
田中一村 掛軸 「春蘭」
本紙寸法 140.3×34.7
巻留めにサイン有
*在庫ございます(H23.11.18現在)
| 明治41年 |
栃木県下都賀郡栃木町に生まれる。(本名:田中孝)
彫刻家であった父は孝の画才を見抜き“米邨”と画号を与える |
| 大正元年 |
東京市麹町に移る。 |
| 大正10年 |
芝中学校に入学。南画の制作、研究を行う。 |
| 大正12年 |
関東大震災で家を焼き、南画家小室翠雲の家に一時身を寄せる。 |
| 大正14年 |
全国美術家名鑑(大正15年度版)に“田中米邨”の名が載る。 |
| 大正15年 |
東京美術学校(現在の芸大)日本画科に入学するも、3ヶ月で退学する。
(同期生19人の中には加藤栄三、橋本明治、東山魁夷らがいた)
第1回新興文人画展覧会の「現代名士書画」に“田中米邨”の名が
載る。 |
| 昭和 6年 |
将来進むべき画風の作品を発表するが賛同者を得られず当時の
支持者全てと絶縁する。 |
| 昭和22年 |
画号を田中米邨から“柳一村”に改める。第19回青龍展に「白い花」
を出品し入選する。 |
| 昭和23年 |
第20回青龍展に「秋晴れ」「波」の2点出品し、「波」が入選する。
自信作であった「秋晴れ」が落選したことに納得できず「波」の入選を
辞退する。 |
| 昭和30年 |
四国、九州を旅し、南国の自然に魅了される。 |
| 昭和33年 |
千葉市のアトリエを売り払い、奄美大島に移り住む。
絵画制作のかたわら、生計を立てるために染色工として働く。
妥協を捨てて自身の良心を納得させる「本道と信ずる絵」のみを描き
続ける。 |
| 昭和52年 |
心不全で倒れ、69歳の生涯を終える。 |
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