森下一仁
SFの書きかたについて、これから書くんだけど、本当はね、こうすればSFが書ける、なんていう便利なやりかたはないんだ。
書きかたはたったひとつ、きみが頭で考えたことを、ひとつずつ、言葉にして、紙に書いてゆくだけ。どんなにえらい作家だって、そうやって、コツコツとSFを書いているんだ。
だから、SFを書こうと思った人は、紙と鉛筆を用意して、まず書き始めること――ということになってしまうけど、でも「SFの書きかた」が、これだけじゃ、あんまりだよね。味もそっけもないというのは、このことだ。
そこで、これから「紙と鉛筆」以外のことで、きみがSFを書くために役立ちそうなことを、あれこれと考えてみよう。
仲間をみつけること
まず最初に、ぼくがすすめたいのは、SFの好きな友だちをみつけることだ。
きみがおもしろいと思っているSFを、同じように、好きで好きでたまらないという子が、きみのまわりにもきっと1人や2人はいるはずだ。そういう子と友だちになって、SFのことを話すのは、それだけでも楽しいけれど、もっといいことがある。
その第1は、いろいろなSFのおもしろさを教えてもらえることだ。
友だちはきみと同じSFが好きでも、よく聞いてみると、ちがったところが気にいってたり、きみがかっこいいと思っていたところが、きらいだったりするかもしれない。そういった意見をそのままうのみにする必要はないけれど、他人と話をすることによって、きみ自身のSFにたいする考えがはっきりしてくるはずだ。
このことは、きみがSFを書く時にとても役にたつ。
自分の書きたいSFがどんなものか、はっきりするし、おもしろく書くにはどうすればいいか、わかってくるはずだ。
仲間がいることのいい点の第2は、きみが書いたものを読んでもらえることだ。
だれか読んでくれる人がはっきりしている方が、ただ当てもなく書くよりも、ずっとはりがあることはいうまでもないし、まるでSFを知らないひとに読んでもらうよりも、的確な感想が聞けることもありがたい。
そして、その友だちがSFを書いてきたら、きみもきちんと読んであげよう。
その時に注意してほしいのは、あまりできがよくなくても、頭っからけなしたりしないということだ。ぼくたちのようなプロになっても、せっかく書いたものを悪くいわれた時は本当にまいる。自分がまるでだめな人間のように思えたり、逆に、悪口をいった人の人間性をうたがったり……。
いけない。泣きごとになってしまった。とにかく、人の作品は親切に読んであげてほしい。
ここで、もうひとついっておかなければならないのは、もしSF好きの友だちがみつからなくたって、それはそれでもかまわないということだ。もちろん仲間がいるにこしたことはないけれど、ものごとに例外というのはつきもので、SFというのは特に例外を大事にするものなのだ。
きみがたった1人で書きためた作品が、大傑作ばかりだったということだって、ありえない話ではない。自分だけがそう思いこんでいるというのは困りものだけど……。
きみがネコなら……
何を書くのかが決まっていれば、後はわりと簡単だ。どう書くかということだけを考えればいい。たくさんSFを読みさえすれば、それは自然に身についてくるものだ。
しかし、ただばくぜんと、
「SFを書いてみたい。けれども、何を書いていいのかわからない」
という人もよくいる。
これからはしばらく、そういう人のために、書く材料のさがしかたを考えてみよう。
ぼくがSFをおもしろいと思う理由はいろいろあるが、なかでもいちばんの理由は、ものの見方はひととおりではない、ということを教えてくれる点だと思う。
たとえば、ぼくは小さい頃、人間は進化の最後にあらわれた、地球で最もすぐれた生きものだと信じて疑わなかった。
ところが、SFでは、人間は高級な宇宙人に飼われている家畜だったり、もっとひどい場合には、宇宙船にすみついた害虫だったりするのだ。
そういった話をそのまま信じたわけではないけれど、どんなに当たり前と思われることでも、ひっくりかえしてしまうものの見方があるのだ、ということを強烈に思い知らされたことは確かだ。
そこで、ぼくはまず、当たり前のことが当たり前でないような条件をつくってみるのがSFを書くための第1歩となるのではないかと考えるのだ。
どうすれば、そういう条件ができるか?
たとえば、きみがネコだったとしたら、どうだろう?
ネコの目には、この世の中はどんなふうに見えているだろうか?
ネコは人間に比べてとても小さいから、人間は巨大な怪獣のようなものかもしれない。怪獣がえさをくれたり、のどをなでてくれたり、時には、けとばしたりするのだ。
普通のイスだって、ネコにはベッドくらいの大きさだ。
通り道も人間とは全然ちがう。
道路は危険な場所だからできるだけ通らないようにして、塀のうえだとか、屋根の上、床下なんかを歩く。身長の何倍もの高いところでも、跳びあがったり、跳びおりたりすることができる。
冬あたたかい日だまりや、夏すずしい風の通りみちもよく頭にいれておかなければならない。もちろん、どこへ行けばおいしいものが食べられるかも……。
こんなふうに考えたら、きみの家の近所がいつもとまるでちがう場所に思えてきて、ワクワクしないかい?
したらしめたもの、きみはSFで書きたい何かを手にいれたんだ。
ネコにかつおぶし
もうすこし書く材料の話をつづけよう。
小説にしたいような思いつきのことを、小説の「アイデア」という。SFでは、このアイデアがとても重要だと考えられている。
きみもSFを読んでいて、「よくこんなことが考えられるなあ」と感心することがあるだろう? そういうのがアイデアだ。
アイデアは、頭のなかにわいてきたり、よくわからないうちにひらめいたりする、といわれている。どうすればアイデアがひらめくようにできるだろうか?
これの決めてはありそうもない(あったらこっそり教えてください)。トイレが思いつきやすいとか、お風呂にはいるのがいいとか、寝ているうちに夢が教えてくれるとか、人によってそれぞれ苦労をしているようだ。
しかしアイデアを思いつく訓練はできるかもしれない。
さっきのように、「もしぼくがネコだったら……」というようなことをあれこれ考えてみるのもひとつの手だ。
それの応用として、大きいものを小さくしてみるのもありそうだ(まめつぶのようなちびの恐竜とかね)。
逆に小さいものをうんと大きくしてみるというのもある(顔だけがどんどん大きくなってしまった男の人のことを書いたSF作家がいるよ)。
時代がちがったらどうなるか、と考えるのもよくある手のひとつ。現代人が古い時代にまぎれこんだらどうなるか。未来人が現代にあらわれたら、どうなるか。
こういったことはみんな、当たり前と思っていることを、そうでないようにするための訓練になる。
一般的には、アイデアはふたつのものの組み合せから生まれることが多いといわれている。それも、よくありそうな組み合せではなくて、できるだけとっぴなものがいいようだ。
ネコの例で考えてみよう。
「ネコにかつおぶし」というようなのは、あまりぱっとしない気がする。ネコがかつおぶしをムシャムシャと食べて、それでおしまいだ。
「ネコに小判」というのは、どうだろう?
もともとの意味は、人間がほしがる小判もネコは見向きもしない、ということから、ものの値打ちがわからないことをいうのだけれど、ここではネコが小判をくわえて歩いているのを見かけたことにしよう。
いったいこのネコは、どうして小判なんかくわえてるんだろう?
不思議だよね。でも、なんかおもしろそうじゃないかい?
理由を考えてみよう。
おいしい小判なのかもしれない。かつおぶしの味がするのだろうか?
もしそうなら、なぜそうなってしまったのだろう?
昔の人は、黄金で小判をつくったはずじゃないか。ひょっとしたら、ネズミ小僧(という泥棒がいた)をつかまえるための特別製だろうか。ネズミもかつおぶしが好きだし、泥棒は小判が好き、ということで、両方を合わせたのかも……。
どうもうまくないな。
そのネコが特別のネコだと考えた方がいいかもしれない。
小判が大好きなネコ!
なぜ小判がすきなのだろう?
ひまな科学者がつくったロボット・ネコということにしてみようか。
その科学者が、できたばかりのロボット・ネコにいろいろとネコとしての心がけを教える時、「ネコはごはんが好き」というところを、ついうっかりして、「ネコはこばんが好き」と教えてしまったのかも……。
これもたいしたことはないな。
先へゆこう。
とにかくどういうわけか、そのネコは小判をくわえている。
いったいその小判はどこで見つけたのだろう?
どこかの家の床下か? 近くの空き地か? もしかしたら、本当に江戸時代へ行ってきたのかもしれない。
どうやって?
時間をこえられる超能力をもっているのか? それとも、江戸時代に通じる穴のようなものがあって、そこを通っていったのかもしれない。
じゃあ、きみもネコの後をおいかけて江戸時代へゆけるよね。行ったらどうなるかな?
こういうふうに考えているうちに、SFにしてみたい「何か」を、思いつかないかな?
「何か」とは、マンガのひとこまのような、ひとつの場面だったり、一人の人間だったり、おかしな生きもの(宇宙人ってこともあるよね)だったり、バカな考え方だったり、いろいろだけど、もし思いついたとしたら、それがりっぱなアイデアだ。
さあ、きみもおもしろそうな組み合せを考えて、アイデアを見つけてみよう。いい組み合わせが見つかれば、アイデアは手に入ったも同然だ。
あ、そうだ。
さっき「ネコにかつおぶし」なんていう組み合わせは、あまりぱっとしない、といったよね。だけど、これだって考えようによっては、なかなかおもしろい取り合わせなんだ。
ぼくがどういうふうに考えたか、ちょっと話してみようか。
ネコはかつおぶしが好きだ。
かつおぶしだけじゃなくて、アジの干物だとか、サンマの塩焼きなんかも大好きだ。つまり、魚が大好物なんだね。
ここで、ぼくは「おや?」と思ったんだ。
ネコは陸の上の生きもので、魚は水の中の生きものだ。ネコは昔から、自分で魚をとったりしていたのだろうか?
どうもそうは思えない。特に、アジやサンマといった海の魚をとったりすることは、まずありえないのじゃないだろうか。
それなのに大好物だとは、いったいどういうことだろう?
もしかしたら、ぼくたちのネコにたいする考え方が、まちがっているのかもしれない。
大昔、ネコは海にすんで、魚をとっていたのだろうか?
だとしたら、どうして陸でくらすようになったのだろう? 何かに追い出されたのだろうか?
反対に、アジやサンマの方がネコの手の届くところにいたのかもしれない。
大昔のアジやサンマは、今のトビウオなんかよりもずっと上手に空を飛んで、時々ネコのすむ森で羽根(ヒレ?)を休めていた……なんてことはないかな。
ちがう考え方もできる。
もし、ネコが人間に飼われるようになって初めて、おいしいアジやサンマを食べることができたとしたら、人間だって、今はまだ知らないけれど、これ以上ないというようなおいしい食べ物にこれから出会うことがあるんじゃないだろうか。
それはどんなものだろう?
地球にあるけれど、まだ誰も食べたことのないものか? それとも、どこか遠い星にあって、人間がやってくるのを待っているのだろうか? それを食べたら、人間はどんなふうになるのだろう?
ね、こんなふうに考えたら、「ネコにかつおぶし」というのもバカにしたものじゃないだろう?
この場合には、ネコに関する科学的な疑問(というほどのものでもないけれど)が、発想の発端になっている。SFは、もともとは空想科学小説とよばれていたことは、知っているかな? 科学の知識や科学的態度を身につけていれば、より豊かなアイデアの宝庫がきみを待っているぞ。
メモしよう
さて、アイデアはひらめいたかな?
いくら考えてもひらめかないって?
そういう人も悲観することはない。いちおうSF作家のはしくれであるぼくだって、そういうことはしょっちゅうだ。一所懸命がんばっても、いい考えがうかばないことの方が多いかもしれない。
でも逆に、ボーッとしていたり、なにか関係ないことをしていたりする時に、ひらめいたりすることもある。
きみも、きっといつか、「あ、こんなのおもしろいな」と思うようなことを考えついているだろうし、これからも考えつくはずなんだ。
ただ、そうやってやっとつかんだアイデアなのに、すぐに忘れてしまうことが多いのは困ったもんだ。
だから、思いついたアイデアは、すぐにメモしておいたほうがいい。それも、ノートや手帳にするよりも、カードや紙切れに書いておいて、机の前のような、いつも目に触れるところにはっておくのだ。
メモの書きかたは自分でわかりさえすればどうでもいい。
「空を飛ぶアジ」
でもいいし、
「昔、アジは空を飛んでいた。ネコがアジを好きなのはそのせいだ」
でもいい。
どちらも知らない人が見たら、なんのことだろう、と首をひねるだろうけれど、きみにはちゃんと意味がとおっているだろう?
ただし、あんまり簡単すぎて、自分でもなんだかわからない、なんてことになるのはまずい。おもしろいと思ったポイントをきちんと書いておくべきだ。
そうしておいて、つぎの話にうつることにしよう。
どう書くか
SFにしてみたいアイデアはできた。
前に、後は簡単、たくさんSFを読めば、それをどう書くかは自然にわかってくる、なんていったけど、ここではそこらへんのことを、もう少しくわしく説明しておこう。
アイデアはあるのだけど、どうやって小説にすればいいのかわからない、というのもよくあることだ。
たとえば、昔、アジは空を飛んで、木の枝にとまったりしていた、という大発見(?!)をSFにしたい時のことを考えてみようか。 その大発見をするのは、誰がいいだろう?
大科学者か? ふつうの男の子か? 魚のきらいな女の子か? 口のきけるネコか?
本当にアジが空を飛ぶところを、見ることにした方がいいだろうか?
見るとするなら、どうやって見るか?
大昔の地球へ行くのか? 反対に昔のままのアジを、今の日本に出現させるのか?
大発見にたいする世の中の人々の反応はどうか?
……などというふうに、考えておかなければいけないことはいっぱいある。
そういうことが、あっという間に頭の中で組み合わさることもあるし、なかなかうまくいかないこともある。
また、ひとつだけのアイデアだけでは、うまくいかなかったのが、ほかのアイデアと結びつくことで、おもしろい話になることもある。
アイデアをカードに書いて、いつも目につくところに貼っておくといいというのは、忘れないだけじゃなくて、そういう効果もあるからなんだよ。
話を組み立てる時、心がけてほしいのは、どこかから借りてきたものをそのまま使ったりしない、ということだ。
「あれ、これはいつか読んだことがあるぞ」
なんて思ったら、そのSFにたいする興味はたちまちさめてしまうだろう?
最後まで読んでもらい、きみが書きたかったことをわかってもらうには、細かいところまで気をつかわなければいけない。ここは借りものですましちゃえ、なんていうことは避けるべきだ。
しかし、そうはいっても今までに書かれたSFの数は多いし、いちいち細かいところにこだわっていては、先へ進めないということにもなる。ここらへんのかねあいは、とてもむずかしいところなんだ。
それに、SFは誰かが考えだしたアイデアを、ほかの人もどんどん使うことによって、新しい作品を生みだしてきたという歴史をもっている。
たとえば、空飛ぶアジを見るために大昔の地球へゆくのに、タイムマシンを使うにしても、1匹だけとってきた空飛ぶアジをふやすのに、生体の複製技術(クローニング)を利用するにしても、それらはどれも借りものになってしまう。
かといって、それなしではお話をつくることができないことが多い。というよりも、できない場合がほとんどだ。
だから、これまでSFが生みだしてきた、そういう便利なものを使うことはちっともかまわない。
かまわないのだけれど、しかし、どこかにきみが新しく考えた工夫をつけ加える努力をしてほしい。
それがものをつくりだすということなんだ。SFを書くのはむずかしい言葉でいえば、「創造的な営み」なんだよ。
キャラクターについて
SFにかぎらず、マンガや小説、アニメなどに出てくる人物のことを、このごろは、「キャラクター」と呼ぶことが多い。いや、人物だけじゃなくて、自分なりの性格や特徴をもった動物やロボットなども、キャラクターといったりする。
キャラクターなしでは、物語はなりたたない、といっていいよね。
このキャラクターについて気をつけたいのは、魅力的であるにこしたことはない、ということだ。
特にSFの場合は、変わったできごとを描くことにばかり気をとられて、キャラクターはなおざりになってしまうことがありがちだ。ひとりひとりの登場人物がうすっぺらいものにならないように気をつけよう。主人公だけじゃなくて、まわりの人間、もし敵がいるとすれば、その敵にもそれなりの魅力をもたせよう。
キャラクターは、これまでに読んだり見たりした物語に出てくるものを参考にすることもあるだろうけれど、きみ自身をふくめて、きみのまわりにいる人たちを使ってみるのもおもしろい。
もちろん本当のことを書くのではないから、性格なんかも変えてしまっていいわけだ。
そのためには、まわりの人たちのすることを注意深く見ていなければいけない。
町で急いでいる人を見かけたら、
「どうして急いでいるのだろう? 服はちゃんとした背広なのに、サンダルをはいているのは、どうしてかな?」
などと想像力を働かせてみるのだ。
友だちや、大人たちを観察するのは、自分がシャーロック・ホームズになったような気分で、それだけでもけっこうおもしろいよ。
キャラクターを考えているうちに、話ができてしまうこともある。まあ、キャラクターづくりも広い意味ではアイデアの一部ということができるから、当然かもしれないね。
おもしろいキャラクターが思い浮かんだら、これも忘れずにメモしておこう。きみの物語のための、架空の俳優たちをふやすんだ。
おしまいまで書く
書きたいことをどう書くかが決まったら、いよいよ紙と鉛筆(いや、最近はワープロかな)の出番だ。できるだけ読みやすいように書いていこう。
書き方は、学校の作文の書き方でもいいし、今、読んでいるこの本を参考にしてもいい。印刷されているとおりに、カッコを使ったり、段落を変えたりすればいいんだ。実際に書いているうちに、こつはすぐのみこめると思うよ。
どうしてもわからなかったら、学校の先生や家の人にきくことだ。わからないことをきくのは、ちっともはずかしいことじゃない。 後は、途中で投げ出さずに、おしまいまで書きとおすことだ。
思うように話が進まなかったり、ほかにもっとやりたいことができたりするかもしれないけれど、最後までしあげないことには、きみがSFを書いたことにはならない。
1字、1字、おしまいがくるまでがんばって書こう。
書いているうちは楽しいことばかりではないけれど、書きあげた時のうれしさは、なんともいえないものだ。
いつか、きみの書いたSFを読ませてもらえる日が来ることを楽しみに待っているよ。
じゃあ、その日まで。
健闘を祈る!
横田順彌編
〈ジュニアSF選〉別巻
『SFなんでも講座』
草土文化1987年刊
所収