オランダ商館医シーボルトの妻楠本瀧は16歳のとき、27歳のシーボルトと恋に陥ちました。
瀧は、文政6年9月(和暦)遊女の名を借り出島へ入りました。当時、遊女のほか女性は出島へ入ることが できなかったからです。
シーボルトは文政6年7月7日出島へ上陸しました。そのわずか2ヶ月後のことです。
シーボルトは瀧と結ばれた喜びを瀧をヨーロッパの女性と取りかえることはありませんと伯父のロッツ、 母アポロニアへ宛て10月13日手紙を出しています。
瀧はシーボルトと共に彼が文政12年12月12日、日本を去るまで、6年余の間出島で暮らしました。その間、瀧は彼の子・混血のイネを文政10年5月6日午後10時頃出島で出産しました。
その場所はシーボルトの外科病院であったと推測されます。
イネは3歳になるまで出島の中で育てられました。
シーボルトは研究のため日本で収集した動稙物の標本、地図、絵画等膨大な資料や補助材料を自らの部屋に収納することができず、オランダ船が出港した後、空部屋になっていた出島の砂糖蔵、検使詰所等に保管していたと推測されます。
「新説」の英語、ドイツ語文を付けています。
シーボルトの娘・楠本イネは日本で最初に女医になった人です。
今から174年前(1827)文政10年5月6日、オランダ商館医シーボルトし遊女そのぎ(お瀧)との間にイネが生まれました。
通説では、楠本イネが生まれた場所は、母・そのぎ(お瀧)の実家があった長崎の銅座跡と云われています。しかし、史料を検討した結果、イネは出島の中で生まれたと推測されます。
長崎の丸山遊郭は寄合町にありました。寄合町の乙名芦苅高之進は、遊郭で起きた出来事を長崎奉行所に報告していました。その控え帳が残されています。
「寄合町諸事書上控帳」がそれです。その文書の文政10年5月7日付けに、遊女そのぎが銅座跡の父佐平方で昨夜女子を出産した旨文書で奉行所へ届けたと記録されています。
その文書を作成するに当たって、寄合町乙名芦苅が出島のオランダ商館と交渉したメモが残されています。左下の「覚」がそれです。
唐人の見張り役をしていた倉田という役人が、出島で起きた事件などを日記に書きとめていました。文政10年7月9日の記事に、出島に居住する遊女そのぎが女子を出産した様子が記録されています。右下の「唐人番倉田氏日記」がそれです。
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上記の者が6日4ツ時頃出産した旨引田家より申し出があったので、出島へ釣会書を 差し出したところ、彼女は昨夜出産した旨7日の日付で記録に残すよう出島から駆合い が来た。御禁制の建前上、そのような記録は書けないので、古野以下5名の蘭通事を 出島へ差し遣わした。 文政10年5月7日 寄合町乙名芦苅高之進 |
出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。 文政10年7月9日(イネ出生の2か月後) 通事に相談したのは、イネが出生した直後であろう。町年寄がその結論を だしたのが7月4日であったと推測されます。 |
イネの臍の緒書き 文政10年5月6日出生、以祢と書かれたイネの臍の緒書きが、シーボルト記念館に展示保存されています。 当時、町民の子が誕生した際、臍の緒を作る習慣はありませんでした。通説が云うように、そのぎが銅座跡父佐平方で出産したのであれば、臍の緒書きは存在しなかったでしょう。 何事でも記録する習慣があったシーボルトが、わが子イネを取り上げた際、通事に頼んで臍の緒書きを作ったと考えられます。 |
出島へ入る橋のたもとに立っていた高札 禁制 出島町 一、遊女の外女性が出島へ入る事。 一、高野山の坊さんの外出家山伏が入る 事。 一、諸勧進の者並びに乞食が入る事。 一、出島廻りの傍示杭の内船乗り廻る事。 附ー橋の下船乗り廻る事。 一、断りなくして阿蘭陀人出島より外へ出る 事。 上の条々固く相守るべきもの也 この御禁制があったため、 イネの出生が建前で記録されたと推測されます。 |