「ある一つの『神を畏れる』こと」 (箴言1:7a) 


ある一つの『神を畏れる』こと                       2007年4月12、19日

  4月7日付けの『朝日新聞』に興味深い記事が載っていました。「江戸期の殉教188人『福者』に」という記事です。江戸時代初期にキリシタン弾圧で処刑された日本人188人が、ローマ・カトリック教会の法王庁から「福者」の誉れを受けるという内容です。「福者(ふくしゃ)」とは、カトリック教会で、「聖人」に次いで崇敬される、とりわけ高い徳と信仰を認められた司祭や修道者、信徒に与えられる称号のことです。これら188人の中には、天正遣欧使節の一人ジュリアン中浦や、一旦マカオに国外追放になった後、ヨーロッパまで旅し、そこで司祭となって苦労の末、秘密裏に帰国、布教活動を行うも、後に自ら出頭して殉教したペトロ岐部などが含まれています。

 . 皆さんもご存知のように、日本にキリスト教が伝えられたのは1549年。フランシスコ・ザビエルによってです。それ以降、キリスト教は織田信長の理解などもあって、目覚しい成長を示しましたが、ヨーロッパ列強の影響やキリスト教の平等主義的な教えを恐れた豊臣秀吉や徳川幕府によってキリシタンは「禁制」となり、厳しく弾圧されました。秀吉の命令による最初の処刑(殉教)が長崎で行われたのは1597年のことで、これは「日本26聖人」として有名ですね。この最初の殉教者の中には、5人の尾張人が含まれていることをご存知でしょうか?(コスメ竹屋、 パウロ茨木、ルドビコ茨木(12歳)、レオ烏丸、パウロ鈴木) 実は、織田信長の領地であった岐阜県、愛知県は当時、九州に次いでキリスト教徒が多く住んでいた地域でした。しかし、1661年に起きた「濃尾くずれ」によって、尾張、美濃のキリシタンの多くが捉えられ、次々と処刑されていきました。大学に比較的近いところで言えば、笠松では数十人が磔の刑になり、その処刑場跡は「大臼塚」として知られています。あるHPによれば、尾張では約3000人が殉教したと言われています。
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi4.html

 . 私の自宅から6,7分歩いた所に、「恵心庵」という祠があります。中高年眼(決して「老眼」ではないことに注意!)によるメガネの処方のために訪れる眼科の近くです。ここに写真がありますので、ごらんいただきましょう。

恵心庵を通りから見る 恵心庵の由来を記した看板 恵心庵の本堂

 江戸時代の尾張、丹羽郡では、キリシタン禁制にもかかわらず、キリスト教の布教がなされ、私の住む扶桑町にキリスト教が伝えられたのは、寛永年間(
16241643年)のはじめと言われています。(『扶桑町史 上』1998年、322ページ) 一宮から高木村に布教されたのです。このキリシタンたちに弾圧の嵐が吹き荒れます。先ほど触れた濃尾のキリシタン取り締まりは犬山・扶桑・江南と波及し、わが扶桑町では1661年(寛文元年)から1665年(同5年)までに82名が検挙され、名古屋まで連行され処刑されました。この中には20人の女性、6人の子どもが含まれています。

 この「恵心庵」は、こうした殉教者たちが埋葬されていた場所と考えられ、実際、1950年の発掘調査では、多くの斬殺された白骨が出てきたと言われています。この遺骨はカトリック教会の神父さまの司式の下、ミサの後、再び埋葬されました。別の資料では、ここに埋葬されているのは、1699年(元禄12年)に処刑されたキリシタンであるとされていますので、もしそちらの方が正しければ、徹底的な弾圧にもかかわらず、キリスト教はかなり長い間信仰されていたこととなります。

 さて、「恵心庵」の「恵心」とは、一人の尼僧の名前です。この地には、埋葬されたキリシタンの冥福を祈るために石仏地蔵を地元住民が立てていたのですが、そこに恵心が寺を興して住み、「創建恵心庵」と称したとされています。この方が女性の僧侶であったことを強調しておきたいと思います。恵心が亡くなった後は、長い間放置されていましたが、1843年(天保14年)に仮小屋が建てられ、1877年(明治10年)には草庵が復興し、新たに弘法大師も祀られるようになりました。現在の「庵」は1952年(昭和27年)に建てられたものです。現在、扶桑町指定文化財。

 . この「恵心庵」の存在を教えてくれたのは妻でした。扶桑町に越してきてほどなくして、散策を好む彼女が見つけ自分たちが住む町に遠いキリシタン弾圧時代にキリスト教徒がかなりたくさん住んでおり、その多くが殉教の死を遂げたことを記念しなければならない、と話してくれたのです。ときおり訪れては、これら殉教者を覚えて祈りをささげようと思っています。しかし、何よりも感謝したいのは、300年以上にわたって、尼僧・恵心をはじめとする地元の方々がここに庵を建て、殉教者たちを懇ろに弔い、記念してくださったことです。これらの人々はカトリック教徒ではありませんでしたが、彼女たちがいなければ、「福者」と並びうる殉教者のことは忘れ去られていたことでしょう。たとえ宗教が違っても、こうした方々の霊性は神さまのお喜びになるところのものだと信じるものです。扶桑町立図書館にある資料には、この「祠」でカトリックの司祭さまがミサを行っている写真が載っています。カトリックの殉教者が埋葬されている地に、仏教僧侶が庵を立て、仏教徒たちが長年、冥福を祈ってきたところで、カトリックの神父方がミサをあげ、そして今、プロテスタントのキリスト教徒である私がその歴史をよきこととして記念しているわけです。

 . 私たちの大学はキリスト教主義学校ですが、様々な宗教的背景を持った方々が学び、教え、働いています。そうした一人ひとりが、恵心庵を大切にしてきた方々がしてきたように、それぞれの良いこころと良いものを持ち寄ることが「神を畏れる」精神につながると思います。恵心庵を訪れるうちに、そのような考えへと導かれました。

参考資料:扶桑町教育委員会編『扶桑町史 上』1998年、千田金作『尾張扶桑 切支丹資料』1987年、『ふそう議会だより』(200731日)


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