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長崎に遊学した人たち
1 概要

江戸時代、徳川幕府は鎖国政策を実施した。それは徳川幕府が政権を維持するためであった。しかし、幕府は例外として、オランダと中国に対し、日本で貿易することを許した。ただし、中国との貿易は、中国が鎖国政策をとっていたため、中国の商人が貿易をするのを許すという変形的なものであった。幕府が例外を認めたのは、貿易により利益を得るためであった。

幕府は、貿易の窓口を長崎に限定したので、オランダや中国の文化や学問は長崎の窓口を通して日本全国へ伝えられた。キリスト教以外の書籍の輸入も認められた。しかし、書籍の知識に満足せず、蘭学・医学・兵学・本草学・科学・美術等の知識を習得するため、長崎へ赴く学究が跡を絶たなかった。

平松勘治著「長崎遊学者事典」によれば、その数は1052人にのぼる。これらの遊学者たちは、長崎で習得した技術や知識を活かして自らの人生を切り開いていった。彼ら中には途中で挫折し、病に倒れる者もいたが、全体的に見れば、彼らが日本の近代化を促進したと云っても過言ではない。

平松勘治著「長崎遊学者事典」から、彼らの行跡をたどることにより、それを検証してみたい。

ア 遊学者たちはどこから来たか

平松勘治著「長崎遊学者辞典」によれば、遊学者は、北海道1人、東北地方121人、関東地方107人、中部地方147人、近畿地方98人、中国地方204人、四国112人、九州262人となっている。遊学者たちは全国津々浦々から長崎へ来たことが判る。

当時は、汽車も飛行機もない時代であるから、遊学者たちは、もっぱら陸路をはるばる長崎まで歩いて来た。
永い期間と多くの労力と多額の費用を要したが、彼らはそれを惜しまなかった。中には、水路を来た者もい た。江戸時代末期、幕府が長崎に海軍伝習所を開設した際、その伝習生として長崎遊学を命じられた幕臣たちは、陸路と水路に分かれて長崎へ来たという記録がある。船で長崎へ来た者もいたのである。あるいは、陸路でも、かごや馬を利用した者もいたであろう。しかし、それらは例外であった。
イ 遊学者たちは何を学びに来たか

平松勘治著「長崎遊学者辞典」によれば、長崎に遊学した者が何を修得するために来たかを次のように分類している。

医学560人、蘭学132人、砲術・兵学128人、美術85人、英学65人、造船学42人、物理、化学、天文学、暦学、本草学、写真学、書道、宗教、地理、漢字などである。

医学、蘭学、砲術・兵学の合計は820人に達する。総数1052人の約8割である。実用学を習得するた め、長崎に遊学した者が圧倒的に多いことを物語っている。
反面、物理、数学、宗教など純粋に学問を習得するために遊学した者は少なかった。永い期間と多額の費用を要した長崎遊学は、即効性のある学問が好まれたのはやむをえないことであろう。

ちなみに、医学・砲術、兵学が実用学であることは分かるが、蘭学が実用学であることは説明する必要があろう。蘭学は、オランダ語を学ぶこと、蘭書を読む力を学ぶ学問である。蘭書には、医学をはじめ西洋の最新の知識が記述されていたから、蘭語を習得すれば、西洋の進んだ学問を理解することができた。
長州藩の村田蔵六が兵学者になり、陸奥出身の高野長英が長い逃亡生活の費用を蘭書の翻訳で賄ったことに思いを至せば、蘭学が如何に実用的な学問であつたか理解できるであろう。
ウ 遊学者たちの費用など

長崎に遊学する費用は高額であった。往復の旅費。長崎の滞在費。塾に入門し勉強する費用などである。

(1)公費で遊学した者

記録によると、藩命により長崎に遊学した者は意外に多い。海軍伝習所生、医学伝習生として幕府や藩から長崎に遊学を命ぜられた者、軍艦購入の調査、造船技術の調査、種痘の研究など、諸藩は西洋の新知識や技術を導入するため優秀な藩士またはその子弟を長崎に積極的に遊学させた。

これらは、藩命によるものであるから、その費用は藩が負担した。遊学者の中には、公費で長崎に遊学できるとあって羽目を外す者もいた。勘定奉行松平近直は、海軍伝習生に対し国家のために研修に励み、将来ひとかどの人物にならなければならない。
心得違いをした者はあとでご沙汰があるから覚悟するようにと、きつく申し渡したという記録がある。

(2)自費で遊学した者

医師の子弟や、向学心に燃える若者たちが、医学修行、蘭学修行のため自費で長崎に遊学した。これらの者の多くは、旅費、生活費、習学費は質素であった。しかし、彼らの学問研修は真剣であった。その結果、帰藩して医者を開業し、傍ら蘭学塾を開き評判になつた者、藩医に登用された者、侍医に出世した者など成功した者が多い。
平松勘治著「長崎遊学者辞典」は、文字通り事典であるから、五十音順・出身県別に編集している。特定の人を探すには大変便利であるが、長崎に遊学した人たちを習得した学問別に分類し、その全体像を把握するのは困難である。

そこで、私は、著者の了解を得て、長崎に遊学した人たちを

(1)シーボルトの鳴滝塾(2)海軍伝習所(3)医学伝習所(4)その他

のブロックに分け、それらの人たちの行跡をたどることにした。

彼らの行跡を個々たどることにより、長崎に遊学した人たちが、日本の近代化に貢献したことを具体的に検証することができると思うからである。
2 シーボルトの鳴滝塾
1823年(文政6)8月12日(日本暦7月7日)、オランダ商館医シーボルトが出島に着任した。彼は衰退した日蘭貿易を復活させる切り札として派遣された。オランダ東インド会社総督ファン・デア・カペレンは、長崎奉行高橋越前守に「彼は特に優秀な外科医であり、かつ、優れた科学者であるから優遇して欲しい。
きっと日本のために役立つでしょう。」と書いた親書を送っている。シーボルトは、長崎奉行の特別の計らいで、来日草々長崎の町に出て、日本人患者の診察・治療・投薬に当たった。また、週2回日本の医学生を出島の自室に呼び入れ、医学の講義をしている。

彼は内科の治療だけではなく、腹水穿刺、乳がんの手術、産科鉗子を用いて分娩を行い、薬剤を用いて瞳孔を拡大し眼科手術を行った。当時は、漢方医学が主流で、蘭方医は医学書を頼りにする程度のものであったから、シーボルトの治療はまさに画期的なものであった。オランダ商館に名医来るの報はたちどころに日本全国へひろがった。シーボルトから西洋の進んだ医学を学ぼうと日本全国から150人を超える俊秀が集まった。

シーボルトは門下生が増えたので、来日1年後、長崎郊外の鳴滝の地に長崎奉行の許可を得て、オランダ通事中山某氏の名義で別荘を購入し、塾を開いた。シーボルトの活動には、長崎奉行のほか、通事目付石橋助左衛門、オランダ通事吉雄権之助、稲部市五郎、楢林鉄之進、茂土岐次郎、名村三次郎、町年寄菅原碩次郎(高島秋帆の兄)らが好意的に協力した。鳴滝塾は、西洋医学を学ぼうと集まった俊秀たちの集合地となった。シーボルトは、週に1度程度鳴滝塾を訪れ、塾生があらかじめ選んだ患者の治療に当たり、日本で最初の臨床医学の方法による医学を教えた。シーボルトがいない間は、若い阿波出身の美馬順三と山口出身の岡研介が鳴滝塾の塾頭となり、鳴滝塾の門人たちの指導に当たった。

シーボルトの門人たちは、シーボルトから医学、蘭学を学び、また自ら研鑚を積んだ。そして、門人たちは業成り、帰郷して医者を開業し、蘭学を教授したのである。シーボルトの門人たちの行跡を個々にたどることによって、彼等が日本の近代化に貢献したことを検証してみたい。

湊長安(1786〜1838)
宮城県石巻市生まれ。若くして医者を志し、江戸に出て吉田長淑の学僕となった。また、大槻玄沢の芝蘭堂で蘭学・蘭方医学を修め、江戸で医業を開いた。1822(文政5)年37歳のとき、長崎に遊学して吉雄幸載の門をたたいた。翌年シーボルトが来朝するや、いち早くその門弟となり、出島のオランダ商館や鳴滝塾に出入りして教えを受けた。文政8年江戸参府のシーボルトに随行し、植物等の標本を採取して師シーボルトを喜ばれた。江戸に帰って医業を再開すると、シーボルト直伝の内科医として評判となった。これを伝え聞いた丹波国(兵庫県)篠山藩主から召し出されて侍医となった。傍ら私塾丹晴堂を開いて門弟の指導にあたった。
当時、出版された「厚生新編」の訳者の一人であったところから、幕府の天文方への出仕を命じられた。
美馬順三(1795〜1825)
徳島藩家老池田氏の家臣美馬茂則の次男として徳島県那賀郡に生まれた。文政年間の初め頃、医者を志して京都に上り、広く良師を訪ね歩いた。やがて長崎に遊学してオランダ通詞中山作三郎宅に奇遇し、唐通詞周竹渓から中国語を学んだ。後にオランダ通詞猪股伝次右衛門、吉雄権之助、吉雄忠次郎らについてオランダ語を修めた。作三郎の紹介でオランダ商館長ブロンホフを知り、同商館への出入りを許された。1823(文政6)年シーボルトが着任すると、湊長安、岡研介らとともに率先してその門人となった。オランダ語に長じていたため師シーボルトから特別の信任を受け、翌文政7年鳴滝塾が設けられると、研介とともに初代塾頭に選ばれた。賀川玄悦著「産学」や石坂宗哲著「鍼灸知要一言」を蘭訳して提出した。両論文は後にシーボルトの手により、順三の名で「バタビア学芸協会雑誌」「ドイツ産科年報」などの学術雑誌に発表された。これらは、ヨーロッパの学会誌に掲載それた最初といわれる。鳴滝塾の塾頭として多くの後進の指導に当たる一方、シーボルトの著述編纂に積極的に協力したが、当時、長崎で流行したコレラに罹って客死した。年31。
岡研介(1799〜1839)
周防国熊毛郡平生村(山口県熊毛郡平生町)の眼科医岡泰純の五男として生まれた。13歳のとき熊毛郡の医者志熊氏について漢学を学び、その後各地を遍歴して漢学と医学を修めた。1817(文化14)年安芸国広島城下の蘭方医中井厚沢の門をたたき、さらに広島藩医後藤松眠に師事した。1819(文政2)年帰国して阿武郡萩城下(山口県萩市)で医業を開いたが、蘭学を学ぶには先ず漢学に通ずべしと翌文政3年豊後国(大分県)の儒者広瀬淡窓に師事した。文政6年にシーボルトが来朝すると、翌文政7年26歳のとき長崎に遊学し、先ずオランダ通詞吉雄権之助の塾に入り、次いでシーボルトの鳴滝塾に学んだ。当時、読書力は高野長英が研助に勝り、文章・会話力は研助が長英に優れたり、といわれて師シーボルトから厚く信任され、美馬順三とともに鳴滝塾の初代塾長に選ばれた。1830(天保1)年に年来の学友坪井信道と江戸に向かったが、途中大阪で同郷の蘭方医斎藤方策と意気投合してここで医業を開いた。天保3年一旦帰国すると、周防国岩国藩主吉川候から召し出された。翌天保4年大阪に帰ったが、数年して精神病を発し、帰郷して療養の日々を送った。
高野長英(1804〜1850)
伊達家の陪臣後藤実慶の三男として陸奥国胆沢郡水沢村(岩手県水沢市)に生まれた。14歳のとき母方の伯父の医者高野玄斉の養子となった。1820(文政3)年江戸に出て蘭方医杉田伯元に学び、次いで蘭方内科医として聞こえた吉田長淑に師事した。文政8年22歳のとき長崎に遊学し、シーボルトの鳴滝塾でオランダ語と蘭方の修得に努めた。翌文政9には論文「鯨魚及び捕鯨に就きて」を師シーボルトに提出し、ドクトルの称号を授けられた。足掛け4年、鳴滝塾で研鑚を重ねたが、文政11年シーボルト事件が起こると、いち早く姿をくらまして熊本、大分、広島、尾道、京都など各地を転々とし、1830(天保1)年江戸に舞い戻った。江戸では医業の傍ら訳述に専念し、天保3年にはわが国初の生理学書「医原枢要」と、蘭方の臨床参考書「居家備用」を著した。この頃、渡辺崋山・小関三英・鈴木春山らと親交を結び、尚歯会を結成して時事を論じた。大飢饉に際しては「救荒二物考」を著し、また異国船打払令が発せられると、「戊戊夢物語」を書いて幕府の対外政策を厳しく批判した。天保10年の蛮社の獄で永牢の刑を受けたが、獄中で「蛮社遭厄小記」を著してわが国における蘭学の沿革、尚歯会の活動、事件の経緯などを論じ、幕府の蘭学抑圧を非難して無実を訴えた。1844(弘化1)年獄舎の火災を機に脱走し、宇和島、広島、鹿児島、木曾、宇和島、江戸と潜行を続け、その間に翻訳作業と門人の育成に携わった。1849(嘉永2)年江戸に潜入して沢三伯の名で医業に従ったが、翌嘉永3年江戸・青山の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。著訳書は49部300巻の多きにのぼっている。
二宮敬作(1804〜1862)
伊予国宇和郡磯崎浦(愛媛県西宇和郡保内町)で農業の傍ら酒小売を営む六弥の長男として生まれた。早くから医者を志し、1819(文政2)年16歳のとき長崎に遊学した。オランダ通詞吉雄権之助・吉雄忠次郎から蘭学を、また阿波国(徳島県)の美馬順三から蘭方医学を学んだ。文政6年シーボルトが来朝すると順三とともに率先してその門人となった。これ以後6年間、シーボルトに師事して信任され、鳴滝塾ではシーボルトから課せられた調査や翻訳などに携わって学資を支給された。また刻苦勉励して外科の修得に努めた。文政9年シーボルトが江戸参府する際、高良斉らと助手として随行し、富士山の高さを測定するなどした。これは洋式測量術による測定の嚆矢とされている。文政11年シーボルト事件に連座して一時投獄された。翌文政12年には国外退去を命じられたシーボルトから良斉とともに娘楠本イネの養育を託された。1830(天保1)年帰国し、天保4年宇和郡卯之町(東宇和郡宇和町)で医業を開いたところ、懇切丁寧な施療と貧者への無料診療が話題となった。1844(弘化1)と1854(安政1)年の両度イネを引き取って教育し、シーボルトの恩に報いた。1848(嘉永1)には脱獄・逃亡中の蘭学者高野長英を自宅に匿った。また周防国(山口県)の村田蔵六(後の大村益次郎)が来藩して蘭学・兵学を講ずると、盛んに親交を重ねた。安政2年には宇和島藩医に挙げられた。安政3年再来日するシーボルトを迎えるため、長崎に赴いて医業を開いた。翌安政4年脳出血で右半身不随となったが、左手だけで巧みに手術を行ったといわれる。安政6年シーボルトが再び来朝し、ようやく再会を果たした。シーボルトに従って江戸に出ようとしたが、またしても脳出血に襲われたため長崎に留まり、3年後に長崎で客死した。
高良斎(1788〜1846)
徳島藩の中老山崎好直の妾腹の子として阿波国名東郡助任村(徳島市)に生まれた。後に同国徳島城下(徳島市)の眼科医高錦国の養子となった。幼少の頃から学問に親しみ、13歳のとき養父錦国から眼科を、また乾純水から本草学を学んだ。1817(文化14)年19歳のとき長崎に遊学して吉雄権之助から蘭学を学び、1822(文政5)年帰国した。翌文政6年シーボルトが来朝すると、再び長崎に遊学してその門をたたいた。師シーボルトに刻苦勉励する姿を認められ。周防国(山口県)の岡研介、同郷の美馬順三に次いで鳴滝塾の塾頭に挙げられた。文政9年には伊予国(愛媛県)の二宮敬作とともにシーボルトの江戸参府に随行を許された。文政11年シーボルト事件が発生すると、翌文政12年連座して獄に繋がれたが、半年後に放免となった。同年、国外追放となったシーボルトから、敬作とともに娘イネの養育を託された。1831(天保2)年徳島に帰り、医業に従う傍ら蘭学を講じたが、漢方至上の徳島の空気になかなか馴染めなかった。天保7年家督を継母弟の定国に譲って大阪に移り、医業を開く傍ら私塾で蘭学・蘭方を教授した。相次ぐ天保の大飢饉と大塩兵八郎の乱のため、医業は振るわず困窮したが、その後、診療を請い、従学するものもようやく多くなった。天保11年播磨国(兵庫県)明石藩主松平候の眼科治療に成功すると、しばしば召し出されて治療し、客分の医員に迎えられた。「蘭法内用薬能識」「駆梅要方」「耳目詳説」を初め多くの訳著書がある。
石井宗謙(1796〜1861)
美作国真島郡旦土村(岡山県真庭郡落合町)の医者石井信綱の子として生まれた。15歳のとき父信綱を喪った後、郷里で医学を修めた。1823年(文政6)28歳のときシーボルトの来朝を知って長崎に赴き、その門をたたいて蘭方を学んだ。またシーボルトの命を受けて「日本産昆虫図説」「日本産蜘蛛図説」「鯨の記」などをオランダ語に訳するなど、卓越した語学力を示した。文政12年師シーボルトが国外退去を命じられた後も、しばらく滞留し、やがて帰郷して医業を開いた。1832(天保3)年勝山藩から藩医に召し抱えられ、真島郡勝山城下(真庭郡勝山町)に移った。その後、勝山藩医を辞して備前国岡山城下(岡山市)で開業した。1845(弘化2)年師シーボルトの娘楠本イネが岡山に出てくると、これに産科を教授し、1852(嘉永5)年イネとの間に娘タカをもうけた。翌嘉永6年江戸に出て再び勝山藩医に挙げられた。この頃、外国船が相次いで来航したため、蘭学の知識を買われて幕府に召し出され、1855(安政2)年蝦夷地(北海道)の箱館奉行所通詞を命じられた。翌安政3年には蕃書調所に出仕して外国文書の翻訳に携わった。安政4年伊東玄朴ら江戸在住の蘭方医83名が神田お玉ヶ池に種痘所の開設を計画すると、これに参画した。晩年は芝愛宕下で開業した。
小関三英(1787〜1839)
庄内藩の足軽組外れ小関知義の次男として出羽国田川郡鶴岡城下(山形県鶴岡市)に生まれた。初め藩校致道館に学んだ。1804(文化1)年江戸に出て吉田長淑から蘭方を、馬場佐十郎から蘭学を学んだ。この頃、高野長英との親交が始まった。1821(文政4)年帰郷して医業を開いた。翌文政5年大槻玄沢の推挙によって陸奥国(宮城県)仙台藩の医学館講師となったが、文政6年辞去すると、小石元瑞を頼って京都に上り、その医業を助けた。その後、元瑞に勧められて長崎に遊学し、シーボルトの鳴滝塾で蘭方と蘭学の修得に努めた。ここで長英との親交はさらに深まった。文政7年業を終えて京都に帰り、再び元瑞のもとに寄寓した。翌文政8年に藩医として和泉国(大阪府)岸和田藩に召し抱えられた。文政9年にはドイツ人コンスブルックの内科書の蘭訳本を翻訳して「泰西内科集成」と名付け、後にその提要を「西医原病略」と題して刊行した。文政10年江戸に出て湊長安宅に寄寓し、次いで桂川甫賢の食客となって蘭書の翻訳にあたった。この頃、渡辺崋山を知った。1832(天保3)年崋山の推挙によって再び岸和田藩医となった。天保6年幕府から天文方訳員を命じられ、馬場佐十郎らが始めた「厚生新編」の訳述に当たった。この頃、渡辺崋山、高野長英、鈴木春山らと尚歯会を結成し、幕府の救荒対策や対外政策を中心に時事を論じた。天保8年のモリソン号事件を機に崋山・長英が激しく幕府を批判し、天保10年蛮社の獄で逮捕・投獄された。これを知った三英は連累がわが身にも及ぶと覚悟し、自ら命を絶った。
伊藤圭介(1803〜1901)
尾張国名古屋城下(名古屋市)の医者西山玄道の次男として生まれた。後に父の生家伊藤家を継いだ。幼児から植物に関心を示し、父玄道や兄大河内存真から医学を学ぶ傍ら、植物の和名・漢名を問い質した。後に尾張国における本草家の盟主水谷豊文に師事した。1820(文政3)年医師の資格を取得し、翌文政4年京都に上って蘭学者藤林普山に従学した。名古屋に帰った後も吉雄俊蔵のもとで蘭学の研鑚を重ねた。文政9年師豊文や兄存真とともに、江戸参府途上のシーボルトを同国愛知郡熱田(名古屋市)の宿舎に訪ねて教えを請うた。翌文政10年25歳のときシーボルトに勧められて長崎に遊学した。オランダ通詞吉雄権之助のもしに寄寓し、約半年間シーボルトから博物学などを学んだ。文政11年長崎を去るシーボルトからツンベルクの「日本植物誌」を贈られると、これを基礎として植物の学名と和名・漢名を対照した「泰西本草名疏」を著した。またその付録にリネンの植物分類体系を紹介し、翌文政12年刊行したが、これはわが国植物学の基礎をなす画期的な労作とされている。この前後、しばしば諸国を遍歴して植物採集を続けるとともに、本草学会の嘗百社の中心となって活動し、名古屋や江戸で植物標本の展示会・博覧会を開いていった。 天保の大飢饉に際会すると、1837(天保8)年「救荒食物便覧」を著した。また天保12年「泰西種痘奇法」を校閲して「イギリス国種痘奇書」を刊行し、牛痘法を紹介するとともに、種痘の実施・普及に尽力した。1859(安政6)年尾張藩医に挙げられ、洋学館総裁心得に任じられた。1861(文久1)年幕命により蕃書調所に出仕し、翌文久2年物産局教授を命じられたが、文久3年これを辞して帰郷した。1870年(明治3)年東京に出ると、新政府の命で大学出仕となり、専ら小石川植物園で、植物学・博物学の研究に没頭した。明治10年東京大学理化大学員外教授、明治14年教授となった。明治21年に学位制が設けられると、わが国最初の理学博士の学位を授与され、翌明治22年には東京学士会院の会員に推された。明治34年永年の学術上の活躍・功績に対し学者として初めて男爵を授けられた。明治13年にはストックホルム王立学士院から銀杯を贈られた。著書としては「日本産物志」「小石川植物園草木図説」など多数がある。
武谷元立(1785〜1852)
代々医を業とする武谷敬明の次男として筑前国鞍手郡高野村(福岡県鞍手郡若宮町)に生まれた。若くして同国福岡城下(福岡市)に出て福岡藩儒者亀井南冥・昭陽父子に師事した。その後、各地を遍歴して漢方を修めた。業成って帰郷し、家業を継いで父敬明と同じく鞍手郡頭取医兼産児養育係を命じられた。壮年に及んで古医方に飽き足らなくなった。1825(文政8)年シーボルトの門人で備前国(岡山県)の児玉順蔵が帰途の途次、武谷家に滞留して蘭方と蘭学を講じると、百武万里・有吉周平・原田種彦ら10数名がこれを聴講した。文政9年江戸参府途上のシーボルトを児玉とともに鞍手郡木屋瀬駅(北九州市)に訪ねて歓談した。翌文政10年43歳のとき百武・有吉・原田らと長崎に遊学し、シーボルトのもとで蘭方の研鑚を積んだ。文政11年師シーボルトの帰国が近づいたため帰郷した。同年、シーボルト事件が突発すると、同門の高野長英・平井海蔵らを寄寓させて教えを受けた。長崎から高野村に帰った元立は、古医方を棄てて蘭方を唱導したため、村民の不評を買った。また、しばしば瀉血療法を施したところから、人の血を採りて魔の神に捧じる、と誤解され、一時は治療を請うものも途絶えて困窮した。その後、徐々に蘭方の効験が知られ、村民にも信用されるようになった。1841(天保12)年には筑前国那珂郡博多(福岡市)で百武万里・谷仲栄らと腑分を行ったが、これは同国における死体解剖の嚆矢とされている。蘭方が広く行われるようになると、その名声は他国にも聞こえて治療を請い、教えを求めるものが多く、門人は他藩出身者を含めて数十名に上った。これより先、鞍手郡頭取医から福岡藩医に挙げられ、その職にあること前後30余年に及んだ。
日野鼎哉(1797〜1850)
豊後国大分郡湯布院村(大分県大分郡湯布院町)に生まれた。初め同国速見郡日出城下(速見郡日出町)に赴いて日出藩儒者帆足万里の門をたたいた。1824(文政7)年28歳のとき長崎に遊学した。シーボルトの鳴滝塾で蘭方を学び、同地で医業を開いて自らの技を試した。程なく京都に上って小石元瑞のもとで蘭方の研鑚に努めた。1833(天保4)年京都で開業し、外科を得意としたところから評判となり、新宮凉庭と並び称された。また教えを請うものも多く、やがて大阪に緒方洪庵あり、京に鼎哉あり、といわれるようになった。弘化年間(1844〜1847)の初め、京都などで疱瘡(天然痘)が大流行し、越前国(福井県)福井藩主松平慶永の世子と夫人も罹患した。藩主から諮問された同藩医笠原良策は師鼎哉に痘瘡の予防法を相談した。シーボルトのもとで牛痘接種法を見学したことのある鼎哉は、その早期導入に努める旨を約するとともに、長崎の唐通詞頴川四郎八に痘苗の入手を依頼した。

1849(嘉永2)オランダ商館医師モーニケがバタビア(インドネシア)から痘痂を取り寄せ、これを用いて楢林宗建が接種に成功すると、牛痘接種法は九州各地で行われることとなった。同年、鼎哉のもとに長崎から痘苗が伝えられると、苦心の末にようやく接種に成功した。これは九州以外で牛痘接種法が成功した最初といわれる。鼎哉は幾多の迷信や誹謗と闘いながら、京都に除痘館を創設し、その普及に力を注いだ。また緒方洪庵の求めに応じて痘苗を分与し、大阪除痘館の創設を助けた。笠原良策も苦心惨憺して越前国福井城下(福井市)に分苗し、北陸地方で初めて牛痘接種法を実施した。鼎哉が京都に開いた除痘館は経営的に行き詰まり、僅か2カ月で閉鎖された。著書に「白神除痘弁」「徴毒一掃論」などがある。
岡泰安(1796〜1858)
周防国熊毛郡平生村(山口県熊毛郡平生町)の眼科医岡泰純の三男として生まれた。幼児から才知に長けて漢学を学んだ。20歳の頃から各地を遍歴して漢方を学び、傍ら蘭方医を志して究理学(物理学)などを修めた。1821(文政4)年父泰純の跡を継いで郷里で家業の眼科を開業すると漢蘭両方に明るく、内外科に通達するとして大いに評判となった。1826(文政9)年31歳のときシーボルトの高名を耳にすると、家業を拠って長崎に遊学した。阿蘭陀通詞吉雄権之助の塾に入門し、またシーボルトの鳴滝塾に学んだ。この頃、高野長英と意気投合したという。文政10年師シーボルトの証明書を携えて帰郷すると、ますます医名が挙がって治療を請うものは跡を絶たなかった。1844(弘化1)年周防国岩国藩主吉川候に召し出されて夫人の眼病を癒し、翌弘化2年法眼に進められた。1856(安政3)には藩候の眼病治療に成功し、翌安政4年侍医に加えられたが、安政5年長崎に端を発したコレラが大流行し、これに罹って急死した。
賀来佐一郎(1809〜1891)
肥前国(長崎県)島原藩領の豊後国国東郡高田村(大分県豊後高田市)の医者で本草学者賀来有軒の子として生まれた。幼少の頃から才知と記憶力が優れ、父有軒から本草学を学んだ。14・5歳の頃、豊後国速見郡日出城下(速見郡日出町)に赴いて帆足万里に師事し、儒学のほか医学を学んだ。さらに医者天野某のもとで研鑚を積み、1822(文政5)年速見郡杵築城下(杵築市)で医業を開いた。杵築藩主松平候の病床に召し出されて治療に当たり、藩医として出仕することを勧めるものもいたが応じなかった。やがて長崎に遊学して阿蘭陀通詞吉雄権之助から蘭学を学んだ。たまたまオランダ商館医としてシーボルトが来朝すると、4年間これに師事して蘭方と本草学を修めた。業成って杵築に帰ると、治療を請うものが跡を絶たなかった。これが当地における蘭方の嚆矢とされている。1834(天保5)年島原藩医として召し抱えられ、肥前国高来郡島原城下(島原市)に移り住んだ。天保14年には同藩医市川泰朴と刑死者の腑分を行った。また1845(弘化2)年藩命を受けて7年がかりで約1町歩に及ぶ広大な御薬園を開き、その経営に当たった。1849(嘉永2)年には泰朴とともに長崎に赴いてオランダ人医師モー二ケから牛痘種法を学び、痘苗を持ち帰って島原藩内で実施した。医事の傍ら詩文・絵画を能くし、また草花を屋敷内に植えて百花山荘と称した。著書として「新注傷寒論」「本草新書」「治痘新書」など多数がある。
有吉周平(1790〜1835)
筑前国宗像郡南郷村(福岡県宗像市)に生まれた。1825(文政8)年シーボルトの門弟で備前(岡山県)の児玉順蔵が筑前国鞍手郡高野村(鞍手郡若宮町)の医者武谷元立宅に立ち寄って蘭方と蘭学を講じた際、百武万里、原田種彦らと聴講した。文政10年38歳のとき、武谷、百武、原田らと長崎に遊学し、シーボルトの鳴滝塾で蘭方を修めた。帰国後は郷里で医業を開き、郡内唯一の種痘医として知られた。
原田種彦(1784〜1857)
筑前国志摩郡波多江村(福岡県前原市)の庄屋種得の子として生まれた。幼少の頃から学問に親しみ、早くから医学の研鑚を積んだ。1825(文政8)年シーボルトの門人児玉順三が、同国鞍手郡高野村(鞍手郡若宮町)の医者武谷元立宅で蘭方を講じると、武谷万里・有吉周平らとこれを聴講した。文政10年44歳のとき、武谷・百武・有吉らと長崎に遊学し、シーボルトのもとで蘭方の習得に努めた。帰国後は同国早良郡西新村(福岡市)で医業を開き、福岡藩から種痘医を命じられた。医学を修める傍ら、平田鉄胤に師事して国学を学び、筑前国西部地方における国学の普及に大きな貢献を果たした。晩年は国事に意を致し、勤皇歌人野村望東尼らとも交わりをもった。
後藤松軒(1803〜1864)
広島藩医後藤松眠の子として安芸国広島城下(広島市)に生まれた。幼少の頃から父松眠について医学を学んだ。1821(文政4)年19歳のとき長崎に遊学し、阿蘭陀通詞吉雄権之助のもとで蘭学・蘭方を修めた。文政6年に来朝したシーボルトに師事するとともに、高野長英らと親交を結んで、蘭方の研鑚に努めた。文政11年松眠の死に遭って帰国し、家業を継いで藩医に挙げられた。後年、蛮社の獄に連座した高野長英が脱獄して広島に潜入したとき、薬草園の日渉園に匿った。1849(嘉永2)年には同僚の中傷や長英隠匿の発覚によって禄を差し止められた。1856(安政3)年ようやく許されると、三宅春齢らと種痘の普及に力を注いだ。医業に従う傍ら、松眠の跡を継いで本草学を研究し精通した。日渉園の近隣で長茄子の種子を試植し、また堤防にげんのしょうこを播殖してその薬効の周知に努めた。
児玉順三(1806〜1861)
岡山藩家老伊木長門の侍医児玉泰順の子として備前国岡山城下(岡山市)に生まれた。初め播磨国(兵庫県)赤穂藩の儒医神吉主膳に学んだ。1822(文政5)年17歳のとき脱藩して長崎に遊学した。翌文政6年来朝したシーボルトに師事し、鳴滝塾で蘭方と蘭学を修めた。文政8年帰国の途についたが、途中、筑前国鞍手郡高野村(福岡県鞍手郡若宮町)の医者武谷元立の家に立ち寄り、請われて3年間、滞留して谷元・武谷万里・有吉周平らに蘭方と蘭学を教授した。その後、備中国下道郡箭田村(岡山県吉備郡真備町)まで戻って医業を開いたところ、治療を請うものは跡を絶たなかった。1834(天保5)年その評判を伝え聞いた岡山藩から帰参を許され、伊木氏の侍医に復して寵用された。医業の傍ら、蘭学の教授や蘭書の翻訳に力を注いだ。
岡山藩で他藩よりも早く蘭方・蘭学が盛んになったのは順三の力に負うところが大きいといわれ、その門下から島村鼎甫・石井信義・長瀬時衛・花房義質らの俊才が輩出した。1858(安政5)病のために侍医を辞して大阪に移り、開業する傍ら、蘭書の翻訳に携わった。訳書に「外科原武」「玉海提要」「公氏医宗玉海」など多数がある。
3 海軍伝習所
1854(安政1)年、ベリー艦隊は江戸湾に再来航し、幕府と交渉の結果、日米和親条約(神奈川条約)が締結された。一方長崎にも、ロシアのプチャーチン艦隊が来航し、国境問題を含む和親条約交渉を行ったが、妥協に至らず退去した。

こうした緊迫した情勢の中、幕府(長崎奉行)と最後のオランダ商館長ドンケル・クルチュースは、前年幕府の軍艦注文を受けて、彼が提言して洋式海軍の創設を実現すべく、蒸気軍艦による伝習計画を話し合った。そのため、バタビアから派遣されたのがスームピング号である。(後の海軍伝習所練習艦観光丸) 同年8月に長崎港へ入港したスームピング号のファビウス艦長は、ドンケル・クルチュースと協議して、幕府(長崎奉行)へ洋式海軍創設の道筋をより具体的に献策した。その結果、スクリュー式蒸気軍艦2隻の建造、スームピング号の幕府への譲渡、長崎における海軍伝習が決定した。早速、ファビウス艦長自ら長崎奉行所西役所において蒸気機関等について伝習を行った。わずか3か月の予備伝習であったが、幕臣、長崎地役人の他、長崎警備を担当していた佐賀藩、福岡藩などの藩士も伝習に参加した。中でも佐賀藩の熱意は高く、後に日本海軍の中枢を担った人材を輩出している。

翌1855(安政2)年7月、ファビウス中佐はへデー号艦長としてスームピング号とともに再び長崎に入 校、熱心に伝習を再開した。外輪式蒸気軍艦スームピング号は同年10月5日、正式に幕府へ引き渡され、長崎海軍伝習所の練習艦として使用されることになった。オランダ人教官団長ペルス・ライケン少佐のもとで、第1次海軍伝習が始まったのは、同年12月初めのことである。

教授科目として、航海術、運用術、造船、砲術の実技、天測の実技、数学、蒸気機関、鉄砲調練などがあっ た。
これを受ける伝習生は、永持享次郎、矢田堀景蔵、勝麟太郎ら幕臣、佐野常民ら佐賀藩士、その他福岡、薩 摩、長州、津など諸藩士や長崎地役人、水夫として瀬戸内海の塩飽衆も参加した。当初、伝習生はオランダ語に苦労し、アラビア数字による計算に戸惑ったが、徐々に伝習の成果が上がっていった。

勝海舟(1823〜1899)
幕臣勝小吉の長男として江戸に生まれた。7歳のとき12代将軍家茂の子慶昌の近侍となったが数年で辞し、島田虎之助のもとで剣術を修めた。1838(天保9)年父小吉が隠居したために家督を相続した。1845(弘化2)年永井青崖について蘭学を学び、後に幕臣都甲市郎左衛門からも蘭学の指導を受けた。1850(嘉永3)年私塾を開いて蘭学と西洋兵学を講ずるまでになった。嘉永6年のアメリカ使節ペリーの来航に際し、老中阿部正弘に「海防に関する意見書」を提出して認められた。1855(安政2)年目付・海防掛大久保忠寛の推挙もあって蕃書翻訳御用を命じられ、洋学所の開設にも関わった。同年、幕府が長崎に海軍伝習所を創設すると、矢田堀鴻・永持亨次郎らとともに第1回伝習生として長崎に派遣された。33歳のときのことで、これ以後オランダ海軍士官ペルス・ライケンやその後任のカッテンダイケらから、航海術・砲術・測量術などについて学んだ。
安政6年江戸に帰ると、軍艦操練所教授方頭取を命じられた。1860(万延1)年新見正興らの遣米使節に随行する咸臨丸を指揮したが、これは日本人が操船した初の太平洋横断であるといわれる。帰朝後は蕃書調所頭取・講武所砲術指範役・軍艦操練所頭取などを歴任し、1862(文久2)年軍艦奉行並に抜擢された。この後、しばしば14代将軍家茂を初め幕府要人を警護して江戸・大阪間を往復し、1864(元治1)年軍艦奉行・安房守に任じられた。また同年、前に家茂から許しを得ていた神戸海軍操練所を開設した。ここでは幕臣子弟のほか、薩長土など諸藩からも人材を集め、さらには脱藩志士にも教育を施したが、その開放的方針が疑われて軍艦奉行を罷免され、やがて海軍操練所も閉鎖された。しかし、第2回長州征伐の頃になると勝の政治的手腕を利用しようとするものあり、1866(慶応2)年再び軍艦奉行に任じられた。ただちに長州再征の中止をめぐって薩摩藩との停戦交渉を行って成功させ、長州再征軍の撤兵に尽力した。この頃、勘定奉行小栗忠順らがフランスを頼って幕府を再構築しようとしていたが、これに反対したため幕府内で次第に孤立していった。1868(明治1)年鳥羽・伏見の戦で幕府軍が敗退すると前将軍慶喜の恭順の意を受けて官軍の参謀西郷隆盛と会見し、江戸城の無血引渡しと引き換えに、徳川家の保全や慶喜の助命などに縦横の活躍を示した。同年、徳川家の駿府(静岡市)移転に従って東京を離れた。翌明治2年新政府から外務大丞や兵部大丞に任命されたが、いずれも受けなかった。明治5年ようやく東京に帰って海軍大輔に就任した。明治6年征韓論で政府が分裂すると、参議兼海軍卿に任命された。明治8年これも辞し、新たに任じられた元老院議官も固辞した。これ以後は野にあって著述に専念し、「吹塵録」「海軍歴史」「陸軍歴史」「開国起源」など多くの著書を残した。明治20年伯爵を授けられ、翌明治21年枢密院顧問官に任じられた。
矢田堀鴻(1829〜1887)
関東代官荒井清兵衛の弟として江戸に生まれ、後に矢田堀家の養子となった。1848(嘉永1)年昌平黌に学んだ。測量・数学に長じたところから幕府の海事関係の用務に従事し、小十人組に進んだ。1855(安政2)年27歳のとき幕府の第1回海軍伝習生に選ばれて長崎に遊学した。海軍伝習所では永持亨次郎・勝海舟とともに艦長候補に挙げられ、オランダ海軍士官から造船術・運用術などを学んだ。安政4年江戸に帰り、1862(文久2)年には軍艦操練所教授方頭取を命じられ、榎本武揚・赤松則良・荒井郁之助らはその教えを受けた。翌文久3年軍艦奉行並に進んだが、1864(元治1)年職を免じられて寄合となった。1867(慶応3)年軍艦頭から再び軍艦奉行並となり、1868(明治1)年初代の海軍総裁に任じられたが、間もなくして辞任した。維新後は、徳川家の駿府(静岡市)移転に従い、沼津兵学校の校長となった。後に新政府に招かれて海軍省・工部省・通信省などに出仕したが、活躍の場は与えられず酒に憂さを晴らした。
永持亨次郎(1826〜1864)
幕臣永持氏の子として江戸に生まれた。1842(天保13)年に昌平黌の試験に及第し、1845(弘化2)年学問勤番となった。1849(嘉永2)年徒目付となり、1854(安政1)年勘定格に進んだ。翌安政2年30歳のとき、幕府がオランダ国王から贈られた蒸気軍艦観光丸(スームピング号)の運用その他の伝習のため、勝海舟・矢田堀鴻らと長崎に派遣された。開設草々の海軍伝習所で勝・矢田堀とともに艦長候補に挙げられ、オランダ海軍士官から航海術・運用術・造船術などを学んだ。安政3年細工頭格に進み、翌安政4年には長崎奉行支配吟味役に転じた。1861(文久1)年幕府がオランダ人ハルデスらから技術指導を受けて長崎・飽の浦に長崎製鉄所(長崎造船所の前身)を創設したとき、会計担当として活躍した。また同年、露艦対馬占拠事件が突発すると、長崎奉行から対馬行きを命じられ、ロシア艦長と船体修理場について交渉した。文久2年外国奉行支配御用出役頭取取締となった。1864(元治1)年京都警護のため上洛し、目付介に進んだが、間もなくして京都で病死した。年39。
榎本武揚(1836〜1908)
幕臣榎本園兵衛の次男として江戸に生まれた。12歳のとき昌平黌に入り、後に中浜万次郎の塾で英学を修めた。1854(安政1)年箱館奉行堀利熈の小姓となって蝦夷地箱館(北海道函館市)に赴き、樺太(サハリン)探検にも参加した。安政3年21歳のとき幕命を受けて長崎に遊学し、海軍伝習所でオランダ海軍士官から航海術・砲術・蒸気機関学などを学んだ。安政5年江戸に帰り、築地の軍艦操練所教授を命じられた。1862(文久2)年幕府がオランダに軍艦を発注すると、その建造監督を兼ねてオランダに留学し、兵制・砲術・航海術・機関学のほか国際法規などを修得した。1867(慶応3)年新造の軍艦開陽丸を回送して帰朝し、1868(明治1)年海軍副総裁に任命された。同年、戊辰戦争が勃発して官軍が江戸城を占領し、軍艦の引渡しを要求すると、これを拒否して開陽丸など軍艦8隻を率いて江戸・品川を脱出、蝦夷地に入った。箱館・松前などを占領して独立政権を樹立し、諸外国からも政府として承認された。明治2年官軍の総攻撃を受けると箱館・五稜郭に拠って抗戦したが、官軍参謀黒田清隆の勧告を容れて降伏した。東京に護送・収監されたが、明治5年罪を赦された。ただちに開拓使4等出仕を命じられ、黒田のもとで北海道各地の踏査と開発に尽力した。明治7年海軍中将に任命され、また特命全権公使としてロシアに駐在した。翌明治8年には樺太・千島交換条約を締結して懸案の樺太問題を解決した。明治12年条約改正取調御用掛、外務大輔となり、翌明治13年海軍卿に転じた。明治15年清国駐在特命全権公使として全権大使伊藤博文を補佐し、明治18年天津条約の締結に漕ぎ着けた。旧幕臣でありながら薩長閥の強い政府部内でよくその身を保ち、これ以後も逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任した。また明治20年子爵を授けられ、明治23年には枢密院顧問官に任じられた。特に外相在任中(明治24〜明治25年)、ポルトガルの領事裁判権撤廃を成功させて条約改正の端緒を開き、また大津事件の善後処置にも活躍した。
沢太郎左衛門(1834〜1898)
幕臣沢太八郎の子として江戸に生まれた。幼時から学問を好んだ。長じて蘭学を修め、傍ら江川太郎左衛門について砲術を学んだ。安政年間(1854〜1859)の初め箱館奉行支配在府書物御用出役に抜擢された。1857(安政4)年24歳のとき第3回海軍伝習生に選ばれて長崎に赴き、オランダ海軍士官から航海術・砲術・測量術などを学んだ。安政6年江戸に帰り、1860(万延1)年には軍艦操練所教授方手伝出役を命じられて海上砲術を担当した。1861(文久1)年同所教授方出役に進んだ。一方、江戸湾や大阪湾沿岸の防備について実測を行い、またアメリカ式雷管の製造に当たった。この頃、幕府に軍艦組が創設されると、同組出役を命じられた。翌文久2年榎本武揚らと軍艦建造の監督を兼ねてオランダに派遣され、主に銃術・火薬の製造などについて学んだ。1867(慶応3)年新造の開陽丸で帰朝した。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発し、海軍副総裁榎本武揚が軍艦8隻を率いて江戸・品川沖から蝦夷地(北海道)に向かうと、開陽丸艦長としてこれに従い、箱館に拠った。同年、開陽丸を指揮して江差(北海道桧山郡江差町)を襲撃したが、風雨のため艦が座礁・沈没して失敗した。この後、榎本軍の開拓奉行となって室蘭に赴き、開拓に従事した。翌明治2年五稜郭に拠る榎本が官軍投降すると行動を共にし、武揚らと東京に護送・収監された。明治5年罪を許され、新政府から開拓使御用掛を命じられた。次いで兵部省6等出仕、海軍兵学寮勤務となった。明治7年海軍の教育制度視察のため、ヨーロッパ諸国に遣わされた。翌明治8年帰朝後は諸職を歴任し、明治16年海軍兵学校教務副総理に進んだ。明治18年海軍1等教官に任命されたが、翌明治19年退官した。草創期における海軍将校の養成に大きな功績を残した一人である。
赤松則良(1841〜1920)
幕臣吉沢政範の次男として江戸に生まれ、幼にして父方の赤松良則の養子となった。13歳のとき下田奉行与力の実父政範に従って下田(静岡県下田市)に赴き、これを機に江川太郎左衛門から砲術などを学んだ。1855(安政2)年江戸に帰り、坪井信良の門をたたいて蘭学を修めた。安政4年17歳のとき蕃書調所句読教授方出役を命じられた。同年、幕命により長崎に遊学し、海軍伝習所でオランダ海軍士官から測量術・航海術・造船術などを学んだ。安政6年江戸に帰り、軍艦操練所勤務となった。1860(万延1)年新見正興らの遣米使節に随行する咸臨丸の教授方手伝として渡米した。さらに1862(文久2)年幕命を受けて榎本武揚らとオランダに留学し、航海術・造船術などの研鑚を積んだ。

1868(明治1)年大政奉還の報に接して急遽帰朝し、静岡藩の沼津兵学校教授となった。明治3年新政府の兵部省に出仕し、東京・築地の兵学寮一等教授に登用された。明治5年海軍大丞、明治7年海軍少将に累進し、征台の役でも活躍した。明治9年には横須賀造船所で軍艦磐城の設計を手掛けて成功した。日本人の手になる最初の軍艦設計で、これ以後は造船界で重きをなした。明治20年男爵に列せられ、海軍中将に昇進した。その後、佐世保、横須賀鎮守府司令長官を歴任するなど海軍の要職にあったが、明治25年予備役となった。明治37年貴族院議員に選ばれた。
内田正雄(1838〜1876)
江戸の万年家に生まれたが、後に旗本内田主膳の養子となった。1856(安政3)年昌平黌の吟味に及第したが、蘭学修得の必要を痛感して赤松大三郎(則良)に徒学した。翌安政4年20歳のとき幕命により赤松らと長崎に赴き、海軍伝習所でオランダ海軍士官らから測量術・航海術・砲術などを学んだ。安政6年江戸・築地の軍艦操練所教授方手伝出役を命じられた。1863(文久3)年幕命を受けてオランダに留学し、留学生取締役を務めるとともに、パリ万国博覧会使節の受け入れにも尽力した。1866(慶応2)年帰朝すると、海軍に籍を置いて軍艦方を命じられ、1868(明治1)年軍艦奉行に進んだ。維新後は、学究に身を転じ、明治2年新政府に迎えられて大学大丞となり、大学南校(後の東京大学)で蘭学を講じた。その後、大学権大丞、・文部中教授と累進し、明治5年文部省6等出仕となった。この頃、近代的な学校制度を創出するため、各国の教育事情の調査・研究に当たった。訳著書として「和蘭の学則」「興地誌略」などがある。享年38。
佐々倉桐太郎(1830〜1875)
幕臣結城家の子として江戸に生まれたが、後に浦賀奉行組与力佐々倉家の養子となった。1846(弘化3)年アメリカ使節ビッドルが通商を求めて浦賀に来航した際、応接方に選ばれて活躍した。1853(嘉永6)年ペリーが来航した際も、先年の手腕を買われて応接方となり、中島三郎助と米艦に赴いて折衝に当たった。1855(安政2)年26歳のとき三郎助とともに第1回海軍伝習生に選ばれて長崎に赴き、オランダ海軍士官から航海術・測量術などを学んだ。安政4年江戸に帰り、築地の軍艦操練教授方に任じられた。1860(万延1)年には新見正興らの遣米使節に随行する咸臨丸の運用方として渡米した。帰朝後は引き続き軍艦操練所に勤めたが、幕末の数年間は労咳のために官職を離れて転地療養した。1868(明治1)年軍艦役に任命されたが、幕府崩壊後は浦賀へ帰り、さらに徳川家の駿府(静岡市)移転に従った。明治4年新政府の兵部省に出仕して海軍兵学寮に勤務し、明治6年兵学権頭に任じられた。やがて発病して辞任し死去した。
塚本明毅(1833〜1885)
幕臣塚本法立の子として江戸に生まれた。幼児から学問を好んで神童と謳われた。初め祖父塚本如水に教えを受け、13歳のとき田辺石庵について儒学を修めた。1850(嘉永3)年昌平黌に学んで将来を嘱望された。アメリカ使節ペリーの来航を機に蘭学の学習を始めた。1855(安政2)年23歳のとき、第1回海軍伝習生に選ばれた矢田堀鴻に従って長崎に赴いた。長崎在勤目付永井尚志の命によって海軍伝習所の員外聴講生となり、オランダ海軍士官から航海術・砲術・測量術などを学んだ。安政4年軍艦観光丸で江戸に帰ると、築地の軍艦操練所助教を命じられ、翌安政5年には教授に進んだ。1861(文久1)年軍艦組となり、小笠原島開拓計画に参加して咸臨丸で諸島の測量を行った。文久3年14代将軍家茂の上洛の際は、軍艦昌光丸を指揮して大阪に行き、また、家茂の大阪湾巡視にも随行した。1865年(慶応1)年小普請組となり、翌慶応2年騎兵指揮勤務方、さらに軍艦役、次いで軍艦頭並に進んだが、維新のため病気を理由に辞任した。徳川家の駿府(静岡市)移転に伴って沼津に移転し、沼津兵学校一等教授を経て頭取に進んだ。同校の兵部省移管に伴って新政府に出仕し、明治5年陸軍少丞兼陸軍兵学寮大教授となった。同年、太政官に新設された地誌課長に転じて改暦事業を担当し、数名の暦官を指揮して僅か10数日間で太陽暦採用を成し遂げた。その後、内務省に出仕し、権大内史兼法政課長、一等編修官、内務省御用掛、内務省少書記官、などを歴任した。かつて地誌編纂の必要を建言し、各都府県に関係資料の提出を求めて「日本地誌提要」(77巻)を選修し、明治8年これによる暦日対照表「三正総覧」の編纂を初め、地理、歴史、暦、洋算などに関する多数の編纂書を残している。
中島三郎助(1820〜1869)
幕臣の子として相模国三浦郡浦賀村(神奈川県横須賀市)に生まれた。天保年間(1830〜1843)の末年、父の跡を継いで下田奉行所与力となり、後に浦賀奉行所組与力に転じた。1853(嘉永6)年ペリーの浦賀来航の際は、浦賀奉行所副奉行を名乗り、同所与力近藤良次・佐々倉桐太郎らと米艦に赴いて折衝に当たった。1855(安政2)年36歳のとき佐々倉とともに第1回海軍伝習生として長崎に派遣され、オランダ海軍士官から航海術・砲術・測量術などを学んだ。安政6年軍艦操練所教授方出役に任じられ、次いで同所頭取に進んだ。その後は地方掛吟味役・富士見宝蔵番格・軍艦頭取出役などを歴任した。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発し、海軍副総裁榎本武揚が軍艦8隻とともに品川沖を脱出して蝦夷地(北海道)に向かうと、これと行動を共にした。翌明治2年箱館・五稜郭に拠る榎本らが官軍の軍門に下った後も、千代ヶ岳砲台の守備隊長として最後まで抵抗を続け、ついに二子とともに戦死した。
佐野常民(1822〜1902)
佐賀藩士下村充贇の五男として肥前国佐嘉郡早津江村(佐賀県佐賀郡川副町)に生まれた。11歳のとき縁戚の佐賀藩医佐野常徴の養子となった。1835(天保6)年藩校弘道館の内生に抜擢され、天保8年には江戸に出て儒者古賀?庵に師事した。2年後に帰藩して親戚の松尾家で外科を学び、傍ら藩の医学館に通った。1846(弘化3)年藩命により藩医牧春堂に従って上洛し、広瀬元恭の時習堂で蘭学と舎蜜学(化学)を学んだ。次いで大阪に出て緒方洪庵の適適斎塾に入門した。その後、再び江戸に出て戸塚静海・伊東玄朴のもとで理化学の研鑚を積んだ。1848(嘉永1)年長崎への転学を命じられると、時習堂の同門で知人の中村奇輔・石黒寛次・田中久重らを京都から佐賀に帯同し、富国強兵策を採る藩主鍋島直正に推挙した。自らは長崎に赴いて家塾を開き、同藩士の子弟に蘭学を教授した。嘉永6年藩命を受けて帰藩し、精錬方主任を命じられた。1855(安政2)年34歳のとき石黒・田中らを率いて長崎に赴き、幕府の海軍伝習所に入ってオランダ海軍士官から造船術・蒸気理論・理化学などを学んだ。同年、わが国最初の蒸気船と蒸気機関車の雛型を作成した。1861(文久1)年海軍取調方付役を命じられて藩海軍の育成に尽力し、文久3年にはわが国最初の蒸気船凌風丸を建造した。1867(慶応3)年藩代表として第1回パリ万国博覧会に派遣され、これを機にフランス・オランダ・イギリス各国の産業・軍事などを視察した。1868(明治1)年に帰朝すると、藩の兵制改革に取り組んだ。明治3年新政府に出仕して兵部少丞となり、海軍の創設に力を注いだ。翌明治4年工部大丞兼灯台頭、明治5年ウィーン万国博覧会副総裁、明治8年元老院議官などを歴任した。明治10年には西南戦争が勃発すると、大給恒らと西洋の赤十字事業に倣って博愛社を設立し、政府軍・西郷軍の別なく負傷者の救護に当たった。明治13年大蔵卿、同年内国勧業博覧会副総裁、明治14年元老院副議長、明治15年同議長、明治18年宮中顧問官などを歴任した。明治20年には博愛社を日本赤十字社と改称し、自ら初代社長に就任した。同年、永年の功績により子爵を授けられた。明治25年第1次松方正義内閣の農商務大臣などを歴任した。明治28年日清戦争における赤十字事業の功により伯爵に叙せられた。また各種の博覧会事業に関わって勧業に努めたが、その観点から竜池会(後の日本美術協会)を結成して美術工芸の振興にも力を注いだ。
中牟田倉之助(1837〜1916)
佐賀藩士金子文雅の次男として肥前国佐賀城下(佐賀市)に生まれた。後に母方の中牟田家の養嗣子となった。1853(嘉永6)年藩校弘道館に学び、数学・理化に秀でた。1855(安政2)年選ばれて蘭学寮に入り、オランダ語の修得に努めた。翌安政3年20歳のとき藩命で長崎に赴き、幕府の海軍伝習所に入って航海術・砲術などを学んだ。安政6年帰藩すると、海軍方助役を命じられ、三重津海軍学寮の教官として藩の海軍創設に関わった。1868(明治1)年の戊辰戦争では藩の新鋭艦孟春丸を率いて東征に参加した。翌明治2年の箱館戦争では朝陽丸艦長として奮戦したが、同艦は箱館湾内で榎本軍の砲弾を浴びて爆沈した。このとき自らも重症を負い、観戦中のイギリス軍艦に救助されて九死に一生を得た。明治3年新政府の兵部省に出仕した。同年、普仏戦争が勃発すると、政府は国外中立を宣言して横浜・函館・長崎に小艦隊を配備した。このとき長崎小艦隊の指揮を命じられ、海軍中佐に任命された。翌明治4年築地の海軍兵学寮の兵学権頭に起用され、大佐に進んだ。同年中に少将に昇進して兵学頭となった。明治6年にはヨーロッパ諸国の海軍制度を視察し、イギリスからダグラス以下34名の海軍教官団を招いて兵学寮の改革に着手した。ここに日本海軍はイギリス式を採用して発展を遂げる基礎を築いた。明治8年江華事件が起こると、海軍の西部指揮官として朝鮮に出動し、在留邦人の保護に当たった。明治9年海軍省副官となり、翌明治10年には海軍兵学校(海軍兵学寮の後身)校長を兼任した。明治11年横須賀造船所長となり、中将に進んだ。明治13年横浜の東海鎮守府長官、翌明治14年海軍大輔兼東海鎮守府長官兼海軍機関学校長となった。明治17年子爵を授けられ、同年、横須賀鎮守府(東海鎮守府の後身)司令長官となり、明治22年には新設の呉鎮守府司令長官となった。明治25年海軍大学校長兼海軍参謀部長、明治26年初代の海軍軍令部長を歴任した。翌明治27年枢密顧問官に任じられて軍職を退いた。
真木長義(1836〜1917)
佐賀藩士真木長澄の長男として肥前国佐賀城下(佐賀市)に生まれた。1854(安政1)年藩の蘭学寮に学んだ。翌安政2年20歳のとき藩命を受けて中牟田倉之助らと長崎に赴いた。幕府の海軍伝習所に入って航海術・砲術・測量術などを修得し、藩主鍋島直正から優等賞を授けられた。安政6年同所の廃止により帰藩すると、佐野常民、中牟田らと三重津海軍寮教官を命じられ、藩の海軍創設に携わった。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発すると、藩船電流丸を率いて東征に参加した。維新後は、新政府の兵部省に出仕し、明治4年少佐に任命それた。その後、海軍省に入って軍務課長・総務局長・機関学校長などを歴任し、明治18年海軍中将に累進した。その間、明治14年には海軍卿榎本武揚に求められて、海軍制度改革案を作成した。明治20年男爵を授けられ、明治22年宮中顧問官に任じられた。また伏見家別当を務めた。後に貴族院議員に選ばれた。
田中久重(1799〜1881)
筑後国御井郡久留米城下(久留米市)の鼈甲細工師田中弥右衛門の長男として生まれた。幼少の頃から機械工作を得意とし、早くも9歳のとき錠仕掛けの硯箱を作って注目された。1813(文化10)年には近在の久留米絣創始者の井上伝に依頼されて絵絣の織機を発明した。1820(文政3)年風砲(空気銃)を製作した。この頃、水力で音楽を奏して人形を踊らせるからくり人形を考案し、からくり儀右衛門、と呼ばれた。文政7年から肥前国佐賀城下(佐賀市)・肥後国熊本城下(熊本市)・大阪・京都・江戸などを遍歴し、からくり人形を披露する傍ら、技術の修得と研究に力を注いだ。1834(天保5)年発明家を志し、家督を弟に譲って大阪に移り住んだが、天保8年の大塩平八郎の乱で家財を失い、山城国紀伊郡伏見(京都市)に転居した。この頃、鼠燈・無尽燈・懐中燭台などの照明器具を製作して販売したところ、特に無尽燈は大いに流行った。1846(弘化3)年頃、消防ポンプを作って雲竜水と名付けた。弘化4年には、僧円通がインドから伝来した須弥山宇宙論を説明するため、須弥山儀を製作した。その際、天文学・暦学の必要を痛感して天文方戸田久左衛門に師事し、また陰陽道・天文道を家職とする土御門家に入門した。1850(嘉永3)年京都に転居し、広瀬元恭の私塾時習堂に通って蘭学を修めた。嘉永4年には精密機械の技術を結集した最高傑作の万年自鳴鐘(時計)を完成させた。嘉永5年蒸気船の雛型2隻(車輪形スクリュー形)を造り、関白鷹司政通から日本第一細工師、と称賛された。1854(安政1)年佐藤常民の推挙で佐賀藩主鍋島直正に招かれ、精錬方で銃砲や蒸気罐などの製造に従事した。安政2年57歳のとき藩命で長崎に赴き、幕府の海軍伝習所でオランダの海軍士官から砲術・造船術・蒸気論などを学んだ。帰藩後は蒸気船凌風丸を建造する一方、佐賀藩が幕府から依頼された江戸・品川台場据え付けの大砲を鋳造した。1864(元治1)年郷里の久留米藩から招聘を受け、佐賀・久留米両藩の技術指導を兼ねたが、1866(慶応2)年久留米に帰って士籍に加えられた。同年、清国・上海に出張して汽船の購入に奔走した。また機械製造や大小砲の製作をおこなって久留米藩の富国強兵・殖産興業に尽力した。維新後は、1873(明治6)年に上京し、明治8年新橋に電信製作工場の田中製作所を設立し、これが後に芝浦製作所(今日の東芝)と発展した。
松村安種(1840〜1879)
肥前国佐賀城下(佐賀市)で佐賀藩士の松村家に生まれた。早くから藩の蘭学寮に入った。1855(安政2)年16歳のとき蘭学寮から選ばれて長崎に赴き、幕府の海軍伝習所で航海術・砲術・造船術などを学んだ。帰藩後は藩の海軍創設に関わった。維新後は、新政府の兵部省に出仕し、1872(明治5)年海軍少佐に任命された。その後、軍艦雲揚・富士山・丁卯・天城などの艦長を歴任したが、肺結核のため没した。享年39。
本島藤太夫(1812〜1888)
佐賀藩士坂井弥兵衛の三男として肥前国佐賀城下(佐賀市)に生まれた。1828(文政1)年同藩士の本島家を継いだ。1842(天保13)年藩主鍋島直正の奥小姓に抜擢された。1844(弘化1)年火術方が新設されると、その一員に加えられ西洋砲術の研究に携わった。1850(嘉永3)年藩命を受けて伊豆国田方郡韮山村(静岡県田方郡韮山町)に赴き、韮山代官の江川太郎左衛門から砲台築造と大砲鋳造術を学んだ。さらに房総沿岸(千葉県)の砲台を視察し、江戸では佐久間象山から砲台築造について教えを受けた。同年、帰藩すると、鋳砲局主任に命じられ、杉谷庸助らと反射炉を構築して大砲鋳造を試みた。一方、藩が幕府から長崎港外の伊王島・神ノ島で砲台の築造を命じられると、田代孫三郎らの協力を得て難工事に取り組み、嘉永5年ようやく竣工に漕ぎ着けた。翌嘉永6年ロシア使節プチャーチンが長崎に来航すると、3回にわたってロシア艦の備砲・蒸気機関などを見学した。1854(安政1)年にはオランダ商館長クル チュースを訪ね、鋳砲について質疑した。翌安政2年藩から選ばれて長崎の海軍伝習所に入り、オランダ海軍士官から砲術・造船術などを学んだ。かねてから江川太郎左衛門に深く信頼されていたため、安政3年には秘法とされた着発弾の製作法を伝授された。一方江川が韮山村に反射炉を構築する際は、杉谷庸助を派遣して支援するなど、江川との間に技術交流を行った。謹厳実直な人柄で藩主直正の信任厚く、藩の軍事力近代化の中心になるとともに、藩政の各分野で活躍した。1864(元治1)年の第1回長州征討や1868(明治1)年の戊辰戦争の際は、藩の参謀として従軍した。
維新後は、鍋島家の経営に携わり、国立第百六銀行(佐賀)の経営を指揮した。著書として藩の軍事史を記した「松之落葉」がある。
金子才吉(1826〜1867)
福岡藩家老矢野梅庵の家臣徳田永武の次男として筑前国福岡城下(福岡市)に生まれ、8歳のとき同藩士金子卯作の養子となった。久間垣斎から算学を学び、天文学にも通じた。1844(弘化1)年町方付となり、弘化4年には奥御書物写に進んだ。1853(嘉永6)年28歳のとき藩命で長崎に遊学して蘭学を修めた。1855(安政2)年藩から選ばれて長崎に赴き、幕府の海軍伝習所に入ってオランダ海軍士官から航海術・測量術などを学んだ。安政5年にいったん帰藩したが、1861(文久1)年3度、長崎に赴いた。翌文久2年藩が長崎でイギリスから大鵬丸を購入すると、航海士として乗り組み江戸まで航行し、航海術・測量術の研鑚を積んだ。1864(元治1)年には測量方機関役兼船手頭支配を命じられた。1865(慶応1)年イギリス人の貿易商人グラバーらと清国・上海に渡航して海外事情を視察した。慶応3年には 長崎港における砲台の築造敷地の測量を命じられた。同年、長崎の丸山でイギリス船イカルス号の水夫を殺害する事件を引き起こし、累が藩主黒田長薄に及ぶことを恐れて2日後に自刃した。1869(明治2)年その真相が明らかになり、闕所・一家断絶の処分を受けた。
4 医学伝習所
1857(安政4)年、日本の軍医派遣要請に応じて第2次海軍伝習指揮官カッテンダィーケに選ばれて28歳の軍医ポンぺは医学校を開設するべく日本にやってきた。1857年11月12日長崎奉行所西役所の一室で松本良順とその弟子たち12名に最初の講義を行った。この日を長崎大学医学部の設立記念日としている。オランダ政府派遣の軍医が来ることを知った幕府寄合医師松本良順は長崎奉行所目付永井尚志を説得し、長崎海軍伝習生御用医として長崎に来た。良順は医学校開設というポンぺの考えに共鳴してまず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。そのころ蘭医学は禁じられていたので、他藩からの医師を良順の弟子としてようやくポンぺの講義を受けさせることができた。多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から大村町の元高島秋帆宅に移ったとき、良順は医学校建設を決意した。ときの長崎奉行岡部駿河守長常はポンぺと良順に好意的で医学校建設に助力を惜しまなかった。

ポンぺは医学全般を文字通り一人で5年間全身全霊をそそぎ込んで教えたのである。毎日の講義もただ教科書のひき写しでは科学の基礎知識のない学生に理解できるはずもなく、わかりやすくして言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えねばならなかった。そのカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似し、全く手抜きすることなく生理学・病理学・解剖学・外科・内科・眼科・産科・手術・包帯・治療・薬学・化学・数学など基礎から一歩一歩と階段を登るように教えられた。松本良順とその弟子司馬凌海のオランダ語の深い素養もポンぺの講義理解伝達に大きな功績があった。解剖学は精巧な人体解剖紙模型を用いて行われたが、ポンぺはほどなく囚人の人体解剖実習を長崎奉行に願い出た。牢内の囚人たちが反対の騒動を起こしたとき、良順は解剖実習に献体することの意義を説き、献体した囚人には処刑後僧による読経を許し手厚く供養すると約束して騒ぎを収めた。1859(安政6)年9月西坂の丘でポンぺは市民の反感のなか身の危険を省みず日本初の人体解剖実習をおこなった。

14,530人もの患者を5年間に治療し、外国人によるコレラや梅毒の上陸を阻止するための努力により長崎の町の人々はポンぺに次第に信頼と尊敬を寄せるようになった。ポンぺの熱望していた西洋式の病院の建設もこのようなポンぺの誠実さがシ浸みわたって初めて実現に向けて走り出したのである。1861(文久1)年9月20日養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成した。養生所は医学校に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式付属病院であり、長崎大学医学部の前身である。ポンぺは多くの日本人医学生にたいして養生所で系統的な講義を行い、患者のベッドサイドで医のアートを教えた。その教え子たちによって日本に西洋医学が定着したので、近代西洋医学教育の父と称されている。

ポンぺは貧乏人は無料で診療し、侍町人・日本人・西洋人の区別は一切しなかった。封建社会に育った門人たちに医師にとってはなんら階級の差別などないこと、貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけだということを養生所で身をもって実践し教えた。長崎大学医学部の校是となっているポンぺの言葉は「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というもので、医の真髄を教えたポンぺの言葉は門弟たちの心に深く刻み込まれた。ポンぺは、卒業証書を学生に渡したあと、後任のボードインの着任を待って1862(文久2)年11月に帰国した。

松本順(1832〜1907)
下総国(千葉県)佐倉藩医佐藤泰然の次男として江戸に生まれた。1849(嘉永2)年父泰然の友人で幕府医師松本良甫の養嗣子となった。幼くして医学を志し、当時、三大西洋家として知られた坪井信道・伊東玄朴・戸塚静海らについて蘭学と蘭方を学んだ。1855(安政2)年幕府出仕となり、安政4年26歳のとき幕命を受けて長崎に遊学した。この年に来日して医学伝習所を設立したオランダ軍医ポンぺのもとで西洋医学を修める傍ら、その助手として諸藩の伝習生の面倒をみた。1861(文久1)年ポンぺが幕府に進言して長崎養生所が開設されたが、これはわが国最初の洋式病院とされている。順は同所頭取に選ばれ、近代的な医学教育を目指すポンぺを助けていった。翌文久2年ポンぺが帰国すると、江戸に帰って14代将軍家茂の侍医に挙げられ、法眼に叙せられた。文久3年西洋医学所頭取緒方洪庵が没すると、その跡を継ぎ、ポンぺを範として医学所の改革に取り組んだ。1866(慶応2)年家茂が大阪城で脚気を病んだ際は、その治療に専念した。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発すると、門弟数名を率いて陸奥国会津郡若松城下(福島県会津若松市)に走り、軍陣病院を開いて東北軍の傷病兵の治療に当たった。東北軍の降伏後、朝敵として官軍に捕らえられた。後に許され、明治3年東京・早稲田に私立蘭疇病院を設立したが、長続きしなかった。翌明治4年陸軍大輔山県有朋に勧められて新政府の兵部省に出仕し、最初の軍医頭として陸軍軍医部の設立に尽力した。明治6年には初代の陸軍軍医総監に任じられ、陸軍の医療体制を確立した。翌明治7年の征台の役と明治10年の西南戦争の際は、東京に留まって迅速・的確な指揮を執った。明治23年帝国議会が開設されると、勅選によって貴族院議員となり、明治38年男爵に叙せられた。常に民間の衛生に関心を向け、牛乳の飲用や海水浴を奨励した。また、遊女の検梅制度の確立やコレラの撲滅対策にも積極的に取り組んでいった。
司馬凌海(1839〜1879)
半農半商の島倉栄助の長男として佐渡国雑太郡新町(新潟県佐渡郡真野村)に生まれた。医者を志して家督を弟に譲り、司馬と改姓した。12歳のとき祖父伊右衛門に連れられて江戸に出て唐津藩儒者山田寛に漢学を学んだ。14歳のとき幕府医官松本良甫の塾に学び、さらに下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴いて佐藤泰善の私塾順天堂で蘭学と蘭方を修めた。1856(安政3)年帰郷したが、翌安政4年19歳のとき師松本良甫の養子松本順に従って長崎に遊学した。来日草々のオランダ軍医ポンぺが開設した医学伝習所で4年間、西洋医学の修得に努めた。1861(文久1)年肥前国松浦郡平戸城下(長崎県平戸市)に赴いて医業を開き、翌文久2年ここで西洋薬物書の「七新薬」を著してその名を知られるようになった。平戸藩医家への婿入りを知った祖父伊右衛門が遠路、迎えに来たため帰郷した。医業を開いたところ、時の相川奉行の知遇を得て医官兼洋学師範に挙げられた。やがて致仕して再び江戸に出て、私塾春風社を開いて外国語を講じた。生来、語学の才に恵まれ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じた。なかでも独・英・蘭 語に堪能で、自在に通訳もできたといわれ、後にわが国最初の独和辞典「和訳独逸辞典」を著した。1868(明治1)年新政府の徴士に挙げられ医学校三等教授となり、次いで大学大助教・少博士・文部大教授に累進した。明治8年元老院少書記官となり、翌明治9年愛知県病院医員兼医学校教師として赴任したが、間もなく辞職した。明治10年名古屋で開業したが、肺結核に罹って静岡県熱海に転地療養し、帰郷の途中、神奈川県戸塚(横浜市)で没した。著書として他に「解馬新書」「袖珍内外方林」などがある。
佐藤尚中(1827〜1882)
小見川藩医山口甫僊の次男として下総国香取郡小見川(千葉県香取郡小見川町)に生まれた。若くして江戸に出て寺門静軒から経史を、安藤文沢から医学を学んだ。1842(天保13)年師文沢の勧めで佐藤泰然に師事して蘭方外科を修めた。翌天保14年師泰然が佐倉藩主堀田正睦に招かれて同国印旛郡佐倉城下(佐倉市)に転居すると、これに従った。泰然が佐倉に開いた蘭学塾順天堂で頭角を現し、1853(嘉永6)年認められてその養子となった。1859(安政6)年家督を継いで佐倉藩医となり、第2代の順天堂主となつた。泰然の実子の松本順がオランダ軍医ポンぺの情報を伝えてくると、1860(万延1)年34歳のとき藩命で長崎に遊学し、ポンぺから外科を中心に西洋医学を学んだ。1862(文久2)年佐倉に帰って順天堂で診療と門弟の教育に当たった。また藩主に医政の改革を献言し、藩主はすべて洋方医とするとともに、佐倉養生所を開設して西洋医学を推奨した。その活躍を知った江戸幕府から御典医に迎えられたが受けなかった。1869(明治2)年新政府の強い要請を入れて大博士となり、大学東校(東京大学医学部の前身)を主宰した。後に大典医・大学大丞と重用されたが、ミュラー・ホフマンらドイツ人教師が来朝して医学教育の改革に着手すると、明治5年すべての官職を辞任した。明治6年下谷練塀町に病院を建て、明治8年湯島に移ったが、これが今日の順天堂医院の始まりである。著書として「外科医法」「斯篤魯黙児砲痍論」などがある。
半井澄(1847〜1898)
福井藩医半井仲庵の長男として越前国福井城下(福井市)に生まれた。若くして藩儒矢島立軒に漢学を、父仲庵に蘭学を学んだ。1862(文久2)年16歳のとき父仲庵に従って橋本網常らと長崎に遊学した。長崎養生所に入り、頭取松本順やオランダ軍医ポンぺ。オランダ人医師ボードイン、ハラタマらについて西洋医学を修めた。1865(慶応1)年精得館(長崎養生所の後身)の当直医となったが、翌慶応2年帰藩した。1868(明治1)年の戊辰戦争には藩医として従軍し、越後国(新潟県)の柏崎病院で負傷兵の救護活動に当たった。戦後、橋本網常と上京を願い出たが、蘭方医の同時離郷は許されず、澄は福井に留まった。その後、軍事病院医官、文部中教授、大助教などを歴任した。明治6年招かれて京都府療病院に勤め、オランダ人医師マンスフェルトらと診療や医学教育に従事した。明治9年同療病院長、明治14年医学校長兼務となった。明治19年これらを辞し、宮内省侍医局に籍を置いて京都在勤となった。明治21年京都に 私立東山病院を開設して民間の診療に専念することになったが、傍ら大日本私立衛生会京都副会頭・京都医会会頭などに選ばれて活躍した。
林研海(1844〜1882)
蘭方医林洞海の長男として江戸に生まれた。佐藤泰然の外孫。6歳のとき荻野鳳次郎について漢学を修め、13歳のとき儒者塩谷宕陰の門をたたいた。1861(文久1)年18歳のとき長崎に遊学し、オランダ軍医ポンぺから西洋医学を学んだ。翌文久2年オランダ留学の幕命を受け、西周・津田真道らとオランダ帆船で長崎を出発した。途中、ボルネオ島近海で船が座礁・沈没し、9ヶ月を要してロッテルダムへ到着した。初めライデン大学で学び、次いで軍医学校に入校した。4年後、大政奉還の報に接して急ぎ帰朝した。新政府から典薬寮出仕を勧められたが、旧幕府に恩義を感じて辞退し、徳川家の駿府(静岡市)移転に従って静岡藩病院長に就任した。1871(明治4)年同院が廃止されると、叔父松本順の推挙によって政府の軍医部に出仕し、一等軍医正に任じられた。明治6年陸軍軍医監となって欧米各国に派遣され、翌明治7年帰朝した。明治10年の西南戦争では征討軍団の軍医部長として活躍し、明治12年松本順の跡を継いで軍医総監となった。明治15年ヨーロッパ諸国へ出張中、パリで病没してモンパルナス墓地に葬られた。享年39。
石井信義(1840〜1882)
勝山藩医石井宗賢の長男として実作国真島郡城下(岡山県真庭郡勝山町)に生まれた。7歳のとき藩主三浦侯の前で「孝経」を素読して神童と称された。その後、父宗賢に従って備前国岡山城下(岡山市)に移り、さらに14歳のとき宗賢とともに江戸に出た。塩谷宕陰に漢籍を学び、傍ら箕作阮甫・松本弘庵らのもとで蘭学と蘭方を修めた。1857(安政4)年18歳のとき長崎に遊学し、海軍伝習所教師として着任草々のオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学んだ。翌安政5年大阪に出て緒方洪庵の適々斎塾に入門し、その学才は塾中第一と称賛された。1861(文久1)年父宗賢を喪って江戸に帰り、家督を継いで勝山藩医となった。翌文久2年師洪庵が幕府の強い要請で医学所第2代頭取に就任すると、同門の島村鼎甫とともに医学所教授職に推された。維新後は、1869(明治2)年大学大助教、翌明治3年大学少博士となり、大学東校(東京医学校・東京大学医学部の前身)では、主として病理学を講義した。同年、大阪医学校長兼病院長に任じられたが、明治4年文部中教授となって大学東校に復帰した。その後、文部省医務局の局員として医療制度の調査や西洋医学書の翻訳に携わった。明治7年病のために辞官したが、療養する傍ら、求めに応じて診療に当たった。訳書として「丹氏医療大成」がある。
佐々木東洋(1839〜1918)
代々医を業とする佐々木震沢の長男として江戸に生まれた。1856(安政3)年下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴き、佐藤泰善・尚中の順天堂で蘭学を学んだ。さらに安政6年21歳のとき長崎に遊学し、オランダ軍医ポンぺについて西洋医学を修めた。1861(文久1)年江戸ら帰り、チフス患者を治療して名を挙げた。翌文久2年幕府の西洋医学所教授助手を命じられ、1866(慶応2)年軍艦播竜の医官となった。1869(明治2)年大学大得業生となり、さらに大学南校(東京大学医学部の前身)の少助教・中助教・権大助教などを歴任して内科部長に進んだ。その間、ドイツ人の御雇医師ミュラーやホフマンらから親しく教えを受けた。明治8年医学校付属病院長となったが、翌明治9年退官して神田駿河台で医業を開いた。明治10年西南戦争が起こると、軍医を志願して一等軍医正に任命され、大阪の臨時陸軍病院に勤務した。翌明治11年東洋の発案で政府が神戸に脚気病院を設立すると、洋方の主任に選ばれて脚気の研究に専念した。明治13年同病院が廃止されると、翌明治14年東京・駿河台に杏雲堂医院を設立して脚気病院の患者を収容した。これ以後、本郷の順天堂医院とともに民間病院の代表として広く知られた。明治19年内務省中央衛生委員に選ばれ、明治23年東京医会が設立されると、会長に推されて開業医の医術向上に献身した。訳著書に「内科提綱」「診法要略」などがある。
伊東方成(1832〜1898)
医者鈴木方策の長男として相模国高座郡上溝村(神奈川県相模原市)に生まれた。初め同村の医者井上篤斎に学んだ。1849(嘉永2)年江戸に出て伊東玄朴の象先堂で蘭方を修めた。1860(万延1)年師玄朴に認められてその養嗣子に迎えられ、幕府の奥医師見習を命じられた。1861(文久1)年30歳のとき幕命で長崎に遊学し、開設草々の長崎養生所で佐藤尚中・長与専斎らとオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学んだ。翌文久2年幕府最初の海外留学生として林研海とともにオランダに留学し、ユトレヒト軍医学校で学んだ。1868(明治1)年帰朝し、初めて眼球模型を持ち帰った。同年、図書少丞に任じられ、また養父玄朴から家督を継いで方成と改名した。翌明治2年大学中博士となり、次いで大典医に転じた。明治3年再びヨーロッパに派遣され、ドイツで医学の研鑚を積んで明治7年に帰朝した。明治10年には一等侍医に進んだ。明治20年三度ヨーロッパに遣わされ、明治24年依願免官と同時に、宮内省御用掛を命じられ、病弱の皇太子宮嘉仁親王(後の大正天皇)に仕えた。明治29年には宮中顧問官に任じられた。
関寛斎(1830〜1913)
農業吉井佐兵衛の長男として上総国山辺郡中村(千葉県東金市)に生まれ、後に山辺郡前之内村(東金市)の儒者関俊輔の養子となった。1848(嘉永1)年下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴き、佐藤泰然の順天堂で蘭方を修めた。さらに江戸に出て林?海・三宅良斎のもとで研鑚を積んだ。嘉永5年帰郷して医業を開き、1856(安政3)年には下総国海上郡銚子村(銚子市)に移って医業に従事した。この頃、同地の醤油醸造業者浜口儀兵衛の知遇を受け、1860(万延1)年31歳のとき長崎に遊学した。1年余の滞留中にオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学び、また開設草々の長崎養生所で臨床教育を受けた。1862(文久2)年帰郷したが、同年阿波国徳島藩主蜂須賀侯から藩医に迎えられて同国徳島城下(徳島市)に赴いた。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発すると、徳島藩兵とともに従軍し、東征大総督から奥羽出張病院頭取を命じられて活躍した。戦後は徳島に帰って藩医学校や治療所の開設に尽力したが、不慮の事故に遭って徳島を去った。その後は新政府の海軍省に出仕し、また山梨県立病院長を務めた。明治6年再び徳島に帰って医業を開いた。以後30年間、この地で診療に従事し、関大明神と崇められたという。明治35年73歳のとき北海道の開拓を決意し、十勝郡斗満原野(北海道足寄郡陸別町)に入植した。二宮尊徳やトルストイに私淑し、以後10年間、幾多の困難を乗り越えて1500ヘクタールの牧場開拓と、理想の村づくりに取り組み、84歳で没した。
黒田程造(1839〜1899)
讃岐国香川郡安原村(香川県香川郡塩江村)の津島二造の長男として生まれた。後に同郷一宮村(高松市)の黒田家に養子として入った。長崎に遊学し、同郷の三好普造とともに長崎養生所でオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学んだ。業成って帰国し、明治初年に高松藩が医学寮を開設すると、準少助教に任命された。その後、一宮村で医業を開いたところ、長崎帰りの医者として評判になった。医業の傍ら、塾を開いて子弟の教育に力を注いだが、コレラに罹って没した。年40。
三好普造(1826〜1893)
讃岐国阿野郡陶村(香川県綾歌郡綾南町)の三好嘉代八の三男として生まれた。幼少の頃から学問を好み、早くから医学を学んだ。1860(万延1)年32歳のとき長崎に遊学し、同郷の黒田程造とともに長崎養生所でオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学んだ。さらに1862(文久2)年大阪に出て、緒方洪庵の適々斎塾で牛痘法を修得した。業成って帰郷すると、医業を開いて種痘の普及に力を注いだ。村人から玄中先生と呼ばれて慕われた。後に高松藩に召し出されて同国高松城下(高松市)に移った。維新後は高松で開業した。
5 その他
長崎に遊学した人たちは、医学、蘭学、軍艦の操縦・砲術などを学んだだけではない。美術・漢学・化学・絵画・地理・本草学・数学・天文学・数学などさまざまな学問を学びに来た人たちもいたのである。長崎の蘭通事の中には、当時一流の蘭学者・医者がいた。これらの人は自ら塾を開き門人たちに教授した。蘭通事吉雄幸牛は著名な蘭学者であると同時に外科医であった。吉雄塾には400人を超える門人がいたと云われる。また、大村益次郎、福沢諭吉、大隈重信など明治維新で政治・軍事・教育の分野で活躍した人たちも若い頃、長崎に遊学しているのである。これらの人たちの行跡を明らかにし、長崎に遊学した人たちが日本の近代化にそれぞれの分野で貢献したことを実証したい。

吉雄耕牛(1724〜1800)
吉雄耕牛は代々阿蘭陀通事をしている吉雄家に生まれた。当時、阿蘭陀通事は世襲制であった。耕牛はその5代目である。長崎に遊学した人ではないが、長崎に遊学した人を多く受け入れた人である。阿蘭陀商館医バウエルやツンベリーに蘭学・医学を学んだ。若くして大通事となった耕牛は蘭書に広く目を通し、医学に通暁していたので、多くの門弟が集まった。その数は400人を超えていたとも云われている。特に外科に優れ、吉雄流紅毛外科として広まった。江戸番通事を11度も務め、江戸の蘭学者との交流も深まった。前野良沢は耕牛に学び研鑚を積んだ。前野良沢や杉田玄白等による「解体新書」の序文は耕牛が書いている。外科に吉原元棟の整骨法も取り入れ、門人の二宮可彦は吉原流に学び、整骨術を唱導した。子息の永久は医術に、権之助は蘭語に優れていた。西洋の調度品にあふれる吉雄家では、オランダ正月の賀宴が催され、長崎を訪れる人の名所であった。
司馬江漢(1747〜1818)
安藤氏の子として江戸に生まれ、後に居住地の芝新銭座から姓を司馬と改めた。若くして狩野美信について狩野派を学び、後に鈴木春重と名乗り、鈴木春信風の美人画を描いて好評を博した。やがて浮世絵と袂を分かち、沈南蘋系の宋紫石に師事して写生画の画法を習得した。また、安永年間(1772〜1780)に師宋紫石を通じて平賀源内を識り、西洋学や窮理学に関心を持つようになった。1783(天明3)年には大槻玄沢ら蘭学者の協力を得て腐触銅版画の創製に成功した。わが国における銅版画の嚆矢で、「三囲景図」「不忍池図」など多数の作品を残している。一方、西洋画の写実的画法を参考に、蝋画と称する独特の油絵を制作した。天明8年42歳のとき西洋画を研究するため長崎へ赴いた。画法については得るべきものもなかったが、阿蘭陀通詞から西洋の事情を聴くとともに、オランダ商館を見学した。その後、肥前国松浦藩平戸城下に赴いて藩主松浦侯所蔵の蘭書に接した。1789(寛政1)年江戸に帰ったが、長崎遊学後は西洋文化に強い関心を示し、天文学・地理学・西洋の風俗などに関する数々の著書を残している。
前野良沢(1723〜1803)
福岡藩士谷口新介の子として江戸に生まれた。7歳のとき父新介が他界して母が再嫁したため、母方の伯父で山城国淀藩医宮田全沢に養われ、凡そ男子たるものは人の未だ為さざる所を為して一世に率先すべし、と諭された。伯父全沢から古医学を学ぶとともに、京都の吉益東洞に師事して実験医学へ目を向けた。その才能を見込まれ、全沢の遠縁である豊前国中津藩医前野東元の養子に迎えられた。1748(寛延1)年家督を継ぎ、中津藩主奥平侯の藩医に挙げられて江戸に住んだ。同藩士坂江鴎から蘭書を見せられてオランダ語の学習を志し、1769(明和6)年47歳のとき蘭学者青木昆陽の門をたたいた。昆陽からオランダ語500余を教授された。翌明和7年参勤交代の藩侯に従って豊前国へ帰り、これを機に100日間の長崎遊学を願い出て許された。長崎では阿蘭陀通詞の吉雄耕牛からオランダ語200余を学んだ。またドイツ人クルムスの「解剖図譜」の蘭訳書「ターヘル・アナトミア」など数冊の蘭書を購入し、明和8年藩侯に従って出府した。同年、江戸・千住小塚原で行われた刑死者の腑分けを蘭方医杉田玄白に誘われて実見した。このとき人体各部の形状が「ターヘル・アナトミア」の解剖図と酷似していることに驚嘆し、玄白の提案で同書の翻訳を決意した。3年の歳月を費やして訳業を終わり、1774(安永3)年「解体新書」が刊行された。わが国最初の西洋医学書の翻訳で、良沢52歳のときである。刊行に際し、良沢は誤訳などの再点検が必要であると主張したが、玄白の早期刊行説に押し切られた。このため自己の名の公表を拒んだ。以後は家に篭もって蘭書の翻訳に専念し、多数の著書を残している。
大村益次郎(1824〜1869)
医者藤村孝益の長男として周防国吉敷郡鋳銭村(山口市)に生まれた。村田家を継いで村田蔵六と称したが、後年藩主毛利敬の命で大村益次郎と改めた。1842(天保13)年周防国佐波郡三田尻村の蘭方医梅田幽斎に師事し、翌天保14年には豊後国(大分県)の儒者広瀬淡窓に咸宜園に入門した。1846(弘化3)年大阪に出て緒方洪庵の蘭学塾適々斎塾に入り、さらに長崎に遊学して蘭学の研鑚を積んだ。1848(嘉永1)年再び適々斎塾に入り、翌嘉永2年には塾頭に挙げられた。嘉永3年帰郷して医業を開いたが振るわず、また、急迫する対外情勢も手伝って西洋兵学の研究に没頭するようになった。嘉永6年宇和島藩主伊達宗城に迎えられて伊予国宇和島城下に赴き、蘭学・兵学などを講じた。再び長崎に遊学して蘭船の研究に当たり、宇和島に帰って軍艦の建造を指導した。1856(安政3)年伊達侯の参勤出府に随伴し、私塾鳩居堂を開いて蘭書を教授する傍ら、その翻訳に携わった。同年、伊達侯の推挙によって幕府の蕃書調所教授方手伝となり、翌安政4年講武所教授に任じられた。この頃からその活躍ぶりを長州藩に認められ、1860(万延1)年雇士として召し抱えられ、蘭学の教授や蘭書の翻訳に従事した。一方、英学の必要性を痛感すると、開港場の武蔵国神奈川村(横浜市)に出向き、アメリカ人宣教師ヘボンに教えを受けた。1861(文久1)年藩命で長門国阿武郡城下(山口県萩市)に帰り、博習堂御用掛を命じられて藩士たちに蘭学・兵学を講じた。この後、江戸藩邸内の学塾などで兵学を教授した。1864(元治1)年には四国艦隊砲撃事件後の和解交渉を担当し、その力量を高く評価された。さらに、1865(慶応1)年軍務掛として兵制改革に才腕を揮い、幕府の第2回防長征討に備えた。翌慶応2年幕府軍が防長両国の四境に迫ると、石見国(鳥取県)方面の参謀として指揮をとり、連戦連勝の殊勲を挙げた。征長戦後は再び明倫館兵学寮の教授を務めた。1868(明治1)年世子毛利定広に従って上洛すると、新政府から軍防事務局判事加勢に任命され、親兵の編制に当たった。
その後、軍防事務局判事・軍務官判事・軍務官副知事などを歴任して江戸の治安確保に力を注ぎ、上野の彰義隊を討伐した。さらに会津戦争の作戦指揮にも力を発揮した。翌明治2年戊辰戦争の功によって永世禄1500石を賜った。同年、軍務官が廃止されて兵部省が新設されると、兵部大輔となり、近代的な兵制樹立のための大改革を企てた。各藩の諸隊の解散と廃刀を前提とする徴兵制度の創設は、守旧派士族の反感を買い、京都で襲われて刺され、その傷がもとで没した。
福沢諭吉(1834〜1901)
中津藩士福沢百助の次男として大阪・堂島の同藩蔵屋敷に生まれた。3歳のとき父百助が急死したため、一家は豊前国下毛郡中津城下(大分県中津市)に帰った。兄三之助が家督を継ぎ、諭吉は叔父中村術平の養子となった。14・5歳の頃から藩儒者白石照山に漢学を学んで頭角を現した。1854(安政1)年21歳のとき三之助に勧められて蘭学修行のため長崎に遊学した。翌安政2年大阪に出て緒方洪庵の適々斎塾に入門し、蘭学の研鑚に努めた。安政3年三之助の死に遭って中津に帰り、復籍して家督を相続した。同年、再び適々斎塾に戻り、塾頭に挙げられた。安政5年藩命で江戸に出て築地鉄砲洲の藩邸に蘭学塾を開いた。これが慶応義塾の起源である。翌安政6年開港場の横浜に遊んだ際、オランダ語がほとんど通用しないことを知り、独学で英語の学習を始めた。1860(万延1)年条約批准書交換のため新見正興が訪米する際、志願して軍艦奉行木村喜殻の従僕となり、咸臨丸で渡米した。アメリカで見聞を広め、ウェブスター大辞典などを買い求めて帰国すると、幕府の翻訳方に雇われた。1861(文久1)年遣欧使節竹内保徳の随員に加えられ、福地源一郎・松本弘安らとフランス・イギリス・オランダ・プロシア・ポルトガルの諸国を巡遊し、ますます見聞を広めて帰国した。1864(元治1)年改めて幕府に召抱えられ、外国方翻訳局に出仕した。1866(慶応2)年欧米滞留中の見聞と外国文献をもとに「西洋事情」を著し、攘夷から開国への一大転期を迎えた日本人に大きな感化を与えた。翌慶応3年小野友五郎らと幕府の軍艦受取委員に選ばれて再び渡米した。アメリカ東部諸州を視察し、間もなく大政奉還が行われると、帯刀を止め、平民となって藩の家禄も辞退した。また、新政府の招きにも全く応じなかった。1868(明治1)年築地鉄砲洲の蘭学塾を芝新銭座に移して慶応義塾と命名した。明治4年さらに三田に移し、以後は義塾による人材の養成と訳著書による啓蒙活動に全力を傾注した。明治5年「学問のすすめ」を著し、一国の独立は一身の独立に基づき、一身の独立には学問が重要と説いて時代の共感を呼んだ。明治6年森有礼を中心に津田真道・加藤弘 之・西周らと明六社を結成し、「明六雑誌」を発行して啓蒙的な役割を果たした。明治8年「文明論之概略」を著し、古今東西の文明発達の事蹟を明らかにするとともに、従前の封建教学と封建道徳を厳しく批判し、文明社会の向かうべき方向を示した。明治12年加藤・西らと東京学士会院を創設して初代会長となり、翌明治13年知識の交換と世務の諮詢を目的とした交詢社を設立した。明治10年代に自由民権運動が高揚すると、これを警戒して民権と国権の両立や官民の調和を唱えた。また朝鮮問題が発生すると、これを憂慮して対外進出のための国内政治休戦を主張し、後に日清戦争を支持した。明治15年に自ら創刊した日刊新聞「時事新聞」の紙上でこれらの論陣を張っていった。諭吉は終生、野に在って封建思想を厳しく批判する立場をとり、50部105冊の訳著書で明治時代の日本人に大きな影響を与えていったところに特色がある。
緒方洪庵(1810〜1863)
足守藩士佐伯惟因の三男として備中国賀陽郡足守(岡山市)に生まれた。16歳のとき、蔵屋敷留守居役の父惟因に従って大阪に出て文武の修行に励んだが、病弱のために医者を志した。1826(文政9)年蘭方医中天游の門をたたき、このとき先祖の姓緒方を名乗った。1831(天保2)天游の勧めで江戸に出て、蘭方医坪井信道の学塾安懐堂に学び、多くの蘭書を読破した。また師信道に勧められて蘭方医宇田川玄真の門に出入した。天保6年天游が没すると、その子中耕介を助けて大阪で蘭学を講じた。翌天保7年27歳のとき長崎に遊学し、医学の心得のあったオランダ商館長ニーマンに従学するとともに、青木周弼らと蘭書の翻訳に携わった。天保9年大阪に帰って医業に従事する傍ら、蘭学塾適々斎塾(適々塾・適塾)を開いて蘭学・蘭方を教授した。その評判を耳にした遊学者が全国から集まり、25年間の入門者は3000余名を数えた。その中には大村益次郎・佐野常民・橋本佐内・大鳥圭介・長与専斎・福沢諭吉らがいた。
大隈重信(1838〜1922)
佐賀藩士大隈信保の長男として肥前国佐賀城下(佐賀市)に生まれた。7歳で藩校弘道館に入ったが、後に葉隠主義と朱子学教育に不満を持った。1854(安政1)年尊攘派の義祭同盟に加わって学風改革を唱え、放校処分を受けた。安政3年藩の蘭学寮に入って蘭学を修める傍ら、枝吉神陽について国学を学んだ。1861(文久1)年24歳のとき長崎に遊学し、オランダ人でアメリカの宣教師フルベッキについて英学を学んだ。帰藩後は蘭学寮の教官となり、この頃から藩政改革に参画し、尊攘派として活動を始めた。文久3年長州藩が外国艦船を砲撃した下関事件の際は、同藩への援助を画策した。さらに1864(元治1)年の第1回長州征討の祭は、藩主鍋島直正を説いて長幕間を斡旋させ、征討の中止を計ったが失敗した。同年、藩が長崎に到遠館を設立して英学教育を始めると、同藩士副島種臣とともに脱藩して上洛し、15代将軍慶喜に政権の返還を勧告しようとしたが捕らえられ、佐賀に送還されて謹慎を命じられた。また王政復古に際し、藩主鍋島直大に倒幕のための出陣を勧めたが、容れられなかった。1868(明治1)年新政府から徴士・参与職に任命された。さらに外国事務局判事となり、キリスト教徒処分問題に関わる外交交渉で勇名を馳せ、外国官副知事に転じ、贋貨問題を処理した。次いで民部大輔から大蔵大輔となり、京浜鉄道の敷設、大阪造幣寮の設置、諸国との電信架設、工部省の創設などに尽力した。明治3年参議に転進し、明治6年大蔵省事務総裁に、次いで大蔵卿に就任して大隅財政を展開した。明治7年の征台の役では蕃地事務局長官、明治10年の西南戦争では征討総理事務局長官となった。明治11年には地租改正事務局総裁を兼任し、秩禄処分にも参画した。一方、殖産興業政策を推進して資本主義発達の基礎を構築した。この頃、軍事輸送に当たった岩崎弥太郎の三菱汽船会社を助成し、後年の三菱との密接な関係が作られた。明治13年参議専任となったが、翌明治14年には国会の即時開設論を主張し、さらに開拓使官有物払下げに反対して薩長勢力と衝突したため、参議を免じられた。このとき、大隈派官僚の小野梓・矢野文雄・河野敏鎌らも辞職した。明治15年小野らの同志と立憲改進党を結成して総理となり、自由民権運動の一翼を担った。また同年、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立して人材の養成に力を注いだ。明治17年には立憲改進党を脱退して民権運動の指導を放棄した。明治20年功により伯爵を授けられた。明治21年には第1次伊藤博文内閣の外務大臣に就任し、黒田清隆内閣にも留任して条約改正の交渉に当たったが、明治22年国家主義団体の玄洋社員に爆弾を投げられて片脚を失い、間もなく辞職した。同年、枢密顧問官に任じられたが、明治24年自由党総理板垣退助と提携したため免官となった。明治29年立憲改進党を中心に小政党を合併して進歩党を結成し、自ら総裁となった。同年、薩派と提携して第2次松方正義内閣の外務大臣となり、翌明治30年農商務大臣を兼任したが、やがて同派と対立して辞職した。明治31年進歩・自由両党を基盤に板垣と憲政党を結成した。ここに初の政党内閣を組織して外務大臣を兼ねたが、党内抗争と閣内不統一のため4か月余で総辞職した。その後も憲政本党の総理を務めたが、明治40年これを辞して政界を引退し、早稲田大学総長に就任した。大正時代に入って第1次護憲運動が起こると、政界に復帰した。1914(大正3)年加藤高明の率いる立憲同志会を与党として第2次大隈内閣を組織した。同年、第1次世界大戦が勃発すると、ドイツに宣戦を布告し、翌大正4年には対華21か条の要求を行って内外から強い批判を浴びた。大正5年総辞職し、政治の表面から退いた。
川村雨谷(1838〜1909)
川村幽村の子として江戸に生まれた。幼少の頃、父幽村に従って越後国蒲原郡新潟(新潟市)に赴き、儒者杉浦吉陽から漢籍を学んだ。幽村が書画・詩歌・俳句に堪能だったところから、雨村も若くして文雅を趣味とした。1865(慶応1)年28歳のとき長崎奉行支配役として長崎に赴き、在任中に画僧日高鉄翁や木下逸雲らから南画の画法を学んだ。維新後は一時、外国奉行支配定役を務めたが、後に新政府の刑部省・司法省に転じて各地の地方裁判所判事や宮城・東京控訴院の部長判事を歴任し、大審院判事に昇進した。余暇には文墨に親しんだが、退官後は本格的に南画の研鑚を積み、ついに南画界の大家と称されるようになった。書および篆刻にも長じ、さらに俳句を能くして多くの俳画を残している。
鏑木渓庵(1819〜1870)
肥前国(長崎県)大村藩の画家鏑木雲潭の次男として江戸に生まれた。若くして書画・漢詩文などを学ぶ一方、清楽に強い関心を示した。かつて長崎で梵唄を学び、月琴演奏を身につけて江戸に帰った禅僧一圭の門をたたき、兄梅亭とともに清楽の習得に努めた。さらにその奥義を極めるため長崎に遊学した。来舶清国人について古代から明・清朝に至る中国音楽を学んだ。また俗曲の研究にも当たり、ついに明清楽を究めその第一人者となった。「渓庵流水」と呼ばれる楽曲を自ら作り、楽器もすべて自作したといわれる。1857(安政4)年39歳のとき江戸に帰って明清楽を教授したところ評判となって、門弟は数百人を数えその中には土佐藩主山内豊信らの諸侯もいたという。維新後、明清楽が一時衰退したため、長崎から中国製器具を取り寄せて骨董商を営んだが、不慮の死を遂げた。
谷文晁(1763〜1840)
御三卿田安家の家臣で詩人の谷家の子として江戸で生まれた。幼児から画を好み、10歳の頃、狩野派の加藤文麓から六法の手解きを受けた。1788(天明8)年26歳のとき長崎に遊学し、清国人張秋谷について明清画の研究に努めた。早くから陸奥国白川藩主松平定信の厚遇を受けた。1793(寛政5)年老中定信の伊豆国・相模国の海岸巡視に随伴し、海辺の風景を描写して「公余探勝図巻」を製作したが、そこには西洋画の遠近法が取り入れられているといわれる。寛政9年定信の援助のもとに、京都・近畿一円の古社寺にある古い書画の調査が行われ、「集古十種」が作られた際、その挿絵を担当した。1805(文化2)年「石山寺縁起」の欠画2巻を描写したが、そこでは大和絵の手法がいかんなく発揮されている。文晁は自ら元・明・清の画風を極めるとともに、狩野派・土佐派・南画・西洋画などの手法を研究し、画風を工夫していった。このため描くところは多方面にわたり、技法も巧みであったところから、文化年間頃から江戸第一の大家と称された。また教えを請う者も多く、画塾写山楼は隆盛を極めた。
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