カレン暦新年
タイ王国中西部、カンチャナブリ県北部、サンクラブリ郡。映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道はこの地を通りさらにビルマへと続いていた。
1997年12月29日午前9時前後。サンクラブリ郡の中心地ノングルー。朝霧がはれ切らない町外れのキリスト教会では、カレン民族暦の新年を祝うセレモニーが行われていた。この地のカレン族は、ここサンクラブリで生まれた者もいれば、ビルマ政府による迫害を逃れてビルマからやってきた者もいる。100人程入る教会の席にまばらに人々が腰掛け、民衆に向かい合う形で民族衣装を着たトゥンラ牧師が最前部に座っている。民衆の中には民族衣装を着た活動家の姿も見える。町の指導者達が代わる代わるスピーチする中、ぽつりぽつりと人々が集まっては、まばらに帰って行く。少しずつ上下する聴衆の数はピーク時で約40人を数えた。セレモニーは最後に全員で賛美歌とカレン族の民族歌を歌い終了した。
カレン族は、主にビルマとタイに住み、観光業界ではタイ北部の山岳少数民族として知られている。ビルマ国内のカレン族の人口は軍事政権側の主張では、300万人弱、カレン側の主張で約700万人である。実際には両論の中間ぐらいではないかと思われる。ちなみに、ビルマの人口は軍政の発表で約4400万人、その内ビルマ族は約3000万人となっている。そしてカレン族は、ビルマ族優位の政府、軍事政権に対して、民族の自治拡大を求めて長い間活動をしている。さまざまな資料を参考にカレン族の歴史を簡単にまとめてみると次の様になる。
カレン族とビルマ族の反目の歴史は遠くビルマ王朝時代にまでさかのぼる。歴代のビルマ王朝の時代、カレン族はビルマ族に見下され、王や豪族の城、壕の難工事をさせられていた。その後ビルマとイギリスの3度にわたる戦争の結果、ビルマ王朝は滅びビルマはイギリス領となった。イギリスの植民地運営は分断統治だった。カレン、カチン、チン族などの少数民族を公務員などに多く採用し、カレン族は警察や植民地正規軍に多数採用されたが、ビルマ族は除外された。そして、反英デモなどの鎮圧にはカレン警察隊が投入され、ビルマ族の目にはカレン族はイギリスの手先と映った。このビルマ族と少数民族の反目は、イギリスに敵対する勢力の統一を阻んだ。
第二次世界大戦の最中1942年、日本軍がビルマ独立義勇軍を引き連れビルマを占領した。ビルマ独立義勇軍はカレン族をイギリス側につく敵だとみなし、スパイ容疑をかけ、捕らえ、処刑した。日本軍も当初これを黙認したばかりか、ポーターや空港などの建設工事の強制労働にカレン族を従事させた。映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道でも多くのカレン族が連合軍捕虜などと共に強制労働で死亡した。
1945年、第二次世界大戦が終わると、ビルマ族の独立運動が盛んになった。カレン族はビルマ王朝時代の迫害の歴史、ビルマ独立義勇軍の虐殺の記憶からビルマ族優位の国家に参加するよりも、カレン族の独立国家を望んだ。1946年カレン族指導者ソウ・バウジー氏率いる訪英団がイギリスに支援を求めたが、植民地からの紛争なき撤退、将来の権益確保のために最大勢力のビルマ族重視を考えたアトリー政権は、これを聞き入れなかった。1947年、それまでさまざまな組織を通じて行われていたカレン民族運動はKNU(Karen
National Union・カレン民族同盟)に組織化された。初代議長にはソウ・バウジー氏が就任した。 1948年1月4日、ビルマはイギリスから独立した。だが、独立直後から反政府組織の反乱が相次いだ。まず反乱を起こしたのは、路線の違いからウー・ヌー政府と分かれた共産党だった。独立と同時にビルマ国軍の最高司令官となったのは、カレン族のスミスドン将軍で、将校の多くもカレン族だった。彼らはウー・ヌー政府に忠誠を示し、カレンライフル部隊を率いて、共産党を退け、治安の維持にあたった。だがその後、カレン族部隊が反乱を計画しているといった衝突を煽るような報道もされ、ビルマ族民兵によるカレン族居住地区の襲撃が各地で起き、6年前の日本軍が来た時の再現となった。
2月にはKNUにより40万人を越えるカレン族が参加し、「カレン国家を認めよ」「ビルマ族に一チャットを与えるならカレン族にも一チャットを与えよ」「民族同士の衝突は望まない」などのプラカードを掲げた平和的なデモ行進が、モールメン、タウングー、バセェインなどの主要都市で行われた。しかしビルマ政府はその訴えに耳を貸さなかったばかりか、指導者を逮捕するなどして弾圧を強めた。
12月24日、テナセリム管区のパロー郡内では、クリスマスイブの最中、教会に手榴弾が投げ込まれ、80名のカレン族が殺された。周辺の村でも200人以上のカレン族が殺害された。このような事件はイラワジデルタ地方など各地で起きた。
1949年1月31日、それまで平和的手段で独立を望んでいたKNUは、やむを得ず銃を手に立ち上がった。2月、ビルマ国軍の最高司令官スミスドン将軍や、同じくカレン族のシショウ空軍司令官が辞任に追い込まれた。これをきっかけにカレンライフル部隊がKNUに合流した。モン族、カレンニー族、カチン族、シャン族などの他の民族の武装勢力と共に国土の3分の2を制圧し、ウー・ヌー政権はラングーン政府と呼ばれた。だが、ウー・ヌー政府はアメリカ、イギリスなどから武器弾薬の支援を取り付け、圧倒的な物量差にKNUは約4か月間死守したラングーン郊外インセーンからの撤退を余儀なくされた。また、KNU敗退の原因の一つは、ウー・ヌー政府ほど外交に力を入れなかったからかもしれない。
スミスドン将軍退役後の国軍最高司令官にはネー・ウィン中将が就任し、カレン族将校、兵員全員を退役させた。4月にはネー・ウィン最高司令官は副首相にも就任した。ネー・ウィン将軍は退役させたカレン族将校に代わって、ビルマ独立義勇軍の旧部下を国軍主要ポストに配置しネー・ウィン体制の強化を図り、ビルマ国軍をビルマ族化した。
1962年3月、ネー・ウィン国軍大将はクーデターを起こし権力を手にした。ウー・ヌー首相以下の閣僚は投獄され、軍事独裁政権が始まった。ビルマ国民貧困化が始まり、少数民族の弾圧は強化された。これが大まかな歴史である。
セレモニー終了後は食事会となった。紅茶から作ったラッパーティーを飲み、ミッズィーと呼ばれる餅を焼いたもの、プォー・カレン語でアイ、スゴウ・カレン語でバッイーと呼ばれるもち米に黒胡麻を振りかけたおこわを食べた。本来は、ミッズィーには砂糖や蜂蜜をつけて食べるし、セレモニーはもっと盛大でプウィンミンといわれるカレン式キックボクシングなどのスポーツの大会も行われるのだが、多くのサンクラブリのカレン族がそうである今の非難生活では無理なようだ。だが、食事の時間は皆でおしゃべりをし、団らんの一時となる。その時50歳代と思われる1人の男が英語で話しかけてきた。「第二次世界大戦中に、多くの日本人がこの地にやってきた。その中には地元の女性と結婚した人も多かったが、敗戦になり妻子を残して帰国してしまった。私も、日本人の中で生まれた」と。敗戦後、多くの日本兵が、カレン族に食料をもらうなどして、命を助けてもらった。また、そのまま現地に残りカレン兵としてビルマ国軍と戦った人もいた、ということを資料で読んだことがあるが、多くの日本人がカレン族の女性と結婚したという話しは初めて聞いた。第二次世界大戦中に、ここきた日本人なので、兵士のことを指しているのだと思うのだが、はたして、軍隊生活で現地の女性と結婚が可能だったのだろうか。それとも、事実は母国日本を離れた一時的な寂しさから逃れるための、現地妻程度の認識だったが、日本人である私に気をつかってこのような言いまわしをしているのだろうか。いくら何でも、軍隊でこのようなことは無理だと思うのだが。あるいは、軍隊といっしょにやってきた、商人などの民間人のことを言っているのだろうか。とにかくこの地には日本人の血が残っているようだ。
オーストラリアの旅行ガイドブック「ロンリー・プラネット」によるとサンクラブリの人口は10,000人である。この数字はサンクラブリ郡全体のものなのか、それとも中心地ノングルーだけのものなのかは分からないが、タイ国籍を有する者の数であると思われる。ある信頼性の高い情報筋によると、サンクラブリ郡全体の人口は約32,000人である。各民族の比率は多い順に、モン族、カレン族、ムスリム、タイ族の順となる。ごく少数だがラオ族(ラオスの50%を占める民族)、アラカン族(ビルマ西部、バングラデシュ近くの少数民族)なども住んでいる。
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