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今を去るおよそ1800年前、我が国は倭国とか、邪馬台国とか呼ばれ、西暦300年代漸く大陸の中国や朝鮮との文化交流が盛んになり始めました。その頃既にこの現在の法輪寺寺域に三光明星尊をお奉りした「葛野井宮(かずのいぐう)」がありました。
秦の始皇帝の子孫、融通王の一族が産業、芸術の繁栄、安全守護の一族祖神として信仰しております「虚空蔵尊(こくうぞうそん)」と深い因縁のあるこの「葛野井宮」を尋ね求めてこの地へ渡来し、彼等伝来の農耕技術を生かした農業をはじめ製糸、染織など中国の工芸を励むようになりました。
かように彼等が移住しましてからは、中国から進んだ東洋の文化工芸を移入し発展させましたので、この地方の住民もその影響を受けて仕事を手伝い、この地はだんだんと文化工芸の中心となってきたのであります。
彼等中国から移住した一族は秦氏族と呼ばれ又彼等一族の守護繁栄の祖神として崇敬しております「葛野井宮」を中心としてますます発展することを祈り、その名をもとにしてこの広い地域を「葛野(かずね)」と呼ぶことになりました。
応神天皇の時代(350年〜450年頃)には文化をすすめる思召しから秦氏族を多く移住させ、この民族たちの技芸によりまして、地方民の生活は豊かに、そしてこの地方はだんだん開発されていきました。このありさまは「古事記」「日本書紀」の応神天皇の章にも天皇のおよろこびと国讃めのお歌が記されており、当時の秦氏族の発展、民家の栄えたありさまが明らかに推測することが出来ます。
奈良時代に入って元明(げんみょう)天皇の和銅6年(AD713年)、この古い由緒ある寺域に勅願により行基菩薩に命じて堂塔を建てられました。
その寺の名は「木上山葛井寺(もくじょうざんかづのいでら)」と呼ばれ、国家安穏(あんのん)、万民の繁栄と五穀豊穣、産業の興隆を祈る勅願所となされたのであります。
即ちこの葛井寺(かづのいでら)が現在の法輪寺の起源であり、行基菩薩を開基とし、古義眞言宗(こぎしんごんしゅう)に属します。以後歴代天皇の勅願所でありますと共に日本仏教の高祖、宗祖として尊ばれております勤操大徳(ごんぞうたいとく:弘法大師の恩師)、弘法大師(こうぼうだいし)、興業大師(こうぎょうたいし)、明恵上人(みょうえしょうにん)、日蓮上人(にちれんしょうにん)を始め各宗の祖師方はここに参篭(さんろう)して、大きな覚知(さとり)の霊験を受けられることになるのであります。
さて桓武(かんむ)天皇の時代(AD780年頃)になって、この葛野(かづね)の地はますます大きく富み栄え、所謂産業の中心地となってきました。そこでこのことも一つの理由で天皇は山城の長岡よりこの葛野の地域を都と定めて宮殿を創建され、延歴13年(AD794)年遷都して「平安京」とされました。即ち葛井寺寺域は「葛野井宮」を中心に「葛野(かづね)の都」が生まれ、「平安の都」が創められ、以後明治元年東京遷都に至る一千有余年皇都としていよいよ栄え、日本の文化芸術学問の中心地として発展してまいったわけであります。
西暦800年頃、弘法大師の高弟で道昌僧正(どうしょうそうしょう)と云う立派な高僧が現れました。道昌僧正は承和年間(AD834年〜847年)勅願によって大堰川を修築し、橋を架け、船筏の便を開きました。その時架設された橋がのち法輪寺橋と呼ばれ、更に亀山上皇(AD1274年〜1287年)がこの橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として渡月橋と命名されたといいます。これが現在の渡月橋の始まりになります。道昌僧正はこの交通の便を開くと共に、下流にある桂、川岡、向日の数千町歩に及ぶ荒れ野原に河水を流して田畑を開拓し、そのおかげで農産物が豊穣、住民たちからは行基菩薩の再来と慕われ、喜びあったとのことです。
又この道昌僧正は、弘法大師から「虚空蔵菩薩の霊験ある相応の地は嵯峨葛井寺である」とのお示教(おしえ)によって、大悲の願力を発起して、虚空蔵求聞持法百日間参篭修行をせられました。満願の日、「葛井」のこの霊地に、暁天、生身の虚空蔵菩薩を空中に感得、一木を彫して虚空蔵尊像を仕上げ、その木像を神護寺において弘法大師自らの供養を経て、この葛井寺に安置、お祀りするようになったと伝えられています。
その直後清和天皇の貞観10年(AD868年)葛井寺を「法輪寺」と改められました。
次いで貞観16年(AD874年)山腹をひらき、大いに堂の建物を改修、その後天慶年間(AD938年〜947年)に空也上人が参篭し、勧進によって新たに堂塔を修造したと伝えられております。
応仁元年(AD1467年)西軍畠山義就は東軍の筒井光宣を法輪寺の門前で迎撃し、その際建物の多くが類焼したと云われ、法輪寺も所謂応仁の乱の災禍を受けて、以后当分の間寺勢の衰退が続くこととなります。
慶長2年(AD1597年)後陽成天皇は法輪寺再興勧進の勅旨を下賜され、諸国から造営の浄財を募ると共に加賀前田家の帰依を得て堂を再建改築し、中世以来の荒廃した寺観は面目を一新し、「智福山」の勅号を賜って木上山を「智福山」と改め、慶長11年(AD1607年)九月に盛大な落慶法要を営まれました。茲(ここ)に「智福山法輪寺」(通称嵯峨の虚空蔵さん)と今日のように呼ばれるようになったのであります。以后堂塔修理の際は朝廷より大勧進の勅旨を与えられることが例となり、幕末まで前後七回に及んだと云われています。
そして元治元年(AD1864年)七月蛤御門の変の際、長州藩の浪士が渡月橋を挟んで対岸の天龍寺に集結、十九日の戦闘で法輪寺の建物はことごとく灰燼に帰してしまいました。
その後現在の建物は、本堂を明治十七年(AD1884年)に再建し、客殿、玄関、回廊、庫裏、山門等順次竣工して大正三年(AD1914年)に、漸く往事の寺観を復興し今日に至っているのであります。 |
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虚空蔵(こくうぞう)とはその文字が現しておりますように、虚空即ち大空(宇宙)を意味するものであります。その大空の中には種々の物々、即ち日月、星をはじめ一切の山川、土地、草木などあらゆる森羅万象、生物をことごとく包容し、余すところないように納めておりますことは、ちょうど世間で云う大きな宝蔵に多くの財宝を収めておりますのと同様であるというようなわけで、虚空の姿を宝蔵になぞらえて、虚空蔵というのであります。
大空(宇宙)はあらゆる一切の物を収蔵して、光、熱、雨、水、温、湿など、絶えず自然の恩恵を与え、平等に、しかも無限の動植物を育成しております。
虚空蔵菩薩はこの広大分限の大空の徳性を総合する霊位であり、我々のみ親でありますから、無限のご利益を人間をはじめ動植物の育成から一切の物資の生産に至るまで施与(ほどこ)し、守護(おまもり)しておられます。即ち「山川草木悉有佛性」の思想であり、自然現象から人間を始め生きとし生けるもの全ての生存、育成まで、これみな虚空蔵菩薩様の御慈悲であると云う考え方なのであります。
そして特にこの法輪寺の虚空蔵菩薩は降臨せられましたときの御本誓に「智恵を得んと慾し」、「福徳を得んと慾し」、「種々の芸道に長じ、技芸に上達せんと慾し」、「玄妙の域に達するような流暢な音声を出し、歌舞音曲の奥義を極め栄達を得んと慾し」、「官位、称号、免許を得るように慾し」、「内外とも身分にふさわしい威徳を得るように慾し」・・・など祈願するものは、わが名(虚空蔵尊名)を称念(おとなえ)せよとお説きになっています。
このことと、法輪寺の由来が秦代族らもともと工芸、技芸を職とした人々に深く信仰された「葛野井宮」が起源であることと合わせて、幼少年期より青年期に移ろうとする人生の転換期に、智福を与え、技芸に長じさせ給えとの虚空蔵寺への守護祈願、即ち毎年四月十三日十三歳になった男女が参詣する「十三詣り」の慣わしや裁縫、服飾、芸術など技芸の上達を祈願する「針供養」(毎年十二月八日、二月八日)の行事が行われるようになったのではないでしょうか。
又染織、漆器、彫刻、醸造、酒造など所謂美術工芸に関連した商工業者からも厚く信仰を得ているのも法輪寺虚空蔵尊の前記御本誓や、往古秦氏族の信仰していたことに関連していると思われます。 |
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| 道昌僧都が百日間の求聞持法を修し、満願の日に井戸で水を汲んでいると明星が天空より降りそそいで、虚空蔵菩薩が来迎したと伝えられています。本尊の顕現としての明星天子を本地として『電電明神』を主神とする『明星社』が鎮守社のひとつとして奉祀されました。同社は元治元年(1864年)の禁門の変の際、堂社ともども焼失しました。昭和31年(1956年)、それまでの仮宮であった社殿を電気電波関係業界の発展を祈願するため『電電宮』として新たに奉祀され、同時に電電宮並びに電電塔奉賛会(電電宮護持会)が発足しました。電電宮の詳細はこちらをご覧下さい。 |
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