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シーボルト君記念碑(原文は漢文) 欧州各国をして、日本あるを知らしめし者シーボルト君の功なり。日本をして欧州各国あ るを知らしめる者亦シーボルト君の功なり。蓋し我邦久しく交を外国に絶つ。君我邦に来て より、我邦の名大いに彼の国に顕れる。君はババリアの貴族にして、博学多才兼ねて医学 に長ず。我文政六年を以って、長崎に到る。医療の余暇、我風土を観、之を欧州に通報す。 而して、平素意を植物に留め、之を本国に移植するもの五百余種。土を相して之を植ゆ。 此の如くするもの三十年。我邦の草木終に欧州に遍く。学者の日本植物を言うもの、皆君を 宗とす。西暦一八六六年、シーボルト君はミュウヘンで病没した。その七年後各国の農学者 たちは、君の記念塔をその生地ビュルツブルクに建立することを計画した。オーストリア 農学公社を理事局として文書を遠近に回覧し、広く資金援助を乞い、日本では大隈、寺島、 佐野らの諸公がこれに賛同した。明治八年九月イタリア、オランダ、オーストリア、日本の 四公使は華族黒田老候邸で会合し、互いに議した。老公は君と親交があったということで、 推されて議長となり、戸塚、伊東の二人を幹事とし、同志を募り、一ヶ月で八百六十五円を 得た。これをすべて送金しようとしたところ、オランダ公使ド・ウルケルリン君が言うには 「その資金を欧州に送るより、むしろ別に碑を日本に建立し、この国の人に功績を永く忘れ させないようにするのがいいのではないか。碑が日本にあるということがそもそも君の志で ある」と。皆そのとおりであるとし、六百円を欧州に送り、その余を残し、長崎の人、下見国吉 が巨石を差し出した。国吉は今君の遺宅を管理している。かくして長崎公園に碑を建立した。 明治十二年のことである。 ああ、君が長崎に身を寄せ、医学植物の学を受けた者は、戸塚、伊東 二先輩の後を追い、特に優れた者たちがその後を継ぎ、我国の洋学はすぐさま盛んになった。 |
![]() この記念碑と碑文はあまり知られていません 欧州の外交制度・学術は嘉永安政年間をその夜明けとし、鎖国・攘夷の論を排して和親条約を結んだ。 それはどうして洋学家に頼ることなくしてできたであろうか。そして、今日の文化に次第に慣れ親しんだ のは、結局君の功績と分けて考えることはできない。欧州の学者は君を称えて、日本の学術の上で 発見したと言い、人は誠にこれを謗ることはない。この為ここに銘記する。 我が国の華を観て これを欧州に伝える 偉大な功績はつとに成り その名は永遠である これを石碑に刻み 永く瓊浦の地にとどめる 明治十二年歳次巳卯春三月 東京大森惟中撰文 長崎乾堂曾榮篆刻書 谷川喜重 |