『かえい』No. 12, 1999/11収録
モンテスキューの「品格」論平野秀秋
モンテスキューという人は、1689年ワインで有名なボルドーに生まれ、後にパリのサロンで活躍した。『法の精神』(1748年)という書物を発表したので、多くの人は彼をこの本の作者として記憶している。そして自分にあまり関係のないただの法律家だと感じている。
ところが実際には、モンテスキューはそんな通り一遍の人物でなかった。この人の真骨頂は、ルイ14世時代のフランス(ということは当時のヨーロッパ)の人間の度の過ぎた「理性主義」を痛烈に嘲笑した小説家だった、という点にある。彼の書いた小説は『ペルシャ人の手紙』(1721年)という。ある人によると、この小説は当時大変多くの人々に「パンのように売れた」ものだそうだ。
小説の種明かしはルール違反だからやめておく。これは岩波文庫の中に翻訳されており、日本語でも読むことができる。当時、パリのサロンではヴォルテールとかダランベールとかディドロとかの、一括して「百科全書派」と呼ばれた人々が、人間理性の勝利をけたたましく賛美していた。スイスから来たルソーも、すこしおどおどしながらその中にいた。「百科全書派」というのは、「知識」を体系化して無知蒙昧な人々に与えれば社会が正しくなる、という主張から来た名称である。だから別名「啓蒙主義者」ともいう。この人々が、モンテスキューに「理性」という項目の執筆を依頼した。さしづめ、科学の無限の可能性を書いてくれというような依頼と考えればいいだろうか。
その依頼に対して、モンテスキューは「goût」についての文を執筆した。「グー」と読む。仏和辞書には「趣味」などと訳してある。しかし、この語は本当はただの「趣味」などよりはるかに含蓄の深い言葉である。モンテスキューの前の世紀のフランスでは、モンテーニュやラ・ロシュフーコーなどの文人が、折々にこの言葉を使って人間の重要な資質を語ろうとした。
ともあれモンテスキューはこの文の中で、要約すると次のようなことを書いている。「人間が生きていくには、美を美と感じる心、思いやり、自制心、敬虔さなどのたくさんの要素が備わっていなければならない。理性はその中のただの一つに過ぎないのだ」と。モンテスキューもその先輩たちも、東洋の言葉を知っていたら、もっと自然に同じことを表現できただろう。なぜなら、「グー」は私たちが人間の「品格」と呼ぶものと同じだからである。私たちは人を誉めるのに「学術優秀、人格高潔」と重ねる。知識が豊富なだけでなく、品格がすぐれていることを誉めるのである。モンテスキューは、実は同じことを主張したのである。人間は高度の知識だけでは足りない。「品格」高くなければいけないのだ、と。
「理性」万能時代にこのように述べるのは容易ではなかっただろう。よく読むと、『法の精神』にも「法は人間のためにある。人間が法のためにあるのではない」という厳しいことが書いてある。西欧(20世紀には欧米)文明は、モンテスキューのこの指摘を忘れてきたようだ。吉田健一という作家が『ヨーロッパの人間』(岩波文庫)という本の中で、西欧は18世紀を最後に文芸の光芒を失った、と書いている。そのせいだろうか。今の私たちは、科学技術とハイテク万能の文明の中で、人に「品格」が必要だということを忘れそうになっている。
(追記:モンテスキューの品格論については中江桂子さんの博士論文から教えを受けました。お礼申します。)