讃岐の国(涅槃の道場) 

    さぬき        ねはん            

第六十六番札雲辺寺から第八十八番札所大窪寺

そしてお礼参りで、第一番札所霊山寺へ

(写真135枚)

 

讃岐の国札所(「四国八十八ヶ所詳細図帖」:雑誌四国発行より)   

 

 丸数字をクリックするとその段落へ行きます。  

@

 第六十五番札所三角寺から第六十七番札所大興寺  2007年6月10日(日)

A

 第六十八札所神恵院から第七十三番札所出釈迦寺  2007年11月11日(日)

B

  第七十三番札所出釈迦寺から第七十八札所郷照寺     2007年11月17〜18日

C

 第七十九番天皇寺から第八十二札所根香寺   2007年12月2日(日)

D

 第八十三番札所一宮寺から第八十五番札所八栗寺     2007年12月16日(日)

E

  第八十六番札所志度寺から第八十七番札所長尾寺  2008年8月6日(水)

F

 第八十七番札所長尾寺から第八十八番札所大窪寺  2008年8月17日(日)

G

 第八十八番札所大窪寺から第一番札所霊山寺   2009年9月22日(火)

 

 @ 第六十五番札所三角寺から第六十七番札所大興寺へ 2007年6月10日(日)

  第六十五番札所三角寺(さんかくじ)から第六十六番札所雲辺寺(うんぺんじ)までは約30キロも。ここら辺の田んぼではお玉じゃくしが沢山泳いでいます。私の家の近くの田んぼにはかえるがほとんどいません。かえるも鳴かないような田んぼで出来たお米は食べたくないものです。三角寺から約8キロ歩いて下り坂を終えたところで、大きな赤い鳥居の目立つ番外札所「椿(つばき)堂

 

番外札所「椿(つばき)堂」。

 

 お堂の内正面に大きな五鈷杵(ごこしょ)が飾ってあり、その説明では、肖像画の弘法大師さんがよく手にしている五鈷杵は邪心などを打ち砕くという仏具だと。以前から何なのかなと不思議に思っていたのがやっと解りました。

 (注:五鈷杵金剛杵(こんごうしょ)のひとつで、密教法具。執金剛神(金剛力士ともいう)が手に持っているのも金剛杵である。仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様を、古代インドの短剣状の武器ヴァジュラに譬えて法具としたもの。)

 

 

五鈷杵

 

 境内の隅に、子授かりのご利益のあるという大福さんがいて、その前掛けがもっこり盛り上がっているので、覗いて見るとてかてかのりっぱなものが!

 椿堂から約5キロ坂を登ると愛媛県と徳島県の境の「境目トンネル」。車がとばすので、恐いので大急ぎでトンネルを通過。雲辺寺口というバス停からすぐにすごい急な上り坂。午後2時ごろやっと四国88ヶ所中最も高い札所雲辺寺(標高約910m)に到着。一番の難所にきた証拠に茄子(なす:雲辺寺のシンボル:願いを成し遂げる意味)の形の飾りのあるお守りをいくつかゲット。

 

なすの形をした雲辺寺お守り

 

 一言(ひとこと)観音さんが境内にたっていたので、一言(なんと言ったかは内緒)。

 

一言観音

 

 北のはずれの方に等身大のみかげ石の五百羅漢(らかん)さんが(実際には100人ぐらい)笑ったり、泣いたり、怒ったりと表情豊かなのですが、異様で恐い感じです。

 第六十六番札所雲辺寺(うんぺんじ)第六十七番札所大興寺(だいこうじ)までは約10キロ。大興寺の行き方を地図帳を開いて納経所で聞くと、「この地図は車の道が主なので、歩く道が載ってないのでだめですよ」と。本屋で歩く遍路道の地図を買われたら」と言われ、とにかくロープウエイの乗り口の右手を北の方へ行くよう指差されて、納経受付の制限5時までに着くようにと急ぎ足。大興寺へ下る道の周囲には50基の遍路墓があるそうです。凄い崖淵(がけっぷち)もあります。途中、キロ数を書いた道標や、古い丁石(1丁は90m)やお地蔵さんが多く並んでいて、道に迷うことはありません。

 

四十丁の丁石を兼ねたお地蔵さん

 

 515分前頃、どうにか大興寺の山門に着くと、その前に眼鏡をかけた托(たくはつ)のお遍路さんが「もうすぐ上が本堂ですよ」とにこにこして立っていました。少し小銭を寄付して、急な石段とあがり本堂に駆け込みました。

 

大興寺の山門

 

 後はタクシーで最寄りの駅観音寺駅へ。さっそく、駅近くの本屋で「四国八十八ヵ所を歩く」(山と渓谷社発行、定価1750円;http://www.yamakei.co.jp/  )を買いました。へんろみち保存協力会監修のせいか、今まで見ていた2冊の本よりずっと歩く道が詳しいです。今日歩いた距離は合計48キロ。気温は30度近くあり、正直疲れました。

 リッチなお寺では、新しい大きな仏像や、お釈迦さんや石碑が多く並んでいますが、あまり大きいものは威圧感が強く、等身大かそれ以下のものが親しみが持て私は好きです。それより、老人ホームや幼稚園など福祉の方にお金を使ったほうが仏道にかなっているのではと思うのですが。私は小さい頃お寺の幼稚園に通いました。花祭りの時飲んだ甘茶の味は忘すれられません。   

 第六十七番札所大興寺からJR観音寺まで  

2007年10月23日(火)

 今日は今までに歩きをしてない2区間の歩きです。JR大西駅から第五十四番札所延命寺まで約3キロを歩いて、次に車で第六十七番札所大興寺まで移動して、そこから北に向かってJR観音寺まで約7キロの歩きです。牛糞のにおいのする田畑の中をさわやかな風に吹かれて、まっすぐに北の方へ向かいます。途中で中年の婦人が車から手招きしますので、近づくと千円札の接待。お金の接待を受けたのは初めてです。単純な道で退屈していたので、非常に嬉しく元気が出ました。

 

 

  A 第六十八札所神恵院から第七十三番札所出釈迦寺  2007年11月11日(日)

 JR観音寺から第六十八札所神恵院(じんねいん)は約1.5キロ。JR観音寺から真北に進み財田川を渡り、赤い琴弾八幡宮の社の前をすぎれば、もう到着。神恵院本堂のコンクリートの門にはギョ。(兵火や失火で何度も堂宇が焼失した過去の歴史を考えれば、気持ちはわかりますが・・・)

  (注:神恵院本尊:空海が行脚中、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を染筆し本尊として安置し、札所と定められた。)

 (注:本地仏【ほんじぶつ】:如来等が姿を変えて現れたのが、菩薩や権現で、本地仏は菩薩や権現の元の仏。)

神恵院のコンクリートの門

 

 本堂もコンクリートですが、少しまし。小窓の奥に金色に輝くご本尊薬師如来さんが照明で見えたので、ありがたく礼拝しました。

 

神恵院の本堂

 

 第六十八札所神恵院(じんねいん)と第六十九八札所七宝山観音寺(かんのんじ)は同じ境内にあります。観音寺は徳島にもあるので、区別するためにここのお寺は七宝山観音寺と呼びます。

七宝山観音寺の本堂

 

 観音寺と言うだけに、5観音のそろい踏みは見事です。観音寺の納経所で神恵院の納経も同時に出来ます。しかし、2寺分600円が必要です。

 (注:明治の神仏分離令により、第68番札所琴弾八幡宮の本尊聖観世音菩薩(空海が刻んだと言われる)が七宝山観音寺の西金堂に移されたためにひとつの境内に二つの札所となった。)

観音寺の5観音

 

 第六十九八札所七宝山観音寺から第七十札所本山寺(もとやまじ)までは約4.5キロ。財田川の東側の土手をひたすら南に歩くと、はるか遠くに本山寺の五重の塔が見えてきて、あそこまでだ、と元気がでます。

    ↑本山寺の重の塔

 

 本堂は1300年建造で香川県唯一の国宝建造物で、どっしりとして威厳があります。

本山寺の本堂(国宝)

 

 五重の塔は明治43年に再建されたと、前の石碑に書いてありました。3年前に無くなった父の誕生の年です。凛と聳えるこの塔はなんだか父の魂もここにあるような気がし、深く礼拝しました。

(注五重の塔:四国札所には五重の塔はたった4基しかなく、他は31番竹林寺と75番善通寺と86番志度寺です。)

本山寺の五重の塔

 

 第七十札所本山寺から第七十一札所弥谷寺(いやだに)までは約12.5キロ。ほとんど国道11号線に沿った遍路道を東にずっと歩きます。山道を登りかけたところに足湯があったので、疲れた足を入れたら、心地よい冷泉でした。

いやだに温泉足湯

 

 海辺の観音寺から、死者は山に登るという山中他界説の形を弥谷寺は残していて、参道には非常に沢山の地蔵像や観音像が並んでいます。昔は、地元で人が亡くなると、身内の者が両手を背中に回し、死者を背負う格好をして弥谷寺に連れて行き、降ろすと振り返ることなく帰ったそうです。この話は、死者に安らかに成仏して欲しいという優しい心の儀式だと、心を打たれました。その風習のせいでしょう、山内には8万4千体!!の石仏があるそうです。

弥谷寺参道の地蔵像や観音像

 

 境内に足を入れると、突然巨大な観音様が見下ろしています。仏像の中では観音様が一番好きなのですが、でもあまり巨大で威圧的な観音様はどうも・・・

弥谷寺境内の観音像

 

 弥谷寺では岩盤の中に堂宇があるので、急な階段の直前が堂宇の正面です。本堂には300段もの階段を上る必要があります。お年寄りがふうふう言って休み休み上っています。

弥谷寺の本堂

 

 第七十一札所弥谷から第七十二札所曼荼羅寺(まんだらじ)までは南東へ約4.5キロ。曼荼羅寺近くの山は綺麗に紅葉していました。

 (注:曼荼羅寺の由来:弘法大師が金剛界と胎臓界の両曼荼羅を安置したことにちなんで、曼荼羅寺と名づけられました。)

曼荼羅寺近くの山

 

 曼荼羅の大師堂の綺麗な大師像さんは見事にライトアップされていました。

曼荼羅寺の大師堂の本尊

 

 曼荼羅寺の本尊は大日如来で、境内にも女性的な大日如来の石像がありました。

大日如来の石像

 

 曼荼羅寺の境内には弘法大師お手上の笠松の老木が2002年に枯れてしまって、今ではその幹に彫った大師像が祭られています。

笠松の老木に彫られた大師像

 

 

 第七十二札所曼荼羅寺から第七十三札所出釈迦寺(しゅしゃかじ)までは南の方へたったの約.5キロ。境内には求聞持大師の像が。

求聞持大師(くもんじだいし)像

 

求聞持大師(くもんじだいし)の由来

 

 出釈迦寺の由来は、弘法大師が7歳のとき、「仏門に入って多くの人を救済したい。それが叶わないなら、身を捨てて諸仏に捧げる」と断崖から身を投げると、釈迦如来と天女が大師を助けたとうい伝説です。境内の裏に出ると捨て身ヶ嶽禅定(すてみがだけぜんじょう)の屋根がかなたに見えました。

(注:禅定(ぜんじょう)とは禅に入り修業するする所)↓

尾根の上の捨て身ヶ嶽禅定

 

  出釈迦寺からJR多度津まではタクシーで約2000円。途中大きな中国の宮殿のような、少林寺拳法の総本山が山手に聳(そび)えていました。今日歩いた距離は23キロ。

 10月の半ばには私の実家(岩国市)に友達から譲ってもらった身長約1mのお地蔵さんを安置しました。静寂な表情が大変気に入っています。2007年11月初めの連休に、奈良の法隆寺と薬師寺と興福寺と国立博物館を廻りました。多くの仏像を見て、その魅力に引き付けられました。今日の遍路コースは特別に多くのすばらしい仏像に会いました。私が仏像に関心を持ち始めたせいもあるでしょうが。この地域の人の信心の歴史を痛感しました。

 

私の実家のお地蔵さん

 

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 B 第七十三番札所出釈迦寺から第七十八札所郷照寺 2007年11月17(土)18日(日)

 11月17日、JR善通寺駅に汽車で夕刻5時前に着き、急いで善通寺の宿坊に到着。一泊2食付きで5900円。新しい鉄筋コンクリートで、4人部屋を一人で占めるという贅沢。泊り客は約25人。私にとって部屋も温泉の風呂も食事も大満足でした。18日の朝、6時から御影堂で読経。十数人のお坊さんの読経のハーモニーはゴスペラーのアカペラ以上のすばらしさで、お堂全体に響く読経に感動しました。読経のあと、御影堂の真っ暗な約100メートルの地下の戒壇(救済が実現する場)めぐりに皆向かいます。これは表現しがたいすばらしい体験でした。私が説明するより、皆さんに是非体験して欲しいので、詳しくは報告しません。

 第七十三番札所出釈迦寺から第七十四札所甲山寺(こうやまじ)へは北東へ約3.5キロ。タクシーで先回の到着点の出釈迦寺に戻りました。タクシーの運転手さんが「小学のとき、遠足でここらのお寺は七ヶ寺詣りで来ましたよ」と。私は「お遍路の予行演習みたいですね」とコメント。彼方にきれいな三角形の山が。甲山寺は毘沙門天の甲のように裏山が見えたから、名づけられたそうです。

甲山寺のある甲山(こうやま)

 

 甲山寺の境内には山に掘ったトンネルのような新しい毘沙門天洞がありました。

甲山寺の毘沙門天

 

 第七十四札所甲山寺から第七十五番札所善通寺(ぜんつうじ)へは南東へ約1.5キロ。弘法大師の父の名前「佐伯善通(さえきよしみち)」が善通寺の名前の由来。広い境内に入ると天然記念物にもなっている大師が幼少の頃から生えていた大楠木がまず目に付きました。

樹齢1300年以上の大楠

 

 境内には、新しい5百羅漢や四国33ヶ所霊地のご本尊さんもずらりと。古いお地蔵さんも、不動明王さんも、その他いろいろ。私が気に入ったのは、壊れかけの四国33ヶ所霊地のご本尊さんです。現代的には美人ではないけど、親しみのある表情の観音さんが多かったです。

古い四国33ヶ所霊地のご本尊さ

 

 御影堂の正面の池には空海の銅像と、父君の佐伯善通(さえきよしみち)と、母君の玉依(たまより)御前の石像が。

空海の銅像と、父君の佐伯善通と母君の玉依御前の石像

 

 空海が生まれ、空海の自画像が奉納されている御影堂の前には、少年時代に「真魚(まお)」と呼ばれていた頃の銅像が。

少年時代の空海「真魚」

 

 四国八十八ヶ所札所には五重の塔は4基しかなく、そのひとつです。向かって左手が南大門です。二階から上が金色に輝いているのは一部金箔が使ってあるのでしょう。見事の一言です。向かって左の金堂の金色の薬師如来も是非礼拝する価値があります。

五重の塔と南大門

 

 第七十五番札所善通寺から第七十六札所金倉寺(こんぞうじ)へは約4.5キロ。仁王門は新しく、仁王像の周りには珍しく見るのに何の障害物もありません。金倉はこの土地の郷(ごう)の名前だそうです。

金倉寺の仁王像

 

  ここは延暦寺五代座主(ざす)、智証大使の誕生の地だそうです。

金倉寺境内の智証大使の像

 

 新しい七福神の像が点在していましが、ほとんど芸術的に疑問です。このこの太った子供のような弁天さんだけは可愛らしいので写真をとりました。

金倉寺の弁財天石像

 

 

 第七十六札所金倉寺から第七十七番札所道隆寺(どうりゅうじ)へは約4.5キロ。この寺領が和気道隆の荘園で、開基も和気道隆だったので道隆寺となずけられたそうです。ずらりの並んだ百観音像はみごと。で、

道隆寺の百観音像

 

 柔和でかつ気品にあふれる顔立ちの黄金色に輝く本尊薬師如来が左右対称に二体安置されていました。

道隆寺本尊薬師如来

 

 第七十七番札所道隆寺から第七十八札所郷照寺(ごうしょうじ)へは約8キロ。ありがたく次の寺までのちょうど中間点にボランティアが作ったうちわのデザインのおへんろさん休憩所が。

おへんろさん休憩所

 

 今日出発するときは讃岐富士(さぬきふじ)を東方に見ながら、丸亀市内では南方に見ながら、そして坂出駅近くでは西方に見ながら歩きました。讃岐富士はいい道しるべでした。

讃岐富士(さぬきふじ)

 

 途中であった歩き遍路をしている中年の男性から、ここの地蔵餅のあんこがすごく美味しいと教えられたので、ひとつを口の中に、4個をお土産に買いました。うわさどおりの美味しさでした。この店のまん前にお地蔵さんのりっぱな祠(ほこら)が。この店の角を曲がれば郷照寺はすぐです。

地蔵餅本舗

 

 郷照寺(ごうしょうじ)の千体観音堂の上に大きな黄金色の観音像が立っていました。なんとなくこの観音像はマリア像に似てると思うのですが?!郷照寺の宗派は時宗で、鎌倉時代に一遍(いっぺん)上人により始められた「南無阿弥陀仏」と唱え踊り念仏をする道場だったとそうです。納経所の人たちも笑顔で迎えてくださり、これも遊行上人、一遍上人の影響かと。「踊念仏はいまでも継承されていますか?」とお寺の人に聞くと、「もう踊られていなく、具体的にどのようなものかも解りません」と。いまでも踊り念仏があれば、是非踊ってみたいものです。

 (注:四国八十八ヶ所霊場の宗派:天台宗は4ヶ寺で、禅宗は3ヶ寺で、時宗は1ヶ寺:ご存知でしょうが鎌倉時代に時宗以外に浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗が始まり、現在の主な宗派が出揃ったと教科書にあります。)

  (注一遍1239 –1289】は鎌倉時代中期の僧。時宗の開祖。一遍は房号で、法諱は智真。遊行上人捨聖(すてひじり)とよばれる。伊予国の豪族、別府通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれる。10才のとき母が死ぬと天台宗継教寺で出家。一時伊予に戻るが、32歳で再び出家、六字名号「南無阿弥陀仏」を記した念仏札を配り始める。さらに、各地を行脚するうち、信濃国で踊念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものという。16年かけて陸奥(むつ)から九州大隈(おおすみ)まで日本中を遊行(ゆぎょ)した。51歳で兵庫津の真光寺で没した。盆踊りや、出雲 阿国(いずも おくに)の歌舞伎踊りも踊念仏がルーツ。)

黄金色の観音像

 

 大きな黄金色の観音像の真下の入り口を下っていくと千体観音堂。千ではなくて、万ではないかと。ほとんどがろうそくのともし火で金色にまたたき、荘厳な雰囲気でした。

千体観音堂の本尊

 

 第七十八札所郷照寺からJR坂出駅までは約5キロ。途中三叉路で迷って、きょろきょろすると正面に鳥居のようなモニュメントがあり、その横に見事にすっきりとした道標が。そろそろ5時近くなったので、今日は歩くのお終い。

 

坂出駅手前の道標

 

       

 

 C 第七十九番天皇寺から第八十二札所根香寺   2007年12月2日(日) 

 JR坂出(さかいで)から第七十九番天皇寺(てんのうじ)までは約2キロ。途中「八十場(やそば)の水」があり、美味しい水をのどとペットボトルに。昔、景光天皇の時代、南海に征して毒魚にあたった讃留霊王と88人の兵士が、この水で蘇(よみがえ)ったので、八十蘇場(そば)の水と呼ばれるようになったとのこと。また、崇徳(すとく)上皇の亡骸を20日間漬けた霊水でもあると。

八十場の水

(注:崇徳上皇11191164は保元の乱【1156】で破れ讃岐国綾北(坂出の東方)に配流され亡くなられた。)

 お宮の境内に入ると、ちょうどしめ縄の取替え作業中でした。眺めていると、作業している人が、「このお宮はこの地で亡くなられた崇徳上皇を弔っているお宮ですよ」と。

白峰宮

 天皇寺の名の由来は、讃岐の鼓ヶ岡で崩御された崇徳上皇の柩(ひつぎ)を一時安置したことからです。納経所の門の表には鳩の印がありました。崇徳天皇の霊を弔うためでしょう。キリスト教では聖霊を鳩で表らすことは知っていましたが。お寺の方に、「案内図で高照院【こうしょういん】と書いてあるものもあるのですが、天皇寺というのとどちらが正しいのですか?」と聞くと、「寺号はその寺が一番特徴としている事を表しますので、この土地で崇徳天皇が亡くなられたので、そのことを意味する天皇寺が寺号です」と。

納経所の門

 

 白峰宮の大鳥居の奥の突き当りが白峰宮で、入って左が本堂で、右が大師堂で、白峰宮のその境内に天皇寺があるという配置です。大鳥居はめずらしい4脚の鳥居です。

白峰宮入り口

  (注:長宗我部の兵火:あとでさらに天皇寺に電話で聞いたことですが、「遍路案内の本にこの寺が長宗我部の兵火で全焼したと説明がありますが、長宗我部元親が放火したと言う意味ですか?」に天皇寺の納経所の方は「戦国時代に何度か兵火があったと歴史に記載があるので、長宗我部元親【ちょうそがべもとちか】一人が行ったと言うのではなく、戦国時代の一連の戦乱で焼失したと考えるのが妥当でしょう。それより明治時代初期の神仏分離令により、この寺も破壊されたことに留意する必要があるでしょう。四国の大半の札所が破壊されたり、焼却されたりして、それはすざまじかったと、当時遍路をしてる方が、天皇寺の先代の住職さんに報告したと聞きました」と。)

 

 第七十九番札所天皇寺から第八十番札所讃岐国分寺(さぬきこくぶんじ)までは約7キロ。途中墓の上に仏さんが乗り、墓を守っている形をいくらか見ました。これは心のこもった弔いかただと感心。

墓の上の仏さん

 

 かなた高松の方になんと言う山かしらないけど、綺麗な富士山の形の3連山が。今日は紅葉した山々を眺めながら、少し汗ばむぐらいの素敵な遍路です。

富士山の形の3連山

 

 讃岐国分寺に入ると広い境内が開けています。境内の真ん中の池の中に弁財天さんを祭ったお堂が。なぜか讃岐国分寺の目玉が弁財天のようです。

(注:弁財天はもともとインド神話の聖なる川の神サラスヴァテイ。水と農業と音楽と財宝の神でもあり、七福神のひとつ。)

讃岐国分寺の弁財天

 

 本堂の小さい格子からはるか奥に美しく輝く本尊、千手観音菩薩が見えました。もっと近づいて見たいものです。

讃岐国分寺本尊、千手観音菩薩

 

 藩主生駒一正が時報に使おうとここの音色のいい鐘楼を持ち帰ったところが、さっぱり鳴らず、ついには「もとの国分寺にいぬー」と鳴ったとので、殿様が返したとか。今は国宝に。

讃岐国分寺の鐘楼

 

 讃岐国分寺7重の塔は、今は日本一高い京都東寺の塔よりさらに高かったそうです。塔の礎石の大きさに驚きました。立っている人と比べてください。

讃岐国分寺の7重の塔の14個の礎石

 

 讃岐国分寺の北側の大きな駐車場に伽藍(がらん)の10分の1模型がありました。南大門と高い7重の塔が目出ちます。

伽藍の10分の1模型

 

 第八十番札所讃岐国分寺から第八十一番札所白峰寺(しらみねじ)までは北方に約7キロ。讃岐国分寺から真北に急な坂を上ります。白峰寺の境内の入り口に笠塔婆(さかとうば)が見えました。正面下部に「下乗」と彫られ、どんな位の高い人も馬から下りなければならなかったと。摩尼輪塔(まにりんとう)とも呼ばれ、1321年に設立。真ん中の丸い石が摩尼輪をあらわし、摩尼輪とは最終の位の修道僧をあらわす、と説明文が

笠塔婆摩尼輪塔)

 (注:塔婆または卒塔婆とはストゥーパのこと。元来は釈迦の骨や遺髪を収めた塔。墓のそばに、死者の追善のために梵字や経文や戒名を書いて立てる板塔婆も言う。)

 境内の突き当たりは崇徳天皇の菩提を弔う頓証寺が。奥には崇徳天皇の御陵も。

頓証寺

 

  階段を上り詰めた所が本堂。本堂は周りの紅葉に包まれて、絵になります。

白峰寺本堂

 

 第八十一番札所白峰寺から第八十二番札所根香寺(ねごろじ)までは東に約5キロ。約1キロ、同じ道を東に戻ります。これを戻り打ちというそうです。白峰寺から根香寺はあまり坂のない、丁石や、仏さんやベンチの多く並んだ、すばらしい遍路道です。散歩している人にも多く出会いました。ところどころに、下の写真のような心の和む、こんな素晴らしい道しるべも。

手作り道しるべ

 

 お遍路道に並んだこの石仏には三十二丁と刻んであります。あと3000メートルぐらいかなと思います。

(注:丁は90メートル。)

三十二丁と刻んだ石仏

 

 根香寺の急な階段を上り詰めたところが本堂。山門からすぐ下るのですが、縁起が良くないという人もあるそうで、山門から下るのは根香寺と、西林寺だけだそうです。

根香寺正面階段

 

 本尊千手観音を彫るために智証大師が香木を切ったところが切り株からいつまでもいい香が漂ったことが、この寺の由来と書いてあったので、納経所のお坊さんに「その切り株はどこにあるのですか」と聞くと、「そう言う伝説ですが、具体的にどの場所か、どの株かは解りません」と。本尊は秘仏で、33年目に一度の開扉とのこと。生きてるうちに見ようと思っても見れないかも。もっと再々公開して欲しいと思うのですが・・・境内には本尊を刻んだという大楠でんと。

注:智証大師【ちしょうだいし】または円珍は平安時代、延暦寺五代座主【(ざす):天台宗最高位の僧】。空海の姪の子で秀でた密教美術で彼の作が多い)

 

本尊を刻んだという大楠

 

 根香寺は讃岐八景のひとつで、もみじの名所です。紅葉狩りと写真撮影の人が沢山来ていました。下の写真を見れば納得でしょう。

根香寺の紅葉

 

 根香寺からJR鬼無(きなし)までは南方へ下り坂を約5.5キロ。今日歩いた距離は約27キロ。今日は崇徳上皇の亡骸の清めの水八十場の水、柩をを一時安置した天皇寺、御陵と菩提寺の頓証寺を巡礼したわけですが、崇徳上皇本人と慕う人々の、時代をへてもその無念さが伝わってきます。

 

保元の乱要約

保元  元年(1156)、後白河(ごしらかわ)天皇(77)の命を受けた平清盛・源義朝(よしとも)らが崇徳(すとく)上皇(75)の命を受けて事を起こそうとしていた源為義(ためよし)・源為朝(ためとも)・平忠正らの集結場所を急襲。これを制しました。これが世に名高い保元の乱で、

これにより長く続いた平安の世は終りを告げ、武家の政治へと時代は動いていきます。

 115672日。鳥羽(とば)上皇(74)が死去。当時の朝廷内の実力者は鳥羽上皇皇后で近衛(このえ)天皇母の美福門院(びふくもんいん)得子でした。近衛天皇(76)はまだ子供はありませんでしたので、次期皇位継承者としては崇徳の子の重仁(しげひと)親王と、崇徳の同母弟雅仁親王(後白河天皇:77代)の子の守仁(もりひと)親王(二条天皇:78)が考えられました。

 藤原頼長はこの戦いで矢にあたって死亡。源為義・平忠正は処刑、源為朝は伊豆大島に流されます(後自害)。そして崇徳上皇も讃岐に流されました。崇徳上皇は雲井御所(坂出市雲井橋近辺)で3年間過ごされたあと、坂出市府中町にある鼓ヶ岡の「木の丸殿」(現在鼓岡神社)に移られました。 この辺りは昔国司庁のあった所で、文化の中心として栄えました。崇徳上皇はこの鼓ヶ岡で6年間過ごされ長寛2年8月、この地で崩ぜられました。崇徳上皇は保元の乱の9年後【1164】に45歳で没しています。(暗殺説もあります。)

 上皇の遺体は葬儀に関する指示を待つ間八十場(やそば)の霊泉に20日間漬けていたとされますが、その間全く様子が変わらず生きているかのようであったといいます。こういう話が伝わるのも如何に上皇の怨念が凄まじかったかということを伝えるものでしょう。

 (注:上皇とは 天皇の譲位後の称号。太上天皇のこと。平安時代初期から、院とも略称され、天皇に対し父権を行使することが多かった。)

 詳しくは崇徳上皇ゆかりの地HPhttp://www.yasoba.com/nazo/sutoku/tsudumi.html

 

     四国遍路と世界の巡礼研究会

 

 

 愛媛大学での下記のシンポジウムを今日聞いてきました.。

 大変参考になりました。

 八十八ヶ所と数が決まったのは17世紀初めで、平安時代は主に修行僧が海岸沿いに、はっきり決まってはいなかった寺院を巡っていたそうです。 江戸時代初期の一般人の巡礼は、宿屋食事で、苦労が多かったそうです。 イギリスや、フランスや、イタリアやエルサレムの巡礼の話も興味深かったです。

 

 

「四国遍路と世界の巡礼」公開シンポジウム・研究集会
巡礼と救済四国遍路と世界の巡礼

 平成19年度愛媛大学研究開発支援経費

(COE育成支援研究)・科学研究費補助金(基盤研究B)


日時 2007128() 13:3017:00
■会場 愛媛大学工学部18番教室(工学部4号館1)
入場 無料
挨拶 小松 正幸(愛媛大学長)宮崎 幹朗(愛媛大学地域創成研究センター長)
藤目 節夫(愛媛大学人文学会会長)
内田 九州男(「四国遍路と世界の巡礼」公開シンポジウム実行委員会代表)
熊野参詣路の庶民扶助について 鈴木 景二(富山大学人文学部教授)
西国巡礼その歴史と信仰北川 央(大阪城天守閣研究副主幹)
コメント:四国遍路の観点から 内田 九州男(愛媛大学法文学部教授)

研究集会
■日時 2007129()9:0016:00
■会場 愛媛大学法文学部大会議室(本館8F)
入場 無料
古代末期のキリスト教巡礼の諸相 足立 広明(奈良大学文学部准教授)
中世ヨーロッパのキリスト教巡礼聖地と救済山代宏道
(
広島大学大学院文学研究科教授)
済州43をめぐる巡礼無辜な死を悼む旅路伊地知 紀子(愛媛大学法文学部准教授)
歩くことの効用について考える生理学的知見から浅井英典(愛媛大学教育学部教授)
記録からたどる四国遍路 井上 淳(愛媛県歴史文化博物館専門学芸員)


■主催 愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」公開シンポジウム実行委員会
共催 愛媛大学法文学部
愛媛大学法文学部多文化社会研究会(14回公開シンポジウム)
後援 愛媛大学地域創成研究センター
問合せ 愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」公開シンポジウム実行委員会
790-8577 松山市文京町3番 愛媛大学法文学部山川 廣司
電話 089-927-9333 E-mail yamakawa@ll.ehime-u.ac.jp

 会場で売っていた下記の本を買いました。

 お遍路に関する歴史的な検証で、まさに、「目から鱗」的な本です。

「 四国遍路と世界の巡礼」 (上が表紙の写真です。)

四国遍路と世界の巡礼研究会  編

法蔵館 出版

2007年05月発行

 

D 第八十三番札所一宮寺から第八十五番札所八栗寺   2007年12月16日(日)

  JR鬼無(きなし)駅からは第八十三番札所一宮寺(いちのみやじ)までは南東へ約6キロ。JR鬼無から1キロ歩くと今までのうちで一番立派な飯田休憩所が。しかし、この遍路道は30回ぐらい曲がらなくてはならない裏道、あぜ道、ジグザグ道の連続!JR鬼無駅から1キロ行ったところに出来立ての素晴らしい飯田休憩所があったけど、残念ながらまだあまり歩いていないのでパス。

飯田休憩所

 

 一宮寺の山門はすっきりと端麗。

 (注:一宮寺はもと讃岐一宮の田村神社の別当寺)

一宮中門(四天王門)

 

 「昔、意地悪な【おふく】というおばあさんがこの薬師如来祠(ほこら)に首を突っ込むと地獄の釜の煮える音がして、首が抜けなくなり、今後は心を入れ替えますと詫びると首が抜けました」と言うような説明文がありました。私も首を入れると、ほんとにグツグツと釜の煮えるような音がしました。

薬師如来祠(ほこら)に首を入れるお遍路さん

 

 その薬師如来の祠の厚い石の扉は触ると動きます。首を入れるのには勇気がいります。

薬師如来

 

  第八十三番札所一宮寺から第八十四番札所屋島寺は北西に約19キロ。高松の市街地を通って国道11号線に出るとかなたに屋根の形をした屋島が見えてきます。

春日川からの屋島遠景

 

 空海がここを通り懸かり「美味しそうな梨がなっているが、恵んでくれないか」と頼むと、持ち主はこれは食われない梨だ」と応えると、ほんとうにこの梨は食われなくなったそうです。

食わずのなし由来の地

 

 急な坂を上りきると第八十四番札所屋島寺の大きな山門が見えてきました。数年前にもここには観光で来たので、懐かしい場所です。そのときは四国村水族館にもいきました。四国村は広大な土地に四国の古い建物、遺跡など数多く移転され、一日楽しめ一押しの観光スポットです。本堂の中に大きな額が掲げてあり、それには大きな金色も文字で「廣大智慧観」とあります。「この額の文字は何を意味しているのですか?」と聞くと、寺の人は「これは観音経の1句で、広い心で物を見るという意味です」と。また、「ここの本尊は十一面観音で、金箔漆ぬりで、素晴らしい仏像です。宝物館で見ることが出来ますので、どうぞ」と言われたけど、「今日は時間がないので、残念ながらまたの機会に・・・」

  (注:鑑真和上【がんじんわじょう】(688年〜 763年):唐より和国に正式に迎えられた鑑真が途中でここに訪れ、753年この寺を開基。鑑真は、奈良時代の帰化僧で東大寺に戒壇【かいだん】を置き、唐招提寺【とうしょうだいじ】を建立した。日本における律宗の開祖。)

  (注:戒壇かいだん】とは、戒律(比丘【びく】は250項、比丘尼【びくに】は348項)を授ける(授戒)ための場所を指す。戒壇は戒律を受けるための結界(聖俗の境)が常に整った場所であり、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。)

 

屋島寺山門

 

 大きな狸の夫婦が並んでいます。狸のお母さんの左の乳にはかわいい赤ちゃんが吸いついています。右の乳は、触ると乳が出やすくなる御利益があるとのことで、てかてかに光っています。私も関係ないけどタッチ。

 (注:箕山大真明神の狸;太三郎:佐渡の団三郎、と淡路の柴右衛門と共に日本の三大名狸と言われる。空海の道案内をしたと言われる。)

屋島寺のたぬき夫婦

 

  

 第八十四番札所屋島寺から第八十五番札所八栗寺(やぐりじ)へは東に約数6キロ。屋島を壇ノ浦に下りる坂は真っ直ぐにありえないような急な坂。八栗寺登山ロープウエイの右手に草饅頭の店があります。「ひとつだけ売ってもらえますか」に「今作るから、特大だよ。100円台の上に置いとき」と。出来たても蓬(よもぎ)饅頭の解けるように柔らかくて美味しいこと。饅頭をほおばりながら、ロープウエイと平行に真っ直ぐな急だけど出来たての綺麗な道を登るとすぐ、夕日に映える剣のように尖った峯々の五剣山をバックに五剣山八栗寺の山門が見えました。

  (注:八栗寺の由来:空海が入唐前に、この地に8つの焼き栗を埋めて、帰国後に8本の立派な栗の木が繁っていたことによる。)

八栗寺山門(私の影あり)

 

  八栗寺の本尊は正観世音菩薩で、本堂の左右には威厳のある青銅の観音像が対で控えていました。

八栗寺本堂向かって左の観音

 

八栗寺本堂向かって右の観音

 

  大師堂の横には満願の笑みをたくわえたお地蔵さんが迎えてくれました。

 

八栗寺の大師堂と地蔵

 

  (注:八栗寺の由来:空海が入唐前に、この地に8つの焼き栗を埋めて、帰国後に8本の立派な栗の木が繁っていたことによる。)

 

  八栗寺からJR讃岐牟礼(さぬきむれ)駅までは、大師堂の前を通り裏参道を南に約数3キロ。薄暗くなった車道を下り、国道11号線に出ると、国道に沿ってJR讃岐牟礼(さぬきむれ)駅。栗という言葉に触発されて、高松駅で買ったのは栗饅頭「栗林のくり」(湊屋製造)。表面にこげ茶の焦げがあり、底には粟がふってある昔ながらの美味しい栗饅頭でした。

 薬師如来祠の地獄の釜の煮える音や、食わずの梨の言い伝えは、知らず知らずに私たちに、生活上の教訓を与えてくれているのだと思いました。

 

 

 

E  第八十六番札所志度寺から第八十七番札所長尾寺  2008年8月6日(水)   

 朝10時ごろJR讃岐牟礼(さぬきむれ)駅に電車で到着。JR讃岐牟礼駅から 第八十六番札所志度寺(しどじ)へは東の方へ約4キロ。JR讃岐牟礼駅から北の方角を見ると八栗寺(やぐりじ)の特徴のある岩山が聳えていました。

JR讃岐牟礼駅から望む八栗寺裏の岩山

 

 曇り空とはいえ、まだ真夏日の国道11号線を約4キロいくと真新しい道の駅「源平の里・むれ」が見えたので、まずトイレ休憩。ここから右に曲がり古い町並みの中の遍路に入ります。

道の駅「源平の里・むれ」

 

  さらに1キロいくと、静電気を発見した平賀源内(ひらがげんない)先生遺品館がありました。白壁に菊間瓦(きくまがわら)葺きの立派な建物。その左となりは生家跡でした。

平賀源内先生遺品館

 

  すぐ近くに、みちの突き当たりに石鉄山道二十丁と彫られた碑の横に立派な灯篭がありました。もうすぐだと、元気がでます。

石鉄山道二十丁の碑

 

 そこからさらに500mばかり行くと、志度寺奥の院・地蔵寺が左手に見えました。ちいさいけど、特に屋根の形のいいお寺です。

 

志度寺奥の院・地蔵寺の山門

 

 手を洗い、鉦(かね)を鳴らして参拝しました。庭では、静かな表情の釈迦像と地蔵像が迎えてくれました。小さくてもすべて機能も形も整ったお寺です。

志度寺奥の院・地蔵寺の境内

 

 JR志度駅と琴電志度(志度線終着駅)を右手に見て、500mさらに進むと志度寺の山門と、五重の塔が眼前に現れました。見るからに大きなお寺のようです。

志度寺遠景

 

  大きな仁王門の左右の巨大なぞうりが目に付きます。境内が広く、鎮守の森のように樹木がこんもりとしています。

志度寺山門

 

 本堂も荘厳です。納経所で、中年の夫婦が、「歩いて廻られているのですか。すごいですね。どういってあげたらいいんでしょう?お大事にですか?」というのを、納経所の人が聞いて「お気をつけて」でしょうと。2人の笑顔と「お気をつけて」とに送られて、元気よく志度寺をスタートしました。

志度寺本堂

 

  四国八十八ヶ所のうち、5重の塔は4箇所しかありません。志度寺の五重の塔は庭に木が繁り過ぎて、どうしても写真で全部写る場所がありません。白壁と朱色の木造部、青銅の塔輪は見事なものです。絵にも絵葉書にもなります。

志度寺の五重の塔

 

  第八十六番札所志度寺から第八十七番札所長尾寺までは真北に約7キロ。志度寺から約3キロ行ったところに当願堂という小さなお堂があり、そのすぐ先から右に入る細いへんろ道があります。この道は私の地図にも載っていません。その細い道のそばに集められたお地蔵さんが幾つも並んでいました。草むらの中で紛失してしまわないよう地域の人が集めたのでしょう。

へんろ道の名も無いお地蔵さんたち

 

  志度寺から約4キロ歩いたところに、「桃と桃のアイスクリーム」と書いた看板が見えました。生の桃の入った桃のジュースでつくったアイスクリームかなと思い、店に入り「アイスクリームをください」というと、「お遍路さんにはお接待しています」という返事にはびっくり。新鮮な桃の味のする美味しいアイスクリームを有難くいただきました。白桃やスモモのアイスクリームも売っているそうです。看板の意味は、生の桃の実と桃のアイスクリームを売っていますという意味でした。この桃の店のすぐ先で左にへんろ道に入ります。しばらく行くと八十七番奥の院・玉泉寺の山門が右手にあります。案内板には「お大師さんの休憩所」と説明がありました。

八十七番奥の院・玉泉寺山門

 

  階段を少し上ると、見事な藤棚の下に椅子代わりの大きな長い石がありました。お大師さまもきっと座られたこの石に、恐れ多くも私も座って休憩。

八十七番奥の院玉泉寺境内

 

  川土手を歩き、長尾橋を渡る手前に東屋風の素敵な休憩所がありました。猛暑日のお遍路には、ありがたいことです。

東屋風おへんろさん休憩所

 

  お地蔵さんの丁石をよく見ると、「北十三丁」と読めました。長尾寺はもうすぐです。

十三丁の丁石

 

  まず左手に3軒の遍路宿が並んでいるのが見え、その宿を過ぎると右手に第八十七番札所長尾寺(ながおじ)の山門が見えました。門の前に左右に古い経幢(きょうどう)という大きな石灯篭のようなものが小屋の中に大切に保護されていました。写経を納めた所だそうです。

第八十七番札所長尾寺の山門

 

  第八十七番札所長尾寺の境内は工事中で、山門裏の樹齢800年の大楠木(上の写真)以外に大きな木は無く、殺風景でした。「平成の大修理:寄付受付中」との看板が立っていました。私も瓦一枚分、千円を寄付しました。本堂のは破風は真新しくて、際立っていました。

第八十七番札所長尾寺の本堂

 

  すぐ近くに琴電長尾線の終点琴電長尾があります。そこから電車にのり約1時間で高松築港駅に着きました。高松築港駅のまん前がJR高松駅です。志度寺も琴電の終点琴電志度が近くでした。阿波の国は参拝に電車が便利です。第八十八番札所大窪寺では、泣く人が多いと聞いていましたが、長尾寺本堂の前で、88番の結願(けちがん)まで般若心経を唱えるのも数回だなと、思いながら般若心経をゆっくり唱えていると、なぜか涙があふれてきて、読経の声が詰まってしまいました。今年は(も)異常気象で、記録的な少雨で真夏日が続いています。今日は、歩いているお遍路さんには誰にも会いませんでした。

  『汗涙結願前で目がかすむ

 

 

F 第八十七番札所長尾寺から第八十八番札所大窪寺   2008年8月17日(日)

 16日の夜、第八十七番札所長尾寺のすぐ隣の民宿「ながお路」に宿泊。次の日が結願(けちがん)だと思うと、子供の遠足の前の日のように興奮して、夜中なんども眼が覚めました朝は5時過ぎから出発です。長尾寺から大窪寺は南に約12キロ。長尾寺から約2キロ行ったところに釈迦堂がありました。釈迦(しゃか)を祀ったお堂は珍しいのだそうです。

 

釈迦堂の釈迦像

 

  長尾寺から約3キロ行ったところに一心庵(1764年創建)がありました。昔、常接待(じょうせったい)がおこなわれていたそうです。

一心庵

 

  高い台の上に安置された高地蔵がここらにあると本に載っていたので、これかなと思って写真をとったら、思い違いで、本物はこの裏側の古い大きな岩の上の小さなお地蔵さんでした。本物の高地蔵さんはこれよりだいぶ小さなものでした。この遍路道近くには仏像が非常に多く見当たります。

高地蔵と見間違えた、裏の(東側の)地蔵

 

  しばらく行くと、道祖神がたくさん並んでいました。その中で一番ほほえましい像を写真に取りました。

道祖神

 

  前山おへんろ交流サロンの看板が見えましたが、「交流サロン」の字が竹薮に隠れて見えなかったので、「おへんろ」の字しか見えず、何の看板かわからなかったので、すこし芝刈をしました。

前山おへんろ交流サロンの看板

 

  前山おへんろ交流サロンのなかで、朝まだ、7時ごろなのに、木村照一館長さんが食事をしておられました。9時から開館にも拘わらず、電気をつけて中を少し、見せてくださいました。もう開設から9年になるそうで、元の前山町が作り、今は讃岐(さぬき)市のものだそうです。右に隣接しているのが、おへんろ展示館です。建物も展示物も立派です。うれしいことに、館長から「四国八十八ヶ所遍路大使任命書」という完歩証明書をもらいました。

前山おへんろ交流サロン

 

  交流サロンからさらに1キロ行ったところから、左の小さな山道に入ります。少し行くとこんもりした森の奥に、ひっそりとした栗栖(くりす)神社が見えました。

栗栖神社

 

  太郎兵衛館に向かう渓谷には小さな滝がいくつもあり、疲れを忘れる見事な渓谷美でした。

太郎兵衛館に向かう渓谷

 

  太郎兵衛とは、この近くの里を襲っていた猿を退治した豪傑の名前だそうです。大きな岩しかないのに、太郎兵衛館と立て札があるのは、太郎兵衛の家、館(やかた)の跡という意味でしょうか?

太郎兵衛館

 

  大窪寺までの最後の難関、女体山に向かう、「ありえない」ような道(崖?)です。鉄棒の手すりを掴んで登ります。

女体山に至る道(崖!)

 

  息を切らして、やっと女体山(標高774m)を登ると立派な東屋がありました。

女体山の東屋

 

  急峻な下り坂を下りると、なんと大窪寺の本堂と大師堂の間の境内に立っていました。まずは山門を出て、入り口に回ると八十八番結願所の石碑がここが入り口であることを証明しています。

八十八番結願所の石碑

 

  大窪寺の山門は二天門といい、等身大の木彫の帝釈天(たいしゃくてん)と凡天(ぼんてん)の像が左右に並んでいました。

大窪寺の山門:二天門

 

  本堂はスマートな佇まいでした。ゆっくり般若心経を唱え、最後に「有難うございます」といい、以前から本堂の前で言おうと思っていたこと「お母さん、お父さん、お姉さん、安らかにお眠りください。私の親不孝をお許しください・・・」などと、唱えていたら、涙が止まらなくなりました。

大窪寺の本堂

 

  ガラス越しですが、黄金に輝く大窪寺の本尊:薬師如来が拝めました。

大窪寺の本尊:薬師如来

 

  大窪寺での納経所では、お接待のお菓子「鈴の音紀行」を頂きました。納経帳には墨字では、奉納、薬師如来、大窪寺と書いてあり、朱印では、四国八十八番、蓮の紋章、結願所が押されていました。ここで、沢山のお守りを買いましたが、毎回のように、多分すぐ足りなくなるでしょう。

大窪寺での納経帳

 

  大窪寺の山門:二天門を出てるとすぐ前がバス乗り場です。しかし、バスは一日に4本しか出ていません。そこから少し南に行くと、もうひとつの山門:仁王門がありました。残念ながら、この門も仁王像も大きすぎて、けばけばしい印象でした。ここの札所には小さくても、木作りの、ひなびた門が似合うと思うのですが・・・

大窪寺の仁王門

 

  二天門の近くの食堂で食べた、天ざるうどんは、さすが讃岐うどんの本場であるだけに、一生忘れられない美味しいうどんでした。

そば地蔵(?)

 

   お守りの反射板を25個車の後ろに貼りました。 守りの反射板は売っていない札所も多いです。 これでまずは追突なしでしょう。 第一番札所の霊山寺のも、第八十八番札所の大窪寺のもあります。

お守りの反射板

 

  8月17日はまだ残暑が厳しかったです。しかし、大窪寺バス停でのバス待ちはそよ風が気持ちよかったです。バスの中では、鳴門市の近くから来たという中年のカップルと、地域のおばあさんと、運転手さんとみんなで楽しく雑談です。あっという間に琴電長尾駅に着きました。

  2007211日(日)から、仕事の合間の休みを見つけては、「区切りうち」で歩き始め、1年半で結願(けちがん)しました。春夏秋冬、広島市から四国への大変な長距離の往復でした。

 一番から歩いているうちに、段々気分が明るくなって、自信が出てきました。私の欝(うつ)症状を始めとする多くの煩悩が消えたり、小さくなったりしました。2004年に相次いで亡くなった両親の供養もできました。(親不孝の償いは出来ていませんが・・・)

  励ましの声をかけたり、お接待をしてくださったり、アドバイスをくださったり、笑顔で迎えてくださったり、安くて美味しい食事を用意してくださったり、無数の後押しを受けての1400キロでした。弘法大師さんを始め、昔から今に至るまで四国のお遍路文化を支えてくださった四国の皆さんに感謝します。

  旅の間に、仏教の本を十数冊読む機会が与えられました。私はもとクリスチャンでしたが、今は無宗派の仏教徒に近いと思っています。仏教の魅力も段々理解できて来ました。日本の仏教は世界に誇れる文化でもあり、もっと勉強、修行しようと思っています。

 思想、信条、宗派を越えて、お遍路は人の心を癒す力があることを身をもって体験しました。私のこの体験をもっと多くの人と分かち合いたいと思っています。これからもお遍路の発展と、遍路みちの世界遺産の登録に少しでもお手伝いしようと思っています。 

                                          はまあるき 

  

 

 

G 第八十八番札所大窪寺から第一番札所霊山寺2009年9月24日(日)

 

 2008年8月17日にけ結願して約一年後に、一番札所にお礼参りです。第八十八番札所大窪寺(さぬき市)から第一番札所霊山寺へは下り坂で南へ約18キロ、そして平坦な道で東へ24キロ計42キロです。途中10番から2番までの札所寺の前を通りますが、立ち寄りません。車を野田屋の無料駐車場にいて、まだ薄暗い朝5時40分から出発です。

22丁を示す丁石

  大窪寺から約2キロ歩いたことになります。丁石がほとんど整っていて、大変励ましになります。右の苔むした石に二十二丁と彫られているのが解りますか。

 (注:一丁は109メートル)

 丁石に 落ち葉の道を 導かれ

 

切幡寺まで18キロの道標

 長野のバス停にいこいの家(村の集会所)があり、そこから右手に日開谷川(ひがいだにがわ)沿いに少し小さな道に入ります。これはお礼参りの人のための道標です。約18キロほとんど県道2号線をあるくので、殺風景な道かと想像していましたが、この県道は川をジグザグに縫うように走っていて、川風に吹かれ、川の周りの景色を満喫できました。

 

英文の道標ステッカー

 歩き遍路では、1200キロが約45日かかり、自転車では約20日かかると書いてあります。

非常にわかりやすいステッカーです。

 

彼岸花で縁どりされた田んぼ

 切幡寺の手前、阿波市から北方の景色です。お彼岸ですよー、墓参りは済ませましたか?と知らせているようです。約20キロ、ここらまで来て足裏の豆が痛んできました。靴を間違えて持ってきて、安物の少しぶかぶかなビニール靴を履いて歩いたからです。

 彼岸花 無縁墓にも 手向けられ

 

切幡寺の入り口

 石柱の横に座っている男性の横に一緒に座り一服。私より少し年上に見れるこの男性は「埼玉から来ました。夜行バスに乗ってきました。もう4回目です。おへんろはなにものにも代えれない、心がすがすがしくなるものです」と言っておられました。

 

無料接待所

  美味しい冷たい麦茶をよばれました。年配の女性のかたが出てこられ、「元酒屋をここでしていました。店が空いてならべているの、お接待をし、わたしの手芸品を見てもらうのが生きがいです。お茶は、頂いた葉や買った葉を混ぜて私がいれています」と。あとから来た3人が備えてある自由ノートを見ているところです。

 

南の焼山寺の方向

 稲刈りが終わっていない青い田んぼがあります。2期作なのでしょうか。祠らしきとんがった屋根が見えます。沿道のあちらこちらに、地蔵さんや、観音さんを祭った祠(ほこら)があります。

 

建設省の道標

 立派な道標ですが、キロ数が雑草で隠れて見えませんでした。私が足元の草を引いて見えるようにしました。右に野法輪寺へも、左の熊谷寺へも1.2キロでした。

 

憩いの家林観音庵

  優しい表情の聖観音の石像が見えました。庵の中には金色のちいさな観音像が祀ってありました。地域の人の信心の深さが窺えます。

 

岡上神社の大楠

 ここらの遍路道沿いには大きな木の繁った古い神社がいくつも見受けられました。

 

金泉寺山門

 綺麗な第三番札所金泉寺山門が北の方に見えました。もう後4キロで一番札所霊山寺です。

 

霊所一番・霊山寺の門柱

  とうとう一番札所、霊山寺の正面通り「ばんどう門前通り」に達しました。ここまでたどり着き、ほっとしました。もう5時半なので納経はできません。坂東駅に向かいました。今年は今日でも、まだ日中は30度も温度が上がり、足の豆や膝が痛み、足をひこずりながらのしんどい42キロでした。しかし、初秋の山、田畑、彼岸花などの草花を眺めながらのおへんろは、都会で疲れたこころを癒すものでした。

 

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