左 甚五郎伝
実在の人物か?色々な方面より資料をかき集めてみたが?
どうしても確証は掴めていない。 その資料の数々である。
生没年不詳。江戸時代に彫刻の名人とたたえられた人物。
日光東照宮の眠り猫、上野寛永寺の竜などが代表作とされるが、
全国各地に甚五郎作という彫刻がのこされている。
講談や落語などでも数多くかたられ、実在の人物であったかどうかもはっきりしない。
江戸初期に改易された讃岐(さぬき)国高松藩主、生駒家の分限(ぶげん)帳に
大工頭(だいくがしら:→ 大工)甚五郎という名がみえ、墓も現存するが、
左甚五郎とむすびつけるには確証に欠ける。
はやくは、1675年(延宝 3)に医師で儒者の黒川道佑が書いた「遠碧軒記」が
「左の甚五郎」という人物についてふれている。
その作品は、京都北野天満宮の透彫(すかしぼり)、豊国神社の竜の彫り物で、
左の手で上手に細工したとある。
江戸前期には、すでに甚五郎伝承が生まれていたことがわかる。
おそらくは、織豊期〜江戸前期に、権力者の廟(びょう)や高名な社寺にすぐれた
彫刻がみられるようになったため、その技法をたたえる名工の逸話が生まれた。
のち各地の社寺に彫刻が多くもちいられるようになると、そうした名工の話が
さまざまな人物のエピソードをとりこみながら、
左甚五郎伝承として各地につたわっていったと考えられている。
日光東照宮の眠り猫は、左甚五郎が作ったものです。
徳川家康公の墓をつくるときに、ネズミが大量に発生して困ったので、
不思議な力を持つ左甚五郎さんに、彫刻を彫ってもらうことにしました。
左甚五郎さんは、その仕事を引き受けました。
役人に、もらったお金で朝から晩まで、宴会ずくしです。
しかし、最後の一日だけはみんなを戻し、一人で部屋にこもり、
猫の彫刻を彫り始めました。
あくる朝、役人は「さぞ大きくて、怖そうな猫だろう。」と、
想像しながら左甚五郎のもとへ向かいました。
しかし役人は、彫刻を見てびっくりしました。
左甚五郎の作った猫は、役人の想像とは全く違い小さくて、しかも寝ているのです。
しかし、家光は左甚五郎に何か考えがあるのではと、
門のところにねこを飾ってみると、日に日にネズミが減っていきました。
| ここらで一休み 笑ってください 大分県の伝わる吉四六さんのお話です。 |
お庄屋さんが、立派なネズミの彫刻を床の間において、
眺めているところへ吉四六さんが来ました。
「おう吉四六か。これは左甚五郎ちゅう名人の彫ったものじゃ。見事じゃろうが」
と自慢すると、負けん気の強い吉四六さんは、
「へえ、これがそげえ立派なもんですか。わしもこれに負けんネズミ
の彫り物を持っちょります」
と、言ったのでお庄屋さんは機嫌を悪くして、
「お前の言うことが本当なら、あした持ってこい。くらべてみよう」
吉四六さんは、偉そうなことを言ったが、ネズミの彫刻など持っていないので、
夜なべをして、ネズミを彫りました。
翌日、お庄屋さんの家に、彫ったネズミを持ってやってきた吉四六さんが言いました。
「ネズミの彫刻の良い悪いは、人間の目より猫に見させた方が確かでしょう」
「そうじゃな。うちの猫に決めさせよう」
と、お庄屋さんも賛成して、両方のネズミの彫り物を床の間に並べ、
猫を連れてきて放しました。
すると猫は、ためらうことなく、さっと吉四六さんのネズミをくわえましたから、
お庄屋さんの負けとなりました。
実は、吉四六さんのネズミは、鰹節で彫刻したものでした。
ところでこの、左甚五郎という人、書冩山でも出てきたよなぁ・・。
日光東照宮にも左甚五郎作のネコがあったと思うけど、
そんなに日本全国を歩き回ったんだろうか?
そう思ってあとで調べてみたのだが、左甚五郎(1594-1651)は
もともと播磨地方の人だったらしい。と言うことは書冩山は地元だし、
成相寺も近いかも知れない。徳川家の造営大工の頭領だったらしいから、
後に関東地方に行ったって事なんだろうか。
名工左甚五郎の名のいわれについて井上頼寿氏の「京都民俗志」は、
甚五郎が京都嵯峨法輪寺の虚空蔵に願をかけて、生きた本当の竜を見たいと、
寺の浦山の蛇谷に正座して祈ったところ、満願の日に昇竜が現れた。
しかし、まぶしくて正面からそれを見ると眼が潰れるというので、
甚五郎は左の眼を覆ってこれを見ることに成功した。以後、
甚五郎は左目の甚五郎・左甚五郎と呼ばれるようになったのだとしています。
なお、同寺には甚五郎の作と伝えられる昇竜降竜が宝物として保存されています。
寛文元年の頃、出雲大社の拝殿建替えの際、都から左甚五郎が呼び寄せられ、
「この池に蛇というものがいるのでこれを彫刻せよ」と命じられた。
しかし、蛇というものを見たことがなく、この地で、7日7夜燈明をあげて祈った。
7日7夜たったその明け方に、ものすごい雷が鳴り、黒雲がでて、
池の水が渦を巻き、蛇が現れた。 左甚五郎は、この蛇を目に焼き付け、
見事に彫り上げ、それを大社に奉納した。
すると、その彫刻がいかにも本物のように見え、魂が入ったかのように
毎月1日、15日になると暴れまわり、地震のように揺れ、蛇池も波立った。
これを鎮めようと、彫刻のまわりを針金で縛ったが、それでも動くので、
4つに鋸引きしたところ収まった。
地域の住民は、蛇を鎮める社を建て、水の神として祀った。(湖陵町の伝説より)
村人が丹精こめて作った稲を、毎夜何者かが食い荒らしました。
困った村人達が見張っていると、たくさんの鴨が田んぼに舞い降りて、
実った稲を食い荒らしていました。
逃げる鴨を追いかけて行くと東福寺のあたりに逃げ込みました。
お寺の境内を調べてみると中門の柱に泥が点々と付き、
鴨居の上には左甚五郎が彫った鴨が休んでいました。
そこで和尚さまが再び田んぼの稲を荒らさないようにと、鴨の目に釘を打ちました。
それから鴨は田んぼを荒らさなくなったということです。
昔から、家を建てるには“六職”といわれる職人、
すなわち大工、鳶、左官、建具、石工、瓦の各職人が必要とされた。
そして、それら職人のなかから、それぞれに名人上手といわれる者が現われている。
なかには、大工の飛騨の甚五郎(左甚五郎)のような、伝説的な名人もいる。
「私のひとりごと」より その332 4/14/am4.20
知恩院の七不思議
その番外「つけもの石」
御影堂の前に大きな柱が並んでいる。この柱の足元につけもの石がある。
ある日、左甚五郎がこの柱の一本だけ長さが短い事に気づいた。
さて、どうしたものか? 全部短い柱にあわせて切っても良いが、
バランスが悪くなる。 考えたが良い方法が見つからず悩んでおりました。
それを見た妻は「何を悩んでおりますか?」と尋ねた。
これこれしかじかと全てを話した。妻はこんなに悩んでいる甚五郎を見たことがなかった。
やわら、妻は納屋に行ったかと思うと漬物だるの上に置いてあった平らな、丸い石を持ってきて、
「その短い柱の下に使ってください、私があなたにしてあげられる事はこれしかありません」と言うのである。
「そうだ、全ての柱を短いのに切りそろえて、石を敷く事にしよう、柱も腐らずバランスも良い」と
言う事で現在は柱の下に石が敷かれている。
山之内一豊の妻は主人が馬を買うためにへそくりを出した。
左甚五郎の妻は漬物石を出した。 夫婦愛情物語の一席でありました。
百科事典によると、「左甚五郎」というのは東照宮の眠り猫を作ったとされる人以外に
随分いたらしい。そう考えでもしないと、伝説や作品の数が多すぎる。
彫り物名人を左甚五郎に結び付け、その言い伝えが
全国に伝播したとお考たほうが良いようである。
他にも日本各地にいて、彼らも名匠になぞられて「甚五郎」と
呼ばれたのではないのか、と想像するしかないのかも知れない。
「左甚五郎」について資料を集めています。
あなたの町の甚五郎作を撮影場所、逸話など明記の上、
写真で、お寄せ下さい。粗品進呈致します。