個人的なことから始めなければならない。すべて経験は個人の裡にのみあり、世界は経験によって個人の裡に築かれるのだから。
今から30年あまり前のこと。私は中学生だった。ある日、1冊の雑誌を、隣に住む従兄から借りて読んだ。
変な気がした。作品が、わかるようで、わからないのだ。これは何だろう?
雑誌が〈SFマガジン〉であり、掲載されているのがSFと呼ばれる類の小説であることはすぐにわかる。私は乱読家で、山田風太郎の新聞連載小説も手塚治虫のマンガも少女小説もノンフィクションもいわゆる名作もさまざまな事典類も、目につく読みものは片っ端から読んだ。SFも、子供向けのものなら読んでいた。
だが、その雑誌の短篇を読んだ時の感覚はいつもの読書体験とは違った。まるで、固くて付きにくいチョークで黒板に字を書いているようなものだった。変な言い方だが、理解が脳ミソにうまく刻みこまれない そんな感じだった。我慢して読みとおし、最後までゆくと、やっとなんとか書かれていることがわかるような気がする。そんなことを繰り返した。
悪い体験ではなかった。小説を読んで頭がクラクラすることを初めて知った。そのクラクラが忘れられなくて、次から次へと新しいSFに手を伸ばした。従兄は学校の寮へ入っていなくなったので、自分で雑誌を買った。古本屋も回った。
すぐに読み方のコツを習得し、使われる用語の意味も呑み込んだこともあって、クラクラは意識しなくなった。だが、読み終えてボー然とした気分に捕えられ、それが何日も続くような作品と出会うことはあった。それはたとえば、宇宙の広大さに比べるとまるでオモチャのような宇宙船で星々の間の深淵を越えてゆく人類の姿を描いたアーサー・C・クラークの「太陽系最後の日」であったり、異星人たちの間で自分の役割を見いだせなくて途方に暮れていた人間がやっと自らの位置を発見したときの喜びを記したロバート・シェクリイの「専門家」であったりした。
それはまさしく内面的かつ鮮烈な「体験」であって、あれがああしてこうなった、などと口で説明できるものではなかった。ごく稀に見つかる同好の士も同じような体験をしているらしかった。しかし、それを確認するすべはなかった。ただ「あれは凄い」とか「これが好きだ」とか言っている言葉の端々から何となく感じとることができるだけだった。
「センス・オブ・ワンダー」という言葉が存在し、それがどうやら自分の体験をも意味しているようだと知ったのは、いつ頃だったろうか。多くのSFファンが、言葉にし得ない体験をなんとか説明しようと、努力を繰り返しているようだった。
私もまずセンス・オブ・ワンダーが何であるかを語ることから始めよう。あの強烈な体験なしには、一生をSFと関係して過ごすことにはならなかったはずだから。SFと遭遇することは、すなわちセンス・オブ・ワンダーを体験することである。センス・オブ・ワンダーこそがSFというジャンルを成立させる鍵なのだ。
異論はあるだろう。まっさきに思い当たるのは『SFの変容』(大橋洋一訳・国文社)のダルコ・スーヴィンである。彼は、「圧倒的迫力」だの「センス・オブ・ワンダー」だのを売り物にするのは「とるに足らぬSF」だといい、多くのSF批評で使われているこれらの「年老いたスローガンたち」は(「外挿(エクストラポレーション)」を含めて)一刻も早く「辺土(リンボ)へとお引きとり願いたいと切に望んでいる」と書く。しかし、この「黴のはえた陳腐なスローガン」に対する彼の理解は少し歪んでいるのではないか。直訳すれば「驚異の感覚」となるこの言葉が指し示すものは、スーヴィンが並列する「圧倒的迫力」と同じような内容ではない。すぐ後で説明するが、むしろ、彼がSFの存在理由とする「認識の異化効果」と似た意味合いを持つのである(「異化効果」とは文芸批評の用語で、ブレヒトによれば「その主題を理解させるが、それと同時に、その主題を見慣れぬものにする表現」。たとえば人間を「ヒョロヒョロと二本脚で立ち上がった不恰好な動物」などという言い表わし方を思えばいいだろう)。
ただ「センス・オブ・ワンダー」という言葉は、作品の質に関係なく存在するものではある。「とるに足りない」スペースオペラがそれを売りものにしているのを見た時、彼はこの言葉に反感を抱くようになったのかもしれない。あるいはSFジャンル内でのみ通用するこの言葉を意図的に排除する必要を感じたのかも……。だが、愚劣なスペースオペラもまたSFであり、そこにもそれなりの魅力があることは確かである。それも含めて「SFとは何か」を考察しようとするなら、やはりこの言葉は重要な手がかりとなる。
先程いったように、「センス・オブ・ワンダー」はSF界内部の言葉である。アメリカでは1940年代から使われていたらしい。それまでの小説では味わえなかった新しい醍醐味を表現するために新しい言葉が必要とされたのだ。他の言葉とは置き換えられない概念なのだ。
とりあえず、一般にはどういう説明がなされているかを見ておこう。ピーター・ニコルズの『SFエンサイクロペディア』に従えば「センス・オブ・ワンダー」とは「新しい展望の中に人類が位置付けられ、ものごとの枠組みが読者に把握される」ことによって生じるもの、ということになる。
別に異存はない。言葉を替えれば、個人のものの見方のパラダイム・シフト、あるいは、認知の新しい地平の獲得によってかきたてられる感動、あるいは興奮といってもいいかもしれない。これはつまり、スーヴィンのいう「認識の異化効果」ということにつながりはしないか。
私の目論見は、まず、このセンス・オブ・ワンダーの仕組みを詳しく検討し、それがなぜSFに特有のものであるかを明らかにしようというものである。そこにこそSFの「原理」がある。そして、SFの原理が明らかになれば、それと対照することによって、物語とは何か、芸術とは何か、科学とは何か、人間とは何か、といったさまざまな問題が浮き彫りにされてくるはずである(いや、ホント)。
センス・オブ・ワンダー とはある種の精神的体験である。とすればセンス・オブ・ワンダーを解明するためには、まず人間の精神活動の仕組みを知る必要がある。
まず最初は「わかる」という現象から出発したい。
人がものごとをわかる、とはどういうことなのか?
あることをわかり、あることをわからないという、その違いはどこにあるのか?
たとえば私は特殊相対性理論から導かれる時間と空間の伸び縮みを知っている。しどろもどろになりながらも、何とかそれを説明することだってできるかもしれない。
「光の速度は一定だから、走っている電車の真ん中でマッチをすると、その光が電車の先端に到達するのには……」
などとやっていって、正しい結論にたどりつけたとする。しかし、それでもわかってはいないのだ。知識として知ってはいても、実感としてわかってはいない。
だが、まったく同じ知識を持ち、同じ説明をするとしても、わかっている人はいるのである(いるよね?)。
頭のちがいといってしまえばそれまでだが、何がどうちがうのか。「わかる」「わからない」を考えていると、それこそ何だかわからなくなって、しまいには、それは気分の問題じゃないかといいたくなってしまう。
余談になるが、マンガ家の西原理恵子さんは、走っている電車の中で飛び上がった時、またもとの床の上に落ちるということが「わからない」。そこで東大教育学部の佐伯胖教授のところへ聞きに行ったのである(『怒涛の虫』毎日新聞社)。
認知心理学者の佐伯先生は何といったか。
「これはねー、西原さん、わかんなくて当然なの」
と、いったのである。
人類の歴史は何千年、何万年とあるが、およそ400 年前にガリレオ・ガリレイが慣性の法則を発見するまで、アリストテレスだって誰だってそんなことはわからなかったのだから、と。
「わかる」というのは、ことほどさように大変なことなのだ。
小さな子供が何かを「わかる」場合を考えてみよう。
公園で出会った毛むくじゃらの動くものを見つけて、子供は親に聞く。
「あれ、なあに?」
「ワンワンよ」
「ワンワン?」
「そう、ワンワン」
驚くべきことに、これぐらいのことで子供は「ワンワン」というものが「わかる」のである。ネコともウサギとも三輪車とも違うワンワンというものがこの世に存在していることを知った子供は、他の犬を見た時、親に告げるだろう。
「ワンワン!」
「そうね、ワンワンね」
親は答える。
こうして子供の知識は確固たるものとなってゆく。
まったく同じ犬ではなくて、かなり外見が異なっていたりしても、それをワンワンと判定することができる。人間の能力はたいしたものである。
もっともワンワンの特徴を奇妙なところに見いだして、常識を逸脱してしまう場合もないではない。次は最近の新聞で見た、そんな例である。
◇ 1歳半の娘と電車に乗った時のこと。娘は突然「ワンワン」と大喜びで叫んでいます。犬なんて乗ってないのにおかしいなと思い、ふと前を見ると江口洋介みたいな髪の長いお兄さんが座っていました。娘は「ワンワン」を連発するので、そのお兄さんは自分のことだと気付き、照れくさそうに隣の車両へ行ってしまいました。(東京都練馬区Nさん 29歳) 毎日新聞95年1月15日・日曜版おそらくこの子は、アフガンハウンドのような毛足の長い犬を見て、ワンワンとは「毛が顔のあたりまで長く垂れ下っているもの」だということが「わかって」しまったのだろう。
子供を持つ者なら覚えのあることだが、幼い時のこうした思い込みはすぐには直らない。時間が経ち、他の特徴に目がゆくようになるか、さらには「ワンワン」という言葉の使用をやめて「イヌ」と言いだすまで続いたりする。
もし、子供が自分のユニークな理解を修正する機会を持たないまま歳をとったらどうなるだろう。あるいは、特定の集団がそうした理解を共有していたら……。
私の郷里の高知県に寺川という土地がある。吉野川上流の山深い地で、昔は急峻な山道を登り下りしてやっとたどり着けるところだった。そこで見聞された逸話が残されている。
村に初めて牛がやって来た時のことである。それまでその土地に馬はいたが、牛はいなかった。難所を通る時は綱で縛り、何人もの人が担いで、やっと牛を運びこんだ。その牛を一人の老婆が見て、
「この馬は角がある」
と驚いた。
「いやこれは牛というものだ」
と教えると、彼女は、
「牛にしても角がある」
といったという(宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫)。
彼女は馬の特徴を牛のそれと比較する機会がまったくないまま歳をとり、その種の動物のイメージが固定してしまっていたのである。だから、角が生えているのを「わかる」ことができなかった。彼女にとっては角のある馬などというものは、一角獣と同じような幻の存在だったにちがいない。
「わかる」ということをめぐるこうした例から、私たちはファンタジーの発生する瞬間を見ることができる。
服を来て電車に乗っている「犬」。
角の生えた「馬」。
常軌を逸するこうした存在が当たり前の顔をして登場するのがファンタジーである。現実から逸脱したものの存在を目のあたりにした時の驚きを 電車に「ワンワン」がいると告げられた母親や、角の生えた「馬」をみた老婆のそれを 物語の中で生じさせようとするのがファンタジーの基本なのだ。
鬼や幽霊や妖精の存在を当然のこととしていた人たちの場合はどうなるのか、という疑問があるかもしれない。そうした人たちは物語に鬼や妖精が登場しても必ずしも驚いたりしないのではないか、と。
そのとおりである。その人たちにとって、そうした物語はファンタジーではないのだ。一歳半の女の子にとって、電車の中にワンワンがいて不思議でないのと同じである。彼女の認識している世界では、どんなことでも起こりうる。まだしっかりとした世界の枠組みが出来ておらず、新しい事実に直面するたびに世界は広がりと精密さを増してゆく。そうした新事実との直面は驚きを伴うものだろうが、ファンタジーと呼べるものでは決してない。
ファンタジーは現実に関する一定の知識の体系がある時に、そこから逸脱するものとして登場する。知識の体系そのものが異なる時、あるいはまだ知識の体系が作られていない時、ファンタジーは存在しないのである。
「ファンタジー」という言葉の起源はギリシア語のphantasia にさかのぼる。「出現」とか「見えるもの、見えること」といった意味である。怪奇現象の生起や幽霊の出現を指していたらしい。だが、この言葉が文学のある一定のジャンルをも意味するようになるのは19世紀前半になってからである(ジャン= リュック・スタインメッツ『幻想文学』白水社文庫クセジュ)。人類は近代市民社会が形成されるまで、怪奇や幽霊を「あり得ない」物語として楽しむことができなかったのだ。このあたりの事情についてはまた後で詳しく述べる。
SFはファンタジーと類縁関係を持つ。現実にはありえないものや事柄を扱うという点では、ファンタジーに含まれるといっていいだろう。だが、一般的なファンタジーとは一線を画していると考えるべきである。ほかのあらゆるものごとと同様、その境界線はクローズアップすればするほど曖昧になってくる。それは確かだが、しかしファンタジーとSFを区別する特徴は存在する。それがセンス・オブ・ワンダーである。
ファンタジーの驚きとセンス・オブ・ワンダーとの違いはどこにあるのか。
電車で「ワンワン」を見た幼女の母親と、初めて牛をみた老婆について、もう少し考えてみよう。
母親は娘の言葉に、一瞬、驚く。車内のどこにも犬がいないことを知っているからだ。いないはずの犬の姿を探した後で、彼女は娘が勘違いをしていることを悟り、納得する。幻の犬は彼女の知識に何の変更を加えることもなく、笑い話となる。
だが、牛を見た老婆の場合は事情が違う。
といっても、牛を現実に見るまでは似たようなものである。彼女の知識体系の中に「角のある馬」もしくは類似の動物は組み込まれていなかった。馬にしろ何にしろ、そうしたものに角が生えているのは論外だったのだ。その時点で、たんなる話として「角のある馬」のことを聞いたなら、彼女はいぶかしがったり、面白がったりしたにちがいない。そこまでは、ファンタジーなのだ。彼女の知識の体系の中に組み込む必要のない、その場かぎりの根無し草のような知識。しかしそれが実際に存在すると知った時、事態は根本的に変化する。
予想外の事実に直面した彼女は、現実に関する知識体系そのものを修正しなければならない。角のある巨大な家畜が存在する この知識を受け入れた彼女の現実観は、それがなかった時と比べて(さほど大きなものではないかもしれないが)確実に変化しているにちがいない。馬や牛のような動物を漠然と思い浮かべる時、以前なら角のあるなしを気にする必要はなかったのが、これからはその頭に角があるのかないのか、考える必要が出てくるだろう。
そういう意味で「角のある馬」を見た老婆の驚きはSFの持つセンス・オブ・ワンダーに近いものとなる。センス・オブ・ワンダーは知識体系の(擬似的な)改変をもたらそうとするのだから。
「擬似的な」と留保をつけたのは、もちろん、SFが実際にありうる未来の(あるいは、過去や他の惑星の)事態を描いているわけではないからである。あくまで作品の中でのみの出来事であり、効果としては現実体験の類似品に過ぎない(しかし、類似品と本物の違いはどこにあるのだろう? 心的体験として現われるそれらに、果たして明確な区別をつけることができるだろうか。加工された情報に取り囲まれた現代においては、この問いはなおさら切実なものである)。
SFが提供するいくつもの架空の世界を楽しむこと。つまり、現実との違いを認識してセンス・オブ・ワンダー≠感じるためには、それなりの知的能力が必要である。コリン・ウィルスンの言葉を思い出してみよう。彼は、センス・オブ・ワンダーとは「化学実験を見守っている11歳の少年が感じるのと同じ種類の驚異の念」だと言った。ここで「11歳」と、年齢が指定されていることが重要である。SFの「黄金時代」に関する論議の中で「それは12〜3 歳の頃さ」という名答がなされたこととも関連している。SF読者たちのほとんどは、その年代になってSFと出会い、熱中するのである。私も例外ではなかった。
もうひとつ、SFと直接関係はないが、年齢と体験が密接に関連している例を挙げよう。アインシュタインは自伝で、彼の人生に大きな影響を与えた2つの出来事が子供時代にあったと述べている。ひとつは、4〜5歳の頃、羅針盤を初めて見たことである。どんなに動かしても磁針が同じ方向を指すのを見て、彼は目に見えない未知の世界があることを知って驚異を感じたという。2つめは、ユークリッド幾何学の本を手にしたことである。様々な命題が厳密に証明されてゆくのを見て、彼は宇宙に美しい秩序が存在することを確信した。そして、教会に通うことを止め、宗教とは縁を切った。この時、アインシュタインは12歳だった。
知能の発達を研究したジャン・ピアジェによれば、人間の知能の発達が最終段階に入るのは、11〜2 歳の頃だという。人間に特有の知的活動を担う脳の前頭葉において神経回路が完成するのは10歳前後らしい。このふたつの事実は密接な関係を持っているはずである。そして、センス・オブ・ワンダーやSFの黄金時代もまた。
〈SFマガジン〉1995年5月号掲載