西邑画廊 Nishimura Gallery                   03-3278-1420 本文へジャンプ
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田崎 草雲 (たざき そううん)


                          

                         田崎草雲 掛軸 「白華朱楼図」 
                           本紙寸法 148.5cm×58.2cm
                                翠雲箱 紙本
                                  
  
19世紀、近代の夜明けとして時代の歯車が大きく動きはじめた激動の時期、勤王・佐幕両論が飛びかう

下野の地に勤王画家田崎草雲がいました。

草雲は江戸神田の足利藩戸田家の足軽長屋に下級武士の子として生まれ、幼い頃から金井烏州

、加藤梅翁、春木南溟らについて絵を学んで、のちに戸田家の絵師となりました。

「あばれ梅渓」と呼ばれたように、豪傑肌のその気性は評判で、また勤王の志厚く、民兵誠心隊を

組織するなど自らも志士として奔走しました。

維新の後、草雲は足利に隠棲して画業に専念し、絵画三昧の生活を送りましたが、その実力は高く評価

されていました。

内国絵画共進会で連続して銀印賞を拝領したり、海外での万国博覧会で名誉賞を受けたり、

帝室技芸員のひとりに選ばれたりと、明治前半期の日本画界に輝かしい足跡を刻んでいます。

 
                         (1979年 栃木県立美術館・足利市主宰 田崎草雲展図録より)

文化12年
(1815)  
江戸神田小川町足利藩邸に生まれる
文政12年
(1829)
川アの隠士加藤梅翁に師事し、和歌、俳句、易及四条派の画を学ぶ
天保 3年
(1832)
画家人名録に軍鶏図を載せ「田崎梅渓花鳥画家風流才子」といわれる
この頃字を草雲と改める
天保 6年
(1835)
再び加藤梅翁に師事、初めて谷文晁の門を叩く、後に春木南溟に師事。
研鑽怠ることなく再び文晁の門を訪れ束修を納る
天保 7年
(1836)
渡辺崋山に私淑しその画法を学ぶ
弘化 4年
(1847)
この頃「海外新話」に挿図を描く
嘉永 2年
(1849)
河野守弘の「下野国誌」に挿図を描く
嘉永 6年
(1851)
12月戸田家に絵師として仕える
安政元年
(1854)
梅渓の号をやめ草雲を画号とする「東蝦夷夜話」「石狩石誌」の
挿画を描く。舜花帖「三都一朝」出版される
文久元年
(1862) 
 居を足利に移す
文久 3年
(1863)
藩校設立を藩主に建白する、採択され一子格太郎学問所御用係となる 
慶応元年
(1865) 
 2月誠心隊を組織しその総司令となる
明治元年
(1867)
司令を辞し再び画道に専心する 
明治10年
(1877)
第1回内国勧業博覧会に「富嶽六景」を出陳する 
皇居の常御殿・御小襖に「雪中墨竹画」を謹写
明治12年
(1879)
 パリ万国美術大博覧会に「三寿」他を出品名誉賞牌を受ける
明治15年
(1882) 
第1回内国絵画共進会に「春山暁靄」等を出陳し銀印「特宜」を受ける 
明治17年
(1884) 
第2回内国絵画共進会に「十指春風」等を出陳し銀印「蒼古」を受ける 
明治19年
(1886)  
第1回東洋絵画共進会に「雪村狐村」を出陳し銀印「逸」を受ける 
明治22年
(1889)  
フランスパリ第4回万国大博覧会に「山水花鳥」を出陳 名誉賞を受ける 
明治23年
(1890)  
帝室技芸員推挙され辞退するも許されず拝命する 
 明治24年
(1891) 
日本美術協会第1回美術博覧会に「白石山房即目」を出陳銀牌を受ける 
 明治26年
(1893)
アメリカシカゴ世界大博覧会に「富嶽晴色」を出陳
名誉大賞牌を受ける 
 明治31年
(1898)
9月1日歿 享年84歳