西邑画廊 Nishimura Gallery                   03-3278-1420 本文へジャンプ
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清水 比庵 (しみず ひあん)

明治16年   岡山県上房郡高梁町弓之町(現高梁市)に生まれる。
明治26年 高梁小学校入学。毛筆画を東京美術学校出身の日本画家小倉魚禾
に学ぶ。
明治30年 高梁中学校入学。
国語教師の三矢重松(後に国学院教授)に短歌の指導を受ける。
明治38年 京都帝国大学入学
明治41年 京都帝国大学法律科を卒業し、司法官となる。
明治43年 判事に任官するが辞退し、東京に移り安田銀行に入行する。
大正 6年 安田銀行を退き、古河銀行に入る。
昭和 2年 古河電気工業に株式会社に入る。
昭和 3年 栃木県日光町(現日光市)の古河電気工業日光電気精銅所へ
経理課長として単身赴任する。
処女歌集『夕暮』を‘清水ヒ舟’の名で刊行。
日光町で「二荒短歌会」を主催。
昭和 4年   短歌誌『二荒』を創刊し、主宰する。
日光電気精銅所を退職し、横浜の自宅に帰る。
昭和 5年  日光町より懇望されて町長に就任し、日光山内唯心院に独居する。
以後、日光の観光開発の基礎を築く。 
昭和 7年   小杉放菴の知己を得、『二荒』の表紙を毎号放菴の絵が飾る。 
昭和10年  萩原朔太郎、岡本一平・かの子夫妻、中河興一・幹子夫妻らの歌人、
文人を中禅寺湖に招いて「慈悲心鳥を聴く会」を主催する。
雅号を改め‘比庵’とする。 
昭和14年 日光町長を辞し、千葉県市川市に移る。『二荒』は友誌『下野短歌』と
合併し、誌名を『下野短歌』とする。 
昭和17年  川合玉堂の賛助を得て、弟三渓(本名:浩、実業家)と 「野水会」を
創設し玉堂が亡くなる32年まで三越、高島屋、松屋などで開催。 
昭和28年  岡山天満屋で郷里での初個展
(以後岡山、東京を中心に没年まで開催) 
昭和33年   小杉放菴と共に日光市名誉市民に推挙される。 
昭和34年    日光公会堂前に最初の歌碑が建立される
(のちに日光山内二荒山神社境内に移す) 
昭和37年   奥村土牛、小倉遊亀、酒井三良の賛助を得て、清水三渓と「有山会」
を創立し、以後展覧会を開催。 
昭和43年  歌誌『下野短歌』は全国的な発展に伴い『窓日』と改めその主宰となる。 
昭和50年   死去 享年92歳