西邑画廊 Nishimura Gallery                   03-3278-1420 本文へジャンプ
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小堀 鞆音 (こほり ともと)



小堀鞆音 掛軸
「義家朝巨勿来関歌意図」 共箱・絹本
123.8×40.6

 
*在庫ございます(H23.11.16現在)

当社は地元作家ということもあり(本店は宇都宮)約30年前から小堀鞆音作品

を取り扱い、作品蒐集しています。 武者絵と言うと鞆音と前田青邨が有名ですが、

青邨がデフォルメした武者絵を描くのに対 し、鞆音は自分自身が甲冑を着、

また弟子たちにも着せ、リアリティのある作品を描 いています。

作品を収集していく中で大学で日本文学の教授をしていらっしゃる鞆音のお孫さ ん

に当たる桂一郎さんとお会いし、以来作品を見ていただき細かな歴史検証をして

いただいております。鞆音は歴史画を多く描いていたので、1点1点の作品の中に

ストーリーがありま す。

歴史的な題材の作品を紐解いていくのはかなりの労力が必要です。

それをいろいろな資料を元に検証してくださり、それを伺う時は、実際には会った

ことのない小堀鞆音ですが、作品を描いた背景や思いなどが伝わり技術

だけ ではなく作品の奥深さに感銘をうけます。

日本古来の歴史画を今一度再認識して欲しいと思います。     (当社社長談)



元治元年
(1864)  
下野国阿蘇郡小中村(栃木県佐野市小中村)の農家、須藤惣兵衛と
美奈の三男として生まれる。(本名、桂三郎)
父の惣兵衛は農業の傍ら‘晏齋’の雅号で絵筆に親しみ武者絵等を描く
長兄の勝三は‘桂雲’と号し、南画系の山水画を描く。
明治11年 父や長兄から絵の手ほどきを受ける。
この頃から“琢舟”の雅号が用いられたと思われる。
明治14年 慶応義塾を目指す同窓三人と謀り無断で家を出、東京へ出る。
桂三郎を除く三人はすぐに家人によって連れ戻されるが、桂三郎
一人数ヶ月東京に留まって画家を訪ね歩く。
生家から父の病の報を受け帰郷する。
明治16年 兵役を免れる為に父惣三郎が配慮し、生家近くで廃屋となっていた
小堀家を養子として相続する。この頃から雅号を“雨舟”と改める。
明治17年 第二回内国絵画共進会に出品しこれを機に、本格的な絵画修行
のため上京し、川崎千虎の門に入る。
明治22年 東京美術協会青年絵画共進会に出品し、一等褒状を受ける。
この頃から雅号を“鞆音”と改める。
明治25年 岡倉覚三、橋本雅邦らを指導者とする日本青年絵画協会
の創立に参加する。
明治30年 東京美術学校助教授に任じられる。
明治31年 鞆音門下の安田靫彦、磯田長秋らが紫紅会を設立。
東京美術学校騒動によって校長岡倉覚三が解任され、この処置に
反対する教授助教授三十四名が辞職声明書を提出し、鞆音も同校を
去る。岡倉覚三や橋本雅邦を中心として日本美術院が開設され
鞆音は二十六名の正員に加えられる。
明治41年  東京美術学校教授に任命される。 
明治45年  鞆音門下の有志が集まって「鞆」の字から「革丙会」を組織し
以後展覧会を開催し、鞆音自身も出品する。 
大正 6年  宮内省より帝室技芸院に任命される。 
大正 8年  文部省美術審査委員会に代わり、勅令によって帝国美術院が
創設され会員に任命される。 
昭和 6年 死去 享年68歳