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靴職人の独り言 


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     50年前の複式縫い製法(その4

2009年426

 さて、今回は50年前の靴職人になるための徒弟制度の一部を紹介しようと思う。

 当時の徒弟制度では、どんな業種も職人になるための修行時代は似たようなものだったようだが、私が靴作りを覚えるために住み込みで弟子入りした親方は、靴作りに関してだけではなく日々の生活にも厳しい人だった。朝は、親方の家人より早起きし、前日に自分の身に付けた汚れ物を盥で(当時は洗濯機など無かった)洗濯してから、朝食を摂る。その後、親方より先に作業場に入り、その日の仕事の準備をする。一日の作業は、当時の靴つくりは手仕事が殆どであるために、納品に間に合わないと、時には、夕食後も仕事を続けることも多く、特に毎年12月の末ごろは、毎晩のように夜中の12時頃まで仕事することが当たり前だった。普段はその日の作業が終わると仕事場の掃除、跡片付けをすませる。(余談になるが、当時の通い職人の中には変わった人が居て、その日の靴つくりの作業が途中で終わりになると、作業台の上や周りを「その侭」にして帰る人がいた。それを、弟子たちが気を利かせて、明日の朝、仕事がし易いように親切に綺麗に片付けておくと、その職人が翌朝出て来て、一目作業台の上を見ただけで、それが気に入らなくて、帰ってしまおうとする職人がいた。職人に帰られると、弟子たちは親方に叱られるので、「前日の作業途中の状態に戻しますから」と言って職人の機嫌をとりながら、仕事を続けてもらうことになる)。一日の作業が終わると、夕食後近くの「銭湯(今では殆ど見当たらなくなってきたが、当時の大衆浴場)」に行くのだが、時には、深夜遅くまで仕事をしたときなどは、銭湯に行くと、三助(銭湯で働く従業員)がお風呂場の洗い場をデッキブラシで洗い始めていることも度々で、大急ぎでお湯に入り身体を洗って出てきたものだった。大体は一日の仕事が終わると、親方に与えられた部屋に戻り、自分の自由時間をすごすのが日課だった。また、修行中は賃金などは一切無く、月に2日(毎月、1日、15日)の仕事の休みの日は、僅かばかりの小遣いを親方から貰って、新宿の映画や、後楽園のプロ野球を見に行くぐらいだった。 しかし、普段の私生活においては家族同様に扱ってくれ、食事も家族と一緒に摂り、身に付ける衣服はすべて買い与えてくれた。その為、日常生活においてはさほど不自由を感じることは殆ど無かった。また時には、親方は父親のような存在でもあった。

当時、新宿伊勢丹デパートは、4階から上はアメリカの進駐軍が使用していた。その伊勢丹の北側には、デパートの空き地があり、昼間は商品搬入のトラックと一緒に米軍のトラックやジープが出入りしていたが、夜になると、其処は静かな空き地になっていた。弟子入りした当時は50数年前のことで、テレビ放映が始まったばかりで、一般家庭には、あまりテレビが普及していなかった頃だったが、伊勢丹北側の空き地に、テレビの普及のためだと思うが、テレビ局のトラックが荷台に大型テレビを積んで来て、当時人気のあったプロレスの放映を(主役は日本の「力道山」、悪役はアメリカの「シャープ兄弟」など)して見せてくれた。プロレスが好きだった親方は仕事が終わると、私たちを一緒に連れて行ってくれたものだった。


さて「50年前の靴作り」の続き・・・・・・出し縫い作業が終わると、溝を伏せる作業をするのだが、現在は、溝の蓋にボンドを付けて貼り付けるが、「切っ立て」包丁で溝を起こした場合は革の表面が厚く起こされているので、表面に水を付けただけで、ハンマーで蓋を伸ばしてから、しっかりとハンマーで叩くだけで革が密着して、溝の蓋が開くことは無かった。

溝の蓋をして、ヤハズコバ加工を済ませたところ

ヤハズコバについては、このページにある2008629日掲載の (5) 「ヤハズコバ」を参照いただいて省略する。

前コバの加工が終わると、積み上げ加工に入る。はじめに鉢巻を取り付けるのだが、現在のように加工された鉢巻は無かったので、表底の裁ち落としの残り部分を縦20cm、横2.5cmぐらいに裁断して、両端の角の部分から対角線の角に向かって斜めに切り落とす(写真参照)。これが慣れていないとうまく斜めに切り落とせない、両端の角の部分から交互に包丁を入れて行くのだが、慣れないと途中から包丁がすれ違ってしまい、革が3枚になってしまうのである。


鉢巻加工


出来上がった鉢巻を踵部分に取り付けるのだが、二つの方法があり、「上鉢巻」と、「下鉢巻」がある。普通、価格の安い靴の場合は細革の「すくい縫い」が終わった時点で、鉢巻が取り付けやすい下鉢巻にする。また、高級品の場合は、表底を先にアッパーの上にペースで取り付け、前コバ加工が終わったところで、鉢巻をペースを使って取り付ける(写真参照)。


〔注〕・
「ペース」とは、椹(さわら) の木から作られた「木釘」のことで、日本特産の樹種で、希少性の高い 日本特産の木で、木曽・飛騨・中部山岳地帯に多く樹高は30mにも達します。. ヒノキの代用品として昔から浴槽や風呂桶、手桶など、プラスチック製品が登場するまで生活には欠かせないでした。 ...



上鉢巻の取り付け

その上に積み上げを積むのだが、この作業も価格に応じて高級品は一枚ずつペースで積む
のだだが、普通の靴は
3枚貼りの積み上げを22mmの丸釘で取り付け、「化粧革」を取り付け
る。踵部分の減りやすい部分には
「プロテクター」を填め込む。 次に、踵部分のコバ加工
を済ませて、仕上げ作業に入る。仕上げ作業は、コバきめが終わると「フノリ(海草を加工
したもので、昔は着物を洗濯をした後「のり付け」に使用された)」を、水に溶かして、じ
っくりと長時間を掛けて煮詰めたものを、コバ全体に塗布して、温めのコテで「下コテ」を
掛ける。同時に、「下メツキ」もする。「メツキ」と言えば、現在は殆どの人が飾りの一種
 と思っているようだが、本来の目的は、出し縫いの際に、出し錐で空けられた糸を通す穴に、
 雨水などが入らないように蝋で防水をすることが本来の目的で、結果として飾りのように綺
 麗に「メツキコテ」が当てられるのである。
 今回、作った靴はアッパーが黒なので、本来
はコバも黒で仕上げるものなのだが、参考資料として作ったものなので、コバは生地仕上げ
をし、加工の状態がよく解るようにし片足は「ヤハズ仕上げ、もう一方は「平コバ仕上げ」
として、左右の靴を対比して見られるようにしてみた。(写真参照)。




50年前の複式縫い製法で仕上げた靴

その昔、親方から靴つくりを学び、職人として独り立ちしてから、多くの仕事場で職人仕
事をしながら、周りの職人からさまざまな加工法を学び、数年で親方から習った製法の殆ど
は使わなくなり、自分流の作り方に変わって行った。現在も、いまだに専門校に行ったり、
工房で靴つくりを教えているが、絶えず新しい靴つくりを考えながら生徒に教えている。


時には生徒側から貴重なヒントをもらって、一人で試してみて、結果がよければすぐに教材
として生徒に伝えるようにしている。最近読んだ記事に次のような文章が・・・「大人になっ
たら脳細胞は減るばかり
というのは昔の知識。脳の海馬では日々数千個の新生ニューロンが
生まれていることがわかってきました。でも放っておくと数週間で消滅する運命。脳細胞を
大事に育てて,記憶や認知能力を保つには,新しいことを学習するのが一番!」とあった。


私のような老人では、日々数千個の新生ニューロンが生まれることは無いと思うが、数少
ない脳細胞を大事に育てて,記憶や認知能力を保ち続けたいと思っている。「
50年前の複式
縫い製法」については、これで終わりとします。

                                               革靴職人



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50年前の複式縫い製法(その3

2009年41

全日本革靴工業共同組合連合会の「第二回革靴技能認定試験」が、32829日の二日間行われ、試験委員を担当していたので、続編が少し遅れてしまいました。以下は「その3」

 当時の靴職人の親方の中で一部の親方は、靴の小売店を廻って靴の注文を採ってきて、知り合いの職人を雇ったり、自分の弟子たちに靴を作らせたりしていた。いわば、現在の靴メーカーの始まりのような時代で、私の親方も似たような経営をしていた。親方のところにも製甲の職人が人働いていた。二人は男性だったが、その内の一人は片足に障害があったが、不自由な片足で見事に足踏み式ミシンを踏んでいた。また、一人は「鴫村さん」と言って、西武線の中村橋駅近くから通ってきていた独身の若い女性だった。当時の靴職人は殆どが男性の中で、私の出会った「女性製甲靴職人」の第一号で、男性職人と互角に仕事をしていた。彼女は、その後結婚して姓が変わったが、数年前まで靴業界で、製甲職人としてではなかったが、大変活躍をされていた。

 当時は、現在と違って製甲用のミシンは足踏み式で、電動式ミシンは無かった。「コバ漉機
も有るに
はあったが、親方のところには一台も無く、折込み代等は「スキ砥」と言われる砥石の上で面包丁を使って丁寧に漉いていた。また、仕事は請け取り仕事で接着剤は自分持ちのため、製甲用ゴム糊も出回っていたのだが、業界でも一部の製甲職人はご飯粒を箆(ヘラ)で丁寧に練って使っていた。したがって、一人前の職人でも仕事の早い人で(工程の複雑さにもよるが)、一日に3足ぐらいしか出来上がらなかった。



すくい縫いと、中物・ 右下「木中」

さて「50年前の靴作り」の続き・・・・・リブ加工については、このページの「2005年1月の
(3)『リブ加工』」の記述をお読みいただくことにして省略いたします。

 すくい縫いが終わると、中底加工作業のリブ加工で中底をカットしたものを、中底に元通りに埋め戻す。この作業は、「ゼッケー(名前の由来は「舌」の形からきている)中物」を使う場合に、埋め戻さないで仕上げてしまうと、履いているうちに体重でその部分が窪んでくるためにする重要な作業である。しかし、安物の靴の場合、仕上がってしまうと見た目では判らないので、工賃が安い靴は、早く仕上げるために埋め戻さないことがある(現在の靴のように、コルクを中物として使う場合は別)。シャンクも、当時は「白樺の木」の皮を「木中」と言う名前で使用していた(写真参照)。白樺のシャンクは熱を加えると柔らかくなり、とても加工がしやすく一度取り付けて固まると、折れ難く、強靭なバネの働きをしてくれるので、靴のシャンクとしては理想的であった。その後、年々白樺が手に入り難くなり、「竹のシャンク」→「ベニヤ板」→「ナンポウ」→「プラスチック」→「鋼材」等々と、わずか50年の間に随分と様代わりをしてきた。





手縫いだし縫い

中物、シャンクを取り付けた後、表底を7分の丸釘3本で仮止め(現在のように接着剤での仮止めはしない)、周りを切りまわして溝は「切っ立て」で包丁で切り、「目お起し」を使って蓋を起こす。この作業は、出し縫い後の溝を、現在のように接着剤を使わずに被せることが出来る。

 だし縫い作業も、職人は工賃次第で針足数は荒く縫ったり、細かく丁寧に縫ったりしたものだった。 縫い糸は、靴の上から見てアッパーの外側に均一に見えるように縫うのだが、ボールガースの外側部分だけは履いたときのことを考えて、若干外側に縫うようにした。

以下次回に続く・・・・・革靴職人




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50年前の複式縫い製法(その2

200年03月02日


 新宿歌舞伎町の話の続き・・・・・・。当時、靖国通りから北側は空襲の焼け跡が所々に残り、建築物もあまり無かった。現在のコマ劇場正面の通りの向かい側は空き地になっていて、夏になると夏草が生茂っていた。そのこ頃、現在の「東急ミラノ」辺りで、「産業博覧会」が行われ、その後、同じ場所に「アイス・スケート場」が出来、スケートを楽しむために若者達が集まるようになた。その後周辺に、コマ劇場をはじめ映画館や飲食店などが出来て更に人が集まるようになり賑やかになってきた。それらが、今の歌舞伎町歓楽街の始まりとなったのだと思う・・・・・・・。その歌舞伎町のコマ劇場を右に見るようにして進むと交差点があり、右手の角に交番がある。左手前方には「都立大久保病院」があり、其処をしばらく進むと、「職安通り」に突き当たる。

 T字路を左手に曲がって現在の「新宿ハローワーク」の
並びにも、当時は靴の材料店「堀越商店」があった。また、さらに進んで山手線と中央線のガードを潜って線路沿いを右に曲がると、新宿百人町に、前回紹介した田中治郎吉氏の末の弟「田中幸重商店」があり、其処では子供靴の製造業と「出し縫い機」を置いて、「出し縫いの賃掛け(複式縫いの出し縫いを、一足幾らの代金を取って縫う)」もやっていた。当時出し縫いの賃掛け屋は、「山の手」では、池袋、中野、江古田などにあった。ちなみに、現在、靴底の加工機械を作っている「根本製作所」の先代が、江古田で当時の出し縫い屋さんをやっていたのである。今では、私の知っている出し縫い屋さんは浅草の「飯島加工所・春山加工所」だけ・・。さて、前置きはこのくらいにして、本題に入る。



一枚の革から裁断加工した、先芯・中底(リブの落とし)・月型

釣り込みには7分釘(19mm)の太めのものを曲がらないように使用して、すくい縫い作業が終わって抜いた釘は、何度でも使い大事に使って釘代を節約したものであるが、最近では、細い釘を使って、釣り込んだ後内側に曲げて、すくい縫いの際糸が絡まないようにしている人もいる。



釣り込み済みの靴と、細革と加工用の鉋


細革も一枚の革から長さ2尺(約60cm)幅5分(約16mm)に2本裁断し、厚さ1分(約3mm)に鉋を掛けて加工する。今では材料屋に行けば、加工された細革を売っているので鉋を掛けるという事はしないのでご存知ない方も多いと思うが、この鉋は一般に使われる場合は、板などを削るものと同じ形をしているが、本来削りカスになる部分が細革として使用される部分になる。
(上の写真参照)。

次に、中底のエッジラインを加工した傾斜に合わせて細革の一方の端を傾斜に切り落とし、裏側には「ヒョットコ」で、すくい糸の埋まる溝を掘る。また、すくい糸は1本縒りのマニラ麻糸を6本合わせて更に縒って作る(現在の市販の9本よりの糸より太くなる)。針足はおよそ1寸(約3cm)4針で縫う。すくい縫いに掛かる時間は、一足あたり1時間ぐらいが普通の速さである。

以下、次回に続く     革靴職人



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(6) 50年前の複式縫い製法(その1

2009年2月16日

若いころ、老人から良く昔話を聞かされたが人間歳を経ると誰かに若かりし頃の話をしたくなるらしい。私は、今でも気持ちだけは青年の時と変わらないつもりだが、最近やたらと昔話をしたがるようになったということは、私もいつのまにやら「気になる歳」になっているらしい。

私が靴業界に入ったのは、昭和20年の終わり頃、東京新宿区で靴職人に弟子入りしたのがスタートである。当時、新宿駅近くで「田中屋靴店」を経営し、靴の製造も行っていた田中治郎吉氏が会長となり「山の手製靴睦会」が発足し、私の親方「戸島美之助」も、山の手製靴睦会の会員であった。私は其処で、今では考えられないだろうが、5年間の靴作りの修行をしたのである。

皆様ご存知の「新宿コマ劇場」が50年を経過して取り壊されるということだが、私が靴業界に入った時は、その「コマ劇場」もまだ建てられておらず、そこには空襲で壊されたビルの瓦礫の山が築かれていた・・・。何時の間にか、靴業界に入って50余年が過ぎたということになる。

また当時、今のコマ劇場のある歌舞伎町の通りには、「荒井靴材料店」があり、その数軒隣に現在の「株式会社村井」が靴材料店を開店し、さらに数軒隣に「靴製甲の加工所」が、また斜め向かい側には「黒須ケミカル靴卸店」があり、山の手の靴関係者がよく集まる場所でもあった。


今年2月に、「50年前の複式縫い製法」で靴を作るところを見て、研修してみたいという人が現れ、それを引き受けることになり、毎週一日だけ研修に来られることになった。現在、ごく一般に使われている靴材料や、工具、接着剤を使った「複式縫い製法」の靴を作ったり、教えたりもしているので、ちょっと戸惑うところもあったが、心の何処かに、昔の製法を伝えて後継者に残したいという気もあり、大変なことを引き受けた反面、喜んだり、張り切ったりもしている。

昔の接着剤(現在は販売されていません)

今では使われていない古い工具の手入れや加工は私が行い、底材料等は研修に来られた方が一式揃えて持って来ることになった。製靴に使う接着剤は、当時使われていた「粉盤石」(昔のもので、今では製造されていない。写真参照)だけを使用し、他は一切使わずに作ることにした。

中底加工のリブ加工も、コンパスは一切使わず裁ち包丁一本で左右同型に加工。細革も一枚の革から裁断、鉋をかけて厚みを調整し加工。月型先芯も、一枚の天然革から裁断スキ加工をする。

アッパーの釣り込みの際には、カウンターポッケットと、先芯の入る甲革と裏革の間に、粉磐石を水で練ったものを使い月型と先芯を挿入し、19mmの丸釘を使用して釣り込むことにする。

以下、次回に続く   革靴職人





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(5) 「ヤハズコバ」       
                      
2008・.6.・29

今年も新宿駅近くのB学園で、「手作業によるグッドイヤー式製法」の実演依頼を受け、3週に分けて実施した。その際、「ヤハズコバ」についての技術の解説をしたあと、参考作品としてコバ加工を「ヤハズコバ」で仕上げて、生徒一人ひとりに手に取らせて触れさせて見せた。

昔から、「ヤハズコバ」仕上げは、手作業のコバ加工としては高度な技術とされている。展示会などに行くと、最近でもヤハズ仕上げの靴は時々見かけるが、何れも私が身に付けたヤハズコバとはだいぶ違っている。なんと表現したらよいか・・・・私の目には、残念ながら「ヤハズコバもどき、とでも言ったらよいのだろうか・・・・」のように見える靴が多いように思う。

ヤハズコバについては、20028月に「私の一言」でも一度取り上げたが、「ヤハズ(矢羽図)」と言う名前は、弓矢の「矢羽根」から付けられたと私は聞いている。本来「ヤハズ」の場合は、自分で「コバコテ」の加工から始まり、手作業で行う「コバ加工」の段階で、コテと加工したコバが「完全に一致」するように加工する。

ヤハズコバの場合は、上下斜めになっているコバ部分2()に、一度でコバコテを掛けないと美しく仕上がらないのだが、最近見かけるヤハズコバの靴は、上のコバ部分だけにコバコテが当っていて、下のコバ部分は、明らかに「後からコテを掛けた」跡があるように見える。

上下一度にコテを掛けるには、新しいヤハズ用のコバコテを、傾斜角度と上半分と下半分の幅と角度が同じになるように、自分で加工し直す必要がある。この作業は、コバ加工作業で、コバの包丁切りから→キヤスリ掛け→ガラス掛け→ペーパー仕上げをして加工した後のコバの角度に、ぴったりとヤハズコテが合うようにコテを加工しなければならないのである。したがって、この「コテの加工作業」は、靴のコバ加工よりも場合によっては大仕事になることもある。

このようにして出来上がった「加工されたコテ」と、「コバ加工作業で出来上がったコバ」が正確に一致したとき、上段の写真のようになるのである。

                               革靴職人

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(4) 洋チャン

2007.3.16

先日、「ふるさと探訪同好会」の皆さんと一緒に、千葉県佐倉市にある国立歴史民族博物館」と、成田市の「佐倉宗吾所縁の地(今から380年ほど前、当時の佐倉藩の悪政に苦しめられた農民を救うため、時の将軍に直訴して農民を救い、わが身は磔になった村の庄屋)」を訪ねた。

その行程の中で、宗吾を船で印旛沼の対岸に渡したと云う「甚兵衛の渡し」を尋ねた折、大きな「松ノ木」がありそれらの木のうち数本に大きな傷跡が残っていた。

松ノ木の傷は、今から60数年前の第二次大戦で日本が敗色濃厚となったころ軍用機に使うガソリンが不足して、国民に「松脂」を集めさせ、軍の工場で加熱分解し、「揮発分」を冷却して回収し燃料として利用するために傷をつけた時の跡である。

話は変わるが、Myシューズ工房に来ている生徒さんが「わたしの知人に松脂を取っている人がいるので、その人から松脂を分けてもらって靴の縫い糸に付けるチャンが作れるか」と、質問された。それに対する答えは「多分、駄目かもしれない」である。

靴加工に使われる「洋チャン」は、漢字で書くと「瀝青」と書き、chian turpentine の略という。松脂を加熱分解し、揮発分を冷却して回収した後の「残滓(のこりかす)」である。

靴の縫い糸に付けて使うようにするには、この「チャン」を熱で溶かし、油を混ぜて硬さを調節して、縫い糸に付けて防水と耐久性を増すために「すり込む」のである。

このチャンを、縫い糸に具合良く「すり込む」ための硬さの調節が厄介で、混ぜ合わせる「油の量」で微妙に硬さが変化する。ただ単に、糸の表面に塗るだけでは縫っている間にチャンは削り取られて落ちてしまう。糸の中まで滲みこませなければチャンを塗る意味がない。

 出し縫いなどしていて、縫い終わるまで糸に付けたチャンが、縫いはじめと変わらないように維持されなければならない。そのためには硬さの微妙な調節が要求される。したがって、夏と冬では混ぜ合わせる油の量も当然違う。

革靴職人


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                     (3 リブ加工 

                                                 
 2005年1月

  昔、私が靴職人として、グットイヤー・ウエルト式製法の手縫い靴を作っていた頃は今から45年ほど前になる。今、手縫い靴のテキストを作りながら思うに、わずか45年の間にも関わらず、この製法も少しづつではあるが変化している。

 「リブの加工」についてであるが、昔、私たち職人が行った方式と、最近、手づくり靴の工房などで教えている方式とは少し違ってきている。

 ちょっとお解りにくいかも知れないが、(1)が私のテキストに載せてある方式である。この様にして「糸を強く締めて」縫い合わされた靴は、1〜2年履いてから修理に出して分解すると、(2)のように「リブの外側」が鍵型に変形することがある。(3)は、最近の工房などで教えている方式である。

 「Goodyear−welt Process」グットイヤーウエルト式製法は、機械製靴法のことである。この製法は非常に 履きよく、外観も立派で型崩れがしない、と言う特徴がある。しかし、元々は手縫い靴の製法を、資材も多く掛かり、工程が複雑なために機械化されたものである。

 グットイヤー式の製法の特徴は、中底の加工にある。手縫い靴の場合は、中底に「リブ」を切り込んで作り、機 械製法の場合は「リブ」を貼り付ける。

 ここでチョット“うがった発想”をしてみると、もう一度上の図を見ていただきたい。私たちのように先輩の職人から「リブ」の作り方を習ったことが無い人がいたと仮定して考えてみる。

 昔の人が履いた靴を「分解して「リブ」の作り方」を研究したとする。それを見れば、変形した「リブ」の形が目の 前に現れる。そして、同様に(3)のように加工する。――これは全て「私の想像の世界」なので、誤解のないように願いたい。――

 洋書のテキストなどを見ても(3)のように「リブ」を加工しているものも見かける。特に、最近のイタリアでは殆どがこの方式を採用している。

 古くから伝わる、この複雑な製法の手縫い靴も、最近、何故か若者達に人気があるようだ。わざわざ手間を掛 けてまで作るだけの価値が有るとして、見直され始めたのかも知れない。

革靴職人

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        (
2
) 靴が鳴る

20040925

先日、都立皮革技術センター発行の「かわとはきもの」No 128号にも書いたのだが、昔の靴 職人は靴の履き心地とは関係が無いのだが、客の注文にはどんなことでも応じて作る努力を惜 しまなかった。

私の職人時代に、靴の注文に来た客から歩いたとき「キュッ、キュッ、と鳴る靴を作って欲し い」と注文され、前中物に「鳴り革」を加工して挿入し、踏まず芯には「白樺の樹皮」に手を 加えたものを挿入して作ることが流行った時代があった。注文主はその靴を履いて静かなホー ルなどで、「歩くと音の出る靴」に人の目をひきつけ、自分が洒落た靴を履いていることを自 慢したものだった。

これは、それとはちょっと話は違うが、終戦後、敗戦の中で落ち込む気持ちを「りんごの歌」 というタイトルの歌を歌って、市民の気持ちを明るくしてくれた女性歌手がいた。

当時の歌手は舞台中央のスタンドマイクの前で、あまり体を動かさずに歌ったものだが、この 女性歌手は、今の多くの歌い手のように舞台をところ狭しと動き回って歌っていた。

その女性歌手は小柄で足のサイズも小さく、銀座の某靴店で靴を注文していたのだが、その靴 を、銀座の靴店と取引のある靴メーカー(私が職人をしていた)が受注し、職人仲間のSさん が作ることになった。

このSさん、靴つくりの技術は高いのだが、遊び心(悪戯気)のある人で、女性歌手の歌いな がら動き回ることが気にいらないようで、その靴にちょっとした仕掛けを作った。勿論、誰が 見ても、障っても気付かないというかなり高いレベルの仕掛けだった(仲間の職人は側でその 仕掛けを見ていたので判っている)。

 そして後日、その歌手がSさんの作った靴を履いたとき、歌謡ショーのステージで、いつもの ように軽快に舞台を「動き回れないこと」を確かめるため、職人仲間を連れて見に行くといっ た念の入れようだった。

昔の職人は、直接自分の収入に結びつかないことでも、自分の技術の高さを自慢したかったのかもしれない。                    

革靴職人




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(1) 「毛ばりの取り付け」                   
                                          
2004・08.・08



毛ばりが取り付けられた縫い糸

手縫い靴の場合、出し縫い作業や中縫い作業をするとき、日本では毛ばりを使う。毛ばりは猪の怒り
毛を使うことが多い。この毛ばりが近頃は国産の品は殆ど無く、多くは中国から輸入されたものである。

この毛ばりは新鮮なものほど使いやすく、古くなると毛根の水分が無くなり、毛根が球状ではなくなっ
てくる。これは、出し縫い作業の場合は影響が少ないが、中縫い作業となると、毛ばりの先が縫い糸
に挟んだ時抜けやすくなってしまう。また、同時に途中で折れ曲がった場合、元の状態に戻らなくなっ
てしまうのである。毛ばりの購入を考えている方は、これらのことに十分注意して購入するとよい。

出し縫い糸に毛ばりを取り付ける場合、縫い糸の先端を筆先の様に徐々に細く加工してからチャン(松
脂と油を混ぜて加工する)を塗布し、その先端に毛ばりを取り付けるのである。毛ばりの取り付けは、
慣れないと旨く取り付けられない。出し縫い糸の先端を限りなく細くすることが肝心で、その糸先と毛ば
りの毛先側にチャンを塗り、縄を縒るように巻きつけるのだが、「縫い糸は柔らかく、毛ばりは弾力性は
あるが硬い」ので、性質の違う両者を縄状に縒り合わせることは慣れないと非常に難しい。しかし、こ
れが旨く出来ないと、縫い作業に進めない。旨く出来ないままの状態で縫い作業を進めると、途中で
毛ばりと糸が離れてしまう。手縫いを志す方は、時間が有りましたら練習してみてください。

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