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破壊された長崎の神社仏閣

長崎市史によれば、長崎市における仏寺の沿革について、仏寺廃棄時代、仏寺復興準備時代、仏寺復興時代、仏寺全盛時代、仏寺守成時代、仏寺衰退時代、仏寺復活時代に区分し、精査しています。

第一期 仏寺廃棄時代

仏寺廃棄時代においては、キリスト教が長崎およびその近郊に伝導され、住民はこれに帰依すべく強いられ、神社仏閣はことごとく破却され、長崎はいわゆる伴天連の知行所となり、政教の実権がことごとくイエズス会の手に帰した時代で、年代で云えば、元亀元年(1570)の当初から天正15年(1587)までである。

長崎開港以前における仏寺の荒廃に関しては信頼すべき史料がない。長崎図志によれば、正平5年(1359)に神宮寺を建てた。当時の神宮寺は支院三十余坊を有し、その境内は今の諏訪神社、諏訪公園、爐粕町、馬町、女子師範学校所在地(現在の歴史文化博物館)あたりまでひろがり、はなはだ盛大なものであったように思われる。しかし、当時の記録は一つも存在していないからその真否を確かめることははなはだ困難である。もっともキリスト教伝来後、長崎に神宮寺と称する伽藍があって、キリスト教徒が天火と称してこれを焼いたことは事実であるらしい。ただし、その焼却の年代については、長崎図志はこれを慶長初めのこととし、長崎港草は天正9年10月とし、その説が一致しない。また、この頃岩屋山に神通寺という仏寺があったが、キリスト教徒が破却したのも事実であるらしい。これもまた長崎図志には慶長17年の出来事とし、長崎年表には天正2年の出来事としてあって、いずれが真実であるか明らかでない。しかし、外国側の記録にも1574年(天正2年)の暮れに大村純忠がキリスト教布教の障害を除くため、その領内の仏寺を破却しようと決心し、キリスト教徒が大村氏の兵に護衛されて、仏寺の破却に従事したことが見えているから長崎付近の仏寺はその頃大抵破却されたと思われる。けれども以上記述したところは、郊外の寺院であって、真の意味での長崎港即ちポルトガル貿易のために新たに開かれた長崎の町には仏寺と称すべきものは一つもなかったと思われる。ただし、森崎(今の県庁所在地)に森崎大明神の祠があったらしいが、これは無論真っ先に破却されたものと見て間違いあるまい。

キリスト教は天文18年(1549)にイエズス会の伴天連フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来して初めてこれを我国に伝えたが、その翌19年には平戸にも輸入され、永禄5年(1562)に至りて大村領なる横瀬浦にもまたその伝導が開始された。横瀬浦はその後久しからずして兵火のために全滅したけれども、領主大村純忠が自ら洗礼を受けて熱心に布教を援助したので、大村領内における伝導事業はますます旺盛に赴いた。マアドックによれば、永禄10年(1567)大村純忠は書を当時口之津在住のコスメ・デ・トーレス(イエズス会の長老)に送り、深江(後の長崎)に一宇の会堂を建設し、その地をポルトガル貿易港の中心地とすることを勧めた。トーレスはこの書を見て大いに喜び、直ちに天草在中のヴイレラに命じて長崎に行って開港の準備をなし、布教を開始せしめたところ、ヴイレラは1年にして1500名以上の信者を得てこれに洗礼を授け、翌11年(1568)にはついに会堂を建設した。そして、この頃からポルトガル商人中からも長崎に来て貿易する者があり、長崎はマカオ港から渡来するポルトガル船の重なる貿易港となった。

長崎の開港は、大村や長崎の旧記には元亀2年(1571)の出来事として記されてあるが、外人は1567年(永禄10)説をとる者もあれば、また1568年説をとる者もあるが、後者は会堂建設の年をもって開港とするものであろう。クラッセーはヴイレラが長崎で1年間に1500人以上の信者を得て、1568年には同所に諸聖人の堂即ちトードス・オス・サントス寺を建てたと明記している。しかるに、ここに長崎略縁起評の本文に左のごときおもしろい文章がある。

ここに長崎の繁盛の始めは永禄8年卯8月24日異国の商船にガレオタ(ポルトガル船)という船来たり当浦にはじめて入津す。これに従い諸国の人集まり来たり交易す。これにより元亀2年未3月島原大村当地の者相謀りて森崎と一の堀の間に6丁の町立て始めて異国交易繁盛の地と成すなり。

この記事は一方には外人の主張による1567年説と符号し、一方には本邦に伝えられる説即ち元亀2年に今の長崎県庁付近に6町の新市街を作ったという説をも是認するものである。換言すれば、長崎略縁起評の説は長崎の開港はラウツなどの云うごとく永禄10年であるが、爾後次第に繁盛に赴き、元亀2年に至りては日本側の記録の如く6か町の新市街を作るに至ったという説で至極穏当な説のようである。

当時イエズス会宣教師とポルトガル商人との間には非常に密接な連絡があって、互いに相助けてその勢力の拡張に努めつつあったので、キリスト教と無関係でポルトガル貿易のみを営むことは当時にありては絶対的に不可能な事柄であった。現に薩摩の島津氏や平戸の松浦氏はこの不可能事を行わんとして遂に貿易の利を失ったのである。されば大村純忠の横瀬浦を開くや、その付近二里四方の地を無税地としてポルトガル人に交付し、宣教師の許可なくして異教徒のその地域内に入ることを禁じ、盛んに伴天連等を保護尊崇した。長崎の開港にはどんな条件を付したか分からないけれども、少なくとも横瀬浦と同等以上の特権が宣教師に与えられたものと考えることは穏当ではあるまいか。されば大村側の記録によりて考えれば、大村氏がイエズス会から借りた負債のために長崎の地が天正時代にイエズス会の知行となったように見えるけれども、長崎の地は開港当時からイエズス会の知行所となっていたと見る方が合理的ではあるまいか。

右のような有様であったので長崎及びその付近においては神仏両道は厳禁せられ、住民は皆キリスト教即ちキリシタン宗門に転宗を強いられ、これに従わざる者は皆領外に退去を命ぜられ、神社仏閣の如きは布教上の障害として皆焼き払われた。かくして前に述べた如く神宮寺、神通寺、森崎神社等は皆破却されて皆無に帰し、神宮寺の支院たりし薬師堂、毘沙門堂、観音堂、満福寺、鎮通寺、斎通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺等もまた皆これと相前後して同一の運命に陥ったと伝えられる。

かくして長崎及びその付近の仏寺は天正中に全滅し、これに代わってキリスト教の寺院、会堂、学校、病院等が順次設立されることになり、キリスト教の布教は日にますます旺盛に赴き、正に旭日昇天の勢いを示した。

第二期 仏寺復興準備時代

前期においては既に述べた如く、長崎はイエズス会知行所となりて政教の実権はその手に帰し、南蛮人等は横暴を極め、奴隷売買の如きも盛んに行われたけれども、日本に実力ある主権者がいないため、これを如何ともすることはできなかった。かかる間に豊臣秀吉の覇権漸く成り、天正15年5月には遂に九州をも平定し、その6月には本営を大宰府に移して九州諸侯の封土を定め、ついで博多に赴き暫時滞在した。この際日本イエズス会伴天連コエルホは長崎より博多に赴き、秀吉に謁してその戦勝を祝し、大いに優遇された。然るに間もなく秀吉は長崎人の訴によりて長崎の実況を知り大いに怒り、同年6月19日左の命令を発し、廿日間を限りて宣教師等に海外に退去すべきことを命じた。

一 日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太(はなはだ)以って然るべからず候事
(注、日本は神国である。キリシタン国が邪教のキリスト教を布教することは許さない。)
一 其国郡の者を近付け、門徒になし、神社仏閣を打破の由、前代未聞に候。国郡在所知行等給人に下され候儀は当座の事に候。天下よりの御法度を相守り諸事其意を得べき処、下々として猥の義、曲事(くせごと)の事
一 伴天連其知恵の法を以て、心ざし次第に檀那(信者)を持ち候と思し召され候へば、右の如く日域の仏法を相破る事曲事(くせごと)に候条、伴天連の儀日本の地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日の間に用意仕り、帰国すべく候、其中に下々伴天連に謂はれざる族申し懸くるものこれ在らば曲事(くせごと)たるべき事
一 黒船の儀ハ商売の事に候間、格別に候の条、年月を経、諸事売買いたすべき事
一 自今以後仏法のさまたげを成さざる輩は商人の儀は申すに及ばず、いづれにてもきりしたん国より往還くるしからず候条、其意を成すべき事
已上     天正十五年六月十九日 朱印
(秀吉が出した伴天連追放令は以上のとおりである。本文は難解な点が散見されたが本文を忠実に復元し、難解な個所は注釈を挿入したのである。)

コエルホはこれを聞いて大いに驚き、便船なきを理由として6か月間の猶予を請い遂にこれを許された。 この時に当たり、秀吉の左右には黒田如水、小西行長、蒲生氏卿等の如き有力なるキリシタン大名多く、九州には大友義統、有馬晴信、大村喜前、天草伊豆守の如き熱心なるキリシタン大名が皆本領を安堵した上に小西行長は肥後に、黒田如水は筑前に封ぜられて、九州の大半はキリシタン大名の所領となった。されば宣教師等は秀吉の厳命ありしにもかかわらず、これらのキリシタン大名の保護に信頼し、殉教の決心をもって日本に留まり、教徒保護の任に当たることになった。そこで6か月の猶予期限経過後も退去したものは僅かに3人にして、それも皆司祭たらんがためにマカオに赴くもので、真に退去するものとては一人もなかった。そこでコエルホは書を秀吉に送り、本年は貨物多くして多くの宣教師を送還すること能わざりしも、来年は必ず送還すべしと告げた。これを聞いて秀吉はますます怒り、近畿のキリシタン寺22か所を破却し、使いを長崎に遣わし、これを没収して公領となし、鍋島飛騨守を長崎代官に任じ、大小の政務を握らしめた。時に天正16年(1588)であった。

天正15年(1587)禁教令発布の後宣教師等は依然本邦に踏み留まって教徒の保護に任じたことは記述のとおりであったけれども、彼等は皆法服を脱して商人の姿となり、公然宗務を執ることを避けて成るべく秀吉の怒りを挑発せざるように努めたので、法服を着けた宣教師は一人もこれを見ることができぬようになった。しかし彼等は依然として伝導のことに従いその熱心と努力とは却って昔日に倍するものがあったので、長崎のキリシタン宗門は日にますます盛んに赴いた。

既にして復活キリシタンの布教上有利な事件が起こった。これより先天正10年(1582)九州のキリシタン大名大友、有馬、大村の三氏は日本視教官アレツサンドロ・ワリニャーニの勧めに従いて使いをローマに遣わし敬意を法皇に表したが、同18年に至り一行は無事使命を完うして帰朝した。しかし彼等の外遊中に禁教令が発せられて日本におけるキリシタン宗門の伝道上に非常な障害ができたのでワリニャーニは印度ゴア総督の使者となりて右の使者一行と共に渡来し、秀吉に聚楽第の邸に謁して総督の書を奉呈し、秀吉の怒りを緩和せんことに努めた。秀吉はその書を受け、答書のなるまで日本内地に自由に留まりてこれを待つべきを命じたので、ワリニャーニは再び九州に来たり、平戸、大村、島原、豊後等の各地に往来した。そこでキリシタン大名は勿論大名士庶人がワリニャーニ一行を訪問するもの多く、甚だしきは密かに洗礼を受けたものもまた決して少なくなかった。かかる有様で一時禁教令は有れども無きが如き有様であった。既にして秀吉の答書は出来上がったけれども、ワリニャーニが果たして真にゴア総督即ち所謂印度副王の使者なるやとの疑いが起こったので、秀吉は容易にこれをワリニャーニに交付しなかった。そこで秀吉の左右なるキリシタン大名がその間に斡旋の労をとり、ワリニャーニが真に印度の副王の使者たることが確かめられるまで随員中の10名の宣教師を人質として長崎に留めることとなり、答書は遂にワリニャーニに交付された。かくして文禄元年(1592)の頃から公然法服を着けた10人の宣教師が長崎に滞在することになった。

文禄元年には寺沢志摩守が初代の長崎奉行となった。彼ははじめ秀吉の意を奉じて大いに禁教令を励行しようとしたが、実際任地に就いてみると長崎の住民はことごとくキリシタン教徒たるのみならず、ポルトガル商人との貿易にはこの宗門を利用するの必要を感じたので、遂に秀吉に請うて長崎のキリシタン寺院を開き宣教師を公然長崎に在留せしむることにし、自己もまた洗礼を受けたと伝えられる。その理由とするところは宣教師の長崎在留を厳禁すれば、ポルトガル人は到底永くその日本貿易を継続することはなく、かつポルトガル人中無頼の徒の暴行を鎮撫するには宣教師を要すること適切であり、故に断然ポルトガル貿易を禁止するのであれば兎に角、然らざる以上は宣教師の長崎在留を許すべきであるというにあった。

かくして長崎においては禁教令は全く名有って実なきことになった。越えて文禄2年(1593)にはフランシスコ派の司祭ペドロ・バブチスタ等がスペイン領フィリピン総督の使者として渡来し、洛外の地に留まることになったが、彼等は秀吉の左右なるキリシタン大名の力をかりて秀吉の耳目をくらまし翌3年5月から公然布教を開始した。既にしてその翌慶長元年(1596)にはスペイン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸に漂着したが、その船長デ・フンダは愚かにも秀吉の使者たる増田長盛に向って本国領土の大を誇り、その侵略の手段として宣教師を利用することを述べたので、秀吉は益々キリシタン宗門の恐るべきことを認めると同時に、フランシスコ派の宣教師等が秀吉の耳目をもはばからず洛外にありて公然布教しつつあるを知って大いに怒り、遂にペドロ・バプチスタ以下26人を長崎で磔に処した。時に慶長2年(1597)で、これが後のいわゆる二十六聖人である。爾後秀吉は大いに力をキリシタン宗門の禁制に用いるつもりであったらしいけれども翌慶長3年(1598)には秀吉が死去して政権は家康の手に移り、家康の対キリシタン政策がはじめは寛大であったので、秀吉の遺志は行われず、キリシタン宗門は再び復興の気運に向かった。右のような次第で秀吉が禁教令を出してから十数年を経て慶長のはじめに至りても、長崎においてはキリシタン宗門は依然として益々盛んで、神社仏閣のごときはその片影だに認めることができなかったので、僧侶及び仏教徒等はこの有様を聞見して憤慨に堪えず、中には決死の覚悟をもって長崎に来て、仏教の再興を図らんとする者もぼつぼつ現れてきた。伝えられるところによれば、僧道智は文禄3年(1594)の頃から、僧聖誉は慶長元年(1596)の頃から共に長崎に移転して仏教の再興に努力し、聖誉は慶長3年市外稲佐に悟真寺を開き、道智は同9年(1604)市内に正覚寺を創立し、別に修験高順というものがあって同13年(1608)市内に威福寺を創立した。これ等が長崎市における仏寺の先駆である。その後仏教再興の目的をもって長崎に在留するものがだんだん増えたけれども、キリシタン教徒の勢力が益々盛んで、僧侶等の熱烈な布教も容易にその効果を奏せず、彼等の身辺にはかえって種々の迫害と危険とが絶えずまつわっていた。

徳川家康ははじめ宣教師等に対して大なる雅量を示し、その布教はほとんど黙許のありさまであったが、その後キリシタン宗門のために不利益なる種々の不祥事件が相次いで起こり、ついに家康をしてその態度を一変せしめた。彼がキリシタン禁制の意思を全国の諸大名に達したのは慶長17年(1612)8月6日であったが、翌18年12月23日に至りて例の有名なキリシタン禁制の大号令が天下に宣布せられた。かくて各地において宣教師をはじめ重立ちたる教徒の検挙が開始せられ、翌慶長19年の春に至りてはこれ等の人々が皆護送せられて続々長崎へ到着した。ここにおいて長崎における教徒等は大に緊張の態度をとり、遂に数千人の教徒が毎日のごとく悲壮を極めたる宗教行列をなして、市中を練り歩き、唯々として棄教の厳命に従うよりはむしろ法のために死するの優れるにしかずとの大決心を示した。かかることは月余にわたって行われたが、中には自ら所属の会堂を破却するものもあった。これは会堂をそのまま異教徒の手に渡すを快とせざるに出でたのであった。そこで幕府は同年9月三艘の大船を艤装して宣教師等をマカオ及びマニラに追放し、次いで鍋島、松浦、大村その他の近国諸大名に命じて長崎におけるキリシタン寺を破却せしめた。そしてその敷地及び建物の一部はこれを仏僧等に与えて仏教再興の資に供せしめた

破壊された長崎の神社

長崎市史によれば、開港以前における長崎の神社の沿革は史料の徴すべきものがないのではなはだ不明である。長崎図志をはじめ長崎の諸旧記には今の諏訪神社の祭神たる諏訪、森崎、住吉の三社の神々は開港前、すでに市内三か所に祭られ、慶長14年までは存在していたが、同年キリシタンのために破壊もしくは焼却されたと記されている。長崎の神祠がキリシタンのために壊されたということは、天正15年6月19日付の秀吉の令書にも「神社仏閣を打破候由前代未聞候」とあるごとく、それは事実に相違あるまい。しかし右の三祠がキリシタン全盛時代を無事に通過し、慶長14年に至り、はじめて破却されたということは果たしてそのままに信じ得られることであろうか。 以下略

教会の破壊

最後に、長崎年表により全盛を誇ったキリスト教徒のその後について、述べることにします。

徳川家康は 1613年(慶長18)12月23日、全国的なキリシタン禁教令を発布した。
これに抗議して、1614年(慶長19)4月20日、この日から20日間にわたり、キリシタンら行列をなして長崎の町を練り歩いた。5月9日に行われ行進のときには、長崎代官村上東安の妻ジュスタは、両手に十字架牌をささげ、頭には茨の冠をかぶって素足で歩いた。最後の日には、東安みずらも参加した。この行列はサン・アウグスチノ教会を出発し、町内各地の教会を一巡するもので、参加者は数千人に及んだ。また、数万の信者が沿道に立って祈ったと云われ、全町あげての幕府に対する抗議であった。行列通過町(古川町―本紺屋町―島原町―分知町―外浦町―本博多町―興善町―豊後町―小川町―上町―新紺屋町―大工町―魚町)

1614年(慶長19)9月〜11月、幕府の命により長崎の教会は破壊された

山口駿河守直友を幕府上使とし、長崎奉行長谷川左兵衞と3人の僧が協力した。佐賀、唐津、大村、平戸、有馬の諸侯は、兵を出して市中の警備に当たり、小倉の細川忠興は、鉄砲組500人を出した。このものものしい警戒は、長崎市民すべてがキリシタンであったために、万一を警戒してとられた措置であった。破壊された教会の木材は、悉く僧に与えられた。この時、長崎にいる僧わずかに5人。道智(正覚寺)・慶西(光永寺)・伝誉(大音寺)・泰雲(晧台寺)・慶了(大光寺)で、キリシタンの妨害で生命の危険にさらされながら仏教の再興に努力した者ばかりである。(耶蘇会年報には、ザビエル以来、65年を経た今年、日本のキリシタン教会は全滅的打撃を被ると記録されている。)

1614年(慶長19)に破壊された教会
@山のサンタ・マリア教会(立山町)、A被昇天のサンタ・マリア教会(外浦町)、Bサン・ペトロ教会(今町)、Cサン・フランシスコ教会(桜町)、Dサン・チャゴ教会(酒屋町)、Eサン・アントニオ教会(本大工町)Fサン・アウグスチノ教会(古川町)、Gサント・ドミンゴ教会(勝山町)、Hサン・ジョアン・バウチスタ教会(筑後町)、Iサンタ・クララ教会(大橋町)

数年遅れて、1619年(元和5)に破壊された教会
@トードス・オス・サントス教会(桜馬場)、Aサン・ロレンソ教会(伊勢町)Bミゼリ・コルジヤ教会(本博多町)

1614年(慶長19)10月6日、7日、在日宣教師の3分の2と高山右近らキリシタン148名をマカオとマニラに追放した。

この厳重な追放令にもかかわらず、総数の約3分の1にあたる37名のバテレンが潜伏して残り、教徒もなお信仰を守り続けたため、これから250年にわたる禁教と殉教、それに続く潜伏キリシタンの時代に入ることになった。

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