長崎のおもしろい歴史のトップページへ戻る

〜シーボルト再来日直前のお滝さんの手紙を発見〜
A letter from Otaki to Siebolt 1859

English  Deutsch  直訳文

お滝さん発シーボルト宛書簡
(シーボルト再来日直前に書かれた書簡の一部)
(現代文 城美博氏訳)

,,,から品々お送りいただきましたが、それぞれには届きませぬことを、しばらくたって人から知らせをいただき、人の心のあてにならぬことを怨みに思い、それがいっそうつのってまいりますが、あなた様のお志を嬉しく思い、これまでの慈しみと愛情に対し、本当にお礼の申し上げようもございません。

さて、「光陰矢のごとし」と申しますが、本当に時間のたつのは早いものです。娘お稲は六・七歳であった頃、心根は男の子のようで、遊びごともまるで男の子、仮にも女の子の遊びに夢中になることはございませんでした。私は人には申しませんが、心の中ではお稲の顔立ちがあなた様に似ているのを見るにつけ、「なんといってもあなた様の血筋である」とうれしく思い、もしあなた様がいらっしゃったら、さぞかしお喜びになるでしょうが、それをお知らせしようにも国の掟にさえぎられ、思うことさえままならず、あなた様のおいでになる西の方に向かって独りつぶやくのみでございました。

私の身の上のことはさておきまして、お稲には七・八歳の頃から、女の身のふつつかなこととて、いろいろな芸事をさせましたが、常々「あなたの父上は傑出した人物で、世界にその名声がとどろいていらっしゃる。あなたはそういうお方の子として、しかるべき心構えがなくてはなりません。ほんの少しでも父上の名声を汚すことがあってはなりませんよ」と教えさとしてきました。その甲斐あってか、年月を経るに従って、利発に賢く成長していくのを見るにつけ思うにつけ、これが親心であろうかなあとあれこれ心配しているうちに早くも十七・八歳になり、お稲は一市井人としてこの世に長らえことを忌み嫌うようになりました。何とかして父上の生業を継ぎ、立身出世をなしとげ、数万里を隔てた彼方においでになる父上に、たとえ孝行の始めを欠いてもその終わりを全うし、たとえ女であっても一家を興しその名を末代まで残そうと、多くの苦しみを厭わず読書や医学の勉強に心を尽くしております。

そんな中でも、夏が来て阿蘭陀船入港の合図である砲声を耳にするたびに、もしや父上が乗っていらっしゃる船が出島に来てはいないだろうか、そうでなければどこの国で何をしてどのようにお暮らしのことかを知らせる手紙か言伝かがあるのではないだろうか、いずれにしても一言知らせを聞きたくもあり、またお稲に聞かせたくもありました。まれに阿蘭陀人を見かけますときにはあなた様に似た人がいないかと探すその心の嬉しさも、そんな人が見あたらないときの悲しさをも、親子共々残念に思い、そして嘆き、夢の中であなた様にお会いしたのはいったい幾たびであったか、私の心の内をどうぞお察しいただきたく存じます。

お稲は二十一歳になって旅に出て医学を学び、二十五歳になって長崎に戻り、そこで初めて開業し、二十七歳までそのように暮らしておりましたが、治療法の未熟さを思い知り、二十八歳で二宮敬作殿に師事するために再び伊予の国へ遊学いたしました。三年の歳月をへて三十歳になり、敬作殿の病気につき敬作殿に同行し長崎に帰国、その敬作殿が快方に向かわれたので、長崎で開業なさることになり、お稲も及ばずながら力添えをし、また敬作殿の看病をいたしておりました。一昨年の初秋、敬作殿は私の所から転居なさいました。

あなた様とお別れして数年後、だんだんと御昇進なさり、諸国を巡っておいでになるということですが、誰が言うともなく当地に噂があり、,,,

お滝さんの手紙から判ること

  1. お滝さんは、シーボルトが1829(文政12)年12月、シーボルト事件により日本から国外退去を命じられた後、シーボルトと文通していたことは知られていますが、1831年(天保2)正月、お滝さんが築町の商人俵屋時次郎と再婚したことを知らせる手紙を最後に、ふたりの文通は途絶えたと考えられていました。

    今回、シーボルトが国外退去を命じられて30年後、1859(安政6)年再来日する直前に、お滝さんがシーボルトへ宛てた手紙を発見しました。(当時、シーボルト64歳、お滝さん53歳、お稲さん33歳。)

  2. この手紙から次のことが判明しました。

    ア シーボルトは再来日する直前に、お滝さんへ贈り物をしていたこと。

    イ お稲さんが5.6才の頃は男子のようで、仮にも女子の遊びにふけることはなかったこと。

    ウ お滝さんはお稲さんが7・8才の頃から女子のたしなみとして、いろいろな芸事をさせたが、身につかなかったこと。

    エ あなたの父上は傑出した人だから、その名声を汚さぬよう、お滝さんはお稲さんへ明け暮れ、教え諭していたこと。

    オ その甲斐あって、お稲さんは年月を経るに従い怜悧になり、17・8才に成長してからは、常人に満足せず、どうしても父上の生業である医者を継ぎ、立身出世をなしとげ、女ながらも一家を興し、名を末代まで残そうと、読書、医学の勉強に励んだこと。

    カ お稲さんは、21才より旅に出て、医術を学び、25才になって帰国し、初めて長崎で開業したこと。

    キ お稲さんは、27才まで長崎で開業していたが、治療方法が未熟であることを思い知り、28才の時、二宮敬作先生に師事して、「再び」伊予に遊学したこと。

    ク お稲さんは、28歳から30歳まで3年間、伊予の二宮敬作先生宅で修行し、病気の二宮先生に同行して長崎に帰国したこと。

    ケ 敬作先生は、病気が徐々に快方に向かったので、長崎のお滝さんの自宅で開業したこと。
      お稲さんは敬作先生を看病しながら、先生の開業を支援したこと。

    コ 一昨年初秋ころ、敬作先生は、自宅から転居したこと。
      (この手紙に日付がありません。日付が判明すれば、敬作先生が転居した日が推測できます。)

    サ お滝さんは、阿蘭陀船入港の合図の砲声を聞くたびに、シーボルトが来たのではないかと心をときめかせ、まれに阿蘭陀人を見かけると、シーボルトではないかと探していたこと。

(注)

  1. この手紙のコピーは、中間が重複する反面、その前後が欠けています。ブランデンシュタイン氏が保管する原本は、完全なものがあると推測します。

  2. この手紙の日付は不明です。しかし、お滝さんがシーボルト再来日直前に書いたものであることは、手紙の内容から明らかです。

  3. この手紙は、書体が男文字であること、随所に訂正があること等から、お滝さんの直筆ではなく、代筆であると推測されます。 

(この訳文の無断転載はお断りします。)

長崎のおもしろい歴史 トップページへ戻る
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/index.html