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 母  の  介  護  記  録 

明治43年12月16日生  左股関節全廃  視力0(視野はありますので、光はわかります。) 
左白内障手術 (眼内レンズ) 平成2年2月脳梗塞で左片麻痺 
平成10年10月急性胆のう炎以来入院生活
平成13年4月10日転院  同 8月29日91歳で没

2002.2.5


母が、使っていた介護グッズをUPしました。いつかは、整理しなければと思いつつ、今日になってしまいました。
ここから、ご覧下さい。

2001.8.29

朝9時過ぎに友達が、母の様子を電話で知らせてくれた。看護婦さんが、母のとこにいて「おばちゃんなあ。いつものように一人でしゃべったはったで。声は小さかったけどな。看護婦さんも落ち着いてますってゆうてはった。安心してええんと違う?昼は、用事があるから夕方また見に行くから。いつもの時間にくるやろ?」と言ってくれた。

水曜は、父の訪問看護だった。午後から用事で出かけて3時過ぎに帰って来た。留守電が入ってる!!
私は、悪い予感がして急いで再生すると、「○○病院です。お母さんの容態が 急変しました。先生のお話がありますから
すぐに来て下さい。」 同じ内容で2回留守電が入ってた。すぐ病院へ電話をした。看護婦さんが、「直ぐ来れますか?」私「直ぐ行きます」父に話して タクシーで病院に向かった。タクシーの中から主人に連絡をした。幸主人は、出かけてなくて 会社にいた。上司に
事情を話し、「すぐ行く」と行ってくれた。

病院に着くと 看護婦さんが、「1時過ぎに血圧が急に下がって」と言いかけると、すぐ先生が来られて「血圧が急に下がったので、昇圧剤を点滴してるが
思うように反応しない。内臓からも出血がある。昇圧剤は、反応がにぶいからと言って年齢のこともあっていくらでも使えない。
会わす方あったら今のうちに逢わせて下さい。これ以上になったら人工呼吸器に繋ぐことも考えましたが、お年のこともあり
効果がと思いますが、ご希望ですか?」と聞かれた。私は「それでまた治るのならお願いしたいですが、単に延命だけならもういいです」
と言った。先生も「僕もそう思います。お母さんの持っておられる力で自然のままで行かせていただきます。もうすぐか 夕方か 夜か 明日か」とおしゃった。
私は、「母は、危篤ってことですか?」と聞くと、先生は、「そうです」とおっしゃった。先生は、言葉を選んで 丁寧に説明され これから
の方針を話された。はっきり覚えてない部分もあると思う。
先生の話の後 すぐ母の部屋へ。
母は、酸素吸入をされ、点滴が2本ぶら下がって 心臓のモニターを付けられ 血圧計が腕に巻いたままだった。昨夜挿入した鼻のチューブから、大量の出血があり ぶら下がった袋に溜まっていた。おしっこはほとんど出ていなかった。
看護婦さんは、何回も血圧を計りにこられ 先生も何回もこられた。「血圧が66より上がらない」と先生と看護婦さんが話している。
別の看護婦さんが点滴に何かを注射器でいれている。私に「止血剤です。内臓から出血してるので」と説明してくれた。
「おしっこが、ほとんど出てないですね」と言うと「水分が口の方から出てるからネエ。」と言った。

母は、とても荒い呼吸をしていた。私は、「お母さん お母さん!!」と何回も呼んだ。母は、それには答えなかった。
しかし、時々「アア」と声を出した。看護婦さんに「意識ありますか?」と聞いた。看護婦さんは、首を振った。
でも、私は、母は判っているように思った。どのくらいたったか覚えていないが、主人が来てくれた。
私は、先生の言われた事を話した。主人も母を見て 様子を理解した。
主人が、来てくれたので、私は、父の夕食の準備やらで家に帰って また引き返すことにした。また、タクシーで帰った。
父に急いで事情を説明し 夕食を出来次第食べて欲しいこと 今夜は病院へ泊まるかもしれないこと 主人と交替することを
話した。そして10年母の世話をしてくれた家政婦のMさんに電話で連絡した。彼女は、「今からすぐ病院へ行きます」と言った。

父の準備が終わったので、また急いで病院へ引き返した。時間が6時半過ぎだったので、車が混んでいて、とても時間がかかった。
病院へ着いたら、午後7時過ぎだった。母は、同じ状態だった。Mさんはすでにきていた。友達もきてくれて 後でくる と言って帰ったそうだ。交替して主人が、家に帰った。Mさんと2人で母の横で話をした。
母は、大きく顎を口を閉じるように パクパクした。
7時20分頃だったと思う。息をしていないようだ。看護婦さんと介護員さんが、来られた。血圧が測定不能になっていること 心電図が緩やかな波になっていること
を言われ 臨終が近いと言われた。先生が来られ モニターを持って来て 皆で見つめていた。すると 3本線の真中だけ 波波と
振れていた。上下は1本線だった。見てる間に心臓の波形が、グチャグチャになり、すぐ1本線になってピーと音が鳴った。

先生は、懐中電灯で母の目にライトを当てて確認され、腕時計を見て「7時32分です」と言った。看護婦さんも「7時32分」と確認するかのように言った。そして、先生は母の瞼を丁寧に閉じられた。看護婦さんと先生は、頭を深く下げられた。

その瞬間 私は、妙に冷静だった。酸素のマスクをはずされると母は、眠っているようだった。急に悲しくなってきた。
看護婦さんが、「今から綺麗にさせていただきますので、あちらでお待ちくださいますか」と言った。私達は外で待つことにした。
すぐ、家に電話した。主人は、まだ帰っていないから、父が出た。私は、つとめて 冷静に母が亡くなったことを話した。父は「そうか」と
言った。次に友達に電話した。急に悲しくなった。友達は、びっくりして 「すぐ行く」と言って飛んできてくれた。

看護婦さんが、これからの手順を説明してくれた。私は、母の準備が出来次第つれて帰りたいと言った。準備が出来たら病院と提携している葬儀屋さんが家まで送ってくれること、無料だから気にしない事 葬儀は何処へ頼んでもいいから葬儀のことを聞かれたら断ったらいいことを話された。看護婦さんは、8時半に寝台自動車が迎えに来るからそれまでに荷物の整理をしておくようにと言った。母のものは、全部リースだったので、持って帰るものは、ほとんどなかった。Mさんが、先に家に帰って主人と母の受け入れ準備をしてくれることになった。私は、待ってる間にお寺さんに電話した。住職は、出かけておられたが、奥さんが連絡して くれた。
日ごろから何かあったら万事 お寺さんがして下さるとおっしゃっていたので、お任せした。
家に電話してそれらを主人に伝えた。主人は、母が今亡くなったことが、信じられないようだ。介護員さんが、「お母さんの着て帰る着物持って来てはりますか?」と聞いてくれた。
私は、まさか今日亡くなるとは思っていなかったので、何にも用意してなかった。
介護員さんは、「わかりました。病院のでいいですか?」と言われたので おまかせした。サラの寝間着を着せてくれた。

8時半に寝台自動車が迎えに来た。まだ、準備は出来ていなかった。看護婦さんが、準備が出来るまで下で待ってて 下さいと言った。
準備が出来たと介護員さんが言ってくれたので、母のとこへいった。母は、綺麗にお化粧をして貰って眠っているようだった。
あんなに痩せていたのにそんな風には、見えなかった。フリルのゴムで顔の周りを固定され、手もフリルのゴムで組んでもらっていた。

ストレッチャ−が迎えに来てくれた。母は、白い布に包まれてストレッチャ−に載せてもらった。
寝台自動車には、1人しか付き添えないので、友達には、帰ってもらうことにした。友達は、自動車が出るまで見送ってくれた。
看護婦さん 介護員さん 事務の男の方が見送ってくれた。こうして母は、転院してから4ヶ月と19日で家に帰ることになった。

寝台自動車が、発車してから、主人に病院を、出るとき、電話してと言われていた事を思い出して、自動車の中から電話した。
主人は、葬儀屋さんがきて 準備してくれたと言った。それと親しくしているお向かいには、知らせたと言った。

4月10日にあんなにこだわった救急車で、同じ道を来たのに、今は、寝台自動車で死体になって来た道を帰っている。
大きい道路から、家の前に曲がったら葬儀屋さんの車が見えた。
母の寝台自動車が家についたら、ご近所の方が皆出て、母を迎えてくれた。母は、とうとう帰ってきた。

母は退院した時にと 用意していた電動ベッドに寝かされた。近所の方々に挨拶をしていると 電話が鳴った。
母さんからだった。母さんは、別の用事で電話してくれたのだが、私は、マスターDがしてくれたかきこみを 見られたのかと思った。

急に悲しくなって思わず 母さんと絶句して泣いてしまった。母さんはびっくりされて 見てへんけど・・とおっしゃりながら事情を察しられた。母さんをびっくりさせてしまった。

お寺さんに電話した後 枕づとめまでに 父を早く母に逢わせてやりたかった。「お父さん、お母さんに早く逢い!」と私は、父の手を
引いて母の枕もとへ行った。そして 顔を覆っていた白い布を取って、父の手を母の顔に導いた。父は、「お母ちゃん よう帰ってきたなあ。頑張ったなあ」と涙声で母の額をさすっていた。

こうして、母は、2年ぶりで家に帰ってきた。無言の帰宅って言うのだろう。                                                                    



2001.8.28

今日母の病院から電話が、かかってきた。「○○病院3階詰め所ですけど」私は、一瞬ドキッとした。看護婦さんは、
「先生が、お母さんのことでお話がありますから、今日いつもの時間に来られますか?」時計を見たら 3時25分。
「今からすぐ行きます。4時頃になります。」看護婦さんは、「お待ちしてます」と言われた。
父には、電話があったことは、言わずに母のとこへ行ってくると いつもの牛乳プリンを持って出かけた。
なんの話やろう。今の母の状態では、いい話ではないことは確かだ。

いつもの道をあれこれ考えながら すっ飛ばして行った。詰め所では、皆さん待って下さってたようで、先生もおられて早速
中へ。先生は、「今の母の状態は、もう口から食べることは、とても困難で 1日に必要な1200カロリーの半分も取れていない。
それで高カロリー食をチューブで落とす方法が望ましい。点滴だけだと高齢で血管や心臓に負担がかかり過ぎて 心不全を
おこす。管に繋ぐのをみるのは辛いと思うが、今しないと もっと状態が悪くなってからでは、遅い。チューブ挿入には、家族の
同意が必要である」と話された。
私は、覚悟していた。確かにチューブ挿入されている母を見るのは、辛いが、今の状態では、
食べない 飲み込めない 誤えんするとしたら受け入れるしかない。何もしないで飲まず食わずでただ寝ているだけだったら
野垂れ死にと同じだ。そのことを先生に言った。ただ、母は、痴呆がひどいからチューブを抜くかもしれない。
先生は、「その時はまた考えましょう」とおっしゃった。その様子から母の状態は、迷っている場合ではないように感じた。

私が、お返事をするとすぐ看護婦さん達が、用意を始められた。すぐ、看護婦さんと一緒に母の部屋に行った。
びっくりした。母は、昨日の母とは、全然違って痩せて 顔の相が変わっていた。私は、思わず「お母さん!」と呼びかけたが
母は、口を動かしただけだった。先生が来られたので、「外で待っときます」と部屋の外へ。私は涙が止まらなくなって、
階段の踊り場で泣いてしまった。下から介護員さんが、上がって来られて 私を見てびっくりされ、慰めて下さった。

処置が終わったからと呼びに来て下さった。母は、抵抗することもなく、ただ寝ていた。高カロリー食は、鼻からチューブで点滴の
ように落ちていた。ふと母に触ると熱い!!熱がある。看護婦さんに計ってもらった。39.6度。また熱が出てしまった。


その頃もう夕食の時間で、いつもご一緒する家族の方が次々来られ、皆さん心配したり びっくりしたりされて色々言って下さる。

今の病院へ転院してから、もうすぐ5ヶ月になる。毎日やよく来られる家族の方々とお知り合いになった。
皆さん家族のようにお互いのことを、心配し、慰めあったりする。
今日から母は、口から食べることは出来なくなった。先生は、又状態が良くなったら 口からも可能性は、あるかもしれない。
でも、母の状態ならきびしいものがある。今日の母の状態を見て、もう・・・・・。

点滴が、うまく入ったので、時間も6時前だったし、もう帰ろうとお部屋の方達に挨拶をして、出たら、友達が何か虫がしらしたからと
来てくれた。私は、真っ直ぐ帰ろうか 友達のとこへ寄ろうかと考えていたとこだった。
事情をちょっと話し、友達は母の顔を見に行ってくれた。そして 1階で先生の話を友達にした。友達も母の変わり様にびっくり
していた。今これを書きながら 母は、どうしているかなと思う。

母は、どうなるんだろう。こんなことになるなんて・・・。


こっちに書くね 投稿者:  投稿日: 8月29日(水)10時28分39秒

お母様、よく頑張ってるね。
きてぃちゃんも、よく頑張ってる。
本当は、オフ前後の様子を見ていて、きてぃちゃんは無理だろうと思ってた。
19日のところに書いてあるように、行かせて下さったんだよね。

管に繋がれたお母様を見るのは辛いだろうけど、
食べられないまま、痩せていくのを見るのも辛い。
この決断をする時が、私達介護者の一番つらい
そして、一番責任を持たなければならないときなんだと思うよ。
頑張っているお母様のためにも、きてぃちゃん、e(^。^)g_ファイト!!

2001.8.19

母は、熱が下がりました。検査の結果 尿路感染でした。カリウムが不足してるとかで、抗生剤のほかに追加になりました。痰は、相変わらずですが、肺炎では、ないそうです。

食欲も少しずつ出ています。口を開けてくれますので、牛乳等口当たりの良い物を食べさせています。

あんなに高い熱は、久しぶりでした。それに、状況判断がしっかりしていて、びっくりするやら
うれしいやらです。

母は、きっとオフ会に 私が、行けるようにと頑張ってくれているのでしょう。

一生懸命生きている母を見ていて、私が励まされています。


2001.8.17

母は、また熱を出しました。15日夕方行くとひどく熱い。看護婦さんが検温して下さると 39.6度
すぐに 3個所冷やす。ほとんど反応がなく、食事も口を開けようとしない。薬は、どうにか飲んだが、
飲み込もうとしないので、誤えんがこわいので、無理に食べささなかった。
看護婦さんも 「無理せんといてね」と言って下さった。
16日 いつものように 夕方行くと 看護婦さんが「朝熱下がりました。午後から37.4ど程あります」
と言って下さった。私が、触るとかなり熱い。夜勤の看護婦さんも 「大分ありそう」と計ったら
39.4度。また3箇所冷やした。どこの熱か、原因が、はっきりしないので、今日血液検査をされた。

心配なので、今日は、朝から病院へ行った。母は、熱が下がっていた。朝食は、全部食べて
昼食は、持っていった好物の牛乳プリンと卵豆腐を食べた。
今日は、はっきりしていて反応が普通でなんだか嬉しくて 安心した。
看護婦さんは、痰も増えてるし 肺炎が怖いから とおっしゃる。
今年は、特に暑く、いくら冷房を入れてるとはいっても、元気なものでも
過ごしにくい。病院でも、熱を出す方が多いようだ.
どうか、治ってくれますように。


2001.8.8

母は、油断は出来ませんが、いい方です。看護婦さんが「痰が減りました」と言って下さいました。
食事は、ムラがありますが、全く食べないと言うことは、ありません。口を開いてくれるようになっただけでも、うれしいです。母は、頑張っています。私は、母の頑張りを感じます。


2001.8.5

母は、本当に食べなくなりました。痰は、吸引してもらっています。母は、父に比べると、今までよく食べましたので、食事介助に余り苦労を感じませんでした。しかし、熱をだしてから急に食べなくなりました。
まず、口を開けません。やっと口にいれてもん飲み込もうとせずに、口に含んだままで ウーウーといい
つずけます。痩せて小さくなりました。毎日病院通いが辛いです。

ところが、4日久しぶりに昼食 夕食と全部食べる事ができました。お茶も300CC位飲みました。
私は、すっかり気をよくしています。


2001.7.19

母は、いい方です。まだ、全快では、ありませんが、痰 咳が大分マシになり、食欲も戻ってきました。
前からグラグラしていた右の前歯が、抜けました。ほとんど取れかかっていたので、看護婦さんが、引っ張ってくれました。血は、ほとんど出ませんでした。下の歯が抜けた所にあたると痛がります。
母は、はっきりしています。私のこともわかっているようです。「きてくれたん」とか「○○ちゃん」と私の名前を久しぶりに呼んでくれます。「前の歯が痛い」とはっきり言います。調子が良くなってきたのか、機嫌も良くなってきています。
ちょっとホットしています。



2001.7.13

母は、風邪を引きました。10日の夕方に行ったら、声がガラガラです。風邪引いたなと思いました。
熱は、なかったのですが、咳をして痰がゴロゴロ言っていました。
母は、比較的うまく痰を出すのですが、11日は、熱も高かったようで、吸引して貰っていました。看護婦さんが、「胸の音は、悪い音が全くないから。肺炎になったらいかんから様子見てます」といってくれました。他の病室の方も先週やはり風で 熱を出してる方がいたそうです。
今日12日は、昼食は 全く 夕食は、半分しか食べませんでした。熱は、すこしあります。痰が、気になります。良くなってくれたらいいのですが。心配です。


2001、7.4

母は、新しい環境に慣れたようです。熱も出さず 大きな声も出さず 変な時もありますが簡単な会話が出来ます。毎火曜日にお風呂に入れるようになりました。
食事もムラはありますが、パクパクと口を開いて食べます。
手は、硬くなってきています。行くたびにマッサージや屈伸をしてやるのですが、自分から動かす事が出来ないので 進むでしょう。これは、仕方のない事でしょうか。


2001.6.14

母は、またお風呂に入れるようになりました。骨折がありますのでエレベーター浴ですって。
なんだか想像できますね。

昨日は、久しぶりに機嫌が悪く夕食も吐き出して余り食べませんでした。それに喋ってばっかりでした。
今日は、おとなしいですが声がガラガラでした。夕食もパクパク食べません。また食事にムラがあります。暑さに向ってちょっと心配ですが、様子を見ないとしょうがないかなと思います。


2001.6.1
母は、2・3日前から熱が上がったり下がったりしておりました。尿路感染の熱だそうです。
以前おしめの当て始めになって以来です。
水分をたくさん取らすようにとのことですので、お茶にトロミをつけて飲ませました。200CCは、飲めたと思います。お茶だけだとむせて怖いので、必ずトロミが必要です。
此の頃はっきりしているので、簡単な会話が出来ます。わたしも母がわかっているので、会話が楽しみです。



2001.5.21

 母は、痛み止めの薬が効いているのか、余り痛がっておりません。今日は大便がたくさん出てスットしたのか、汗を一杯かきながらスースーと寝ていました。此の頃食事をパクパク食べなくなりました。
味がわかっているのか、イやと思ったら吐き出してしまいます。なだめたりすかしたりと色々の手を使っても食べません。一昨日は薬も飲まなかったそうです。確かにムラはありますが、量は減っているように思います。


2001.5.16

母は、落ち着いて過ごしております。しかし、右大たい骨に骨折のあることがわかりました。この2年余寝たきりですので、聞いた時はエエ・・・・・!!と思いました。婦長さんの説明があり、今夜整形の先生の診察と説明がありました。レントゲン写真を見ながら、右膝関節は炎症だけでなく、骨折もあり写真には写っていないけど、溜まった水に血液と骨髄液が混じっていたそうです。大たい骨の骨折は、いつ出来たものか、確定出来ないそうです。母の骨は、細くスカスカでその状態を写真で見ることが出来ました。私は最初写真の写りが悪いのかなと思いましたが、母の骨が悪くなっているのです。先生は、母はこの状態ですし 積極的な治療はせずに痛みを軽減する方法を取る方向で進められるそうです。

私は、少しでも平穏で痛みがなく毎日が、過ごせたらと思っておりますので、その事を先生に話し、了解していただきました。それにしても、母は、この1ヶ月色々なことが起こりました。

転院した病院の婦長さんは、家族の立場に立って話して下さいます。母の骨折の説明にも誠意を感じました。

母は、これからどうなるのでしょう。しばらくはお風呂も入れないでしょうし。私の気持ちが暗くなりました。


2001.5.5

 母は、熱が下がり 昨日から急におしっこの色がきれいになり、今日は、量も大分増えていました。
尿パックにきれいな色のおしっこが溜まっているのをみると、安心します。
落ち着いた様子で、私が墓参りの話をすると的があった返事を返してきます。食事も口をあけて食べましたので少し安心して帰ってきました。


2001.5.3

 母は、転院してから順調に日々が過ぎて行くように思いましたが、急に熱を出し(38.5度)尿が出なくなりました。30日に導尿してもらったのですが、その後やはり尿が出ないので、1日にバルーンを入れることになったようです。熱の原因がはっきりしないようで尿路感染か胆のう炎の再発を疑っておられるようです。2日には血液検査をしていただきました。

抗生剤の服用で熱は下がってきています。その上右膝関節に水が溜まり、昨日(2日)200ccぬいてもらいました。骨折はなかったそうですが、痛がるのでギプスで固定されていました。

次々とわずらってかわいそうです。どうか母が、痛みや辛い目に会わずに過ごせますようにと祈るばかりです。私は、ただ毎日顔を見に行く事しか出来ません。病んでいる母を見るのはとても辛いです。


2001.4.17

 母は、新しい病院で1週間が過ぎました。落ち着いて過ごしているように思います。私は毎日行きますが、出来るだけ食事の時間に会わせて行こうと思っております。母とおしゃべりしながら食事介助が出来たらなと思います。

なによりうれしかったのは、お風呂(特殊浴)に入れていただけることです。
母は、平成10年10月2日に家で入浴して以来お風呂に入っていませんでした。最初は、怖がったそうですが、慣れてくると出るのを嫌がったそうです。母は、お風呂が大好きですから、気持ち良いのを感じたんだと思います。その後で私が行きましたらスースー気持ちよさそうに寝ておりました。安心しました。


2001.4.13

3月8日に突然 病院から院長の方針が変わったので転院するように言われました。2年余入院しておりましたが、突然の事でビックリし動揺しました。家に連れて帰ろうとも思ったのですが、今の母の状態では在宅は無理と言われ、受け入れて下さる病院を探さなければなりません。

 友達や知りあい等八方手をつくしてやっと 転院させていただける病院を見つけることが出来ました。その間ご親切なメールをいただいて本当にありがとうございました。

母は4月10日に転院しました。不安が一杯でしたが、この 日は思ったより落ち着いているので、一安心です。前の病院より大分遠くなりましたが、自転車でかよっております。どうしてるかなとドキドキしながら行きますが、眠っていたり 落ち着いた顔をしていると安心出来ます。

私は、この1ヶ月随分神経を使いましたが、母がこうして落ち着いているとこれで良かったと思う事ができます。


  

2001.3.6   

 母は、また一日中大きな声を出しています。エレベーターを降りると母の大きな怒鳴り声が聞こえています。自分の親や兄弟の名前を呼んで怒っています。リハビリの先生も「興奮してますね。緊張して腕が伸びない」とおしゃいます。興奮すると麻痺のない右手が大きく震えます。

汗をかいてしゃべりつずける母を見ると 辛いです。病気とわかっていても「何で」と思ってしまい「そんな大きな声をださんでも聞こえるよ」と言ってしまいます。この頃病院からの帰りは悲しくとても疲れています。 


母は,平成2年の朝 突然左麻痺になりました。言葉もしゃべりにくかったです。病院へ連れて     行ったら脳梗塞で即入院になりました。入院して20日目に主治医より左半身麻痺で寝たきり      車椅子の生活になるといわれました。急性期が過ぎ 帰りたがるので 家を改造して退院しました。   

退院しても母は、起き上がる事も出来ませんでした。尿意はありましたので、用便の都度抱き起こしポータブルトイレに座らせました。夜は尿瓶で取りました。ここからは、母との2人三脚でした。昼はヘルパーさんに頼み、私が仕事から帰ってからは家族でがんばりました。お風呂は、主人に椅子に座らせて貰って私が洗い、また主人にベットまで連れて行ってもらいました。最初は色々大変でしたが、その内少しずつ慣れて 少しでも便利にと主人が病院のリハビリの先生のご指導により,室内用の車椅子を作ってくれたので随分移動や生活全般が楽になりました。

母は、入院中に膀胱神経症になり、すぐおしっこがしたくなるのです。それでイライラしたりだれかそばにいないと不安になったりして大変でしたが退院後の生活が落ち着くにつれて、直ってきました。なんとかがんばろうと意欲がでて、ある日力ひもを持ってベットの横に麻痺のない右足で踏ん張って立つことができたのです。その時はとても感動的でした。立ち上がる事が出来たら歩行器で歩く練習です。そうすると用便は便所で出来るようになりました。もちろん便所には完全な手摺をつけました。

こうして母は、ヘルパーさんに助けられながら落ち着いて暮らせるようになりました。よく「また笑って暮らせる日が来たね。」と話したものです。ころんだり 風邪をひいたりは、ありましたが、今から思えば一番いい時だったと思います。

その内時々変な事を言うようになりました。ラジオからの声を「隣の声がうるそうてかなわん」とか「おかあちゃんまだご飯食べてへん」とか。私はまだこの時痴呆とは気付きませんでした。母に痴呆が起こることを認めたくなかったのかもしれません。この頃から段々大変になってきました。

平成9年に父の入院から急に痴呆がひどくなり 介護がとても大変になりました.。ひっきりなしにしゃべり、夜寝ずに大きな声を出してどなります。そばに誰かいないと不安で大声で私を呼びます。「今ご飯作ってるからね」と言っても5分たたないうちにまた呼びます。毎日がこういうことの繰り返しでした。

平成10年10月に急性胆のう炎になり入院。主治医より「胆のうが破裂寸前なので、点滴で抑えられなかったら夜中でも緊急手術をします。」と言われました。痴呆がひどいので色々な検査や点滴がとても大変でした。幸い胆のう炎は落ち着きましたが、その後膀胱炎 肺炎と次々と病気になり 現在にいたっています。

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