土佐の国(修業の道場:高知県)
第二十四番札最崎寺から第三十九番札延光寺
(写真91枚)

土佐の国札所(「四国八十八ヶ所詳細図帖」:雑誌四国発行より)
丸数字をクリックするとその段落へ行きます。
|
@ |
第二十四番札最御崎寺 | 2007年12月23日(日) |
| 第二十四番札最御崎寺から第二十六番札所
金剛頂寺 |
2007年12月24日(月) | |
| 第二十七番札所神峯寺からJR夜須へ | 2007年12月25日(火) | |
| JRごめん駅へ | 2008年2月9日(土) | |
| JRごめん駅から第三十一番札所竹林寺 | 2008年2月10日(日) | |
| 第三十一番札所竹林寺から第三十五番札所清滝寺 | 2008年2月11日(月) | |
| 第三十五番札所清滝寺から第三十六番札所青龍寺へ、そして中浦へ | 2008年2月12日(火) | |
| 浦ノ内西分から第三十七番札所岩本寺 | 2008年5月3日(土) | |
| 第三十七番札所岩本寺から井の岬温泉ホテル | 2008年5月4日(日) | |
| 井の岬温泉ホテルから真念庵 | 2008年5月5日(月) | |
| 真念庵から第三十八番札所金剛福寺 | 2008年6月8日(日) | |
| 真念庵から第三十九番札所延光寺 | 2008年7月20日(日) | |
| 第三十九番札所延光寺から第三十九番札所観自在寺 | 2008年7月21日(月) |
@ 広島から第二十四番札所最御崎寺へ 2007年12月23日(日)
|
広島駅を朝11時に出発し、室戸岬バス停に着いたのはもう午後4時半でした。薄暗くなって山(標高165m)を登り、門限の5時前ぎりぎり最御崎寺(ほつみさきじ)納経所について、まず納経、あとから読経。寺のすぐ裏にあるユースホステル「遍路センター」に行き、「一人、泊まれますか?」と聞けば、「夕食なしならいいですけど」と。しかも嬉しいことに、後で、おにぎり2個と、うどんの小椀の差し入れが自室に届けられました。
|
A 第二十四番札所最御崎寺から第二十六番札所金剛頂寺へ 2007年12月24日(月)
|
「遍路センター」からまた第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)は約50メートル。昨日は意外と交通に時間がかかって、ほとんど歩けなかったので、今日は頑張ろうと、7時前に出発。22日が冬至なので、朝7時は本堂の僅かな光だけが幻想的に見えるこんな暗さです。納経受付の時間帯が朝7じから、夕方5時までなのは、冬至でもぎりぎり道が見える時間なのだとわかりました。 朝7時の最御崎寺本堂
最御崎寺の本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)なので、境内には本尊の等身大の石像がありました。
最御崎寺本尊虚空蔵菩薩の石像
また同じ道を下り、500メートル北へ徳島の方へ戻ると、空海が18歳のとき修行したことで有名な御厨人洞(みくらどう)があります。
空海が修行した御厨人洞
御厨人洞(みくらどう)から、外をみると、ちょうど風景の真ん中に水平線がみえ、上が空で、下が海で、空海の名前のままの風景なのを納得しました。(残念ながら、写真はコントラストが強すぎて、水平線が解りません。) (注:大師はそれまで、無空、如空、教海と名乗っていたのを、この地で最終的に空海と改めた。)
御厨人洞からの外景
御厨人洞から800メートル南に行くと、ついに室戸岬。今日は穏やかですが、9月17日に訪ねたときはゴーゴーと波しぶきを上げ鳴っていました。
室戸岬
室戸岬を回るとすぐ室戸岬バス停で、すぐ上に大きな中岡慎太郎の銅像がたっています。この銅像を説明文を見ないで、坂本竜馬の銅像と思い違いする人が多いそうです。 (注:中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)(1838年〜1867)は、日本の志士 (活動家)である。陸援隊隊長。海援隊の坂本竜馬とともに長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)の会合・盟約に奔走する。慶応3年(1867年)には藩から赦免され陸援隊を組織し、隊長となる。同年12月、京都近江屋に坂本龍馬とともに滞在中、見廻組の佐々木只三郎らに襲撃され、瀕死の重傷を負う。犯行の様子などを語り、龍馬に二日遅れる11月17日に死去、享年29歳。)
中岡慎太郎像
第二十四番札所最御崎寺から第二十五番札所津照寺(しんしょうじ)までは北西へ6.5キロ。漁師町のお寺だけに、山門は竜宮城のようです。町の中の小さな山の上に建ち、風の強い所なのでしょう、鐘楼も本堂も頑丈なコンクリート作りです。
津照寺山門と鐘楼
津照寺の本尊は舵取(かじとり)地蔵菩薩です。土佐藩主山内一豊公が室津の沖を航行中、嵐にみまわれたとき、地蔵が僧に変身し舵をとり、一豊公を救ったと言うのは有名な話です。
津照寺本尊舵取地蔵
第二十五番札所津照寺から第二十六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ)は北西に約4キロ。ここのお寺の梵鐘は朝鮮鐘で国宝で宝物殿にあるということで、この写真の鐘は多分レプリカでしょう。綺麗な天女の絵がありました。突くといい鐘の音でした。
金剛頂寺の鐘
金剛頂寺は女人禁制だったそうです。明治33年に火災で全焼したせいか、本堂はコンクリート製でした。朝早いせいか、犬も女人も誰もいませんでした。本尊は開基いらいの秘仏で、誰も見たことがないそうです。(ほんとに本尊さんはあるのでしょうか?)
金剛頂寺本堂
第二十六番札所金剛頂寺から第二十七番札所神峰寺(こうのみねじ)入り口までは北西に約24キロ。金剛頂寺を遍路道で降りたところが黒耳というところ。喫茶店「花林」で朝食。喫茶店の奥さんに「どうしてここは黒耳というのですか?」に「どうしてでしょうねー」と、私が「黒い耳のウサギが出てきたとか・・・」には「(笑い)」。 (注:黒耳とは魚付き保安林のこと。多分、遠くから見ると茂みが黒い陸地の縁(パンのんの耳と言うように、耳とは辺縁のこと)のように見えたのでしょう。)
「遍路道を辿る」(毎日新聞高知支局発行)より
延々と、国道55号線を海岸沿いに、時々室戸岬を振り返りながら、歩きました。金剛頂寺から約12キロ歩いたところに羽根岬からの眺めは単調なあるきの中、慰めです。 羽根岬から行当岬と室戸岬の遠望
夕刻4時ごろ、携帯電話で神峰寺入り口の「民宿きんしょう」に電話をして、「一人、泊まれますか?」にまた「何も用意してないので、素泊まりならいいです」と。田野駅の道の駅で弁当を買って、民宿きんしょうに着いたのはちょうど5時。なんと泊まりは私一人だけでした。ご主人に「どうして、きんしょうという名なのですか?」と聞くと、「東京に金松という佃煮店があるでしょう。それにちなんで、ここらに松林が多いからです」と。 |
B 第二十七番札所神峯寺からJR夜須へ 2007年12月25日(火)
| 民宿「きんしょう」から第二十七番札所神峰寺(こうのみねじ)までは北に約4キロ。朝6時、まだ暗い道を懐中電灯の光を頼りに出発。標高430メートルの神峰寺に向かう急な坂を歩いていると、奈良ナンバーのワゴン車が飛ばして追い抜いて行きました。10分ぐらい経つと、その車が戻ってきました。スタンプラリーをしているような感じで、またまた慌(あわただ)しい人もいるものだと。はるかかなたに室戸岬と室戸の港町の明かりがクリスマスのイルミネーションのように見えます。
神峯寺から室戸岬の遠望
神峯寺の本尊は金色に輝く十一面観世音菩薩でした。金剛頂寺の本尊は秘仏だったので、ここのように素晴らしい本尊を拝むことが出来るのは苦労が報われたようで嬉しいです。
神峯寺の本尊十一面観世音菩薩
病気を治すご利益があるという神峯の水を美味しく頂きました。
神峯の水
お寺の人に「綺麗なお寺とお庭ですね」というと、「このお寺は元、上のほうの神峯神社の所ににあったものが、神仏分離令により取り壊されたので、明治20年に再建されたのです」と、悔しそうに言われました。今もなお、再建中なのだそうです。道理で綺麗なはずです。
神峯寺入り口
神峯寺から7キロ歩いたところで、眺めのいい大山岬の「うどんとコーヒーの店」で美味しいうどんとコーヒーを朝食に。 安芸市営球場前駅から遍路道は下の写真のように防波堤の上のコンクリート道になります。
安芸市営球場前からの遍路道
伊尾木(いおき)駅まで3キロは単調な防波堤道路でした。
伊尾木からの大山峠の遠景
安芸市の町を抜けると、海岸に沿って延々と夜須駅まで約13キロも素晴らしい自転車道が続きます。こんな長くて自然に恵まれた素晴らしい自転車道は他ではみたことがありません。
赤野の自転車道
赤野駅の近くに、栗山英子さん個人が全くの善意で作られた接待所がありました。人はいませんでしたが、インスタントコーヒーとお菓子とみかんをよばれました。
栗山英子さんの接待所
琴が浜では自転車道以外に浜を歩くの遍路道もあります。遍路の初期は「辺地」巡り、とか「辺路」巡りといわれていたそうです。その「辺地」とか、「辺路」は海岸線を意味していたらしいです。私のペンネーム「はまあるき」ははからず「辺路」巡りそのものでした。
琴が浜の遍路道 午後4時後ごろJR夜須(やす)駅に着き、もう小雨が降り出していたので電車でごめん駅へ。 海岸沿いの道を疲れてボツボツ歩いていると、自転車に乗ったお爺さんが自転車から降りてわざわざわたしに、「次の峠のところの手前で左に入ると休憩所があるよ。土佐は他の県より広いけど、土佐を巡るだけで3倍のご利益があるんよ」と、私は「それいい事をききました。ありがとうございます」と。こういうねぎらいかたもあるのだなと、感心しました。
|
C 広島からJRごめん駅へ 2008年2月9日(土)
| 広島駅を午後2時半に出発し、JRごめん駅に夕刻着き、予約しておいた駅に一番近い「稲吉屋旅館」で一泊。食料は近くのスーパーで手に入れ、素泊まりでたった4000円なり。大歩危(おおぼけ)駅のあたりは一面の雪景色。この頃は今年一番の冷え込み。野宿は、風邪気味のこともあり、計画しませんでした。
|
D JRごめん駅から第三十一番札所竹林寺へ 2008年2月10日(日)
| 「稲吉屋旅館」から近くのJRごめん駅まで歩き、後免奈半利(ごめんなはり)線で先回の到着点のJR夜須(やす)駅に戻りました。JR夜須駅から第二十八番札所法界山大日寺(だいにちじ)へは西の方へ約9キロ。初めは高架の下の砂利道をあるくという、なさけないお遍路。大日寺という名のお寺は八十八ヶ所の内3寺あるので(他の2寺は阿波の国)、土佐の大日寺とこのHPでは呼びます。土佐の大日寺は明治初年の神仏分離令で廃寺になったせいでしょう。本堂は最近再建されたということもあり、境内はごらんのように殺風景なものでした。
第二十八番札所大日寺本堂
空海が楠木(くすのき)に爪で薬師如来を彫られ、立ち木をそのまま奥の院にされたというので、案内に従い本堂の東の山を少し登ると、小さなお堂が見つかりました。しかし、奥を覗いても暗くて何も解りませんでした。見ての通り沢山の軽石が奉納されています。大師さんが木彫りしやすいよう、爪を磨いでくださいという意味でしょうか。
奥の院:爪彫り薬師
いくら覗いても、写真で拡大しても、花の彫刻はわかるのですが、薬師さんは解りません。
爪彫り薬師
第二十八番札所大日寺から第二十九番札所土佐国分寺は西へ約8キロ。しばらくして、物部川の橋の上で、中年の夫婦に追いつきました。彼らと歓談しながら小春日和の田んぼの中を歩きました。「名古屋からきました。いつもは車なのですが、今回は始めての歩き遍路です。知多半島にも知多霊場八十八ヶ所というのがあり、私たちは何度かあるいて、もうすぐしたら歩き終えます。私は仏像大好きで、西国33ヶ所観音霊場も車で廻りました。近づいて見れる本尊がすくないですね。中宮寺の弥勒菩薩や秋篠寺の技芸天等は近づいて見れるし、素晴らしかったです。」などと2人で仏像談義を。土佐国分寺の1.5キロ手前に遍路石饅頭の店があり、買ってお茶をいただきすぐほうばりました。遍路石饅頭は黒砂糖の茶色の皮で、中は小豆の柔らかくて美味しい饅頭でした。 土佐の大名長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が再建したという土佐国分寺の柿葺(こけらぶ)きの金堂は前評判を裏切らないいい雰囲気でした。
土佐国分寺本堂
高知市本町のアルコール依存症治療の草分けとして有名な下司(げし)病院の院長先生から、土佐国分寺の境内には「酒断地蔵尊」があると、メイルで教えられていました。ちゃんと、ありました。 (注:なだいなだ著の「アルコール問答」【岩波新書】に「・・・高知に下司孝麿(げしたかまろ)せんせいというこの道の先輩がいた。この人のきもいりで、高知に断酒会がつくられ、そこの会長だった松村春繁という人が、東京の会と連合して、二つの会で全断連(全国断酒連盟)という組織を作ったんです。この松村春繁の主治医だった人が下司さんです。そして私財を投じて、この組織を陰から支えた」とあります。)
酒断地蔵尊
土佐国分寺の本尊は千手観音ですが、素晴らしい釈迦如来を祀ったお堂もありました。
土佐国分寺釈迦如来
土佐国分寺境内の梅見地蔵の命名には今日だからこそ感心しました。
梅見地蔵
第二十九番札所国分寺から第三十番札所善楽寺(ぜんらくじ)は西へ7キロ。近道の裏口から入ってしまい、神社と並んであるため、どちらに行っていいやらしばらく迷いました。本堂から逆に綺麗に掃かれた長い砂道を南に行くやっと山門がありました。逆行で、なんとなくシックリいかない参拝になりました。(もっと道案内が欲しいです。)
善楽寺本堂
黄金色の阿弥陀如来が本尊ですが、遠すぎて、暗くてよく見えません。
善楽寺本尊:阿弥陀如来
第三十番札所善楽寺から第三十一番札所竹林寺(ちくりんじ)は南の方へ約7キロ。竹林寺に向かう途中で、高校生ぐらいの若い女性2人と中年の2人の4人組を一緒に歩き始めたので、奥さんに「むすめさんですか?(ちょっとお世辞で)」と聞くと、「いえ、孫です。」「羨ましいですねー」に、「最初は来るのはいやだといっていたのに、2回目は一緒に来るというので、これ幸いとでてきたのです。これが最初で最後の遍路になると思います」と。竹林寺の手前最後の1キロはきつい石段で、おまけに、牧野冨太郎植物園の庭の工事のため、遠回りさせられ(普段は庭園の眞中を横切る)、3人の中年はもうよたよたで登っているのに、若い2人はさっさと先に登って行ったのですが、山門の石段に座って、満願の笑顔で私たちを待っていてくれました。若いお遍路さんには元気付けられます。 竹林寺の大師像は素晴らしいもので、ありがたく礼拝しました。
竹林寺の大師像
竹林寺の五重塔は土佐では唯一の五重塔です。鮮やかな朱色で見事に聳えています。「坊さんかんざし」の純信は竹林寺の脇坊の僧だったとそうです。駆け落ちをした純信とお馬は遠くからこの塔を恨めしく振り返ってみたのでしょう。
竹林寺の五重塔
竹林寺のある小高い五台山を降りて、下田川に沿って東に約2キロあるいたところ地蔵橋で、ぼつぼつ日没。タクシーを呼んで、一番近い宿「ホテル土佐路たかす」へ。近くに民宿や旅館などないので、仕方なくビジネスホテルに。6000円近くもするし、便利だけど無味乾燥。ビジネスホテルだけは避けたかったけど・・・ (注:「坊さんかんざし」;竹林寺の脇坊妙高寺の僧の純信と鋳掛屋の娘お馬のロマンスは「よさこい節」で有名。1855年、純信とお馬は駆け落ちし、讃岐で捕まり、純信はのち伊予川之江で寺小屋の師匠となり、お馬は大工寺崎米之助の妻となった。) (注:五重の塔:四国札所には五重の塔はたった4基しかなく、他は讃岐の国の70番本山寺と75番善通寺と86番志度寺です。) |
E 第三十一番札所竹林寺から第三十五番札所清滝寺 2008年2月11日(月)
| 「ホテル土佐路たかす」から昨日歩いた地点地蔵橋まではタクシーで。地蔵橋から第三十二番札所禅師峯寺(ぜんじぶじ)へは南の方へ約6キロ。禅師峯寺の手前の、石土池には沢山の水鳥が遊んでいました。周囲の完備された歩道では、犬を連れたりしてる散歩の人に何人かにっこり挨拶しました。小高い山の上の本堂のご本尊十一面観音菩薩は木彫で清貧な雰囲気の顔立ちでした。
禅師峯寺本尊:十一面観音菩薩
大師像も見事で、華やかに飾られていました。大事にされているという印象です。
禅師峯寺大師像
第三十二番札所禅師峯寺から第三十三番札所雪蹊寺(せっけいじ)へは西の方に約8キロ。種崎渡船場までは、左右を巨大なビニールハウス群にはさまれた道をひたすら真西に向かいます。渡船場で1時間に1本の船を待っていると、岐阜からきたという大柄な中年の男性がやってきました。「渡船場の近くに店があると地図に書いてあるのに、店がありませんね」と話しかけてこられました。「店はよくつぶれて、地図の表示はあてになりませんね」と相槌。「私は区切り打ちですが、いい事があると元気付けられ長く歩き、いやなことがあると早めに切り上げて戻っています」と。「仏像の本や、四国の歴史の本を読んでると、お遍路がより楽しいですよ」と返事。「じゃ、ちょっと仏像の本を読みましょう」と。この高知県営フェリーはなんと無料。対岸の長浜渡船場まで所要時間はたったの5分。
高知県営連絡船
長浜渡船場から雪蹊寺までは西に真っ直ぐ約1.5キロ。 雪蹊寺には脱活乾漆法(だっかくかんしつ)で作られた国宝の仏像が多いと聞いてきたのに、仏像も本尊も非公開で、がっかり。阿波国や讃岐国の大寺の多くを焼き去った長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の菩提寺(ぼだいじ)はお遍路さんに人気がないのでしょうか、ひっそりしていました。
雪蹊寺本堂
小さな「長曽我部元親墓地」の案内板を見つけ、建物の下をくぐり狭いわき道を裏に廻ると質素な小さな墓標が3つ並んでいました。随分、遠慮したものだと。
長曽我部元親墓標
第三十三番札所雪蹊谷寺から第三十四番札所種間寺(たねまじ)までは西へ約6キロ。ここら辺は用水路が発達していて、遍路道の大半は澄んだ水の用水路にそってあり、道も解り易いし水面を見ながらの遍路は気持ちのいいものです。境内の子育観音に底の抜けた柄杓(ひしゃく)が沢山奉納されています。これは、妊婦が柄杓を持参して安産祈願を頼むと、寺で底を抜き祈願して渡し、安産するとお礼にその柄杓を納めに行くのだそうです。多分、水が抜けるように、すっと子供が生まれることを願うのでしょう。 (注:種間寺:『(たねまじ)』6世紀後半から8世紀の飛鳥時代の頃のこと、敏達天皇(在位572〜585)の6年(577)、百済から大阪の摂津四天王寺を建立する為に仏師たちが招かれ、帰国の途中、暴風雨に遭い、春野町(現在高知市)秋山の湊に避難しました。このとき、航海の安全を祈って、薬師如来を刻み本尾山頂に安置しました。当時の東アジア情勢は「高句麗ー百済ー倭国」と「唐ー新羅」のブロックが対立していて、百済に政治緊張が高まっており、日本との同盟を諮って技術者を派遣したものです。後に弘法太子が訪れ、薬師如来を本尊として堂宇を建立、唐から持ち帰った五穀の種を蒔き、「種間寺」と号し、第34番札所として定められました。)
子育観音(薬師如来)と奉納された底の抜けた柄杓
本尊は非公開だけど薬師如来なので、左右の仏像は日光菩薩と月光菩薩でしょう。手すりに近づいて見ようとしたら、ブーと大きな音が電灯がついたのでびっくり。失礼しましたと、後ろに下がって礼拝しました。
種間寺の日光菩薩と月光菩薩
第三十四番札所種間寺から第三十五番札所清滝寺(きよたきじ)へは仁淀川(によどがわ)まで西に約4キロ行き、それから川沿いに北の方へ約5キロ。寺の名の由来の滝は、本堂のすぐ右手にあり、小さい滝でした。
清滝
境内には大きな厄除け薬師如来像があり、紅白の飾りのあるパイプの門をくぐり、胎内巡りをしました。全く真っ暗な迷路を南無阿弥陀仏を唱えながら、自分が神仏と両親によって生命を与えられ、母の胎内から出てくるまでは、この様だったのだろうかと、想像しながら。
厄除け薬師如来像
寺の境内から、携帯で宿を探していると、テントでみかんなど土産を売っている人が、「喜久屋旅館がお遍路さんに人気ですよ」と。清滝寺から「喜久屋旅館」までは2キロ。土佐インターチェンジの近くの古い旅館「喜久屋旅館」のおばさんは非常に親切で、いろいろアドバイスもしてくれて、まるでお母さんが息子にするような気配りです。宿賃も素泊まりでたった3000円。紹介された近くの食堂で食べた、イカ天定食と、マグロの刺身も手ごろな値段で美味しかったです。
|
F 第三十五番札所清滝寺から第三十六番札所青龍寺へ 2008年2月12日(火)
|
「喜久屋旅館」から第三十六番札所青龍寺(せいりゅうじ)へは南の方へ約12キロ。7時前「喜久屋旅館」のおばさんに笑顔で見送られ、すぐ一筋南の角に、薦められていた「フェロー」という喫茶店でモーニングサービス。なんと5時半から営業なのです。もう店内には5−7人の客がいます。「なぜ、こんなに皆さん早いのですか?」に、「みんな、今から仕事にでるからです」と。これは営業ではなく、ほとんど仲間の世話だと思いました。それで、店の名前が仲間「フェロー」なのかと、納得。 宿から約5キロ歩いたところ塚地坂トンネルの手前に素敵な塚地坂休憩所があり、中には小さなテントが張ってあり、ジョギングシューズが並べてありましたが、挨拶をしても返事はありませんでした。起こすには少し早すぎたのかな?
塚地坂休憩所
宇佐漁港を過ぎて浦の内湾をまたぐ延長1キロの巨大な宇佐大橋を渡ります。橋の上から海岸と、めずらしい沖に出来た大きな中州の眺めはうっとりするほど最高です。 青龍寺の石段の下の方で滝壷で修行している人がいました。「後ろから写真を撮ってもいいですか?」と聞くと、にっこりとされ、「いいです。ここでは私の祖母の代から修行がされてました。私は、この寺を出ていますが、修行を続けています」と。この修行は私は機会があれば、是非やりたいです(しかし、もう少し暖かくなって)。訓練での慣れもあるのでしょうが、やはりすごいと思いました。
青龍寺滝壷
青龍寺は宇佐漁港の入り口なので、ご本尊は漁民の守り神波切不動明王なのは理解できます。台風は悪魔でしょう。
青龍寺向かって右の不動明王
青龍寺向かって左の不動明王
第三十四番札所清滝寺から県道47号線(横浪黒潮ライン)と(県道23号線の合流点中の浦までは約15キロ。2.5キロ戻って、浦ノ内湾の北沿いの県道23号線を歩いたほうが、平坦で楽だと聞きましたが、逆打ちは癪なので、上り下りはあるけど、景色のよさそうな横浪黒潮ラインを選びました。期待にそぐわず、左手の太平洋の沿岸は松島にも負けない絶景でした。
半島外側の小湾
いくら歩いても休憩する所がなく、横浪黒潮ライン中ほどの納骨堂の入り口でやっと自動販売機を見つけて、カロリーのありそうな甘酒を購入。浦ノ内湾の一番奥の中の浦まで、とうとう1件の店もありませんでした。横浪黒潮ラインですれ違った車は十数台だったと思います。観光のためとはいえ、こんな立派な道を作らなくても、一車線で時々離合場所を作ればいいのではと・・・ 昔は青龍寺へも「龍の串の渡し」があって、皆船で渡ったそうです。
さらに先の半島外側の小湾
横浪黒潮ラインを歩いていると、このライン唯一のトイレ休憩所の広場に大きなブロンズの像が立っていました。坂本竜馬の像かなと思い近づくと武市半兵太(たけち はんぺいた)像と書いてあります。多分、維新の志士でしょうが、知りません。帰って調べてみました。
武市半兵太像 (注:武市半兵太『たけち はんぺいた』:半兵太は土佐藩独特の「白札」という身分で、郷士(山内氏ではなく、旧主
長宗我部氏に仕えていた武士)の中では、かなりの名家で裕福な家に育った。藩政改革の推進者で公武合体派の吉田東洋を暗殺し、藩論を謹皇攘夷に統一した上で討幕を実現すべく暗躍したが、志半ばで捕えられ切腹させられた。愛妻家で、剣術は桃井道場(江戸三大道場の1つ)の塾頭をつとめるほどの腕前、頭が良く、詩も画も上手く、美丈夫で、人望もある。才能という才能をかきあつめたような人材は幕末期にあってはことごとく早死にである。もちろん半兵太も例外ではない。) 立派な道路を作るより、須崎駅前のようになった中小企業を支援するために予算を使うべきではと・・・ また、便利な宇佐大橋より「龍の串の渡し」で渡ってみたかったです。 ところで、「龍の串の渡し」とは、綱を船の中央に串のように通して、それを引っ張って船を進めたからでしょうか?
|
G 中浦から第三十七番札所岩本寺へ 2008年5月3日(土)
|
中の浦から第三十七番札所岩本寺は南西へ約42キロ。前の日にJR高知の前のビジネスホテルに泊まり、今日始発の電車でJP多ノ郷(おおのごう)につき、そこからタクシーでここ中の浦まで東の方に戻り、7時半ごろら歩きの出発です。ご覧の通り、バスの時刻表には一日5本ぐらいしか須崎方向のバスがありません。高知では田植えが早いので、もう田んぼの稲がみどりに映えています。
出発点中の浦
しばらく歩くと大きな鳥居が目に入り、その額には「塵捨る紙神」とありました。ここら、人家がない通りは空き缶などが目立ちます。
「塵捨る紙神」と書いた鳥居
中の浦から約5キロ歩くと、おなかが空いたとき、嬉しいことにコーヒーハウス「おとずれ」が見えました。ここから右折して橋を渡り、大阪住友セメントの前を通るのが近道です。ここのモーニングサービスは、ボリュームがあり、絶対お勧めです。「美味しいし、量が多いですね」とお上さんにいうと、横のお客さんが「お上さんの愛情一杯だからね」と。 コーヒーハウス「おとずれ」
JR安和(あわ)駅から山側の道と、海岸沿いの道に分かれますが、少し遠回りになるけど、私は景色のいい海岸沿いの道を選びました。選択は間違っていませんでした。
JR安和駅を過ぎた海岸から須崎の町を臨む
午後5時ごろJR影野から岩本寺の宿坊に電話したら、「素泊まりで、相部屋でよかったらいいですよ」と、運よく一人分だけ空いていました。それから2時間JR仁井田(にいだ)まで歩いて、列車に乗り、一駅次のJR窪川(くぼかわ)に着き、第三十七番札所岩本寺に急ぎました。
岩本寺山門
本堂の本尊(阿弥陀如来など5体)は見えませんが、右側ですらっとした観世音菩薩さんが迎えてくれました。
岩本寺本堂
相部屋では私と同じぐらいの年の人が多く、4、5人と一時間ばかり楽しく情報交換と雑談をしました。ここの宿坊は素泊まりで3500円でした。泊まっている人が全員お遍路さんなので、すぐ打ち解けて、昔からの友達ような気がします。宿が取れるなら、絶対宿坊です。
|
H 第三十七番札所岩本寺から井の岬温泉ホテル 2008年5月4日(日)
| 朝6時の列車に乗りJR窪川(くぼかわ)駅から東の方、JR仁井田(にいだ)に戻り、そこから再出発です。昨日列車に乗ってしまった、JR仁井田(にいだ)から岩本寺までは南西に約8キロ。岩本寺から井の岬温泉ホテルまでは約27キロ。岩本寺から約8キロあるいて、少し疲れて休みたいなと思っていたら、素晴らしい水のみ場のある休憩所が見つかりました。
水のみ場のある休憩所
しばらく歩いていると、若い外国人が追いついてきました。彼と30分ばかりおしゃべり(日本語で)しながらあるきました。彼は「カナダのノボスコティ州からきました。ノボスコティは新しいスコットラノドといういみです。日本では日本語から英語のの翻訳の仕事をしています。赤毛のアンで有名なプリンスエドワード島は近くです。今、仕事がなくなったので、休みに遍路にきました。日本に着てから3年目です。槍ヶ岳や白馬山など日本の多くの山に登りました。日本は、非常に細かいところまで綺麗で、世界一綺麗です。」などと。 JR伊与喜(いよき)から、歩く遍路道に入りしばらく行くと、素晴らしくクラッシクなトンネルが見えてきました。熊井トンネルと案内板がありました。
熊井トンネル
「トンネルというものは入り口は大きいが、出口はちいさんものじゃのう」と言った人があるそうです。(笑)
熊井トンネル案内板
JR土佐佐賀駅で、もう3時なので、宿の予約を取ろうと電話をしても、何処も一杯で、駅で泊まるしかないかなと思って、最後のつもりで、井の岬温泉ホテルに電話を掛けると「テレビの付いてない部屋でよければありますけど」という返事に飛びつきました。JR土佐佐賀(とささが)駅までずっと山の中の道で少し退屈で、そこから先は井の岬まで6キロずっと美しい海岸沿いの道で、楽しい遍路道です。
JR佐賀公園付近から、鹿島と奥の土佐佐賀の町
JR白浜近くに来て、美しい白浜を期待してたのに、海岸はセメントのテトラポッドで一杯でなぎさは全く無いのにはびっくり。
JR白浜近くの海岸
5時半ごろ井の岬温泉ホテルに着き、本物の温泉と美味しい海の幸の夕食にありつき、最高に幸せな気分でした。砂漠の中に竜宮城です。食堂で岩本寺で会った人とまた会い、少し歓談。 それにしても、テトラポッドで埋め尽くされた海岸があちこちで目立ちます。もっと岩の形に似せて形を作ったり、表面に模様をつけるとか出来ないのでしょうか。崖の防御壁は自然に近いよう工夫されたものが増えてきているのに・・・
|
I 井の岬温泉ホテルから真念庵 2008年5月5日(月)
|
朝5時半、小雨の中を井の岬温泉ホテルを発ちました。井の岬温泉ホテルから真念庵(しんねんあん)までは南西に約27キロ。ひたすら海岸沿いの国道56号線を約6キロ歩き道の駅ビオスおおがたに着くと、なんと昨日会ったカナダ人の青年がひょっこりやってきました。また2人で雑談しながらでモーニングサービスで朝食。道の駅ビオスおおがたからは国道を離れて、海岸沿いに松林の素敵な遊歩道を歩きます。JR土佐入野のふきんで、海岸に沢山の白いシャツが干してあります。漂白するために干しているのかな、と思ったら、シャツのアートの展示でした。入り口で300円払って近づいてみると、芸術的な写真(人物や風景やオブジェ)がプリントされたシャツが紐に吊るして展示されていました。
砂浜のシャツのアート
砂地の広大な畑の中を歩いていると、小雨の中、ねぎの様な野菜をおばあさんたちが収穫しています。「それはねぎですか?」と聞くに、「いや、らっきょです」と。畑を通り抜けるとやっと、見ることを楽しみにしてきた「日本最後の清流」四万十川(しまんとがわ)にかかる四万十大橋に来ました。観光客を乗せた大きな屋形船がゆっくり橋を潜り抜けていきました。巨大魚「あかめ」や大うなぎの姿を想像しながら、感動的に美しい川を観賞しながら土手を南下しました。
四万十大橋
四万十大橋から約7キロ南下すると1.5キロもあるトンネルを通り抜けるとすぐ真念庵ですが、時間がないので、参拝はまたの日にして、予約してたタクシーに乗り、急いでJR中村駅に向かいました。7時ごろに、家内とJR金比羅駅で待ち合わせがあるので。
ドライブイン水車
ドライブイン水車から金剛福寺まではあと28キロです。ここまで実感として、やはり遠いです。遠いからこそ、ありがたみがあるのでしょう。
|
J 真念庵から第三十八番札所金剛福寺へ 2008年6月8日(日)
|
6月7日(土)、広島を車で午後1時ごろに出発し、宇和島を経由して足摺岬にあと27キロのところ、真念庵(しんねんあん)に着いたときはもう7時前でした。遠いです!食堂水車の駐車場にある休憩所には学生2人が寝る準備をしていました。私は駐車場で車の中で寝ました。 6月8日(日)、朝うっすらと西が明るくなった4時半ごろもう出発です。真念庵から第三十八番札所金剛福寺(こんごうふくじ)までは南に約27キロ。約5キロ下ノ加江川(しものかえがわ)に沿って下り橋を渡ると、一心庵という民泊・休憩所が地蔵堂と共にありました。寄りたい気持ちにはなるけど、まだ朝早いのでパス。
民泊・休憩所一心庵
下ノ加江川の町を歩いていると、「亀の来る海岸下ノ加江浜」という立て札が目に着きました。少し、過ぎて振り返ると遠くに綺麗な浜が見えました。
下ノ加江浜
真念庵から約11キロ行った所から、大岐(おおき)海岸の砂浜が歩き遍路道です。小川には一本橋が掛けてありました。
大岐(おおき)海岸の入り口
大岐海岸は長く、道案内もないので、心配になります。サーファーの人に道を確かめては進んで行き、最後出口がわかりにくく、小さな案内札を見つけ、薄暗い林の中の細いをくぐって国道に出てほっとしました。
大岐(おおき)海岸
窪津(くぼつ)漁港で「室戸岬10キロ」の大きな道路標識が見えました。ここまで、一件の食堂も喫茶店もありませんでした。レストラン大漁屋で頂いたびわ付きのモーニングサービスはさすが美味しかったです。
「室戸岬10キロ」の道路標識と大漁屋
四国最産南端の足摺岬にたどり着きました。まず迎えてくれたのはジョン万次郎の立像の立像でした。地図を見ると、ジョン万次郎の生家のあった清水市中浜は足摺岬と土佐清水港の間の小さな、小さな漁港に過ぎません。そこから歴史的に偉大な人物が出るのですから、すごいですね。
(注:ジョン万次郎(ジョン まんじろう、1827年1月27日〜1898年11月12日)本名、中濱万次郎(なかはままんじろう)土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男に生まれた。1841年、14歳の時に漁師の手伝いで漁に出たあと遭難し、5日半漂流後奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救われる。アメリカに渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、学校で英語造船技術などを学ぶ。寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となる。帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュであったカルフォルニアで金を採掘する(おそらくゴールドラッシュに参加した唯一の日本人であろう)。得た資金で船を購入し「アドベンチャー号」と名付け、ハワイに寄港、元の仲間と再会し、1851年)共にの琉球に到達して、番所で尋問を受けたのに薩摩の本土に送られた。薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしている。英会話書『日米対話捷径』の執筆をした。日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。維新後、開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。 (1898年)71歳で亡くる。)
ジョン万次郎の立像
そして、ジョン万次郎の立像の前の第38番札所金剛福寺の山門に廻るともう多くの参拝者でにぎわっていました。
金剛福寺の山門
金剛福寺の庭は大改造中でした。こんな巨石だらけの庭で、気分がしらけてしまいました。元の自然を生かした改造にして欲しいです。
金剛福寺の本堂と庭
嬉しかったのはお接待のお守りです。納経所のひとが「歩きですか」と聞かれ、「はい」と答えると、「お接待です」と言って、このお守りを手渡してくれました。歩き遍路の人のみへのお接待だそうです。 かわいい人形なので、気に入り携帯につけています。
金剛福寺唐のお接待のお守り
金剛福寺からの帰り道ほんのしばらく行き、行きは気がつかなかった歩き遍路道に入ると、休憩所・善根宿がありました。「無料で宿泊もできます」と札もありました。(私の持っている地図にも、本にものっていません。マル秘情報です!?)
金剛福寺近くの休憩所・善根宿
金剛福寺の約13キロ手前の以布利港の近くの海岸で採取した貝類を家に戻って調べました。 黒潮の影響で南方の貝類が多いです。チャイロキヌタはタカラガイの仲間、マダライモとデイトリイモはイモガイの仲間で、共に南方の貝類です。 上の段右から @ ミノガイ AとB チャイロキヌタ 下の段右から C センジュガイ D マダライモ E デイトリイモ
足摺岬手前:以布利(いぶり)の貝類
最大の難関、足摺岬の金剛福寺を過ぎました。悟りも、霊験もありません。疲労のみです。解るといえば、自分の小ささがよく解ります。仏はこのような、宝石(貝類)を小さな海岸にもちりばめておれれます。
|
K 真念庵から第三十九番札所延光寺 2007年7月20日(日)
|
19日より、真念庵(しんねんあん)の近くの食堂水車の前の駐車場で車中仮眠して、20日朝5時半から歩き初めです。真念庵から第三十九番札所延光寺は北西へ約24キロ。 駐車場のすぐ東側から、山道に入ります。うす暗い細い道をしばらく行くと、小さなお堂真念庵が見えました。粗末なのは仮のお堂だからでしょう。
真念庵 (注:真念;大阪寺嶋の勧進僧真念は『四国邊路道指南』を貞享4(1687)年に著した。内容は、四国に旅立つための準備や用意するもの、大阪から四国へ渡海の案内の始まり、札所1番から88番までの本尊・由来を網羅し、その間の里程まで記している。四国88ヶ所の順番を定めた最古の道中安内記である。)
真念庵の前には苔むした石仏群が並んでいました。盛んだった往時が偲ばれます。
真念庵の前の石仏群
真念庵の参道を降りるとすぐ、三百五丁の道標がありました。この道標によれば、1丁が500メートルですので、39番札所までは約30キロということですが、道がよくなったので、へんろみち保存協会の地図によれば、わたしの予定するコースでは24キロです。
3百5丁の丁石
道々、ユリ科の花ノカンゾウの花が私の目を楽しましてくれます。
ノカンゾウ
ここのT字路から、右に曲がるのが旧来の遍路道です。真念の道標の説明文を読んでください。
真念の作った道標
遍路道導の創始者といわれる真念の作った道標です。「右遍路みち、左大ミつ(水)のときハこの道よし」と読め、嬉しくなりました。 (注:真念の道標;四国において空海が山岳修行時代に遍歴した霊跡は江戸初期の真念によって200以上道標がたてられ、札番号を付けてまとめられ、俗に言う四国八十八箇所の寺々他多くの霊跡として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている)
「右遍ろみち、左大ミつ(水)のときハこの道よし」の道標
炎天下、14キロあるいたところで、休憩のためにも、食堂水車までタクシーで戻ろうと、この近くの三原村と下ノ加江のタクシー会社に電話をしても事情があり、きてくれません。仕方なく、さらに歩いていると、壮年の男性が数人伐採の仕事をしていたので、事情を話すと、「水車まで送ってもいいよ」といわれます。喜んで依頼しました。近くに、その人たち(NPO法人:いきいきみはら会)が作ったすばらしい遍路宿清水川荘(個室で定員6人)がありました。この会は地域興しをし、間伐材を利用して地球環境にも役立てようとする会だそうです。水車からまた車で清水川荘まで戻りました。一気に歩くと熱中症になりかねないので、わざと途中で車を取りに戻ったのです。
遍路宿「清水川荘」
清水川荘からさらに県道21号線を歩いていると、高い橋があり、下を覗くと中筋川ダムのダム湖で親子が10人ばかり涼しそうに泳いでいました。わたしも、ドブンとつかりたいところですが、なにしろ橋が高いので、水辺に到達するのが大変そうなので、あきらめました。清水川荘から7キロ歩くと土佐くろしお鉄道の平田駅につきました。そこからまた平田タクシーで清水川荘へ戻り、車で平田駅に戻りました。平田駅から延光寺はすぐで、畑の中の道を北東へ3キロです。狭い曲がった坂道を登ると突然大きな山門が目の前にありました。
第三十九番札所延光寺山門
本堂右手の目洗い井戸は空海が村人が飲み水に困っていることを知り、錫杖で地面をついたら湧き出たもので、その水は眼病に効くそうです。私も汗で真っ赤になった目を冷やしました。井戸水らしく冷たい水でした。お地蔵さんのめははみんなが擦るので、妙に白くなっていました。
目洗い井戸
ここのお寺の梵鐘は境内に住んでいた赤亀が竜宮城から運んできたという伝説があります。実は、私の推測ですが、昔、宿毛(すくも)の海岸で、村人が赤亀の周りの流木を取り除いたり、けものを追い払ったりしながら、「うちの村は貧乏でお寺に梵鐘も買えん。赤亀さん、竜宮城から梵鐘をひとつ持って帰ってくれんだろか」と話しかけているのをそこに通りかかった宿毛港に出入りしている大阪の商人が小耳に挟み、大阪からこっそり梵鐘を寺に運んだものです。それを知らない村人が、突然あらわれた梵鐘をみて、これは赤亀が運んだのに違いないと思ったのです。
延光寺の梵鐘を背負った赤亀像
延光寺から西へ8キロ、土佐くろしお鉄道の終点宿毛(すくも)駅まで歩き、また平田駅まで戻り、そこから車で宿毛駅に戻りました。途中東宿毛駅より松田川の写真をとりました。駅で待っている中年の男性にこの川はなんと言う川ですか?と聞くと「松田川です。ここらでは四万十川に次ぐ大きな川です。川が随分汚くなりました。私が小さい頃は、たくさん鮎がいて、取ったものです。琵琶湖から稚魚を持ってきて放流などしてますが、今はほとんど取れません」と。
東宿毛駅より松田川を望む
宿毛駅さらに3キロ西、くねくねした道を探し探し、立派な国民宿舎椰子(やし)にたどり着き、素晴らしい温泉(入浴料500円也)に浸かりました。探しがいがありました。今晩は宿毛駅の駐車場で、車中仮眠です。眼が真っ赤で、コロコロするので、国民宿舎でもらった氷で、眼を冷やしながら寝ました。バンダナをタクシーの中に忘れて、滝のような汗がもろに眼に入ったからです。これもいい(?)経験です。
|
L 第三十九番札所延光寺から第四十番札所観自在寺へ 2007年7月21日(月)
|
宿毛(すくも)駅の駐車場で仮眠して、朝5時半から歩き初めです。土佐くろしお鉄道宿毛駅から第四十番札所観自在寺までは北西に約26キロ。宿毛駅から真北の方へ、出会う人に道を聞きながら、近道をして山道にはいりました。この山道は直射日光が当たらないので、快適です。松尾坂番所(関所)は伊予に入る唯一の関所だったので、往時はにぎわったそうです。
松尾坂番所跡
宿毛駅から約5キロ歩くと山頂の松尾大師堂跡の小さなお堂(標高300m)につきました。戸は閉まっていたけど、大きく開けて、礼拝しました。
松尾大師堂跡
中には大師像が三体納めてありました。宿泊してもいいのだそうですが、こんな大きな像が近くにあると、気になって居心地が悪いのではないかと・・・
松尾大師堂の大師像
さらに山道を3キロ歩き、県道299号線に出て、やっとトイレと水にありつけました。
県道299号のトイレ
よく見れば、商店街から右に入る道の角に、「第四十番札所観自在寺3丁」の高い道標があります。左の角の「大師饅頭」を売ってる店池田屋は残念ながら日曜なので閉まっていました。
第四十番札所観自在寺3丁の道標
観自在寺は2007年6月17日に納経は済ましているので、今回は参拝してお守りを買いました。白壁の映えるスマートな感じのお寺です。
第四十番札所観自在寺山門
本堂は修理中でしたが、横から入ることができ、写真もとってもいいといわれたので、ありがたく本尊の写真をとりました。本尊に近づけなく、小さすぎて表情がよく解らないのが玉にキズです。
第四十番札所観自在寺ご本尊薬師如来 観自在寺前の平城札所前バス停のところにある、地域産物の売り場で、炊き込みご飯とじゃこ天を買って、待合のベンチで昼ごはんをしながらバスを待ち、宿毛駅に戻りました。家へのお土産は宇和島産のじゃこ天の残りです。 7月20日と21日で、足摺岬の真念庵から、39番の延光寺を経由して、観自在寺まで約54キロを歩いたことになります。ニュースで連日熱中症で倒れたひとが多いと伝えられています。 猛暑日にお遍路はお勧めではありません。なぜなら、 @ ばて気味では、距離が伸びません。(最悪は熱中症) A 汗で目が充血し、真っ赤になりました。(外傷性結膜炎) B 腰と足の甲にあせもが出来ました。 C 黒いコウモリ傘をさして歩くので、風景はあまり楽しめません。 D 道中2人のお遍路さんをみかけました。話をする元気も出ませんでした。 強烈な思い出にはなりましたが、まるで我慢大会でした。
|
四国歩きお遍路へ戻る
HOMEへ戻る