###################################
更新日 2012年5月26日
靴作り思い出話し(5) 2012年5月26日
5月も後半となり、初夏を思わせる日差しの強い日が続くようになってきた。
最近テレビなどで夏のファッション等が紹介されている中で、モデルが厚底サンダルを履いて出てくるのを見て古い昔を思い出した。
そこで、昭和30年代の婦人靴について少し書いてみようと思う。終戦後、アメリカの進駐軍(駐留軍)が東京に数多く入ってきた、その米軍隊員の夜の遊び場で相手をする日本人女性達が、身長の差をカバーするために靴の前部を厚底にし、ヒールを高くした厚底のハイヒールの靴を履いた。それが動機となって(?)一般の女性達も厚底靴を履くようになり、とても流行った時期があった。
もともと、終戦前までは一般の女性が着物以外に着るものは簡単な洋服で、私の母などは、夏になると簡単な洋服を着ていても足元は草履や下駄を履いていたのを思い出す。当時は御洒落な洋服に靴を履いて歩く人は限られていたものだった。
戦後進駐軍の来日によって急速に洋風化され、キャバレー勤めの女性が厚底靴を履くようになって以来、一般の婦人靴の需要も急速に伸び、靴職人たちが良い思いをする時代が来たのだった。
私も、30年代は婦人靴の職人として厚底靴も一時期作っていた。当時は中底と革表底の間に入れる底材には厚い「コルク」を加工して甲革を巻き付けて取り付けたものだが、現在のような接着剤がなかったため、マッケー縫いの要領で、中底、コルク、表底までの三枚を長い錐で穴をあけて縫いつけたものだった。
しかし・・・、その中縫い作業が実はとても大変な作業で、糸先に取り付けた「毛バリ」で縫おうとするとき、錐で開けた穴に毛バリを手早く通さないとコルク部分が塞がってしまうので、太くて長めの毛バリを選んで使うとか、「荷札用の細い針金(荷物を郵便局から送る場合に宛先を書いて取り付けるもの)」を糸先に取り付けて縫ったみり等々と、靴職人たちは苦労したものだった。
当時と比べると、今の「厚底靴」は、強力な接着剤のおかげで簡単に作れるようになったものだと思う。
革靴職人
###################################
靴作り思い出話し(4) 2012年4月21日
4月も半ばを過ぎ、桜の花も散って葉桜の季節になってきた。年度替りで何かと忙しく「靴作り思い出話」を書く時間が取れず、ついつい今日まで延び延びになってしまった。
前回、靴型サイズに関する顛末記を書いてみようと思うと言ってその後、昔の資料を調べていたら「靴産業百年史」から以下の写真を見つけた。
昭和34年1月から尺貫法が改正されて、メートル制で表示することに決まり、従来のように需要者がタビ文数で注文し、業者間では曲(かね)尺で取引している呼称を早急に一定する必要に迫られた。
靴サイズの統一は、靴業界で大正11年1月、東京靴同業組合が大阪靴商工同業組合と呼応して、メートル制を採用するに決定したのが最初だそうだが、当時の靴職人は殆どそのことを知らなかった。
今まで、曲尺で靴型にサイズが刻まれていたものが、新しい靴型にメートルサイズで数値が刻まれて、それを理解するのに大変戸惑った。、まず、「文数10文3分 = 曲尺8寸2分 = メートル24センチ5ミリ」と覚えて、次に「1サイズ」上下に替わるごとに、曲尺の寸法を無理やり「5ミリ等差」に替えて当てはめる。という方法でサイズを覚えたものだった。
しかしながら、注文靴の場合足型を採っても咄嗟に「曲尺」の寸法をメートルサイズに変換するのが面倒だったり、間違えたりで大変な思いをしたものだった。
また、そのサイズ換算に困っている靴職人に応えて、巻尺業者が「表側にメートルサイズ」、「裏側に曲尺寸法」と表裏別々の数値を入れた巻尺(今でも私は、2本持っている)を作って販売してくれたのには靴職人にとっては大変有難かった。当時、この手の巻尺はかなりの量が売れたのではないかと思う。
参考までに、当時私が使っていた8寸2分の靴型(材質、みずめざくら)1足を、技術専門校台東分校3Fの資料展示室に展示してありますので、興味のある方はご覧ください。
以下次回
革靴職人
###################################
靴作り思い出話し(3) 2012年3月6日
今年になってテレビ放映で「女性タレントが、靴工房」を訪ねる番組を2度ほど見たが、その工房で作られている靴を見た時、私の眼には、昔「売れる靴コンテスト、靴の名人コンクール」等で作られた靴や、現在、銀座の一流店で売られている靴とは、大分違って見える。その靴を今の消費者が「よし」とするならば何も言うことはないのだが・・・。
前回、昭和30年代前半の当時の靴工の平均賃金が14.948円と東都製靴協組が発表したと書いたが、その当時は機械製の靴より手作業で作られる靴が主流を占めていた時代で、靴職人は技術的(履き心地のよさを含めて)にも、見た目にも洗練された靴を作ることに凌ぎを削っていた時代で、収入は非常に高かった。したがって、小遣い銭も今よりは少しは増しに使える筈だったが、靴職人が主に使う小遣銭は、飲み屋で飲み代を払うぐらいが関の山だった。したがって当時は真面目に働けば、かなりの貯蓄が出来た時代でもあった。(現在の靴メーカーの初代社長の中には、当時靴職人で資金を貯めて靴メーカーを立ち上げた方もいる)。
当時の靴の生産は、手作り靴が主で、靴の需要に追い付けなく靴職人は不足気味で、私などは年末のクリスマスの頃は、ラジオから流れる銀座の賑わいを聞きながら深夜遅くまで靴作りをしていた経験がある。
その頃は、気の短い靴職人などは職場(靴工場)で何か気に入らないことがあると簡単に辞めてしまう人も(1〜2か月ぐらい仕事を休んでも生活に困らなかった)いたが、次の仕事場(職場)には事欠かなかった。それどころか、「腕の良い職人」は仕事帰りなどに別の靴工場からの誘いの手が掛かってくるという靴職人には有難い時代でもあった。
そんな時代背景だったので、私は幸運にも幾つかの靴工場を経験しながら、各種紳士・婦人靴を始め、登山靴、スキー靴、各種スケート靴、野球用スパイク、サッカーシューズ、競輪シューズ等々の靴製技法を身に付ける事が出来た。
それらの技術を身につけられた事が今の仕事に役立ち、お金に替えがたい大きな「財産」となっている。
今から10数年前、「台東分校」で指導員をしていた頃のこと、ある生徒から「先生、ボロネーゼ゙製法を知っていますか?」と聞かれ、「知らない」と答えた後、その製法をよく聞いたところ、50年も前に作っていた製法なので驚いたことがある。
ボロネーゼ、オパンカ、ステッチダウン、パンタロンシューズ、ノルウイージャン、カリフルにヤ・プラット等々、現在では殆どの製法を「カタカナ」語で呼ばれているが、それらの製法の靴は、昔の靴職人は作っていたが、当時の靴職人も私同様、その「製法の呼び名」は知らなったと思うが、それらの靴作りには何の支障もなかった。今思えば何か変な話しだと思う。
次回は、昭和34年のメートル法実施に関連して、靴型サイズなどの顛末記を書いてみようと思う。
以下次回
革靴職人
大変お手数ですが、お時間が有りましたらご感想など、お聞かせください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★