及は、まだヨーロッパ、アメリカが中心で、風力発電容量の90%を占めているが、原発拡大に熱心なインド、中国などでも拡大してきている。インドでは、古代より風車の利用が確認されており、風力発電の潜在力は大きく、風力発電メーカーのスズロンは、アジア、ヨーロッパ、北米に輸出するまでになり、インドは世界の風力発電市場の10%を占めるまでになっている。
第1章第2節 大量生産と失業問題
今日でも、大量生産と失業問題は、国際経済における主要な問題であろう。大量生産と失業問題は、ガンジーがインド独立運動において取り組んだ最大の課題であった。ガンジーは、「『大量生産』というのは、非常に複雑な機械の助けを借りて最小人数で生産活動を行う技術的な用語であると十分理解しているつもりです。それは間違ったことであると、私は自分に言い聞かせてきました。私の考える機械は、庶民の家庭に備えつけることのできる最も初歩的な物でなければなりません」[12]と述べた。とりわけ自由貿易と結びついた大量生産の綿布を問題とし、「祖国の原料がヨーロッパへ輸出され、そのために我々が高価な物を買わされているということに我慢がなりません。これに対する終始一貫した対処法はスワデシ(国産奨励)です。我々は自分たちの綿を誰かに売らなければならないということはありません。インドでスワデシのこだまが鳴り響く時、綿花栽培者の誰一人として、外国で加工するためにそれを売るようなことはしないでしょう。スワデシが国中に広まれば、綿は生産されたその場所で加工し、紡ぎ、織るべきだと皆が考えるようになります」[13] と述べた。そして、手紡ぎ車(チャルカ)を探し出し、その技を復活し改良して、手織り布(カディー)を生産することをスワデシの第一歩としたのである[14]。
シューマッハーは、「ガンジーの経済学の根底はスワデシ(国産奨励)とカダール(手紡ぎ手織り)の概念にあり、インドの貧しさの主な原因はこの概念に固執したからではなく、それを捨てたことにあったとガンジーはいう」(1955年)[15]と述べ、手仕事を重視する「中間技術」を具体化していった[16]。大量生産の技術は、沢山の手仕事を奪うからである。シューマッハー・カレッジを起こしたサティシュ・クマール(1936年〜)も機械による生産ではなく手仕事を重視し、「手仕事(クラフト)は非暴力の文化であり、真に平和の経済である。手仕事はエコロジーと持続可能性を体現している。それは消費主義に対する防波堤である。今もなお、最高級の品物を作り出しそれで生活している何百万人もの職人たちがいるということは、インドにとって幸運なことだ。インドの手仕事の伝統は、未来の生活の最も適正な形である。もしこの手仕事の伝統が機械文明の影響の下に失われてしまったとしたら、インドは永久に失われてしまうだろう」[17]としている。
シューマッハーは、「ある社会の生産性を考える場合、完全雇用者と自営業者だけを計算に入れ、生産性ゼロの失業者を入れないのは十分とはいえない」(1971年)[18]と述べ、経済開発とは、何よりもまず今までより多くの仕事を創ることであるとした。最近のインドでは、雇用が増加したのは第三次産業だけで、政府がIT関連の事業等を中心に、様々な補助政策によりこの部門を発展させた結果とみられている。しかし、これらのハイテク産業に再就職できる失業者は限られている。求職登録者の変動から見てみると、90年から92年にかけて、求職者数は年間100万人増加した。93年の増加は39万人であったが、97年以降は毎年100万人ずつ増加している[19]。
ガンジー主義の社会福祉活動であるサルヴォダヤ運動の指導者シッダーラジ・ダッダは、次のように述べている。「彼ら(若いガンジー主義者)は、グローバリゼーションという名の下に助長されている経済的植民地主義からの自由、地域自治、地域経済などのために活動している。いわゆる自由化の下に、ヨーロッパやアメリカはインド産の物資を最安値で手に入れている。これは貧しいものからの合法化された盗みに相当する。さらには、西洋の企業はインド国内で自社製品を法外な値段で販売している。これが『自由貿易』と呼ばれているものだ!為替レートがあまりに不平等であるのに、自由貿易などという話ができるだろうか?ガンジーとグローバリゼーションは相容れないものなのだ」[20]。90年代の経済自由化によって流入する大量生産の工業製品やインドへの工場進出が失業を生んでいることはイギリスの植民地だった時代から変わっていないのである。
また、インドの農業問題に取り組むヴァンダナ・シヴァは、「何千人という小作農や農民たちが、借金を払えず家族を養っていけないために自殺に追い込まれています。食糧貿易のグローバリゼーションは現代の専制政治です。私たちは奴隷制度、ホロコースト(大虐殺)、アパルトヘイト(人種隔離制度)は過去のものだと考えていますが、食糧貿易のグローバリゼーションは、新たな奴隷制度、新たなホロコースト、新たなアパルトヘイトを引き起こしています。グローバル貿易は、自然、女性、家族経営の農民に対する戦争であり、多様性、小規模、地域経済に対する戦争です。中央集権的でグローバル化された大規模な単式農法は、暴力の農業です。小規模で分散的で多様な地域農業は、非暴力の農業なのです」[21] と述べており、自由貿易によって流入する大量生産の農産物やインドでの大規模な単式農法の拡大が失業を生むことを非難している。
大量生産は、植民地主義を生むと考えられる。シューマッハーは、「西洋諸国は、衣類、自動車、トラクター、テレビ、タバコ、コカコーラ、殺虫剤、化学肥料そしてさらに恥ずべきことに兵器といった、自らの生産物や工業製品のマーケットとして『発展していない』世界を利用した。富のネットフローは、貧乏な国から金持ち国へと流れるのである。政治的植民地主義の終焉もこの事実を変えはしなかった。それどころか、現代の自由市場経済はこの流れをさらに激化させ、新たな経済的植民地主義を生んだのである」[22]と指摘した。日本は戦後、政治的植民地主義を放棄したが、上記の商品の大量生産に成功し、西洋諸国に再び仲間入りしたのである。
第2章
シューマッハー経済学の成立過程
第1節 シュンペーター、ケインズ、マルクスからの出発
国際経済の諸問題に取り組んだシューマッハー経済学は、非暴力のイノベーション、中間技術、手仕事などを強調しているが、これは、インド独立におけるスワデシ(国産奨励)、カディー(手織り布)、アヒンサー(非暴力)などで知られるガンジーのビジョンを引き継ぎ、その経済学を発展させたものであった。しかし、シューマッハー経済学は、シュンペーター(1883〜1950年)、ケインズ(1883〜1946年)、そして、マルクス(1818〜1883年)を出発点としており、その成立過程に遡って考える必要がある。
シューマッハー(1911〜1977年)は、ドイツで第一次大戦を経験し飢えを味わい、少年時代に大インフレーションを経験したことが経済学に向かわせることになったが、1929年にボン大学に入学し、シュンペーターから国際経済論の手引きを受けることになる。また、同年短期に留学したイギリスで、ケインズのゼミナールへの参加を許された。翌年オックスフォードに留学した頃には、大戦後のドイツの歴史を経済学的に分析し、戦後経済の歪みのなかにヨーロッパの平和への重大な脅威を読みとっていた[23]。ナチスの勝利の後、1936年に25歳のシューマッハーはイギリスへ亡命、1940年には敵国人として捕虜収容所に入れられた。ここでクルト・ナウマン(元ドイツ共産党員)と知り合いマルクスの研究を始めることになる。釈放された後イギリスの農場で働きながら、シューマッハーはいくつかの世界改良計画を構想した。その一つは農業に関するものであり、もう一つは、国際貿易・為替制度に関するものであった。
農業体験から得たシューマッハーの意見は、「何十年、何百年の間、『負の淘汰』が進行してきました。いちばんすぐれた人々が土地を離れ、いちばん劣った人たちが残りました。今日農村にいる人々は町の人たちとくらべて驚くほど企業家精神に欠け適応力もなく、非能率で緻密ではありません。けれども農業こそ企業家精神、適応力、能率、緻密さをそなえた人が必要です」(1941年)[24]というもので、シュンペーターの企業家精神を農業に適用したものだった。シューマッハーは、二十年後、同じ農業問題をインドのようにはるかに資本が不足した国について考察しているが、土地からの流亡とそれによる農村生活の貧困化という診断は同じであった。ただ対策はまるきり違っていた。その対策は誰にでも手が届くように農業機械を小型にせよ、ということだった。1941年のシューマッハーは、小規模の農場でも資本設備をそなえるのが手に余る以上、小規模の土地所有制度をつくれという主張は問題外とし、対策は正反対の国有化だったのである[25]。
国際貿易・為替制度についての基本的考え方は、貿易に対してこれまでとは違う態度を助長する新しい制度を作り、黒字国にはその稼ぎを長期的に支出せざるをえなくさせ、一方経済的に弱い国の赤字をその黒字で短期的にまかなわせるということだった。これを達成する上で不可欠なことは、世界貿易を二国間ではなく多国間ベースで組織し、世界貿易の流れに目を光らし、短期的不均衡を長期的均衡に導くように中央銀行兼清算機構が秩序を守ることだった[26]。1941年には戦後の国際通貨制度の構想をケインズに送り、賛意をうることになる。しかし、ブレトンウッズ会議(1944年)で成立した国際通貨基金は金ドル本位制で、シューマッハーの構想とは違っていた。シューマッハーは、「貿易への自由なアクセス」を戦後復興の柱と考えており、ケインズが生みの親となったITO(国際貿易機関)もシューマッハーの構想と関係があると思われる。しかし、原料の生産者相互間の協定を奨励していたITOはアメリカが批准を拒否し、一部だけがGATT(関税ならびに貿易に関する一般協定)として生き残ることになった[27]。
シューマッハーは、1944年に自由党のサー・ウィリアム・ベヴァリッジのために「自由社会における完全雇用」を執筆し、完全雇用を維持するためには国家の介入が必要であると力説したが、ベヴァリッジの貧しい人々の苦しみを感じとる力は、シューマッハーに深い影響を及ぼした[28]。また、戦後イギリスに帰化してドイツ管理委員会の経済顧問として書いた報告書「ドイツ産業の社会化」(1946年)では、石炭、鉄鋼、運輸の国有化と影響の大きな会社の私的所有の廃止を主張した。同年イギリス労働党員となったシューマッハーは、ドイツにおいても自由な政治と計画経済の統合を構想したのであったが、シュンペーターは、「ドイツの人民のうえに不合理にも課せられている想像もつかぬ政治的・経済的条件は、(イギリス)労働党系の内閣を受けつけないであろうし、現にみられるごとき、これを確立せんとする機会を抹殺するであろうことは論をまたない」(1949年)[29]と述べている。
第2章第2節 シュヴァイツァー、ガンジー、仏陀による転換
戦後復興の構想が挫折したシューマッハーが、シュンペーター、ケインズ、マルクスとは全く価値観の異なるガンジー(1869〜1948年)や仏陀の価値観を受け入れていった背景には、若い頃からシュヴァイツァーを愛読していたことがあるのではなかろうか[30]。アルベルト・シュヴァイツァー(1875〜1965年)は、アフリカで医療活動を行っただけでなく、インド思想を研究し、ジャイナ教の非暴力思想に触れ[31]、生命への畏敬を説いた。このような価値観をシューマッハーが受け入れていなければ、仏教経済学やガンジー経済学を展開することは難しかったし、インドの貧困問題に取り組むこともなかったと考えられる。
ガンジーはインド国民会議派の指導者としてイギリスの撤退を求めて、「インドを立ち去れ」決議(1942年)を行い、大戦中のイギリスを震撼させたのであるから、シューマッハーの関心を引かないわけはなく、ガンジーが暗殺されたときは大きなショックを受けたといわれる。ガンジーの著作と演説の研究を始めたのは、1951年にハロルド・ウィルソン(後の労働党内閣首班)に招かれて、低開発国における工業の発展に関する合同討議に参加したときからである。シューマッハーは、「ガンジーの経済開発論はきわめて特異なもので、綿密に検討する必要があった」(1951年)[32] と述べている。
アメリカのトルーマン大統領が就任演説(1949年1月21日)で、世界を「発展した国」と「発展していない国」という言葉で再定義し、第三世界の貧しい国を発展の遅れた国としたが、シューマッハーは、1955年にビルマのウー・ヌー首相の招きでビルマに3ヶ月滞在し、価値観の全く異なる社会の存在に気づかされることになる。そして、「今日の、唯一つだけ十分に展開された経済思想体系は、物質万能の人生観から出ている」(1955年)[33] と書いて近代経済学を批判し、「精神性と矛盾しない経済学の体系は存在していないのに、精神性に立脚した経済学を実践している経済学者がいる。それはマハトマ・ガンジーであった」[34] と書いた。
シューマッハーはビルマで仏教を学び修行する機会を得て、ガンジー経済学と内容的に通じる仏教経済学を展開することになる。シューマッハーは、「仏教経済学の特徴は、『中道』であって、二つの原則に立脚している。第一の原則は限界を定義することである。仏教経済学では貧窮、充足、飽満の三つを区別する。経済の『進歩』は充足の段階までは善であるが、それを越えると悪になり、破滅的、不経済になる。第二の原則は西欧型の経済発展を根底から覆すもので、第一の原則から派生する。仏教経済学では『再生可能』資源と『再生不能』資源を区別する。林業や農業の生産物のような再生可能資源に頼る文明は、この事実だけで石油、石炭、金属等のような再生不能資源に頼る文明にまさる。前者は永続できるのに対し後者はそれが出来ないからである。前者は自然と組むが、後者は自然から奪い取る」(1955年)[35] と書いた。
第一の原則と同じことをガンジーはこういっている。「ある程度の身体的快適さは必要だ。しかし、ある一定の水準を超えると、それは助けではなく障害となる。ゆえに、無制限な欲求を創造しそれを満足させるという理想は妄想であり、罠であるように思える。人の身体的必要の充足は、それが身体的衰微へと陥る前に、ある一定の水準で完了しなければならない。ヨーロッパの人々は、彼らがその奴隷となりつつある快適さの重圧の下で朽ち果てないために、自らの展望を改めなくてはならないだろう」[36]。ガンジー経済学と仏教経済学は同じインドの伝統的価値観から生まれたものであった。
これに対しケインズは、「(人間の)必要は、二つの種類に分かれる。――われわれが仲間の人間の状態の如何にかかわらず感じるという意味で、絶対的な必要と、その充足によって仲間たちの上に立ち、優越感を与えられる場合にかぎって感じるという意味での相対的な必要、この二つである。」(「わが孫たちの経済的可能性」1930年)[37]と書き、結論として、「貪欲や高利や警戒心は、いましばらくなおわれわれの神でなければならない。なぜならば、そのようなものだけが経済的必要(絶対的必要)というトンネルから、われわれを陽光のなかへ導いてくれることができるからである」[38]とした。シューマッハーは、「貪欲や嫉妬心のような人間の悪を意識的に増長させるならば、そこから必然的に出てくるのは、理性の崩壊だけだろう」[39]として、ケインズを批判した。仏教経済学によれば、相対的必要(飽くことを知らぬ優越の欲求)を充たすことは、悪であり、破滅的、不経済であった。
仏教経済学の第二の原則については、シューマッハーはビルマに行く以前にイギリス石炭公社での仕事から、このことに気付いており、「私どもは言葉のいちばん基本的な意味における資本を食いつぶして生きていることを忘れています。人類は過去数千年の間生存を続けていますが、生活の基はつねに所得でした。ほんのここ百年にはじめて自然という貯蔵庫に強引に侵入し、いまや息を呑むような早さでそれを空にしており、その早さは年々増加しています」(1954年)[40]と述べた。この視点は、「生産の問題」(1972年)に引き継がれており、シューマッハー経済学の根幹をなしている。
『仏教国の経済学』(1955年)はインドに紹介されたが、それはシューマッハーが、「インド人に向かってガンジーの経済学の真の意義、つまりスワデシ(国産奨励)とカダール(手紡ぎ手織り)の概念とその具体的な応用を説き明かす道程のはじまりであった」[41]。1961年1962年とインドを訪問したシューマッハーは、インドの現実がビルマよりもはるかに厳しいことを見て取った。「貧しさとは、貧窮や飢餓と同義ではない。元々貧しさとは、物質的に簡素で単純な生活を自ら進んで受け入れることと不必要な物を捨てることを意味した。キリスト教の伝統で僧侶が貧しさの誓いを行うのは、宗教的生活を裏打ちするのは質素さであるということを意味する」[42]とシューマッハーは述べている。ビルマには「貧しさの文化」があったが、インドでは貧窮が支配し、人々は絶望していたのである。
シューマッハーが中間技術の考えを得たのはビルマにおいてであった。「仏陀は中道の価値を説いた。たとえば、第三世界の多くでは、農業で鎌の技術がいまでも収穫に用いられている。これを第一段階と呼んでよい。一方、欧米では自動化され、高度に洗練されたコンバイン収穫機があり、それは農業から人間的要素を一掃しようとしています。これは第十段階と呼べよう。そこで、私は考えた。この二つの段階の間はどうなっているのだろうかと。これが私の中間消滅の理論だ。そこで、人間にやさしく、環境にやさしい、高度技術につきものの資源枯渇や雇用喪失なしに、世界中の農民の大きな助けとなる中間的技術を調べたり導入したりするために、中間技術開発グループ(ITDG)を創立(1966年)したのです」[43]とシューマッハーは述べている。中間技術への関心は、「世界の隅々から、農作業のやり方や小規模の経営や製造業の改善に現に取り組んでいる人々から湧きあがってきた」[44]。シューマッハーがイギリス農業の改良を構想したときに書いたような草の根レベルの企業家精神が発生したのである。
第3章 グローバリゼーションとシューマッハー経済学
第1節 農産物自由化と食糧主権
1994年、モロッコのマラケシュにGATTのウルグアイラウンドに決着をつけるために集まった132ヶ国は、「GATT=国連のつくった機関という帽子をかぶって部屋に入り、部屋から出てくるときには、WTO=国連とは完全に独立した貿易機関という帽子をかぶっていた」[45]とスーザン・ジョージは述べた。WTOの加盟国がほとんどすべて国連の加盟国であるにもかかわらず、WTOは国連憲章、世界人権宣言、経済的・社会的・文化的権利条約などと全く無関係であった。WTOが国連のシステムに属していないために、紛争解決機関(DSB)は自らの法をつくることができることになった[46]。これは、シューマッハーの求めた敗戦国や弱小国の「貿易への自由なアクセス」とは似て非なるものではなかろうか。
マラケッシュで決まった農業に関する協定の目標は、輸入の障壁を減らし、生産に対する直接間接の政府支援を禁止し、補助金を受けた輸出を減らすという農業保護に反対するものだった。当初よりWTOの中には対立する二つのグループがあり、農産物輸出国で構成されるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、チリ、アルゼンチン、タイ、フィリピン、南アフリカなど18カ国のケアンズ・グループとアメリカ、一方、農業が有する環境保全、地域社会の維持といった多面的機能の確保を重視し、無秩序な農産物貿易の自由化に反対するノルウェー、スイス、アイスランド、イスラエル、ブルガリア、韓国、台湾、日本などの多面的機能フレンズとEUである。WTOの第5次閣僚会議(2003年、メキシコのカンクン)では、上限関税の導入を主張し農産物市場開放を迫るアメリカ・EU連合に反対し、輸出補助金の撤廃を求めるブラジル、インド、中国、アルゼンチン、メキシコ、チリ、タイ、フィリピン、エジプト、南アフリカなど22ヶ国の対抗するブロック、およびEUとのコトヌ協定(2000年調印)によって持続可能な開発と貧困撲滅を目指すナイジェリア、セネガル、ケニア、タンザニア、チャド、マリ、ウガンダ、コートジボアール、ドミニカ、フィジーなどアフリカ、カリブ、太平洋(ACP)沿岸の貧しい78ヶ国グループが形成された。また、多くのNGO、中でも80ヶ国の小農民組織を結集したヴィア・カンペシーナ(農民の道=ラテンアメリカ、ヨーロッパを中心に4大陸にまたがる国際的農民団体)が、食糧主権という概念をかかげて非暴力の抵抗運動を行なうに至った。
ヴィア・カンペシーナによって1996年の食糧サミットに提出された食糧主権の概念とは、@食糧供給は地域の農業生産を優先すること、A小作人や土地なし農民が、土地、水、種子、資金を得ることができること、このためには、B土地改革、遺伝子組み換え反対、水の持続可能な配分が必要であること。また、C農民が食糧を生産し、消費者が何を消費するかを決める権利、D低価格の農産物や食料品の輸入を防ぐ権利、E農業生産と食物において主要な役割を果たす女性農民の権利などを意味している[47]。この食糧主権の概念は、ガンジーのスワデシ(国産奨励)、手紡ぎ車(チャルカ)、手織り布(カディー)やヴァンダナ・シヴァの女性原理とつながっていることは明らかである。
カンクンでWTOの閣僚会議に反対して抗議行動を起こしたNGOの中で、韓国代表の農民が割腹自殺した。これに対し韓国の農民団体は、「1994年のウルグアイラウンド交渉以後、韓国農業は惨めに崩壊した。降り注ぐように入ってくる輸入農産物は、農産物価格の下落と農家所得の減少につながり、また農家負債の急増という悪循環に引き継がれて農村は解体し、農業は崩壊してしまった。このような暗鬱な現実でも、米国などの農業輸出強大国は
WTOを前面に出して農業市場の開放を拡大し、我らのような食糧輸入国、開発途上国、弱小国の市場を全て飲み込まんとする議論を強制的に始めたのである。 今、進められている農業交渉は、韓国農業には死刑宣告と違わない」[48]と声明を出した。韓国では、秋穀買上げ制のような農業補助金を毎年縮小したため、 農家所得が下落し負債を返済できなくなった多くの農民を死に追い立ててきた。
日本でも、「今年(2001年)に入って、50代前半の認定農業者が借金を苦にして自殺した。米価の暴落によって、農家は今、借金の返済と生活費を捻出するために、生命保険を解約したり、農協を脱退したりして出資金を充てるなどなりふり構っていられない状況だ。産業に占める農業、米の比率が高い
韓国や日本の農村は、初めに引用したインドの農村と同じく、WTOのグローバリゼーションにさらされている。シューマッハーは、もしも、農業を保護する根拠は基本的には見当たらないという見解が正しければ、農業保護が歴史上例外どころか、常態であったという事実がまったく理解できなくなると述べた[50]。そして、「農業の目的は少なくとも次の三つである。@人間と生きた自然界との結びつきを保つこと。A人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。Bまっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を作り出すこと。Bの目的しか認めず、しかもこれをまったくなさけ容赦なく暴力的に追求するような文明、その結果、@Aの目的を無視した上、組織的にそれに反対の動きをする文明は、長期的にみてとうてい存続できないと私は信じている」[51]と書いた。
シューマッハーは、農業の多面的機能を重視するノルウェー、スイス、韓国、日本などの多面的機能フレンズと意見が違わないことがわかる。ウルグアイラウンドにおいて、日本や韓国はコメ例外論を展開し、「コメは国民の食生活の面でも、農家の所得や環境、国土の保全の面でも格別に大切なのだ」と主張したが、Bの目的しか認めないアメリカとケアンズ・グループに抵抗できなかった。カンクンでの閣僚会議では、アメリカ・EU連合に対抗して、ブラジル、インド、中国が率いるG22諸国も市場開放を求めたのに対し、農業の多面的機能を実現しようとしたのは、食糧輸入国である多面的機能フレンズよりもACP沿岸78ヶ国グループとヴィア・カンペシーナなどのNGOの力が大きかった[52]。
シューマッハーは、自然界の生命の営みが教える真理を忠実に守らない限り、Aの目的は達成できないと述べている。この真理とは、第一に循環の法則であり、第二は多様化であり、単一栽培の反対であり、第三が分散化である。分散化によって、遠隔地に運んでいては引き合わないようなごく質の悪い資源も、それなりの役に立つようになるのである[53]。食糧主権を唱えるヴィア・カンペシーナは、持続可能な農業を目指しており、環境の保全、種子の保存を挙げている。@ABという農業の多面的機能を理解しているのは、貧しい国の農業団体のNGOであるヴィア・カンペシーナであり、食糧主権を求める世界の小規模農業者、消費者、女性農民であると考えられる。ヴィア・カンペシーナは、農業に関するブラジル、インド、中国が率いるG22諸国の提案には同意していない。それは、自由化と市場アクセスを増大し、世界の民衆の社会的排除と貧困の問題を解決せず、状況を悪化させるというのである[54]。新自由主義に対抗するヴィア・カンペシーナの経済学は、ガンジー経済学、シューマッハー経済学そのものである。
第3章第2節 エネルギー・サービス自由化とエネルギー主権
WTOの「サービス貿易に関する一般協定(GATS)」は、広範囲なサービス分野を扱い、国内法の規制緩和にも影響を与える協定である。加盟国間で自由化要請と回答を繰り返し、2005年1月までに交渉を完了する予定である。アメリカでは石油危機の後、カーター政権のとき、再生可能エネルギーを用いる小規模発電やコージェネレーションなどの分散型電源を促進し、その余剰電力買い取りを電気事業者に義務付けた(公益事業規制法、1978年)。また、80年代後半に環境問題が強まり、新規の電源開発コストが上昇し電力会社が需要の伸びに対応できなくなったとき、この差をIPP(独立系発電事業者)が埋め市場価格で電力会社に販売した。このような経験の下にアメリカは2000年にGATSにエネルギー・サービスを含めることを正式提案した。その内容は、エネルギー源別の自由化ではなく、エネルギーの卸売、輸送(送電及び配電、パイプラインによる輸送並びに熱の移送)及び小売に関連するエネルギー・サービスの垂直分割であった[55]。日本で1995年に卸電力市場が自由化され、2000年には小売電力市場が部分自由化されたのは、アメリカの要請に対応するものだった。
NGOの中でも、エネルギー・サービス自由化には、賛否両論がある。電力に限らず公共サービスを市場に委ねることに反対する意見は、「公共サービスは、厳しい市場法則を免れさせる必要があると社会がみなす財でありサービスである。なぜなら、何人たりともそのサービスの利用から排除されてはならないからである。社会の公共サービスは財と資源の相互扶助と連帯の原則に基づいている」[56]と主張する。一方、電力自由化によって市場競争が導入されれば、コスト高の原発が止められると期待する意見がある[57]。しかし、採算性を追求する電力自由化が引き寄せる原発重大事故の危険を指摘する意見もある[58]。
さてここで、シューマッハー経済学に基づいて、問題を整理してみることにしたい。シューマッハーは、経済財を第一次財と第二次財に区別し、第一次財を再生不能財と再生可能財に区別し、第二次財を工業製品とサービスに基本的に区別している。これで見るならば、化石燃料や核燃料は再生不能財の第一次財であり、風力や水力や太陽光は土地や空間と結びついた再生可能財の第一次財である。また、火力発電や原子力発電、風力発電や水力発電や太陽電池の設備は再生不能財からなる第二次財の工業製品である。火力発電、原子力発電による電力は、再生不能財の第二次財であり、風力発電、水力発電、太陽電池による電力は、再生可能財の第二次財である。この電力の卸売・輸送・小売のサービスは商業であり第二次財である。化石燃料や核燃料は、地球上に偏在しており、商品貿易の対象であるが、風力、水力、太陽光は地域と結びついて存在しており、商品貿易の対象となることは通常ない。
再生不能財である化石燃料や核燃料の採掘(露天掘り、海底)・輸送(パイプライン、タンカー)そのものが、森林破壊、海洋汚染など大きな外部コストを生んでいる。その消費は炭酸ガスや放射性廃棄物という大きな外部コストとして跳ね返り、自然の許容限度を越えており、事故の場合はさらに大きな被害が出る。地球温暖化や核拡散を防止するための外部コストは膨大なものである。しかし、この外部コストを負担することなく、超国家的企業(多国籍企業)が、再生不能財による安価な大量生産のエネルギーを供給している。エネルギー・サービスを自由化すると、地域の再生可能財で発電することを望む住民の意志を無視して、安価な大量生産のエネルギーがサービスされることになり易い。農産物の場合と同じことが起こるのである。そこでアグリビジネスに対する食糧主権と同様、石油メジャーなどに対するエネルギー主権が主張されることになる。
気候変動枠組条約締約国会議第8回会合(COP8)(2002年、ニューデリー)においてオイル・ウォッチ(世界熱帯雨林運動など石油・ガスの採掘・輸送に抵抗する120の環境団体の国際ネットワーク)は、主権国家が、エネルギーの資源、価格、配給を支配する必要を主張し、エネルギー主権を確立する項目を挙げている[59]。 @石油採掘免除地域の宣言。これはコスタリカの先住民族、地域住民による先例がある。A国家や国際機関による石油産業の補助停止。これはIMFや世界銀行の融資を指している。Bエネルギー過剰消費根絶と、最小限消費の保証。これは簡素な生活への移行を意味する。C外貨収入源としての石油依存の停止。産油国の対外債務は、しばしば石油産業そのものから発生している。D石油採掘を止めることは、地球温暖化の停止に貢献。E石油産業の環境的社会的インパクトの補償。Fクリーンで、分散的、再生可能、環境負荷の低いエネルギーの開発と利用。これらの項目は、新自由主義を後押しする石油メジャーが熱帯雨林破壊の元凶であるという認識から出ているが、化石燃料と核燃料による熱汚染を問題とし、再生可能なエネルギーへの急速な移行を提案し、簡素な生活を説いたシューマッハー経済学が背景にあることは明らかである。オイル・ウォッチは、石油メジャーなどが負っている環境債務という概念も提起している[60]。これは化石燃料や核燃料の採掘・輸送・消費から発生する外部コストをいう。海洋の島嶼諸国は地球温暖化の停止を求めているのであり、これ以上の環境債務の累積は許されないのである。
第4章 結論:シューマッハー経済学と国際経済論
第1節 地域主義と人間的規模
仏教経済学やガンジー経済学が、シューマッハーの経済学原理となったことによって、シューマッハー経済学の国際経済論は、「貿易への自由なアクセス」や「国際清算機構」を構想することに留まるものではなくなった。反対にシューマッハーは、20世紀後半の大問題は、人口の地域的分布の問題、つまり「地域主義」の問題であるとした。そして、「ここでいう地域主義というのは、多くの国家を自由貿易制度に組み入れる地域主義のことではなくて、それぞれの国の中ですべての地域を発展させるという、反対の意味のものである。これこそが、今日すべての大国で解決を迫られている重要課題なのである」(1968年)[61]とした。地域主義は、自由貿易とは正反対の概念であるといってよいのである。そして、「今日多くの小国に見られる民族主義や自治と独立への要求とは、このような地域の発展の必要性に対応する、まさに論理的・合理的な動きである。とくに貧しい国では、地域の発展が成功しない限り、つまり首都ではなく、農村での開発努力が行われない限り、貧しい人たちには希望がもてない」[62]と考えたのである。
シューマッハーが、「貿易への自由なアクセス」よりも「地域主義」を強調したのは、ガンジー経済学に根ざしていると考えることができる。サティシュ・クマールはいう。「手工芸の伝統をインド経済の基礎に置き、地域経済(スワデシ)を復活させるのがガンジーの夢だった。インドの外の人々は、インド独立運動の英雄としてガンジーを知っており、イギリスの植民地主義に終焉をもたらすための彼の非暴力闘争については知っている。しかし、それはガンジーのビジョンのほんの小さな一部分でしかない。――『本当のインドは、数少ない都市にではなく70万の農村にこそ見出される。もし村々が滅びるならば、インドも滅びるだろう』とガンジーはいった。村落共同体や小さな町に住み、自分たちの農場や手工芸からの生産物によって公正な生計を営む、自治的で自立し、自己組織された自営の人々の連邦、というのがガンジーのビジョンだった」[63]。このビジョンを引き継いだシューマッハーは、「開発政策の対象地域としてインド全土だけか、それを主としてとりあげるならば、自然の勢いで開発は少数の都市部、近代部門に集中してしまうだろう。人口の80%強を抱える広い地域は、利益にあずかるどころか、不利益さえ受けかねない。ここから大量失業と都市への大量移住という双子の悪が生まれてくる。開発の結果、恵まれた少数者が一段と豊かになる一方で、本当に助けを必要とする人たちが見捨てられていくことになる。困っている人たちを助けるのが開発の目的であるならば、一国の中の地域ないし地区は、自分に合った開発を行なう必要がある」[64]と書いた。
さらに、「(国連の)第二次開発の十年(70年代)の最重要課題というものは、開発の努力が世界中の貧困の中心部、つまり200万の農村にまで届くように、これを適切なものにし、効果的にすることである。農村生活がバラバラに崩れていくならば、解決の途は閉ざされ、いくらカネを注ぎ込んでも無駄となる」(1970年)[65]とした。ここには、過っての農業に関する世界改良計画が、ガンジーのビジョンと結びついて展開されている。ガンジーのビジョンは具体的で、「経済がその地域の自然資源と人的資源の上に成り立っているなら、すべての共同体は独自の大工、靴屋、陶工、建築業者、機械工、技術者、農民、織工、教師、銀行家、商人、音楽家、芸術家などを擁するようになる。換言すれば、それぞれの村落は社会全体の縮図となるのである。ガンジーにとってこのような地域共同体である村落は非常に重要であり、それは『村落共和国』という地位を与えられるべきだ、とすら考えていたほどである」[66]とサティシュ・クマールは述べている。
シューマッハーは、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本産出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか」[67]と書いた。現実の姿に触れている経済学は、マクロ経済学やミクロ経済学ではなく、ガンジー経済学や仏教経済学であるとシューマッハーは主張したのである。WTOのグローバリゼーションの現実は、ACP沿岸諸国などの「貿易への自由なアクセス」を保証するものではなく、農産物やエネルギー・サービスの自由化によって弱小国や地域の発展が妨げられている。NGOによる食糧主権やエネルギー主権の主張は、地域主義の単位である民族国家と地域共同体の復権を目指すものであり、EU加盟に抵抗するノルウェーやスイスの住民などのような人間的規模の経済単位に基づく国際経済論への第一歩であるといえよう。
第4章第2節 自然資本と永続性
「仏教経済学」(1966年)の中で、シューマッハーは、「仏陀の教えは、いっさいの生物に対してだけではなく、とりわけ樹木に対して敬虔で優しい態度で接することを求める。すべての仏教徒には、何年おきかに一本の木を植え、これがしっかりと根づくまで見守る義務がある。そして、仏教経済学者は、万人がこの義務を守るならば、外国援助がまったくなくても、本当の高度な経済開発ができることを容易に証明できるのである」[68]と書いた。この話は、アショーカ王(在位BC273〜BC232年、古代インドの皇帝)の故事からきている。「アショーカは、すべてのものは生涯に最低でも五本の木を植え、その面倒をみるようにと布告した。アショーカは国民に、薬効のある木を一本、果実のなる木を一本、薪となる木を一本、家を建てるのに使う固い木を一本、花を咲かせる木を一本植えるようにと求めた。彼はそれを、『五本の木の林(パンチャヴァティ)』と呼んだ」[69]。
シューマッハーはいう。「そういう企てが賢明に行われさえすれば、インドの5ヵ年計画が約束してきたものより経済的価値が大きいことを知るだろう。それは1ペニーの外国援助なしでできるし、貯蓄と投資の問題もない。その成果として、食糧と織糸と建築材料や緑陰、水など、人が必要とするほとんどすべてが作れるのである」[70]。植林活動は、自然資本を形成するだけでなく、自然所得を生むのである。さらに広げて考えれば、今日の地球温暖化防止にも最も有効な方法なのである。
ガンジーは地球環境を考えた経済学者であったことは、地球の受託者という概念を考案したことでわかる。人間はすべての生物と未来の世代を代表し、神聖な受託物として地球を維持するべきだとガンジーは考えた。当初の資本を浪費しないことは良き受託者の責任であり、資本を減らさず使うことができるのは利息の部分だけで、受託者が自分の利益のためにお金を使うことは許されない。彼らは経費を受け取ることはできるが、それ以上使うことはできない。受託者は、受託物で得た所得を一般公共の利益のために使わねばならないとシッダーラジ・ダッダは述べている[71]。受託によって自然資本は保全されるだけでなく、自然所得を生むのである。シューマッハーが、資本と所得の概念を地球規模に及ぼしたのは、ガンジー経済学を引き継いだものだったのである。
シューマッハーは、自然資本の代表的なものとして、化石燃料、自然の許容限度、人間性を挙げた。化石燃料が自然資本であり、自然所得を生むために使われる必要があることは、改めていうまでもない。自然の許容限度については、自然がつねに与えてくれる許容限度というかけがえのない資本を、人間が食いつぶしているということに気づく者は、なかなか見当たらないと述べる一方[72]、「シュヴァイツァーのような、ずばぬけた知性と誠実の人たちが、そのような行政的決定(許容限度)を黙って受け入れることに反対して、『だれがそれを許したというのか。だれがそれを許す権能をもっているのか』と反撃しているのは当然だろう」[73]ともいっている。
人間性については、「今日の生産方法が工業社会に住む人間の人間性を蝕んでいることは、明白ではあるまいか。だが、大多数の人たちにはこのことがまったくわかっていない。――それは(人間性は)そもそも測ることができないもので、測れるのは、それが失われたときに現れる徴候だけであろう。犯罪、麻薬、暴力行為、精神障害、反抗などの徴候を調べることは、ここではしない」[74]と書いている。今日の生産方法とは、失業を生む大量生産であり、工場労働である。人間性の崩壊を生む原因は、貧しさに求められがちだが、「シューマッハー的思考の文脈では、貧しさは問題ではない。富裕こそが問題であり、貧しさは解決方法なのだ。問題なのは貧しさではなく、社会の不正義、人間の搾取、財力を誇示するための消費、そして自然からの略奪行為である。これらを持続させているのは富めるものであり、貧しいものではない。富裕な人々は常に、あたかも貧しい人々が問題であるかのように話し、私たちの関心をそらしてまったのである」[75]とサティシュ・クマールは述べている。そして、「今重要なのは焦点を変えることである。援助や、貧しい人々に『与える』素振りをする代わりに、富裕な階級や国々は貧しい人々から取り上げることを減らすべきである。貧しい人々が彼らの土地、手工芸、地域経済、彼ら固有の文化、森林や漁に対する彼らの節度ある接し方を維持できるようにしなくてはならない」[76]と主張している。
化石燃料、自然の許容限度、人間性という代表的な自然資本を保全し、自然所得を生み出すためにも、民族国家、地域共同体といった人間的規模の経済単位に基づく国際経済と地域経済が必要であることがわかる。化石燃料を浪費し、自然の許容限度を無視し、人間性を損なっている産業革命以来の現代文明とWTOのグローバリゼーションでは、暴力が自然と社会を支配し、環境の悪化を招いている。非暴力の経済学に基づく以外に、自然資本を回復し永続性を取り戻す方法はない。シューマッハーは、旧約聖書の創世記における人間の他の生物に対する統治の受託を、「高貴な身分には義務が伴う(ノブレス・オブリージ)」[77] ものと理解した。シューマッハーは、仏陀やガンジー、また、カトリックの伝統的価値観に基づく経済学を築くことで、地球環境論と両立できる国際経済論を構築することになったのである。
おわりに
シューマッハーは、現代技術が作り出した三つの危機について述べている。第一の危機は、技術、組織、政治のあり方が人間性にもとり、堪えがたく、人の心を蝕むことである。第二の危機は、人間の生命を支えている生物界という環境が痛めつけられ、一部で崩壊のきざしが出ていることであり、第三の危機は、世界の再生不能資源、とくに化石燃料資源の浪費が極度に進み、あまり遠くない将来その供給が急減するか、枯渇する可能性があることである[78]。シュンペーターは、経済発展の原動力をイノベーション(技術革新)に求めたが、シューマッハーは、危機の原因を技術に求めたのである。そして、「人類の直面する課題を解決する上で本当に役に立つ技術、人間の顔をもった技術の開発は、いったい可能だろうか」[79]と問いかけた。暴力的なイノベーションが危機を作り出したとすれば、解決策は非暴力的なイノベーションであろうというのである。
ガンジーは、「世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である」[80]と語った。シューマッハーは、「大衆による生産においては、だれもがもっている尊い資源、すなわちよく働く頭と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。大量生産の技術は、本質的に暴力的で、生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む」[81]と書いた。そして、シューマッハーは、大衆による生産の技術に中間技術という名前をつけた。それはこの技術が、過去の幼稚な技術よりずっと優れたものではあるが、豊かな国の巨大技術と比べると、はるかに素朴で安く、しかも制約が少ない性格を言い現わしている。そして、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つように作られているとしたのである[82]。
中間技術を支援することは、シューマッハー経済学の実践となった。1970年よりシューマッハーが会長をつとめたイギリス土壌協会は民間の自主団体で、土壌と動植物と人間の間の基本的なつながりを調べ、その成果などに関する情報を発表してきたが、有機農法で成功した農民も土壌協会自身も、政府の支持が得られず、なかなか認めてもらえなかった[83]。彼らがとった方法の特徴は、非暴力と、微妙きわまる自然界の調和のとれた体系の尊重であり、この特徴こそが現代文明と対立していたのである。イギリス土壌協会は、三圃式農業に土台を置いた輪作農法を復活し改善したといわれる[84]。日本では、福岡正信(1913年〜)が、従来の有機農法は過去の有畜産業の焼き直しであり、本来が科学農法の一部であるがゆえに、巨大化した科学農法や、その体制に、のみ込まれてしまうとし、第二次大戦中より自然農法を唱えて実践した[85]。戦後は国内だけでなく海外でも注目されアフリカやインドに普及してきたが、自然農法は不耕起、無肥料、無除草、無農薬であることで知られている[86]。福岡正信はインドではガンジーの精神と一致する先覚者として迎えられ、1988年にはデーシコッタム賞(インドの最高栄誉賞)を受賞している。有機農法、輪作農法、自然農法、ヴァンダナの女性原理の農法は、恐竜化した科学農法である大規模農業と根本的に違った人間の顔をした技術として発展しているのである。
シューマッハーが自ら創設した中間技術開発グループ(ITDG)は、シューマッハー没後は、ジョージ・マクロビーが会長を継ぎ活動している。1978年には、91カ国で700件のプロジェクトを実施するIT Powerという営業組織が独立し、1980年にはチャールズ皇太子がパトロンとなっている。1985年にはペルー支部を開設し食品加工、小型水力発電のプロジェクト、1986年にはケニアで家畜のプロジェクトを開始、1989年にはジンバブエとスリランカに支部を開設し小型水力発電、省エネ・ストーブ、食品加工、1990年にはバングラディッシュに支部を開設し食品加工、農産加工、1991年にはネパールで小型水力発電のプロジェクトを開始した。1992年にケニアとスーダンに支部を開設した。1998年には、イギリスの本部をボートン・ホールに移し、技術、貧困軽減、環境の知識と調査の国際センターとして発展し、現在60ヶ国で活動している[87]。シューマッハーが推奨するような中間技術開発の活動は、日本でも内蒙古で沙漠緑化に取り組む日本沙漠緑化実践協会、アフガニスタン、フィリピン、メキシコなどで手掘り井戸を作る風の学校など枚挙に暇なく、シューマッハー経済学の国際経済論は草の根的な広がりを見せているのである。シューマッハーの構想が挫折するようなことになれば、世界には希望がない。
以上
[1] マリーア・モンテッソーリ、鼓常良訳「子どものこころ」国土社、1971年刊、64頁参照。正確には「生態学は自然に適用された経済学のような科学」とある。
[2] James Crotty, “Why do global markets suffer from chronic excess
capacity? Insights from Keynes, Schumpeter and Marx” ,June 18, 2002<http://emlab.berkeley.edu/users/webfac/bhandari/e105_s03/CC.pdf>
[3] バーバラ・ウッド、酒井懋訳「わが父シューマッハー」御茶ノ水書房1989年刊、228頁。
[4] 同上、229頁。
[5] 同上、301頁。シューマッハー「非暴力の経済学」オブザーバー(1960.8.21)
[6] シューマッハー、酒井懋訳「スモールイズビューティフル」(1973年)講談社学術文庫、1986年刊、149頁。
[7] Satish Kumar, “You
are, therefore I am”, Green Books, 2002, p.167.
[8] ヴァンダナ・シヴァ、熊崎実訳「生きる歓び」築地書館、1994年、153頁。
[9] 前出、シューマッハー、「スモールイズビューティフル」184頁。
[10] 同上、187頁。
[11] コリン・ミレー「欧州の風力発電はなぜ成功しているか
〜欧州風力エネルギー協会CEOが語る」グリーン・ピース・ジャパン講演会(2003年9月10日)<http://www.greenpeace.or.jp/campaign/energy/wind/wf12/indexwf12_html>
[12] 田畑健編、片山佳代子訳「ガンジー自立の思想」地湧社、1999年刊、90頁。
[13] 同上、133頁。
[14] マハトマ・ガンジー、蝋山芳郎訳「ガンジー自伝」中公文庫1983年刊434頁。
[15] Barbara Wood, ”Alias
Papa”, Oxford University Press, 1985, p.247. 前出、バーバラ・ウッド、酒井懋訳「わが父シューマッハー」251頁。
[16] 同上、バーバラ・ウッド、酒井懋訳「わが父シューマッハー」328頁。
[17] 前出、Satish Kumar, ”You
are, therefore I am”,
[19] 海外労働時報、インド、2001年8月<http://www.jil.go.jp/jil/kaigaitopic/2001_08/indiaP01.html>
[20] シッダーラジ・ダッダ:ガンジー主義のサルヴォダヤ運動の指導者。引用は、前出、Satish
Kumar, ”You are, therefore I am”, p.158.
[21] 同上、p.169.
[22] 同上、p.115.