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歴史時代小説の豆知識
雨神 音矢
1
1.刀 その1
〇刀の長さと名称
A:刃の長さ、大きさによる名称のちがい−−−江戸時代の基準
(注:1尺=約30.3cm 1尺=10寸 1寸=10分)
大刀=だいとう。1尺7寸以上。標準は2尺3寸。2尺8寸以上の長刀は禁止。
小刀=しょうとう。1尺7寸未満。標準は1尺5、6寸。
大刀とともに差す小刀を脇差という。差し添えの意味だが、ほとんど小刀と同義
に用いる。庶民も旅に出るときは護身用に小刀を差す。これは大目に見られた。ただし、
1尺7寸以上の長脇差は禁止。渡世人が大刀を一本差して長脇差(ながどす)などと称
するが、むろん許されてはいない。
短刀=たんとう。9寸5分以下。9寸5分は短刀、合口、懐剣などの別称でもある。
B:用途、時代による名称のちがい−−−鎌倉、室町、戦国期
太刀=たち。刃を下にして腰につるす。馬上で用い、片手で扱うのに都合よくできてい
る。拵えも刀とは異なる。刀より軽いものが多く、反りもきつい。
打刀=うちがたな。後世の刀に同じ。太刀より重く、刃も厚い。歩行戦に用い、両手で
扱う。刃を上にして腰に差す。
腰刀=こしがたな。1尺1寸余。武士にとっては、後世の脇差に用途が似ている。庶民
にとっては、多用途に用いる実用刀であった。
鎧通=よろいどおし。組討ちのさいに用いる。9寸5分の短刀だが、反りがなく、刃は
厚く、切っ先が鋭い。
2
1.刀 その2
〇刀の長さが勝負を決めた例
歴史上もっとも著名なのは巌流島の決闘であろう。佐々木小次郎は物干し竿と陰口を
きかれた長刀を使う。秘剣「つばめ返し」になくてはならぬ得物である。「つばめ返し」
の枢要は、相手との間合いをいかに見きるかにある。長い刀を持つ小次郎は、相手の間
合いに入る前に、己の間合いで刀を振ることができた。小次郎は己の間合いに入る直前
に初太刀を見舞う。それをはずした相手は、しめたとばかりに打ち込んできた。だが、
小次郎への間合いにはわずかに遠い。次の瞬間、空を切ったはずの小次郎の刀が猛烈な
勢いで跳ね上がってくる。それを避ける手立ては相手になかった。
宮本武蔵は小次郎の刀法を事前に調べ上げていた。武蔵が相手の術を知らずに戦った
ことは一度もない。
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」
武蔵はこの兵法の忠実な実践者である。勝てそうにない相手とは決して立ち会わなか
った。これが、六十余度も真剣勝負に臨み、武蔵が生涯負けなかった最大の理由である。
「つばめ返し」を知った武蔵は、即座に勝ないと判断した。しかし、小次郎の公然たる
挑戦に遭い、こんどばかりは逃げるわけにいかなかった。
そもそも、武蔵の二刀流も、大刀を片手で振るため、リーチの長さで優位に立って
きた。左の小刀は防ぐ一方で、攻撃の主体はあくまで右の大刀である。重い大刀を片手
で振るだけの腕力があるがゆえに可能な剣法だった。それも、物干し竿の長さには及ば
ない。考えあぐねたすえ、武蔵は舟の櫂を削って得物とした。それなら物干し竿に負け
ない。結果はごぞんじのとおりである。
3
1.刀 その3
〇短刀の名品=薬研藤四郎(やげんとうしろう)
大刀の傑作は数々あるが、短刀となると意外に少ない。その中の一品がこれ。鎌倉時
代の刀工、京の粟田口藤四郎吉光の作。薬研とは、薬草や薬石を挽く鉄製の道具である。
なぜ薬研藤四郎といわれるか。こんな話が残っている。
室町期の武将畠山政長は、細川政元に河内正覚寺城を攻められ、いよいよ落城という
おり、自刃しようとして短刀を腹に突きたてた。しかし、なんど試しても腹に刺さら
ない。できの悪い短刀だと、政長が床へ投げつけると、そこにあった薬研にスパンと突
き立った。政長は結局脇差で自害するが、この話が後世に伝わって、
「藤四郎吉光の短刀は、切れ味は抜群だが、主人の腹は切らない」という評判が立った。
そこで、明日はわが身の戦国武将たちが、千金を積んで争い求めることになる。この
薬研藤四郎、主人の腹を切らないばかりか、首を繋いだことさえあった。
永禄10年に織田信長が足利義昭を奉じて入洛したさい、それまで敵対していた大和
の領主松永久秀は、急遽和を講じて臣従を誓った。そのおり信長に献上したのが、この
薬研藤四郎である。松永は天正元年に信長を裏切ったが、情勢不利とみて、またまた信
長の前に這いつくばる。このときは、名刀「不動国行」を差し出したという。この久秀、
懲りもせずに謀反し、織田軍に信貴山城を攻められ、三度めはついにならなかった。天
正5年のことである。もっともこのときは、さすがの久秀も信長に赦免は乞わなかった。
4
1.刀 その4
〇刀の形
A:剣( ツるぎ)
西洋風の両刃の剣。日本では古墳時代の銅剣に見られる。
B:直刀(ちょくとう)
反りがない。日本では古代の刀に多く見られる。正倉院の刀剣はすべて直刀。
C:いわゆる日本刀
平安期以後のもの。鎌倉期に完成した。
D:異形の太刀
上記に属さない太刀が現代に残されている。
小烏丸(こがらすまる)=反りがあり、全体としては、太刀の形をしている。しかし、
刀身の先半分が両刃の剣になっていた。その独特の形から、剣太刀と称される。
日本刀の祖大和国宇陀郡の天国(あまくに)の作とされるが、室町前期のものとい
う説が有力。室町幕 府の政所執事である伊勢家に伝えられた。伊勢氏は李衡(すえひ
ら)流の平氏で、小烏丸は平家重代の名刀とされる。伊勢氏は、武家有職故実の高家と
して、徳川幕府にも仕えた。江戸時代中期、伊勢貞春が家宝として所持していたことが、
根岸鎮衛の耳袋巻五にのべられている。幕末には、対馬藩主の宗義達が保有していたこ
とが知られるが、伊勢氏から対馬へ渡った経緯は明らかでない。明治維新を迎え、勤皇
派だった宗義達は、小烏丸を明治天皇に献上した。平家重代の名刀は、今や御物となっ
てどこかの倉に眠っている。
5
1.刀 その5
〇刀の反り
鎌倉期以後の大刀には、必ず反りがつけられている。なぜか。西洋の剣は突きを主と
するが、日本の刀は切ることに力点を置くからである。
刀は人を切るための武器である。人を切るには、相手に刃を当てて引く動作がどうし
ても必要になる。包丁で肉を切ったことのある人ならだれでもそれは知っていよう。強
く叩いても肉は切れない。ところが、軽く引くとすっと切れる。むろん、よく研いだ刃
の場合だが。刀が長いのは、リーチだけの問題ではない。深く切るためには、大きく引
かねばならぬからである。
二・二六事件を扱った日本映画に、ある士官が上級将校を切るシーンがあった。軍刀
の鍔元を相手の肩に押し付け、体重を掛けてそのまま切り下げたのである。切っ先まで
刃を引いたところでやっと血が噴出す。
これはリアルな表現だと感心した。時代劇もこうでなくちゃおもしろくない。しかし、
この映画の場合、相手の上級将校は不意打ちに遭ったため、完全に無抵抗であった。よ
ほど腕が違わないかぎり、チャンバラの最中にこんなまねはできない。まな板の上に載
った肉ならだれでも切れるが。
そこで、やっと反りの登場である。人間が刀を振る動作は、たいてい回転運動になる。
直刀だと、刃が対象に対して直角になりがちとなる。つまり、叩く結果に終わってしま
う。刀に反りがあると、刃が必ず斜めに入り、期せずして引く動作をもたらす。たたっ
切るぞ、などとわめきながら、実は引き切っていたのである。日本刀の性能の高さのお
かげであった。
6
1.刀 その6
〇反りを使った刀法
刀の反りを受けに使う刀法がある。
己は正眼に構え、切っ先を敵の目に擬す。敵が正面から切りこんでくるや、己の刃を
横に返し、敵の刃を反りに沿って受け流す。同時に突きに出て敵の目を刺すのである。
受けが攻めでもある必殺技であった。これを直刀で行なうと相打ちになってしまう。刀
に反りがあるため、敵の刃は横へ流れてくれるのである。
刃の反りを使わず、峰の逆反りを使う刀法もあると聞く。逆反りに敵の刃をからめて
巻き上げてしまうのである。ただし、実用に適するかいなかは保証のかぎりではない。
刃の反りを使っても、外されまいと敵の刃が反りに沿って回りこんでくることがある。
これで相打ちになってはしまらない。その場合の最後の砦は鍔である。
〇鍔を使った刀法
日本刀の鍔は西洋剣などと異なり、利き腕の手を完全に隠すように、円形か楕円形を
基本にしている。むろん鉄製であり、頑丈で分厚い。切り合いに堪えられる構造なので
ある。鍔で受けることを当てにして、しゃにむに攻撃する刀法はいくらもある。たとえ
ば、切りこんできた相手の刃を、刀を振りかぶりざまに鍔で止め、そのまま相手の頭上
へ打ち下ろす刀法。
一方、真剣での立会いとなると、最も狙われやすいのは利き腕の小手である。切っ先
からいちばん近いので、腕がよほど違わないかぎり、小手を的にしての戦いとなりがち
である。大きくて丈夫な鍔が、小手を打つのにいかに邪魔になるか。鍔が生死を分ける
ことになるのである。
江戸期になると、鍔を銅で作ったり、ひどいときには皮で拵えたりすることがある。
刀が実戦から離れ、装飾品に成り果てた結果である。ひとかどの武士は、さすがにこの
ような刀は差さなかった。
7
1.刀 その7
〇刀の切れ味
刃はなぜ切れるか。
「刃の先端が鋭く尖り、滑らかであるから」?
[先端が鋭く尖り]は正しい。だが、後半の「滑らか」がいけない。「滑らか」では切
れない。よく研いだ刃を顕微鏡で見ると、実はノコギリの刃のようにギザギザしている。
切れない刃ほど平滑なのである。包丁や日本刀の刃も、微細に見ればノコギリの原理で
切っている。ノコギリは引かないと切れない。包丁も日本刀も引いて切るのである。
昔、武家屋敷の門脇に盛り砂がしてあった。テレビや映画の時代劇でこれを見ること
はまずない。なにをするためのものか。真剣勝負に出るさい、差した大刀の刃をこれに
打ちつけ、わざと刃をギザギザにするのである。この方がよく切れることを本物の武士
は知っていた。人間を切るには衣服ごと切らねばならぬ。致命傷を加えるには骨までき
らねばならぬからである。
白黒フィルムの映画で、こんな一場面を見たことがある。中村錦之助(当時)が決闘
の相手を待つ間に、近くの岩に大刀の刃を押し当ててゴシゴシやっていた。わざと刃を
ボロボロにしたのである。切れぬようにするためでないのは、その後かれが敵を見事に
切り倒したのをみれば瞭然である。
台所の奥様方、包丁はよく研いで、刃をノコギリにしてお使いください。ゆめゆめ丸
坊主にしてたたっ切らぬように。
8
1.刀 その8
〇鍛刀
日本の刀工は世界一である。これは無条件に誇ってよい。鍛えられた刃金のすばらし
さ。硬すぎず、軟らかすぎず、心憎いばかりである。硬すぎれば折れやすく、軟らかす
ぎれば曲がってしまう。硬さと軟らかさの絶妙のバランス。わが刀鍛冶は、いかにして
それを達成したか。
材料は玉鋼(たまがね)である。これを、ふいごを使った炭火で熱し、灼熱したもの
を金床の上で叩き延ばす。鉄が冷めると再び灼熱させ、折り返してまた叩く。これをい
くども繰り返すのである。
この作業によって、燐などの不純物が叩き出され、炭素量は0.7%へと半減する。鉄の
塊は鋳物状態から、硬すぎず、軟らかすぎない、優れた炭素鋼へと変身していく。炭素
量は硬さのバロメーターである。
くりかえし折り返されるため、鋼は層状に積み重なり、強靭な刀身となる。層構造は
粘りのバロメーターである。何度も折り返すことによって、理想的な強靭さが得られる。
鍛刀が済むと、いよいよ焼き入れである。焼き入れとは、灼熱した刀身を水に漬けて
急冷却する作業である。硬い刃を作る工程であるが、刀全体を硬くしてはいままでの努
力が水の泡となる。表面、特に刃の部分のみ硬くし、中身は軟らかさを保っておかねば
ならない。焼き入れの前に刀身に塗る焼刃土の厚薄や、焼き入れのさいの水の温度、水
に漬ける時間などでそれが決まる。これは各流派の秘中の秘である。これによって、よ
く切れるが折れにくい、世界に冠たる日本刀ができあがる。
(注:焼刃土=粘土+炭の粉+荒砥の粉)
9
1.刀 その9
〇刀の鑑賞
1.柄を握り、まっすぐ刀身を立て、姿を見る。寸法、身幅、重ね(刀身の厚み)、反
り(腰反り、中反り、先反り)などを見て、時代の見当をつける。
2.刃紋を見る。刃紋とは、刀身の刃先の白い部分で、焼刃ともいう。光にすかすとわ
かりやすい。刀身に沿ってまっすぐに紋様がついたものを直刃(すぐは)といい、それ
以外を乱れ刃という。
乱れ刃には、小乱れ、丁字乱れ、重花丁字、蛙子(かわずこ)丁字、互(ぐ)の目乱
れ、湾(のた)れなどがある。
3.地鉄を見る。焼き入れし、研ぎ上げた刀の平地には、刃紋とは別にさまざまな紋様
が現れる。折り返し鍛錬によってできた地肌の紋様と、焼き入れによってできた地肌の
働きが見所となる。地鉄の肌は、板目肌、杢目肌、柾目肌に分かれる。
4.刃紋と平地の境目も見所の一つ。
沸(にえ)=銀砂子をまいたようにキラキラ光って見えるもの。
匂(におい)=霞のようにボーツと見えるもの。
地沸(じにえ)=平地に沸が一面についたもの。
湯走り=地沸が放れ雲のようになったもの。
地景=地鉄の中に、他と異なって黒く強く光るもの。
金筋=地景が刃の中にあってキラリと光るもの。
稲妻=金筋が大きく屈折して見えるもの。
映り=地肌に刃紋の影のように見えるもの。
5.目釘を抜き、柄の中にある中心(なかご)を見る。
錆色、鑢目(やすりめ)、銘の切り方などが見所。
10
1.刀 その10
〇大刀の差し方
大刀は左腰に差す。たいていの者は右利きだから、右手で刀を抜くのに都合よくして
ある。だが、左利きの者でも左腰に差した。西部の左利きガンマンのように、得物を都
合のよい方にもってくるわけにはいかなかった。刀の差し方は社会的な決まりであり、
この点では左利きはたいへん不利であった。
ところが、屋内に入って大刀を手でもつ場合は、必ず右手で鍔元の鞘を握らねばなら
ない。左手で大刀を持っておれば、右手ですぐさま抜けるから、相手に害意を持ってい
ると見られて
まう。この点では、左利きが有利である。社会的な決まりに従っていても、すぐに刀を
抜ける状態にあったわけである。
アメリカの西部劇映画に、左利きであることを隠して決闘に臨み、油断した相手を倒
す場面があった。日本の宮本武蔵も左利きだったという説がある。あの二刀流は武蔵に
しか使えなかったといわれるが、あんがいそんなところに二天一流の秘密があったのか
もしれない。
ともあれ、刀の時代では、右利きにするしつけが厳しかったから、現代のように左利
きが横行することはまずなかったろう。
では、左腰のどこに刀を差すか。しっかり締めた帯と帯の間に差す。決して帯と着物
の間ではない。帯と着物の間では、戦っている間にゆるんで、鞘が抜け落ちてしまう恐
れがあった。帯と帯の間なら、帯が緩まないかぎり抜け落ちることはない。それでも心
配なら、下げ緒で鞘と帯をグルグル巻いて固定しておく。そのための下げ緒である。
薩英戦争のおり、英国艦隊と砲撃戦をした薩摩武士が、こんな話をのこしている。敵
のアームストロング砲の狙いが正確無比なため、身近で何発も砲弾が炸裂する。夢中に
なって青銅砲で撃ち返していたが、戦闘が終わって気がついてみると、大刀の鞘がどこ
かへ飛んでしまっていて、抜き身を帯に差していたということである。
幕末の時代でも、刀は戦争の役には立たなかったが、サムライの末裔である旧軍の仕
官たちは、後生大事に日本刀を戦場へ携えていった。武器としてより、心のよりどころ
として、手放したくなかったのだろう。
11
1.刀 その11
〇特殊な大刀
A:仕込み杖
木や竹の杖のごとく見せ、中に本身を仕込むもの。商人や農民に化けた隠密がよく用
いた。中身は細身の直刀である。杖が太過ぎたり、反っていたりしては仕込とバレてし
まう。映画では座頭市の仕込がつとに有名であるが、あの逆手斬りでは相手に致命傷を
与えにくい。直刀ならやはり突きを本命とすべきである。勝新演じる座頭市が、フェン
シングのように突きに専念している姿を想像してみてください。たぶん、笑ってしまう
でしょうが。
B:忍者刀
忍びに適するように工夫された刀である。まず鍔。大きくて四角い。次に鞘。末端に
あるこじりが金物で作られ、尖っている。塀などに立て掛け、鍔に足を掛けて乗り越え
るのに便利。上にあがってから刀を引き上げるため、長い下げ緒を付ける。こじりは取
り外せる。鞘を水中で息抜き筒として用いるためである。刀身は直刀の場合が多い。大
刀といっても、脇差に毛のはえた程度の長さである。
C:奉納刀
大刀を蔵している神社がままある。武士たちが武運長久を祈るために奉納したもので
あろう。神戸の湊川神社の宝物殿には、長大な巨刀が幾本も陳列されている。祖神が楠
木正成だけに、霊験あらたかなのだろう
か。この巨刀群、刃渡り四尺は下らない。身幅も大きく、肉厚も太い。いくら豪の者で
も、持つだけで大変である。振りまわすなど、夢のまた夢。結局、純粋に奉納のために
作られたものであろう。
川中島の合戦を描いた映画にこんなシーンがあった。四、五人の足軽が力を合わせ、
刃渡り三間(18尺=約540センチ)はあろうかという、とてつもなく大きな刀の柄
を両腕で抱え、突撃してくる騎馬武者をものの見事になぎ倒していた。ちょっと信じが
たい演出であるが、鉄砲が主役の戦場のこととて、この足軽たちは敵の一斉射撃によっ
てあえなく撃ち倒されてしまった。
12
1.刀 その12
〇小柄
脇差の差し表に添えて差す小刀(こがたな)の柄をいう。転じて、小刀そのものをさ
すようになった。鞘を脇差の鞘に固定し、柄が脇差の柄にくるようにしてある。その場
合、脇差の鍔にそれに応じた穴が開けられている。映画やテレビの時代劇で、小柄を手
裏剣として投げるシーンに出くわす。
が、小柄を帯していた侍は、江戸の町では珍しかったろう。逆に、小柄と同じような
形をした笄(こうがい)を差していた者は多い。時代が下ると、武具より身だしなみが
大事になってくるのだ。幕末ともなると、衣服や髷ばかり気にし、ひとえに女性(にょ
しょう)の愛を得んとする武士が増えてきた。だからして、奇兵隊など、長州の農民兵
に苦もなくひねられてしまう。いくら西洋銃の時代だからといって、幕府軍の惨状もう
べなるかなである。
〇手裏剣
小柄を手裏剣として使うと書いたが、手裏剣術の各流派(根岸流、白井流など)はそ
れぞれ独特の手裏剣を持っている。小柄で代用したりはしない。技法に応じた手裏剣を
独自に開発しているのである。
ちなみに、手裏剣の打ち方には、直打法、反転打法、回転打法の三つがある。
直打法は剣先を前方へ向け、剣を回転させずに打つ技である。といっても、腕の回転
運動で投げるわけだから、手から離れた剣の軸線は飛ぶ方向に対してある角度を持つ。
的に当たる瞬間にまっすぐになるように打つのである。ここが難しい。
反転打法は剣先を持って、180度反転させて打つ。これも直打法と同様の難しさがある。
ボールを投げるように、的に当たりさえすればいいというわけではない。剣先がまっす
ぐ刺さらなければ失敗なのである。修行練磨の道をたどる以外に上達の方法はない。
これに対して回転打法は、ボールと同様当たりさえすればよい。忍者がよく用いる十
字手裏剣や八方手裏剣などの車剣を打つ技法である。しかし、車手裏剣では敵に致命傷
を与えることはできない。目に命中すれば話は別だが、たいていは目くらましになる程
度である。忍者は十字手裏剣をなげて敵をひるませ、その隙
に別の目的を果たすのである。
13
1.刀 その13
〇刀の思い出
現在、刀は銃刀法により原則として所持を禁じられている。美術品としてかろうじて
所持を許されるが、警察に届け出て登録をせねばならない。登録の要件はきわめて厳格
で、前科のある者などは認められないと聞く。たとえ登録しても、刀を携帯することは
できない。
そんな厄介な手続きがあるうえに、日本刀は実に高額である。銘のある古刀なら数百
万、ひょっとすると数千万円にも及ぶ。駆け出しの刀工の新作刀でも数十万はするとい
う。今では刀工の数も減ってきて、新作刀さえ多くは出回らないそうである。筆者のご
とき貧乏人が手にできる代物ではない。
そんな筆者にも、真剣を手にした思い出がある。子供のころ、たしか小学校の五年生
ぐらいだったかと思うが、近所の神社の蔵でそれを手にした。頑丈な鉄の扉のついた蔵
で、めったなことでは開かれない。筆者は宮前に住んでいたが、その鉄扉が開いている
のを見たのは後にも先にもその時だけである。祭りの準備かなにかで宮司さんが蔵を開
け、そのままにして社殿へ行ってしまった。いたずら坊主でならした筆者が千載一遇の
好機を逃すはずはない。さっそく蔵へ滑り込んであれこれ探索をはじめた。すると、蓋
を開けた長持ちの中に刀がいっぱいあった。一振り一振り取り出して抜いてみたが、管
理が行き届かないのか、どれも錆付いていた。がっかりしながら、最後に錦の袋に入っ
たものを取り出して抜いてみたら、息の止まるような氷の刃だった。筆者はギョッとし
て、おおあわてに刀を元通りにし、逃げるように蔵から飛び出した。
筆者が子供時代を過ごしたのは、尾張国の木曽川べりで、美濃国に接する片田舎であ
る。江戸の昔には、そのあたりの百姓が神社に刀を隠し持ち、一揆の折りなどに備えた
のであろうか。郷里を出て、はや四十年、今もその蔵に刀があるかどうか定かではない。
その神社の森の木を、六年生の頃だったか、軍刀で切ったことがある。当時中学生だ
った近所の大工の息子が、オヤジの軍刀を内緒で持ち出し、奥山と称する社の森で試し
切りをやったのだ。かなり太い木をものの見事にスパリと切っていた。筆者も切らせて
もらったが、刀がやけに重く、細い木でもうまく切れなかった。マサカリなら簡単に切
れるのに、と子供心に思ったものである。
14
2.槍 その1
〇槍の種類
A:柄の長さによって、長槍と短槍に分けられる。短槍は柄が6尺前後のものが多い。
通常は九尺ほど。九尺を越えるものが長槍。二間槍などといって、12尺に達するもの
もある。柄が長いと敵から遠くなり、それだけ恐怖感が薄らいで、いくさ慣れしない農
民兵に持たせても有効性を発揮する。戦国末期の勝敗を 分けた鉄砲と槍は、いずれも
百姓足軽の主武器であった。
B:穂先の大きさや長さによって、通常の槍と大身の槍に分けられる。大身の槍は、穂
先が長く、大きいも のをいう。突くことはむろん、刀のように切ることもできた。通
常の槍でも、穂先で切る槍法がある。たとえば、太股を突いて、引く拍子に内股を切る。
鎧武者でも内股だけはよろわれていないので、戦場では有効な手であった。
C:穂先の形によって、通常の槍と鍵槍に分けられる。鍵槍には、十文字槍や片鍵槍が
ある。三日月形の刃を擁する宝蔵院流の十文字槍が有名。これにかかると、いかなる剣
の名人もまず勝てない。武蔵が胤栄に勝ったのは手裏剣を用いたからだといわれている。
D:総体において、同程度の腕なら槍の方が圧倒的に有利である。馬に乗る戦国の武将
は必ず槍を小脇にかいこんだ。剣術の諸流派が本格的に発展するのは戦国時代が終わっ
てからのことである。戦場では刀より槍が巾を利かせた。実用性がものを言ったのであ
る。
E:一乗谷初代の朝倉孝景(英林)は、「名刀一振りより槍百本」と言い残した。名刀
一振りに大枚の金を遣うくらいなら、足軽に待たせる槍を百本作れと言いたかったのだ
ろう。しかし、下克上の時代を生き抜いて越前に覇をとなえた英林孝景の頭には、刀よ
り槍が有利という意識があったことは否めまい。単に金の問題だけではなかったはずで
ある。
15
2.槍 その2
〇槍術
現代に生きる槍術は数少ない。学ぶ者もまれであろう。その一つに佐分利流がある。
開祖は鳥取時代の池田輝政に仕えた佐分利猪之助重隆。四代目の重勝のとき、広島藩の
三原支藩に移り、明治維新まで栄えた。宗家は今も広島に健在である。この流派に属し
た著名人に大塩平八郎がいる。
佐分利流の槍は全長九尺。穂先は長さ2尺1寸、約64センチもあった。いわゆる大
身の槍である。穂先の形は両刀両鎬というから、西洋風の両刃の剣が付いていると思っ
たらいい。さらに、穂元から5寸余、15センチほど下がった所に鉄棒の片鍵がある。
佐分利流はこの鍵を利用して相手の武器や体勢を制し、「斬る」「払う」のを旨とす
る。「突く」のは止めを刺すときだけである。
第11代宗家の川瀬元一氏は次のごとくのたまう。
「槍は突きもすれば斬りもする。打ちもすればすくいもする。佐分利流は突き三分、抜
き七分。抜くときに斬る。突きは抜きの稽古でもある。抜いて斬るだけではない。押し
て斬ったり、槍をしならせて斬ったりする」
さらに、
「槍は右手で石突きを強く握り、左手は軽く支えて柄を滑らせる。体を前後左右に動か
し、槍は長くも遣えば短くも遣う。すなわち、広い所では長く、狭い所では短く遣う。
九尺四角の部屋でも、九尺の槍を自在に扱えなくてはいけない」とおっしゃる。
名人に死角はない。この宗家、異種試合が得意という剣術家と立ち会ったことがあっ
た。そのおり、自らは無傷のまま、30本以上突きまくった。戦前の、武徳会広島支部
での出来事である。タンポ槍でよかった。真槍なら、その剣術家は30回も死んでいな
ければならない。文字通り、まったく「刃」がたたなかったのである。
16
2.槍 その3
〇槍対刀
前回、槍対刀の昭和の異種試合を紹介したが、江戸時代に真槍対真剣の決闘があった
であろうか。すぐ目にとまったのは、かの有名な伊賀鍵屋ヶ辻の敵討ち。
寛永11年の11月6日。いつもより寒い朝のことである。荒木又右衛門は、甥の渡
辺数馬、家来の岩本孫右衛門、河合武右衛門とともに、仇である河合又五郎の一行を伊
賀の鍵屋ヶ辻に待ちうけた。先頭をくる騎馬三騎。又五郎を間にはさみ、叔父の河合甚
左衛門、妹婿の桜井半兵衛とつづく。槍持ちが馬の横にそれぞれ付いていた。後に連な
る徒歩は20名にも及ぶ。
そんな五倍余の敵に、荒木らは刀だけで立ち向かわねばならなかった。荒木が甚左衛
門に、数馬が又五郎に、孫右衛門と武右衛門が半兵衛に掛かる手筈である。荒木は孫右
衛門と武右衛門に、半兵衛に決して槍を取らせてはならぬと厳命していた。半兵衛は十
文字槍の遣い手である。荒木が向かう甚左衛門も槍一筋で身を立てた家柄であった。柳
生新陰流の達人といえ、甚左衛門に槍を取らせては荒木も手に余る。
荒木は物陰から飛び出し、馬に乗った甚左衛門の右足を斬り落とした。片足で馬から
下りる甚左衛門を豪刀来金道で拝み打ち。一方、孫右衛門と武右衛門が半兵衛に掛かっ
た。ひらりと馬から下りた半兵衛、槍持ちの三助に駆け寄ろうとするが、孫武が必死に
斬り立てる。三助が十文字槍を振るって背後から孫武に襲いかかった。武右衛門が三助
に横腹を突かれたが、孫右衛門が三助を切り伏せた。駆けつけた荒木が、刀の半兵衛と
渡り合ってこれを討ち取る。槍の半兵衛も、刀では荒木の敵ではなかった。半兵衛に槍
を待たさなかった荒木の作戦勝ちである。
真槍対真剣の決闘は、残る数馬と又五郎との間で行なわれた。又五郎が槍を取って数
馬に立ち向かったのである。数馬の弟を斬って逐電した又五郎、腕はなまくらで、穂先
をはずされてせっかくの槍を取り落としてしまった。これで勝負ありのはずだが、数馬
の腕も今一つ。荒木が他の従者を追い払い、敵はすでに又五郎一人となっている。刀を
抜いた仇と数馬は懸命に斬り合うが、相手も必死でなかなか討てない。
「自分の仇は自分で仕留めろ」と姉婿の荒木に叱咤され、それから5時間近く、ヨロヨ
ロになってようやく又五郎を討ち取った。
真槍対真剣の立会いはいたってあっけなく、刀対刀の仇討ちは牛のよだれより長か
った。現実はたいていこんなものである。
17
2.槍 その4
〇敵の槍先
鉄砲が伝来するまでは、弓が日本のいくさの主武器であった。武将から平侍に至るま
で弓をたしなみ、その上手、名人が強者ともてはやされた。どこそこの弓取りと称せら
れれば名誉このうえない。徳川家康が海道一の弓取りと称せられたのはその名残である。
したがって、中世武者の七つ道具
具足、刀、太刀、弓、矢、母衣、兜で、槍や薙刀は従者の持ち物であった。ちなみに、
母衣は騎馬武者が敵の矢を防ぐために背中につけるものである。疾走する騎馬武者の背
で、赤や青の布が風をはらんでいる様子が古絵図に見られる。
鉄砲が伝来して、弓の戦略的価値が失われると、武士たちは弓を捨て槍を取った。馬
に乗ると、薙刀より槍の方が有利である。西洋流の飛び道具などを持つのは武士の沽券
にかかわった。かくして、鉄砲は足軽ども専用の武器となり、侍たちは槍の扱いに身を
削ることとなる。どこそこの何本槍と称せられれば名誉このうえない。ちなみに、秀吉
配下の七本槍が有名。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安冶、糟屋武則、
片桐旦元の七人である。
何本槍と称せられるようになるには、普段の修練もむろん大切だが、それだけではこ
の名誉にありつくことはできない。場慣れ、いくさ慣れして、なによりも手柄をあげね
ばならない。相手が黙って首を差し出してくれるわけではないのだから。
戦場を駆け巡った古つわものが、初陣前の若武者に語って聞かせる話にこんなのがよ
くある。
「初陣のおりは、極度の緊張やら恐怖やらで、目がかすみがちになり、あたりが薄暗く
見えるもんだ。敵とぶつかっても、相手の槍先がまるで見えない。なんだか雲の上を行
くようで、実に頼りない。近くにいた先輩諸氏にいくど助けられたことやら。敵の槍先
が見えないうちがいちばん討ち死にしやすい。それが見えるようになるまでは、いくさ
慣れした者について働くとよい」
さきの大戦中でも、士官学校を出たばかりの陸軍少尉が、弾丸が飛び交う中でそんな
状態になり、古参の軍曹に助けられたという話がいくらもあった。そんな士官も、三、
四度砲火をくぐるうちに、泣く子も黙る鬼少尉に変貌していくのである。
18
2.槍 その5
〇槍の地位
戦国期以前の合戦絵巻を見ると、長物といえば薙刀であり、槍を持つ者はほとんどい
ない。源平合戦絵図しかり、蒙古襲来絵詞しかり。薙刀を担いで走る源氏や平家の家人
はむろん、鎌倉武士も馬に乗って薙刀を振るっている。薙刀がはじめて文書に登場する
のは、後三年の役(1087年)であるが、槍の方は三井寺の合戦(1335年)と、250年近
く出遅れている。
槍は太古より武器として存在していたが、戦国以前はまっとうな得物と認められなか
った。槍は下郎下賎の武器とされ、南都北嶺の僧兵などは、仏法を守る法器として薙刀
を主武器とみなし、槍を外道な殺人器と軽蔑した。
そんな槍をして、いっぱしの武人が修すべき兵法の地位にまで高めたのは、皮肉にも
南都の僧兵の親玉である宝蔵院胤栄であった。すでに薙刀の達人であった胤栄は、槍術
家の成田大膳と立会い、以後、薙刀を捨てて槍に転向した。武器としての槍の効用の高
さを思い知らされたのであろう。倒さねば倒されるという戦国まっただなかに生きた胤
栄としては必然的な選択であった。
胤栄の転身は、興福寺をはじめとした南都の僧兵たちの非難と憎悪をかった。しかし
胤栄は、旧習にしがみつくかれらの反発に屈せず、日夜槍術の腕を磨き、三日月形の横
鍵を持つ十文字槍を工夫して一流を開いた。宝蔵院流の無敵ぶりはつとに名高く、その
実力の前に荒法師どもも次々に槍へ転向していった。
胤栄以降、槍は戦国武士の正当な得物とされ、槍一筋といえば百石取りの武士を表す
までになった。一方、薙刀は戦場での地位を著しく下げ、太平の徳川の世ともなると、
御殿女中などの専用武器と成り果てる。
19
3.薙刀
〇薙刀術
薙刀は薙ぐ刀(なぐかたな)をつづめたものとも、長刀(ながかたな)から転訛した
ものともいわれる。
したがって、薙刀のほかに、長刀の文字も使われる。古い記録としては、「奥州後三
年記」に亀次と鬼武の薙刀試合が見える。
薙刀の柄は地上から耳の高さぐらいを標準とした。刃長二尺三寸以上を大薙刀、それ
以下を小薙刀とする。時代がさかのぼるほど大薙刀が巾をきかせた。源頼朝の遺品の中
に刃長四尺八寸の大薙刀がある。
戦国時代に鍔付きの薙刀が現れたが、一般には「出し鍔」といって形ばかりの物が多
い。
薙刀術には次の流派がある。月山流、先意流、巴流、静流、武甲流などである。この
うち戸田派武甲流は今なお健在である。
武甲流は戦国期の甲冑武術で、防備の薄い所を狙い、薙ぎ上げ、突き上げる。首筋、
咽元、横腹、股の内側などを斬る。石突きを有効に使うため、手の通いが多く、足さば
きにも厳しい。
武甲流には独特の武器として鍵付き薙刀がある。鍔にあたる部分に10センチほどの鉄
の横棒が通してあるのだ。これで相手の太刀を引っ掛けて落としたり、受けて進んだり、
相手の腕を押し上げたりする。槍に対しては、柄を押さえ込みながら間合いをんだり、
めることもできる。鍵槍に匹敵する有効な得物であった。
江戸期以降、薙刀が女性の武器になったのにはそれなりの理由がある。まず、間合い
が遠く取れ、刃と石突きの両方使えること。遠心力が加わり、非力な女性でも有効な打
撃を与えられること、などの利点がその理由として挙げられよう。
そんなこんなで、薙刀術は先の大戦まで女学校における学校武術として栄えた。戦
後は、古武術の一つとして伝承され、御宗家はたいてい女性であると聞く。現代では、
薙刀の全国大会も催されているそうである。
20
4.弓 その1
〇弓小史
古代の弓は丸木で、梓(あずさ)、檀(まゆみ)、槻(つき)、櫨(はぜ)といった
よくしなう弾力のある木で作った。苦竹に櫨を張り合わせて作るようになったのは平安
時代以降のことである。作り方も次第に工夫され、重藤(しげどう)、塗籠藤(ぬりご
めどう)、糸づつみといった弓が登場した。重藤は大将が用い、塗籠藤は士や雑兵用、
糸づつみは戦闘用である。日本の弓は七尺二寸ぐらいが基本の大きさであった。鎌倉の
武士たちは弓矢を「調度」と称して大切にした。
弓の強さ、弾力を示すことばに「何人張り」というのがある。ゆはず(弓の上下にあ
る弦をかける所)に弦を張るのに何人の力を要するかをいい、三人がかりであれば「三
人張りの弓」、五人がかりであれば「五人張りの弓」と誇示する。むろん、人数が多い
ほど剛弓である。
源為朝は五人張りの剛弓で矢先に立つ者を震えあがらせた。一方、海に弓を流した源
義経は、敵に拾われて弱弓が知れることを恐れ、家来に止められるのを振りきって必死
に回収に向かう。
弓は武器としてだけでなく、魔よけの道具としても用いられた。弦を引いて鳴らし、
悪魔を退散させる鳴弦の法や、大形の鏑矢である蟇目(ひきめ)を空に向けて射る妖魔
降伏法などがそれである。江戸期の武士たちは、「刀は武士の魂」と大事にしたが、武
器に宗教性や精神性を認めるのは、日本人の古くからの特長であるらしい。
鉄砲が伝来するまで、弓は合戦における最も有効な武器であり、天下を制する上で決
定的な役割を担った。それも、速攻に適した騎射が歩射より優れ、強い騎馬武者を多数
擁する軍が有利となる。弓上手の騎馬武者は、「あっぱれ、天下弓馬の士、武勇の輩」
とほめそやされた。源平から室町までの武士たちは、日夜、乗馬や弓射の術にいそしむ
ことになる。
21
4.弓 その2
〇弓術
a.実戦弓術
合戦には歩射と騎射がある。足軽、雑兵が弓で射合うのが歩射。武者が馬上で射合う
のが騎射。戦場では「一矢必殺」が求められる。射損じれば自分がやられるからである。
随波斎流の一宮随波斎は弟子にこう教えている。
「合戦の弓というものは、二、三間の距離で、相手を射倒すように心がけよ。弓で勝負
しようとおもったら、敵の槍先がこちらの拳に届くところで矢を放せ」
敵を手元に引き寄せても、射る姿勢が決まってないと鎧兜を射通せない。姿勢が決ま
っていても、気が散っていては命中させることができない。なにごとによらず、神経の
集中が大切である。
b.精神弓道
太平の世になると、精神面の修養が重視され、弓術から弓道へと変容を遂げる。日置
流の日置弾正は門弟へ次のように語ってきかせた。
「弓道は君子の争いである。礼に始まり、礼に終り、己に求む」
「君子は争うことはない。射は仁の道である」
日置弾正は、朝射ち三千、暮射ち八百を自らに課した。口でいうほど簡単ではない。
技を磨くとともに、刻苦に耐えて精神を修養したのである。
「君子は争うことはない。射は仁の道である」
日置弾正は、朝射ち三千、暮射ち八百を自らに課した。口でいうほど簡単ではない。
技を磨くとともに、刻苦に耐えて精神を修養したのである。
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4.弓 その3
〇昭和の弓聖 1
東北大学の講師(哲学、ラテン語)として1924年に来日したドイツ人、オイゲン・ヘリ
ゲルは、昭和の弓聖とうたわれた阿波研造に師事し、五年間にわたって日本の弓術を学
んだ。その修行の日々と師範の教えが、ヘリゲルの著書「日本の弓術」(岩波文庫)に詳
しく述べられている。ヘリゲルは、日本の弓術の精神性の深さにとまどいながら、やが
てその真髄を究め、弓道五段の免状を得て帰国することになる。
さて、仏陀も禅も知らぬ外国人に、阿波研造はどのように弓を教えたのか。
a.呼吸法について
「弓を腕の力で引いてはいけない。心で引くこと。筋肉をすっかり緩め、力を抜いて引
くこと」
こんなことを言われたら、現代の日本人でもおったまげてしまう。理詰めのドイツ人
においそれとは理解できない。
「あなたが弓を正しく引けないのは、肺で呼吸するからである」(師範)
(日本人はどこで呼吸てるんだ!−−−ヘリゲル)
「丹田で呼吸しなさい」(師範)
(師のいう丹田呼吸とは、複式呼吸のことらしい−−−ヘリゲル)
「丹田呼吸によって、力の中心が下方へ移され、力を抜いていても、楽々と弓が引ける
ようになる」(師範)
(ヘリゲルは、弓を引き絞っている師の両腕を触らせてもらった。事実、それらは何も
していない時と同様に緩んでいた。)
b.矢の射放し方について
「あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待つことを学ばなければなら
ない」(師範)
(無心はわからぬでもない。矢がひとりでに離れる? 矢に意思があるはずはないが−−
−ヘリゲル)
「待っても、考えても、感じても、欲してもいけない。完全に無我となり、我を没する
こと。まったく無になるということがひとりでにおこるようになれば、あなたは正しい
射放し方ができるようになる」(師範)
(次回へつづく)
23
4.弓 その4
〇昭和の弓聖 2
c.的に向かって
(仏陀が射る)
「的のことも、当てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢
が離れるまで、待っていなさい。成るがままにしておくのです」
(仏陀と一体になる)
「精神を集中して、自分をまず内から外へ向け、その内をも次第に視野から失うことを
習いなさい」
「的が次第にぼやけて見えるほど目を細める。すると、的は自分の方へ近づいてくるよ
うに思われる。そして、それは自分と一体になる。仏陀と一体になるである。これは心
を深くこらさないとできない」
d.狙わずに射る
「仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがって的の中心に在ること
になる。矢は中心から出て、中心に入るのである。だから、的を狙わず、自分自身を狙
いなさい。あなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射当てます」
e.師の射
ある夜、阿波師は的の前に一本の線香を点し、二本の矢を射た。ヘリゲルが自分の教
えに納得しないので、やむなく実証してみせたである。暗くて的は見えない。師は一本
めを放った。確認しに的に近づかなくとも、ヘリゲルには当たっていることがわかった。
師はつづいて二本めを放った。的のところへ行ってみると、一本めの矢が的に中心に突
き立っていたのはいうまでもない。驚いたのは、二本め矢が一本めの矢はずに命中して
それを二つに裂いていたことである。
阿波師は言った、
「こんな暗さで、さきに射た矢のはずを狙えるものか、よく考えてごらんなさい。的の
前では、仏陀に頭を下げるのと同じ気持ちになろうではありませんか」
ヘリゲルの「日本の弓術」により、阿波研造の弓道思想は内外の注目を集めるように
なった。
昭和の弓聖は、昭和14年3月1日に、六十歳でこの世を去った。
24
5.鉄砲 その1
〇鉄砲という語
天文12(1543)年、難破した異国船が種子島に漂着し、これに乗っていた二人のポルト
ガル商人によって日本に鉄砲がもたらされた。鉄砲という言葉も、この時に入ってきた
と思われる。しかし、これを持っていたポルトガル人が、島民に聞かれて「鉄砲」と答
えるはずはない。鉄砲はポルトガル語ではないからである。
ポルトガル商人が乗っていたのは中国のジャンク船で、他の乗組員は中国人であった
という。種子島の島民は、浜辺に書いた砂文字で中国人と意を通じた。漢字ならなんと
かわかり合えたのである。つまり、鉄砲は中国語だった。
ところが、鉄砲という語はもっと古くに日本へ入ってきている。鎌倉時代の文永の
役(1274年)と弘安の役(1284年)に蒙古軍が鉄砲を使用している。このときを描いた
「蒙古襲来絵詞」に「鉄はう」と書かれた武器が登場する。火薬によって鉄の玉を飛ば
す道具らしい。花火筒のようなものだったが、日本の騎馬武者はこれにおおいに苦しめ
られている。
NHKの歴史番組で、この「鉄はう」を、文字通り「鉄はう」と発音していたが、こ
れは鉄砲というべきであろう。「はう」は歴史的かなづかいでは、「ほう」と発音する。
さらに、歴史的かなづかいに半濁音はないから、「ぱう」も「はう」とかかねばならな
い。「鉄はう」は「てっぽう」と読むのが正しい。
砲という語は、中国にさらに古くから存在した。火薬も砲も、発祥の地はヨーロッパ
ではなく、中国なのである。砲は春秋時代の越で発明された。砲が石偏なのは、石を遠
くへ飛ばす武器であったからである。鉄の塊を飛ばすようになって、鉄砲といわれるよ
うになった。後年、西洋人が持つ銃を見て、中国人は、これ鉄砲なり、と思ったのであ
ろう。
25
5.鉄砲 その2
〇種子島銃
天文12年当時の島主、種子島時尭は、二万銭を払ってポルトガル商人から二丁の鉄砲
を手に入れた。そして、家臣の篠河小四郎に命じて火薬の調合を研究させ、刀鍛冶の矢
板金兵衛に鉄砲の製作を言いつけた。
矢板金兵衛は美濃出身で、砂鉄の豊富な種子島に渡って刀鍛冶をしていた。金兵衛は
苦心の末、数ヶ月でコピー銃を作り上げた。しかし、銃底部の雌ネジが作れず、焼き締
めて塞いだので、不発や暴発を引き起こした。この問題を金兵衛が解決したのは翌年の
ことである。ポルトガル船が再び入港し、鉄砲鍛冶が乗り合わせていたため、これより
雌ネジの切り方を学んだといわれる。
しかし、この話はうますぎる。一丁一万銭もする商品の製法をポルトガル商人がやす
やすと教えるはずはない。教えたとしたら、莫大な対価を払ったはずである。そこで、
金兵衛の娘若狭伝説が生まれた。ポルトガル商人が、雌ネジの製法を教えるかわりに若
狭を嫁にくれと金兵衛に要求したのである。父のため、若狭が泣く泣くポルトガルへ行
き、金兵衛は和製銃を完成させる。
この伝説に、堺鉄砲研究会の澤田平代表が異を唱えた。金兵衛は伝来鉄砲の雌ネジを
モデルにして独力でそれをつくりあげたというのである。それは、ヤスリで削った雄ネ
ジ(尾栓)を十分に焼き入れし、熱した銃底部に差し込み、周囲を叩いて雌ネジを刻ま
せる方法だった。大量生産はできないが、ピッタリ整合する精密なネジができあがった。
こうしたことは、当時の刀鍛冶が持っていた基本的な加工技術だったという。
模倣とはいえ、日本の刀鍛冶技術の優秀さが一年ほどで和製銃を作り上げた。その後
の日本の工業技術の進化過程を見れば、おそらく澤田説が正解であろう。そして、それ
を裏付けるかのように、種子島銃の製法はまたたくまに本土へもたらされたのである。
26
5.鉄砲 その3
〇火縄銃の構造
元栓付きの鉄の筒に導火孔が開いたもの。付属品として、火皿、火縄挟み、引金が
ある。火皿は導火孔に続き、ここに置かれた口火火薬に火縄挟みの火縄の火が点火し、
筒内の火薬へ燃え移って弾丸を飛び出させるのである。引金は火縄挟みが火皿へ落ちる
仕掛けだが、現代銃のように撃鉄式ではないから、銃身のブレが少なく、火縄銃は意外
に命中率が高い。火皿には火蓋が付いていて、誤って点火して暴発しないようになって
いる。火蓋を切るというのは、蓋を開いてすぐに発射できるようにすることである。こ
こから、戦端を開くという意味にも使われるようになった。口火を切るは「言い出す」
という意味に用いられる。
さて、種子島銃の矢板金兵衛が苦心した鉄筒の元栓はなぜ必要か。筒内を掃除するた
めに欠かせないのである。黒色火薬を使うので、硫黄が多く含まれていて、燃え滓が筒
内にこびりついてしまうのだ。火縄銃は先込め式だから、かるかを使って筒先からこそ
ぎ落とそうとしても、元の方がどうしてもうまくいかない。定期的に元栓を抜いて大掃
除してやらねばならないのだ。
ところが、いくさの最中にはそれができない。できないから、滓がどんどんたまって
くる。それによって筒内が狭くなってしまう。狭くなれば弾丸を挿入できなくなる。そ
うなれば玉を撃てない。撃てなくても敵は待ってくれない。どうするか。より直径の小
さい弾丸を挿入するのである。博物館などで、火縄銃の鉛弾が展示されていることがあ
るが、たいてい大きさがまちまちである。鉄砲足軽たちは、筒内の状況に応じて弾丸の
大きさを選んでいたのである。むろん、暇になったら元栓をはずして大掃除した。
後に造られる大筒には元栓がない。口径が大きいので、筒先から掃除すれば事足りる
し、そんなおおきな元栓を造る技術はなかったであろう。
27
5.鉄砲 その4
〇根来と堺
種子島銃の製造技術をいちはやく取り入れたのは根来と堺である。戦乱の時代であり、
京に近い両者は最新の武器に関心が高かった。黒潮によって琉球や南海諸島と紀伊沖が
一本につながっていたことも大きい。陸路よりはやく行き来できたのである。
根来寺の鉄砲由緒書によると、杉之坊が津田監物を種子島に派遣して鉄砲の製造を学
ばせた。杉之坊は根来の豪族津田氏が維持する根来寺の行人の坊院である。監物の弟の
明算が坊をとりしきっていた。根来に帰った監物は、根来坂本の刀鍛冶、芝辻清右衛門
に鉄砲の製造法を伝授した。尾栓の製法は前に書いたが、筒は心棒に細い鉄板をらせん
状に巻きつけて鍛造する。これくらいのことなら刀を造るより簡単だという。芝辻清右
衛門はたちまち大量生産に成功した。根来寺の行人たちが鉄砲の射撃技術を身につけ、
やがて戦国の世に隠れなき鉄砲集団、根来衆へと成長してゆく。
根来寺の行人坊には、近くの雑賀地方の豪族が維持するものもあり、鉄砲は雑賀衆の
主要武器となり、これが一向宗と結びついて織田信長を苦しめることとなる。
一方、堺では、やはり刀鍛冶の橘屋又三郎が種子島へ渡り、種子島銃の製造技術を取
り入れた。橘屋は鉄砲又と異名をとるようになる。堺は日本で最も製鉄鍛造技術の進ん
だ地域であり、鉄砲の一大生産地へと変貌していく。織田信長がいちはやくこれに目を
つけ、永禄11年に入洛したあと、堺を事実上支配下におさめてしまう。種子島に鉄砲が
伝来してからわずか25年後のことである。以後、織田の鉄砲隊が猛威を振るい、やがて
戦国史を終結へと導いていく。
28
5.鉄砲 その5
〇国友村
根来と堺につづいて鉄砲を製造しはじめたのは、近江の姉川中流域にある国友村で
ある。現在の滋賀県長浜市国友町で、かつて鉄砲の匠たちが住んだ白壁土蔵造りの家並
みが今も残っている。ここの鉄砲博物館には多くの火縄銃が展示されていて、戦国史に
興味のある人には見逃せないポイントの一つである。近くに、織田軍と浅井朝倉連合軍
が戦った姉川の古戦場もある。
「国友鉄砲記」によると、国友村が鉄砲の製造を始めたのは天文十三年二月のことであ
った。時の将軍足利義晴が管領細川晴元に命じ、晴元が国友善兵衛ら四人の刀鍛冶に造
らせた。国友善兵衛らは将軍義晴から鉄砲一丁を借り受けてこれを模し、天文十三年八
月に六匁玉の鉄砲二丁を将軍に献上した。
天文十三年というのはいささか疑わしいが、天文十八年に織田信長が六匁玉の鉄砲を
五百丁注文したという記述は、織田側の資料から信憑性があるという。ちなみに、六匁
玉というのは鉛弾の重さを表す。姉川合戦で浅井朝倉連合軍を破った信長は、さっそく
国友村を手中におさめている。
信長につづいて、秀吉も家康も国友村を重視し、村は長く砲兵工廠の役割を担って
きた。大阪夏の陣の頃が最盛期で、国友村には、鉄砲鍛冶七十三軒、鉄匠が五百人余い
たという。しかし、徳川三百年の太平の中で鉄砲需要は激減した。村はしだいに衰微し、
技術の向上もストップしてしまう。幕府は国友の技術を温存するために、毎年一定量の
鉄砲を発注しつづけた。それで幕末まで息をついてきたが、西洋銃が輸入されるように
なると、完全に息の根を止められ、博物館行きの運命となってしまう。
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5.鉄砲 その6
〇弾薬の装填
火縄銃は黒色火薬を使用する。黒色火薬は硝石(硝酸カリュウム)、硫黄、木炭の混合
物である。粉状にして、ほぼ、7:1.5:1.5の割合で混ぜる。硝石は日本で産しないので
輸入に頼るほかはない。戦国時代には、当時最大の貿易港であった堺が火薬の生産でも
他地域を圧倒した。
火薬は上にした筒先から決められた量を銃身内に入れ、その上へ弾丸を押し込む。か
るかと呼ぶ専用の棒が鉄砲に付属している。筒先を下に向けて発射するときは、弾が転
がり出ないようにさらに紙などを丸めて詰めこまねばならない。
弾は鉛製で、重さは6匁(6X3.75グラム)が通常である。これが、30匁ぐらい
になると大鉄砲となり、百匁(375グラム)を越えると大筒(大砲)と呼ばれる。匁は目
とも書かれ、百目玉筒などといわれる。
このように火縄銃は弾薬の装填に手間と時間が掛かり、速射に向かない。それでは騎
馬隊による速攻に敗れてしまう。そこで考案されたのが早合(はやごう)と呼ばれる一
種の薬莢だった。一発分の火薬を銃身に収まる形にして紙で包んだものである。火皿に
導火用の火薬を入れる前に、導火孔に竹串のようなものを突き入れ、紙を破って点火で
きるようにした。
鉄砲隊と騎馬隊の決戦といえば、いうまでもなく長篠の戦いである。そして、早合を
開発したのも、戦術の天才織田信長であった。どちらが勝ったかはいわずもがなである。
有効射程百メートルという鉄砲玉の威力の前に、豪勇無双の武田武士たちも次々に撃ち
落とされていった。日本の銃砲の進歩は信長に始まり、信長で終わってしまった。火縄
銃は戦国期のままの姿で幕末を迎えるのである。後に述べる大筒にしてもしかり。信長
があと30年長生きしたら、日本は少なくとも百年は早く近代化の道を歩んでいただ
ろう。
30
5.鉄砲 その7
〇数は力
鉄砲の登場は、戦術ばかりか戦略にも決定的変革をもたらした。
*戦術の変化
1.鉄砲隊による集団戦法の採用。兵力の中核が鉄砲足軽になり、武士の主たる任務は、
刀槍をもって戦うことから、足軽を指揮して戦わせることに比重が置かれる。
2.築城術の変化。中性式の山城から、複雑な郭群を構え、鉄砲狭間を備える平山城が
主流となる。
3.具足の進化。中世風の大鎧は矢を防ぐためのもので、弾丸はなんなく貫通してしま
う。弾丸を防ぐために、分厚い鉄板で覆われた当世具足が登場する。ただし、高価なた
め、武将クラスが使用した。関ケ原で家康が着用した南蛮具足は有名。
*戦略の変化
鉄砲は高価である。大量生産が可能になった豊臣時代でさえ、6匁玉筒が米九石に価
した。当時の足軽の給料は、年間米一石八斗ほど。鉄砲一丁で九人もの足軽を一年間養
えたのである。これを何千丁と装備するには莫大な経済力を要する。戦力は兵力から金
力へと変化したのである。
信長はこの点でも異彩を放つ。かれは敵国を切り従えると、以後その地を領する者か
ら知行百石につき黄金八両の割合で矢銭を取りたてた。戦費を償って余りある額である。
信長はいくさをすればするほど肥え太った。しかも、かれが進撃した先は、中部地方か
ら近畿地方という、当時もっとも生産力の高い地域である。米の生産量だけ比べても、
他のすべての地域に匹敵するといわれる。その上、生野銀山や堺といった、文字通り金
のなる木を真っ先に手に入れている。
信長が敵より劣勢の戦力で戦ったのは、尾張国内の覇権争いを除けば桶狭間だけであ
った。あとは、兵力物量ともに上回った時点で悠々と出兵している。「数は力、金は力
なり」を忠実に実践したのである。
31
5.鉄砲 その8
〇大筒
構造は六匁筒より単純だから、製鋼技術さえあれば製造はできる。とはいえ、それが
難しかった。国友と堺が大口径化を競った。最初に二百目玉筒を造ったのは国友である。
既述したごとく、この大筒は織田軍に装備され、長島の一向一揆を滅ぼすのに一役買っ
た。しかし、国友大筒の進化はここまでで、あとは堺の鉄砲鍛冶の後塵を拝することに
なる。
大阪城の天守閣の前に、今も鉄製の大砲が置いてある。銘を見ると、芝辻理右衛門謹
製とある。芝辻家は堺の鉄砲鍛冶の老舗で、当主は代々理右衛門を称してきた。この大
筒は五百目玉筒で、大阪夏の陣に使われたという。五百匁(約1.4キロ)の鉄丸が天守閣
に命中したら、淀君でなくともびびるだろう。豊臣家を滅ぼした大筒が、鉄筋コンクリ
ート製といえ、その居城っだった大阪城天守閣の前に置かれるとは皮肉である。
五百目玉筒は、長さ九尺(2メートル70センチ余)、外径九寸(27センチ余)、内径二寸
半(7.5センチ余)、重さ260貫超(約1トン)。攻城戦には有効なのだが、日本の山野を
人馬で運ぶのはそうとう骨がおれる。
当時の大筒の遺物は、堺博物館にも展示されている。東京では、靖国神社の博物館に
保存されている。この博物館には、幕末の青銅製カノン砲も多く展示されているので一
見に価する。
二百目玉筒、五百目玉筒ともなると、むろん砲架に据え置いて撃つわけであるが、普
通日本で大筒といえば、せいぜい百目玉筒程度で、これは抱えて撃つ。
ところが、「和漢三才図会」は次のようにいう。
「大銃はおよそ三百目、筒の重さ四貫目ばかり。薬また三十目入れ用ゆ。地上におきて
これを放てば、その音あたかも雷のごとし。玉は数百歩に至る。その、銃後に退くこと
二、三十歩。火勢のはなはだしきを知るべきなり。しかるに、巧者はこれを抱え、自ら
放つ」
三百目玉筒を抱えて撃つ豪の者がいたというのである。一貫目は千匁、1匁は3.75
グラムだから、一貫目は3750グラム、四貫目は15キログラム。これに三百目の玉
と三十目の火薬が加わる。撃った後の反動は押して知るべしである。術より腕力がもの
を言ったのではなかろうか。
ちなみに、今につたわる陽流砲術は、演武に百目玉筒を用いているよし。しかも、火
薬は使わず、型のみの稽古という。激発時の反動で床尾を損傷してしまう恐れがあるか
らである。
32
5.鉄砲 その9
〇幕末の西洋銃
日本の火縄銃や大筒は、幕末に西洋の銃砲が輸入されるようになると、完全に息の根
を止められる。西洋の銃砲は手に入りにくいので、やむなく使用はされたが、世はあげ
て洋式の銃砲を渇仰することになる。
幕末の西洋銃といっても、進化の過程に応じて性能に大きな違いがある。当初入って
きたのは、オランダ製のゲベール銃で、これは点火方式が火縄式から火打ち石式に変わ
ただけであった。先込め式滑腔銃という基本は火縄銃と同じである。それでも、弾薬を
装填して常に発射できる状態にしておけるだけでも便利だった。
次にもてはやされたのはフランス製のミニェー銃である。これは旋条銃で、先込め式
だが、椎の実型の弾丸を用いる。先込め式だから、装填しやすいように弾丸の後部がす
ぼまっている。その後部が軟金属でできていて、火薬の爆発圧力で開き、筒身内の旋条
に食いこんで弾に回転を与えるのである。回転を与えられた
弾丸はまっすぐ飛ぶので命中率が高くなる。滑腔式だと隙間から逃げていた火薬の爆発
力も効率的に補足できる。このため、有効射程距離が、火縄銃の百メートルほどから、
千メートル超へと格段に伸びた。 ミニェー弾を使用したイギリス製の銃がスナイドル
銃で、日本に多く輸入された。スナイドル銃を後装式に改良したのがエンフィールド銃
である。しかし、こういったヨーロッパの銃は、本家ではとっくに旧型に属ていた。
使い古しの銃を後進未開国家日本にもちこんで、西洋商人どもは大儲けしたのである。
ちなみに、ドイツでは天保12(1841)年に、すでに元込め式旋条銃を採用している。日本
の幕末にあたる1860年代には、欧米列強諸国はすべて元込め式旋条銃に変わっていた。
元込め式旋条銃に変わるためには、雷管式の発火装置の開発が前提となる。これがで
きれば、火薬と弾丸が一体となった現在の銃弾まであと一歩である。これを最初に成し
遂げたのがアメリカであった。南北戦争を通じて銃砲の改良に努めたアメリカは、つい
に七連発のライフル銃を開発装備するに至る。維新前夜、アメリカから輸入されたスペ
ンサー騎兵銃は、各藩兵の垂涎の的であった。
このスペンサー銃の各藩の装備状況を多い順に挙げれば次の通りである。
佐賀藩2000丁。薩摩藩1150丁。佐土原藩165丁。長州藩117丁。米沢藩60丁。西南雄藩
にしては長州藩が少ないようだが、ここはミニェー銃を19134丁も装備している。各種の
西洋銃を合わせると、24033丁も有していた。大砲も含め、総合火力で幕府方を圧倒して
いたのである。ずれにせよ、幕末を制したのが、新式の欧米銃であったことは疑いない。
33
5.鉄砲 その10
〇幕末の西洋砲
文久3年の薩英戦争、翌元冶1年の下関戦争で、西南の雄、薩長両藩の鼻ツ柱を見事に
へし折ったのは、欧米列強の黒船が備える大砲であった。とくに、錦江湾で見せつけた
英国海軍のアームストロング砲の威力は、強がり好きの薩摩隼人の心胆をおおいに寒か
らしめた。なにしろ、元込め式の旋条砲で、連続発射が可能な鋼鉄製だったである。お
まけに砲弾は、破壊力抜群の榴弾ときている。現代砲とくらべても、基本設計はさほど
変わらない。照準合わせが、手作業の弾道計算から、コンピュータ制御に進化したぐら
いである。
これに比べ、薩摩藩の各台場に据え付けられたのは、主として青銅製のカノン砲であ
った。大口径の大砲になると、炸薬量が大きくなり、日本の鉄製砲はすぐに破裂してし
まう。そこで、青銅で鋳造せざるをえなかった。青銅は鉄に比して柔らかいので、爆発
力に耐えるために肉厚が大きくなり、とんでもなく重い砲になった。台場に据えたらそ
れっきりという代物で、大船にさえ載せられない。射角や方位を定めるのは至難の業だ
った。しかも、旧式の先込め式滑腔砲である。いくさにならないのは目に見えていた。
薩長両藩が攘夷を捨て、諸外国と交易するようになったのは、ひとえに西洋の新型鋼
製砲のおかげである。
そして、大砲が最も威力を発揮するのは、軍艦に搭載された時であるということも同時
に学んだのである。
以後、薩長両藩は諸外国から軍艦を買い、乗組員の養成に努めた。この分野では、薩摩
藩が一頭地を抜き、強大な陸上兵力を要する長州藩とともに、薩の海軍、陸の長州と称
された。この伝統は、明治以後の帝国陸海軍へも引き継がれ、それぞれ薩長閥を形成し
て昭和の敗戦に至るのである。
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6.軍船 その1
〇戦国以前の海戦
戦国期以前は、海運や漁業に使用している舟を海戦に流用するのが普通であった。矢
を防ぐために、船端に板囲いを施すぐらいである。これくらいの防備だと、兵は守れて
も、水手や舵取りを守ることはできない。水手や舵取りたちは海運や漁業に携わる庶民
であるので、鎧さえ身に着けない場合が多かった。
源平の合戦は、屋島と壇ノ浦で決着がついたが、源氏軍を率いた義経は、
「まず水手と舵取りを射落とせ」と配下に命じている。水手や舵取りを失えば船は動か
なくなる。平家の軍船が漂流しはじめるのを待ち、ゆっくりと料理したのである。
当時の船いくさは、風向きと潮の流れによって勝敗が分かれる場合が多かった。壇ノ
浦は潮の目が刻々と変わる所で、はじめのうちは潮に乗った平家が優勢であったが、逆
潮となって源氏に敗退する。海流や風、海を知ることが船戦用法の要であった。
船団同士で海戦をする場合は、陸上と同じようにさなざまな陣形を敷く。鶴翼の陣と
魚鱗の陣が代表的な陣形である。鶴翼の陣は、鶴が翼を大きく広げたような陣形で、大
船団に向く。先陣が敵に当たると、両翼で包み込むように包囲して敵を殲滅するのであ
る。魚鱗の陣は、魚の鱗のように先が尖り、小船団向きである。密集して大船団に立ち
向かい、敵の中枢を打ち破らんとする。
大砲のない時代のこと、船を沈める手段としては火しかない。その一つに、火船戦法
がある。舟に藁を満載し、火を放って敵船へ押し流すのである。潮も風も敵に向かって
いないと使えない戦法であった。敵も黙って焼かれてくれるわけではないから、義経の
ように先に水手や舵取りを射落としておく必要があった。
毛利水軍の中核となった村上水軍は、船を焼き討ちする武器をいろいろ開発している。
大国火箭、烙鏃火箭、火鞠、火桶、投げ松明、ほうらく火箭、飛竜火、乱棒火箭などで
ある。火箭とは、備え付けの大弓で飛ばす火矢と考えたらよい。ほうらくとは、陶製の
容器に火薬を詰め、導火線に着火して敵船に打ちこむもの。これは戦国末期に登場して
いる。
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6.軍船 その2
〇毛利水軍対織田水軍
天正4(1576)年7月、一向一揆の牙城、大坂の石山城を攻めあぐねた織田信長は、木
津川口を海上封鎖して兵糧攻めに転じる。これに対し、石山方についた毛利が八百余艘
の大船団を差し向けた。迎え撃つ織田方は、大坂湾周辺や淡路の水軍三百余艘。7月15
日の海戦で、織田水軍は壊滅的な打撃をこうむる。鉄砲の数では優位に立ったものの、
毛利水軍のほうろく火矢に次々と船を焼き沈められてしまったのだ。毛利水軍は、盲船
と呼ぶ亀甲船を繰り出し、織田方の鉄砲を無力化してしまった。
京を出発しようとしていた信長は、敗戦の報を聞いて、
「もはや事終われり」と出陣をとりやめた。
しかし、ここで引っ込む信長ではない。伊勢志摩の水軍大将九鬼嘉隆を呼び寄せ、鉄
甲張りの巨大艦の建造を命じた。毛利水軍の火攻めに対する防御策である。また、堺の
鉄砲鍛冶に申し付け、巨大艦に搭載する五百目玉筒を製造させた。当時、日本では二百
目玉筒が最大の大砲で、これも織田軍が保有していた。その倍以上の大筒を造れという
のである。
伊勢の船大工も堺の鉄砲鍛冶も、信長の過酷な要求に短時日で応えた。二年後の天正
6(1578)年8月、熊野浦から船出した五隻の威容は耳目を驚かした。多聞院日記によれ
ば、長さ13間(24M)、巾は七間(12.6M)。主要部に鉄板装甲を施したため、船体は重々
しく黒光りしている。おまけに、三門の巨砲が前後左右に突き出ていた。大鉄砲やほう
ろく火矢などの装備は数しれない。日本水軍史上画期的な戦闘艦であった。
五隻の黒船は、滝川一益の建造になる白船一隻を従え、11月には大坂湾へ突入する。
無敵を誇った毛利水軍もその敵ではなかった。群がる毛利の小船が、相次いで撃ち沈め
られ、残余の船は西海へと落ちていった。これで、織田軍の海上覇権が確立し、石山は
落城し、信長の天下が固まった。
その後4年にして、織田信長は本能寺に倒れる。そして、跡を継いだ秀吉は、文禄、
慶長の役で、朝鮮水軍との海戦に惨敗する。もし信長が健在であれば、本格的な外洋海
軍を創建して朝鮮の征討に臨んだであろう。サル真似が通じたのは、御主人が生きてい
るあいだのことだったか。
36
6.軍船 その3
〇長崎海軍伝習所
嘉永6(1853)年、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航した、欧米列強に深甚な脅威を覚え
た幕府は、おそまきながら洋式海軍の創設に着手する。そして、オランダに軍艦の建造
を要請するとともに、その助言に従って長崎に海軍伝習所を設置した。オランダから教
育班を招聘し、旗本だけでなく、諸藩からも入所を許して、海軍仕官の養成に努めた。
第一次教育班は、オランダ海軍のペルス・ライケン中佐の指揮の下、安政2(1855)年
から安政4(1857)年まで長崎に滞在した。第二次教育班は、同じくオランダ海軍中佐の
ファン・カッテンディーケに率いられて安政4(1857)年から安政6(1859)年まで教鞭を
とった。
第二次教育班は、幕府が購入した新造船ヤパン号に乗って長崎にやってくる。のちに
カン臨丸と命名された例の船である。カン臨丸の船長となってアメリカへ航海した勝海
舟は、長崎海軍伝習所の卒業生であった。幕府海軍の総裁となった榎本武揚もまたしか
り。この幕府海軍と維新前夜に雌雄を争った薩摩海軍の指導者たちも、同じ長崎海軍伝
習所から巣立っている。薩摩海軍は帝国海軍の母体となるわけであるから、長崎は、日
本海軍発祥の地といっても過言ではない。
さて、海軍伝習所ではいかなることを学んだか。カッテンディーケの「長崎海軍伝習
所の日々」によれば、航海術、艦砲術、天文学、数学、物理、化学、蒸気機関論等であ
る。ほかに、騎馬、歩兵操練、医官の手伝いまであった。これらをたった二年で履修す
るのだから、過密授業もいいところ。しかも、講義はすべて蘭語である。いまどきのヤ
ワな大学生では全員落第しかねない。
救国の意気に燃える日本の若い武士たちは寝る間も惜しんでがんばった。頭脳体力と
も選りすぐりの俊秀たちである。カッテンディーケが脱帽するほどの進歩をみせ、卒業
生たちは大いなる成果を挙げて各地へ散っていった。
この伝習所は、幕府の都合でたった四年で終わってしまったが、日本に与えた影響は
極めて大である。第二次オランダ教育班が長崎を去るにあたって、ある幕府高官が、
「勝手に出ていけ(カッテンディーケ)」と言ったとか、言わぬとか。
(注:カン臨丸の「カン」は、感の字の、したごころがない字。私のパソコンの辞書
にはない)
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6.軍船 その4
〇榎本艦隊と官軍艦隊
幕府海軍と薩長海軍は、幕末から明治初年にかけて幾度か砲火を交えるが、戦局を決
定づけたのは、明治2年3月25日に戦われた宮古湾の海戦である。すでに維新政府が
樹立されており、江戸は東京となっていた。抵抗を続ける旧幕勢力は、奥羽列藩同盟が
壊滅寸前で、健在なのは蝦夷地を占領して函館五稜郭に拠る榎本武揚らの一派のみであ
る。官軍艦隊と名を変えた薩長海軍は、函館政府の旗を掲げた榎本艦隊を撃滅すべく、
宮古湾へ突入を開始する。
a:官軍艦隊の陣容
旗艦甲鉄(1358トン、1200馬力、砲7門)、春日(1015トン、300馬力、砲6門)を主力と
し、以下、隅春、丁卯、朝陽の5艦および輸送船7隻。
甲鉄の原名はストーンウオール.ジャクソン。アメリカ製の新鋭艦である。主要部が鋼
鉄張りなのでこの名があった。7門の砲はすべて最新のアームストロング砲である。さ
らに、機関銃の一種であるガットリング砲まで備えていた。
b:榎本艦隊の陣容
旗艦開陽丸(2718トン、400馬力、砲26門)、回天、バン竜、神速、長鯨、大江、鳳凰、
美加保丸、カン臨丸。神速、長鯨、大江、鳳凰は輸送船。開陽丸、回天、バン竜の備砲
は旧型であった。
美加保丸、カン臨丸は北上途中で暴風雨に遭い、房総沖で官軍艦隊に捕獲される。開
陽丸は3月15日朝、強雨と高波により江差沖で座礁、破壊される。宮古湾の海戦に臨
んだのは、回天、バン竜の二艦と、秋田藩から奪った高尾丸(第二回天)の合わせて三
艦のみである。
(注:バン竜のバンは虫偏に番。わだかまる、とぐろをまく、という意味の文字。)
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6.軍船 その5
〇宮古湾海戦
宮古湾に集結した官軍艦隊に対し、榎本艦隊は回天、バン竜、高尾の三艦をもって奇
襲攻撃を掛けることにした。バン竜、高尾の二艦に左右より官軍艦隊の旗艦甲鉄を襲わ
しめ、回天は他の諸艦を砲撃するという作戦である。
ところが、24日夜にまたまた暴風雨に遭い、バン竜がはぐれてしまう。そのうえ、
高尾に機関の故障が生じ、ついに回天一艦で突入することになった。
3月25日の未明、回天は敵の旗艦甲鉄に狙いを定めて湾内深くに侵入した。回天の
主砲は56斤砲、提督は荒井郁之助、艦長は長崎海軍伝習所出身の甲賀源吾。これにフ
ランス軍事教官ニコールが助言する。斬込隊は、土方歳三率いる新撰組一小隊。
「25日、天気晴朗、山色霞を帯びて、海面すこぶる穏やかなり」(回天乗組見習仕官
安藤太郎の記録)
軍艦並役の新宮勇が、前部マストの上から叫ぶ。
「ストーンウオール発見、ストーンウオール発見!」
回天は速度を落とし、甲鉄の後方からその左舷へ進んだ。だが、甲賀艦長の慎重な操
舵にもかかわらず、接舷に失敗する。
「敵艦来襲!敵艦来襲!」
回天の攻撃にようやく気づいた甲鉄艦は上を下への大騒ぎ。回天は二度めの接舷を試
み、甲鉄の左舷に艦体を寄せた。その間に態勢をととのえた甲鉄が銃弾の雨を降らせる。
だが、敵艦が近すぎて肝心のアームストロング砲が使えない。回天からの銃撃で照準を
合わせる作業もままならなかった。
今度は回天の舳先が甲鉄の左舷に食いこんだ。外輪船なのでもともと接舷には無理が
あったのだ。しかも、回天の方が六尺(1.8メートル)も甲板位置が高い。
「アボルダーチュ(突撃)!」
回天の斬込隊は、舳先の一点から突入せざるをえなかった。そこへガットリング砲の
銃火が集中する。
「回天艦上、両舷および煙突等、弾丸のため蜂の巣のごとくなりし」(安藤太郎の記録)
艦長は甲賀源吾が額に敵弾を受けて戦死。教官ニコールも重傷を負う。斬り込んだ新
撰組は、敵艦上でほとんどが倒された。甲賀源吾に替わって舵を取った荒井郁之助は、
いったん艦を後退させ、船首を湾口へと向けた。そして、宮古湾から遁走していった。
この間の死闘、約30分。回天は、甲賀艦長以下、19名の戦死者と30数名の負傷者を出
した。一方、官軍艦隊の戦死者は8名であった。
(注:一斤=約600グラム。56斤=約33.6キログラム)
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7.諜報 その1
〇戦国初期の細作
戦争に諜報活動は不可欠である。軍事技術が進歩すればするほど情報の重要さは増す
が、いつの時代でも、勝敗を決めてしまうほどの価値を持っている。決め手になるのは
情報収集の早さと正確さである。しかし、敵が隠そうとしているものを探り出すのであ
るから、この課題をふたつながら達成するのは素人では困難である。どうしても専門集
団を養成する必要が生じてくる。
戦国時代の初期に諜報活動を担った者たちは、細作とか乱破、透破などと呼ばれた。
まだ常雇いではなく、戦国大名に臨時に雇われ、特定の任務に従った。特別な技能を持
っているわけではないが、敵地に赴いて敵情を探るのであるから、まったくの素人とい
うわけにはいかない。必ずその任務に適した者が選ばれた。
よく用いられたのが、修験者である。山岳修行者である修験者は、当然ながら山歩き
に慣れている。険阻な山道を普通人の二倍近い速さで踏破してしまう。山中で寝泊りす
るのも平気であるし、全国に行場が散在してもいる。
また、日本は山国であるから、国から国へ移動するには必ず山越えせねばならない。
しかし、峠には関所があり、うろんな者は簡単には通れない。細作は間道に通じていね
ばならないのである。知らない土地ではこれだってなかなか難しい。ところが、修験者
なら、かれらのみが知る行者道が四通八達している。しらなければ、行者仲間に聞けば
すぐに教えてくれる。全国に修験者の組織が張り巡らされているのである。かくて、修
験者によってもたらされる情報は陸路ではいちばん早くなる。
修験者はその風体からすぐそれと知れ、怪しまれることが少ない。修行のために全国
を歩くことが許されており、お札を配りながら村を回ることも常態である。どこでもよ
く見かけるので、よほどのことがない限り尋問されるようなこともない。行者が他国者
なのはあたりまえなので、方言に通じている必要もない。
さらに、細作は敵地でそれとバレたら、自分の腕一本で文字通り切りぬけねばならな
い。修験者は武芸に通じている者も多く、両刀を差すのも許されているので、いざとい
う時これが役に立つ。
そんなこんなで、戦国初期には修験者が細作としてよく使われた。
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7.諜報 その2
〇忍者集団の形成
諜報活動に従事する者たちは、やがて戦国大名の家臣となって特殊技能集団を形成し
ていく。諜報技術が開発され、日常的な訓練や後継者の育成がなされる。
諜報技術には、変装(土地の者などに化ける)、潜伏(敵地に住みついたり、敵の従
者に雇われる)、内奥(情報を提供してくれる者を敵の中につくる)、潜入(敵の陣地
や城に忍び込む)などがある。
城郭が発達してくるにつれ、潜入技術、いわゆる忍びの術が諜報者に欠かせない技能
となってくる。最も重要な情報は敵の本拠地である城の中にあるからである。
忍びの術そのものは古くから存在した。日本武尊が女装して熊襲の首領を倒したのは
くノ一の術といわれる。聖徳太子も伊賀の大判細人を志能便(しのび)と名づけて間者
として使っている。甲賀流伊賀流忍術の祖となった甲賀三郎兼家は、天慶三年(940
年)の平将門の乱の鎮圧に手柄を立て、伊賀甲賀の郡司、守護に任じられている。甲賀
三郎は東信濃の豪族滋野一族の血を引く。滋野一族には、修験者より伝えられた忍術の
伝承があったという。
甲賀流、伊賀流忍術のほかでも、修験者の影響を受けた忍術流派は多い。羽黒流や根
来流は山岳修行者たちの流派であるし、現代に残る戸隠流も、その始祖仁科大助が戸隠
山で修験道修行のかたわらに編み出した工夫をもとに、伊賀流忍術を加えて完成させて
いる。
戦国大名たちは、こうした忍びの練達者を家臣化し、諜報活動や敵の後方攪乱戦術に
利用するようになった。戦国時代の勝敗の帰趨は、戦う前に九割方決まっているとされ
るが、忍びたちによる諜報活動の成否が、それを大きく左右したことであろう。
41
7.諜報 その3
〇忍び道具
忍びの術は、武術、射術、泳術、走術、跳躍術などの体術的部分を除けば、道具を用
いた潜入技術と遁走技術からなっている。各忍者集団はそれぞれ独自の忍び道具を開発
し、秘伝化していた。共通するものも多いが、現代に伝承されている戸隠流の忍具を例
に以下に詳説する。
1.登器 (高い石垣とか塀、立ち木などに登るのに用いる。)
・鉄製の手鉤や足鉤(とっさの場合、武器にもなる)
・忍び熊手(縄の先に小さい鉄の熊手がついている。縄に五寸ぐらいの竹筒がたくさ
ん通してあり、しご くと一本の竹竿になる。こうして高い所へ熊手を掛けて登る)
・縄梯子(先に熊手がついている)
2.開器 (城内や建物に忍び込むのに、扉や錠を開ける道具)
・しころ(ごく小さい両刃のノコギリで、先が尖っている。ちょっとした隙間があれ
ば切り開ける)
・くない(こじ開ける鉄製の道具)
・つぼきり(穴をあける道具)
・たたみノミ(携帯用に折りたたんだノミ)
・くろろ鍵(今でいうピッキング用の道具)
3.水器 (堀や川をひそかに渡る道具)
・水筒(竹筒をくりぬいたもの。水中で息を継ぐための道具)
・水ぐも(いまの浮き輪の原型)
・水鉄砲(毒水を発射して敵から逃げるためのもの)
4.火器 (火薬を用いたもので、武器や遁術に使う)
・ほうろく火矢(いまでいう手榴弾にあたる)
・煙玉(煙幕を目的にする手投げ弾)
・うずめ火(地雷)
・音玉(大音響を発する火薬玉光り)
・光り玉(閃光弾)
・狼煙弾、催涙弾、毒ガス弾などまで作られている。
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7.諜報 その4
〇暗号
敵地で知った情報はすみやかに味方にしらせねばならない。自分で直接通報できない
場合は、物や人を介して連絡する必要が生じる。忍者仲間での特殊な伝達方法として次
のようなものがある。
1.五色米
米粒を赤、青、黄、白、黒に染め分け、決まった並べ方をして連絡する。
2.狼煙
眺望のきく山の頂上で杉や松の葉をいぶして煙を上げて知らせる。
3.密書
敵の目に触れてもすぐにはわからないように工夫してある。
ア.みかんの汁で書くと、火であぶると見える。みょうばんを水に溶かしたもので書
くと、水に浸すと字が
浮き出る。桑の葉の汁で書いて、蚕に食べさすという手もある。
イ.忍びいろはで書く。伊賀流に「忍びいろは」という特殊な文字が伝えられている。
「い」は木偏に色。「ろ」は火偏に色。「は」は土偏に色。「に」は金偏に色。
「ほ」はさんずいに色。
「へ」はにんべんに色。「と」は身偏に色。
以下、「ちりぬるおわか」は、「木火土金水人身」の偏に青などと、旁だけを
変えていく。
「よたれそつねな」は、「木火土金水人身」の偏に黄。「らむういのおく」は、
「木火土金水人身」の偏に赤。「やまけふこえて」は、「木火土金水人身」の偏に白。
「あさきゆめみし」は、「木火土金水人身」の偏に黒。「えいもせず」は、「木火土金
水人身」の偏に紫。という具合である。
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