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質疑応答のコーナー


Q1 リングさん

楠本イネさんは産婦人科医として明治天皇の子息の出産にも
立ち会ったとか。
いくら優秀といえ、遊女の子供が許されるとは考えられません。
たき遊女名義貸し説に一票。


 県立長崎図書館に保存されている資料に、「楠本以祢 権典侍葉室光子妊娠ニ付御用掛リ申附候事 明治六年七月三十一日 宮内省」という宮内省の辞令があります。
楠本イネは遊女の子供ではありません。母タキは、シーボルトとの恋を成就させるため、遊女の名義を借りて出島に入りました。当時は遊女のほか女性が出島へ入ることを禁止されていたからです。イネはシーボルトとタキの間に生まれた混血児です。 宮内省はイネを御用掛りに任命するにあたり、厳しい身元調査を行いました。その結果、母タキが遊女でなかったことが判明したのです。宮内省御用掛りの人選にあたっては、明治の先覚者 福沢諭吉、杉孫七郎先生が楠本イネを推挙したと言われています。

Q2 リングさん

楠本イネさんは身元調査しなくても、あのシーボルトの娘ですから、
周知だったとは思いますが。
また、楠本イネさんについて、スパイ活動や密出国を警戒して、ある程度の
監視を絶えず受けていたと推測しています。
根拠はありませんけどね。
しつこくてすみません。
監視うんぬんは江戸時代のことです。
念のため。


  あなたはイネが遊女の子供と思い込み、シーボルトやタキ、イネがスパイだったと思い込んでいるようですね。そして幕府が彼等を絶えず監視していたと連想しています。 そのように断定する根拠を示してください。 私は、宮内省がイネを監視していたと云った覚えはありません。 宮内省がイネを御用掛りに採用する際、身元調査が行われたと言ったのです。
また、投稿名はリングの名をかたらず、堂々と名乗ったらどうですか。

Q3  リングさん

まあ、落ち着いてください。
・イネは遊女の子供ではないという説を支持しています。何故ならイネが明治天皇の子息の出産に立ち会ったからです。遊女の子供がそんなことできる訳がありません。
・ 幕府側からみて、スパイ、出国の恐れがあれば誰であろうと監視すると推測します。シーボルト、タキがスパイだったか否かとは別問題です。イネの宮内省の身元調査とは別の話題です。
・シーボルト事件時にタキの出目は完全に洗い出したと推測します。
・匿名だめなの? みんな匿名禁止、実名義務にしてくださいね。気に入らない発言だけ匿名を要求しているように感じます。一般人だから実名書いても誰だか解らないですけどね。


 歴史を真剣に考える者であるならば、匿名ではなく、実名で正々堂々と論戦を交わそうではありませんか。
あなたの主張は、根拠のない推測ばかりです。
・ イネは遊女の子供ではないという説を支持しています。何故ならイネが明治天皇の子息の出産に立ち会ったからです。遊女の子供がそんなことできる訳がありません。という理屈は、イネが遊女の子供でなかった根拠になりません。
・ イネが明治天皇の子供の出産にたちあうほどの人物だから、遊女の子ではなかっただろうという理屈は単なる推測にすぎません。
・ イネの母タキが遊女でなかった根拠は、シーボルトが来日して3か月後に伯父ロッツへあてた手紙、孫たかの証言などから明らかです。(その事は、このホームページに載っています。)
・ ちなみにイネが活躍した時代は、江戸時代ではなく、明治時代です。幕府が監視していたという主張は論外です。
・ シーボルトはシーボルト事件を起こしました。しかし、スパイでなかったことは定説でしょう。
・ 彼は日本から持ち出し禁止の資料を国外へ持出そうとした罪に問われて、追放処分になったのです。
・ シーボルトが長崎奉行の取り調べの際、日本に帰化申請をしたことを知っていますか。
・ タキが出国のおそれがあったと考えるのは間違いです。シーボルトが日本を離れる際、タキはイネを連れて、長崎港外まで見送りました。シーボルトがタキ、イネの将来を心配して、帰国中の船上から手紙を送っています。タキもシーボルトも永遠の別れと思ったからです。
・ タキはシーボルトと別れて1年後、長崎の商人俵屋時次郎と再婚しています。

Q4  リングさん

身分関係を考えると、遊女の子が皇室に出入りして、出産に立ち会うなど論外です。よって、タキさんは遊女でないと推定できます。現代でも皇室に関わるには、家柄が重要です。
 産科医を選ぶのにわざわざ厳しい身元調査をするのも変です。別の医者でもよろしいでしょうに。
 タキさんは、シーボルト事件調査で遊女ではないと固まりました。スパイの疑いですから、関係者も厳しく調べるのは当然です。ですから、シーボルト国外追放の後も元遊女、元遊女の子の扱いは受けなかったでしょう。イネさんも医者になれました。身分という点で、遊女の子が江戸時代に医者になれるかどうかも興味あります。
また、タキさんの再婚は当人たちの意思かどうか?
監視という言葉にひっかかっていたら、行動調査とでも言い換えます。
掲示板に実名要求したら誰も書き込まなくなりますよ。この掲示板では匿名書込は歴史を真剣に考えない者の書込みとみなされます。真剣に考えている人は実名を晒す必要があります。


 現在社会でも、会社が社員を採用する際、多少の身元調査をするでしょう。明治6年、宮内省が皇族の出産に立ち会う御用掛りを採用する際、身元調査をするのは変ですか。
シーボルトがスパイであったという件ですが、どこの国のスパイだとあなたは考えているのですか。オランダですか。
オランダは日本に関する情報を十分持っていました。それに日本との関係維持に細心の注意をはらっていたので、スパイ事件など起こすはずがありません。それとも、シーボルトの故郷のドイツのスパイだったと考えているのですか。当時、ドイツは多くの王国に分裂していました。シーボルトがどこの王国のスパイだったのか、おたずねします。
シーボルト事件で確かに多く人が取り調べられ、獄死した人もいました。それは、シーボルトがスパイだったからではなく、シーボルトがご禁制の資料を国外へ持ち出そうとしたことに関与したのではないかという取り調べでした。
シーボルト事件で多くの学者や通事たちが厳罰に処せられました。その点は、大変悲しい事件だったと思います。
タキの再婚の件ですが、シーボルトあての手紙に「今年正月余儀なき義理にて他へ嫁し申し候」という一節があります。タキは子供を抱えて生活が苦しかったと思います。そんな時、俵屋時次郎さんが支援してくれたのではないかと思います。タキがそれに応たえたのではないでしょうか。イネは義父の時次郎さんに大変かわいがられたそうです。後年、イネが母タキの墓を建てた際、俵屋時次郎さんをタキの墓に合祀しています。
タキの行動について、長崎奉行所が監視の目を光らせていたかも知れません。ただし、当時の犯科帳には、タキの記録はありません。

Q5  リングさん

匿名で書き込んでいいんですか?
イネさんの場合は、遊女の子供という通説があったわけで、産科医採用のために、ひっくり返すだけ調べようとするでしょうか。皇室にとってハイリスク、ローリターンです。タキさんがシーボルトと結ばれてから時間も経過してます。タキさんはシーボルト事件調べ時に確定したと見ます。よって、イネさんも皇室に出入りできた。
シーボルトがスパイだろうとは言っておりません。幕府にとって、シーボルトはスパイの疑いがあった、よって、タキ、その親兄弟もあらいざらい調べられたろうということです。タキが遊女か否かも。スパイかどうかは興味ありません。


Q1 さかい あかりさん

 はじめまして
 長崎に住むシーボルトとお滝さんのロマンスの大ファンの一主婦でございます。
ヤフーの検索でシーボルトを検索したら、ここに辿り着きました。
岩田祐作先生の名前、どこかでお見かけしたなと思っていたら、最近図書館で借りた「シーボルトを支えた楠本家の墓地に眠る人たち」の著者でいらっしゃったのですね。興味深く読みました。面白かったです。
その他でも長崎関係の本を読んだ時お見かけしているのかもしれません。
長崎の観光に・・とシーボルト記念館に行って以来、お滝さんやおイネさんタカ子(ただ)さんの魅力に取り憑かれてしまいました。
 ただ、不思議に思ったのが、「お滝さんは名義のみの遊女であった。」という説と「お滝さんは、遊女であった。」という説がある事です。
 本当はどっちなのかな。と思いいろんな本を読みました。
結果、私はやはりお滝さんは、遊女であったと思います。
 理由は来日して三ヶ月足らずでの結婚報告の手紙。自然恋愛ではもう少し時間がかかるのではないでしょうか?
 それと古賀十二郎先生の「丸山遊女と唐紅毛人」の後編で、其扇には「つね」という名前の姉がいて千歳という名前で遊女奉公していた事が記されています。
 そして其扇の姉千歳と1825年来日したドクトル・ビュルゲルさんの間に子供ができたことも記されています。子供は早世したようですが。
 姉妹2人が阿蘭陀人と関係したこと。唐人にも見初められていたという噂(くじびき説より)こと。シーボルト来日後のスピード婚であったこと。
 以上のことから、遊女であった可能性の方が強いように思うのです。
 しかし、年が15〜16歳と遊女としてもデビューしたてぐらいの年であることから推察して、初めての遊女奉公先でシーボルトに見初められたのでは・・・・・。
 もしくは千歳の禿としてついて行き、出会ったのかも。とか想像してしまいます。
 まあどうやって出会ったとしても、二人のエピソード(紫陽花やオランダ苺)や、子孫の波乱万丈の生き方は、魅力的ですね。
 本では見ることのできない岩田先生の長崎の歴史の掲示板、毎日楽しみに読んでいますので、頑張ってくださいね。


 はじめまして。私の説にご意見をいただいたのは、あなたが初めてです。もとより、私の説が正しいと固執する者ではありません。
 このように自由に意見を交換することに意義があると思います。
 確かにお滝さんが自由恋愛とはいえ、3ヶ月足らずで、シーボルトのもとへ行ったのは少し早すぎるようです。しかし、丸山の遊女を出島に呼び入れるのもそう簡単なことでなかったのです。
 遊郭の客が遊女と馴染みとなり、その後遊女を出島へ呼び入れるのが当時の慣習でした。
 古賀十二郎氏も、当初は、シーボルトが遊女其扇を出島へ呼び入れたのは、シーボルト来日2,3年後のことであったと書いています。
 しかし、シーボルトは来日草々、奉行所への挨拶廻り、日本人患者の診察など大変多忙でした。丸山遊郭へ遊び、遊女其扇と馴染みになる暇はなかったと思います。
 丸山の遊女を誰でもいいから一夜の遊び相手として呼び入れることは可能だったでしょう。それでは、シーボルトが伯父と母にお滝さんと結ばれた喜びの手紙を出したことが理解できません。その後、シーボルトとお滝さんの関係が7年間も続いたことも理解できません。
 貴重なご感想ありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします。


Q2 さかい あかりさん

 早速お返事もらえて嬉しいです。
 お滝さんとシーボルト先生についてとっても興味があるので、岩田先生と掲示板上とはいえお話が聞けて嬉しいです。
「丸山遊女と唐紅毛人」を読んだきっかけは実は「シーボルトを支えた楠本家の墓地に眠る人たち」に沢山引用されていたことに興味をもち原文を読みたいと思ったことと、「長崎ぶらぶら節」という小説にでてくる有名な古賀十二郎先生の本だったことからです。
 私は決して岩田先生の説を批判もしくは否定するわけでなく、先生の意見が聞きたいのです。TOPにも意見交換は意義のあることだと書いてありましたし・・・。
 7年間続いたことが理解できないというお話から、感じたのですが、シーボルトがくる前の商館長ブロンホフはヘトル役の時からの恋人糸萩と10年以上(1813年から1817年ブロムホフは長崎を去っていますが)続いています。
(1811年に糸萩はブロムホフの子を出産〜1821年に糸萩にラクダをプレゼントしたという文献より)もちろんブロンホフ商館長は商館長となる際、妻と子供を同伴したほど愛妻家であったらしいですが・・・。
 ちなみに糸萩も引田屋卯太郎抱えです。
 それにシーボルトと仲がよかった商館員のファン・オウンテレンは引田屋卯太郎抱えの遊女「左門太」と、マヌエルは引田屋卯太郎抱えの遊女「滝尾」と、子供まで成している事等を考えると、其扇が所属していた引田屋の卯太郎は主に、「おらんだ行き」を多く抱えていたように思うのです。
 もちろん先生がおっしゃるようにシーボルト先生が丸山遊郭で遊ぶということは法律上絶対不可能です。ですが、当時の出島商館員は、宴会する時は遊女達を呼びいれ、遊女の奏でる三味線で踊ったり歌ったりしたようです。(そういう絵が残っていますし、本でも読みました。)
 新しくきた商館員達の歓迎の為に、出島に遊女を呼び宴会を催したりした時に出会ったとは考えられないでしょうか?
 まだ遊女として顔見世したばかりの15〜16歳の其扇を気に入ったシーボルトが他の男性に落籍される前に、すぐ落籍せたのかもしれません。
そのまま遊女の名義だけ残して出島に出入りしたと考えた方が、無理がないような気がします。
 シーボルトが妻とした事からは、それだけ其扇を大切に思っていた事と、シーボルトの誠実な人柄が偲ばれます。

 それと、「丸山遊女と唐紅毛人」前編752P〜によりますと、「ヨーロッパにおいては、婦女が自発的に娼婦となり、それが為に、社会の指弾を受くるのであるが、日本においては、遊女は親の為にうらるれる・・・・・・・遊女は決して卑しいしむべき存在ではなく、卑しむべきはその親にあり。」とドクトル・ポンペが論じているのを見ると、遊女だからといって卑しまれたりすることはなかったのではないかと思うのです。
 私が思うには、遊女の出入りしか叶わなかった出島や唐人屋敷では、貿易商人や商館員達は、唯一会う事が許されている女性・・・遊女達に会えるのをお見合いパーティのように楽しみにしており、気に入った遊女がいたらすぐに落籍せ(身請けし)、自分だけの人とし、出入りする為に遊女の名義だけ残し、その後、現地妻のような役割を担わせたのではないかと思うのです。
コンニャク屋で大家族の佐兵はこのような大金は支払えなかったでしょう。
 ともなれば、シーボルトが一般娘のお滝さんを診療の際気に入って支払ったと考えられますが、そのような熱烈なラブコールの末、めとったお嫁さんであるならば、そのような事情がもっと高らかに現代に伝えられていてもおかしくないと思われます。

 ○ 楠本イネの誕生について:さかい あかりさん
 楠本イネが出島で生まれたということについても賛否両論ありますね。
 物語では出島で生まれた唯一の人という話が多いですが、文献では銅座の滝の実家にて出産と書いてあります。
 どっちなんだろう。やっぱり文献で残っている方が正しいのでは?  と思っていた所、先生のHPで出島で生まれたという説を読み納得しました。
 これからもいろんなお話楽しみにしています。


  さかいさんは、歴史に大変お詳しいので驚いています。
 シーボルトが来日して、ほどなく遊女其扇(お滝さん)を落籍したことは、古賀十二郎先生の本に書いてありますね。
 確かにシーボルトが丸山に出かけなくても、出島の宴席で其扇を見染めることは有り得ることです。
 しかし、私は貧乏人の発想でしょうか。すぐにお金のことが心配になります。当時、遊女を身請けするには、遊女の抱え主に身請け銀を支払うならわしでした。
 身請け銀は100両から200両でした。シーボルトが来日草々ポーンとそれほどの大金を支払ったでしょうか。
 更に、疑問があります。シーボルトを含めオランダ商館員には任期がありました。
 つまり、彼らはオランダ東印度会社の社員でした。いつかは、本国へ帰らなくてはなりません。そのような人が遊女を身請けするでしょうか。
 私は西洋人が遊女を身請けするようになったのは、長崎が横浜、函館と並んで、開港され、東山手、南山手に居留地ができ、西洋人がそこで自由に生活がてきるようになった安政年間から後のことだと考えています。
 シーボルトが来日した時代は、それより以前の文政年間でした。
 開港前のオランダ商館員は奉行所の許可なく出島の外へ出ることは禁止されていました。遊女と長く付き合った人は商館長のドーフなど沢山いましたが、皆、通いの遊女でした。
 遊女揚げ代銀が高価だったからです。ところが、遊女そのぎは、文政6年9月から文政12年まで、7年間余にわたり出島で暮らしたことが記録に残されています。
 シーボルトがそのぎの身請け銀を引田屋に支払っていなかったとすれば、7年間余にわたり、シーボルトはそのぎを出島へ呼び入れた遊女揚げ代銀を引田屋に払っていたことになります。
 その額は膨大で、それは到底不可能です。
  シーボルトがそのぎの身請け銀も遊女揚げ代銀も引田屋に払っていなかったとすれば、あとは、消去法的に考えますと、シーボルトはそのぎの遊女名義料だけを引田屋に支払ったということになります。
 つまり、遊女そのぎは、名義遊女・名付け遊女であったと考えるほかありません。


Q3 さかい あかりさん

 岩田先生おはようございます。
 私はお金の問題は先生が強調する程、さほど重要な問題とは思えません。
 なぜなら、先生もご存じの通り、シーボルトは医学界の名門に生まれ、2年ほどハイディングスフェルトで開業しておりかなり流行っていたようです。
 シーボルトは岩田先生が考える以上のお金持ちだと、私は考えます。
 @1821年ブロムホフ商館長が将軍に売ろうと考えていたラクダが売れず、がっかりして、糸萩にあげたラクダは1000両以上だったそうです。
 A「当時、長崎の町は、奉行が治めているといっても、それぞれの奉行の任期はきわめて短く、交代がはげしい。奉行の地位は、貿易に手ごころを加えることで巨大な富が付随しているだけに、数千両の賄賂で手に入れるのだが、〜(以下略)」(久米 康生「シーボルトと鳴滝塾」より・・・
 @、Aのことから100両〜200両というのは、シーボルト先生のお金の価値観から考えて、そこまで高すぎると問題になる金額ではないように思えます。
 ちなみに名付遊女(名義遊女)になるには置屋に10両〜20両のお金を支払う必要があり、それとは別に衣装等の支度金もかなりかかったと、「丸山遊女と唐赤毛人 後編」にはあります。
 コンニャク屋で大家族の佐兵はこのような大金は支払えなかったでしょう。
 ともなれば、シーボルトが一般娘のお滝さんを診療の際気に入って支払ったと考えられますが、そのような熱烈なラブコールの末、めとったお嫁さんであるならば、そのような事情がもっと高らかに現代に伝えられていてもおかしくないと思われます。
 Q 続き さかい あかりさん
 もちろん遊女を身請けするといっても、他の日本人のような身請けの仕方は、出島商館員達には無理だったでしょう。
 私は出島商館員達の遊女の身請けの仕方は、「身請けする」→「名付遊女として名付け代を置屋に払い、娘に出島に通ってもらう」→「十分な生活費(砂糖などを反物や銀に替えて)を娘に与える」(その間娘は実家から出島に通う)→「商館員が出島から去りし後は、娘は日本人と結婚す」というパターンが多いように思います。
 岩田先生は囲う場所について考えていらっしゃるようですが、私は出島や唐人町の人が日本人のような方法で囲うことができないのは当たり前で、その代わり、生活の面倒を見る某(銀や反物、砂糖等)かを与えることによりなりたっていたと考えます。

A 

さかいさんこんにちは。
 さかいさんの研究熱心さに驚かされます。
 まず、続きの方から回答します。
 さかいさんがお考えのように出島商館員の遊女の身請け方法では、遊女はそれでよいかも知れませんが、遊女の抱え主が納得しないでしょう。抱え主には、遊女の身請け銀が1両も入ってこなくなるのですから。
 出島商館員が遊女の抱え主に対し、別途100両〜200両の身請け銀を払うのならば別ですが。ところで、客と遊女の抱え主の間で遊女の身請けを実現させるのはそう簡単なことではありませんでした。遊女の気持ちも確かめなければなりません。抱え主は稼ぎの種を失うわけですから、身請け銀を少しでも多く要求するでしょう。客は、反対に身請け銀が少なくなるよう要求します。シーボルトは文政6年7月に来日して、そのぎが出島に入ってたのが9月ですから、そのわずかの間に、シーボルトと引田屋はそのぎの身請け話をまとめたことになります。それは、到底不可能です。シーボルトは来日草々で、まだ日本語も話せないし、日本の風俗習慣も知らないのですよ。
 長崎が開港された後、フランスの商人ピナテールが海老屋の遊女正木を身請けしましたが、そのときのエピソードが多く残されています。彼は丸山へしげしげと通い、正木と親しくなるのに時間もかかっています。それに比べると、シーボルトがそのぎを身請けする際のエピソードは聞いたことがありません。現実味がないのです。
 次に、お金の話ですが、さかいさんと私とでは金銭感覚にずれがあるようです。200両といえば、27歳の青年医師にとっては大金でしょう。しかも、そのぎを一生妾にすることができるのでしたら、まだ理解できますが、前述したように、彼には任期がありますから、それまでの遊び代としては高くつきませんか。商館長ブロンホフが遊女糸萩に1000両のラクダをプレゼントしたことが書いてありましたが、あれはブロンホフが江戸参府の際、将軍へ献上する予定だったのを、幕府に断られたため、糸萩へ贈られたと聞いています。いわば公金で仕入れた贈答品の廃棄処分です。ブロンホフ個人が馴染みの遊女糸萩にポケットマネーを1000両プレゼントしたのとは全然話が違うのです。
 シーボルトがお滝さんを妻として娶ったならば、もっと高らかに宣言してもよいのではないかというお説ごもっともです。私もそう思っているからです。
 シーボルトは「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の日本女性と結ばれました。 小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取り替えることはあるまいと存じます。」という手紙を1823年10月15日付けで、伯父のロッツと母へ宛て書いています。
 古いオランダの風習がどのようなものであつたのか分かりませんが、シーボルトはお滝さんと結ばれたことを高らかに宣言したと言ってよいでしょう。その手紙をシーボルトは前商館長ブロンホフに託した事までわかっています。
 ところが、古賀十二郎氏のシーボルト書簡集には、何故かその手紙が載っていません。郷土史家はもっと大騒ぎしてその書簡を探してもよいはずなのに何故か探そうとはしません。しかし、何れ近いうちにシーボルトのその手紙は発見されるでしょう。


Q4 さかい あかりさん

 岩田先生こんにちは。最近長崎は天気が悪いですね。
 洗濯物が乾かなくて困っています。(*^_^*)
 さて、少し私の説明が悪く勘違いされてる節があるようなので、もう一度シーボルト先生と其扇の私の一考察をお話します。
●私は其扇は遊女だったのではないかと考えますが、シーボルト先生と其扇の関係を遊女と客の関係であったとは考えていません。
 心の通じ合った夫婦関係であったと考えます。
 シーボルト先生がブロンホフ前商館長に託した手紙の事はもちろん知っていますし、真実性は高いものと思われます。(というか手紙が残っていないという事におどろきました。どの本にも載っている其扇とシーボルト先生の関係を象徴している手紙だからです。)
 私は其扇がシーボルト先生と出会ったきっかけが、遊女であったか姉の千歳についていた禿ではなかったかと考えています。
 理由は、下記に申し上げてきた事と、出会うきっかけの説がいろいろ多すぎて、出所があやふやな事から、あまり言いたくない出会い方だったのではないかと思うからです。
●ところでもちろん100両〜200両の身請け銀を払うのは、抱え主に、です。
  ●フランス人の商人ピナテールが海老屋の遊女正木を身請けの話、初めて知りました。
 身請けするのは抱え主と遊女と本人の財布状態で決まる、大変骨が折れる事なのですね。
 しかし、私はフランス人の商人ピナテールと正木の関係をシーボルト先生と其扇の身請けの仕方と同列には考えられないのです。
 理由は「丸山遊女と唐紅毛人 後編」より、
 「名付遊女または仕切遊女は、徹頭徹尾。日本人を相手にする事を避け、専ら唐人や紅毛人に接触する目的を以て、売色するのであった。(中略)そのような遊女は、日本人に対して徒らに恥を晒すよりも、寧ろ名付遊女または仕切遊女となり、一人の異邦人を相手と定めて、余裕ある生計を得ることを希望する者も亦少なくはなかったようである。」
とあります。
 このような状態で、出島に遊女として行く者であれば、身請けの話は願ってもないことだと思いこそすれ、商館員付きの医者であるシーボルト先生を相手に断るという事は考えられません。よって、もめることなくすぐ成立したのではないでしょうか?
●ちなみに抱え主が身請けの話しを渋ったのでないかという説ですが、遊女として抱えていれば、寝食の面倒をみなくてはなしません。遊女が病気にもなる事もあるでしょうし、子供ができることもあるでしょう。もしかしたら年季奉公まで満たず死ぬことだってあるかもしれません。
 身請け金を抱え主に払い、遊女も身請けされる事を希望すれば、もめることはなかったと思います。
 それに、名付遊女は商館員の任期にあわせているのですから、長くいる商館員の名付遊女からは長期間名貸し料等をとれる訳ですから、普通の日本人の身請け話より、抱え主にとって美味しい話だったように思えます。


 さかいさんこんにちは。
 さかいさんからお返事がないので、少し云い過ぎたかなと反省していたところでした。
返事があったので、ほっとしています。
 ちょつと話は変わりますが、私とさかいさんの意見が相違する根源は、古賀十二郎氏の著作の内容を全面的に信じるか否かにあるようです。
 私は古賀十二郎氏の著作の内容がすべて真実だとは思いません。
 例えば、シーボルトとお滝さんの出会いについて。ご承知のとおり「丸山遊女と唐紅毛人後編」には、シーボルトとお滝さんの出会いについて、仮説を3例挙げていますが何れも否定しています。
 しかし、ご自身の説は何も述べていません。これは極めて不自然です。
 シーボルトとお滝さんの出会いについては、誰もが知りたい肝心な点です。古賀氏は自説を述べるべきでしょう。私の推測では、この部分の原稿があったと思います。しかし、脱稿直前に誤りを指摘され、古賀氏は急遽その原稿を削除したのではないでしょうか。
 呉秀三著「シーボルト先生其生涯及功業」に、「長崎の古賀十二郎君の考証によれば、シーボルト先生が其扇と相知り相親み始めたるは、先生の来朝(文政6年)後2,3年にして文政8年の冬又は9年の春なるべし云ふ。其後間もなく其扇は先生に落籍されて鳴滝の塾舎にありしが、暫くして身重となり、文政10年5月6日に一女児を分娩したり。」と記述しています。
 この趣旨の原稿が古賀氏の「丸山遊女と唐紅毛人後編」にあったと思います。
 古賀氏はシーボルトと其扇の関係を客と遊女の関係と考えていました。そして客と遊女が相知り相親み始める普通のパターンを考えていたようです。
 しかし、その考察が、「寄合町諸事書上控張」の史料と異なることは明らかです。つまり古賀氏が述べたことが全て史実として正しいとは限らないということです。
 ところで、遊女の名義借り料が20両であることを私ははじめて知りました。それは、毎年支払うものなのですか。一度支払えば、済むのではないでしようか。
 今日は少し的はずれなことを書いたようですが、これからもよろしくお願いします。


  A 続き さかいさんこんばんは。
 さかいさんのお考えでは、古賀氏は名付け遊女をさげすんだように定義していますが、古賀氏の著書には、イネの乳母として出島に入った女性も名付け遊女であったと書いています。おイネの子たかさんの証言では、祖母滝は素人の女性は出島へ入れないので、遊女の名義で出島に入ったと語っています。 なかなか定義どおりにはいかないようです。
 ところで、さかいさんのお考えでは、遊女の抱え主は、遊女の身請け銀を受け取った後、更にその女性から同じ遊女名義の貸し料を受け取ることになります。
  しかし、それでは、遊女の抱え主が強欲過ぎませんか。もともと遊女の身請けとは、遊女が遊女でなくなること、つまり遊女が自由の身になることです。遊女其扇が身請けされて、楠本滝にもどることです。しかし、楠本滝では出島に入れませんから、古賀氏がお滝さんを鳴滝塾に囲ったと考えたのはごく当然なことです。しかし、その考証は史実と異なっていた。
 さかいさんは、お滝さんの姉のお常さんが遊女(源氏名千歳)であった、お常さんはビュルゲルの妾であったことを前提にお話されますが、前述したように、安政の開港前は、オランダ商館員は許可なく出島の外へ出ることは許されませんでした。商館員が妾宅へ行くので出島を出たいと申し出ても奉行所が許可を出すはずがありせん。お常さんのことはあまりよく知りませんが、お常さんがビュルゲルの妾であったとすれば、それは文政年間後の安政年間になってからではないでしょうか。


Q5 さかい あかりさん

 岩田先生おはようございます。
 今朝は朝から少し雪が降りましたね。
 すぐ雨になってしまい残念でしたが・・・。
●さて先生の下記の文ですが、
 呉秀三著「シーボルト先生其生涯及功業」に、「長崎の古賀十二郎君の考証によれば、シーボル>ト先生が其扇と相知り相親み始めたるは、先生の来朝(文政6年)後2,3年にして文政8年の>冬又は9年の春なるべし云ふ。其後間もなく其扇は先生に落籍されて鳴滝の塾舎にありしが、暫>くして身重となり、文政10年5月6日に一女児を分娩したり。」と記述されています。
 これは呉秀三氏の本に本当にそう記されているのですか?
 私の手元に今、古賀十二郎著「丸山遊女と唐紅毛人」があるのですが、(後編487ページ)
「フォン・シーボルトは、日本滞在2年の後、オタキ・ソノクと結婚した(以下略)」とあるのは、
Bijieveld氏の著Verloren Glorie の翻訳文としてであって古賀十二郎氏の意思の文ではありませんし、その後に
「シーボルトは日本滞在2年後オタキ・ソノクと結婚したとあるがそれは誤りである。シーボルトとお滝さんの関係は、文政6年(1823年)に始まりたる事に就いては、既に記述しておいた。」とありますし、480ページ、481ページにて、「シーボルトが寄合町引田屋卯太郎抱の遊女其扇を出島に呼び入れたのは、文政6年9月中(1823年即ちシーボルト渡来の年)のことであった。と書かれています。
●遊女の名前借手数料について
遊女の名前借手数料は10両から20両、容姿によって金額は決まっていました。
その頃、10年年季奉公契約で遊女が前借する金額が7両から43両であったそうです。
●在籍料
それと、長期間名前借料がもらえるというのは、書き間違いで在籍料です。
(すみませんごっちゃに書いてしまいました。(*^_^*))
「幕末の頃紅毛人以外の西洋人が、丸山遊女の年季中揚代前渡しをなした後、(中略)遊女屋の籍に女を入れ置き、在籍料として1日1ドルを支払っていた例がある。(中略)即ち、安政開港以前においても、1日何程、或は、一月何程と、遊女屋の相対にて、在籍料の額を定めて支払っていたものであると考えたい。」←「丸山遊女と唐紅毛人後編6ページより抜粋」
 あくまで、在籍料を遊女屋がとっていたというのは古賀氏の推察なのですが、私はかなり信憑性が高いと考えています。
 以上の事から、其扇がもし遊女としてシーボルト先生と出会っていたならば、落籍後のち、出島に出入りする為に仮在籍料を1日もしくは一月単位で何某か支払っていたと考えます。
●  >さかいさんのお考えでは、遊女の抱え主は、遊女の身請け銀を受け取った後、更にその女性から>同じ名の遊女名義貸し料を受け取ることになりますが、それは、少々あこぎではありませんか。>もともと遊女の身請けとは、遊女が遊女でなくなること、つまり自由の身になることでしょう。>其扇が楠本滝にもどることです。
・・・・あこぎというか(笑)
出島は遊女しか入れず、オランダ人は遊女としか関係できないという法律があったので、これはしょうがないでしょうし、
*滝が、(遊女じゃなく)普通の娘としてシーボルト先生と出会っていたとして、遊女ではないのに遊女名を借りて其扇となり出島に入る事。
*遊女として出会い、シーボルト先生に落籍され、遊女でないと出島に入れないので、そのまま在籍手数料を払ってもらい、遊女の籍だけ残して、出島に出入りする事。
 冷静に見比べて見て下さい。
 どちらがあこぎでどちらがあこぎじゃないか、論じる事のほうがおかしいような気がします
●  私は出島の商館員にとって落籍するということは、この遊女を日本に在住中、自分だけの人とするということと、もし自分が日本を離れた後、愛する娘が他の男性に春を売る職業を続けなくていいようにという気持ちのあらわれだと考えます。
 よって日本にいるのは5年程なのに、遊び代として高すぎるとか安すぎるとかいう問題でなくて、そういうことができる甲斐性があるかどうかにつきると思います。 商館長(カピタン)蔵役(ヘトル)商館医・薬剤師等、主に知的労働者である上級商館員達は、遊女を妻代わりにできる甲斐性があったでしょうし、主に肉体労働者として雇われた下級商館員達は、そのような甲斐性はなかったでしょう。
●古賀氏はお滝さんを鳴滝に囲っていたと書いていますか?
 私は手元に本がありますが、そのようかことは書かれていません。
(他の誰かの著と勘違いされているのではないでしょうか?)
 私も其扇が鳴滝で囲われていたなどと考えたこともありません。あそこは学問の場ですし、二宮敬作等お金のなかったものはあそこで寝泊りして勉強していた訳ですから、あそこに女性を囲うなどとは考えられません。


 さかいさんおはようございます。
 お日さまが照ったり翳ったり、今日は雪日和のようですね。
 さかいさんは、私が引用しました呉秀三著の古賀氏の考証をお疑いのようですが、小さな文字ですが、確かにそのように記述されています。私が何故明言できるかと云いますと、小生著「出島生まれのおイネさん」に、私が写した写真でその一節を載せているからです。私の推測ですが、古賀十二郎氏の「丸山遊女と唐紅毛人」の原稿に、その部分が入っていたと思います。その誤りを指摘され、急遽その部分を削除したのではないかと思います。シーボルトとお滝さんの出会いの部分は、誰でも最も関心がある部分です。古賀氏も当然、その部分について自説があってしかるべきです。ご承知のとおり、古賀氏の著書には、出会いの部分について仮説が3例紹介されているのみです。不自然とは思いませんか。
 さかいさん、どうぞその部分をご自分の目で確かめてください。私もこの部分は重要だと思いましたので、調べました。有名な郷土史研究家渡辺倉之輔氏の伝承によれば、東京帝国大学の呉秀三博士が東京から長崎の古賀氏を訪ね、呉博士が古賀氏に礼を尽くして教えを乞うたそうです。その内容が前記の記述です。


Q6 さかい あかりさん

 岩田先生の掲示板に書き込みをしている間にお昼になってしまいました。(笑)
 そろそろお昼ごはんを作らねばなりません。(^_^;)
 今度、岩田祐作著「出島生まれのおイネさん」読んでみますね。
 ちなみに私が読んだ「丸山遊女と唐紅毛人」は新訂です。以前より説明文も入りかなり読みやすくなっています。もしかしたら、新訂の本と前の本では微妙に違うのかもしれません。
 専門家の方が解りやすいように100ページ程説明文をつけてくださっている本なので。
 Q6続き さかい あかりさん
 というのは岩田先生の投稿の部分なのですが、なんだか読みにくいですね。すみません。
●乳母としての名付遊女
 ブロムホフと糸萩の子供(女児)が生まれた時、乳母を仮に萩の戸と名付けて、出島出入りを許した前例があった。(丸山遊女町文書。玉園文庫所蔵)
 其扇がイネを産んだ時乳母が2人、出島の出入りを許されました。十寸穂と陸奥といいます。(このことからシーボルトの経済状態が乳母2人を雇える程豊かで、其扇に対する心使いが解ります。(*^_^*)) ちなみに名付遊女が遊女でなかったというのは、当たり前です。
 名前だけの遊女なのですから。
 名付遊女として出島に出入りした者は、遊女ではなく、特定の誰かの妾、恋人、妻、そして特例として乳母、として扱われていたことでしょう。
「名付遊女または仕切遊女は、徹頭徹尾。日本人を相手にする事を避け、専ら唐人や紅毛人に接触する目的を以て、売色するのであった。(中略)そのような遊女は、日本人に対して徒らに恥を晒すよりも、寧ろ名付遊女または仕切遊女となり、一人の異邦人を相手と定めて、余裕ある生計を得ることを希望する者も亦少なくはなかったようである。」
 古賀先生は、名付遊女を卑しんだのではなく、名付遊女となるきっかけとしては、こういう場合が多かったようです。と説明していらっしゃるのです。乳母が例外なのは当たり前のことで、其扇も例外だとは一概には言えません。
●お常(千歳)さんとドクトル ビュルゲル
 お常さんは 天保2年(1831年)8月2日 30歳で亡くなりました。法名を栄林昌華信女といいます。
 お常さんの存在はシーボルト先生にお滝さんが姉が亡くなりましたと報告した手紙があります。 お常さんとドクトル ビュルゲルが関係したのは文政8年(1825年)にビュルゲルが来博して後の事です。その頃お常さんは24,5歳であっただろうと推測されます。
「丸山遊女と唐紅毛人 後編 477・571〜575ページ参照」
● 最期に・・・・
 何を参考文献とするかで、確かに見えてくるものも違うかもしれません。
 私と岩田先生の違いは、古賀先生を信じるか否かの違いかもしれませんが、しかし、恐れながら岩田先生は古賀先生の「丸山遊女と唐紅毛人」前編 後編をきちんと読まれましたでしょうか?
 と申しますのは、掲示板上で岩田先生が古賀先生の考えた事と書かれることは、誤りが多いように思います。
 私の考えは、二人が出会った時「お滝さんは遊女であったのではないか。」というものですが、決して、岩田先生の「お滝さんは遊女ではなかった。」という説を完全否定するわけでは、ありません。
 私もシーボルト先生とお滝さんの関係は遊女と客の関係ではなく、夫婦の関係であったと思います。
 しかし、だからこそ魅力的で、みながどうやって出会ったのかと想像を巡らすのでしょう。



 さかいさんこんにちは。
 私は、確かに古賀先生の本をバイブルのように何度も精読していません。
 むしろ、私は、さかいさんに、古賀先生の本から少し身を引いて、他の先生の著書を見ることをお勧めします。
 目的は、シーボルトが来日した当時、出島で何が起きたのかという歴史の真相を究明することです。
 古賀先生の本を読んでいると、姉のお常さんが遊女でドクトル・ビュルゲルと関係する間柄であったから、妹のお滝さんも遊女になり、シーボルトと関係したように連想されます。
 しかし、ドクトル・ビュルゲルが来日したのが文政8年であれば、シーボルトより2年後です。シーボルトが来日したのは文政6年7月ですから。
 更に、シーボルトは来日して、わずか3か月後の9月にお滝さん(其扇)を出島へ呼び入れ、関係ができたことが史料に記録されています。このことから、少なくとも、お滝さんが姉のお常さんを見習って、シーボルトと関係したのでないことが明瞭に分かります。
 私は、むしろ、姉のお常さんが妹のお滝さんを見習って、2年後にドクトル・ビュルゲルと関係したのではないかと思います。
 さかいさんは、古賀先生の本を読んで、このような逆転の発想ができるでしょうか。


Q7 さかい おかりさん

 岩田先生おはようございます。(*^_^*)  今日も寒いですね。
 確かに私の読んだ本は、かたよっているかもしれません。
 もしオススメの本があったら教えてください。
 あと、私は長崎に来て2年くらいと短く、精霊船についてよく知らないのです。
 シーボルトの時代も精霊船があったと思いますが、今のように爆竹もならしていたのですか?
江戸時代、供物を乗せた精霊船は流しっぱなしで、沖にうちあげられた供物や船は貧しい人が拾い貧しい人の救済としても役だったと、何かの本でちらっと見かけたことがあります。
 けれどもっと詳しく知りたいです。
 もしオススメの本で図書館で借りれそうな本があれば教えて下さい。
 あとシーボルト先生が弟子達に書かせた論文の内容について、詳しく書いてある本でオススメのものがあったら教えて下さい。
 あとお茶の貿易商人「お慶さん」についても知りたいです。
 もしオススメの本があったら教えて下さい。
ドクトル・ビュルゲルとお常さんの関係は私も最近「丸山遊女と唐紅毛人」を読んで知ったのです。面白いなと思って、私もいろいろ想像しました。(*^_^*)
 実は、先生がおっしゃるような其扇の後に続いて・・・という事も考えました。其扇とシーボルト先生の出会い方によって、微妙にお常さんのあり方まで変わってくるのは面白いですね。



 さかいさんおはようございます。
 さかいさんはお若いのですね。1歳の子供さんがいらっしゃるとは。
 私の子供は、早くから独立して東京で暮らしています。最近は、帰省しなくなり、淋しいものです。
ところで、さかいさんは図書館で本を借りるそうですが、ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」を借りるとよいと思います。
 小さな本です。 ハンス・ケルナーというドイツ人の著者が、シーボルトやお滝さん(其扇)をどのように描いているかあなたの優れた歴史感と冷静な目で読んでください。
 彼は、古賀十二郎先生に影響されず、異なった観点からシーボルトやお滝さんのことを記述べています。翻訳者は東大教授の竹内精一先生です。


Q8 さかい あかりさん

 岩田先生おはようございます。(*^_^*)
 今日も寒いですね。


 確かに私の読んだ本は、かたよっているかもしれません。
 もしオススメの本があったら教えてください。
 あと、私は長崎に来て2年くらいと短く、精霊船についてよく知らないのです。
 シーボルトの時代も精霊船があったと思いますが、今のように爆竹もならしていたのですか?
 江戸時代、供物を乗せた精霊船は流しっぱなしで、沖にうちあげられた供物や船は貧しい人が拾い貧しい人の救済としても役だったと、何かの本でちらっと見かけたことがあります。
 けれどもっと詳しく知りたいです。
 もしオススメの本で図書館で借りれそうな本があれば教えて下さい。
 あとシーボルト先生が弟子達に書かせた論文の内容について、詳しく書いてある本でオ ススメのものがあったら教えて下さい。
 あとお茶の貿易商人「お慶さん」についても知りたいです。
 もしオススメの本があったら教えて下さい。

 ドクトル・ビュルゲルとお常さんの関係は私も最近「丸山遊女と唐紅毛人」を読んで知ったのです。面白いなと思って、私もいろいろ想像しました。(*^_^*)
 実は、先生がおっしゃるような其扇の後に続いて・・・という事も考えました。其扇とシーボルト先生の出会い方によって、微妙にお常さんのあり方まで変わってくるのは面白いですね。


 さかいさんおはようございます。
 今日は雪もちらついて、長崎は本当に寒いですね。

 私は、精霊船については、何も知りません。もっぱらお滝さん一筋というところです(笑い)。
 ご承知のとおり、江戸時代、幕府の厳しい鎖国政策のもと、唯一長崎港だけにオランダと唐に窓口を開き、文物の交流がありました。
 長崎の町民はお宮日や精霊流しなどの年中行事の中にそれらの国の風俗・習慣を取り入れ、異国情緒のあるユニークな年中行事になったと思います。長崎の精霊流しにも、耳をつんざくような爆竹が使われますが、中国の影響が大いにあるでしょう。
 本の推薦についてですが、難しいですね。シーボルト著「日本」、「日本植物誌」、「日本動物誌」の閲覧希望を図書館に出しますと、係りの人が台車で持ってきます。本というよりも、貨物といった感じで驚きました。長崎で活躍した女性では、いち早くお茶の貿易で財を成し、勤皇の志士たちを支援した大浦お慶さん、ロシア極東艦隊の越冬基地であった長崎港の対岸にロシア海軍の将兵に憩いの場を提供するなどホテルの経営で異才を発揮した稲佐のお栄さん、シーボルトの娘で、混血児で未婚の母というハンデーを乗り越え、日本最初の女医となって楠本イネさんは長崎の三大女傑と云われています。
 それぞれの名前などで検索しますと、関連する本が検索できると思います。
それから、シーボルトに関しては、呉秀三著「シーボルト先生其生涯及功業」、呉秀三氏のシーボルトに関する論文は是非読んでください。
 できれで、小生著「シーボルトを支えた楠本家の墓地に眠る人たち」、「出島生まれのおイネさん」も読んでいただければ有り難いです。末尾に参考文献を挙げています。


Q9 さかい あかりさん

 こんばんは!
 今日本屋に行きました。
 シーボルト先生の「日本 中編」が売ってありびっくりしました。値段にもびっくりしました。
 やはり図書館で借りるしかないなと思ったのですが、貸し出し禁止なんですよね?
 閲覧しかできないんですよね?  私は1歳の娘を子育て中なので、図書館でゆっくり閲覧できる訳もなく、悲しい気持ちになりました。
 そういえば、「オランダ商館員日記」も本屋に売ってあってびっくりしました。
 面白そうで読みたかったけれど、高値だし立ち読みできるような本ではないので諦めましたが...。
 呉先生の本と「出島生まれのおイネさん」は借りれそうです。
 図書館に予約いれてみます。


 さかいさんおはようございます。
 さかいさんはお若いですね。1歳の子供さんがいらっしゃるとは...。

 私などは子供が独立して東京で暮らしているので、家へ寄り付かず寂しいものです。
 ところで、さかいさんは図書館で本を借りるそうですが、ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」を借りるとよいと思います。小さな本です。
 古賀十二郎先生に影響されない、ドイツ人の著者が、シーボルトやお滝さん(そのぎ)のことをどのように記述しているか冷静な目で見てください。


Q:おイネさんは出島で誕生したというのは本当でしょうか?----(Aさん)

  寄合町諸事書上控帳や唐人番倉田氏日記の記録に、おいねさんが出島で誕生したと推測される十分な根拠があります。
 この新説に対し、現在まで全く反論がありません。だだ、次の指摘がありました。
シーボルトの門人・伊東昇廸の手記「寄陽日簿」に、文政10年5月11日「一昨日シーボルト女郎平産女子出生、抹薬ト号シ見舞ニ出ル」という記録があるというものです。
 一昨日とは5月9日であり、おいねの誕生日5月6日と3日のづれがあります。
 伊東昇廸の手記はそのぎという遊女名もなくその出産日を一昨日と記述する等記述内容が粗く、端に風説を書きとめたものと推測されます。
「寄合町諸事書上控帳」によれば、寄合町の責任者・芦苅高之進は、おいねの出生記録をめぐって、5名のオランダ通事を出島へ派遣し、協議しています。
その結果、悪い前例を作らないため、おいねの出生地は出島ではなく銅座跡とする、誕生日は5月6日と記録することで一致したと思われる。
芦苅高之進はそのことを文書に作成し、5月7日奉行所へ届出ました。
シーボルトは芦苅の言行を側面から助けるため、5月11日そのぎを見舞うという口実で出島を出たと推測されます。
しかし、芦苅は、唐人番倉田氏が「出島に居住する遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳母を出島へ入れたいと通事に相談した云々」と日記に記録していたことを全く知りませんでした。芦苅はこれには手の打ちようがなかったのです。


Q:おイネさんは本当に出島で育てられたのですか?----(Bさん)

 オランダ商館長・ドウフと遊女の間に生まれたおもん、丈吉が出島で育てられたことはよく知られています。 おイネさんはシーボルトが離日するまで、2年7ケ月の間、出島で育てられました。このことは唐人番倉田氏の日記や川原慶賀筆蘭船入港の図から明らかです。


Q:お滝さんは本当に遊女でなかったのですか。(Cさん)

 お滝さんに関する古文書等には、お滝さんは寄合町引田屋抱遊女そのぎと記録されています。
 それは、江戸時代、出島へ入ることを許された女性は遊女に限られていたので、お滝さんは遊女の名義を借りて、出島へ入ったからです。このような場合、名付け遊女と呼ばれていました。
 シーボルトはお滝さんと結ばれた喜びを「彼女をヨーロッパの女性と取替えることはないでしょう」と手紙に書きました。丸山遊女と客の関係からはこのような言葉が出てくるはずがありません。
 お滝さんは文政6年から12年まで6年間、出島に居住していたことが資料から分かっています。お滝さんが遊女であればシーボルトは抱主へ遊女揚代銀を払う必要があります。その額は推計しますと1年間に千数百万円になります。シーボルトがそのような大金を6年間支払い続けたとは到底考えられません。


Q:おイネさんの墓はどこにあるのですか。(Dさん)

 おイネさんの墓は長崎市寺町の皓台寺の墓地にあります。そこには母・お滝さん、恩師・二宮敬作先生の墓もあります。
お滝さんの合葬墓
      お滝さんの合葬墓
おイネさんの合葬墓
      おイネさんの合葬墓


Q:シーボルト君の記念碑の原文はありませんか(Eさん)
おイネさんの合葬墓原文

               おイネさんの合葬墓原文
               呉秀三著「シーボルト先生の生涯及び其の功業」から引用


Q:最近、旧石器時代の発掘でねつ造事件が発生し、社会問題になっています。楠本いねの出島誕生説はねつ造ではないのですか。(Dさん)

 楠本いねの出島誕生説はねつ造ではありません。この説の根拠となっている史料は、すべて誰でも閲覧ができる図書館等に展示、保存されているものです。ただ、その 史料の解釈については異論がある人がいるかも知れません。楠本いねは銅座で誕生した というのが通説です。その観点から異論があって当然です。しかし、現在まで異論がありません。異論があれば、議論を重ねることにより、楠本いねがどこで誕生したのかという真実が明らかになってゆくことでしょう。



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