今泉英明
ずっと以前より、石田名香雄先生から「国際交流をやりなさい。東アジアが大切。」と御指導頂き、次第に「これぞ私の生きる道。」と考える様になって20余年。中国・オーストラリアそして朝鮮と沢山の友人を増やしてきた。
当初は中国へ沢山の医療器機をプレゼントしたり、体外受精・胚移植を指導したり、鈴木雅洲先生や一条元彦先生や、その他歴代の医学部長の先生方と共に講演旅行に出掛けたりしてきたが、最近は平壌産院(1,000床の婦人総合病院)より「体外受精・胚移植を成功させたい。」との希望もあり、朝鮮へ出掛ける機会が増えている。今回は3度目、99年10月14日から21日まで訪朝した。
最近平壌で流行している挨拶の一つ。平壌市中心を流れる大同江のほとりの冷麺で有名なレストランが玉流館。暫く増改築の工事をしていたが最近リニューアルオープンした。このレストランは味も最高・建物も立派・周囲の風景も美しい。そんな所から誰かから誉められたりすると、「おやおやそんなに誉めて頂けたら玉流館でご馳走しなくちゃね。」と答えるのが流行している。緑豆(リョクトウ)の粉で作った朝鮮風お好み焼(チジミ)も美味しく、冷麺の麺もスープも最高。早く食べ終わると小盛りの追加もある。心憎い程のサービス。
99年度の食糧事情改善の影響が感じられ、何とも嬉しい雰囲気を味わえた。
今回の訪朝で最も不思議だった事。連日の如く夕方に停電する。10〜80分位。問い合わせると「脱穀機を使う為、電力が不足するのです。」日中脱穀機を使うので余備の電力が不足し、夕食の仕度前に充電しなければならないのであろうか?退勤途中の電車も止まったり、サーカスの場内も停電する。一般の市民は慣れている様子。慣れない我々は、下手にシャワーなどを浴びていると、ライトが消え、外の光で頑張っていると次第にお湯が冷たくなり止まってしまう。エレベーターが止まれば階段を歩く事になるが、非常灯が殆ど無く、真っ暗な階段を手探りで降りる事もあった。(妙香山ホテルにて)
大同江の中洲にある羊角島ホテル(羊角島は中洲の名)の地下に、99年10月1日より外国人専用のカジノがオープンした。働いている人も朝鮮の人ではなく、中国の中朝国境の町丹東出身の若い人々。ブラックジャックが中心。対文協(朝鮮側の我々のお世話をして下さる単位の名)の方も入室できず、一階のコーヒーパーラーで侍って頂く事になる。チップに換える外貨はUSドルと中国元が中心。時に日本円も交渉によって換金可能。宮城県からの代表団の一人N氏は最終的に20万円以上負けてプンプン。
「あっちはそれで食べているプロなんだから勝てる訳ないでしょう。」と言っても納得せず。
新しい試みが次々にスタートしている。
朝鮮では中高一貫教育が普通である。平壌市内の各区域(日本式には区)に一つずつ「第一中学」が生まれた。(例えば大同江第一中学校)4月より開校。第一と名づけられた学校は、各区域のエリートを養成する学校。(写真)先生方も優秀との由。万一成績が下がって、ついて来れない生徒は? との質問に、「元の学校へ戻します。」それらの各区域一つずつのエリート学校の他に、国全体でのトップクラスの生徒を育てる最高エリート学校もあるとの由。社会主義体制の中にも受験戦争が出来た事は、良い事なのかどうなのか複雑な印象を受けた。
平壌でトップクラスの産婦人科病院を宮城県議会議員坂下康子氏と訪問した。入ってすぐのロビーは、坂下県議が「うわ〜立派な病院ですね。」と驚く程広く、美しく、高級ホテルのロビー同様のフロアリング。そのロビーに1991年訪朝時、妊娠中と見られるご婦人が十名程おられた。98年訪問時はゼロ。99年は以前同様に増えている。時間帯は殆ど同様。
私の推論として食糧問題が深刻な頃には、出産しようとする人も激減していたが、最近の状況の改善から再び増加して来た。この事を病院で働く友人の医師に問うと、「いや〜そんなに変わりませんヨ」との返事。しかし、彼は時々労働党員の顔になる為、私の推論の方が正しいと判断した。
彼と夜にビールを飲みながらの話。「私が一生懸命応援して、万一体外受精・胚移植が成功しても、“今泉の応援により“では無く、“金正日総書記の御指導で成功“と発表するんでしょう。」彼はニコニコしながら「当然す。でも国外向けには先生の名前をつけて発表できます。」彼の顔から"やっと朝鮮の事情を理解できる様になったね"という表情が読み取れた。最大の目的が朝鮮の不妊症の患者さんを減らす事であれば、誰の名前でという事は別問題ではあるんだけれど、中国ではちゃんと私の名前を出して報道してくれたのに……と、一言余分な事を言おうとして止めた。 彼もその辺は十分に判っているのだろうし……。
98年8月のテポドン事件の頃は、軍事ミサイルだったのか、あるいは人工衛星を乗せたロケットだったのかという論争があった。
高麗ホテルの南隣りの郵便局で記念切手を売っていた。1ウォン50チョン(大体75円)のロケットと人工衛星が飛んでいる図柄の切手があった。(写真)発行年月日はチュチェ87年(1998年)8月31日。人工衛星が成功したのか否かを私が知る術は無いが、マスコミでいうミサイルであった可能性は極めて低い。
「体外受精・胚移植」も「人工衛星」も朝鮮の“力“を示すのに欠く事のできない事柄であろう。99年8月の世界マラソン優勝者のチョン・ソンオクさんにベンツやマンションを贈った事からも理解できる。ロシア・東欧の社会主義国が崩壊し、自力で生きてゆこうにも天災で食べる物も不十分で、世界中からの援助で何とか存在し続けてきた状況を考えれば、隣国の我々はもっと朝鮮を理解する思いやりと努力を続けなければならない。
対文協の方々を始め、私達と会って説明して下さる方々は、上は大臣クラスの方から、農場の方や運転手さん達まで殆ど胸に金日成バッジをつけている。四角の物が中心だが中には丸い物もある。この丸いバッジは私も前回1ケ、今回1ケ頂いた。“いつも主席と共にあり“とする自らのシンボルの様にも言われているが、場合によっては、その人の思想レベルをも表すらしい。
ある時エレベターの中で、対文協の友人が某宮城県議会議員にバッジの事をいろいろ聞いていた。対文協の友人「一般の店では買えないのですか?」某議員「もし無くなったら議会の事務局で買えます。」
私は「主席のバッジ同様そう簡単には入手できないですヨ」よせばいいのに私は続けて、「同様に貴重品なのだから、この際二人のを交換したら?」と加えた。そのとたん友人の顔色はサッと変わった。
友人「先生悪い冗談は止めて下さい。」と厳しい調子。私はあわてて「すみません。」と謝ったが、彼の顔色はそのまま。文字通りそのバッジは彼の存在そのものという感じであった。
このバッジも、将来いつの日か、中国の毛主席のバッジの如く、スーベニールショップなどで売られる日が来るのだろうか?
クムスサン宮殿は、生前金日成主席が執務された宮殿。亡くなられた後、主席の御遺体が納められ、誰でも参拝できる。一般の方は電車やバス、外国人はマイクロバスや乗用車で。
下車して数百メートル歩き、動く歩道で約1km程で宮殿の建物に入る。バッグなど持ち物を預け、セキュリティチェックを受け、更にエスカレーターや階段を登り最後にエアーシャワーを浴び、主席の安置されている部屋へと進む。そして普通は主席の御遺体に御挨拶し元のルートを逆に戻って帰る。
しかし私が主席の安置されている部屋に近づいた時、突然の腹痛、前の晩のムルキムチ(水キムチ:辛い発酵したスープの中にキムチが入っている)のスープを飲み干した為か? 冷や汗。我慢できず対文協の課長さんに「すみません、お腹が痛いんですが」と言うと、彼は近くの警備の方にコソコソ話。その方の案内で普通の人が入れない廊下を通り、エレベーターを使って案内された。兵隊さんや事務系の人の部屋の前を通り、入った部屋は医務室。そこには医者1名看護婦さん1名。私はあわてて「違うんです。あのトイレ。」課長さんも「そうか。」と、中で働いている方々の利用するトイレへ案内して下さった。落ち着いて周囲を見て、中国の外国人用のトイレより綺麗である事に気付いた。客用のトイレが大理石の壁なら、ここは普通のタイルの壁。掃除は同様に行き届いている。ファンも回っていてリラックスできるスペース。朝鮮の人の方が中国の人よりも綺麗好きなのかなあと変な関心をしながらその部屋を出た。
リラックスした私を持っていた課長さんと警備の人も「大丈夫?」とニッコリ。恥ずかしながら「カムサハムニダ(ありがとう)」とお礼を言って元の参観ルートに戻った。何でも、この宮殿を維持するのに1日700万円かかるらしいとの噂を聞き、裏の人の数なども考え納得した。
98年から自転車の個人使用が認められ、マーケットやホテル周辺などにキチンと自転車を並べて置く場所ができた。未だ朝鮮国内に自転車のメーカーは無いようなので、日本・中国・韓国(南朝鮮と呼ぶ)などのものが走っているのであろう。自転車の自由化といっても、例えば中国の長安街を走っている程沢山は見られないし、空気入れも不足気味との由。普通の人は歩く事が多いし、交通手段はバス・電車・地下鉄などが殆どである。夕方高速道路を何キロも歩いているような農民の人を見かけた。
自動車も同様で、トラクターやトラックの製造はしていても乗用車の生産はしておらず、乗用車は全て“外国製“である。その少ない車であってもガソリンが十分ではない。平壌市内では、日曜日には許可を受けた車のみ走行している。つまり朝鮮版ノーカーディである。
高級な招待所(迎賓館クラスか?)で金日成主席が好んで召し上った「凍ったジャガイモ」という名の餃子風の料理を食べた。昔、解放戦争や南北戦争時代、主席達はあちこち根拠地を変えながら転戦していた。冬期の主要な食糧であるジャガイモは地下に保存し、暫くしてそれを掘り出すと皆凍っており、そのまま食べては美味しくなかった。それでジャガイモをスリおろし、そのデンプン質を餃子の皮の様にし、肉があれば肉を入れるが、普通は野菜をミジン切りにして味をつけ、餃子の様に包んで、焼いたり蒸したりして食べたとの事。紫色に変色した皮の部分も香ばしく、何か歴史的なご馳走を頂いている様に思えた。名前が無いのに等しいので、「根拠地餃子」とか、後世に残る名前をつければ良いだろうと思いながら味わった。
普通のバーベキューのテーブルには牛肉・アヒル肉が中心。しかし10月の平壌は季節最後の松茸が手に入る。一般の松茸(国外持ち出し可能)は1kg約1万円だが、国内で食べる場合(国外持ち出し禁止のヤミの品)は2kg5,000円で入手可能であった。我々のバーベキューパーティーでは、最初に皆松茸のみを焼いて、満足する程食べる。次いで牛肉やアヒル肉に手を出す。何とも贅沢なバーベキューであった。一週間の旅行で3回程味わったが、過去20年間に食べた松茸以上の量であった。
平壌を離れる日、空港で荷物のチェックを受けた際、「松茸がありますね。輸出許可書は?」とチェックされた。我々は証明書があり通過できたが、万一証明書が無ければ没収との由。松茸が麻薬並とは知らなかった。
91年訪朝時は、中国衛生部の協力の為、比較的自由に交流ができ、ディスカッションの時間も十分に取れた。しかし98年の時は、1時間の予定を「30分に減らして下さい。」と言われ、「冗談では無い。朝鮮の患者さんの為に準備して来たのに……。」と大いに怒った。その結果1時間に戻った。その影響か? 今回の医学交流は2回で4時間余り。必要な事はキチンと話し合うと通じる国である。例えば、一方では外国情報を制限しようとしても、 その外国情報が朝鮮の人々に確かにプラスとなるなら認めて頂ける。
この辺の事情は20年余前の中国と殆ど同様。長い時間をかけて双方の信頼・理解を深めてゆくシツコさが必要であろう。
村山元総理を団長とする訪朝団が実現した。これを機会に名古屋-平壌のチャーター便が復活すると聞いている。
諸事情が好転し、今年中には更に日朝間の交流がしやすくなるだろうと思われる。様子を見ながらではあるが、近い将来に宮城県からの医学交流の為の訪朝団も可能となりそうである。
米朝関係が改善しつつある。朝鮮戦争時、朝鮮半島を分断させた国々が対話を重ね、21世紀前に本格的に国交を開始しようとしている。日本も朝鮮半島支配を続けた。侵略時代の反省を行い、21世紀に向けて日朝間の国交も早期に回復して欲しい。当然賠償も必要であろう。その為の話し合いを誠実に積み上げて欲しい。私でさえ民間交流を重ねる過程で、私個人の中の偏見を少しずつ解消してきた様に思える。
お互い東アジアに住む間柄である。言語のルーツや、生活習慣や文化も極めて近い。
日朝の国家の関係者が、それこそ「玉流館」で一緒に食卓を囲み、大同江の流れを見ながら、新しい友好の歴史を創り出す相談をしてくれれば、東アジアに住む我々はどんどん仲良くなれると信じる。市民としての日常的な在り方としては、在日コリアン(南北朝鮮出身者)の方々と双方の文化を照らし合わせながら、兄弟分としてのお付き合いをもっともっと深めてゆきたいものである。