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2007年6月1日更新
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歴史と文学の散特に私が好きというか興味があるのは、太平記(南北朝、後醍醐天皇とその皇子、新田義貞)、幕末から明治維新(特に吉田松陰、坂本竜馬、徳川慶喜、水戸天狗党、相良総三と赤報隊など)、夜明け前(これも時代としては幕末から明治)などのゆかりの地を訪ねることである。
函館方面旅行記(‘03.6.9〜11)
 今回のテーマは司馬遼の小説「菜の花の沖」の主人公で函館港を開いて函館の基礎を築き、に繁栄をもたらした高田屋嘉兵衛ゆかりの場所を中心に、戊辰戦争最後の函館戦争ゆかりの地、明治期の歴史的建造物等を訪れ往時をしのぶことである。
○6/9:JAL便で函館に入り、函館市内観
・レンタカーで先ずは「函館高田屋嘉兵衛資料館」に向かう。
 高田屋嘉兵衛は江戸時代に淡路島の貧しい百姓のせがれから身を起こし、北前船で蝦夷地(北海道)と本州の交易で財を成し、函館の基礎を築き、さらに国後・択捉航路を開き、未開であった北方漁場を開き、江戸幕府から苗字帯刀を許された。さらに蝦夷地狙って南下してきたロシアに対して、ゴローニン事件でロシアに捉えられ厳寒のカムチャッカに連行されたが、対ロシア交渉を持ち前の人間尊重の精神で成功裏に治め、日本とロシアの民間外交の基礎を作った人物である。
 司馬氏は85年に淡路島の洲本市の講演で「英知と良心と勇気という尺度から、江戸時代で誰が一番偉いかといえば、私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。それも二番目がいないほど偉い人です」と、最大級の賛辞を贈っている。(毎日新聞「司馬遼太郎を歩く」より)
 「函館高田屋嘉兵衛資料館」は資料館は港近くで、今や若者たちを中心に観光客の人気スポットに変身した赤レンガ造りの金森倉庫群に囲まれた地に明治期の石造り、大正期の鉄筋造りの二棟のコンブ倉庫でひっそりと建っている。今は訪れる人も少ないようで、そばまで行きながらなかなか分からず、2度ほど人に尋ねてようやくたどり着けた。特に現在は外装工事中で分かり難かったようだ。
函館高田屋嘉兵衛資料館
外観
1号館内部
(写真撮影禁故パンフレットから)
2号館内部
(同左)
高田屋の帳場
(同左)
辰悦丸の模型
1795年、嘉兵衛27才
の時に建造した1500石船
(同左)
・つづいて資料館から歩いて5分ほどのところにある「北方歴史資料館」を訪れる。
 ここも高田屋嘉兵衛に関する資料が展示されているが、前記資料館と違う点はゴローニン事件に始まる対ロシア関係の資料が多く展示されている。ゴローニンやリコルドの子孫と高田屋の子孫の交流が現代になってもあることに感動。
 函館山の麓の宝来町に立つ高田屋嘉兵衛像の上半身の原型がここに展示されている。
北方歴史資料館 高田屋嘉兵衛像の
上半身の原型
函館山を背に立つ
高田屋嘉兵衛の銅像
嘉兵衛43才頃、函館奉行の代理として
ロシア軍艦ディアナ号を訪問した時の
イメージで、とのことだ。
高田屋屋敷跡
東西50余間、南北80間に
およぶ敷地だったとのこと。
・海鮮市場で昼食後、宝来町に立つ高田屋嘉兵衛像と高田屋屋敷跡を訪れる。嘉兵衛像はすぐに見つかったが、屋敷跡はちょっと分かりにくいところだ。
正ハリストス教会 カトリック元町教会
牛乳ソフトクリームにかぶりつく
どこかの(?)オバちゃん
聖ヨハネ教会
・次に函館山の麓の元町地区にある歴史的建造物、ハリストス正教会、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会、旧イギリス領事館、旧函館公会堂などを訪れる。
 ハリストス正教会とカトリック元町教会は内部に入って見学、しばし敬虔な気分にひたる。余談だがこの教会の近くで売っていた牛乳ソフトクリームが美味しかったこと。
 旧イギリス領事館では、函館開港の歴史を紹介する空間立体マジックビジョンがなかなか面白く良く出来ている。
 旧函館公会堂(重要文化財)はなかなか立派な建物で、2階には天皇の御座所、御寝室、大広間など立派な部屋が並んでいる。ここは予想外に良いところだった。



旧函館公会堂 2階にある御座所 大広間
明治の貴婦人達が踊ったのだろう
2階のバルコニーからは
函館港が一望できる
・次に湯の川温泉近くにあるトラピスチヌ修道院を訪れた。ここは日本最初の女子観想(一心に思いを凝らす)修道院で、現在65人ほどの修道女達が、厳格な戒律を守って自給自足の修道生活をおくっているとのこと。
トラピスチヌ修道院
函館山からの夜景
・湯の川温泉のホテル万惣で夕食後、有名な函館の夜景を見に函館山に行く。
 函館山からの夜景をスムースに見るには地元の定期観光バスに乗るのが一番いいようだ。夜はマイカー通行禁止だし、ロープウエーは混雑で長い時間並ばなければならないし、ツアーなどの団体の観光バスは頂上近くで渋滞して待ち時間が長くなるが、地元の定期観光バスは頂上付近の渋滞のところも右車線を走って優先的に頂上に行けるというメリットがあるということだ。ちなみに私は湯の川温泉に泊まったので、この温泉から出ている夜の定期観光バスを利用したので、予定通りの時間で夜景を見てホテルに帰ってくることができた。。
○6/10:松前、江差方面を周る
・日本最北の城下町松前町、さらに北の日本海側の港町で江戸時代には北前船の往来やにしん漁で栄えた江差町を訪れた。いずれの町もまた途中の町も函館戦争ゆかりの地である。
トラピスト修道院
現在の建物は1908年(明治29)に建てられたもの
青函トンネルメモリアルパーク
 途中の上磯町には日本最初の男子修道院であるトラピスト修道院(注)がある。その先の知内町は青函トンネルを通った津軽海峡線が地上に姿を現すところだ。さらにその先の福島町は元横綱千代の山と千代の富士の出身地とかで、その記念館へ誘い込もうと横綱の町という看板が道路沿いにたくさん立っている。しかし、私が立ち寄ろうと思っていた青函トンネル記念館への案内は全く見当たらず、福島町を過ぎてしまった。そして町外れに青函トンネルメモリアルパークというものがあったのでそこに立ち寄ってみた。
(注)トラピストは男子修道院、トラピスチヌは女子修道院とのこと。初めて知った。
・松前では、松前福山城址、桜見本園、藩屋敷を訪れた。城址で古くから残っている建物は本丸御門と本丸表御殿の一部のみである。この城は明治元年の函館戦争では土方歳三率いる旧幕府脱走軍に攻撃され1日で制圧されたということだ。
 松前では最後に松前漬の老舗 龍野屋で松前漬といか塩辛を買い求めた。ここの松前漬は保存料は全く使用していないとかで北海道各地のお土産店で売っているものとは一味違っている。量り売りしてくれるのが嬉しい。100g250円で、これが東京の三越や伊勢丹では2.5倍になるとか。この店の主人の「松前なんて今や過疎地ですよ」という寂しげな顔が妙に印象的だった。
松前福山城址 江差町 横山家 江差町 旧中村家住宅 再現された開陽丸
・江差ではかつてのニシン御殿横山家、近江商人の旧中村家住宅、再現された開陽丸を訪れた。開陽丸は徳川幕府の旗艦で、戊辰戦争時、榎本武揚が率いて江戸から脱走して蝦夷地にきて、さらに函館戦争の演習のため江差沖に着たが暴風雪のため座礁、沈没した。
・江差から国道227号で函館に戻る。途中、函館戦争の北の激戦地二股口(大野町)を通る。この日の走行距離は253km、走行時間は5H20min.だったので平均時速は約48km/H。
○6/11:函館市内観光
・函館朝市へ。近くに有料の大きな駐車場(1H200円)があるが路駐が非常に多い。
 道路に面した店は呼び込みがうるさいくらいで、どの店で買ったらよいのか初めての人には分からない。道路に面していない中の方に入ったら良心的そうな青果屋さんがあったので、そこで夕張メロン、アスパラ、メイクイーン、かぼちゃを詰め合わせて親戚に送る。考えてみれば、道路に面した店はカニといっしょにメロンも売っているというのはどうも、また送料は無料というのもおかしな話で、それだけ品物のレベルが落ちている筈だと思う。こういう市場で買うにはよく知った人と行くのが一番いいのだろうなあ。
五稜郭の初期の設計図 変更された設計図 五稜郭記念写真 立待ち岬 浜薔薇(ハマナス)
・五稜郭へ。市立博物館五稜郭分館では函館戦争関係の資料や五稜郭建設段階の設計図、築造に関する資料が展示されている。今回初めて知ったのだが、半月堡(はんげつほ)という堀の外に突き出た部分が初期の設計図では5ヶ所になっていたが、その後設計変更され実際に築造されたものは1ヶ所だけになっているということである。
・立待ち岬へ。「立待ち岬」という誰かの歌があったような気がするが思い出せない。ハマナスの花が咲いていた。
・土方・啄木浪漫館へ。時代も分野も全く違う函館ゆかりの人物の資料館をひとつ組み合わせてしまった、ビックリ仰天だ。
土方・啄木浪漫館 土方歳三 石川啄木 啄木小公園
潮かをる北の浜辺の砂山の
かの浜薔薇よ今年も咲けるや
・最後に家内の要望で、現代の函館の偉人 北島三郎記念館へ。なかなかよくできていてけっこう楽しめる。最後に、新宿コマを模した舞台でサブちゃんのロボットが「祭」を歌うのが圧巻だ。
・19:40発のJAL便で帰途につく。おわり

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木曽路私は兄の影響もあって古い街並みが好きで、木曽路には3度ほど行ったことがある。特に島崎藤村の故郷で、その長編小説「夜明け前」の舞台となっている馬篭と藤村の母親の故郷である妻籠に惹かれるものがある。
 2度目に訪れた時は、「夜明け前」に「万福寺」の名で出てくる馬篭の永昌寺(民宿をやっていた)に泊まった。夜中、部屋から本堂の脇の松ノ木の上にかかった満月がとってもきれいだったのでスケッチしたことを思い出す。
 3度目のときはマイカーをやめて電車で行き、少しでも往時の気分を味合うべく、落合川駅から十曲峠を越える木曽路を歩いて馬篭宿に入った。このときは、民宿但馬屋で同宿だった藤村学会会長で藤村記念館館長の鈴木昭一先生に会うことができ、「夜明け前」研究についての私の研鑚をほめていただき、小説の主人公半蔵(モデルは藤村の父正樹)の隠宅「静の屋」があった場所などを案内していただいた。翌日は馬篭から妻籠、さらに三留野(みどの、現在は南木曽)まで歩いた。途中やはり但馬屋で同宿だったスウェーデンの方(名前忘れてしまった)会ったりして思いで深い旅だった。
 それにしても現在の馬篭、妻籠はとっても観光地化され、宿場内の道路も奇麗に舗装されてしまい、近くには大きなみやげ物センターのようなものまでできてしまい、観光シーズンの休みなど大型バスがいっぱい来て、人がぞろぞろでちょっとガッカリな風景になってしまっているのが残念だ。それでも永昌寺やその下にある嶋崎家の墓(「夜明け前」の主人公「青山半蔵」のモデル藤村の父正樹の墓等)、藤村一家の墓を訪ねる人は非常に稀で、そこでは「夜明け前」を思いながら恵那山を仰ぎ少し静かなときを過ごすことができる。
 ところで江戸時代ご禁制だった木曽五木は何と何だったかごぞんじですか?答えは下に記載
藤村学会会長
鈴木昭一教授
木曽路十曲峠への石畳道 馬篭宿 藤村堂 妻籠宿
*木曽五木:檜、高野槇、明檜(アスヒ)、
        椹(サワラ)、ねずこ

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あゝ野麦峠山本茂美の小説、いやドキュメンタリーと言った方がいいかもしれない「あゝ野麦峠」に惹かれて、信濃と飛騨の国境にある野麦峠には3度行ったが、いずれも天候に恵まれず、「あゝ野麦峠」にかいたるような、峠から見上げる乗鞍岳の美しさにお目にかかることが出来ず残念だった。是非晴れた日に再び訪れたい所の一つである。
 最初に行ったのは‘91年5月初め、木曽路から飛騨高山に行き、さらに野麦峠を越えて松本へ抜ける旅だった。高山を出る時はどんより曇っていて今にも降り出しそうな空模様で、飛騨から信濃の国へ抜けるもう一つのルート安房峠は雪で通れないとの情報はあったが、野麦峠の方は大丈夫だろうと希望的観測のもとに出発した。しかし希望的観測は見事に外れ、峠に近づくにつれ雪が舞い出し、頂上付近では吹雪となり、ほうほうの態で頂上のお助け茶屋に駆け込んだ。しばらくしても止みそうもなく、吹雪の中を峠を下るしかなかった。あいにく、この旅に出る前にまさか雪に会うとは思わないのでチェーンをおろしてきてしまったことが後悔されたが、止むを得ない。ローギヤでの慎重運転で、途中何回かスリップしてちょっとミスれば谷底というカーブ連続の峠道を冷や汗をかきながら下りてきて寄合渡に再現されている工女宿に着いたときはほんとうに「ホッ」として、それこそ「あゝ!野麦峠だったな」という思い出深い旅だった。
 それにしても、「あゝ野麦峠」を読むと、峠の頂上に石像がある病気の政井みねをその兄辰二郎が背負って飛騨へ帰ったという話は女工哀史の一つの例であって、明治から大正・昭和初期にかけて多くの貧しい女工さん達のそれこそ血のにじむような働きと犠牲のもとに日本国は富国強兵をはかってきたことがよく分かり、ほんとうに彼女たちに頭が下がる思いを新たにする。
 本当は歩いてこの野麦峠を越えてみたいところである。
病の工女 政井みねを背負うて
飛騨へ戻る兄 辰次郎の石像
「あゝ飛騨が見える」とみねが
野麦峠頂上 野麦峠頂上に再現された
お助け茶屋

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